子どもの徳育に関する懇談会(第1回) 配付資料

1.日時

平成20年8月13日(水曜日) 15時~17時

2.場所

文部科学省(中央合同庁舎第7号館東館)3階1特別会議室

3.配付資料

4.出席者

委員

鳥居 泰彦 座長(日本私立学校振興・共済事業団理事長)
安彦 忠彦 委員(早稲田大学教育学部教授)
天野 秀昭 委員(特定非営利法人日本冒険遊びづくり協会理事)
大野 裕 委員(慶應義塾大学保健管理センター教授)
押谷 由夫 委員(昭和女子大学教授)
加倉井 隆 委員(江東区深川第一中学校長)
小泉 英明 委員(独立行政法人科学技術振興機構社会技術研究開発センター領域総括)
坂口 一美 委員(社団法人日本PTA全国協議会常務理事)
土井 真一 委員(京都大学大学院法学研究科教授)
馬場 喜久雄 委員(板橋区板橋第八小学校長)
平野 啓子 委員(語り部・かたりすと,大阪芸術大学放送学科教授,武蔵野大学非常勤講師)
森 隆夫 委員(お茶の水女子大学名誉教授)
森田 洋司 委員(大阪樟蔭女子大学学長)
柳田 邦男 委員(ノンフィクション作家)
山折 哲雄 委員(国際日本文化研究センター名誉教授)
山田 昌弘 委員(中央大学文学部教授)
渡辺 久子 委員(慶応大学医学部小児科講師)

文部科学省

 玉井文部科学審議官、金森初等中等教育局長、徳久大臣官房審議官、森社会教育課長、高口男女共同参画学習課長、高橋教育課程課長、磯谷児童生徒課長、池田青少年課長、岸田生徒指導室長

オブザーバー

 天野保育指導専門官(厚生労働省雇用均等・児童家庭局保育課)
(ヒアリング講師)
 二宮 克美 愛知学院大学総合政策学部長
(国立教育政策研究所)
 大槻次長、中岡教育課程研究センター長兼生徒指導研究センター長

5.審議の概要

(1)開会

1)会議の公開等の取扱い

  • ※ 1.会議については、原則公開とすること、2配付資料についても、求めがあれば原則公表すること、3議事要旨についても、公表することについて、了承された。

2)挨拶

ア.玉井文部科学審議官からの挨拶
  • 委員就任・会議出席に対する御礼
  • 懇談会設置の趣旨・背景について(中教審・教育再生会議の提言)
  • 懇談会設置に至る経緯について
    • 徳育等に関する文部科学省のこれまでの取組
    • 子どもの心の問題(少年による重大事件の頻発、ケイタイ・ネットワーク社会の影響)
  • 懇談会で審議いただきたいことについて
    • 子どもの心の問題について、発達という観点からの課題の明確化
    • 家庭・学校・地域社会の役割についての考え方の整理・提言
      ‐基本的な課題・基本的な方向性について、文部科学省の所掌範囲にとどまらない幅広い議論を期待
イ.鳥居座長からの挨拶
  • 座長就任に至るまでの経緯について
  • 日本の教育の中で欠落してきた部分について
     ‐ 戦後教育における最も大きな欠落部分は「人間形成の教育」。
  • 「自らを律する」ということができなくなっている状況について
     ‐ その原因として、精神の鍛錬というものが忘れられていること、社会でも学校でも、後ろ向きなことばかり考えてきたことがあるのではないか。
  • 本懇談会の在り方(社会に向けたメッセージの発信)について
     ‐ 一回一回の集まりから出てくるメッセージをしっかりと伝え、国民みなで徳育を考える機会にしていきたい。

(2)趣旨説明

  • ※ 事務局から、本会議設置の経緯と趣旨、今後の進め方等について、資料1、3、4及び5に基づき説明があった。

(3)委員自己紹介

  • ※ 自己紹介を兼ねて、子どもの徳育等に対するそれぞれの考え方について、各出席委員(鳥居座長を除く)から発言があった。

【安彦委員】
 早稲田大学でカリキュラム学を専門にしている。学校教育を中心に研究しており、カリキュラム全体の中での徳育の位置づけ、さらに公教育と私教育とにおける徳育の性格の違いについて考えていきたい。子どもの発達の問題については、カリキュラムの面から見れば発達課題の問題があり、この点についても強い関心を持っている。

【天野委員】
 世田谷でプレーパーク、冒険遊び場と言われる子どもの遊び場づくりを30年やってきた。また、チャイルドラインという子ども専用の電話を立ち上げ、両者にずっと関わってきた。ずっと現場でやってきたことから、子どものために大人がやろうとしていることは、結果的には子どもの力になってはおらず、むしろ子どもの力を削ぐ方向に進んでいるのではないかと感じている。そのような現場の声を届けたい。

【大野委員】
 精神科医で慶應の保健管理センターに勤めている。厚労省の戦略研究をやっていて、自殺対策の地域介入の担当をしている。自殺の問題は医療モデルでは駄目で、社会モデル、コミュニティーモデル、家庭モデルで考えないといけない。地域の方々の協力も得ながら、学校教育の中に心の問題を取り上げてもらうように働きかけている。

【押谷委員】
 昭和63年から文部省で道徳教育の教科調査官として働いていた。平成13年10月から今の昭和女子大学に移り、7年が過ぎようとしている。このような経験から、いわゆる内と外から見た道徳教育の現状と課題について何か話せればと思っている。一番感じているのは学校・家庭・地域が連携した道徳教育の重要性だが、自分が関わっている限りでは、学校に努力を求めることが多かった気がする。ある意味ではそれももう限界で、行政的・財政的に学校を応援するような提言が出来ればとも思っている。

【加倉井委員】
 子どもたちと保護者が、現場で今どんな状況なのかということを話せればと思っている。自分自身、時々道徳の授業を行うが、どうも子どもの課題ということが強調され過ぎている気がする。子どものよさというものに目を向けるのを忘れ、子どもの遅れている面や足りない面を補っていこうとする姿勢が強すぎて、子どもが受け身的になり、自信をなくしていっているように感じる。子どものいいところを伸ばすという視点も道徳の中に盛り込めていけたらと思う。

【小泉委員】
 科学技術振興機構で「脳科学と社会」という研究開発領域の領域総括をしている(本務は日立製作所の役員)。この「脳科学と社会」という領域は2004年に開始されたが、2001年に「脳科学と教育」という形でスタートした公募研究プログラムから発展した。2004年から「脳科学と倫理」研究も領域内で開始させた。現在、これらは世界でも少しずつ潮流になりつつあり、国際学会や国際学術誌もできてきた。先月、イタリアの会議で既に講演したが、さらに新しい学術領域として「脳科学と社会規範」、あるいは「脳科学と生存規範」も可能ではないかと考えている。

【坂口委員】
 現在、子どもを4人育てていて、PTAも十数年やっている。子どもたちをめぐる課題は大きく、日本PTA全国協議会でも徳育、子育て、子どもの環境等については常置委員会で検討している。PTA会長をやっていた時にPCT企画というものを打ち出した。これは、保護者と先生の間にC(チャイルドとコミュニティー)を入れて、親子で共通体験学習をしていこうということで始めたもの。そういった中で見失っているものが少しずつ見えてきたり、PTA活動から離れている若い保護者が活動に参加したりと、つながりをつくることができた。私は道徳教育といっても、家庭教育、特に親子での共通体験というものが非常に重要だと思っている。共通体験のある親子は、思春期に子どもが離れそうになっても、ひとつの共通体験によって心が戻るという経験則がある。ここでは、現場の母親として発言していきたい。

【土井委員】
 憲法を専門にしており、教育関係では法教育に少し関わってきた。法と道徳の関係をどう考えるのかということ、あるいは個人の尊重、自分らしい生き方をしながらどのようにして徳育を行っていけるのかといった点について、個人や家庭、コミュニティーや国の果たすべき役割から考えていければと思っている。

【馬場委員】
 全国小学校道徳教育研究会の会長をしており、小学校の現場の代表として話をしたい。最近、テレビでは「日本頑張れ、すごいぞ日本」という曲が流れている。子どもたちが、日本人としての誇りを持ち、自信をもって生きられるように育てていかなければならないと感じた。

【平野委員】
 日ごろ、名作や名文を暗記して人に伝えるという仕事をしている。そういう仕事の中で、名作や名文がどれほど人の心をよい方向に導いていくものかということを実感している。また、世の中には様々なメディアがあるが、基本はやはり対面して伝えること。本日の会もこのように一堂に顔を合わせて会っているからよいのであって、そうでない方法もあるが、そのような会議が果たして成立するのだろうか。子どもたちの実態を見ると、姿を見せないコミュニケーションの分量が多くなり過ぎているのではないかと危惧しており、このような視点から発言していきたい。

【森委員】
 徳育が大事だと言われると、またかまだかと思う。臨教審の時も「知、徳、体」ではなく、「徳、知、体」だと言われていた。徳育は大事だが、私は内容よりも方法論に興味を持っている。ある研究所のプロジェクトチームで伝統文化から学ぶ規範意識の研究をやっており、そこで最近考えたことは、言葉や行動で心を育てるということをもっと研究しないといけないということ。心は見えないが、言葉や行動でわかるもの。そうであるなら、言動を逆説的に活用して、心の教育をすればよいのではないかと考えるようになった。そういう意味で、言葉で育つ豊かな心、心を傷つける分別のない言葉ということを考えるべきである。また、その具体的な方法として、学校段階では既に遅いので、家庭の中でやるべきこととして、子供が生まれたら家訓を作ろうということも考えている。

【森田委員】
 徳育というと、個人の心構えというところに収斂されやすい問題であるが、今の社会状況からは、共同性あるいは公共性というものをいかに図っていけるかという発想や、価値観、考え方をいかに形成し得るかということが大きな課題となっているのではないか。子どもを社会へ送り出す、あるいは社会の担い手となるという人格を形成していくためには、いかにして市民性を育むかということが個人化する発想の著しい社会の中では重要であると考えており、そういう観点から当懇談会に臨みたい。

【柳田委員】
 ノンフィクションやジャーナリズムという分野で働いているが、終生そういう分野での職業を続けようと思うと、現場、現物、現人間との接触が基本であり、生涯取材を継続するという信念でやっているが、同じことが子どもの心の発達にとって重要である。今日のように携帯ネットを中心としたメディアの情報環境が子どもたちの生活時間の大半を占めるようになった中で、どのようにして子どもたちにこのような経験をさせるのかが課題。知育と徳育は並列的に考えがちだが、知の部分は今日のネット社会では容易に手に入るし、生活の中でも大半を占め、徳の領域を浸食している。その象徴的なものが、匿名化社会という恐るべき社会が今到来しているということ。今関わっているもののひとつとして絵本というものがあり、そこにはバーチャルなメディアではない、よりリアリティーに近いメディアの役割を果たせる可能性が秘められており、この問題を言わば実験研究的に全国行脚するような形で、読み聞かせグループや絵本館などの現場に行って交流している。また、メディア論という意味からのアプローチと、様々な事件の背景分析もやってきた。そこから見えてくる現代日本が抱えている人間と社会の問題がある。また、それを見るために精神心理系の専門家、子どもの保育や虐待といった問題について取り組んでいる方々に勉強させていただきつつ、現実を見ていくというような活動をしている。

【山折委員】
 長い間、哲学や宗教の問題についての仕事に携わってきた。今は民間で心を育むフォーラムといった仕事に関わっており、心を育てることの難しさを感じている。例えば、気がついたらそういう行動に出ていて、その行動が人間としての規範や社会の価値観とか秩序に合致している時に初めて、徳というものが主体化され、社会化されていると言える。そうなるためには、実に長い時間がかかる。何か事が起きた時に、是非を考えてから行動を始めるという段階では、まだその行動にモラルの裏打ちは出来ていない。そういう全体のプロセスを考えていくことが、心をはぐくむとか、徳育という問題に対する一番重要な課題なのではないか。少なくとも戦後60数年という時間がかかって今日の日本となっていることを前提とすると、徳育の問題を考えていく上での長期戦略として、やはり50年かそれ以上の年月がかかるという観点からやっていく心構えのようなものが必要。

【山田委員】
 家族社会学というものをやっており、経済的状況が家族関係に与える影響というものを中心に研究してきた。恒産なくして恒心なし、つまり、経済的な安定なくして安定した心はないだろうということ。格差社会という言葉は私が作ったが、ここ15年の日本は、親の経済状況が苦しい中で子育てをしている親が増えている。そのような中で、我々に何が出来るのかということを考えなければならない。経済的に困難な地域で小学校の先生をしている教え子からの話でも、明日の生活がどうなるかわからない親にゆとりある心を持って子どもを教育することは無理だということがわかる。経済的に安定している親のみの徳育であってはならない。

【渡辺委員】
 小児科医と児童精神科医をしている。8月1日から5日間、アジアで初めての世界乳幼児精神保健学会を横浜で開くことが出来た。この学会はニューロサイエンスと現場の実情とをうまくブレンドし、新しい時代の工業化社会で発生した今まで予測もしなかった人類の課題に果敢に取り組み、かつそれを分子のニューロサイエンスのレベル、文化・歴史のレベルという多面的なレベルからフェアに見ようという学会である。ここで多くの専門家や現場の人間と出会い、それぞれ自分が見聞きし、感じ、一番緊急性を感じているものについて、生きた形で交流することがいかに大事かということを感じた。日本の子どもたちは、人として成長していく権利を奪われた日々だと思う。経済格差は日本社会が真剣に取り組むべき問題で、例えば今回の学会のフィンランドの会長は、フィンランドでは出産も不妊治療も学費も大学まで無料であり、その安心感のもたらす人間の品位にはそれだけの価値があると言う。そのためにフィンランドでは高額な税金を支払っているが、その税金がきちんと次の世代の子どもたちの安心感と育児のサポートに使われているということであれば、それはそれだけの投資の価値があるという大人たちの一枚岩の取組である。日本も出来ないことはないのではないか。私自身は戦後のベビーブーム時代のなかで、大人からの多大な思い入れの中で育ってきた。物のない時代に日本で光るもの、美しいものは子どもの瞳だけだった。今の赤ちゃんの心の発達研究は、赤ちゃんが生まれ落ちた瞬間から大人の思惑を、ちょうどオーケストラの音楽を聞くように感じながら生きているということを、ビデオや音声の解析グラフで綺麗に出力している。私も新生児室で未熟児の研究をしているが、母親が安心している時は赤ちゃんとのやりとりが綺麗にブレンドし、母親がせかせかしている時などは、いくらあやしても赤ちゃんは黙ってしまったり泣いたりする。そのような微妙なところから、育児の難しさや子どもの発達の偏りが実は生まれている。今、子どもたちを発達障害や自閉症などという言葉で切り捨てていく時代になっているが、一人一人発達が違うので、それはしてはいけない。自閉的な偏りがある子どもたちも、乳幼児期から親をサポートし続けていけば、その子の花は開く。自分自身の経験からも、面と向かった1対1の関係の中で、本当に相手を理解しようとする営みを、様々な角度から行う必要がある。

(4)ヒアリング

  • ※ 「子どもの発達」に関するヒアリングの実施予定等について、事務局から説明があった。
  • ※ 二宮 克美 愛知学院大学総合政策学部長より、「子どもの道徳性の発達に関する心理学的研究」について発表があり、関連の質疑応答がなされた。

<二宮学部長より発表>

1.「道徳性」の発達に関する従来の心理学的理論

 道徳性の発達に関する心理学的理論については、1932年のPiagetの研究から話し始めたい。それまでの道徳性の発達に関する理論は、社会規範に同調するように仕向け、社会的な権威の受容を目標とする考え方が主流であったのに対し、Piagetはそれらを批判し、すべての道徳は規則の体系から成り立っており、すべての道徳の本質は個人がこれらの規則に対して払う尊敬の中に求められるべきだとし、マーブルゲームの規則を子どもたちがなぜ守るのかということを研究した。その時、他律的な大人の拘束による道徳性というものから、自律的な仲間との協同による道徳性へと発達的な変化が起こるという、一方的な尊敬から相互的な尊敬へという流れを見出したのである。次に、Piagetに影響を受けたKohlbergが、1963年に10歳以上の男子のデータに基づく、justiceを中核とした発達理論である3水準6段階説を出した。これに対して弟子の一人だったCarol Gillganが“In a different voice”ということで、女性は人間関係や気配り、共感などを主要原理とする配慮と責任の道徳性を発達させるということで批判したわけである。

2.社会的領域理論

 最近では、社会的領域理論として、Elliot Turielが、我々が守るべき社会的ルールには、他者の権利や福祉に関する道徳性と、社会的相互作用を円滑にし、社会秩序を維持する社会的慣習の2つが存在し、それらを区別しなければならないと指摘している。最近では、そこに心理領域が追加されている。領域の定義と基準というのは、資料の表に示してある道徳と慣習と心理領域というもの。もともとこのsocial domainの考え方は、道徳が先とか慣習が先とかというわけではなく、それを本人がどう認知し、領域として調整するかということ。例えば、向社会的行動は自由意志にゆだねられるという個人領域の要素と、他者の生命の救助という道徳的要素を併せ持つ。一方、乗り物への割り込み行為は、社会的秩序を乱すという慣習的な側面と同時に、待ち時間と乗車優先の公平さという道徳的側面を持っている。それゆえ、自分がこれは道徳だと思えばモラルなルールに従うし、これはconvention(慣習)だと思えば周りの合意を得て調整していくことになる。SmetanaというTurielの弟子は、人工妊娠中絶の問題を道徳領域の問題ととらえるか、個人領域の問題ととらえるかで、中絶率に違いが見られるとしており、これは授かった命だとその人が思えば中絶することは少なく、これは自分の体のことだとその人が思えば中絶率が高くなるということを実証して見せた。Smetanaの研究は発展し、先生のオーソリティーというものが、実は知識にあるのだということがわかってきている。最近の研究では、青年と両親との葛藤は道徳領域ではほとんど起こっていないが、個人領域の事柄で生じていることが明らかにされている。

3.最近の心理学的諸理論

 最近の心理学的諸理論ということで、1つはNancy Eisenbergの向社会性発達理論である。同情というのは、認知的視点取得とともに、向社会的道徳推論のレベルを予測し、向社会的行動を予測する。視点取得だけでは向社会的行動を予測しないが、同情は単独でも向社会的行動を予測するという。Kohlbergの理論は禁止に基づいた理論であったのに対して、向社会性というのは、思いやりというふうに訳せばいいと思うが、相手にプラスになる行動である。向社会的判断は、レベルが全部で6つに分けてある。思いやり行動、向社会的行動を予測するには、prosocial moral reasoningが大事で、相手の立場に立てるということがもちろん大事だが、もう一つは同情である。次に、Martin Hoffmanの共感と道徳性の発達理論だが、共感が普遍的で向社会的な道徳性であると主張した。Hoffmanはempathic moralityという概念も出しており、共感的苦痛と共感をもとにした罪悪感が親の誘導的なしつけによって共感的道徳性を発達させると述べている。ここでHoffmanは、共感性というのは他人の感情との正確なマッチングではなく、自分の状況よりも他人の状況に適した感情的反応であるとしている。従来、共感性というと相手と同じ感情になるということが言われていたが、最近では少し広く捉えられている。
 最近私が注目しているのが、Kochanskaたちの良心の発達理論である。良心という概念はフロイトの流れからして非常に古い概念だが、2000年を越えたころから、Kochanskaは、良心というものは道徳的情動とルールに適合する行いから成るのだとした。道徳的情動というのは、罪悪感と共感的苦痛から成っている。それから、母親から子どもにルールを伝える方法には、Do and Don'tの2つのチャンネルしかないというふうに考えている。また、母親からの禁止と要請だけではなく、周りの大人のルールの内面化から成るということも言っている。2002年の論文でmoral selfという言い方をしていて、例えば、何か悪いことをした時に親にちゃんと言うかどうかというconfession(自白)。それからapology、何か悪いことをしたときに「ごめんなさい」と言えるかどうか。reparation、壊したものを直そうとするとか、そういう償いだとかいった9つの側面で道徳的な自己を測ろうとしている。Jerome Kaganは2005年に発達段階説を出した。段階が6つあり、例えば罰せられた行為を抑制できるかどうか、これが段階1。次に、禁止された行動を表象できるということ。それから共感とか恥とか罪悪感などの情動を持つとか、よい悪いといった意味的概念を獲得するとか、社会的カテゴリーの道徳的義務を受け入れるとか、フェアである。何がフェアで何がフェアでないか、そういったことがわかるというのがKaganの説である。Blasiは、いわゆる実証研究をほとんどせず、道徳性の発達に関する理論的な論考をずっと出している人で、moral characterという考え方を提唱した。Moral characterの内容は、ローワーレベルの徳ではなく、ハイアーレベルの徳だと言う。確かに、低次の徳というのは道徳的な意味を提供するが、高次の徳は、動機づけの下支えとして関係しており、characterの安定性と一般性に関係しているとした。少し余分なことだが、ニコマコス倫理学で、アリストテレスは徳が他者とのかかわりにおいて発動するとき、それは正義となる。単に善への行為能力としてあるとき、それは徳と呼ばれるというふうに述べている。

4.Character educationの台頭

 最近ではCharacter educationの考え方が随分出てきていて、Thomas Lickonaとか、Catherine Lewisのキャラクター教育の11の原理、それからNarvaezの統合的倫理教育というものがある。簡単に説明すると、characterとは、徳のことであり、善きcharacterとは、よりよく徳を備えたcharacterのことである。キャラクター教育とは、徳を意図的に教えることである。つまり、従来の読み・書き・計算の3つのRに加えて、尊重(respect)と責任(responsibility)という5つのRを学校教育活動で実施しなければならないことを指摘した。次に、Darcia Narvaezの統合的倫理教育の考え方。もともとJ.Restは道徳的な感受性、道徳的な判断、道徳的な動機づけと道徳的な行動という4要素を考えていたわけだが、それを倫理教育に取り入れたもの。この他、Robert L.SelmanのVoices of Love and Freedom(VLF)がある。これはピアセラピーといって、友達の力を利用して道徳教育を行おうという流れである。

5.提言

 以上、ごく手短に道徳性に関する心理学的研究を見てきたが、大きな流れとして、1つは道徳性の側面だけ、徳育だけを考えるのではなくて、子どものcharacter、人格全体の発達を枠組みとして持つという流れが出てきているということ。子どもはいろんな側面で発達していくわけであり、道徳性だけが発達していくということはないわけで、知性と品性と個性みたいなものが総合的に発達して、characterというか人格というものが出来上がっていく。そういう意味で、子どもの全体を理解していかなければいけないというのが、海外も含め、現在の流れであると思う。また、道徳性の中核的な部分として、他者の立場に立って物事を考え、行動できる力、視点取得を育てるということが大事なのではないか。3番目に共感とか同情といった感情を育成するということも必要。それから、いつもうまくいくわけではなくて、何か悪いことをしたときに感じる気持ち、罪悪感というか、しまったという気持ちを大切に育てていくということが必要だろうと思う。

<質疑応答>

【土井委員】
 道徳や倫理を考える場合、KohlbergとGilliganの考え方は非常に対照的で、Kohlbergの考え方は正義や規範というものを重視している。それに対してGilliganは人間関係の中でのあり方のようなものを中心に議論している。その結果、Kohlbergの場合には、characterを問題にする場合でも、親切や友情というものは低次の徳で自己一貫性や高潔性を重視しており、比較的規範的な人格のあり方を言っている。問題は、道徳教育ではなく徳育という言い方をした時、どちらかというと人柄とか人間のあり方とか心の持ち方という方に比重が傾いていく点にある。それに対して従来の行為中心の考え方からすると、規範はcharacterとは独立に義務として守らなければならないということになる。今日の報告の最後がcharacterで終えられているのは、行為よりはcharacterを中心に考えておられるという理解でよいか。

【二宮教授】
 自分の立場では車の両輪だと考えている、BlasiもKohlbergの流れをくんでいるのでどうしてもjusticeということが大前提になっているが、GilliganやEisenbergが言っているように、思いやりの部分も外せない。

(5)意見交換

 その他、子どもの徳育等に関する意見交換がなされた。

【天野委員】
 道徳については、実は危険性を感じながらここに来ている。例えば戦前では、国のために命を投げ出すことが出来るというのが道徳で、体を張ってでも止めるという方向にはいかなかった。そのことが道徳をどのように捉え、どのように推し進めていけばいいのかということの本質を表しているのではないか。自分がやってきたことは子どもの教育の場ではなくて、遊び場である。大人が子どもに何かをさせるとか徳を積ませるとかいうことではなく、子どもがやりたいことが自由にやれる。その中で様々な事が起こるが、なぜそれが起きたのかということを子どもと共に考えるということをやってきた。子どもが自由に遊べる場所を作るのに大人の力が必要ということは、逆に言えば、子どもがやりたいことをやれる社会にはなっていないということ。子どもは大人が求める子どもを演じることを強いられている。子どもは、自分を演じなくていい場所があって初めて演じている自分を知っていく。そういう場所を知らない子どもは、仮面をかぶらないと生きていけないという状態のままで、それが生きていることだと錯覚している可能性が非常に高い。そのことが本人の命を、生きるということを奪っている。私は、結局のところは関係性をその子がどのように感じることが出来るか、その関係性の中に自分自身を見出すことが出来るかということが非常に大きな問題だと思っている。その関係性を見出すことが出来るようになるためには、核である自分自身が立たなければならないが、そのことが今の子どもにはすごく難しくなっている。それはなぜかというと、大人が子どものやることを色々と決めてしまい、主役が子どもから乗っ取られているから。パークに遊びに来た小学校4年生の男の子が、「ここでは僕が好きなことをやっていいんだよね」と言い、「でも、僕が好きなことをやっていいってことは、他の人も好きなことをやっていいってことだよね」と言いました。このような言葉をその子の内側から発することが出来るようになる。そういった取組をしていく必要があると感じている。それを徳と呼んでいいのであれば、私にとってこの場所はとても居やすい。

【鳥居座長】
 今の話は、我々に大きな問題を投げかけたのではないか。我々人間社会が成り立つために、他律にせよ自律にせよ1つの規律が必要だという話と、それの要不要、あるいはそれを自由と呼ぶかという議論。もうひとつ、親の心にさらされた子どもの心という問題と、一緒に議論されたのではないか。それらが別の問題なのかということも含め、整理していく必要がある。

【鳥居座長】
 今日は宗教の話が出なかったが、先ほどの説明の中で出てきた学者たちはみんな宗教を持っている国の学者である。だが、私たちの国のほとんどの人間は、本当の意味で宗教を持っていない。様々な宗教で戒律とよばれているものは、日本でもどこの国でも刑法に書かれてある。刑法そのものが、宗教の戒律を元にして出来ていると言ってもいい。ところが、そういうことは子どもたちに対する規律の教育の中で、宗教を発信地として教育をしてはいない。刑法71条から罪と罰が規定されているが、国家反逆罪以外はほとんどが宗教に根を発しているのではないか。

【山折委員】
 宗教という問題を日本人がどう考えてきたのかという問題がひとつある。一神教的な歴史とその思想をもとに考えると、日本ではぐくまれてきた宗教的感情というものは、およそそのような一神教的なものとは考えられない。われわれの多神教的、あるいは多元主義的な自然観に基づく信仰心というものと、一神教的な風土に花開いた信仰心、宗教というものは質が違う。明治以降、西洋文明を受け入れる形で我々は自分たちの伝統社会における宗教心というものを西洋の一神教的な原理に基づいて分析し、解釈し、批判してきた。それを全て退けるわけではないが、明治以降130年のあいだ放置されてきたこのような問題から考え始めなければならないのではないか。特に徳の問題、心の教育という問題になると、そういう長期的なスパンにたった考え方が必要。戦後、日本の教育を主導してきた教育軸には2つあり、1つは科学技術を振興するということを中心とする教育軸。もう1つは社会科学重視の教育軸。大体この2つの軸で、戦後日本の社会は様々な場面における教育的な仕事を遂行してきたと思う。ここに至って、芸術、宗教、スポーツ、文化を第3の教育軸として、憲法や教育基本法の中で位置づけ直すということが重要なのではないか。今までそれらの分野に配慮がなかったというわけではないが、常に周縁的なものとして位置づけられてきた。この考え方を変えるということだが、まだ日本の政治も世論もそれを正面から受け止める段階にはなっていない。この懇談会が長期的政策提言に結びつけるような提言をしようとするならば、この問題は避けて通ることが出来ないのではないか。

(6)その他

  • ※ 次回会議の日程について、事務局から説明があった。
    ‐ 次回会議は、9月に開催の予定。

(7)閉会

お問合せ先

初等中等教育局児童生徒課

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