資料4 プロジェクトチーム・学識経験者ヒアリングにおける主な指摘事項(河合優年氏・中村桂子氏・柳田邦男氏・尾田幸雄氏・森田洋司氏・小泉英明氏)

河合 優年 氏 (武庫川女子大学教授) 《発達心理学》

発達について

  • 発達のメカニズムについて、その大まかな枠組みまでは科学的に分かってきているが、個別のケースにおいて、どのようなインプットをすればどのような発達として現れるかを予想したり、操作したりできるまでの応用的な知見は、まだ得られていない。
  • 発達をシステムとして見たとき、ある1つの能力を成り立たせる前提として、多くの要素が関係しており、その要素の1つが欠けることによって、その能力全体に支障が及ぶといったことも起こり得るものと考えられる。
    • ※ 例えば、母親との関係性によって充足されるべき要素(愛着形成)が欠けたために、「外部に注意を払い、自分の状態を調整する」といった能力の全体に支障が及ぶ、など。
  • 発達は、自らの「快適」を求め、環境に適応していく過程として捉えることができる。自己にとっての「快適」が、社会全体にとっての「快適」であるとは限らない点に問題が生じるが、例えば、3歳くらいから「恥」の感覚が育ってくるように、両者は、自然な発達のプロセスの中でも、ある程度調和的に両立していくものと考えてよい。
  • ヒトの脳の中でも、社会性の基となる機能は主に前頭連合野が担っており、前頭連合野の発達の臨界期は、視覚などの他の機能における臨界期よりも遅く、17~18歳まで続くと言われている。
    このことは、人間の発達においては、生きるための様々な感覚や基本的な能力を身に付けた後に、自己の「快」と社会のルールを組み合わせる複雑な過程を経なければならないということ、社会性の獲得にはそれだけ時間もかかるということを示唆しているようでもあり、非常に興味深い。
  • 発達は、ストレスによって促されるものという面もある。親があらかじめ子どものストレスを排除するような介入を行いすぎると、その子には耐性が育たず、発達の面での問題が生じることも考えられる。
  • 人間は、ライフステージのある時点において「成長」を止めるが、その後も、残った能力を組み合わせたりしながら、新たな環境に適応するよう、「発達」を続ける。その意味では、「発達」は、「成長」と異なり、生涯にわたって続くものと言うことができる。

現代日本における子どもの育ちの環境の変化について

  • 現代の住居は、個室化が進み、人と人との間を壁によって隔てているが、かつての日本家屋では、部屋と部屋の間は障子1枚で仕切るのみで、人と人との間は、物理的に区切るより、心理で区切っていた。
    家庭や地域では、常に自分の周りに誰かがいて、誰かの声がし、誰かが見ているという生活風景があった。
  • 欧米にはキリスト教、中国・韓国には儒教思想という「拠って立つ足場」があるのに対し、現在の日本にはそういったものが何もない。
    かつての日本は、人間相互の(ヨコの)濃密な関係性により、社会的な価値・規範を維持していたが、現在の日本では、個人と社会との中間領域にあるべき機能(家庭や地域の機能)が脆弱になっており、その間をつなぐ役割が学校に求められている。
  • 全国学力・学習状況調査の調査結果として、例えば、神戸市では、「家の人や学校外の大人から注意されたことがある」とした児童生徒と、「学校のきまり・規則を守っている」とした児童生徒の割合が全国に比べて高く、同時に、学校のきまりを守っている児童生徒ほど、国語や算数・数学の正答率が高い傾向が見られた。
    これらのデータから、「皆で子どもを注意すれば、子どもの成績が上がる」という因果関係までが直ちに導かれるわけではないが、親や社会が変われば、子どもも変わる(変えられる)ことの可能性は示唆される。少なくとも両者の間に統計上の相関関係があるという事実だけは、社会に対し積極的に示していく必要があるのではなか。

徳性を身に付けさせるということについて

  • 人間の価値観は、一人一人の頭の中にしかなく、また、言葉にした瞬間、形を変えてしまう。
    目に見えるのは、その人の価値観そのものでなく、あくまで事実であり、例えば、怒っている犬には誰も近づかないといったように、動物として共通にもっている感覚であれば、皆が信じることができる。
  • アメとムチで教えられたことは、他人の目が届かないところでは守らない。
    重要なのは、自分と外の世界の関係性を作り、その中で判断基準を与えることである。例えば、「きちんと話せば大人は聞いてくれる」という関係を作ることによって、子どもに、「隠さない」という行動基準(プロトコール)を与えてやることができる。
  • 心理療法の世界では、行動・認知・感情のいずれかを操作することで、環境への適応を促すという方法をとる。
    教育の世界では、礼儀作法のような身体的所作を身に付ける(「形から入る」)といった方法や、人間関係形成の諸技能をスキルとして学ぶといった方法が使われており、これらの方法も、行動を操作するものとして一定の効果をもつであろうが、一個の自立した人格を育てていくということを考えれば、その前に、人間としての基本となる何かについて、きちんと教える必要があると思う(「教育の前の教育」が重要)。
  • 現代におけるモラルの低下を嘆き、学校にもその責任を求めるといった風潮もあるが、そもそも大人が、教員をバッシングするばかりで、子どもに対し、「教員を手本にする」ということを教えてこなかったのではないか。

中村 桂子 氏 (JT生命誌研究館館長) 《生命科学》

はじめに

  • 我々にとって重大な問題として、近年よく取り上げられるものに、「地球環境問題」と「人心の荒廃」の2つがある。
    地球環境問題は(人間にとって)外の自然が、人心の荒廃は(人々の)内なる自然が壊れているということであり、いずれも自然との関係がうまくまわっていないという点では共通であって、その意味ではこれらは一つの問題と捉えることもできる。

人間は生きものである

  • 生きものが生きるということ(生きる姿)は、「(バクテリアのように)ひたすら生きる」、「(様々な生物の生存戦略に見られるように)巧みに生きる」、「(全てを食べ尽くすことのないライオンのように)わきまえて生きる」、「(人間を人間たらしめている所以でもある)よく生きる」という4つの面から捉えられるが、現代の人間は、自らが生きものであることを忘れると同時に、「わきまえて生きる」ことを忘れてしまっている。
    生命の活力を維持する上では、欲望を持つ(何でも欲しがる)ことが必要な面もあるが、生きものとしての人間には、それだけでなく「わきまえて生きる」ことを覚えることが重要であり、その上で「よく生きる」ことを学ぶべきでなのではないか。
  • 科学は、これまで要素に還元して分析する方法論によって発展してきたが、生命を理解するには分析的・還元的なアプローチで迫ろうとしても限界があり、もっとトータルな視点が必要となるとの見方が、科学の世界でも共通認識になってきている。
    Life Scienceが生命科学であると同時に生活科学でもあるように、生活世界を語れなければ真実には近付けないとの実感を強く持っており、「徳」についても、これを分析的に語ろうとする流れに対しては、むしろ危険なものを感じる。

生きる力を基本に

  • 現代は、何より経済的価値が中心にあり、これを支えるための科学や技術の有用性が重視されているが、それでは、「生命」の身の置き所(居場所)がない。
    「生きる力」を得るためには、まず、生きものの世界を見た上で何が必要かを考え、その上で、技術を編み出し、経済を成り立たせるという行き方が、必要となるのではないか。

生きものを支える活動

  • 生活を核にして考えたとき、生きものを支える活動として、「食(農業)」、「健康(医療)」、「知・心(教育)」、「環境」の4つが大切となるが、現在、いずれもうまくいっていない。これらが整った上での生活世界であり、生きものなのであって、ここからスタートする必要があるし、ここに目を向ければ自ずと答えは出てくると思う。
  • 「徳」というと大袈裟になるが、結局のところ、重要なのは自然の中でしっかりと生きていくということではないか。

一つの実践 -農を取り入れた教育

  • かつて日本経済新聞に、初等中等教育の中に農業を取り入れられないかとの提言を寄稿したことがあったが、そのときの反響はケタ違いに大きかった。
  • 「農を取り入れた教育」の実践事例として、福島県喜多方市における小学校農業教育特区の取組や、兵庫県豊岡市の小学校におけるコウノトリを育む農法の実践の取組など、すばらしい事例がある。
  • 「生きる力を測るものさし」として、「魅力的な笑顔」、「豊かな表現力」、「積極的な関係づくり」の3つを重視したい。喜多方や豊岡の子どもにはそれらがあったが、都会では、そうした笑顔等に出会うことができない。

その他

  • おカネや競争を否定はしないが、現在の競争は、その先に何があるのかが見えなくなっており、こんなにつらいものはない。何のための競争かわからない中で1番になった子どもにとっては、1番であることも記号としての意味以上の意味がなく、そのような子どもに「積極的な人間関係づくり」を求めても難しい。
    こうしたことを放置したまま、家庭や学校、地域をどうしようと考えても、実は上がらないのではないか。

柳田 邦男 氏 (ノンフィクション作家) 《ジャーナリズム》

人格形成における乳幼児期の重要性

  • 生後3歳くらいまでは、絶対的な安心感を与える養育者の存在が100パーセント必要である。日本人の場合、欧米と異なりハグするといった習慣がないが、子どもへの身体的な接触の少なさも、愛着形成を阻害する要因の1つとなる。
  • 最近の母親の授乳室での行動を見ると、皆がケータイに熱中し、母親同士の会話もなくなっているという。授乳は、本来、子どもの目を見て行い、子どもとコミュニケーションを交わす機会であったものが、ここでは単なるファンクションに成り下がっている。
  • 妊娠期のストレスや生後の虐待は、子どもの退行現象を惹起し、ここで問題を放置すると、人格形成に深刻な影響を残す結果となる。
  • 人格形成においては、3~4歳までの時期が圧倒的に重要であり、その時期を過ぎてから、育て直し・生き直しをしようとすれば、莫大な労力と費用を要することになる。
  • 尾木直樹氏が、1998年に全国の保育士を対象に「子どもと親の最近の変化」に関する調査を行っているが、そこでは、大多数の保育士たちが、当時の保育園児について、1.夜型生活、2.自己中心的、3.パニックに陥りやすい、4.粗暴、5.基本的しつけの欠落といった傾向を指摘している。
    この世代が、後に小学校高学年になって、佐世保市大久保小学校の同級生殺害事件を引き起こしている。

子どもの人格形成を阻害するもの

核家族化・少子化 ‐ 孤立する母親

  • NHKの調査では、ネット上には、子育てに行き詰まり、子どもに手を振るってしまう母親が悩みを打ち明けるサイトが、約10万サイトもあるとのことであった。孤立した母親が一斉にパソコンに向かうという寒々とした状況が広がっている。

親の価値観・ライフスタイルと子どもの生活

  • 佐世保事件の加害者となった女児の生育歴を見ると、「育てやすいよい子」であった、テレビを見せたり、おもちゃを与えておけば、いつも静かにしていた、と報告されている。この報告からも、親が、自分中心の生活を子どもに押しつけ、その中で、子どもが自らの感情を抑圧していった経緯が伺われる。

情報環境

  • テレビを通じて、胸に落ちるコミュニケーションを行うことはもとより無理である。米国小児科学会では、2歳以下の子どもには、テレビを見せるなとまで言っている。
  • 現在は、小学生でも全体の1~2割がゲーム中毒だと言われる。ゲームをしている間は、反射的な動作が繰り返されるだけで、頭を使って何かを考えることがなく、怒りの感情ばかりが引き出される。ゲーム中毒になると刺激性のものにしか反応しなくなる。また、深夜までゲームしている子どもは、午前中は頭がボーッとしたままで、学校の授業も頭に入らない。
  • ケータイ・ネットというメデイアの危険性は、1依存性や、2送受信される情報の内容(暴力、セックスなど)の問題とともに、3匿名発信という特性から来る問題が、特に大きい。
  • ケータイ・ネットについては、新しい言論の形を提供するものとして、その可能性に期待する人たちも多く、ネットへの規制を提唱した場合、これらの人たちから、「1パーセントの被害のために(全体を規制して)、99パーセントの利益を犠牲にするのか」との批判がいつも出てくる。
    そうした批判に対しては、1「1パーセントだからといって被害を見過ごしてよいのか」という点、2「そもそも、ケータイ・ネットの弊害は、皆が気付いていないだけで、本当は1パーセントでなく、100パーセントの利用者(子ども)全員に及んでいる」という点から反論することができる。
  • 子どもに対し、メディア倫理の教育をしても、子どもは守らない。
    それよりも、メディアを上回るもの・メディアに代わるものを与えていくことこそが重要であり、子どもの心を躍らせる新しい何かを、いかに発明し、社会として提供していけるかが、課題となっている。
  • 一部の地域では、ノーテレビデーやノーケータイ・ネット運動の試みが行われ、効果を上げている。テレビを付けない、ネットを使わないことで、家の中が静かになり、家族同士が沈黙を共有し、やがて、肉声で話をするようになる。

絵本・読書活動

  • バーチャル・メディアに対抗できる力を持ち得るものとして、絵本・読書の活動を進めている。
    絵本・読書のメリットとして、子どもにとっては、1.言語力やきめ細やかな感情・感性が育つ、2.本は、子どもが自分で時間をコントロールできる唯一のメディアであり、じっくりとディティールを読み取り、胸に収めることができる、3.読み聞かせ等により、親の愛着を実感できる、といったことがある。また、親や家族にとっても、4.親自身が癒される、5.親がかつて呼んだ本を子どもに読ませることで、家庭の文化が生まれ、引き継がれる、といったよさがある。

いのちの教育

  • 現代の子どもをめぐる環境は、子どもの人格形成を促すものが次々に失われ、スカスカになっている。例えば、昔の子どもは、日常の生活の延長の上で、身近な人の「死」を経験していたが、そうした経験を通じ、人の生命に対する感覚を自然に育んでいた。
  • 子どもが、生命について、腹の底からわかるようになるのは難しいが、教育において重要なのは、現場、現物、現人(現人間)を重視するということだと思う。

子育ての二極化の中で

子育て能力の一般的回復

  • 最近の親たちを見ると、子育てにとって危機的な時代だからこそ一生懸命な親と、子育てに全く興味のない親・手に負えないモンスターペアレントとに二極化している。
    子育てに興味のない親は、自分自身が親から愛情を受けていないので、子育ての重要性について、何を言っても伝わらないのが通常であるが、こうした層に対し、どのようにアプローチしていくかが課題となる。

男性の役割の意識改革、高揚

  • 佐賀県では、佐世保事件後に、子育てに対する男性の意識改革を促すため、小学生の子どもをもつ男親が集まり、「男サミット」が開催された。このフォーラムについては、イベントだけに終わり、深まりを欠いた感もあるが、男親の意識を変えるきっかけを与えるものとして、おもしろい取組ではあった。

ニグレクト・虐待の防止

  • 児童虐待への対応は、まだ緒に就いたばかりであるが、関係者の間では大きな盛り上がりを見せている。日本子ども虐待防止学会の大会にも、多くの関係者が集まり、活発な研究討議を行っている。

行政 -保育・教育-の課題

  • 出産から、乳児、幼児、学童期にかけ、一貫したケアが求められるのに、行政の対応は医療、福祉、教育に分かれており、さらに、医療であれば、産婦人科と小児科がバラバラに対応するといったように、各分野の中での縦割りも著しい。
    例えば、虐待防止であれば、世代間連鎖を防ぐため、虐待経験のある母親には妊娠中からカウンセリングを行うといったように、様々な分野の対応をつなげていくことが必要ではないか。
  • 子どもの健やかな人格形成のため、文部科学省が必要と思うことは、行政分野に関わらずすべて挙げ、その中で「文部科学省にできるのはここだ」といったような示し方をしていくことも、考えてよいのではないか。
    • ※ 例えば、「母親が、授乳中に(子どもの目を見ずに)ケータイ・メールをしているのは虐待に等しい」というメッセージは、一見、文部科学省の所掌内のものででないように思えるかもしれないが、その子どもたちが小学生になったとき、学校で問題を起こすというのでであれば、文部科学省として、大胆に首を突っ込み、発言していってもよいのではないか。

尾田 幸雄 氏 (お茶の水女子大学名誉教授) 《道徳教育》

道徳教育の歴史

  • 学校の教育活動全体を通じてやるのが道徳だが、何か中心となる時間が必要だろうということで、戦後、「道徳の時間」の必要性が議論されるようになった。しかし、朝鮮戦争期のイデオロギー論争の中で、道徳教育については、理論的な議論を超えた社会的・政治的な対立の中で始まった。ここが、問題の出発点。

「倫理」と「道徳」

  • 「論理」と「倫理」について。「論」と「倫」では、旁(つくり)は同じだが偏(へん)は異なる。「言葉イコール筋道を立てて話すことで物事をまとめる」という「論理」と、「人間イコール人と人との共同生活が人々をまとめる」という「倫理」の違いがある。
  • 「道徳」の「道」は、まさに「倫」であった。「徳」は、以前は「とく」であり、旁(つくり)の部分は「直なる心イコールまっすぐな心」を意味していた。つまり、「道徳」とは「道を行くために、素直に道に従うこと」。
  • 「道徳」はまさに生きた人間の「心」そのものであり、その時々の時代や社会の要請で変わってくるもの。かつての徳目もそうであった。道徳教育は心の教育そのものである。一方、「倫理」は「規範」であり、「倫理が崩壊する」という言葉は矛盾する。

教育の目的

  • 教育の目的は、「人格の完成」にある。人格は、人それぞれの中核にあるものであり、人によって答えが違うもの。「個性の尊重」とは決して矛盾せず、むしろ同じ意味合いのものと考えるべき。「自己実現」と合わせ、この三つがいわば三位一体の関係にある。

「人間としての在り方生き方」

  • 今回、小学校の指導要領で初めて「生き方」が入ったことは画期的なこと。平成元年の改定時には、中学校で「人間の生き方」が「人間としての生き方」に変わった。前者は「人間一般としての生き方」であり、生徒に対しまるで他人事のような印象を与えるきらいがあったが、後者は「自分そのものの生き方」という意味になり、改善された。高等学校では、その延長線上として「人間としての在り方生き方」になっている。しかし、このことについて説明できる人が非常に少ない。

道徳教育に係る教員養成のあり方

  • 「心のノート」は、文部省による道徳教育に関する画期的な取組であったが、現場の先生が使いこなせかった。大学での教員養成がしっかりなされなければ意味がないが、然るべき先生が教えているのか、という問題がある。教育委員会においても、教員採用試験の際に、道徳に係る審査をきめ細かく行う必要がある。
  • 高等学校の教員養成課程には、道徳が存在しない。なのにどうやって道徳教育を実践できるのか。かつて、教員養成審議会でこのことを主張したが、どうしても議論されなかった。

発達段階に応じた道徳教育について

  • 幼児期は「道徳性の芽生え」を育てる時期であり、幼児の自発的行為が中心となるが、基本的な生活習慣の指導は家庭と連携して進める必要。小学校は、引き続き大人による指導を受けるものの、だんだんと自分で考え、行動できるよう「他律から自律に」変わっていく時期であることに留意する必要。中・高は、自分の在り方生き方、それが人間としての在り方生き方に昇華する時期。
  • 中・高は「自分の在り方生き方」に自ずから関心を持つ段階。しかし、このようなニーズに十分応えられる教育体系になっているか、疑問がある。
  • 幼・小・中・高・大、あるいはその後の生涯学習も睨んだ一貫した教育体系を考える必要があるのではないか。

道徳教育の在り方について

  • 「規範」は、元々「慣習」から始まった。長い間の人間の営みの積み重ね(イコール慣習)が人間を規定している。しかし、この時点では、人間はまだ慣習の存在にほとんど意識がない状態。人間の生活集団が大きくなるにつれ、慣習だけではうまくいかなくなるので「規則」や「法」をつくる。しかし、更に国が大きくなると、単に厳しくするだけではだめになり、「心」の問題になり、「心の教育」が生まれる。「心」から規則等を理解しないと「規則」の意味がなくなってくる。
  • 道徳教育は学校全体を通じて行うことであり、生活習慣や規範意識の育成は、「道徳の時間」以外でもできること。しかし、週1時間の「道徳の時間」では「心の教育」しかできないだろうし、逆に、「道徳の時間」を道徳教育全体の要とするのであれば、特別活動などでもできることはやってはいけないだろう。その上で、座学をしっかりと行うこと。年間35時間の要の時間が、今後も必要になると考える。
  • 道徳全体をもっと見直して、体系を練り直すべきではないか。今の状況では、道徳の教科化といっても、おぼつかないだろう。
    「規則を守る」ことは、すぐれて心の問題。形だけ守れといっても長続きせず、「それを守らないといけない」ということ、自己制御ができるよう、教育を行うことが必要。そうした価値観の問題を含めて道徳教育の中で教えることは、そう難しくないのではないか。

その他

  • 諸外国では宗教の存在が大きいが、わが国ではそのようなものがなく、「心の教育」については明治期から教育関係者が苦労しているところ。しかし、そのような脆弱な基盤の中にあっても、教育が今の社会を作り上げたことは事実。今後も、社会を構築するために必要な教育、という観点からその内容を見直す必要。

森田 洋司 氏 (大阪樟蔭女子大学学長) 《社会学》

いじめ問題への対応

  • 日本のいじめ問題への根本的な対応策を考えるときに、集団の構成員として、いかに協働して生きるべきかと視点から、「公共善」という考え方が重要であり、そのためには、子どもの時期からの市民意識の育成が不可欠である。

外国との比較

  • いじめ問題について、日本と外国を比較したときに、外国では、加害行為に着目して問題を捉えているのに対して、日本では「いじめ」「不登校」というように、被害がどのように起きているのかという視点から主にアプローチしているが、これは、加害行為の責任についての意識の薄さが原因でもあり、行為責任をどのように負っていくかという点をもっと考えていく必要がある。
  • 各国の「仲裁者」と「傍観者」の比較データを見ると、欧米では、中学生になると多少危ない目にあっても「社会正義」を実現をすることに価値をおくことから、仲裁者の割合が増加し、傍観者の割合が減少する一方で、日本では、仲裁者の割合については一方的に減少し、傍観者の割合は一方的に増加しており、「公益」に対する考え方に大きな相違がみられる。

現代社会の特徴

  • 日本の場合、例えば、友人からの“眼差し”に弱く、周囲に過剰に同調する傾向があることから、「一般化された他者」という観点から、人間としての超越的価値の内面化を図っていく必要がある。なお、その際に、「道徳」はその目標とはなるが、絶対的なものとはならない点に留意すべきである。
  • 歴史の変遷を紐解いてみると必然ではあるが、社会全体の個人化のあらわれとして、「公共善」の意識が希薄になり、欲望自然主義に基づく私事化(「滅公活私」)傾向が顕著になってきている。
  • 他人・集団・社会との関わりの現状を見てみると、本来、多少利害関係がある関係としての「セケン」が、「ミウチ」化と同時に「タニン」化する傾向が強くなり、自分と他人との間に存在していたはずの「セケン」という境界がなくなってきている。
    このように、便利さの影で、意図せずしてどんどん社会化する機会を見失っている現状について少しでも改善を図っていくためには、例えば子どもについては、家庭・家族や地域社会の中で、1つの役割を与えていくなどして、人為的に社会化を図るための市民教育をしっかり行っていく必要がある。

今後の社会モデル

  • 新たな社会モデルとしては、公私の壁が低く、お上依存体質の下での受益者としての位置付けがなされる日本型の「タテのガバナンス」から、公私が拮抗し、市民の主体的参加に基づく欧米型の「ヨコのガバナンス」に社会を移行させていくことが重要であり、そのためにも市民社会の構成員としての意識を醸成し、地域や社会に主体的に参画する「新たなる公(民)」を育成していく必要がある。フィンランドの子どもの学力の高さがよく指摘されるが、これも、単なる学力だけの問題ではなく、小さい頃から子どもが地域づくりへの参加を通じて市民教育を受け、自己開発力を磨いた結果として、結実しているものである。
  • 今後は、
    • (1)自己を取り巻く社会・文化等へ参画する主体性を育成し、「愛着による社会的つながり」を形成していくこと
    • (2)集団・社会の中での行為責任と社会的な責任の観念を体得するため「コミットメントによる社会的なつながり」を形成していくこと
    • (3)情動などに訴えて内発的に関わりを持たせ行動へとつなげる「巻き込みによる社会的なつながり」を形成していくこと
    • (4)いわば「身体化」された規範意識などに基づく「規範への信念体系による社会的なつながり」を形成していくこと
    などが必要ある。

クロスカリキュラムの活用

  • 社会に参画して、自立した人間として生きていくための総合的な力を養うためには、教科指導と市民教育・徳育に関する指導をクロスカリキュラムの中で実施していくことが有効である。特に、アメリカの一部の州で実施されているように、サバイバルなどの体験活動を通じて、ファーストエイド、命の大切さ、(自然への)恐れなど、心を揺さぶる教育を行っていくことが重要である。ただし、徳育全体をマニュアル化できるかというと、確かに超越的価値や絶対的な価値については対象となりうるが、そもそもじっくりと育んでいくべきものであることから、マニュアル化できない部分もあるだろう。

「気働き」の重要性

  • 社会における人間の役割を考えていくと、ボランティアとも異なる、「気働き」という柔らかな行為を社会的に認知していくことが重要である。

小泉 英明 氏 (JST社会技術研究開発センター領域統括) 《脳科学》

「科学する心」と道徳

  • 幼児期における科学教育の可能性を根本に立ち返って検討したが、そのためには知識や技能ではなく、科学に接する姿勢や科学の本質を考える必要があることを痛感した。特に「科学する心」(Mindset for Science)について検討した結果、主なものは以下の5項目に帰着した。
    • (1)自然のすばらしさに深く感動する心、そして知的な好奇心
    • (2)真実を率直に認め、事実を決してごまかさない心
    • (3)偏りや思い込みなしに素直に判断し行動する心
    • (4)自然の中に生かされる命を大切にする心
    • (5)多様性を尊び、相手を思いやる心
    第1項は、科学を学ぶ強い動機、特に内発的な学習の根源でもある。第2項と第3項は科学発展の要(かなめ)であると同時に、社会生活の基本でもある。(第2項と第3項は類似しているようであるが、脳から見れば情報入力と情報出力という観点であり基本的に異なる。)第4項と第5項は、科学が解き明かしてきた進化の歴史の中で、弱肉強食の食物連鎖から解かれた人間の尊厳に関するものである。動物の世界と本質的に異なる人間社会の基本を述べている。これらの心は道徳や社会規範に直結するものがあり、徳育の中核をなす可能性も考えられる。
  • 欧米や中近東諸国、一部のアジア諸国と異なり、日本では道徳・社会規範としての宗教的戒律は必ずしも強い影響力を持っているとは言えない。また、諸外国の若年層の一部には宗教的戒律の一部から離れる傾向が見られる。この状況下、あるいは時代の流れのなかで、科学が解き明かして来た事実とあるべき科学的態度を、道徳あるいは社会規範の一部に取り入れることは検討に値すると思われる。上記の「科学する心」も道徳・社会規範のみならず多くの宗教とも、その目指す究極の方向は矛盾しない。
  • フランス教育改革の原案を作成したポール・ランジュバン委員長は物理学者であり、師であったキュリー夫妻の影響を色濃く受けている。キュリー夫妻は自らの道徳的規範を、宗教ではなく科学に置いていた。現在のハンズオン理科教育運動「ラマラパ」(手作りパン生地)にもキュリー夫妻の影響が色濃い。

徳育と脳科学

  • 種々の精神現象も脳が主体であることが明らかになりつつあり、従来の神経科学(Neuroscience)から、脳科学(Brain Science)という言葉が使われるようになってきた。一般に、脳科学は神経科学と認知・行動科学の他、種々の精神科学をも包含する。従って、脳科学は徳育にも密接な関係を持つようになってきた。道徳観念を司る脳部位や脳機能の研究も盛んになりつつある。
  • 脳は進化の歴史の中で、中心部から層状に、即ち、中心から表層へと進化・発展してきた。中心部の脳幹は爬虫類の脳と酷似しており、呼吸や循環などの生命維持を司る。その周りの古い皮質は辺縁系とも呼ばれて、本能や情動を司る。さら古い皮質の周囲に新しい皮質が進化したが、これが知性や理性を司る脳の部位である。理性と本能の鬩ぎ合いは、新たに進化した人間特有の脳部位(脳の浅部)と、古い脳部位(脳の深部)の鬩ぎ合いでもある。
  • 道徳観念や規範意識は、額の裏側の前頭前野が関係している可能性が高い。人間のこの部位は、直近の祖先である大型類人猿(チンパンジー)などと比較して、脳に占める容積が約2倍大きくなっている。脳機能から道徳を研究することは、徳育にもヒントを与える可能性が高い。

脳の報酬系と徳育

  • 脳は、生存に有利な行動に対して「快感」という報酬を与える。動物の訓練には餌の類がつきものである。人間についても、報酬を司る脳の部位や機能に関する研究が盛んになりつつある。人間の場合は、食べ物だけでなく、金銭や名誉なども報酬である。さらに精神的な褒美についても、同様な報酬系の部位が働くことが分かり始めた。善いことをしたときの爽快感なども報酬の可能性がある。また、何に対して報酬(快感)を感じるかについては、幼児期を含めた教育・保育にかかってくる可能性がある。徳育に関する研究の新たな切り口になるかもしれない。

お問合せ先

初等中等教育局幼児教育課