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(○:委員、●:事務局)
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例えば、放送大学では科目等履修生として15歳で入学できるが、19歳で全科履修生として卒業することはできない仕掛けになっている。放送大学の単位を高等学校で使っているところは幾つもある。しかし、それは高等学校の都合で認めている。もちろん放送大学に入学すれば、正規の単位として認める。そういうことについてこれからどうすべきか議論いただきたい。
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高校の立場からみた高大連携について。高校では、スーパーサイエンスハイスクール(以下「SSH」という。)がある。例えば医学部の先生に来ていただいてマクロファージの実験をする、かなり突っ込んだ興味の持てるような実験等を高校でやる、大学の研究室にお邪魔するなどの取組が行われている。インターンシップと似ているけれども、大学でどんな教育をしているか教えて、先を考えさせるということを行えるようになっている。
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以前参加した委員会において、高等学校ないし高等教育を改善することなしに明日の日本はない、という議論になった。自分は高等学校でも講義をすることになったが、その中から飛び入学により大学に入学する者も出てきた。従来、数学は数学だけ、物理は物理だけ、化学は化学だけというふうにバラバラに考えていたが、それを総合的に捉えなければこれからの日本が科学立国に後れをとってしまうという考えに立って、例えば金属化学を数学的にやろうという者も出てきた。
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昔と違い、今は高校生の50パーセントが大学または短期大学に進学し、その中で飛び入学をどう位置付けるかは、昔のようにはやさしくない。
国の制度としてどのように考えたらいいか、そして、若い人たちがどうやっていったらいいのか、議論いただきたい。
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本協議会のテーマとして飛び入学と高大連携の2つが設定されているが、この2つの目的は違う気がする。どういう関連性でテーマが設定され、どこに共通点を見出そうとしているのか。
また、こういう制度によって育成された人材がいかに地域に還元されるのかについて、一番関心がある。地域の人材の育成という観点をどう盛り込めるか。
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飛び入学は、特に優れた資質を有する者の才能をより生かしていこうとするものであるが、高大連携も、専門的な知識や経験を持つ大学が高等学校と連携することによって、才能ある若者に早い時期に、優れた教育の機会を提供するという側面があり、共通性がある。
ただ、高大連携はそれにとどまらず、受験や進路指導の弊害を改善し、地域全体の教育力を高め、偏差値だけでなく、大学に行ってこういう勉強をしたいといった、正しい進路選択意識を持たせるなど、非常に広いものがある。
大学の先生方の力を活用し、そのことによって人材を育成していこうという面においては目的とするところが重なる点がある。基本的には高校と大学の在り方が、学校制度全体の中で新たな改善につながっていけばと思っている。
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制度から見ると、高大連携と飛び入学は違っていると思う。飛び入学の現状を活性化させるため高等学校の先生方とフランクに話せるネットワークをつくったが、これは今の高大連携の草分けの一つだったと思う。
大学の授業に来させてあげるということが高大連携なのかというと、そうではない。大学の先生が高等学校の現場、実情を本当に理解すること、高等学校の先生方が大学の事情、内部行動を理解すること、それがないと何事も先へ進まない。制度を作ったとしても、書類としての成果は出すことはできるが、実質をいかにして上げるかが大事。
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大学と高等学校との間が切れていたのではないか。県の教育委員会が大学をよく知り、大学が高等学校の教育をよく知ると、もっと違う場面が出るのではないか。
「飛び入学」という言葉がおかしいのであって、高等学校にいる必要がなくなったら大学に行けばいいというふうに考えればよいのではないか。特別に優秀な学生の話ではなくて、自分の速度をどうやってキープするかということで議論すると、高大連携と飛び入学は自ずとつながるのではないか。
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平成13年の学校教育法の一部改正で飛び入学の対象分野を拡大した際に開催された会議において、私が思ったことは、飛び入学というものは、大学では何かしらメリットが出てきているが、高校側には全然メリットはないということ。
改めて高大の接続の改善ということとセットで出てきたことは非常に意味があると思うけれども、高校側にとってメリットがあるような形で改善策を持たないと、また同じことを繰り返すと思う。高校の空洞化につながらないようにする方法は幾らでもあるはず。
高校で済ますべきことをしたらすぐに大学に行けばいいというのは大学の方の考えだと思う。高校生というのは、学力の高い生徒でも必ずしも早く大学に行きたいとは限らない。何々高校の卒業生として社会に出て行きたいと思っている生徒が圧倒的に多い。
エリート養成には反対しないけれども、むしろSSHやスーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール(以下「SELHi」という。)など平成13年度当時にはなかったものを活性化し、高校3年間で高度なことも学習できるようにして、大学を3年でも卒業できる、もっと行きたい人は大学院に入ればいい。
例えばアメリカのAP(アドバンスト・プレイスメント)なども活用できないか。また、大学には先生方だけではなくてドクターが沢山いると思うので、そういう方々を活用できないか。
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飛び入学制度が発表されたとき2つの心配をした。1つは、エリート養成制度ができると、保護者が子どもに学校以外で訓練させて飛び入学の対象者にしようと頑張るのではないかということ。もう1つは、人格全体の育成の観点から大丈夫なのかということ。
1点目については、その兆しが全然見えないが、2点目については、飛び入学者の1人の学生が、テレビで「自分が通っていた高校の文化祭に行ってみたら、同級生だった人たちが非常に楽しく文化祭を過ごしていた。自分はこういう経験を失ったんだなと思った。」と発言したような記憶がある。
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飛び入学したからと言って別に偉いわけでも何でもない。旧制高校時代、飛び級して、1年先に入ったために勉強をしないでボートばかりやっている学生もいたし、中学校でやるべきことをやっておらず未成熟なため、旧制高等学校に入っても仲間についていけない者もいた。挫折は当然起こるということを前提として議論しなくてはいけない。
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資料4−1「大学への飛び入学制度について(概要)」中、「特に優れた資質を有する者に対して、早期から大学教育を受けさせることにより、その資質を伸張」と書いてある。ここに大学院も入れてほしい。
一人一人の能力に合わせるというのは、必ずしも高校から大学にかけての間だけではなくて、大学の中でも工夫されているので、できれば各大学の取組状況を示していただきたい。各大学の努力を知っていただきたい。
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高校と大学の間の境だけが特有なものではないということは事実。高等学校には95パーセントを超える生徒が行っていることに対して、どういうふうに対処するかは非常に重要なこと。この高大連携は飛び入学以上に難しい問題。
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飛び入学の根底を考えると、年齢主義ないしは修業年限主義が我が国では非常にがっちりしている。世界で最も年齢主義、修業年限主義であるのは日本だと思うが、それが少しずつ崩れつつあるのが現状。諸外国と比較してどうなっているのか、どういう考え方で修業年限主義を固持してきたのか。
そのあたりがわかれば、飛び入学がどういう意味を持つのか、学士課程から大学院の課程に飛ぶ場合にも、すべてに共通して理解がしやすいのではないか。
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大学、大学院を含めた教育で、しかも学部、学科という限定された中で教育を受けて、それが10年も通用するはずがないという時代になっている。第1サイクル目の大学教育はそんなに意味を持たなくなりつつあるので、2サイクル目、3サイクル目をどうしようかということが生涯学習の時代だと言われている。
それでも高大連携の中では1サイクル目は非常に大事だが、1サイクル目がすべてだと思っていると時代錯誤になりかねない。1サイクル目をこれ限りとして勉強する人もいるし、そうでない人もいる、そのあたりをどう考えるか。
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中央教育審議会で「我が国の高等教育の将来像」という答申を出しているが、その中で大学の機能別分化の方向を出している。高大連携も、大学の機能別分化の中でさまざまな道が開けてきたのではないかと思う。
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飛び入学あるいは高大連携は、大学の学部教育の問題をどう考えるかということと大きく関係している。これまでの日本の教育議論は落ちこぼれをどうするかという方に傾きすぎていた。個性に応じて教育をというふうに変わってきたことは評価できるだろう。
ただ、大学の学部教育というのは狭い専門教育を行うのではない。大学院では専門性に特化した教育になる。一部の限られた分野の能力だけが優れている者の大学への飛び入学は、ちょっと議論が違うのではないかと思う。学部を飛ばして大学院へ入れるとか、そういう議論をした方がいいのではないか。高校を短縮して、大学学部を短縮して、早く大学院に入れるためにはどうするのかというところが本当の議論になるのではないか。
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旧制の高等学校のようにリベラルアーツを地道に学ぶ能力をもった学生は今はいない。教養教育が崩壊した理由も、それに耐えられる子どもたちがいなくなってしまったことにあるのだということを現場で感じた。
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議論は飛び入学と高大連携の制度に関して、共通点を中心に話が進んでいるが、社会制度として考えると別物であって、論点は分けておいた方が今後の議論のためにはいいのではないか。
飛び入学というのは、選抜の主体は大学。特別の個人の才能の発見というところにこの制度は置かれており、メリットを享受する大学側の問題になる。才能がすべてではないという考え方でいけば、極めて少数の飛び入学をした個人に大学がどう対応してくるかという話になってくるのであり、当初才能があると思って選抜した者が本当に開花するかも結果として問われてくるのではないかという話になってくる。
それに対し高大連携は、学校団体間の学習内容の接続の話になっており、現状では大学でやっていることを高校に下ろすという形で機能するので、メリットを受けるのが高校側の話になる。高校側が、大学の知恵をどう取り入れるか、マスとしての青少年をどう育成するかという話になる。ある意味では学校教育の内容をどうするかという話になる。
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私の大学には附属高校があり、学内の議論では、高校時代は3年間きちっと努めさせる仕組みの方がいいという考えが趨勢を占めているが、早期入学、早期卒業がセットになった議論が必要と考えている。
高大連携については、附属高校を持ちながら他の一般高校に対して高大連携プログラムを提供することに対して抵抗があったが、入試環境激化の中でそこの聖域が崩れつつある。実践したのは、全国20の高等学校にインターネットで高校生向けの内容の授業を配信し、同時にスクーリングが行われるもの。10時間ほどの授業を提供した上で、その都度課すレポート等のハードルを越えた者に対しては修了書を発行して、それに対して推薦入学の資格を与えている。
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飛び入学や高大の接続が、何よりも生徒・学生にとって利益になるものでなければならないということ確認をしておきたい。
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いろいろご指摘いただいた点は、座長とご相談をして整理させていただきたい。今までの経緯を踏まえ、そして、子ども達が育っていく中でのようにしていったらよいか、従来の考え方にとらわれずに議論していただきたい。数年経ち一定の集積が上がってきているので、それを実証的に検証してみることが必要と考えている。
もう1点、飛び入学と高大連携は、似通っているところもあるし、あるいは大きく違っているところもあるという意見はそのとおりだと思うが、「早期入学(飛び入学)」という書き方を今回しており、必ずしも飛び入学か高大連携かという分け方でもない。早期入学の最も典型的でドラスティックなケースは飛び入学と言われるものだが、ここ10年、15年でも制度的な環境が大幅に異なってきていて、科目等履修生、高校の単位に大学との連携をどう組み込んでいくか、大学が既修得単位や学校外施設での学修の単位認定をどう行っていくかという点が新しく出てきて、あるいはSSHやSELHiというものも新しくできた。また、インターネットによる情報環境も変わってきているので、そのこともあわせて、制度環境そのものの変化について共通理解を持つための用意をさせていただきたい。
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学生になっていく人たちの踏んでいく段階をどのようにしたら、一人一人のためになるのだろうかという議論の中に、早期入学がビルトインされているのだと思う。 |