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中央教育審議会初等中等教育分科会

2003年6月16日 議事要旨
中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会総則等作業部会(第1回)

中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会
総則等作業部会(第1回)

1. 日   時    平成15年6月16日(月)10:00〜13:00

2. 場   所    ホテルフロラシオン青山   芙蓉(東)

3.
議   題    「総合的な学習の時間」の一層の充実について
  上野健爾氏(京都大学大学院理学研究科教授)からの意見聴取
  奈須正裕氏(立教大学文学部教育学科教授)からの意見聴取
  中許委員からの意見発表

4. 配付資料
資料1    総則等作業部会委員名簿
資料2    当面の具体的な検討事項の例
資料3    「総合的な学習の時間」の概要について
資料4    「総合的な学習の時間」についての関係審議会答申
資料5    「総合的な学習の時間」についての学習指導要領の記述
資料6    「総合的な学習の時間」に対する文部科学省の支援策
資料7    「総合的な学習の時間」についての各種調査結果
資料8    「総合的な学習の時間」の実施上の課題について
資料9    学校教育に関する意識調査
資料10    上野健爾氏   発表参考資料
   奈須正裕氏   発表参考資料 (PDF:287KB)
資料11    今後の日程(案)

  (机上資料)
          中央教育審議会答申、教育課程審議会答申
  小・中・高等学校等の学習指導要領
  総合的な学習の時間実践事例集(小学校編、中学校編)

5. 出席者
(委   員)
安彦主査,浅田委員,今井委員,小栗委員,小久保委員,中許委員,西村委員,船津委員

(意見発表者)
上野健爾氏(京都大学大学院理学研究科教授)
奈須正裕氏(立教大学文学部教育学科教授)

(事務局)  
文部科学省: 金森初等中等教育局審議官,河野主任視学官,大槻教育課程課長,今里教育課程企画室長
国立教育政策研究所:月岡教育課程研究センター長

6.議事等
(1)    事務局より,資料2から資料9について説明が行われた。

(2)    上野健爾氏(京都大学大学院理学研究科教授)から,「総合的な学習の時間」の一層の充実について意見発表が行われた。意見の要旨は以下のとおり。

   大学生の一番の問題は,意欲・関心・興味を持続できないことである。「新しい学力」という形で強調されてきたが,それが育っていない。その危機意識から,学力とは,決してテストの成績ではなく,そのもとになっている意欲・関心・興味自体が実は問題であると提起している。
   現状の教育について,二つの問題点を指摘する。
   一点は,現状を冷静に分析できないことである。希望的な観測を入れてしまい,どうしても現状を非常に甘く見てしまう。
   もう一点は,教育を議論するときに,個々の教員が努力することと,教育行政がシステムとして取り組むことが区別されていない。教員が自信をもち,生徒とともに学びながら教育ができる環境をつくることが,教育行政の大切な役割であり,「総合的な学習の時間」もその観点からとらえている。特に「総合的な学習の時間」は,学校がその内容を編成できるため,教員の実力が試され,かつ教員が真剣に取り組まなければうまくいかない。教員の頑張りが報われるシステムづくりが,教育行政の大事な役割である。
   「教科学習」か「総合的な学習の時間」かという二元論ではなく,両方とも大事であることを現場の教員が認識できなければうまくいかないわけであり,教員の「総合的な学習の時間」に対する認識を分析しなければいけない。
   教育の成果がテストの成績や進学実績ではかられているが,本当の成果は20年後,30年後にあらわれ,短期間にはあらわれない。
   「教科学習」の基本部分がおろそかであれば,「総合的な学習の時間」はうまくいかない。「教科学習」と「総合的な学習の時間」の対立概念を取り払い,極端な言い方をすれば,「教科学習」は基礎・基本を,「総合的な学習の時間」はその応用を勉強するところであり,その両方をやらなければいけない。
   文部科学省や教育委員会は,学校が教育の効果を上げることができるように,人的,財政的支援をしなければいけないが,教育費が削減している。教育は「国家百年の大計」であり,お金のかけ過ぎということはないのであるから,文部科学省はそのことを財務省や世論に説明するべきである。
   「総合的な学習の時間」は,学校の教員だけでなく,地域の人たちや保護者の力を積極的に使うべきであり,地域の人たちも教育に参加することによって学ぶことができる。
   学校の教員は,教えている教科の内容を自分で楽しまなかったら,本当の意味での教えにならないし,子どもたちも学ぶことができない。よって,教育行政には,教員が「教科学習」と「総合的な学習の時間」を本当に楽しみながら教えることができる体制をつくっていただきたい。そのためには,教員の数を増やし,一学級の生徒数を減らさなければいけない。
   「総合的な学習の時間」は,「教科学習」と対立するどころか,お互いに助け合いながら学びを深めていくすばらしい時間であり,それを生かすのは,現場の教員の取組と意欲である。その意欲を引き出すのが教育行政であり,そのために現場の教員の忙しさを少しでもやわらげてほしい。

(3)    奈須正裕氏(立教大学文学部教育学科教授)から,「総合的な学習の時間」の一層の充実について意見発表が行われた。意見の要旨は以下のとおり。

   愛知県東浦町の緒川小学校と卯ノ里小学校は,20年以上前から「総合的な学習」,あるいは教科の「個に応じた指導」という実践を展開してきた。
   高校2年生になったこの2校の卒業生に質問紙調査を行い,その結果を近隣の一般小学校を卒業した同期の高校生の回答と比較したところ,ほぼ全項目について2校の卒業生の値が高かった。小学校で学んだことが,高等学校に入った時点でも,子どもたちの自己評価として残っている。よって,うまく実践をすれば,「総合的な学習の時間」がねらう自ら課題を見つけ,自ら学んでいく姿勢や自己の生き方を考える態度が育つことはあり得るのではないか。
   また,この2校は,年間70時間程度の「総合的学習」を行っており,その分,教科を単独に指導する時間は減っている。よって,受験に弱いのではないかという懸念があるが,椙山女学園の田中先生の追跡調査結果によると,緒川小学校の卒業生の短大・大学への進学率は愛知県平均と比べて20ポイント近く高い。この結果から,田中先生は,大学入学時点で全国平均以上の学力を身につけていると結論づけている。
   私たちのインタビュー調査で,卒業生たちは,将来,自分はこんな大人になろうという目標や目的意識を持って進学が位置づけられたと答えた。さらに,受験だけではなく,勉強することは,自分の生活や自分が市民として生きていく上で必要なため,学ぶことが自分に位置づけられていた。だから,中学校や高等学校での勉強も生活との関係が見える。それは小学校で「総合的学習」をやっていたからだという指摘があり,知の総合化に繋がっている。
   「総合的な学習の時間」をうまく展開していけば,こういう子どもが将来育つのではないか。「総合的な学習の時間」は原理的には真っ当なもので,重要なものである。教科で基礎・基本をやり,「総合的な学習の時間」で生活にかかわる応用や実践をやり,その両方が見えることで,学びの意味がより立体的にわかってくるのではないか。その意味で可能性がある。
   次に,「総合的な学習の時間」をめぐる言説が三つある。
   一つ目は,「総合的な学習の時間」は教育課程上,隙間の時間だという言説である。これは学習指導要領上,領域ではなく,時間として整理され,総則に位置づけられている。領域ではなく,時間というのは一体どういうことか,現場ではよくわからない。時間であり,その内容や目標が明確に示されていないのであれば,その時間は学校でいかように流用してもよいというのが,隙間の時間の理解である。実質的に教科,道徳,特別活動と並ぶ第四領域とみなしてよいのかどうか。
   もう一つの問題は,教育課程の編成上どこに位置付くのかである。生活科との関係をどう考えるのか。生活科は3,4年以降は理科,社会につながるのか,あるいは「総合的な学習の時間」につながるのか。中学校,高等学校まで含めて,この辺について明確な整理がなされると現場の混乱は解消されていくと思う。
   二つ目は,「総合的な学習の時間」は教科の補充や発展に用いてもよいという言説である。「総合的な学習の時間」のねらいである「自ら課題を見付け・・・」という特質をもつ学習であれば内容は何でもよいのか。「自ら課題を見付け・・・」というのは,教科でも当然ねらうべきで,教育課程の全領域で実現するものである。
   総則に示された二つのねらいはどう読めばよいのか。平成10年7月の教育課程審議会答申なども参照すると,概念的には四つではないか。自己の生き方を考えることができるようにする,あるいは自己の生き方についての自覚を深めることが,「総合的な学習の時間」に固有のねらいではないか。自己の生き方についての自覚を深めるという位置づけであれば,生活科の趣旨や特質と「総合的な学習の時間」の特質がうまくつながるのではないか。その意味で,自己の生き方が,「総合的な学習の時間」で押さえるべきキータームではないか。
   三つ目は,「総合的な学習の時間」は,内容を文部科学省が指し示さないので,活動や体験の時間だという言説である。内容はある意味で「なんでもあり」なのだろうが,それが誤解され「なんにもなし」になっている場合がある。「なんでもあり」という中で,学校が内容を何もつくらず,活動や体験だけがある。あとは子どもが学び取るという誤解もあり,正確な理解や指導が必要ではないか。教育課程審議会の答申にもあるように,内容は,各学校でつくるということが,現場に周知徹底されていない。
   「内容」と「活動」が混乱されていて,カリキュラムには内容の水準と活動や単元の水準の二つがあることが理解されていない。その辺が無自覚な状態で教科の授業が実施されていたため,「総合的な学習の時間」についても内容を編成することなく,単元や活動だけを編成して実践が行われ,結果,どんな力が育ち,何を育てようとするのかが見えない。よって,支援方針も持たず,評価もできないという状況が生まれているのでないか。
   これを契機に,各学校でカリキュラムを編成するということが,各教員の専門性を持った仕事として自覚されるような配慮や,ある種の徹底した行政指導をすると,「総合的な学習の時間」だけではなく,教科,道徳,特別活動を含めてよくなっていくのではないか。
   活動や体験を重視することが教科でも推進されているが,活動や体験を何のためにやっているのか,学習指導要領のどの内容を実現するということとの関係でやっているのかを明らかにするよう,その辺の整理,周知徹底をするとよい。
   最後に,「総合的な学習の時間」の学力論をどう考えればいいのか。「総合的な学習の時間」の内容は,ある対象とする領域ごとに固有な内容を編成していく立場(内容学力)と自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考えという領域や対象に依存しない立場(形式学力)の二つがあるが,形式学力だけで内容を編成すると,そうした力が育ったかどうかの評価が難しい。よって,内容学力と形式学力の関係を明らかにするとよい。

(4)    中許委員から,「総合的な学習の時間」の一層の充実について意見発表が行われた。意見の要旨は以下のとおり。

   教材の説明やプログラムの実施を通じて全国の子どもたちに接していると、彼らの知識や知恵は、外国の子どもたちに比して全く遜色はなく、実に高いレベルにあることが分かる。しかしながら、自分は将来どういう方向に進みたいかという進路選択や将来設計のことになると彼らの意思や関心は急に薄くなってしまう。将来の方向が決まると、それに向かって頑張ろうとする「やる気」や「動機」が生まれ、それが「生きる力」の源泉になる。「生きる力」育成への理解が日本でなかなか進まないのは、人生の早い時期から進路選択や将来設計への意識付けが行われてこなかったからではないか。
   人は生産・収穫・加工・保存・輸送・交換・分業を行いながら「共存システム」の社会で生きている。この共存システムは個人が仕事をすることによって支えられており、「勤労は自己実現である」という個人的なものとしての解釈もさることながら、「勤労は個人の社会的責任」という解釈のもとに、人は仕事を通じて互いに助け合って生きているという現実を認識する必要がある。
   この認識が「個人は他人の恩恵で生きている限り、自分も他人に恩恵を与えうる」という理解につながり、そこに個人として社会に存在する意義や生きる意味が生まれる。
   社会の共存システムは「需要と供給」のもとで機能している。需給関係とは「買い手」と「売り手」の関係である。コメの買い手は消費者であり、売り手は生産者である。コメの売り手である生産者も精米機については買い手の立場になり、その精米機を売る立場の機械メーカーもコメを買うことから、精米機の売り手はコメの買い手でもあるという循環になっている。循環システムとして全部がつながっている共存社会では、個人は買い手と売り手の両機能を同時に持っていることになる。そこで、買い手を原材料の輸入、売り手を加工・商品の輸出という関係で捉えると、その形はわが国の立国基盤そのものであり、仕入れたリソースにどういう付加価値をつけて世に問うかということにほかならず、国家にとっても個人にとっても付加価値創造がいかに大事であるかが分かる。この付加価値創造という機能が、売り手論理との関わりを忌避できないとなると、目標意識、意思決定と結果責任、業績評価や成果配分、競争や市場原理、利益、報告と情報共有、コスト・リスク・時間管理、改善提案、変化などの概念が関わってくるため、賢い消費者だとか、勤勉な労働者だとかいう買い手の論理に基づいていた今までの教育にも、売り手の論理を導入していかざるを得ない。
   進路選択や将来設計は自分自身の意志に基づいて行うべきで、それを可能にする「意思決定力」の養成が必要である。意思決定には、「選択」を前提とした「決める」という行為がつきまとう。「意思決定」が「意見を言うこと」と違うのは、この「決める」という行為がついていることである。決めると結果が出て責任を伴うため、「意思決定」は「結果責任を伴う」ということになる。日本人は「結果責任」についての認識があいまいで、意見の言放しが許されてしまう。意見が言放しにされる社会では、声の大きい人の意見が通りやすい。しかしながら、結果責任を伴うことがはっきりしてくると、声の大きい人の意見が必ずしも正しいとは限らないということも明白になる。つまり、結果責任を伴う社会では、「誰が言うか」ではなく「何を言うか」が正当に評価される。
   「社会の仕組みや経済の働きを理解し、自分自身との関わりを問い、進路選択・将来設計は自分の責任のもとに意思決定する」という意識、つまり、自分は将来何になるか、どういう仕事をしたいか、どういう形で社会と自分とのかかわりを持つかという意識は人生の早い段階から持つ必要がある。進路に必要な知識・知恵・スキル・人的ネットワークなどの習得に時間がかかるからである。ところが、多くの日本の子どもたちにとっては大学に入ることが至上命題になっているので、小さい頃から塾に通い、大学に入った途端にひたすら遊びまくる。そのため、自分の進路に必要な知識や知恵、スキルなどの基本的資質を習得する時間をなくしたまま社会に出てしまう。ここで言う基本的資質とは、学力だけではなく、他人と違う意見を言う勇気や異質の意見に対する寛容性、広い視野に基づく想像力や仮説の設定力、意思決定力、教養、その他の知的好奇心などを含む「総合的でバランスのとれた基本的資質」のことであるが、これらを育むには、人生の早い時期から自分が社会とどう関わっていくかという意識付けが重要である。小学5年生用プログラムの「スチューデント・シティ」でそういう資質の萌芽を見ることができ、日本での育成も十分可能である。
   プログラムの事前学習に、欲しいと思っていたものを二つ同時に見つけたが手元の小遣いでは両方は買えないという前提で、一方をあきらめる・両方ともあきらめる・二つが買える小遣いがたまるまで待つ、という三つの選択肢から自分の意志を選ばせるという演習がある。ほとんどの生徒は三つの選択肢に入る答え方をしたが、「四つ目がある」と言った生徒が数人いた。その選択肢とは、「どちらも欲しいと思っていたが、もう少し待てば本当に必要なものが一つ見つかるかもしれない」という意味であった。つまり、欲しいと思っていたのは「必要に応じて欲しかった」のか、「ただ単に欲しいと思っただけ」なのかということであり、よく考えてみると、本当に必要と思ったものが一つだけなら、今の小遣いの範囲で買えるかもしれないという意味である。こういう豊かな発想が5年生の子どもたちから出てくる。教員にも創造的な思考のできる人が多い。副教材の作り方など非常にクリエイティブである。当方の教材は指導方法等についてあらかじめ詳しく書き込んでいる場合もあるが、「そこは教員として喜びを感じる最も大事な部分なので、あまり詳しく書き込むことによってその喜びを奪わないでほしい」と言う声が多く寄せられる。教える内容の枠作りは大所高所から行政がやるべきだと思うが、その内容を生徒にどう分からせるかという方法の立案と実施については教員の裁量と創意工夫に委ねるべきだと思うし、教員も最大の知恵を絞って工夫を凝らすことが求められる。
   総合的な学習の時間に行われている体験学習は、蓄えた知識をどう使うか、使えばどうなるかを知るシミュレーションの機会で、いわば社会に出る前の試運転の場である。冒頭でも述べたように日本の子どもたちは非常によくできる。ただ、彼らには本来持っている知識や知恵を発露する場所と機会が与えられてこなかった。詰め込み方式で一方的に教え込まれるだけで、教え込まれた知識をどうやって使うか、使えばどうなるかを知る機会と場所は、社会に出てからしか与えられなかった。しかし、学校でも知識を試運転する機会と場所を与えることはできる。試運転だけではなく新しい発見も含めて、それが「総合的な学習の時間」の効用と理解している。「基礎・基本」は非常に重要である。一方「総合的な学習」も同じく重要である。どちらが大事かという議論は不毛である。教育は、実学だけではなく人格形成から情操教育まで多岐・多層に渡るので、例として適当ではないかもしれないが、「基礎・基本」か「総合的な学習」かの二者択一を迫る論議は、自動車を運転することが目的である時、両方とも同時に必要な「学科」と「実技」のどちらが重要かを迫るがごときである。日本の教育が構築した実績の一つは、非常に大きい知識の量であり、知識レベルでは外国の生徒に比べて優れている。総合的な学習の時間を通じて、蓄積した知識(非常に大きいデータベース)を使いこなす力(ソフトウェア)を入手すると、日本の子どもたちは素晴らしいリーダーシップを発揮することができる。
   総合的な学習の時間は、最終的に、なぜ勉強するのかという発見を経て勉強に対する今現在の姿勢を変えようとする動機につながらなければ意味がない。多様な体験や人との出会いを通じて初めて自分の位置づけを知り、自分に不足しているものは何か、伸ばすべきものは何を悟り、それが勉強する動機につながればよい。
   進路とは「人生をどう生きるか」という生きざまの問題であり、「夢」の実現プロセスである。夢を一種の生成物とみなすと、生成物には材料が要る。夢の材料とは何か。それは、心の中に感動を伴って入ってくる感動体験である。感動した時には手を胸に当てて「感動した」と思う。その時に感動体験が入っている。感動体験は心で感じるものなので、いくら知識を頭に詰め込んでも「頭で感動した」などとは言わない。頭に詰め込む材料も当然ながら大事であるが、同じ程度に「夢の材料」を心の中に入れてやることも重要である。空っぽのままの心に「夢を持て、進路を描け」と言っても子どもたちには酷である。従って、できるだけ多様な感動を得る機会を提供してやる必要がある。映画を見て感動した、人の話を聞いて感動した、観察して感動した、しかられて感動した、10年たってから感動したなど、時間的なもの、ポジティブなもの、ネガティブなもの、色々な領域を超えて感動があり得るわけで、そういう感動のネタが心の中にどんどん蓄積していき、材料がたまった時点である一つの感動が触媒になって夢の形が具体化する。感動を得る機会の提供を総合的な学習の時間に行うべきであるが、折角のそういう時間を減らしてまで補習をし、塾に通わせたうえ勉強部屋に閉じ込め、子どもたちが感動を得る機会を奪うことは歓迎できない。

(5)    意見発表者と委員との間で意見交換が行われた。(□=意見発表者,○=委員,△=事務局)

○   「総合的な学習の時間」は応用で,「教科学習」は基礎・基本という二分法的な話があったが,「総合的な学習の時間」で体験したことが基礎になることもあり,「総合的な学習の時間」を学校のカリキュラムとしてどう関係づけるかという議論が大事である。
   また,「総合的な学習の時間」は教員の資質と関連するという話があったが,外部からのプログラムの提供は,教員の役割との関係で,その範囲が問題となる。教員は授業をつくる立場であるから,導入段階ではわかるが,今後も続けていってよいのかどうか。
   イギリスのナショナル・カリキュラムでは指導法を記述しているが,学習指導要領にも指導法を定めるのかどうかが,一つのテーマになると思う。

□上野氏   生徒に応じて,あるものが基本であったり,応用であったりするので,より現場に裁量権を与えなければいけない。学習指導要領をより大まかな規定にして,現場の教員が力を発揮できる体制をつくるとよい。なお,教育行政は,教員の取り組みをしっかり見分けることが大事である。
   学校の教育については,より自由度を現場に与えないと,教員の実力は発揮できないのではないか。一方で,公教育は,必要最低限のものは提供しなければいけないわけで,二つの板挟みの間にある。それをどういう形でうまく持っていくかということが一つの問題である。
   また,ほとんど塾がないような山間部の少人数の学校にも,非常に高い教育を与えてほしい。
   「教科学習」と「総合的な学習の時間」の対立が言われるのは,教科の部分があまりに削減され過ぎているからだと思う。学習指導要領の必要時間をしっかり見てもらいたい。基本的な部分の時間を増やし,多く指導してほしい。

□奈須氏   「総合的な学習の時間」と「教科学習」を二分法にするのではなく,領域を設定する以上は,緩やかに特質を明確化したほうがよい。例えば,「教科」は学問,科学,芸術をベースに,「総合」は生活をベースに考えるのが一つの論法ではないか。生活と科学が対峙してきたことが,日本のカリキュラムの大きな問題点で,それを有機的に接続していくことが「教科学習」にとっても課題である。
   また,カリキュラムを与えてしまうのはよくないが,学校現場が内容編成や単元構成をできなくなっていることが問題で,その編成ができる力を長期的な政策の中で学校につけていくことが大事である。

○   教育課程の編成,実施,管理は校長の責任であり,「総合的な学習の時間」についても各校長が工夫しリーダーシップを発揮しているが,意見発表者から出された課題もあると思う。
   「総合的な学習の時間」については,成果を収めている学校と課題の解決に取り組んでいる学校があるが,今の段階で事務局の方で何か考えがあればお尋ねしたい。

△   委員の意見,調査結果,国民や各界からの意見も踏まえて,どういう方法が「総合的な学習の時間」をより充実していくことに役立つかということを整理したい。特に学習指導要領との関係では,どのように整理すれば,より充実できるかという観点も押さえていきたい。

(6)    事務局より今後の日程について説明があり,閉会となった。



(初等中等教育局教育課程課教育課程企画室)


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