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  資料 10  


これを好む者はこれを楽しむ者に如かず
「総合的な学習の時間」の一層の充実に向けて
2003年6月16日

上野   健爾

1. はじめに

今日、教育が世界的に重要な問題になっている。教育の問題は教育だけで閉じていない。現在の教育のゆがみは大人社会のゆがみの反映である。従って、大人社会の変革なくして真の教育の変革はあり得ない。しかながら、社会の変革のためには教育の改革が必要である。「卵が先か鶏が先か」という議論を行うのではなく、できるところから改善していく必要がある。しかし、そのためには現実を客観的に見る必要がある。
特に大切なことは、種々の現象に対して対症療法的な措置を講じるのではなく、根本原因を究明しその対策をとるべきである。
   残念ながら我が国の教育の議論ではその大半が主観的な見方に基づくものであり、客観的に事実を直視、それに基づいた改善が行われてこなかった。学ぶことは思い込みから自由になることであることを指摘したのは古代ギリシア人であった。しかし、現在でも私たちのまわりには思い込みが横行している。しかも、初等・中等教育では学びを深めることよりは、テストの問題を解く手続きを暗記し、手続きの持つ意味やその不思議さを考えようとすることがほとんど行われていない。教科の時間が極端に減ってしまったことにその責任に一端があるが、それ以上に深刻なのは考えることの重要さが分かっても、それを有効に授業に生かすことのできない教師が多いことである。自ら疑問を持ち、学びを深める時間的な余裕が現場の教師にほとんど無くなっているからである。これでは、「総合的な学習の時間」をつくっても、学びを深めることにはならない。その一方で、「総合的な学習の時間」があればそれだけで学びが深まるような楽観論も一部にある。しかし、「総合的な学習の時間」が学びの中でどのような意味を持つかをきちんと納得した上で実行しなければ何の効果も産まない。そのための説明はほとんどされていない。
   「総合的な学習の時間」を担当する教師自身が、みずから考える時間が十分にとれない、また、生徒達のさまざまな反応や疑問に対して、十分に考えて対処する時間がとれないという根本的な問題がある。それは、家庭や地域の教育力が極端に低下していて、すべてが学校の責任にされてしまっていることに起因する部分が大きい。家庭や地域の教育力が低下していることを指摘するだけでは問題は解決しない。どのようにして家庭や地域の教育力を回復させるかを具体的な政策として提言しなければならない。これは教育行政が、教育基本法

   『第七条(社会教育)   家庭及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって推奨されなければならない。
   2   国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利用その他適当な方法によって教育の目的の実現に努めなければならない。』

を真剣に受け取り実行してこなかったつけの結果である。学校図書館の司書教諭の問題一つとっても、社会的な教育環境の整備に教育行政がどれだけ怠慢であったかは明白である。
   このように観点からは、教育の現場にたいしては自己評価、外部評価を行うように指導しながら、自らは、真の意味での自己評価も、外部評価を行ってこず、自らに都合の良い評価しか採用してこなかった旧文部省、文部科学省の態度が今日の教育の混迷の直接的な原因であることを関係者は襟を正して認識すべきである。『忠言は耳に逆らい、良薬は口に苦し』という言葉の重さを今こそ再認識すべきである。
   教育の問題に象徴的に現れているように、日本そのものが滅びの道をまっしぐらに進んでいる。東海村の臨界事故もみずほ銀行のシステム障害も通常の社会ではあり得ない事故である。マニュアルがなぜ作られているかの理解があれば3%未満のウラン溶液と19%の濃縮ウラン溶液とを勘違いすることのなど起こりようがなかったであろうし、コンピュータは人間が作ったプログラムに基づいて動いており、プログラムがなければどうにもできないという、基本的な事実を知っていれば、みずほ銀行のシステム障害など起こりようがなった事故である。また、プログラム作成を担当した企業は問題が起こることを知っていながら、銀行トップに問題の重要性を伝えようと真剣に努力していなかったことを当時の社長自らが新聞記事に登場して述べている。日本の社会はモラルも知力も恐ろしいほど低下している。
   グローバル化した今日の世界では、有名大学を卒業したことは何の意味も持たず、どれだけ質の高い学習をしたかが問われる。21世紀は、学校で身に付けた知識だけでは不十分で、生涯学び続けることが必要となる時代である。世界環境問題、エネルギー問題を始め困難な問題に恐れず立ち向かう大人になるためには、疑問を持ち、考え続けることのできる力こそが一番必要とされる。この力が今の大学生に一番欠如している。それは、不思議と思うこと、疑問を持つこと、まして感動した経験が初等・中等教育で極端に不足していることに起因する。学ぶ力としての学力がなかったら人間として21世紀を生きていくことはできない。
   しかし、初等・中等教育では教育の成果と称して、偏差値の高い上級校へどれだけ進学させたかのみが問題とされる。真の教育の成果は30年後、40年後にはじめて現れることが恐ろしいほど忘れ去られている。田中耕一さんのノーベル賞受賞は今の教育の成果ではなく、40年、30年前の初等・中等教育の成果である。疑問を持たず、手続きのみを暗記する教育が大手を振るっている。20年以上も前に林竹二は

『学校に入ることが人間の幸福だというような、そういう実に卑俗な考え方が社会全体をおおってしまっているわけです。それに教育が巻き込まれてしまっている。教育の中からはそれに対する抵抗がさっぱり出てこない。』(林   竹二著作集10   生命への畏敬の欠けたところに教育はない   1. 教育の荒廃とはどういうことか)

と指摘している。20年間、事態は改善されるどころか悪化の一途をたどっている。これでは教育が機能しないだけでなく、我が国の将来は絶望的であることを意味する。この現実を冷静に分析した上で教育の問題を論じるべきである。その際に注意すべきことは、教師本人が努力すべきことと、教育行政が行うべきこととはきちんと分けて議論すべきである。教育行政は教師がその能力を十分に発揮して教育に当たるシステムを作ることであり、教育環境の整備に人的、財政的な支援を行うことである。教師の努力が足りないので教育改革がうまくいかないという主張は、生徒が勉強しないから教育がうまくいかないという主張と同じく、意味をなさない。
   我が国の社会では子供が大切にされていない。子供までもが利益追求の道具とされている。こうしたゆがんだ大人社会の現実を見据えた上で教育の議論を行わなければならない。
2. 鈴木大拙の警告   −真実を求める努力を−
   教育に限らず、私たち日本人の欠陥として、自分たちの願望に基づいて議論をすめるだけで事実に基づいた議論ができないことがあげられる。教育に関する議論にはそのことが顕著に現れている。このことは、既に五十八年前に鈴木大拙が的確に指摘していた。

『北条先生は理学士で数学専攻であった。立派な教育家で、学習院院長を最後に教育界から退かれた。先生が専門学校へ来られてから、学校の数学教育は面目を改めた。自分らは大いに勉強した、そうしてまた勉強するように教えられた。数学の予習に夢中になるようになった。そのとき、こんな話があった。何でも西田は夕方薄昏くなっても、ランプなしに、紙上に書きつけた数字を能く見て、問題を解決するまで勉強した、と。一所懸命にやると、暗がりでも見えるそうだ、一心の力もえらいものだなどという評判があった。
   このどこどこまでもその底に徹しなければ已まぬというのが西田の性格であった。吾等の多数は何かの疑問があっても、しかしてそれを解決しようと努力はするが、どうも好加減のところで腰を折る。意志が強くないというよりも、寧ろ知力の徹底性が欠けているというべきではなかろうか。東洋的教養では意力に偏して、知力を軽視する傾きがある。それでやたらに道徳的綱目を並べて、これを記憶し、またこれを履修する方面に教育の力点をおいている。そうして数学や科学のようなものは、実用になればそれでよいとしている。東洋人が一般に−特に日本人が− 感傷性に富んで、知力・理知力に乏しいところへ、理論の研究を実用面にのみ見ようとするから、教育は一方向きになっていく。批判が許されぬ、研討が苟且(こうしょ)(おざなり   上野注)にされる、知力の徹底性が疎んじられる。従って物事に対しても主観的見方が重んじられて、客観的に事実を直視し、その真相を看破しようという努力が弛んでくる。今度の敗戦の如きも、その根本原因は日本人の理知性に欠けたところに存するのである。今更科学科学と言って大騒ぎするが、科学なるものは、そんなに浅はかに考えてはならぬのである。手取り早く間に合うようにと、いくら科学を団子のように捏ね上げようとしても、捏ね上げられるものではない。まず、物を客観的に見ることを学ばねばならぬ、そこからこれに対して徹底した分析が加えられなければならぬ。これが日本人の性格の中に這入ってこないと、偉大な科学の殿堂は築き上げられぬ。科学や数学の学修を、単なる実用面にのみ見んとする浅薄な考え方をやめて、学問の根底に徹する、甚深で強大な知性の涵養を心懸くべきである。これが出来ると自から人格の上にも反映してくるにきまっている。こうすべきだ、ああすべきだ、「謹しむ」べきだ、「畏まる」べきだとのみ、朝から晩まで、晩から朝まで、吾等の頭に叩き込まんとする官僚は、余程結構に出来て居る頭脳の持ち主だ。これでは世界性を持った考え方は日本人の中からはどうしても出て来ない。又戦いくさして、又負ける位が関の山であろう。』 (鈴木大拙全集 第30巻 15ページ〜16ページ)1945年8月26日記

五十八年経ってもこの指摘が何一つ改善されていないことこそ問題にすべきである。「総合的な学習の時間」に対しては現状を把握し、現実に対してどのように対処するか議論しなければならない。その意味では「総合的な学習の時間の一層の充実」ではなく「総合的な学習をどう再構築するか」が問われなければならない。
3. 学力低下と「総合的な学習の時間」
   「総合的な学習の時間」はさまざまな問題を抱えている。それはつきつめると、教科学習との関連を教師自らが見いだせないことによる。新学習指導要領が発表されたとき、基礎教科の学習時間と内容を削減してまで「総合的な学習の時間」を導入しなければならないかという意見に、旧文部省も文部科学省は真摯に説明をしてこなかった。特に、大学入学時の「学力低下」の事実が前後して指摘され、初等・中等教育の問題点が指摘されていたことに対して、旧文部省、文部科学省はそれにも真摯に対応してこなかった。
   大学生の「学力低下」の一番の本質は意欲・関心・興味を持続させることができないことにある。大学入試の答案の恐るべき質の低下も指摘しても、教育学者も教育評論家も関心さえ持たなかった。問題の本質が理解できていないのである。『客観的に事実を直視し、その真相を看破しようという努力』が全くできないのである。したがって「総合的な学習の時間」にたいしても、「学び方を学ぶ時間である」という説明がされても、「学び方」と「学ぶ内容」がどのように関連してくるかが説明されない。いきおい、教科学習と総合的な学習とが対立するものとして捉えられてしまう。
   そもそも、教科に分かれて教育が行われているのはあくまで便宜上のことであり、知識は総合的に使ってこそ知識なのである。教科教育では総合的な観点は当然取り入れるべきであり、かつて教科教育はそのように行われていた。30年前の厚い教科書とページも内容も薄い現行の教科書を比べてみれば、現在の教育の問題点は歴然としている。本来、「総合的な学習」は教科教育のあらゆる場面で行われるべきことである。教科教育の衰退が結局は「総合的な学習の時間」を生かすことのできない事態を産んでいるのである。
   さらに問題なのはそれぞれの教科教育関係者が自ら高い垣根を作り、他の教科との協力体制を作るよりは、自己の教科の「利益」を追求していることである。「総合的な学習の時間」を「生活科」の延長で捉えようとする考えは、「総合的な学習」を狭く捉える結果となり、「総合的な学習」拡がりとの有効性をかえって狭めてしまうであろう。「学びを深める」ことがどのようなことであるか、教科学習と総合的な学習を二律背反的に捉えることをやめて、生徒の立場に立った議論が必要である。子供は20年後、30年後に社会の中心として活動しなければならないのである。そのために、学び続けることを保証する力をつけることが教育の役割である。
4. 教育の問題点
こうした教育の根本問題に関しては既に20年前に林竹二が指摘している。1983年7月に出版された林竹二著『教育亡国』の序文に次の文章がある。

『改めてわれわれは問うてみなければならない。日本に教育はあるのか。明白に、いまの日本に教育はない。日本は無教育の国になってしまっているのである。どうして日本は、この狂気と言うほかない世を覆う教育過熱のただ中で、これほど徹底した、教育のない国になってしまったのか。この問題にいろいろな角度から近づく作業は私の手に負えない。私はただ、敗戦後の日本がそれに民族の再生をかけた教育革命(追究されていたのは文字どおり教育の革命であった)がどのように進行し、またどのように挫折したかの足跡をたどることを通じて、日本の教育をとらえている病(放置しておけばそれは民族の死に至る病だ)の症状に探りを入れてみたいと思うのである。』

この20年間事態は悪化するばかりである。林竹二の言う「民族の死」は目前に迫っている。また、「学力低下」の問題とこの林竹二の指摘は同根である。受験に必要なものしか勉強しない、一切の疑問を持たずに、ただ問題の解き方のみを暗記する。そのような受験指導が教育という名前で大手を振ってまかり通っている。小学校時代からテストで良い成績をとることのみに関心を持って、学ぶべき内容に関して何の疑問も、ましてや感動も持たずに高校時代まで過ごしてきた大学生に、真に学ぶことの意味を教えることの難しさは想像を絶するものがある。学ぶには旬の時期があるということさえ初等・中等教育で忘れ去られている。中学校、高校低学年では簡単に学べることが大学生になって薹(とう)が立ってくると、簡単に学べなくなることがあるのである。
   しかも、大問題なのは学校間の競争、教師間の競争が奨励され、それが単に偏差値の高い学校へどれだけ入学させたかの競争になっていることである。教育が完全に崩壊している。それなのに、こうした競争が教育を再生させるかのような錯覚を社会が持ってしまっている。
   『教育亡国』の最終章のタイトルは「責任をもつ者は責任を取らねばならない」となっている。しかしこの日本の社会では残念ながら、責任をもつ者が責任を取ろうとしていない。そして子供たちはそれを的確に見抜いている。教育の歪みは、実は大人である私たちの責任不在の社会の歪みでしかない。教育改革の議論の中身から、子供たちの姿が消えて、自己の利益のため、自分たちの主義主張のための議論になっているのはその典型である。大人の都合だけで子供たちの教育が考えられている。小学校、中学校でゆっくり学習して高校で急激にたくさん学ぶことが必要とされる現行の学習指導要領は、教育そのものを否定しているとしか思えないものである。それだけでなく、学校そのものが、少子化でいかに生徒を確保するかに重点が置かれ、有名学校へ入学させたいという保護者のエゴイズムに迎合する。その結果、学ぶことを教えることなく、テストで良い成績をとる方法のみが重要視される。教育基本法

『第六条(学校教育) 法律に定める学校は、公の性質をもつものであって、国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる。
   2   法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その責務の遂行に努めなければならない。このためには、職員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。
第十条(教育行政)   教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。
   2   教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行わなければならない。』

で述べるように、学校教育は生徒と保護者のためだけにあるのではない。未来の社会を作る子ども達を教育する以上、国民全体にたいして、現在では世界のすべての人に対して責任があるという、一番大切なことが忘れ去られている。

『子どもが持っている大事な宝これは深いところに、しまいこまれているのが普通ですが、それを何とかして探りあてて、それを引き出すこと、掘り出すことが教育なんだということが忘れられて、一定のことを教えこんで、それをテストではかる。それで成績がいいとか悪いとかいうことにすり替えられてしまっている。それが教育の荒廃なんだというふうに私は考えてきているわけです。その教育の荒廃が極まっているという風に私は考えております』(林竹二、西南女学院短期大学での講演1980年11月23日 )

5. 「総合的な学習の時間」の問題点
現場の教師が実際に「総合的な学習の時間」を有効に使うことができるかどうか、またそのためには教育行政は何をすべきかなどが本格的に議論されることなく、何の準備もないままに導入されたことが一番の問題である。学ぶ楽しさを体験したことのない、自ら疑問を持つ時間が充分に取れない教師が「総合的な学習の時間」を有効に使えるはずがない。実際には、「総合的な学習の時間」を導入する前に、教師自らが「総合的な学習」を行うことのできる時間を設ける必要があった。現実は、特定の熱心な教師のみが活用できる時間になってしまっている。特定の能力を持った教師しかできないのであれば、そのような時間を導入することは教育行政として行ってはならないことであった。しかも、「総合的な学習の時間」でも、教育の内容よりは教育方法が問題にされている。内容のない方法論は教育の不毛を拡大するだけである。
   教師の多くが、教科の指導もままならない現状で、さらに「総合的な学習の時間」を活用する余裕はないと考えている。基礎基本の徹底が言われ、その一方で「総合的な学習の時間」を充実させなければならないとしたら、多くの教師にとっては時間的な余裕がないのが現実である。
   学ぶことは思いこみから自由になることであることを指摘したのは古代ギリシア人であった。私たちがどれほど思いこみにとらわれ、自由な考えから遠ざかっているか、プラトンの対話編は見事にこの事実を描いている。教育は先生が教えることではなく、子ども達の自由な発想を大切にし、共に学ぶ、学びを深める努力が必要である。「総合的な学習の時間」はそのために最適の時間であるが、現実は形式だけをまねて内容の伴わないものが多い。教師一人一人が、生徒共に作りあげていく時間にしていく必要がある。そのためには、教師がゆとりを持って教育に当たることができるように、教育行政は、人的財政的支援、学校図書館の充実など教育環境の整備を積極的に行わなければならない。
6. 総合的な学習の時間をどう生かすか
「総合的な学習の時間」を意義あるものにするためには、教師自らがさまざまな疑問を持たなければならない。教科学習は問題を解く手続きだけを教え、「総合的な学習の時間」では考えることが重要だと教えても生徒は混乱するだけである。教科学習と総合的な学習との間に本来、境界線はないのである。学校の現状、クラスの実情に応じて「総合的な学習の時間」を活用すべきである。そのためには、先生が自ら課題を求め自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよい「総合的な学習の時間」を作ることが必要である。「総合的な学習の時間」は先生の意欲が試されている。生徒の疑問に徹底的につきあうことが重要であり、ともに学ぶことが大切である。また、分かることと、分からないことを率直に生徒に話すべきである。教育の問題は個々の現場では先生の姿勢の問題であることが多い。生徒は恐ろしいほど先生を見ている。信頼できないと分かると荒れる。
   ところで、生徒が主役であることと生徒にすべてをまかせることとは違う。生徒の意欲(教科学習、総合学習には関係ない)は先生の教育に対する姿勢によって大きく変わってくる。
   しかし、こうした教師の態度は教育活動に余裕があってはじめてできることである。現場の教師に余裕を持たせる教育行政が行われないかぎり、教科学習も総合的な学習も効果が全く上がらないことを強調したい。教育行政は教育予算を増額し、教育現場への人的、財政的支援を飛躍的に拡大しなければならない。「現場の創意工夫でがんばれ」という精神主義は、かつて竹槍で飛行機と戦おうとした愚と同じである。鈴木大拙の警告をかみしめるべきである。
7. 提言
●教育にはお金と時間がかかることを国民に向かって丁寧に説明し、世論を味方につけて教育費予算の増額を実現する必要がある。(米百俵の精神はまさにこのことである。)
●週休2日の見直しを
   公教育には厳格に週休2日を適用し、私学が土曜日に授業を行うことを許すのはおかしい。各学校の判断にまかせるべきである。土曜日に授業を行う学校には人的、財政的援助を行う必要がある。
●学習指導要領の即時改訂を
   基礎・基本を身につけるためにはむずかしいことを学ばなければならない。これは江戸時代からの鉄則である。この鉄則が、現行の学習指導要領と教科書に根本的に不足している。たとえば小学校算数の内容は、江戸時代の寺子屋以下である。
   江戸時代を通してベストセラーであり、我が国の数学の力を世界一に導いた塵劫記(1627年刊)では、億の位の計算が必要になる文章題がたくさん登場する。江戸時代に億の単位の数は実生活では必要なかった。それにも関わらず、大きな数の計算を取り扱ったのは、そのことを通して計算の工夫を学び、その面白さを実感させるためであった。こうした、素晴らしい数学教育の伝統は、新指導要領には微塵も残されていない。兆の単位が飛び交う世界に住む子ども達が、二桁かける二桁の筆算しか学ばず、あとは電卓でというのは無責任きわまりない暴挙である。電卓で育った世代の英国人は、手持ちのお金でどれだけのものが買えるか、おおよその計算ができずに、スーパーでの買い物に苦労していると報告されている。
   また、基本教科の時間数の増加が必要である。基礎教科の充実なくして『総合的な学習』は実を結ばない。考えることを重視した学ぶ時間を増やすことが重要である。社会全体が複雑な21世紀では基礎的なことはできるだけ広く深く学ぶことが大切になってくる。そのような意味から選択科目は減らす必要がある。
●教育権を各学校の奉還を
   「総合的な学習の時間」は教育権が各学校に奉還されたが、これだけでは不充分である。教えるべき内容に関しては国としての最低限の基準を示し、それ以上は各学校に任せる、教育権を各学校に奉還すべきである。その際、文部科学省が行うべきことは、学校間の競争が進学競争にならないように監視、助言すべきである。
●二元論の克服を
「旧学力」か「新学力」か、「教科教育」か「総合的な学習」かという二律背反的な問題の捉え方から自由にならなければならない。基礎と応用は同時に学んではじめて意味を持つ。学ぶ順序や方法は教育現場にまかせるべきである。また、基礎の理解のためには進んだ学習が絶対に必要である。
●誤ったドリル中心主義に警告を
基礎基本を身につけるために反復練習が奨励され、たくさんのドリルをやればよいという誤解が拡がっている。しかし、易しいことだけを反復練習しても意味がない。教科書を越えた問題を解くことも必要ではある。しかし、むやみにたくさんやっても意味がない。勉強嫌いを増やすだけである。大切なことは、テストの成績を上げることではなく、分かることの喜びを与えるように、学習の質を高めることである。
●学校図書館の充実を
高校では学校図書館に専任の司書を置いている所が多かったが、司書が定年退職したときにその補充が行われないケースが多くなっている。「総合的な学習」の観点からも、読書の喜びを広めた目にも、小学校、中学校でも専任の司書教諭を配置し、生徒にきめ細かく対処すべきである。
●大規模学力調査の中止を
   9千万人以上いる我が国の有権者に対して世論調査のサンプル数はわずか3000か2000であり、回答率は7割前後である。それでもほとんど同じ調査結果が出るのは統計手法の進歩による。同様に、教育の状況を調査するのは少数のサンプルで十分である。学力調査の問題を使って学校間の成績競争をさせることは、愚かしさのかぎりであり、教育をゆがめるだけである。サンプル数は減らして、学力調査の頻度を上げるべきである。また、テストだけでは分からない学びの実態については学校の実情を把握し、必要な援助を行うことのできる体制を作るべきである。

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