わが国のユネスコ・スクールの経緯と現状

米田伸次(帝塚山学院大学国際理解研究所)

[1]わが国のユネスコ・スクールの経緯

 1953年、わが国は、ユネスコが「国際理解のための教育」を世界的に推進する目的で始めたユネスコ・スクール(UNESCO’s Associated Schools Project Network)事業に参加、わが国のユネスコ・スクール活動が開始された。以来、現在に至るまでの55年間のわが国のユネスコ・スクールの歩みを3期、すなわち、第1期(1953~1973年)、第2期(1974~2000年)、第3期(2001~2008年)に区分している。(注1)

 まず、第1期では、ユネスコの方針に堅実に沿い、ユネスコ・スクールの活動は、他国理解を中心にすえ、人権尊重、国際的機関の理解と協力という3本柱にしぼって進められ、1966年には、ユネスコ・スクール参加校は過去最大の29校(小・中・高・大学)を数えるに至った。また、「国際理解教育セミナー」の名で、日本ユネスコ国内委員会の主導のもとに、ユネスコ・スクール研究協議会も毎年開催されてきた。しかし、1960年代後半になると、次第にユネスコ・スクール活動に停滞のきざしが見えはじめた。その原因は、ユネスコ・スクール活動がマンネリ・パターン化し、また、理想・理念主義に陥り、国際や国内の厳しい社会の現実から遊離しているという批判を受けるようになってきたことがある。さらに、日本ユネスコ国内委員会の主導姿勢の後退などもあげられる。(注2)しかし、この第1期で注目すべきは、ユネスコ・スクールを中心に、国際理解教育研究会が生まれ、民間レベルでの自発的な国際理解教育の推進の動きがみられるようになってきたことである。

 第2期のはじめの1974年は、ユネスコだけでなく、わが国においてもユネスコ・スクールのみならず、国際理解教育にとっても大きな転換の年であった。この年、ユネスコは、「国際教育(略称)」勧告を発表、人権、平和を基盤にすえ、文化間理解や環境、開発問題などの世界的課題の理解と解決への具体的実践を強調した新しい「国際理解教育」を提起した。同年、わが国でも中央教育審議会答申が発表され、「国際社会に生きる日本人」の育成を目的にした国際理解教育が強調されることになった。ここでは、異文化理解、国際理解をキーワードに、具体的には、外国語学習、国際交流、帰国子女教育を中心としたわが国独自の国際理解教育が提起され、基本的にはこの教育は1990年代まで推進されてきた。こうして、1974年のユネスコによる「国際教育」の提起を契機に、わが国の国際理解教育は、ユネスコから一定の距離を置く結果となり、1970年代後半には、わが国のユネスコ・スクール活動は停滞から休眠の時代へと入っていった。しかしながら、この第2期において、とりわけ1980年代から、わが国の国際理解教育は教育行政によって積極的に推進され、著しい発展をみせていった。他方、この時期、ユネスコの「国際教育」勧告を遵守した国際理解教育の推進をという動きや、ユネスコ・スクールの再生への努力も一部の関係者の間で見られたが、十分な成果をあげることはできなかった。無論、「国際教育」勧告は、1982年、日本ユネスコ国内委員会編「国際理解教育の手引き」で紹介されてはいたものの、広く教育関係者には周知されることにはならなかった。とりわけ注目されるのは、この第2期、国際理解教育や異文化間教育、多文化共生教育、開発教育、環境教育、平和教育など「国際化に対応した教育」において多様化現象がみられたことで、教育現場ではそれらへの対応に困惑し、ユネスコ・スクールへの参加の余裕もなく、まして、参加への意義やメリットを見出すこともできず、国際理解教育の関係者においてもユネスコ・スクールへの関心はほとんど見られなかった。

  • (注1)「国際理解教育の理論的・実践的指針の構築に関する総合的研究」(日本国際理解教育学会、平成7~9年)
  • (注2)日本ユネスコ国内委員会編「学校における国際理解教育の手引き」(1971年版)

[2]わが国のユネスコ・スクール活動の現状

 ユネスコ・スクールの第3期は、2001年8月のACCU委託事業を受けて、帝塚山学院大学国際理解研究所が主催するタイ、フィリピンへのユネスコ・スクール活動視察団派遣から始まる。その背景には、ユネスコが1990年代より推進してきた「国際教育」を、ユネスコ・スクールを通して世界に普及させようとした2回の「ユネスコ・スクール-戦略と行動」(1999~2003年、2004~2009年)のアピールを、わが国のユネスコ・スクール再生への好機と受け止めた関係者の動きがあった。(注3)2004年3月には、こうした関係者と視察団派遣にかかわった一部の教員を中心に、第1回ユネスコ・スクールおよびユネスコ・スクールに関心をもつ学校・教員による「国際理解教育とユネスコ・スクールに関する協議会」が開催され、同時にこの「協議会」への参加者を中心に「日本ユネスコ・スクールネットワーク」が設立された。この年、視察団派遣に参加した教員の一人が所属する大阪教育大学附属高校池田学舎が、1971年以来33年ぶりにわが国では13番目のユネスコ・スクールとして加盟、同年、大阪の2つの高校も相次いで加盟した。「国際理解教育とユネスコ・スクールに関する協議会」は、2007年3月には第4回と積み上げられてきている。こうした動向のなかで、ユネスコ・スクールに加盟する学校も少しずつながら増え、2008年1月現在、24校に至っている。とはいえ、「日本ユネスコ・スクールネットワーク」に積極的に参加、ユネスコ・スクールの推進する「国際教育」を意識して取り組んでいる学校は、実質的には未だ10校余りを数える程度でしかないのが現状である。

 こうした第3期以来、ユネスコ・スクールの再生、推進に向けて取り組んできた中でいつも直面してきた問題は、著しいまでのユネスコ・スクールへの認知不足と無関心であり、それは第2期とほとんど変っていない。「ユネスコ・スクールに参加してどんなメリット、意義があるのか」をはじめとして、「あえてユネスコ・スクールに参加しなくてもこれまでも十分国際理解教育に取り組んできている」・・・などは教育現場での共通した声であり、依然としてユネスコ・スクールの受け止め方は消極的でしかない。まして、近年とみに著しい教員の校務の多忙化、総合的学習の退潮現象などもあって、既存の国際理解教育すら伸び悩みというのが現状である。(注4)

 ところで、第2期でも触れた、ユネスコ・スクール導入のブレーキの一つにもなってきた、「国際化に対応した教育」の多様化現象は、21世紀のグローバル化の現在でも依然として続いており、教育現場での多様化現象への困惑にも変りはない。勿論、こうした多様化現象を包括する新しい教育概念の提起も、今までにさまざまになされてきてはいるが、共通のコンセンサスを得られないまま現在に至っている。2005年、文科省は、「初等中等教育における国際教育推進検討会報告」を発表、従来の国際理解教育を国際教育という名称に置き換え、この教育をこれからのわが国の「グローバル化に対応した教育」として推進していきたい旨の提起があったが、この国際教育をもって現行の多様化現象の包括的概念としてとらえるには問題もあり、教育現場だけでなく関係学会のコンセンサスを得ることは難しいであろう。

 一方、ユネスコは、1974年「国際教育」勧告、さらには1990年代の新しい「国際教育」の提言を踏まえ、1990年代後半から、ユネスコ・スクールを通してこの教育の国際的な普及化を意図し、ユネスコ・スクールの教育活動の主要テーマを提示し、現在に至っている。こうしたユネスコの動向を受けて、わが国でも、ユネスコの提示したテーマを参考に日本ユネスコ国内委員会においても「ユネスコ・スクールと国際教育」を提示しており、こうした指針を参考にして各ユネスコ・スクールは、地域、学校、児童・生徒の現実に合わせて柔軟にユネスコ・スクール活動を展開しつつある。

 2000年代に入ってユネスコがESDの推進を担うようになったいま、ユネスコは、今までユネスコ・スクールによって推進してきた「国際教育」をESDに収斂させ、ESDを新しい包括的な21世紀の「国際教育」概念としてとらえるべく模索している。しかし、わが国の教育現場では、ユネスコ・スクールだけでなく、ESDに対しても関心は極めて低いのが現状である。ESDを提起したわが国が、「ユネスコ・スクールを通してESDを」「ESDを基本にすえたユネスコ・スクールを」とユネスコ・スクールの推進と発展を意図し、ESDを包括的な「21世紀に対応した教育」の概念としてとらえ、わが国のユネスコ・スクールの成果を積極的に世界に発信していこうとするのならば、早急に理論的構築に取り組み、教育現場で実践することのできる取組体制と具体的な実践の内容と方法を提示していくことが喫緊の課題である。

  • (注3)帝塚山学院大学国際理解研究所紀要「国際理解」31号(2000年)、35号(2004年)
  • (注4)「グローバル時代に対応した国際理解教育のカリキュラム開発に関する理論的・実践的研究」(日本国際理解教育学会、平成15~17年)