34年ぶりに東京・国立競技場で開催された世界陸上は、国立競技場を満員にしただけでなく、視聴率も連日2桁を超え、文字どおり日本中を熱狂の渦に包みこんだ。大会の運営を担った東京2025世界陸上財団は、「多くの人々に夢や希望を届ける」、「今後の国際スポーツ大会のモデルを示す」をミッションとして定め、一丸となって大会準備を進めた。ミッションには、「陸上やスポーツの魅力と価値を世界へ広める」、「スポーツの原点に立ち返り、シンプルな運営などを通じた持続可能な大会を目指す」、「スポーツの根幹であるフェアネスを体現した信頼される組織をつくる」などの思いを込めた。その実現に向け、組織運営面では、従来の国際スポーツ大会の運営とは一線を画した「東京モデル」を掲げ、マーケティング等においては、新たな枠組みを示した画期的な大会となった。そこで、運営実務のトップを務められた武市敬事務総長に、東京2025世界陸上の成功の要因と舞台裏、そして東京2025世界陸上がつくり上げた新たな世界基準「東京モデル」の詳細についてお話を伺った。

【「東京モデル」の礎となる透明性とガバナンス】
東京2025世界陸上は決して順風満帆な船出ではなかった。開催決定と時を同じくして、東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会を巡る不祥事が世間を騒がせ、次なる国際大会運営への信頼が揺らいでいたからである。不祥事発覚から1年後の2023年に世界陸上財団が発足し、事務総長に就任した武市氏は当時をこう振り返る。「ここでまた不祥事が起きたら、東京で二度と国際大会が開催できないのではないか。」その危機感が、情報公開とコンプライアンスの徹底、ガバナンス確保の原動力となった。
定款・規程は全てホームページ上で公開することで透明性の確保を徹底した。中でも調達プロセスの透明性確保には細心の注意を払い、審査手続きについては東京都よりも厳格に行い、「発注先が定められた内容を確実に履行すれば問題が発生しない」状態を維持するため、基盤となる仕様書の策定に注力した。また、日本の国際スポーツ大会の運営組織では、これまで民間企業に在籍する専門知識を有する出向者を企業側に費用を負担してもらい受け入れてきたが、東京2025世界陸上ではコンプライアンスを徹底するために、そのような人材は求めず、世界陸上財団の費用負担による直接雇用を原則として東京2020大会の経験者等の人材確保を進めた。加えて、財団の最高意思決定機関である理事会は2年余の間に30回以上開催。理事会に諮らない案件も、重要なものは規程に基づき事務総長、事務次長に判断を仰ぐことを徹底しガバナンスを確保した。
こうした信頼を取り戻すための仕組みづくりの努力が、新たな国際スポーツ大会のモデルである「東京モデル」の礎となった。
【東京2025世界陸上を成功に導いた戦略と実践】
国際スポーツ大会を開催するには多額の運営費が必要であり、スポンサー獲得やチケット販売戦略が非常に重要となる。武市氏をはじめとする世界陸上財団の職員は、透明性・公平性を担保したスポンサー制度の設計に頭を悩ませた。
最終的には、「これまで行われてきた手法とは大きく異なるが、この方法しかないと判断した」として公募・入札方式を採用。これにより、契約内容も仕様書に明記・公開されるため、透明性が確保されることとなる。スポンサーを公募・入札方式で募集することは世界的にも珍しく、武市氏自ら多くの企業を訪問し、丁寧に説明することで理解を得る努力を重ねた。その結果、当初計画を10億円も上回る40億円の協賛金・寄付金が集まり、「東京モデル」として新たなスポンサー制度を確立した。
また、チケット販売では、何よりPR戦略が鍵を握っていた。「2年前に事務総長に就任した際、2025年に東京で世界陸上が開催されることを知っていたのは、スポーツ関係者や東京都職員など限られた人たちのみだったのです。」と武市氏は語る。
「世界陸上のPRにはこの人しかいない」と名前が挙がったのは俳優・織田裕二氏。さらに、パリ五輪などの世界大会で活躍した北口榛花選手やサニブラウン・アブデル・ハキーム選手ら、5名のアスリートアンバサダーが大会の顔となり、SNSやメディアでの露出が増えたことは、チケット売り上げ増への追い風となった。加えて、従来の国際スポーツ大会ではチケット販売戦略を広告代理店に一任することもあったが、東京2025世界陸上では世界陸上財団を中心に、日本陸上競技連盟や知見を有するスポンサー企業と協力して戦略立案をした点が特徴的だ。パリ五輪男子100m決勝の日からチケットを販売開始する等、陸上競技の節目のポイントを押さえたスケジュール設定が光る戦略であった。
また、世界陸連が作成した競技日程には、日本陸上競技連盟への事前ヒアリングの結果が反映されており、特にイブニングセッションの見どころが各日に分散していたことが、チケット販売を後押しした。こうして歯車がかみ合い、東京2025世界陸上は熱狂を生み出した。

【東京2025世界陸上が示したスポーツの未来と「東京モデル」のレガシー】
東京2025世界陸上が打ち出した「東京モデル」の本質は、「未来に向けた国際スポーツの新しい世界標準」を確立することであり、その内容は単純なスポーツ大会の運営だけにとどまらない。武市氏は「ただ大会を開催しただけでは意味がない」と強調する。東京2025世界陸上では、東京都が策定した「ビジョン2025」を踏まえ、開催準備の初期から東京都とも連携し、大会を通じてレガシーの創出に向けた取組を進めた。スポンサー企業と協力した環境配慮施策や観客も含めた暑さ対策に加え、未来を担う子どもたちが参加できるアクティビティや観戦プログラムを用意することで、サステナビリティと社会的価値創出の実現を目指した。つまり、スポーツができる環境を未来に残し、その価値を次世代につなげられるように取り組んだのである。「見ていてワクワクする、希望を持てる大会を実現したかった。」という武市氏の言葉どおり、東京2025世界陸上はスポーツの力を人々に再認識させる場となった。しかし一歩間違えれば、せっかくの大会の価値が失われてしまう。そのため、透明性やガバナンスの確保、コンプライアンスの徹底など「ひと手間をかけることが大切である。」と武市氏は語る。地道な努力の大きな積み重ねによって、東京2025世界陸上は成功を収めたのである。
東京2025世界陸上は、透明性・公平性・社会価値創出を同時に可能とする、新しい大会運営の形だ。この成功は、日本において今後、国際スポーツ大会を開催する際に、一つのモデルとなる好事例であり、そして世界に継承されるべきレガシーである。
(聞き手:EYストラテジー・アンド・コンサルティング株式会社=神野・中山)
【インタビュー協力者】

武市 敬
公益財団法人東京2025世界陸上財団 事務総長
東京都において、2016年オリンピック・パラリンピック競技大会の東京招致に携わったほか、港湾局長、財務局長などを歴任。2020年に東京都副知事に就任。2023年より、現職である一般財団法人東京都人材支援事業団理事長、公益財団法人東京2025世界陸上財団事務総長などを務める。