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21世紀の社会と科学技術を考える懇談会
―  第3回会合 議事録  ―

1.日  時:平成11年5月26日(水)  10:00〜12:00

2.場  所:科学技術庁 第1、第2会議室

3.出席者:

  (委  員) 井村、石塚、吉川、村上、廣田、雨宮、今井、宇井、クリスティーヌ、小出、後藤、佐々木、中島、松尾、丸島、安井、米本、鷲田の各委員
   大崎政策委員、平石政策員、藤野政策委員、矢田部政策委員
  (事務局) 科学技術庁 崎谷審議官  他
   文部省 工藤学術国際局長  他

4.議  事

・座長  本日は、大変お忙しい中を多数の方がご出席をいただきましてありがとうございました。まず最初に、今回初めてご出席をいただいた方に自己紹介も兼ねて、特に21世紀の社会と科学技術という課題に対するお考えをお話いただこうと思っている。

・委員  私どもいろいろ物を考えるときに、単語をたくさん集めてみて、検討するというようなことをよくやる。20世紀を代表する単語というものは何だろうか、21世紀を代表する単語は何だろうか。経済の問題でいうと、高度経済成長というものが20世紀だったら、21世紀はゼロ成長かマイナス成長か安定成長かということになるだろう。産業構造でいうと、大量生産、大量消費、大量廃棄というようなことから、もっと適正規模で物を考えなければいけないということになっていくだろう。
  また、エネルギー問題でいえば、大規模集中型というところから小規模分散型という方に移行していくのではないだろうかとか、地下資源を外国からたくさん買い集めてきたわけだが、それも限界にくるということになれば、日本国内にある資源をどううまく利用するか、リサイクルというようなことも含めて、循環を考えなければいけない。それから、社会構造でいうと中央集権型から地方分権にいくだろうし、情報の流れも垂直型から、水平型に変わっていく。意思決定も、民主的独裁というような形ではなくて、コンセンサス重視になる。環境問題でいえば、それは言うまでもなく保全ということが何よりも優先されていくだろう。医療の分野でいえば、治療、キュアーということから、重点がケアとか予防というような方に移っていくに違いない。日本人というよりも、地球人というような規模で物を考えなければいけなくなるのではないかとか、金回りがいい国ということで尊敬されるよりも、本当の意味で、人間として尊敬される国にしなければいけない、このようにいろいろなことが、言葉として一括りで出てくる。それが、これからの世の中の一つの目標ということになっていくのではないか。そういう中で、科学技術というものも考えてみたいと思う。
  特に、私は安全の視点ということ、これはリスクベネットということになると思うのだが、単に科学技術だけの問題ではなく、経済とか環境、あるいは政治、法律、制度、人々がどう受けとめるかというような問題、それから国際関係というようなことも含めて、要素だけではなくて全体の関係としてとらえる。そういう中での安全問題ということに、興味を持っている。もう一つは人材の再生産ということである。どうも、豊かさの中で、学校だけではなくてあらゆるところで人材に関する問題が起きてきて、世の中これではどうしようもないという形になってきているわけだが、やはり原理原則をしっかり踏まえた上での人材再生産ということを、科学技術の中でどういうふうに考えていかなければならないか。特にそういった2点を、大変関心を持っている。

・委員  私は今、学術会議会員3期目で第5部工学の副部長をしております。箇条書き的に申し上げます。
  第1点は、21世紀に向けて既存の学術分野の見直しがぜひ必要だということである。これは、大学などでは特にそうだが、研究分野では従来のディシプリンを固定的にとらえ過ぎているという点がある。
  第2点目は、これはいろいろ言われていることだが、20世紀の特徴として、自然系の科学技術の非常な発展と、そのパラドックスとして、負の遺産を多く生んだ。科学技術が発達したから高度技術社会が実現したわけであるが、負の遺産を非常に多く生んだ。これは、工学の分野では反省が非常に大きくて、私の言葉で言うと、文理連携とか、文理融合型の学術分野の必要性、吉川先生の第17期の活動の基本的方向の中での言葉で言うと、俯瞰型の学術分野の必要性ということになる。これはぜひとも必要である。しかし、同時に、やはり領域分野の発展も、ぜひとも必要であって、あわせての進歩が重要と考えている。
  そういう意味で、第3点目に先端性と調和ということを申し上げたいと思う。自然系の科学技術の進展がなければ、21世紀に残っている環境、エネルギー、資源、食糧、人口等々の問題に対して、何一つ解決をすることはできないが、同時に調和ということを、私はよく申し上げるのだが、20世紀に失ってきた人間性とか、あるいは日常生活における感動、そういった喪失したものを取り戻し、これらとうまく調和したような科学技術の進展が必要であろうかと思う。
  それから、国民の最大の関心事は、ただいまも委員が申されたが、経済もさることながら、安全で安心できる社会というものが第1番だと考えている。これは、国民にとって非常に大きな期待であり、同時に不安でもあると思うので、例えば防災の科学技術とか、生命科学技術、こういったものが非常に重要になると思う。そこで、やはり倫理が大きな問題になってくるだろう。最近は特に学術会議でも、技術とか技術倫理ということが大きい問題となっているが、現在は科学技術という時代で、科学と技術が表裏一体融合した時代になっているので、科学を含めた科学技術に関する倫理、こういったものが非常に大きな問題になってくると思う。
  それから、これは今後内閣府に置かれる予定の総合科学技術会議の任務にも含まれているが、日本語で「科学技術」という場合には、人文社会学系を含むということを幅広く合意しなければならない。英語で「サイエンス」と言っていることと、日本語で「科学」と言っていることは随分違うということで、日本語の「科学技術」でやっていくという合意が必要であろう。そういう意味で、この懇談会としては、総合科学技術会議が備えるべき要件の整理を行って、よい提言がなされることを期待しているし、特に科学技術の政策としての戦略性、これは欧米と異なる日本独特の戦略性といったようなものを提示することが必要ではないだろうかと思っている。

・政策委員  学術の方の専門分野で申しますと、スペクトルスコピーが専門で、大学や通産省の研究所でその分野の研究をしてきました。ただ、40代の後半からマネージメントの方を担当しましたので、今専門のことを申し上げても、余り意味がないような状況かと思います。
  お手元に、「科学技術研究開発に魅力のある国」ということが書いてある資料をお配りしているが、これは私自身が、科学技術の世界をどういうふうに整理しているかということを示したもので、私がいる現在科学品検査協会というところに毎年入ってくる20名弱の新しい人に、自分たちのやる仕事の位置づけを説明するためにつくったものである。そこで言うと、知的基盤というところに相当する仕事を、私どもは中心にやっている。
  科学技術の世界全体を見ると、四角で囲んだ全体のバランス、今どこが日本の現状として不足しているか、どこが問題かというところをよく見る必要があって、その中で、先に新しい展開をしていく、新たに発展していくためにどこを突破口にするかということをよく議論する必要があるのではないかと思っている。
  個人的な印象としては、この絵の中で、下の方にいくほど手薄になっているという印象であるが、本日配布された第1回、第2回でのご意見を見させていただくと、やはりそこの科学技術政策あるいは科学技術そのもののフィロソフィーをどう考えるのか、あるいは倫理のことをどう考えるのか、社会とのつながりをどう考えるのかというあたりのご意見が出ているようなので、私もその辺は同感である。
  一つ、つけ加えさせていただくと、これから21世紀の日本は人口の減る時代なので、科学技術を担当する若い人たちの数も必然的に減っていくという状況になるかと思う。その中で、一体どう考えていくのか。人材の問題、量の問題、どういう分野あるいはどういうパブリックセクターあるいはプライベートセクターがあるかと思うが、そういうところでのマンパワーの配置の問題。それから、さらに言えば人材の質の問題、これはやはり非常に大事ではないかと思っている。個人的には、私は教育の方を担当したことは、若いころちょっとだけやったことがある。余りそちらの方を真剣に考えてきたことはないが、やはりこれからの日本の科学技術を考えると、人材のところは非常に大きなファクターではないかと考えている。

・政策委員  私は、現在はマネージメントの方を行っていますが、いまだに研究をある程度は続けています。
  それで、最近つくづく思うのだが、随分昔の製薬のtechnologyと最近は随分変わってきている。私どもがインターネットで見れる遺伝子情報というものは、染色体の遺伝子に関しては、現在のところ、トータルの13%くらいである。そういうものをずっと調べていくと、例えば生理活性物質のレセプターと考えられる、ジープロテンカップルのレセプターと考えられる遺伝子なのか、全然リガンドがわからないものが200くらい、もう既にある。そうすると、同じようにずっと配分されて遺伝子の中に存在するとすると、わかっていないものが2,000くらいは存在しているということである。
  それで、今までの教科書に書かれていることというのは、本当にわかったことだけでつなげてあって、実際には、遺伝子に関係したものでも、それの大体10倍くらいわからないことがあるのではないかと推定されて、現在のところ、私どものグループでは、その辺のところを取り組んで一生懸命やっている。オーファンレセプターのリガンドなどというものをやっているが、そういう点から一歩進んで、最近は、例えばヨーロッパのグラクソーなどという会社が中心になって、SNP、スミップスと言われているが、それぞれの遺伝子を1個ずつ違うものをどんどん探して、それを医療のターゲットとして登録していこうという動きが大変盛んになってきている。それで、組合みたいなものをつくって、現在10社くらいがそれに加盟してやっていこうということなのだが、そういう点で、日本は大変におくれているように思う。
  これは、とりわけ企業ではなかなか難しい問題があり、人の組織なり、血液なりを集めること自体が非常に困難である。これは、国が絡んでやらないことには、とてもじゃないができる問題ではないと思う。
  それで、21世紀の医療というものは、そういう点から考えると、先ほど委員が言われたように、治療というよりも健康をどう維持していくかという点にフォーカスが当たってくると思われるので、それと遺伝子との情報とのかかわりということが、本質的に非常に大事になってくる。
  そうなってくると、そういうものをやることは“science”ではなくて“technology”なわけで、これをどういうふうに大がかりな解析業務、その他をやっていくかというのは、相当こういうところで討論してもらわないと、なかなか難しい問題ではないかと思っている。
  それぞれ皆さんのご意見を聞きながら、私どもも、いい薬をつくるための何かターゲットを考えていきたいと思っている。

・政策委員  昨年まで日本学位振興会で働いていました。
  日ごろ考えていることをごく手短に、3点ほど申し上げたい。
  科学技術政策を考えるのには、いろいろな側面があると思うが、この懇談会のテーマは、社会と科学技術ということである。社会と科学技術との関係の中心的問題の一つは、科学技術の成果の享受あるいは使用、消費者としての社会と科学技術の成果生産者としての研究者あるいは研究機関の活動との関係ではなかろうかと思う。
  これまでの科学技術振興の流れの中で、何となく物足りないと思っているのは、科学技術の成果の消費者、使用者側が、抽象的にはいろいろ言われるが、具体的に何を求めているのかということが、はっきりした形では提示をされていないことである。もちろん、研究面で生産者と消費者がそんな截然と分かれるわけではないが、もっと賢い消費者になっていただくたためには、生産者と消費者が力を合わせるという努力がもっと必要ではないか。
  この点は、国民生活の質の向上という課題では、余り問題がないと思うのだが、産業技術というようなことになると、やっぱり骨太の産業政策というものとのかかわりで、そういうものが出てこないと、研究者サイドも違うのではないか。もちろん、研究が思いかけざる展開で発展するという可能性は常にあるので、それを否定するわけではないが、やはりユーザー側の注文というものをもっとオーガナイズしていただくということが、どうも必要ではないかという気がしている。
  第2点目は、国際協力、国際競争という面で、科学技術をどう考えるかということが重要だと思う。その際、一つは、これは好むと好まざるとにかかわらず、各国とも科学技術政策で国際競争力の強化ということは掲げているわけで、先ほどのユーザーの注文ということとかかわるわけだが、そこがはっきりしないと、どこで国際競争力を高めるのかという戦略を立てられないのではないか。
  国際協力の場合には、アメリカ、ヨーロッパと肩を並べて日本も同じ貢献をしようということで、各分野において大変な努力をしておられる。日米欧3極といったような考え方で、すべての分野で一流プレーヤーになるということを今後も目指すのかどうか。やはり、日本は日本としての得意技でもって貢献をするというような戦略が必要ではないか。イギリスの政策文書などを読んでも、自分の得意な分野、国際的に優位な分野を重視するというようなことも、一つのターゲットになっている。そういう考え方もあるのではないか。
  それから、第3点目としては、科学技術政策において常に組織性、計画性あるいは産・官・学、相協力し一致して研究を推進することの重要性が説かれてきた。重要なことだと思うが、ただ、いわゆる研究動員的な手法というものが、成功する分野とやってみても結果が大して思わしくないという分野とが、両方あるのではないか。戦時中の話をするのは恐縮だが、かつて学術振興会に研究委員会制度というようなものがあって、研究の組織化に貢献したこともあったが、そういう成果を見ても、何でもかんでもオーガナイズして、組織的に進めていけばいい成果が上がるのだというものではない。明確な目的と計画を持てる、しかも巨大な経費を要するプロジェクトと、スモールサイエンスの振興というものは分けて、研究動員的な進め方をするものは、充分練り上げたものに限定することが必要ではないか。
  それに関連して、科学技術振興というと、どうしても研究費、つまりプロジェクト研究の研究費のフローでもって振興しようということが先立ち、その基盤形成というところは金も人も要るので、なかなか進まない。やっぱり基盤形成はしっかりやっていくことが重要である。これも、素人考えだが、例えばゲノムの問題なども、本格的にやろうとすれば、しっかりした定員と組織と設備を持った拠点が、まず基盤としてあった上で、各方面でのプロジェクトが進んでいくということが望ましいと思うが、いろいろなプロジェクトが平行して走っているというような印象が強い。
  そういう基盤整備をやるべきところはやる。それから、あわせてCOEの形成というものは、個々のプロジェクトにかかわりなく、そこははっきりと明確な目的意識を持ってやっていくというようなことがあって、初めてそのプロジェクトの金が生きるのではないか。

(事務局より、  配布資料3−3「委員からのコメント」 を朗読。)

・座長  それでは、次の議題に進ませていただく。
  前回のこの懇談会の後で、幾つかの新しい動きがあった。その一つは、中央省庁等の改革法案の問題。それから、もう一つは科学技術に関する日米対話という問題が出てきた。

(事務局より、配布資料3−4、3−5について説明。)

・座長  今の2つの問題。一つは、議会に提出された内閣府設置法案の中における総合科学技術会議の位置づけの問題があり、もう一つは日米首脳会談で突然出てきた社会と科学技術という問題があるが、何かご質問等があればお伺いしたい。この懇談会とは、両方とも直接には関係がない問題だが、特に後者の方は、かなり差し当たっていろいろここでの成果を反映できるようにしていかなければならないと思っている。(特に質問はなし)
  前回のこの会で、委員から出されたご意見であり、科学・技術、すなわち“science”と“technology”なのか、それとも日本語で科学技術と詰めて言うが、その科学技術で正しいのかということだった。これについては、最初からここで議論をすると、また永遠と2時間あってもまとまらないと思うので、まず事務局の方で、これに関する意見をまとめてもらった。

(事務局より、  配布資料3−6 について説明。)

・座長  今の説明の通りで、前回の委員の話の中には、科学技術と一つの言葉で言ってしまうと、何か科学という部分は技術のための科学という雰囲気があるのではないだろうかと。だから、本来は科学・技術ではないかというお考えであったと思う。
  これは歴史的に見ても確かにその通りで、科学と技術は全く別々の発展過程をとってきたわけだが、現在になると科学と技術が相互に非常に密接に関係し合う、融合した領域ができてきている。今、「すばる」の話も出たし、先ほど政策委員が遺伝子の話をされたが、この辺も遺伝子の知識が進んでいくと、今度はそれを極めて簡単に検査をする技術が出てくる、それがまた新しい学問領域を生んでいく。そうなっているので、科学と技術それぞれ別々の歴史を持ってきたが、現在では非常に広いスペクトルを持ったものであると考えて、科学技術というものの定義をしてはどうだろうかというのが事務局の案である。

・政策委員  私も、たしか前に見たような記憶があるが、広辞苑には科学技術という用語では出ていない。科学技術という言葉はいつできたのかというのは私も個人的に関心があったが、なかなかわからず、科学技術庁ができた時点からかと思っていた。最近、大淀先生という大阪工大の先生がお書きになった「技術官僚の政治参画」(中公新書)という本を拝見すると、昭和14〜15年ごろに使われ始めた言葉のようである。当時の状況から、科学及び技術を積極的に、計画的に推進しなければならないという動きが起こった。当時商工省が技術の推進は責任を持ち、文部省が科学の責任は持っていた。しかし、文部省の科学の仕事と商工省の技術の政策とでカバーし切れないものがあるのではないか、そこが今大事になっているんだということで、科学技術何とか要綱というようなものができた。それが、どうも「科学技術」という用語の初めだということである。科学技術庁の誕生もそれにかなり似たところがある。
  「科学技術」という用語が日本で普通に使われるようになった経緯は、多分その大淀先生の説が正しいのかなという感じがしている。
  それを今の時点でどういう文脈で使うかというのは、また別な話だとは思うが、ただ、科学技術を「科学」と「技術」“science and technology”だと言い切ってしまうと、やはり「科学技術」という言葉が持っている、ある色合い、色彩というものが薄れていくのではないか。それで、片方で学術ということがあり、片方で産業技術とか、何々技術とかということがあるときに、科学技術というコンセプトが果たす機能を考えると、中黒をつけた方がいいという御意見には疑問があある。やはり“science  and technology”という2つのものを意味しているんだということではカバーできない、ニュアンスがあるような気がする。

・委員  非常に簡潔に申し上げるが、日本語のよくできるアメリカ人が科学技術という言葉に接したときに、英語ではやはり“science and technology”、“and”という接続詞を使って2つのものをつないでいるというニュアンスがどうしても消えないのを、科学技術という言葉を使っているということは、やはり我々の言語の中にもそういう概念が欲しいんだということを言ったのを聞いた。
  実際、今、例えば英語ではSTとひとまとめにして表現したりするときには、どちらかというと日本語の、今委員の言われたような意味での科学技術を指したいとき、あるいはテクノサイエンスというような言葉を使う人も出てきているようだが、何とかして日本語の科学技術に相当するものを、例えば今は英語の話だが、英語の中でも打ち立てたいという動きもないわけではないと思う。
  ただ、歴史的に見れば“science and technology”という概念は、彼らの中にもずっとあるんだろうと思う。

・座長  この懇談会としては、科学・技術というのはとらないで、やはり「科学技術」という言葉でやっていってはどうだろうか。その意味は、先ほど申し上げたように、もちろん歴史的な背景も踏まえ、そして現在でも純粋な科学、純粋な技術もあるが、しかしその中で、今委員が言われたように「科学技術」と表現する方がより適切な分野もどんどんと広がってきている。そういう非常に広いスペクトルのものを全部、科学技術という言葉でとらえて議論をしていくということでよいだろうか。何か異論があればお伺いしたい。

・委員  異論というわけではないが、日本語では科学技術と言えば、下にある技術の方が重くなる。だから、科学技術で中黒をつけるということは、むしろそれをすくいたいという気がある。だから、まだその方がましだというぐらいになる。
「科学技術」というように一言で使うんだったら、かなり注釈というか、それらの合意をしておかないと、常識的に言えば日本語だったら上は形容詞にすぎなくて、下が主になるという厳然たる日本語のルールがあるのではないかと私は思う。

・座長  それは、恐らく一つには歴史的な背景もいろいろ絡んでくるだろうと思う。だから、私個人としては余り中黒を入れるか入れないかの議論はここでしたくないのだが、ただ1つ考えることは、徳川末期から日本が西欧の科学技術をどのように受け入れてきたのか、そういうことと非常に関係があるように思う。
  徳川末期は、ご承知のように蘭学だが、オランダのことを勉強したのは医学ないしは技術を勉強するためにやったわけである。それから、明治になると和魂洋才という言葉があったわけだが、西洋の考え方は余り学ばないで、洋才の技術的なことをどんどん学ぼうということになった。そういうことから、先ほどから説明があったように非常に日本は工学の方が広がってきたということにもなるわけで、今委員が言われたのは、そういう日本の歴史とも関係があるのではないかという気がする。
  だから、例えば工学と理学の学生比が日本では工学の方が7〜8倍あるが、世界でそんな国はない。そのことでも明らかなように、明治以降、主として技術の導入ということを中心に西欧化してきた。そのことは、今もう一遍ここで振り返ってみて、我々は大いに反省する必要があるのではないかだろうかということは考える。

・委員  「科学技術」という四文字熟語は、どの辞書を見ても出てこないことは事実であるが、もう既に法律にも使われているし、市民権を得た言葉であろうと思う。その意味するところは、科学技術の四文字を続けて言った場合であっても、心はやはり中ポツが入っており、科学と技術であると思う。だから、内容的には人文科学の意味も入っていると認識するという尾身先生の解説の通りかと思うが、これはまた科学技術庁設置法あるいは科学技術会議の設置法、あるいは最近の科学技術基本法の中でも全部、科学技術というものの対象から人文科学のみに関するものは除くということで、日本の科学技術政策あるいは科学技術を振興するに当たっては、その対象からは人文科学を除くと、そういう歴史がもう既に40年以上経過しているわけである。
  そういうことから、人々が受ける印象というのは、自然科学を対象とするのが科学技術ではないのか、そういう用い方をすることがしばしばあると思う。しかし、本来この四文字の持つ意味は人文科学も含んでいる。別の見方をすれば、前述の3つの法律の中で科学技術の対象からわざわざ「人文科学のみを除く」と断っているのは、そもそも科学技術の中には人文科学が入っているから除いたということかと思う。
  それでは科学技術基本法でなぜ人文科学のみに関するものを対象から外したか。これも、先ほどの尾身先生の解説の中に書いてあるが、人文科学も自然科学も非常に重要な振興すべき分野ではあるが、それぞれ非常に性格が違うので、振興を図る上で同一に扱うわけにはいかない。それぞれ別の振興の仕方があるだろうということで除いてある。しかし、決して人文科学を軽視するということではなくて、人文科学と自然科学のバランスをとった振興を図る必要があるということを、第2条で言及しているということで、科学技術基本法案の議論ではいろいろなディベートがあったのではないかと思う。

・委員  科学と技術の間にマルポツを入れるから、みんなそれがネックになるのではないかと思う。どうも日本人の感覚というのは、循環とか関連とかというものに弱い、一個一番主義みたいに、1つずつ取っていって両方併記みたいになっている。すごく難しい感覚を持っている部分はあるとは思うが、車の両輪とかという言葉はあるが、どっちかを上にしようとか、下にしようとかという形になってしまう。いろいろな面で両論併記とか、そういう言葉も、言葉のみならずそういう手法も出てきたし、もっと言えばそれの関連性、だから生物多様性なんかでも、生物多様性だけではなくて、少なくとも自然界には循環があってお互いが関連しているということを考えると、科学という言葉と技術という言葉の間は、イメージとしては方向指示器の「行ってこい」だと思う。だから、マルポツという考えしかないことがちょっと不毛かなという気がして、「行ってこい」がないイメージというのをつくっていけばいいのではないかと思う。

・委員  日本語の議論なので私は余り参加はできないが、何となくお話を聞いていると、英語で言おうとしていることは“science and science technology”、それと“technology and  technological science”を一つの言葉にしたいという印象を受ける。科学技術という言葉が辞典に載っていないということが一番お話に出てきているようだが、辞典に載せたらどうか。こういう意味がある言葉であるということで、英語のウエブスター辞典でも、新しくできてきた言葉がよく使われるようになって社会で認識されると、もうすぐに載せるわけで、日本語でも今まで科学技術というものがもう浸透しているわけで、それがどういう意味なのかということを説明するように辞典に載れば、みんなが納得するのではないかと思う。

・委員  短く言うが、工学の方ではこの問題はもう何度も何度も議論しており、あちこちにいろいろ書いているが、例えば、そこにいらっしゃる委員の先生と、10年ほど前の8大学の工学部長懇談会でもこの問題は非常に議論して書いた。それから、学術会議の第5部工学でも相当な時間をかけてやった。
  結論は、座長がおっしゃるのと同じことなのだが、要するに先ほど私が最初申し上げた科学技術という日本語でやろうということ、これが大事である。そこには、人文科学とか社会科学と呼ばれるものも入っているので、そういう意味では元来、科学と技術というものは生い立ちも何もかも全部違うが、現在定着している科学技術というような言い方ではそれは表裏一体になっている。もう引っついている、融合している。つまり、委員がおっしゃった通りなのだが、非常に高度な技術(例えば宇宙工学)が新しい科学(例えば新物理学)を発見して、それがもう旬日を置かずに次の技術に適用されていく。そういうことを含めて、科学技術の間にコンマを入れたり、中黒を入れたりせずに呼ぶことにしようと、こういうことで大体合意がなされているのではないかと思っている。

・座長  私がちょっと申し上げた、後の問題は、明治以来の日本の歴史というものを一度振り返って、我々が西洋の科学技術を受け入れてきた過程でどういう問題点があったかということは明らかにする必要があると思っているが、ただ、ここで議論をしても非常に長い時間がかかるので、できれば少し小さなワーキンググループでもつくって議論をしていただいて、まとめをここに出すという形がいいかと思っている。

・座長代理  結構です。

・座長  では、それはまたお任せいただいて、今の皆さんのご意見も踏まえながら、この懇談会が「科学技術」という言葉をどう考えるのかということと、日本の科学技術の過去100年余りの歴史の中で、どういう点に問題があったかということを少し整理してみたい。そして、次の世紀に向けて重要な点はどこで、どういうことに力を入れていかないといけないのかということを考える基礎にしたいと思っている。
  それでは、次に、今日はお2人の方から意見発表をしていただく予定をしている。お1人15分ずつぐらいで続けてご発表いただいて、まとめて議論をしていただくということにしようと思う。
  まず、委員から「21世紀の産業と科学技術について」ということでご意見を伺いたいと思う。

・委員  「21世紀の産業と科学技術」というタイトルで私見を述べさせていただきます。お手元にキーワードだけを列挙した資料を3ページ配付しているので、それに従ってお話をさせていただきます。
  まず産業と科学技術について、私が属している製造業の一員としての考えを少し述べさせていただく。
  製造業−日本の製造業であるが、国内総生産(GDP)あるいは雇用能力において、その存在感が、実は最近少し薄くなってきたと言われている。それでも、そこに書いてある通り、名目GDP・就業者数で約4分の1を占めている。また、国の活力の源泉である財とサービスを合わせた全輸出入額の約7割はこの製造業が占めているわけで、資源のない日本の中の中枢を占める産業であると言えると思う。ちなみに、1970年は名目GDPに対して約36%であり、そういう意味では、この20数年間に25%までそのウエートは下がってきている。
  実は製造業にも、大きく分けて素材型のものと加工組立型の2種類に大分類できると思う。80年代以降は、いわゆる重厚長大から軽薄短小へという世の中の流れになり、現在では、どちらかといえば組立加工の製造業が日本の主役になっていると言えるのではないかと思う。
  当社は硝子とケミカルの化学というものをコア・テクノロジーにした素材型の製造業である。日本で初めて板硝子を製造して以来、約90年の歴史を持っている。板硝子という単語を聞くと、最近では日米通商問題の一つの事例のようなことで、若干新聞を賑わしたのだが、実は当社は、日本国内は言うに及ばず、世界にグローバルな事業展開を行っている。大競争の時代の中でグローバル展開をしていくというのは、会社の事業戦略の中核であると位置づけており、そこに書いた通り、1998年7月の時点では世界に18カ国、64拠点で事業活動を展開しているし、そういう結果として板硝子、自動車用の硝子、テレビのブラウン管という硝子のおのおのが、世界で約25%のシェアを占めるというような状況になっている。
  個々の企業としてグローバルに展開を進めるということについては、何の疑問もないのだが、一方、個人的にはある危惧を持っている。これからの日本、少子・高齢化ということになるが、そういう中で、日本の企業が21世紀に生き残り競争の中でどういうポジションが得られるのだろうかということ、それから日本の国内と海外での事業展開の比率というのはどうなっていくんだろうかという意味での危惧である。すなわち、企業が繁栄するということと日本の社会が持続的に発展するということが、本当に一体になり得るのかなということが一つ。別な言い方をすれば、グローバルに展開はしていくわけだが、それが日本という国の発展とどう調和させていくのかということについての危惧をもっているということである。
  それから、日本はかなりグローバルに拡大しているが、逆に、外国企業が対日投資をしてくれているかというと、少なくとも製造業については大変少ない状況にあるし、これも一つの大きな危惧であろうと思っている。
  こういう危惧を少なくとも杞憂に変えるには、どういう切り口があるかという意味では、一つは日本の高コスト構造という構造的問題と、もう一つは、やはり産業技術の発展だと思っている。前者の高コスト構造の問題は、この懇談会の場の論点ではないので、これは別にして、産業技術の発展ということについては、まさに科学技術の発展に依存していることは明確であろう。
  21世紀の日本が果たすべき役割というのは何かと、製造業の一員として考えたときに、やはり高付加価値であるとか、高機能商品を提供することが日本のファンクションであろうと思う。そうした革新的な科学技術、あるいはそれを応用した産業技術がはぐくまれる国として存在することが重要で、そういうことができる政策基盤をつくることが、今求められているのではないかと考えている次第である。
  一方、21世紀はどういう社会になるのかということについては、ここにもちょっと書いた通り、1901年に報知新聞に掲載された『20世紀の豫言』という大変有名なものがあるが、今にして思えば、その豫言をされた方の大変豊かな想像力に驚かされているわけで、今、21世紀の社会はどうなるんだと問われても、私自身、広く世の中で言われているような域を脱し得ないというのが率直な意見である。
  いずれにしても、20世紀に人類は地球上の自然の恵みを活用して、人間としての豊さを追求してきた。そして、少なくとも日本は多くの制約条件を克服して、物質的な豊かさを享受していると思う。ところが、そういう自然の恵みというのは、実は無限ではないんだということ、それから人類の営みが自然に及ぼす影響が無視できなくなっているんだという、そういう制約条件のもとで、これからのことを考えていかなければいけないのではないかと思う。
  自然の恵みというのは2つの型に分類されて、1つは“Stock”であり、1つは“Flow”であるのかなと捉えている。特に20世紀の後半から、多くの産業はこの“Stock”型の資産を活用して、社会の発展に貢献してきたわけだが、その結果として“Stock”そのものにも影響が及ぶとともに“Flow”、例えば生命の営みを影響を及ぼすような事態が今発現しつつあると思う。したがって、21世紀のしかも早い時期に、そういう“Stock”型の恵みに対して、科学技術による持続可能な社会になるような、そういう仕組みをつくることとか、生命の営みに対する影響に対しても、安心できるような解析対応が必要であろうと思う。いわゆる環境調和型循環社会というものが不可避であるという認識は、私どもの立場で十分認識しているつもりである。
  そうしたときに、21世紀というのはどういうものがキーテクノロジーかということになると、大変一般的なことでしか申し上げられないが、エネルギーであり、バイオテクノロジーであり、情報通信というようなところが大きなキーワードになっていくのではないかと思っている。
  そういう中でも、省エネルギーであるとか、新しいエネルギーの創出であるとか、バイオテクノロジーというものの実現ということとはまたちょっと別な視点から、前回もどなたかが話されたと思うが、国としての夢みたいなものを掲げていくことが重要なのではないかという思いがある。
  20世紀は月に行くんだという夢があって、アメリカはそれを実現したわけだが、必ずしもそれと同じ次元でなくても、新しい次世代の交通システム、それはいわゆる今言われているITSであるとか、あるいはリニアモーターというようなものでもいいと思うし、それから母国語でしゃべれば世界の人とコミュニケーションができるような、ツールというようなものができるのか、そういうことによって紛争というものが撲滅するのではないかというような、いずれにしても、何かそういう夢というものが重要な役割を持つのではないかと考える。
  3番目だが、科学技術の発展というその目的は、生活の質の向上だろうと私自身はとらえている。これからも科学技術というものは21世紀の社会の発展に向けて活用されるし、人々がその有用性というのは十分享受すると思う。ただ、目的を明確にした科学技術発展のシナリオというのが必要ではないかと感じている次第である。
  先ほど、科学技術の定義のことについてご議論があったが、私はそのこと自身については余りコンサーンがない。そこに書いた自然科学、人文科学、社会科学等々について、それは安全を確保するという目的もあろうし、人の知的資産を高めるという目的もあろうし、活力を維持する仕組みを提案するというような、そういうある目的をもっていろいろな科学、“science”というものがあると思うのだが、産業を支えるという目的をもった科学技術というものの位置づけを明確にすることも必要ではないかと考える。そういうことが日本がフロントランナーとなれる必要な条件ではないかと感じている次第である。
  もちろん、科学技術を体系化していく上で必要な知的基盤であるとか、あるいは標準化基盤というものの整備が大変重要であるということと同時に、現在の日本の水準がグローバルレベルに比べてどうかという意味では立ちおくれているという認識も、私も十分している。こういうことに対しても、前に申し上げたようないろいろな科学技術の連携によって解決をしていくべきものだという認識をしている次第である。
  民間企業に身を置いている人間として、今、まさにグローバル大競争時代という中にいるわけだが、やはり発展の最大の源泉というのは競争原理であると強く考えている次第である。科学技術の発展を維持する、そういう体系の中に、具体的な戦術はともかくとして、競争原理の働くシステムの概念というものがこれから有効になってくるのではないかと思う。日本がいわゆるキャッチアップの場面では機能してきたシステム、ちょっと語弊があるかも知れないが、行政も含めた縦割り社会だとか、そういうことについての考え方を変えていくというようなことも必要であろうと思うし、また産・学・官の役割というものをこれから考えていったときに、競争原理という視点が必要になってくるのではないかと思う。
  翻って一方、産も全体競争力というか、全体のポテンシャルアップということについては、私の知っている日本の産業界において、必ずしも取組み姿勢が十分でないということも認識しているし、考え直していきたいと思っている次第である。
  以上が私の申し上げたかったことで、3ページ目に添付させていただいたのは、冒頭に申し上げた、当社の海外拠点がどうなっているかということの参考資料で、せっかくの機会なので、当社を理解していただくために添付させていただいた。

・座長  委員からは、一産業人の立場として、21世紀の社会と科学技術のあり方についてのご意見を伺った。今度は学の立場で、しかも学者の集団の長である委員から「科学と政治」と題してご意見を伺いたいと思う。

・委員  直前に「何という題でしゃべるんだ」と言われて、思わず「科学と政治」というようなことを言ってしまったが、これはかなり危険な題名のような気もするし、しかももっと危険に、私は科学と政治のフュージョンというようなことを考えている。しかし、科学というのは政治と違うんだというのが、そもそもの科学を規定するときに使われる言葉なので、フュージョンなんてとんでもないということもあるかも知れないが、私は結論を先に申し上げると、フュージョンがあるからこそ科学というものの自立性、オートノミーというものが重要なんだという話をしてみたいと思う。
  実は、なぜ科学と政治というようなことを今考えなければいけないか。科学は、実は日本学術会議で、政治というのは総合科学技術会議だと、こう考えていただければ、現実世界では非常にわかりやすいかと思うのだが、一方、私がたまたま3月にある会議に出ていてイギリス人が、科学というのは、少なくとも第2次大戦中までは軍事の有利のために使われると考えていたと。ところが、戦後になって平和な時代が来て、非常に平和を謳歌するという中で、科学は科学自身のため、科学が発展すること自体が非常にすばらしいんだ。これはある意味では科学の本質に戻ったとも言えるのだが、しかし、1970〜1980年になってくると、科学というものは社会の中で非常に大きな存在になり、その影響が大きくなってくると、科学は社会のためという言葉が出てきたという。
  ところが最近は、それからもう一歩進んで、科学は選挙に有利になるためと。これはイギリス人で、半分ジョークで言ったのかも知れないが、そういう言い方をされている。しかし、その言葉の中には大変重要な問題を含んでいて、要するに選挙というのは、いわば民主主義社会の中では、国民1人1人が1票を投じ得るものだから、国民1人1人の1票というものが、科学が1票に近づいてきたということを意味するわけで、まさに科学の新しいフェーズが起こってきたのではないか、そういう観点から科学と政治ということを考えてみたいと思うわけである。
  先ほど言ったが、もともとは科学というのは政治と独立であるべきものである。政治は現実利益を考慮するものであり、科学は真理を探求するものであるからである。この点はもちろん間違いがない。しかし、今申し上げたように、科学というものに対する関心は非常に一般の人々になり、逆に科学の影響というのは、人々の生活に非常に即応的に影響を与えるということになったために、その距離は極めて近づいてしまった。これを受けて、実は日本学術会議では、開いた学術とか、あるいは学問の自治といっても、それは公的なお金、国民1人1人のお金を使って研究をさせてもらうのである以上、自治といってもそれは付託された自治なんだと。本来的に存在している自治と果たして言えるのかどうか、こういうような議論をしたり、あるいは科学というものは利益をもたらすと同時に脅威ももたらすというようなことで、そういう議論を盛んにしているのだが、それも皆、今言ったような文脈で議論しているわけである。
  実は、科学の政治化ということは既に起こっているわけで、例えば原子力というのは、政治的な大きな課題になっている。しかし原子力というのは、実は今世紀の科学的成果の最大のものであるわけだから、そういった形でも減少している。あるいはクローンというのは、これは人間に適用してはいけないということを法律で決めたわけだが、そういったことでも社会と科学の関係というのは非常にシャープなものになっている。あるいは我が国では臓器移植というのは、ある意味では議会で決めたということなので、これもまさにそういう状況が起こっているというわけである。さらにCO2  の排出量の問題、これは非常に政治的な話題となっている。
  要するにこういった問題については、少なくとも合意を政治的に取り続けるしかない、あるいは政治的に取りつければ、非常に幅広い、国の間であるいは地域の間での合意が取りつけられるという兆しが見えているということは、ポジティブに考えれば非常にいいことかと思う。
  こういった問題をやや形式的に構造化しておくとすれば、要するに科学的な知識を生産する者は科学者であり、その科学的知識を利用することについての社会的合意を取る者が政治であるという二分法は、多分フュージョンを起こしているだろう。こういう截然とした二分法というのは次第にできなくなる。それは科学的知識の生産というのは、いわば科学者と科学技術政策というようなことで言われる、例えば研究費の配分というものの責任を負う政治のサイドの影響というものがどうしても入ってくるわけだから、いわば生産そのものにも政治的な、あるいは政治家の意思というものが介入するようになってきているという現実的な状況がある。
  それから一方、利用についての社会的合意ということでも、これは本来政治家がとるべきものであるが、科学の非常な専門家によって、これは非専門家には判断できなくなっている。すなわちそこには科学者の専門家としての助言という形で、社会的合意に科学者が加担しなければならない。こういうふうに、科学と政治というのは単なる二分法ではもはやおさまらない、一つの融合的な状況を起こしているのではないかということだと思う。
  現実に政治家と言ってもいいと思うが、科学と技術についての見解を問われるようになっているということで、あるいは考えなければいけない、あるいは政策の中にも入れなければならないということで、歴史的に言えば、もともと科学は社会の外にあって、政治と全く別であるというアカデミーの長い歴史を持っている。しかし、現代社会になると、先ほど申し上げたように、科学というものがいわば社会の豊かさに影響を与える、あるいは脅威をもたらすというようなことで、影響を与えるということになってくると、今度は科学の量を決定するという時代がしばらく続いたんだと思う。科学研究をどれくらいするのか、基礎研究費にどれくらい投入するのか。それは確かに既に各国で行われているし、ある意味ではすべての国で行われているし、我が国でもそういうフェーズをずっと長くたどってきたような気がする。
  しかしそれを超えて、今度は科学の質の決定ということに、いわば政治的決断というものが必要になってくる。例えば、それは研究費の配分とか、あらゆる政策的な側面で出てくるわけであるが、例えばお金を素粒子の研究に出すのか、哲学の研究に出すのか、そういう人たちを比べてはいけないのだ、私は似たようなものだと思うが、そういった配分についての決定を迫られている。あるいはもう少し具体的に言えば、生命科学か機械工学かとか、これは今問題になっているケアという問題はどっちのアプローチで取るのかという価値判断がある。さらには、エネルギーで言えば原子力なのか太陽発電なのか、あるいは通信コミュニティというものをどうやってネットワーク化していくかというのは、通信なのか運輸なのかという、そういった我々にとっても、いわばオルターナティブとしての科学、あるいは科学の成果としての技術といったようなものがたくさんある。
  昔はこういったものの結論は、単なる経済に与える効果というような考え方で、例えばケアにしても、エネルギーにしても、コミュニティにしても、経済的なマクロ指標で最適性というものを判断していけばよかったという時代があったわけで、そのころはかなりメカニカルにそういった決断ができたということであるが、しかし、経済的効果が最大という判断だけではもはや不十分で、その1つ1つの技術の内容、あるいは科学の内容というものに入っていくことによって、その影響の質的な側面を考慮し、意思決定をしなければならないという、社会的合意というものは既に科学の質というものと関与しているという状況が起こっているのではなかろうか。
  例えばそれは科学、ある研究をする。それの効果をどう見るのかというと、それは最終的には人類の経済というよりは、むしろより幅の広いウェルフェアというものにどういう影響を与えるのか、そういうのがプラスのサイドだとすれば、マイナスのサイドとしては環境に対する負荷がどういうものを与えるのか、あるいは知識そのものが持っている脅威というものがどういうものなのか、そういったものが今度はマイナスサイドとして考慮されなければならない。
  こういったことを考慮しながら、実は人間をケアの時代が来たときに、生命科学に重点を置いてやっていくのか、医学を進行するのか、あるいは補助具の機械工具を発展させていくのかという1つの判断をしなければならないということになる。そこには、私たちは多分こういう科学技術、あるいはすべての学術というものの影響がどういうふうに将来人類社会に影響を与えるのかというシナリオを準備しなければならないという状況になってきている。そして私たちは、シナリオというのは一種の予測だが、同時にそれは科学的なものでなければいけないわけで、そのシナリオに基づいたいろいろな社会的合意という意思決定をしなければならないという状況になっているんだと思う。
  そうなると、今度は科学者の立場で考えると、単に科学者の好奇心とか真理の探求というような言葉の中だけで問題を考えてはいけないということになると思う。しかし一方、政策側はいろいろなことを決めてしまうわけだから、今度はどうするのか。先ほど言った、両者が近づいてくると、こういうことだが、いわば具体的に言えば、科学の発展が科学を知らない人によってコントロールされてしまうという状況が極めて危険だという状況になる。このことから、実は最初に申し上げたように、科学者のアドバイスというもの、いわゆるアドバイザリーというものが公的な意味で必要になってきたという時代が来たんだろうと思う。
  そういう意味で、翻って各国を見ると、これは国によって非常に事情が違うのだが、科学者の集団としてのアカデミーというものが存在していて、これが政府の中に位置づけられている場合とか、全く独立に位置づけられている場合、これは先進国の中でも違う。そういったことで、日本型のアカデミーというものをここで何かつくらないと、今言ったような科学と政治の状況というものが、今後、公的に発展するという条件を失ってしまうのではなかろうかという気がする。
  もちろんそれを受けて、先ほど単なる好奇心ではいけないと言ったが、学問のサイドでは大きな改変というものが科学者の意識として必要になるだろうと思う。それは現在、存在している学問の領域がこれでいいのかどうかというようなことに関する反省、あるいは簡単に言って、現在の学問というのは明らかにリラクショニズムというものに負っているのだが、これは、先週リタ・コールウェルというINSFの長官から聞いたのだが、アメリカではサンタフェ等でやってきたコンプレキシティという問題は国策に取り上げて、コンプレキシティという名のもとにおける研究費を極大化していくとそういう考えでいくと。それは何かというと、我々はバイオダイバーシティと言うが、アメリカではバイオコンプレキシティと最近言う。
  それから、エコノミーにおけるコンプレキシティ、それから地理条件における、あらゆる部分のコンプレキシティというものを挙げて、それはいわば国民のウェルフェアにどういう影響を与えるのかという観点から研究費の配分をするんだというような発言をリタ・コールウェルさんはしていたが、そういったように、いわばリラクショニズムではない、リラクショニズムとコンプレキシティというのは対立概念だと思うが、そういったものを既に科学政策、あるいは関係費の配分を決定する、いわば政策の中にも持ち込んでいるということである。そういうことがあるとすれば、私たちの科学者と、こう呼んでいいと思うのだが、科学者自身もそういう状況が起こっているということをもはや無視することは許されない。自分たちの考え方というのが、すなわち政策に直ちに影響していくというようなことであろうかと思う。
  それから、もう一つの例を考えると、例えば今度ブタペスト世界科学会議、“World Congress Of Science”というのが開かれて、大変多くの人々が集まるのだが、それはUNESCOとICSUという2つの組織の共催であり、ご存じのようにユネスコの長のマイヨールは平和のための科学ということをうたっていて、世界科学会議のステイトメントを平和のための科学という1つのキーワードでしめくくっていきたいと考えているように思う。
  例えばこれは、科学というものはどうやって平和をもたらすのかということは、平和論を科学的にやるということではもはやない。そうではなくて、科学の力、あるいはこれは、今日の議論で言えば科学技術の力と言った方がよろしいのだが、そういったものを適用することによって世界から紛争というものを除き得るのではないかという一種の仮説を提供したい、こういうことである。
  例えば、昔は資源というものが戦争のもとだった。これはほとんどそうである。資源が顕在することが戦争のもとで、現在でもそれが残っている。例えば環境破壊というのは、これは負の資源なので、この負の資源の偏在というのは紛争のもとに十分なり得た。しかしある意味では幸いなことに、リオデジャネイロ会議から気候変動枠組み条約というような、政治的な世界でこういったものについてのある程度の地球温暖化効果についての合意をするフォーラムができたということ、そこでしかも曲がりなりに──非常にいいかげんだったといううわさはたくさんあるが、議論ができたのは実はICSU(International  Council Of scientific Unions)の提言によるIGBP(International Geosphere-Biosphere programme)で動いていて、これが言わば地球環境問題について非常に幅広い、数万人と言われる、未組織で、研究者が自発的、ボトムアップ的に世界じゅうで研究をしている。その人たちの知識のインプットが気候変動枠組み条約の会議、COP3だったのだが、そこに大変インプットされたから、いわばコンフリクトが解決されたという実績を我々は一つ持っている。そういう意味で、科学者と政治というのは、もはやある種の非常に高度な意味でのフュージョンというのを起こしているというのを考えざるを得ないわけである。
  こういうことで、私はフュージョンを起こしている。しかし、逆に言えば、先ほど申し上げたように、科学の発展が科学を知らない人によってコントロールされてはいけないという非常に大きな命題からすれば、科学というものが新しい、あるいは科学者というものが新しい意味を持ってオートノミーを持つ必要がある。そういう意味で日本学術会議を大切にしてください、こういうお話である。

・座長  最後の結論が大変重かったと思うが、何かご意見があればお伺いしたい。

・委員 本日は、科学技術という言葉があるかないかとか、どういう意味かということについて、随分ご議論があったが、先生のお話は、今度は科学政治という言葉を定着させようというふうにとれるかと思う。より重要なことは、先生も何度もおっしゃったが、やはり新しいパラダイムという、物の考え方というか、そういう取り組みに結局にあらわれてくるんだと思う。それに私は尽きるのではないかと思う。ブタペストの会議で平和論というのが出てきたそうだが、人類はこれからこういったようなことを、いろいろとトライアルをしていかないと、科学は幸か不幸か非常に大きくなってしまったので、社会との接点において、やはりこれまでのロジックというか、基本的な考え方を十分包括できる、しかもより高い観点からの哲学を打ち立てる必要があるのではないか。
  先生の配布資料を興味深く拝見したが、2枚目の一番最後に競争原理のことを大変主張されたわけだが、私は失礼ながら、競争原理というのは20世紀の指導原理であり、もはやこれだけを主張したのではだめだと思っている。1番目の一番最後に環境調和型循環社会の構築とか、こういったようなことをおっしゃっているわけだが、これは競争原理一本やりではとてもいかない話であって、その辺はこの懇談会でぜひ、何か指導原理のようなもののかけらでもいいから見つけていきたいと思っている。

・委員  お2人のお話を伺っていて、ちょっと不安なことがある。それは何かというと、雨宮委員のお話の中で生活の質の向上とか、もちろん科学に夢を持って、来世紀の目的みたいなものがあった方がいいというか、そういうお話があったということで、いわゆる科学技術に関しては何かの期待というのが感じられる。それは悪いことと言っている意味ではなくて、ただ、例えば生活の質の向上といったときに挙げられる例題が、実は自分たちが楽して生活できるみたいな方向性が何となく感じられる気もする。
  それから、吉川先生のお話の中で、社会の豊かさというところのプラス面というのが、いわゆる生活の質の向上も含めた科学技術と考えると、マイナス面として環境負荷とおっしゃった。だから、今の委員のお話もそうだが、実は今後の21世紀の科学技術というのは、20世紀の後始末も含めて、特に自然環境に人間がかけてしまった負荷をもう一度取り除いていくのも、やっぱり科学技術の力だと思うし、それをお荷物的に、負の遺産みたいな形でもっていくのではなくて、それをやることそのものも生活の質の向上だし、社会の豊かさの中に取り込むようなセンスがないと、やっぱり今後の21世紀に向かっての、本当の意味での希望にはならないのではないかと、私は考えている。
  どうも日本の場合、もともと自然が豊かだし、それから人の考え方が自然に沿っている──哲学的には沿っている。例えばバイオテクなんかでも、最初にアメリカでは長持ちするトマトをつくるために遺伝子組み換えした。だけど日本では、高齢者社会になるし、血圧が下がるというか、高血圧にきくトマトをつくろうとしたりとかというところで、いわゆる人間の持っている、もしくはヒトの持っている能力を賦活しよう、イコール生態系に対してもいいことをしようみたいなのが自然の中に流れ込んでいるものだから、逆にそのことに気がつかないで、いわゆる欧米諸国というのは、自分たちがやっていることがかなり乱暴に生態系を傷つけることをやるから、逆に規制をつくっていくみたいな部分があるのではないかと思う。
  だから、ある意味では日本はそういう世界的なレベルでの環境政策とか、そういうものには遅れてしまっていて、例えば国際がん研究機関がグループを4つに分けて、中身は5つなのだが、いわゆる昨今騒がれている外因性内分泌攪乱化学物質だとか、それ以前にも、いわゆる有害化学物質とされていたもののうち、化学発がん物質だというものを制定していて、そのうちの最もヒトに対する影響というのは完全にあるということが認識されている物質が51種類挙げられているのだが、その中に、例えばアド化合物とか入っているが、食用の色素の40%に使っていて、もう平気になってしまったりということは、ふだんから人体に悪いことはしないようにしているという感覚が頭の中にあるから、そういうところではすっぽ抜けてしまった分をチェックする能力がなかったり、それから、いわゆる有害化学物質に関しては、昨年の6月に有害化学物質及び農薬の国際防疫における事前の通告、それから合意、手続に関する条約というのがUNEPを中心として法的束縛力を持つものとして交渉しようという会議がもう始まっているが、そういうことに関しても、新聞や何かも全然日本では報道していない。
  というのは、どういうことかというと、やはり知らないうちに、国際社会の持っている自然環境に対してアグレッシブに突っ込んでしまう、悪いことを人間社会の中での経済的なものをメインにして引っ張ってしまうからこそ起こしてしまうという社会の人たちの場合には即、逆に気が付くが、日本の場合にはむしろ最初から、ある意味では自然体で融合しているいい部分というのがあるが、気づかない面というのがあると思う。だから、そういう点では私は、例えば社会の豊かさとか、それから人類にとってのプラス面というのをどこで位置づけるかというのはしっかりととらえて、そしてそれは環境が傷つこうが何しようが、人間が豊かならいいというところで設定するのか。それとも、私の考え方では、さっき言ったように環境全体も含めて、それを負の遺産とするのではなくて、やはりそこも取り込んだ形で循環型の社会を、自然環境とも共生できるというか、自然環境の中で人が生きられる社会として位置づけるというところまで引っ張るかを、ある意味ではきっちりと割り切って検討しておいた方がいいのではないかと思う。

・座長  今の論点は、大変重要な問題だろうと思う。

・委員  先ほど委員から、産業界ということでお話があったが、私も産業界の立場で一言だけ追加させていただく。
  産業の中でも、例えば化学産業とか、あるいは素材産業、部品産業とか、製造業の中でもいろいろあると思うが、特に、いわゆる一般のユーザーが使用する商品の製造業、先ほど組立産業とおっしゃったが、そういう産業の立場から見たときに、今何が一番変化しているかというと、従来は  stand-alone型の商品が使われていたのが、今もうその兆しが始まっているが21世紀においては、技術がアナログからデジタルに変わりネットワーク化されて、ほとんどの商品は国境を超えたデジタル・ネットワークの中で使われるような時代になるということである。そうなると、個々の商品の技術開発を高めるだけでは顧客が満足する商品にならず、ネットワークにつなげて十分に機能を発揮するような商品でなければならない。ネットワークを通じて商品が互いに機能するためには、当然のことながら技術上の約束事が必要であり、これが技術標準である。
今日いただいた資料の中でも、知的基盤としてのところに標準という言葉がお二人の方から出ているが、こういう知的基盤の標準というものも非常に大事だとは思うが、今、産業競争の最先端に立っているのがネットワークで機能するための標準となる技術の開発競争であり、その技術を標準として策定する技術標準獲得競争である。技術標準を獲得することは、ネットワーク時代における技術上の約束事を自分のものにできるということで、競争上極めて優位となる。しかも、その技術は知的財産権で保護され、通常、無償では使えないから、標準を持つ者と、標準を持たず金を払って使う者との間には競争上格段の差がついてしまう。このような技術標準獲得の競争が、もう国家レベルでの競争の中に入ってきている。これからの情報通信産業およびその関連産業においては、技術標準でリードしそれを知的財産権で押さえていくことが、国としての産業競争力を高めるうえで非常に大事な要素になるのではなかろうか。
日本の企業もこのような標準化活動に参加はしているが、日本人の性格というか、なかなか自分が技術標準をつくるという発想がなく、むしろ標準はできたものを使えばいいのではないかという考え方が強いように思う。これからは、特に若い人も含めて、日本として、自分たちが技術標準をつくり、それを知的財産権で保護してその分野での競争をリードするといった、自分で行く道を拓くのだということを強く認識して行動することが大事だと思う。それが産業の立場から日本の競争力を高めるうえで非常に重要になると思い、つけ加えさせていただいた。

・座長  もうちょっと議論をしたいのだが、時間がないので、それでは中間報告までにどのようなステップでこれから進めていったらいいのかということについて、事務局の案を少し説明をしていただき、その後でご議論をいただくということにしたいと思う。
  それから、今日いろいろいただいたご意見、非常に重要な点を含んでいるので、その取り扱いはまた今後、考えていきたいと思う。

(事務局より、  配布資料3−7 について説明。)

・座長  次、2回ぐらいはやはり話題提供者、今のところ次回は後藤・玉井両委員をお願いしようと思っているが、話題提供をしていただいて、2回ぐらいで「日本の存立・発展と国際社会の課題」と書いてあるが、今日いろいろ意見の出たことがここに含まれると思う。というのは、一方ではメガ・コンペティションの時代で、国際的な経済競争は当然、当分の間続くだろうし、その中で企業の側からいろいろなご発言をいただいた。しかし、他方では地球規模の問題が非常に広がっている。そういう中で、日本は次の世紀、どういう科学技術政策を打ち出していくのかというのは大変に難しい課題であるが、そのことを中心に少し、2回ぐらいご議論をいただいてはどうだろうか。ここに安全保障の問題も入ってくると思う。うことでいいかどうか、何かご意見があればお伺いしたい。

・委員  この懇談会の目標について、改めてお伺いするのは恐縮だが、これは科学技術政策全般について中間まとめをやるのか、社会との関係ということに絞ってやるのかということで、かなり性格が違ってくると思う。その辺をどの程度認識しておられるか、お伺いしたいと思う。

・座長  これはやはり社会と科学技術の相互関係ということに絞っている。だから、科学技術政策そのものではなくて、絞った点でご議論をいただきたいと思っている。というのは、総合科学技術会議が2001年に発足するので、やはりその前に、こういった問題についての一応の見解をまとめておく必要があるだろうということである。

・委員  先ほど委員もおっしゃたが、競争的でないもの、競争に支えられない科学技術活動の重要性、そういうものがないとだめだと思う。私は大学の立場から申しあげると、特に今、国立大学の法人化の問題が議論されているが、いろいろな産業界の方々と議論しても、大学が効率が悪いということは、それは一面で事実だし、競争というものが非常に重要だということは認識しているし、認める。しかし一方で、日本としては競争に支えられない科学技術活動の重要性というものを、どこかで議論されるべきだと思うので、忘れないでいただきたい。

・委員  いろいろなワーキンググループがこれから動くだが、中で一番よくわからないのは、21世紀の社会ということを前提として考えるときに、科学技術というものはすべての省庁にまたがっているものなのである。例えば建設省にしても運輸省にしても、すべての省庁にかかわる問題であって、この科学技術をそういうところから除くことができないので、もうちょっと違う省庁との連携の中での科学技術の役割というのは大変重要だと思う。
  私事で非常に恐縮だが、私が神戸の地震のときに、たまたまアスベスト問題をやっていた。アスベスト問題をやっていたときに、子供たちの健康ということで、アスベストの粉塵が壊れた建物から出ているときに、子供たちに何とかして早くにマスクを配ろうと思い、まず電話したところは環境庁だった。環境庁に電話したら、「これは私たちとは関係ありません。」と。アメリカで環境庁というとEPAなので、環境にかかわる問題である。そうしたら向こうでは、「私たちは木と緑に関するものとか自然とか。あなたが探しているところは建設省です。」と言われた。建設省へ電話したら、建設省の方は、「私たちはつくる側であって壊れた建物に関しては関係ない。」「だけどその中にアスベストが入っているんですよ」と言ったら、「では厚生省に行きなさい。」と言われて、厚生省に電話したら「私たちは大人の労働者に対してはアスベストに対するいろいろな法律があるが、あなたは子供のことを言っているので文部省に行ってください。」と言われて、文部省に電話したら、文部省の保健課の方では、日本全国の子供にかかわる問題であればという話になった。
  そうして、アスベストというのは化学的に使われているものであったりするわけで、これがどういうふうに人体に影響を及ぼすのかということに対する議論が出てこない。しかし、すべてのかかわっている問題でもあり、恐らくアスベストだけではなくて、いろいろなこういうものがあると思うので、科学技術庁だけでこれからどういうふうに社会をつくっていこうかと考えたところで、恐らくいろいろな問題提起になるようなトータルなものが出てこないような気がする。
  だから、どこかでほかの省庁とも連携するようなワークショップも1つつくっていただかないと、本当にトータルとして社会問題というものは見られないのではないかと思うので、ぜひそういう視点からもうちょっと考えていただきたい。

・座長  わかりました。ただ、科学技術会議というのは科学技術庁に属しているわけではなく、内閣総理大臣直属の総理府であって、基本的には省庁の枠を超えているはずである。ただ、実際的には今おっしゃったような、省庁の縦割り行政の弊害というのは、それはいろいろあるだろうと思う。だから、その点は今後、今度の総合科学技術会議になると内閣府に入って、その点はより強化されると。だから、省庁間のいろいろな意見の調整というのが1つの役割になると思うが、今のご意見はある程度まとまった時点で、また他省庁の意見を聞くという機会をつくりたいと思っている。

・政策委員  1つは単純な質問だが、特別ワーキングのところで、科学技術の「日本的受容」等をめぐってというところであるが、これは本日の前半で議論のあったことのみ対象とするのか、あるいは科学技術を日本の社会がどのように受容していくかという、パブリック・アンダスタンディングというか、そちらの方も考えるのか。

・座長  そこまで含めて一応まとめてみたいと思っている。というのは、先ほども申し上げたように明治以来、我々はどちらかと言えば技術の側面を重視して、それによって富国強兵政策をしてきた。しかし、科学というものが、ギリシャ以来持っているいろいろな科学的思考法というものを果たしてどこまで学んできたのかと、その辺のところの問題は一応ある程度、この21世紀を考える上に振り返っておかないといけないのではないだろうか。そういう視点で、夏休みにでも1回か2回、ワーキンググループを開いてまとめたい。その中で、日本のパブリック・アンダスタンディングがどうなっているかということも当然問題になるだろうと思う。先ほどの参考資料の中にも科学に対する考え方、いろいろあったわけだが、やはり和魂洋才のときに、科学的思考法とか、そういうものは余り学ばなかったのではなかろうかという反省である。

・委員  全く同感です。わかりました。
  もう1点は、先生からいろいろご意見があったわけだが、日本の1つの大きな欠点として時々私が耳にしているのが、システム的な発想が軽視されているということである。この21世紀の科学技術の展開方向というところの生命、情報、環境、これは主な例ということだろうが、特に科学技術と社会の関係を考えると、ある種のシステム的な取り組みを考えないとうまくいかないのではないか。科学技術の世界での縦割りの話もあるが、その縦割りの弊害が起きている原因の1つは、システム的な発想に欠けているところではないかと思う。バイオテクノロジーでよく見られるように、その分野の研究の発展に非常に大きな影響を与えているのは、新しい研究開発ツールである。そういうものが日本から生まれてこないで全部輸入になっているのも、同じようなところに原因がある可能性がある。そういう社会との関係を勘案したときに、どんなシステムをイメージしながら考えていかなければいけないかというところも、重要な論点ではないかと考えている。
  この重要分野3点の中で、環境が若干システム的なところがあると思うが、これからの新しい都市というのは一体どんなことを考えなければいけないんだろうかとか、そういうスタンスからの議論もあってしかるべきかと思う。

・座長  ほかになければ、とりあえず次回と次々回にわたって、そこに書いてあるような課題についてご議論をいただくということにしたいと思う。その中でまたいろいろな問題が出てきたら、それ以降はさらに少し内容を変える可能性があるが、とりあえず次回、次々回にわたって、いろいろの科学技術のポジティブな面、ネガティブな面、その中でどういうポリシーをこれからとっていくべきか、そういうことについてご議論をいただければ幸いだと思っている。


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