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むしろ「検討の視点」の方が「基本的な考え方」のような気がするので、こちらを先に出した方が中身的に良いのではないか。
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議論においては高専の助教授・助手も含まれていると理解して議論しているが、まとめる段階になると、どうしても大学のことが主体となって書かれている。そうならざるを得ないのはわかるが、高専についてのも「基本的な考え方」の中で一言触れて頂ければと思う。
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「現行制度上の助教授や助手の職名や職務内容は実態に合わず」とあるが、助教授と助手ではだいぶ委員の考えも違うのではないか。助手については共通の認識を持っているように見えるが、助教授については助教授という名称がどうであるかというあたりは必ずしも一致した見解というところまではいっていないのではないか。助教授や助手の職名や職務内容はこの段階ではちょっと先行しているのではないかという印象を持った。
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最初の方は教育研究活動とあるが、例えば助手の議論になると独創的研究ということで、研究が中心になっている。例えば同じ大学の中で教授・助教授・助手をフラットにする組織を作ったとして、研究は割合理解しやすいが、教育のときにそういう教授・助教授・助手の階層があることが大学の教育にとってどういう意味があるのか、或いはそこもフラットの方がより大学の教育の姿として望ましいのかという議論はきちんと詰めておかないといけない。今研究のことが話題になっているのでどうしても研究だけに視点がいくが、教育の場合にどうなのかということについても、議論していくべきではないかという気がする。
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教授の主たる業務は何なのかということを改めてもう一度回問わなくてはいけない。ある大学では内規を定め、「研究教授」、「研究助教授」を作り、任期制にして雑用はさせなくしているが、それでも全部というわけにはいかない。一般の教授、助教授だと雑用まで全部網羅しなければいけない。一番大事な内容は何なのかということがぼけてしまい、いきおい助教授クラスの人だと研究に走ってしまい教育はおざなりになるという実態がある。そこのところの職能の分け方をある程度は明確にする必要があるとは感じている。
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キャリアパスの問題や助手の役割について研究の方に傾いているのではないか。大学院の役割や大学の教育の役割は何よりも教育にあるので、そこで優秀な大学教員を養成するためのキャリアパスというのは何なのか、そこで助手はどう位置づくのかということも加えないと、何か独自性のある研究をすれば良いのだということになって、教育者としての修練を積むプロセスというものも考慮に入れたような教員組織を検討する方が良いのではないかと思う。
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もともと教授・助教授・助手というのは教育のポジションであると思っている。どうもやはり若手研究者育成という言葉が比較的流行っている為に、もともとの教育、大学院というのは教育の場であるということがなんとなくずれているような感じがある。
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研究者の養成はポスドクでも出来る。ポスドクと助手の役割は大きく違いがあると思う。理系と文系で全然違うのだが、助手の採用をやめて全部ポスドクにしたら良いかというと、それでは研究者養成は駄目になるのではないか思う。大学院や学部の教育の中で今助手がやっていることは非常に重要な役割を果たしている。教育について考えた場合、その役割をするのは誰なのか。雑用ということもあるが、それだけではない。教育ということに若手の研究者の育成がどれだけ関っていくのかということを考えていかないと。研究だったらポスドクでも出来る。しかしポスドクは3年くらいで業績を上げなくてはならないので、手取り足取り困っている人に声をかけて面倒見てあげようということはやらない。そういうことはひしひしと感じている。
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今回の議論で制度設計をしようとして議論しているのか。もしそうであれば、今大学の種別化ということで、教育を名にするのと研究をやるのとを分けたら、当然制度は違う制度をとらないと合わないだろう。一本で行くのか、又は制度を短大と分けるのかというのをまず議論してからこういうものについて議論しないと、議論がいったりきたりすることになるのではないか。研究ばかりやると教育が困るし、教育ばかりやると研究が困るということで、制度設計をやるのであれば、やはりどういう制度にするのか、大枠を作って、ここを議論してくださいとやらないと結論に結びついていかないと思う。
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教員組織の在り方について基本的には学校教育法に定めがあるが、これについては制度設計の議論であり、一方で各大学の判断でいろいろな職種が今でも置けるようになっている。したがって、国としての制度で、大学の種類ごとに、こういう種類の大学はこういう教員制度で、こういう大学はこういう制度と1つ1つ定めるのか、或いは大学の判断で選択可能なような法制度上の制度にしながら、一方でこの委員会としては例えばこういうタイプの大学の場合にはこういうのが良いのではないですかと提言するとか、いくつか選択肢があろう。制度ごとにこういう仕組みにするというやり方もあるのかもしれないが、事務局の漠然とした考えとしては、国の制度としては各大学の判断が出来るだけ取り入れるように緩やかなものにした方が柔軟な運用が出来るのではないかと感じている。
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専門職大学院の観点から見た時には、若手研究者を育成するかということよりも、いかに時代のニーズに応えた人材を確保していくかということだろう。非常に流動性を高め、なお国際社会で通用する人材の育成、ここにあるように国際的な人材に絶えず合わせていくという形なので、だから従来の中の大学、大学院との問題と、やはりこれからどんどんロースクールはじめとするビジネススクールの専門職大学院が出てくるときに、専門職大学院の教員組織はちょっと違った面があるのではないかと思う。
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法文上は自由度が実際にはあるが、助手、助教授のところは、「助教授は教授を助ける」などと明記されており、それではあまりにも限定されているのではないかと。これは研究面でも教育面でも限定されているのではないかと。そういうところから議論が始まっているように思う。教育の仕組みと研究の仕組みの制度設計を完全にやることは初めから無かったと思う。
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教授が運営上の責任を負うこととするべきである旨の記述があるが、これは大学運営全体と間違えて紛らわしい。教育研究上の責任を負うということ。それから、今後、法人化されると教特法が適用されなくなる。国立大学は全部そうなるし、公立大学も大部分がそちらの方向にいくと思うので、そのことの関連と、依然として教特法が残る可能性がある公立大学などについて、その辺のことの考慮はどこかでする必要があるのかどうか。
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確かに運営上の責任は組織としては大学ならば学長であり、そういう意味でこれはちょっと書き過ぎなのは指摘のとおり。それから教特法だが、国立大学については全て非公務員型なので教特法の適用はない。その一方で公立大学についてはそれぞれ選択できるが、法人化すると公務員ではなくなるの教特法の適用はない。一方で今のまま残る場合には公務員の身分を持つということなので、教特法の適用はあることになるわけだが、それはいわば公立大学については設置者の判断、いわば法人化し、或いは人事の非公務員型のメリットを受けようと言う場合には、設置者としてそういう法人化をするということになろうかと思う。
従ってこの委員会での検討のテーマは国公私を通じた教員組織の在り方ということであろうと思うので、公立大学の場合の教特法の適用関係ということは直接はこの委員会の検討テーマということにはならないのではないかと感じている。また、この資料については、結論めいた書きぶりになっているところもあるが、事務方としては今までの様々な意見について現時点でテーマごとに整理した性格のものというふうにご理解頂ければありがたい。
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教育上運営の責任を負うという部分については、書き方をうまくしないと、助教授は研究室を運営できないのかという講座制を肯定しているような読み方にもとれる。それから、「若手研究者養成」という日本語が分からないが、これは、若手研究者を教育者として養成するポジションなのか、自らが若手研究者になる為に研鑽を積んでいくポジションなのか。若手研究者の養成のための新しい職というのをはっきりイメージしておかないと、何か色々なところで適当に読めるのではないかという気がする。
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どういう職を置くかという教員組織の問題と、どういう人がそれぞれの職にふさわしいかという教員の資格を定義した問題もある。それと、先程の職務の話とは非常に深い関係があって、これをもし本気で検討するならば、学校教育法の大学設置基準を大幅にそこの部分を書き直さないといけないということがあると思う。
若手研究者については、「若手教員・研究者の養成」くらいにせめて書かないと。「若手研究者」というのが何で繰り返し出てくるのか良く理解できないので、「若手教員」という概念も考慮したほうがいいのではないか。。
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教授とその前段階の職と若手研究者という3段階の分け方はちょっと違うのではないか。大学では一般にテニュアを持っているかいないかで分かれて、テニュアを持っている人達は研究業績の大きさなどで順番がつくのはいいかもしれないが、実際の運営はイコールフッティングであるべき。名前は違っていても、そういう格好でないと、自由な闊達な教育研究は出来ないと思う。
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研究者という言葉があまりにも多く使われすぎている。使いわけで文脈の整理の仕方がもう少し工夫がいるかなという感じはする。それから、「必要に応じて優れた研究者を確保する為にも」とあるが、実際に大学が求めているのは優れた研究だけではなくて、同時に優れた教育者も持っていないといけないと思う。教育と研究のバランスをうまく整理していただきたい。
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若手研究者について、特に「むしろ教育面の能力や実績を重視することも考えられる」とあるが、私どもの考える若手研究者というのは、研究を出発にするのではないだろうか。教育ばかりが非常に優れているからといって良いのかという問題がやはりあるのではないかと思う。法化大学院の教員審査ではそれが問題になり、例えば予備校の先生でも教育はうまいので、ではそれだけで審査をパスできるかというと、それはやはりそうはいかないという意見が圧倒的に強かったということも聞く。そういう面から見ると、特に社会科学はそうなのかも知れないが、研究と教育と言うのはある意味不可分一体であって、少なくともある程度の研究というのが前提の上で教育力ではないかという気がする、特にこういう若手研究者という、下から大学院からずっと育てていくような人についてはこの表現振りはちょっとおかしな方向にいくのではないかと思う。社会経験とか、実務を土台にして教員になる方については、このようなことはまさに当てはまるのだろうと思うが、そこがちょっと違和感があった。
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まさに研究者中心大学では、研究能力の上にいかに教育の能力があるかということを試す、これはアメリカのトップの大学は皆そうなっている。まず研究で、後にくっついているのが教育である。それでは教育をメインにする大学の先生の資質は何か。予備校の先生の授業は非常にうまいが、大学の教員としての資格があるかどうかという議論をしなくてはならない。私はそこの境目の見識の部分だと思っているが、やはりそれを大学の先生の質にしないと。予備校の先生は教え方がうまいからといって、そういう人たちばかりが教員になったら日本の大学がどうなるかということを考えたときに、大変なことが起こる。形式的な議論ではなくて、中身を議論するべきである。教育大学、教育を中心とする大学と言われても、どういう資格を教員に課すのかは難しい。ではどういうようにするかということはもっと実質的にこういうところで議論しなくてはいけない問題で、形だけ議論していても先に進まないのではないか。
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医学部の場合は、この問題について別の視点がある。医学には診療というものがある。この診療に関連して、社会的にも専門医制度という、特化された制度があるので、診療面において非常に優れた知識・能力を持っていることが求められる制度がある。一方で基礎医学教室があるので、基礎医学の人達は診療とはまた別の視点で教員の資格を審査されることになるが、そこで求められるのは教育であるという考え方で今取り組んでいるが、しかし優れた教育をするには、研究的な背景の無いと駄目である。研究のバックグラウンドがあり、かつ医学に関しての知識も持って教育担当できる人という審査をしないといけない。ということは、ピュアなphDの人は、医学部における基礎医学教育はどうかというと、これはやはり問題がある。
そこで、新たに研究に特化した組織というものを起こし、その評価は研究中心にいっている。従って1つの組織の中に置きながらも教員の対応として求められるのが、1つは臨床的に非常に能力があるということが求められる。それから研究はあるレベルで持っていて、かつ基礎的な教育、それも視野の広い基礎的な教育が出来る。そして次に研究に特化した教員。そういうような取り組み方をしていかないと、それぞれのレベルの発展がなかなか望めないということで、今やっと組織化に到達したところである。学部や大学によって取り組み方が多様化するところがあるかと思うが、これらのことはどうしても必然的に求められるのではないか。
それから組織のピラミッドについての批判があるが、一方で、組織を運用するのに果たして本当にフラットなだけで動けるかということにも疑問がある。フラットにすべきという意見はわかるのだが、古い組織にこだわるつもりはないが、そういう組織が色々な運用面にどうしても出てきてしまうということが現実にあるということは申し上げたい。
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こういう問題だとどうしても研究型の大学の話が中心になってしまうが、実際にもう大学の教員が多様化してきており、キャリアパスは1つではない。国際とか、文化とか、総合とか、環境とかの名前のついた新設の大学・学部のほとんどは大学院修了者以外の人たちを大量に採用している。マスコミから入ってきたり、官庁から入ってきたり、それからビジネスの方から入ってきたりするわけで、その人たちは、多くの場合に学位を持っているわけでもなければ、研究者としてキャリアを積んできたわけでもない。そういう人たちがどんどん増えている。そういう人たちがどんどん増えてきたということが様々な問題をこれから生んでいくのだろうと思うのだが、大学の教員増というのはアカデミックキャリアパスを通ってくる人たちだけを想定していれば済んだ時代はもう終わったと思う。これは専門職大学院の場合も全く同じような問題があり、そこでアカデミックキャリアをたどってきた人と同じようなものを要求をするとすれば、そういう人たちは審査に落ちることになるので、その辺の問題は一体どうしたら良いのかということがますます大きな問題になっていくのではないか。
こういう方々の問題は、失礼な言い方をすると、研究者というのはやはり知識を体系的に学ぶということとか、それを絶えずリフレッシュしていくことを大学院の中で、上手くいっている場合にはきちんと訓練されてくるわけだが、そうではなくて経験だけでやってこられた方というのは、その経験が、やがてあるところでリフレッシュしなければ意味を持たなくなるというところにくるのかも知れない。そういう場合どうするのかということがあり、それで最近FDを利用しなければいけないという話になっている。外からポッとやってきて、大学の学生にすぐに教えられるということは実はそれほど容易いことではなくて、やはりこれはスキルを要する部分があると思う。そういう問題を考えていかなければならないのではないかということと、それからこれは外国の教育で起こっていることだが、全員が英文学や独文学を学んだプロフェッサーである必要はないので、非常に初歩的な語学を教える為にはインストラクターのほうが有効である。そういう問題もあるので、教員集団というものを一枚岩で考えて、キャリアパスも1つか2つだけだと思うというのは相当間違った認識になっているということを、やはり確認した上で議論した方が良いのではないかと思う。
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学校教育法第58条6項には、「教授は学生を教授し、その研究を指導し、またはその研究に従事する」と書かれている、「教授は」というところを「教員は」に置き換えればこれでまず大学の教員の定義になるのではないか。これは要するに学生の教育をし、研究を指導し、または研究に従事するとなっている。これは良く書けているのではないかと思う。まずはこれを教員の定義として、大学の教員の中で教授とはなんであるか、何とか教授は何であるかというような議論の組立てというのはできないだろうか。第58条を「大学には学長、教員及び事務職員を置かなければならない。」、第2項では「教員は学生を教授し、研究を指導し、または研究に従事する。」とすれば非常にすっきりするのではないか。
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ちょっと気になるのは、助手というものが一応教員の中に入ってしまうのかという問題が出てくるのではないか。そうすると、助手が単に教育研究に従事する助手を念頭に置けば、今のような定義で差し支えないのだろうが、それ以外の現在いる助手というものをどのように取り扱うのかという問題が正面から取りあげられてくるという形になるのではないか。
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前からの議論では、そのポスドクと助手をどういうように分けるというか、考え分けるかという、それから助手と言われている職業というか、仕事がかなり多岐に渡っているので、助手という名称の変更も含めて、また複数に渡るということも含めて考えようかということになったかと思う。
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58条の最初に書かれているのは、置かなければならないという必置のポジションを書いている。現在はこの5種類置かなければいけない。私が先程申し上げたのは学長、教員及び事務職員を置かなければならない。助手を置いてはいけないということはどこにも書いていない。必要があればそれを書き加えればよろしい。
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助手がいない大学はすでにある。実態はかなり変わっている。それから、一部の講座制を採っているところ、或いは医学部ではそういうところが残っているのかもしれないが、ある種のヒエラルキーの良い意味での必要性が残す必要がある場合には残っている。文系のある大学では、以前は助手から学長選挙もあったし、また、実際にはインストラクターであっても、かなり助手が教授よりも実際に力を持っているようなところもある。この会で議論を進めていくのであれば、助手の在り方について少し意見をまとめる方からやった方がより生産的な議論が出来るのではないか。
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この委員会でやらなくてはいけないことは、確かに今色々出てきた助手以下の問題だと思うが、前提は、大学はもっと良い人材をなぜ育成できないのかということが問われていると思う。それが制度が悪いからなのか、或いは講座制が悪いからなのかというところで受け止めているが、よく考えてみると頂点にいる教授が悪いから余り上手く人材を育成できないのではないかということを自覚した。その面を含めて、要するに優れた人材を育成する機関として大学は使命を果たせというのが与えられた命題のような気がしている。やはり大学としては研究者を育成する教育機関であるということも大事である。学部の学生を育てるのではなくて、良い研究者を育てていく環境をどうして作れないのかというのが問われているのではないかと思う。
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大学それぞれ個性がり、目的・役割も違うと思うが、それぞれがより使命や機能を果たす為にふさわしい教員組織のあり方はどうなれば良いかと。それは実態面もあるかと思う。実態面もあると同時に、やはり制度改正につながっていく。制度改正も必要であるという部分もあるかと思う。それで制度改正という意味では学教法第58条の規定が、いわばこの意見の整理の冒頭にもあったように、もう講座制は前提としない仕組みになっているにも関らず、大学に必置としておくべき教職員やそれぞれの職務内容の規定が依然として講座制を前提に規定されているのではないか。しかもそれが実態と乖離しているのではないか。制度面で言えばそういう実態面との乖離があり、あるいは改正すべき点がある。同時に、それぞれの大学が教員組織の面でより一層役割を果たす為に両方の面があろうかと思う。その結果、制度改正につながっていくというところも当然念頭におきながら議論頂きたいということで委員会を設けて頂いた、というように考えている。
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人を育てるだけではなく、大学が教育と研究をどういう組織でやっていくのが良いのかいうと、実態は別として、仕組みとして前提になっているのは講座制がまずあって、教授がいて、助教授がいて、助手がいて、それが1つの固まりになって教育をし、研究をしていくということが前提になっている。しかしそれはもう一部であって、実態としては色々な形で教育・研究が行われているのではないか。そこに乖離があり、その実態とかけ離れた組織をそのままにして良いのかということがある。学校教育法ではそれを前提にしているから、教授はこういうもの、助教授はこういうもの、などと規定している。従って、ワンセットが前提なので、助教授というのはあくまでも教授を助けるのであって、助手というのは教授と助教授を助けるのだという、ピラミッドが前提になっている。しかしピラミッドになっているのは私学では医学部くらいだろうし、国立もほとんど壊れている。それをそのままにしておくよりも、今制度の見直しをやっているので、そういう意味で教育なり、研究なり、大学の仕事をやっていく組織を全く弾力的に何も書かないというにはいかないので、その基本の部分をどう法律で位置付け、大学設置基準で位置付けていくかということなのだろうと思う。従ってなるべく実態と合えば良いと思うが、実態が色々なので、それを1つで書くというのはなかなか難しいと思うが、それを飲み込んだような形で、しかもあくまでもフィクションのものにとらわれながらやっていくよりは、もうちょっとやりやすいようにした方が良いのではないかという、こういうようなことで今審議をお願いをしている。
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学教法第58条との関係で言いたかったのは、教員というものと事務職員を対比するような形で全て現在のものが上手く取り込めるのかという問題。これは国立大学にとっては助手というのは教員というか、身分的には教育職員ということで事務職員とは区別されている。そういう問題があって、国からくる運営費交付金もそれによって算定するという問題がある。よって、若手研究者という部分だけを教員層に入れて、残りは全部事務職員にするという決断をされるのであれば、それはそれで1つの考え方としてはいいと思うが、そういった形を今回取るのかどうかというのは1つの大きな課題なのではないか。
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現状にできるだけ合わせたいということで制度を変えるのか、或いは法人化を見てもうちょっと各大学が自由裁量で色々なことができるように、さらに理想に近づけたいということでやっているのかでは、随分違うと思う。私は後者をとるべきだと思っており、できるだけあまり細かいこと決めずに、本当に大学ができるようにするような制度改革で、その中で各大学が自分が良いと思ったものを採れるようにするというのがいいと思う。その際、人材を育成するとか機能させる前に、良い人材が大学にきてくれるという方がもっとも大事で、今のままでは良い人が大学に来なくなってしまう。大学というところは良い所だから優秀な学生がきたがるのだという前提でどうしても議論しているような気がするが、やはり大学の先生をどうやって優遇して、その人がきて自由に思い切って研究・教育をやってもらえるのかということで制度設計をしないと将来に困るのではないか。制度設計は、良い人材をどうやったら採用できるかということが大事で、私はその基本はテニュア制だと思っている。テニュア制を定着させてから大学の中の職制なり身分を議論するという、この順序でないといけない。まず教授・助教授ありきで話しをしたのではいけないという気がする。
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大学によって色々あると思うが、教授と助教授の区別を仮に無くしたとして何が起こるか。実際はあまり大きな差し障りはないと思うが、大学の教育或いは研究面において非常に大きな差し障りがそこに生ずるかというと、これは難しい。それは大きな大学はわからないが、普通の大学では助教授は例えば講義を持ったり、それから学生の指導で教授と助教授の間区別することはほとんどその面においてはないのだと思う。そうするとここでの議論も教授・助教授というのはそういう実情にあるということを前提にした上で、そうすると大学院を出た学生がすぐに、要するに大学の教育研究者になり得るかどうかということで、そこをどう考えるかということを中心にして、ときに研究だけではなく、やはり先程から色々議論のでていた教育の視点を入れた上での制度設計というものが必要ではないかということで、助手が色々事務職員の代わりをしているという要素は大学にあると思うが、これはやはりその問題はまた別にすべきだと思う。それを一緒にして考えようとするとたぶん非常に難しくなってしまうので、教育研究をサポートしていく面での、そういう大学の支援の職員の在り方というのは別にして考えるように制度設計すべきではないかと思う。
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現行法では、学長、教授がいて、助教授、助手、事務員がいてという形で大学を構成するという定義になっているが、これをどうしても見直してもらいたい。1つは主として教育なのか研究なのかという議論は余り関心がないというか、それは教育プラス研究という形で大学が色々な割合でやっていかざるを得ない問題で、それを分離させていくということは考えにくい。問題は主として教育研究を担当する職員がいなければならないということと、主として経営とか事務的なサポートをする職員がいなくてはならない、というような考え方に切り替えられないだろうか。そうすれば、現在、大学は研究と教育で、排他的な大学の形の中では問題にならなかったような、特に地域貢献とか社会参加、或いは国際交流とかという部分を大学に強く求められている。社会貢献とか国際交流活動というものは教員中心主義で、事務的な職員が従属的であるという考え方では、多くの大学が上手くいかない。
つまり研究活動とか教育活動を教員中心で制度設計したり意思決定していきうまくやれるはずだが、これが開かれた大学を構成するとなると、むしろ運営とか経営に関わるような職員が教員を指導したり、引っ張っていったりする。つまり活動の中心に主として運営や事務などを担当する職員が排除されないで参加できるような仕組みにしないと、大学の中で今ギシギシになって問題が起こってくる。有能な事務職員が大量にいても、そういうようなギリギリのところで活動に参画出来ないというか、教授中心主義が機能して物が言えない、活動できない。
つまり言いたいことは、国の法律でギリギリのところの条件を定義して頂いて、大学によっては色々な個性的な構成で活動を推進できるようにして頂きたいということ。制度の改正を国からの法律的な介入の壁を出来るだけ下へ下げて頂き、大学に自由度を持たせて頂きたい。その代わり大学は競争的に自分の力を養えば良いと。力がなければ淘汰せざるを得ない段階に明らかに来ているので、それはそれでやっていけるのではないかというように思う。今のような教員という職種だけで大学を、従来の意思決定の問題を議論するのではなくて、その部分に事務的な職員が同等の立場で関与できるような仕組みは法律上可能にならないだろうか。
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工学関係、技術者養成の分野では、社会と一緒になって次の世代を育てなければいけない部分がある。1つに知財の問題がある。これは研究者だけではやれない。むしろ法律に詳しい、もしくはそういう知財のハンドリングに詳しいエキスパートが事務官サイド、もしくは教官との丁度中間層にいるような構成になった方が効率が良い場合が当然出てくる。その点については、あまり明確にここからこっちは事務、ここからこっちは教員と分けられないゾーンがこれからは必要になってくるのではないか。これは知財だけに関らず、多様なところであると思う。そして逆に現在の助手が割とそういうところへ進出しつつある。特に情報処理関係がそうだが、そういう人材がいるということも、我々が助手のことを考える上で視野に入れる必要があるだろう。
それからもう1点。例えば今工学に関する学部教育で多くの国で、極端な場合は、例えばカナダでは4年8ヶ月という学部課程を持っているが、そのうちほぼ丸2年相当を学外に出している。完全に学外に出て教育をする時間と、学内に戻して、学内でいわゆる普通の意味の学校教育という部分とミックスアップして、トータルでエンジニアを育てるような体系をカナダのほとんど全工学部が築いている。これはもう50年近くの歴史を持っている。この事例を見ても、今までの大学とは、特に学部教育のエンジニアの育成ではかなり違うものがある。学校の運営については、約半分の期間学生を外に出してしまうということは、逆に先生方にとっては大学院の教育に集中できる時間を持つ。そこで外部から大量のポスドクを呼び込んで、キャンパスの中では非常にアクティブな研究活動がなされている。そんな事例もある。私はコンセプトとして次世代はどうしても社会とともに次の世代を育てるような、社会と融合したような大学が日本でも考えられても良い時期にきているのではないか。そういうことを考慮すると、今、助手か助手相当の職種にある人たちの処遇と、これを位置付ける問題が出てくると思う。それから3つ目は、若手の教員の力。彼らはたまたま職種上講義が出来ない。そういう状況に今制度上置かれている。しかし彼らはすばらしい力を持っている。彼らに講義をさせるだけの体制と機会を与えた場合には学校全体としては相当のパワーアップになることがあるので、助手問題の改善が先生方の論調の基盤の流れからいくと、その方向に行くなと思っていて期待している。
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私学の社会科学系の観点から、教授・助教授・講師というのは仕事上どういう違いがあるかなと見てみると、ほとんどないという感じがする。それでは教授・助教授・講師は何でその差が出てくるのかというと、年齢か、または教育歴である。しかし最近は実務化教員を持っているとそういう教育歴はないので、結局考えてみると、先生方は教授になるまでは一生懸命研究するが、教授になったとたん研究をしない先生が多い。実際大学院の博士論文を指導する学生に対しては助教授の先生とか講師の先生が非常に良い知的な刺激を与えてきているという面もあるから、教授と助教授・講師の差は一体何だろうということがある。だからむしろ、本当に教授と助教授・講師・助手と1つのグループに囲んで考えて見るのも、極端かもしれないが、実際こういう階級制がある為に、若手研究者がなかなかそういう階段を上がっていく機会が厳しいのかなというものがあるから、先生方がおっしゃるように教員という形でかぶって、その中で実質やるのは教授でもって助教授・専任講師・助手と何か1つのグループで囲えないかと今考えている。
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従来は職員と教員が対等、或いは一緒に大学を作ろうとしても、少なくとも国公立の場合は教特法があったので、先生が上、職員は下という構造だった。今それをやろうと思えばそれが出来るようになったと思う。それから、「助手」と呼ぶかということがあるが、出来るだけ助手という言葉は止めたほうが良いと思う。
また、若手研究者がかなり大量に大学で教育研究を支えるような、そういう場が必要とも思う。アメリカの場合はそれがテニュアになる以前にできていると思うが、日本においてはとにかく若い人達が大学院を出ても長い間暗いトンネルをくぐらなければならないし、そこで教授の一挙手一刀足に捕らわれて、クリエイティブな活動の余地が与えられるどころか、逆にディスカレッジされてしまう。それがアメリカと随分違うところで、アメリカの場合はすごく若手をエンカレッジする。時に社会科学なんかを見るとしばしばアカデミックハラスメントがあったりもするが、そういう状況なので、「助手」をどういう呼ぶにしろ、すごく大きな裾野を広げていき、若手が積極的に参与できるような体制をすることが非常に大事出はないかと思う。
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助手のポジションについては、大学ではこういう法文があるが為に大学院の科目担当者になれないという無言の縛りがみたいなものがあったりして、それでいながら働かされたり、雑用やらされたりとか、そういう中でスポイルされていくようなことを何とか助けられないものだろうかということが1つある。それはやはり助手という条文の「助ける」というのをとって、助手という名前も紛らわしいからやめて、先ほどの委員の提案のような方向でもって考えるというのも1つのやリ方ではないか。かなりフレキシブルに条文にしておいて、それぞれの大学、或いは高専が自由に考えられるような制度設計が出来るような形にするということが1つありえるのではないか。一方で、医学部と法律関係の学部とか、理工系は全く違うし、高専、短大、大学、それから大学も4年制大学だけで600くらいあるわけで、それも旧制の帝大から私立の小さいところまで全く何もかも違うので、かなり自由度を持った条文にすることが若手のインセンティブというか、モラールとそういう意味でも非常に重要ではないか。それが1点。
2点目は、では助手というのは教育をするのか、研究をするのか、それとも色々な仕事をするのかということがあるかと思うが、これは、やはり助手というものをもう少し分けても良いのではないか。しかしそれは大学それぞれに任せられるような仕組み、条文にしておけばいいのではないかということがあったように思う。助手というのは教育職だと思うが、それで大学院というのは何かというと、大学院生というのは教育される側であって、それに対して助手というか、そういうはっきりした若手教育職のポジションの人がしっかり教える。大学院生も教える。その大学院生を教えるからには、やはり教える本人もある程度研究というか、そういうことの厳しさを潜り抜けてきたというそういう経験を持っていることが必要だろうと、ある部分では。これは大学によっても全く違うと思うが、そういうことが2点目。
3点目はテニュアの問題で、これはやはり評価をしっかりしないと、情報公開、評価等々については一方ではっきりさせていくという方向を厳しくしていかなくてはいけないという面はあるとは思う。それはテニュア制を条文でどうするかという議論もしたかと思うが、テニュア制を、例えば設置基準の条文の中にテニュア制のことを入れるということはどうなのか、学校教育法に入れるのかとか、そういうことはまだ突き詰めてはいっていないというように思う。この問題というのは多分第三者評価等を含めた評価の流れと強く関係づけられると思うし、学校の数が増えている中で質をきちんと保つという意味では、個人的にはテニュア制評価の問題は重要だと思う。
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テニュア制は私は賛成だが、その通りやるとなると、任期制との法的な抵触が出てくるので、それとのつめが必要ではないか。
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ちょっと切り分けさせて頂ければ、助手、助教授等の条文で縛られているそのモラールとかインセンティブというそういう問題と、テニュア制の問題を、本当は切っても切り離せない問題なのだが、そこを出来れば分けて考えないとちょっと考えにくいだろうなと。理由は、学校、大学、短大、高専まで入れると大体1,000くらいあると思うが、それをもっと淘汰していけということを了解するのならば話は別なのだが、その辺のことを見込みながら、色々なスペクトル、広い中で考えていくとすると、多少分けないと考えにくいのではないかと思う。
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今の話は実際重要だと思うが、学校教育法等の法案等の文面にそれを入れることは、やはりこれは運用の問題と理解すれば良いと思う。文面を整理する場合には、助手云々という名称等を少し変えていくことと、講座制ということの表現をどうするかということを考えていくことと、後もう1つは運用の形態をどこかで明確に示すというスタンスでいかないと、これを全部盛り込むということは非常に大変だと思うので、ぜひそうして頂ければありがたいと思う。
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話の進め方だが、現状追認の制度を作るということであれば今のようなことで良いと思うが、今色々種別化され、色々な大学がある場合、それぞれの大学がどういう組織で運営したら良いかということがまずあって、その中でどういう職種と、階層と、それがはっきりそれぞれの種類の異なった大学、専門が違った分野で明らかになって、それを包含するようなものは専門家の方に法制度化してもらう、そういった筋道を取らないと、何か訳の分らない議論になってしまう。やはり法科大学院だったらこういう組織でこういう事をやりたいのだ、というようなものあった上で、それを包含する組織について、制度設計をしないといけないのではないか。
例えば、テニュアというのは研究中心の大学には絶対必要で、テニュアを持った人はアカデミックフリーダムでも保証される。それ以外は保証されないというようなものがあって、その周りにやはり社会との連携は必要なので、ここはまた違った組織になると思う。そういう構造を補填する、担保するような教員制度は何か。こういうようなことで考えていくのだろうと思う。
事務方が色々なものに参加できない、というのは、今はそういう上下関係があってまずいと思うが、研究教育の本質の部分には事務方の人は入って来るべきではないと思う。運営には充分入ってくるが、そこの切り分けがきっちり出来る組織にしないと大学そのものが死んでしまう。そこの本質をやはりやらないといけない。制度設計で変なことをやっては危ない。
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私達はどうしても自分の分野や自分のいる大学のことしか知らないので、この分野のこういうところだったらこれが理想だということを幾つかあげてもらえれば議論がしやすいのではないか。そうすると助手について全然違うことを文系では意味しているとか、高専ではまた違うことを意味したりして、そういうことを本当に分った上でディスカッションしてないのかなという気がする。そうでないと、いつも議論は何か言うとこういう例外がありますといって、まとまらないのでは。
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助手という名称そのものは教育上、現状でも研究も参加しているので、議論もあると思うが、名称そのものについてはもうなくした方がいいと思う。ただし、ピラミッド構造は診療体系上の問題なので、本来これは病院長、診療課長という位置付けの中に講座の教員が横すべりしている二重構造になっているわけで、これはなかなか切り離せない。診療を勝手に診てチームでやらなかった、これはとても管理できないので、こういう仕組みにならざるを得ない。それが一体になっているところが問題。 |