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中央教育審議会大学分科会

2001/11/21議事録
中央教育審議会大学分科会将来構想部会(第3回)議事要旨

中央教育審議会大学分科会将来構想部会(第3回)議事要旨
     
日  時 平成13年11月21日(水)10:30〜13:30
     
場   所 文部科学省別館大会議室(郵政事業庁庁舎11階)
     
議   題
  (1) 大学等の設置認可の望ましい在り方等について
  (2) その他
   
配付資料
 
資料   1 将来構想部会(特別会)議事要旨(案)(略)
資料   2 大学等の設置認可制度に関する論点例
資料   3 学部・学科の設置に係る寄附行為変更認可の審査について
資料   4 総合規制改革会議における議論の方向性について
資料   5 大学分科会の今後の日程について
       
出席者 (委   員) 木村 孟(副会長),茂木友三郎(副会長),吉川弘之(部会長),高倉翔(副部会長),石倉洋子の各委員
  (臨時委員) 天野郁夫,猪口邦子,荻上紘一,黒田壽二,島田Y子,関根秀和,西室泰三,山崎正和の各臨時委員
  (専門委員) 青山善充,越原一郎,中津井泉,松本浩之の各専門委員
  (文部科学省) 御手洗文部科学審議官,林大臣官房審議官,石川私学部長,板東高等教育企画課長 他

6 議事
   
(1) 事務局から資料についての説明があり、その後大学等の設置認可の望ましい在り方等について自由討議を行った。
   
(○:委員,●:事務局)
   
      ○    今日は、大学等の設置認可の望ましい在り方を集中的に議論し、基本的な問題について意見を集約したい。
   
   諸外国は認可の更新制を採っているようだが、具体的な事例はアメリカ等では多いのか。また、取り消した後はどうなるのか。
   
   前回、アメリカの設置認可制度について説明した。その扱いは州により異なる。ニューヨーク州では暫定認可を受けた後、正式認可を受ける手続きを行う。カリフォルニア州では5年を越えない範囲の許可と2年を越えない範囲の条件付き認可があり、期限付きで認可する。実際は認可から5年以内にアクレディテーションを受けると、以後そちらに移行する。アクレディテーションを受けられない大学については、5年毎の更新制で認可が必要である。
   
   取り消しになった時に実際にどうなるのか。指導してよくなれば、存続させるのか。
   
   基準を逸脱している場合には、24ヶ月を超えない期間の特別監察が設けられている。この期間に改善されない場合は認可を取り消す。一定の猶予措置の期間が設けられている。
   
   州政府による設置認可と民間団体のアクレディテーションはどういう関係なのか。
   
   認可は州が行い、その後は民間団体の自主的なアクレディテーションにより教育の質の担保を図っている。
   
   アクレディテーション団体の母体は様々だが、全国に6つある地域別のアクレディテーション団体がアメリカでは一番権威が高い。これは大学が集まって作ったもので、このアクレディテーションを受けている機関を大学とみなしている。
   
   学校法人としての認可と大学として正式に認められることは別だ。大学として社会的に認知されるにはアクレディテーションを受ける必要がある。アクレディテーションを受けずに学位を出す教育機関はディグリーミルと呼ばれ、一定の金を出せば学位が授与される。アメリカではアクレディテーションを受けて認可されなければ、その学位は社会的通用性を失う。
   
   アクレディテーションと法人としての認可は別ということだが、今後アクレディテーションをどうするのかについてもっと広い議論をするべきだと思う。
   
   アクレディテーション制度はアメリカ独自の制度だ。ヨーロッパ諸国の大学は事実上の国立なので、一定の基準を満たして設置するため事後的なケアはない。アメリカでは大学の設置が建国以来自由だったので、その質を担保するためにアクレディテーション団体を発達させ、メンバーシップを認めてきた。連邦政府との関係では補助金の受給資格とも関係し、これがないと大学として行政的にも認知されない。日本は戦前から国が強い権限を持っており、アクレディテーションの考え方が育たなかったが、戦後には大学基準協会が作られた。しかし、文部省が学校法人の設置基準を作りその質を担保し、認可した場合に正規の学位授与権を認めてきたので、大学基準協会の出番がなかった。
   
   制度を変えるのであれば、国が質を担保する制度から他の所に担保の責任を移すことになるだろう。アメリカの大学は私立中心に発達し公立が後から出てきたので、アクレディテーションの制度に入っているが、州立の高等教育機関が在学者の7割以上を占めているので基本的な条件は州が担保している。日本では7〜8割が私学なので、この部分の担保を自由にしていいのかという問題が存在している。
   
   前回は設置認可の在り方、事後評価、是正等の問題等について、全体的に今後の考え方を議論していただいた。事後評価システムに関する意見があったが、設置認可自体の議論があまり出来なかったので、今回はアクレディテーションとの関係や事後の扱いも含めて集中的に意見をいただきたい。総合規制改革会議で設置認可の対象を縮小すべきだという議論が出ているので、その辺りについてこの審議会での考えをまとめていただきたい。
   
   設置認可はターゲットを決めて全体的に議論すべきだ。アメリカでは1930年代にアクレディテーション制度ができてから、今まで進化的に定着してきた。日本でも永久的な制度を作るのではなく、今後のターゲットを決め時系列として何をするかを決めるべきではないか。設置認可の縮小に合意するのであればその前提で議論を進められるが、設置認可を強化すべきという意見であれば全く違う議論になる。そこをはっきりさせるべきではないか。日本では設置認可の実績があり、文部科学省が担保する制度が現在の大学を作ってきたが、それを是とするのか。現在の様々な問題と設置認可の関係を認識する必要がある。
   
   日本では文部科学省が設置認可制度により、高等教育をコントロールしている。大都市集中を避け地方分散化を図り、看護や福祉分野等人材が不足している分野について積極的に設置認可するために、この制度を政策的に利用している。全体を見渡してではなく個別に高等教育政策上の意図が入っていることが問題だ。18歳人口が急増した大都市集中の時代には、教育機会の平等化の観点や国土計画法上からも地方分散が望ましいとされてきた。18歳人口が急減期に入った現在、その規制を緩めるかどうかは重要な選択になる。設置認可制度の問題だけでなく高等教育政策と深い関わりを持って運用されてきたことをどう考えるのか。
   
   抑制についての政策を議論するのか、設置認可を通じて抑制するべきなのかという二つの問題を同時に議論することは混乱を招くだろう。高等教育政策をコントロールする手段として設置認可制度はこれまで一定の成功を収めてきたが、今後も設置認可を通じて教育制度をコントロールするのであれば抑制的にするかどうかを議論しなくてはならない。総合規制改革会議では、設置認可を緩めて自由競争を可能にした方がよいという方向が出されているが、ここではそれに対する教育の専門家としての考え方をまず議論すべきではないか。
   
   大学の多様化と大学の競争市場への参入の自由化は別問題だと思う。総合規制改革会議では大学も自由競争でよくなるという考えのようだが、その真偽から議論するべきだ。学生が教育に何を求めて大学に来るのかは、漠然とした社会的地位や資格や学位等を除けば中身がよくわからない。何らかの基準で質の保証をするべきだろう。大学設置とその後の運営の問題も不可分だが、大学の自由裁量にもっと任せてよいのではないか。学部・学科等の編制に関しては自由化を進めるべきだ。従来の学部・学科の編制は極めて便宜的で原理的な根拠があるわけではない。一定の資格や能力を持った教員と学生の数の比率は守らねばならない。教員の質や定員数等については規制が必要だが、その内部に関しては自由化を進めてよいだろう。それと大学経営への自由参入を同時に議論するのは根本的な思想に欠けると思う。
   
   総合規制改革会議での競争環境の整備の提案は、誰でも自由に参入できるという意味ではないと思う。各大学が自ら目標を決めその評価を受けつつ、時代に合わせた形で運営していくことが重要だ。文部科学省が地域や人材開発の必要性に基づき必要な学科を決めるのか、ある程度自由化してアクレディテーション等により一定の期間で見極めて決めるのかということだろう。総合規制改革会議には、学生に対するセーフティーネットについての意見も出ているが、学校がつぶれた場合の学生の扱い等に関してこの場でも議論すべきではないか。
   
   これまでは認可・評価制度のシステムの議論で、学生のセーフティーネットについては未だ十分な議論をいただいていない。規模や設置認可の在り方、経営が困難になった場合の対応方策について、今後併せて意見をいただきたい。総合規制改革会議の考え方は、競争的環境と併せて事後のチェックシステムに転換すべきというもので、これまでの設置認可ではその後の品質保証が不充分なのでその強化を考えるべきだとしている。また、アメリカにはアクレディテーション機関自体を認証するシステムがあるので、日本でも文部科学大臣が一定の第三者評価機関を認証し、そこの評価を受けるシステムを考えるべきだという意見もある。アメリカの場合はアクレディテーションを受けている大学の学位でなければ社会的通用性がなく、大学院の入学資格等も認められない。連邦政府が出す奨学金や様々な競争的な資金等についても、アクレディテーションを受けている大学の研究者が申請をした場合に認めている。日本でアクレディテーションを導入した場合の効果をどう考えるかが今後の問題だと思う。現在は事後的なチェックシステムが不充分であるので、そこが問題だ。
   
   『カレッジマネジメント』で国公私立の全大学長と理事長にアンケートを行った。今後の規制緩和として、入口を緩やかにすべきか、そうなった場合の新たなルールは評価システムでいいかどうかについて質問したが、出口チェック重視に変わるという考え方が多かった。また、その場合の評価でどこまで質を担保でき、評価システムが学生や国家の利益に対して機能するかについては、日本の評価制度は歴史も浅く成長段階にあるため疑問視する意見が強かった。市場原理に教育を任せるかどうかについては、その基盤があるのか、あるいは入口と出口のバランスをどう取るか等の方向性を決めるべきではないか。
   
   市場原理がよいかどうか以前に、プロセスを考える必要があると思う。プロセスとして市場原理をターゲットにするのか。大学は市場原理だけではなくある種のデザインを持ち、それに当てはめていくのがよいのではないか。
   
   九州の某私立大学は定員の5倍収容し授業料を半額にしている。これを自由競争と考えてよいのか。この大学に学生が来るのは、学生には入るまで、場合によると卒業するまで大学の内容が分からないからだ。このような大学を規制する必要があると思うが、大学に対する文部科学省の権限は開設の認可と廃校の命令で、その中間は単なる勧告である。このような大学は私学助成金を一切受け取らないので規制も出来ない。こういう現実を認識し、規制できるように法改正をするべきではないか。
   
   日本にいる向学心のある人達のために教育システムを作ろうとしているが、その場合には時間経過や出入口の管理のバランスを考える必要がある。ひどい大学の存在が現実だとしても、それを一概に否定するのではなく、それも教育として社会に取り込むべきではないか。
   
   それはつまり完全自由競争で詐欺も含めて認めるのか。この場合は教育を売ると言いながら教育でないものを売っているので、明らかに犯罪だろう。しかし、教育を受けなくても卒業証書さえもらえればよいと考える学生がいる現状で、制度設計の議論をしてよいのか。
   
   市場経済は規制緩和をして自由放任にすればよいと思われがちだが、実際にそうすると経済は混乱してしまう。規制緩和と自由市場を支える基盤とがセットになって初めて市場経済が成り立つ。市場を支える基盤とは、最低限のルール、ルール違反をチェックする機構、情報開示、敗者復活制度である。教育の場合も自由化を支える基盤が必要だろう。
   
   基本的な市場原理を導入しても、大学である以上は設置基準で最低限を押さえなければならない。アメリカのアクレディテーションはほとんどが民営で、大学の教育現場を知っている人間が学生の立場でチェックするのが基本である。
   
   総合規制改革会議では、アクレディテーションを受けられなかった時には文部科学大臣が認可を取り消すことが出来るようにすべきで、場合によって是正措置等を命じて改善が見られない時には認可を取り消すことも考えるべきだという意見がある。
   
   ひどい大学になぜ何年も前から定員超過するほど学生が来続けていたのか。その大学の実状を知っていても需要があるのだろう。見方を変えれば、その大学がある意味では応え、責任を持っているとも言える。日本の場合はどこまでを大学と認めるのか、あるいは大学という名前でも中身が伴わない場合に助成や学位授与権をどうするのかという問題が出てくると思う。
   
   その大学が存続しているのは、他の大学がそういうことをしないからだ。現在の制度を悪用して唯一儲けている存在だということだ。それが許されるのであれば、大学の認可を持たない各種専門学校にもっと特典を与えなければ不公平になるだろう。自由競争を徹底すれば、何の規則もない万人が万人の敵になる状態になってしまう。ある一定の規制を作っても、それを抜け駆けする人間だけが儲かるシステムは自由競争でも規制でもない状況で、それが現にあることを認識した上で議論していただきたい。
   
   ひどい現状は、今の設置基準システムの中で起こった矛盾なので、そのシステムを放置してはならない。現状を鑑みると、相互認証的なアクレディテーションが出てくるのは自然な流れだと思う。ひどい現状は設置基準を厳しくするだけではなくならないのではないか。
   
   設置基準という制度が実行されているかどうかが問題だ。アクレディテーションにより規制されるのはきちんとした大学だけだとすると、無法大学は依然として残るのではないか。
   
   どういう制度でも悪い例は出るがそういうものに重点をおいて全体を議論すると、制度自体の議論が歪んでしまう危険性があるので、多少は大目に見て本論できちんと議論するべきだ。アメリカと日本では国の成り立ちと社会のセンシティビティが違うので、アメリカで育ったアクレディテーションを日本が制度設計する時に、その違いをどう評価するかが問題だと思う。これまでの日本でも評価は上手くいっていて、市場がよい大学だと評価する大学は受験競争が激しくなっていた。アメリカでは大学間の優劣の判断が簡単にはできないので、アクレディテーションの組織等も重要になるのだと思う。日本で簡単に評価できるのは偏差値があるからで、これは是正の余地があるが、それ以外にも一般的に就職がよい、試験に受かりやすい等の評価のシステムを持っている。かなりの評価基準が市民社会の中に既にあると考えると、自由化後まずい大学は生き延びられないだろう。企業を含む市民社会全般が評価機関になっている状態を大事にする必要がある。自由化の結果、つぶれる大学が出た時のセーフティーネットをどうするかを考えなければいけない。認可制を全般的に届け出制に変えるのは急激すぎると思うが、科学の進歩に合わない構造になっているという意見がある学部・学科の編制の規制や工業(場)等制限法は取り払うべきではないか。
   
   日本の設置認可は、アクレディテーションと無縁ではない。ヨーロッパでも国立大学の場合は、国が設置認可しその質を保証する。日本は私立大学が多く問題が複雑だが、一定の基準を設けている以上、国が社会的に品質保証していると考えるべきではないか。国立大学は設置認可にかからないため、日本ではチャータリングとアクレディテーションの二つのシステムの折衷的な制度を使っていると言える。アメリカの設置認可の基準はかなり低く、簡単に大学を作れる。日本の場合は校地校舎面積や教員数等のハード部分が特に高く、カリキュラム等のソフト部分も厳しい。後者については、大学設置審議会の各専門部会でその質を評価しているが、この10数年のカリキュラム改革の動きでかなりフレキシブルになっている。ハード部分に関しては、校地面積や工場等制限法等の扱いが問題だろう。高等教育も市場化が進んでいるが、設置認可のどこまでを市場化するかが重要だ。インフラの基礎的なハード部分を自由化するのがよいのではないか。
   
   設置認可で変えたことと、他で変えたこととの矛盾は何なのか。例えば、大学の教養教育におけるカリキュラムの選定の自由化の一方で、設置認可の場合に教員数やその質を定めているのは矛盾だろう。そのような制度内の矛盾に関してはロジカルに設置基準を変更できると思う。日本の大学は世界の動きに鈍感だが、その閉鎖性が官による認可から生じるのであれば、自由化による相互認証とアクレディテーションに比重を移す必要があるのではないか。ターゲットの設定と、それに向かうプログラムがない状態で設置基準を改善できるのか。
   
   アクレディテーションも含めた設置認可の在り方について、全面的に市場に任せると考える人はいないだろう。設置認可を緩和すれば、その後の継続的な質の維持を第三者機関に任せざるを得ないと思うが、大学基準協会の在り方を含めてどこまで進言出来るのか。大学評価の充実やその推進方策の在り方の議論が従たるものに過ぎないのであれば、大学基準協会の在り方とその認可をどうするのか。建設的に議論するために方向性を決めるべきだ。
   
   制度間の整合性の調整機能がないために、様々な不調和が起こっている。この部会では設置認可と同時に将来構想を議論しているので、他の部会の議論を集約するグランドデザインを作る役割も担っている。そのためには、将来のターゲットやその時間的なデザインを作るべきではないか。これまでは個別に審議事項に応えてきた結果、トータルな高等教育制度が見えなくなっている。中央教育審議会で初等中等教育を含めて大きく改編するのであればグランドデザインを示すべきだと思う。
   
   評価制度については、その法的な位置付けや第三者評価機関が備えるべき要件、結果の公表の在り方、問題があるとされた場合の扱い等を含めて議論していただきたい。今回主として設置認可の問題を議論しているのは、全体として緩めるかどうかが整理されていないからだ。総合規制改革会議においても評価や事後是正システムに重点をおいて議論されている。
   
   入口の設置認可とその後のアクレディテーションのバランスが問題だが、それを変えることで今の大学が抱える問題を解決できるのか。日本の大学は今後どのような多様性を持ってゆくべきかのイメージを定めるべきではないか。
   
   現在の制度が現実にどう新規参入を阻んでいるかの事例を知りたい。短期大学を改廃し新しい学部や4年制大学にする等の需要は分かるが、それ以外にどのようなタイプの大学が設置を申請し、その時にどのような具体的なネックが起こるのかについて実例を教えてほしい。  
   
   その問題と設置認可が大きな意味で教育政策をコントロールしていることが重大だろう。
   
   入り口の問題とは別に、大学運営の問題があるのではないか。
   
   教育に品質保証が必要であれば、大学の在り方も保証しなくてはならない。設置認可の議論では、新設のみが対象なのか、あるいは現存する大学の在り方を設置認可で見直すことが可能なのかをはっきりさせるべきではないか。認可の更新制は現在採っていないので、その辺りを整理しないと議論が混乱してしまう。
   
   設置認可の入口という意味では既存の大学は影響を受けないが、現実的には学科改編等も設置認可の内にあり、大学の運営自体が設置認可の影響を受けていた。設置認可の条件は常に大学運営の念頭にあるので、既存の大学に影響がないということではないと思う。
   
   ミニマムの所は、何も変えないで存続することが可能であるが、それは望ましくないと思う。新しく変える部分を規制するのかどうかについて議論すべきではないか。
   
   既存の大学でも組織改編の場合には全て設置認可の対象になる。審査の中身は軽減されてきているが、新規参入だけではなく内容の変更の場合も対象となる。既存の大学については設置後全て自由化すべきだという意見が出ているが、設置認可を通じたアクレディテーション的な機会がなくなることをどう考えるのかについて議論いただきたい。
   
   設置認可とアクレディテーションは独立して議論は出来ないだろう。アクレディテーションを実質化しながら、その分設置認可を緩めていくのがよいのではないか。両者のデザインをイメージしないと、議論が進まないのではないか。
   
   何もしない大学は安穏で、何か新しいことをするには一々チェックが入るというのは、逆ではないか。前者にも圧力をかける制度でないと議論にならないのではないか。
   
   何かする場合には緩く、何もしない場合には厳しい制度もあるが、我が国の制度は逆で、何かする場合には必ず押さえる。それにより制度を実施する方の権限を保つという悪い構造がある。そこを全体の流れとして変えようという機運が出ている。その方向性は設置認可だけではなくアクレディテーションで日常的な評価が必要ということだと思う。日本でも工学分野ではアクレディテーションを導入しつつあり、自ら審査するので教員の意識が変わり教育の重要性を全員考えるようになった。その意味ではアクレディテーションは非常によい制度で、可能性としては期待できるのではないか。
   
   今議論されているロースクールは新しいシステムのテストケースになると思う。ロースクールでは設置認可とアクレディテーションを最初から組み入れる予定なので、それをモデルとして検討していただきたい。どう考えるのか。新規参入を阻んでいるのは高等教育政策なので、設置認可の基準に政策的な機能を持たせてきたことについて議論すべきではないか。
   
   設置認可が政策的に使われてきたのは極一部だと思う。分野毎の取扱等をどうするのかに関してフィロソフィーが出ないので、産業界から規制緩和を迫られている側面がある。
   
   政策として使っているかどうか、使った結果の政策がよかったかどうかも考えなければリアリティーがないと思う。
   
   工業(場)等制限法については、大学審議会でもかなり議論していた。アクレディテーションの進展とは別に入口を低く出来る部分があるかを考えてみるべきだ。例えば、校舎の自己所有の規制を緩和してマイナスのことはあるのか。細かい指導をするために少人数教室が多く必要で、それに対応する必要があると思う。我々は、教育の専門家として改善・緩和するべき問題を提案するべきだ。時代に即応できるように規制緩和した方がよいと思う。
   
   将来構想部会で工業(場)等制限法について熾烈な議論があったが、結局それは閣議決定等で曲げられなかった。中教審の発信でそれを変えることは出来ないが、別の発信者がいれば変えることが出来る。教育問題も非教育問題に影響を受けている。
   
   工業(場)等制限法自体が建物の新増設等を規制し、それに加えて設置審議会で組織や定員等を規制している。その部分を工場等制限法の見直し、または廃止に合わせてどうするかについての論議も必要だと思う。
   
   東京23区内に作れるのは特定の分野だけだと指定したが、その規制を取るべきだ。
   
   短期大学で6割、4年制大学で3割の定員割れの状態だが、これは主に地方で起きている。工業(場)等制限法が廃止になった時に、都市に次々に大学を作ると地方の大学が倒産するおそれがある。国立大学も統廃合する動きがあるので、地方の教育機会が不足するのではないか。大都市に行かないと教育を受けられない事態を招いていいのか。市場原理だけではいかない公共性や教育機会の担保の問題がある。
   
   時代の変化の中でバランスを取る必要がある。法律の改正により極端な影響が地方に及ぶのはよくないので、その影響を緩和する必要があるだろう。大学生になれば他の地域に行って教育に受ける、そのためのローンを組みやすくする等のようにダイナミックに考えるべき時期だと思う。他からの指摘を受けて動くのではなく、自主的に政策を考えていただきたい。
   
   政策が不要になったのではないが、設置基準に政策を含めずに政策は政策として出すような体制に変えるべきだろう。行政側の意図が見えることが重要だ。設置基準としては地方分散について議論しないと決めるべきではないか。政策性はできるだけ排除し、その透明性を重視するべきだろう。設置基準は最低基準を守るだけのものだと整理してもよいのではないか。次回は、事務局には原案を出していただいて議論していきたい。
   
 次回の日程
     次回は、日程調整の上決定することとなった。

 

(高等教育局高等教育企画課)

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