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事務局から,「教員の役割とファカルティ・ディベロップメント等」について説明があった後,有識者から意見発表があり,その後,質疑応答が行われた。意見発表及び質疑応答の内容は以下のとおりである。
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【絹川 正吉氏(国際基督教大学名誉教授)の意見発表:「教員の役割とFD等について」】 |
現在,「特色ある大学教育支援プログラム(以下「特色GP」と言う。)」実施委員会の委員長を務めているが,その際,各大学に対して強調している点は,「特色」とは「真摯な日常的教育努力の集積の評価」であるということである。しかし,特色GPに採択されることが目的化し,教育実績を豊かにすることが二の次になるような傾向も見えている。その一方で,拘束的評価,トップダウンの評価を嫌うという傾向もある。このような拘束的評価を嫌うことを別の表現で「自律的」という表現を用いているが,自律的ゆえに自己開発が不毛であるという逆説が生じる。
一般教育学会(現在の大学教育学会)が昭和62(1987)年にFDに関するアンケート調査を実施した。昭和57(1982)年頃には,日本でFDが公に取り上げられる機会はなく,ちょうど一般教育学会の中でこの問題を取り上げ始めた頃であった。調査の結論は「FDには馴染みが薄かったにもかかわらず,FD発想に基づく見解に肯定的回答を得たことは,大学教育改革の画期的発想転換を予見させる」というものであった。アンケート内容の一例と学長,教員,学会員の賛成比率を見ると,「Faculty(教授団)による自律的大学評価とそれに基づくFDは,大学自治の理念から当然のことである」という質問に対して,学長の86パーセント,教員76パーセントが賛成であった。しかしながら,その結果には,「評価」は優劣判定ではなく「点検」であるということを前提にしたという背景があった。また,大学の諸課題に対する研究活動については,学長の89パーセント,教員の78パーセントが賛成している。
このように,FDに対して肯定的な見解であるにもかかわらず,その後の進展は芳しくない。なぜFDについての賛成が高率であったかと言えば,アンケートの設問が全てのFacultyの自律性を前提としていたからである。つまり,Facultyの自律性を前提とする設問である以上,設問に反対する表向きの理由はないからである。しかし,現実的,実践的には,FDは殆ど進展していない。このような事情に絡んで,FDパラダイム論が学会内で議論されたきた。パラダイムには行政的レベルと自律的活動レベルの2つがある。前者は,教授会等大学管理組織を含め行政的立場で決める制度レベルの問題の立て方・解き方の総体であり,後者は自律性(autonomy)の要求される活動レベルの問題の立て方・解き方の総体であり,大学教員の教育活動や学生の学習活動等,大学の使命や学問の自由の原則を基本とするものである。両者の間にはいわば葛藤があり,学会内では,自律的活動レベルの問題を優先的に検討し,その上で行政的制度レベルの問題に対処することが原則であると言っているにもかかわらず,今日の問題状況の多くは,自律的活動レベルをなおざりにしたまま,行政的・制度的レベルでのみ解決しようとしている点である。しかしながら,自律的であることが期待できないことが実は問題であり,自律から行政へという方向にベクトルがなかなか向かない状況である。京都大学高等教育研究開発推進センターの田中毎実教授によれば,横軸に組織形態をとり,縦軸に実践形態をとり,FDを類型化すると,相互研修・自己組織化型,相互研修・制度化型,啓蒙・制度化型,啓蒙・自己組織化型の4つに分類できる。そしてからへという方向でFDプログラムを展開すべきである。また,制度化にトップダウンが対応し,自己組織化にボトムアップが対応している。
FDが初めて話題とされたのはイギリスである。欧米型のFDプログラムの特徴は,FDは各教員個人の自己責任で受け,大学側が教員に提供するサービスであるというものある。つまり,大学が各教員に対し教授法等の様々な試みを紹介し,サービスを行うのが欧米型のFDプログラムである。このような状況の中,イギリスでは昭和49(1974)年に「新任教員の試補制度に関する協定」が関係団体間で締結され,行政,教員の双方の立場から新任教員研修が制度化された。しかし,行政的な立場と自律的な在り方が,何らかの論理によって総合されない限り,日本でのFDプログラムの進展は困難である。ここで言う「論理」とは,FDは大学のユニバーサル化に対する大学的なものの復権である。大学的なものの復権であるからには,教員の関心が本質的でなければならない。しかし,学長の8割は「日本の大学の教員の殆どは,FDに関心を持っていない」と判断している。そこで,行政パラダイムはこの際サービスに徹底することが必要ではないか。そうすることで,2つのパラダイムの相克を総合することができるのではないか。したがって,一般的なFDサービスは,サービスとして行政主導で行うべきである。また,もっとも本質的な課題は,専門分野に関わる教育能力の開発(専門FD)である。専門FDこそ,教員の自律性・専門性において展開されるべきものであり,これが展開するような自律性支援策として,例えば評価や報償の制度化が必要であり,これには行政が関与する必要があると考えられる。
このような状況の中,FDを実りあるものにするための試案を述べたい。まず,現在多くの国立大学に設置されている大学教育等のセンターに大学教員育成基礎課程あるいは新任教員研修課程を設置し,その汎用的なプログラムをすべての国公私立大学の教員に開放すべきである。次に,国公私立大学の教員は,自らが希望する大学の課程を選択受講し,その際の受講経費は所属大学負担とすべきである。そして,受講成績を大学での教員評価の要素に追加し,さらに,各大学は基礎課程を基に固有の研修課程を置き,これらに対して国庫助成を行うべきである。
一方で,FDが抱えている問題はどういうものか。実は,教員自身の問題が深く関わっているのではないか。大学のユニバーサル化と言った場合,主に学生に目を向けて議論するが,実は最も大きな問題は,教員のユニバーサル化である。現在,日本の大学教員の総数は,戦前の中等学校教員の総数を上回っており,中には大学教員のレベルに達していない者もいる。ユニバーサル化の中で,FDは大学的なものの復権を目指すものでなければならない。また,「我が国の高等教育の将来像(答申)」においても,「大学の機能別分化」が言われているが,それが進展すれば同時に教員の分化も起こる。そのため,これが階層的差別にならないような対応が必要である。具体的には教員を「教養大学教員」と「研究大学教員」とに大別し,前者はテニュア制を導入し,教育に対する評価を行い,教育手当を支払う。一方,後者は任期制を導入し,研究成果に対する評価を行い,大学は基本給のみを支払うというものである。E.L.ボイヤーによれば,若年期,壮年期,熟年期を通して,常に研究成果を上げるべく,それに対する評価が行われているという考え方は現実を無視しており,教育と研究とサービスの評価比率は年代によって変化する。つまり,若年期には教育が30パーセント,研究が50パーセント,サービスが20パーセントであるのに対し,熟年期には教育が50パーセント,教育が20パーセント,サービスが30パーセントというように比率が変化する。このような比率の変化に対応した合理的な評価システムが存在しないと,常に教育,研究の二者択一を迫られ,これがFDを阻害する原因となっている。阻害要因を克服するには,結局は大学教員の自律性の問題であり,教授会を如何に機能させるかが重要である。学校教育法上,教授会は「重要事項を審議」することとなっているが,何が重要事項なのかということについて,共通認識を持つべきである。特に,私立大学の場合,理事会の経営責任との関係において,教授会の重要事項,審議事項について再定義が必要ではないか。重要事項としてもっとも重要なものは,「大学教育の質の担保」であり,この点に焦点を当てて,教授会の審議内容をもう一度検討する必要がある。国立大学の法人化の際には,学長機構と教授会の関係について定義しなかったが,これは失敗だったのではないか。日本の大学の歴史的な経緯からすると,教授会をどうするかが,最大の問題であり,その問題の解決がFDの問題の解決にもつながるのではないか。
大学教員は本能的にトップダウンを嫌う。トップダウンでFDを実施することは意味のないことであるが,autonomyを重視しなければ大学として本質的に問題が起こる。現在,FDは大学設置基準上,努力規定になっているが,これを義務化すべきではないと考えている。そこで大学設置基準を廃止し,アメリカ流に学校法人の審査を主とした大学設置認可基準に改め,各認証評価機関が大学基準を制定してはどうか。そして,この大学基準の中で,FDに関するモデルを示すことで,2つのパラダイムの葛藤が解決できるのではないか。
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【絹川 正吉氏の意見発表に対する質疑応答】 |
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特色GPが日常的な教育努力の集積を評価しているということで,まさにFD等による教育力の向上も日常的な教育努力の中で行われるべきものと考える。しかし,いくつかの大学では,FDが形式的に行われ,形骸化しているところも見受けられる。これでは,日常的な教育努力の集積とは必ずしも言えないのではないか。研修会の実施がFDの主たる取組みになっている部分もあるが,本来は必ずしも形にとらわれるべきものではなく,日常的な教育活動の中で教育力が向上するような様々な取組みをまさに各大学のautonomy,特色ある工夫のもとに行うべきと考える。そうだとすれば,FDに関する最低限の基準を大学設置基準に規定する必要があるのではないか。
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FDに対して努力義務を課したとしても,実態は変わらない。なぜなら,各種調査によれば,日本の大学教員がFDを必要としていないからである。それゆえ,FDをトップダウンでやらざるを得なくなるわけだが,そのような状況は本来あるべき状況ではない。教育努力とは,日常的なものであり,特別なものではない。FDを「日常性」と「非日常性」という対立軸で考えると,現在の日本のFDは非日常的であるが,これが本来は日常的でなければならない。日常的なものが非日常的なものと交錯することによって,さらに向上するような構造を考えなければならない。したがって「FDに参加しなければ損する」という状況を作らない限り,FDはいつまでも制度的なものにとどまり,自発的な参加は生まれないのではないか。改善方策としては,教員評価システムを変えることである。教育に対する評価と研究に対する評価の間に存在する葛藤を解決するような評価の在り方をつくり出すことが必要ではないか。
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FDを行政的レベルと自律的活動レベルに分けているが,前者は,個々の大学の教員が何らかの組織のもと改革を進めるためにFDを行うというものであり,これは教育の質を担保し向上させるためのものである。昔は,研究者の研究レベルがそのまま教育レベルになっていたが,現在のように進学率が高まったユニバーサル時代では,教員の研究レベルと教育レベルが必ずしも一致しない。それ故,教員の教育力が問われるようになってきているのではないか。そして,教育力を向上するためにはFDが必要である。FDは個々の大学で自律的に行えば良いという考え方もあるが,これを早急に立て直すためにも,何らかの強制力が必要であると考える。強制力の裏には,評価や資金配分の問題も出てくるが,最低限,大学設置基準上,FDに関する規定を置く必要があるのではないか。先ほど,大学設置基準を廃止し大学設置認可基準を作るという意見があったが,度重なる規制緩和等により,既に大学設置基準は大学設置認可基準のようになってしまった。教員の資質向上,教育力の向上を図るためには,最低限大学設置基準にこれらのことを明記する必要があるのではないか。
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大学教員の本質的な在り方を阻害するような形の政策は意味がない。大学教員の営みが本質的に展開されるためには,大学教員の自律性がまず必要である。教員の自律性がないということは,大学ではないということになる。日本の大学でautonomyをどのようにして本来的な在り方に戻すのかについては,様々な工夫が必要であるが,その際,制度的なものあるいはトップダウン的なものでは,日本の大学教員は納得しない。その部分について,中教審の場で議論する必要があるのではいなか。
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FDの問題については,大学審議会時代から議論が行われているが,自律性の問題は,それぞれの学部,研究科も含めて,ミッションの曖昧さ,コンセンサスの欠如等が原因になっているのではないか。例えば医学教育では,医師養成という共通目的のために,到達目標を明らかにした形のコア・カリキュラムが導入され,4年になる。そこでは,現実に何をどう教えるべきかということについて,日々試行錯誤が繰り返されており,FDが日常的な形で行われている。むしろ,FDの問題というのは,目標・任務・役割の曖昧さから何をすべきなのかということについて,根本的な部分が問題となっているのではないか。
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そのとおりである。もっとも大きな問題は,日本の大学に理念があるのかということである。それぞれの大学が,どのような人材養成を行うのかという教育像を共通認識として持つことが,FDの中核でなければいけない。FDとは,極端にユニバーサル化した大学において,大学的なものを復権させる,いわば非日常的な試みである。よって,FDだけをやっていれば何かが改善されるというものではなく,日常性と非日常性が交錯する中で問題が解決されていくのである。
かつて,ある会議の場で,ある国立大学の副学長が「自分の大学には,3年前まで理念がなかった」と述べたことがある。このような状況は国立大学に限ったことではない。日本の大学は,大学教育の本質に迫っていないのではないか。
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日本の大学はユニバーサル化が進み,どの大学も生き残りをかけた厳しい状態にある。その中で大学教育を全面的に問い直すという動きも出てきている。そのような動きもFDの一つではないか。一方で大規模大学ではそのような活動が推進しにくいという実態もあるのではないか。また,FDのような日常的に地道な活動が必要であると考えるが,そのような活動を行うためのヒントとなるようなものはないか。
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日本の大学教員はFDを必要としていないと述べたが,大学によって状況は異なる。例えば,4年制大学と短期大学では状況が異なる。よって,本当にFDを必要としている大学では,自然発生的にFDが行われており,そのような活動を支援していくような政策が必要だと考える。また,不必要なところに支援を行ったり,本当に必要なところに支援が行かないという状況をなくさなければならない。
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【妹尾堅一郎氏(東京大学先端科学技術研究センター特任教授)の意見発表:「実務家教員のあり方と大学ADの育成」】 |
実務家教員育成の背景には,知の権威と所有,知の営み,知の概念,知の領域,知の提供者と受益者等に関する変容と多様化がある。特に,知の提供者と受益者の変容により,教育と学習の主体が変化した。アカデミック(A),ビジネス(B),シチズン(C)の誰が誰にどのような知を提供するのかをマトリクスにすると,これまでは学生教育と学会の活動(A2A)が中心であった。また,これが,企業研修やビジネス教育(A2B),市民講座(A2C)等と合わせて「大学知の伝達」と捉えられていた。しかし,同時に,知の世界は大学の独占物ではなくなり,産学連携やB2B教育,B2C教育を通して「企業知の社会貢献」となり,さらにNPO等が主体となってC2Cの相互学習を通した「市民知の解放」が始まっている。つまり,大学のみが教育,人材育成を担うわけではない状況になってきている。さらに,先端人材育成では,A,B,Cの交流と融合が必要であると言われている。
社会人教育の需要が拡大しており,高度専門職業人,プロのゼネラリスト,現在第一線で活躍しているプロフェッショナルの再教育等によるプロの高度化・広域化教育,リカレント教育(リフレッシュ教育),生涯学習時代への対応等が必要になっている。また,平成17年1月の中央教育審議会答申「我が国の高等教育の将来像」でも,大学に求められる7つの機能が謳われており,この中の世界的研究・教育拠点でも,実務家の知を取り込む必要がある。また,高度専門職業人養成,幅広い職業人養成ではなおさらであり,特定の専門分野(芸術・体育等)の教育・研究,地域の生涯学習機会の拠点,社会貢献機能においても,産業界の知あるいは社会の知をどのように取り込むかが重要になっている。
一方,社会人の学習ニーズは多様化して,従来のトレーニングニーズに加え様々なニーズが求められており,これに対して既存大学教育でどの程度対応できるのかという懸念がある。これに対して,教育側,学習側がどのように変化しているのか。これまでの教育・学習モデルの変化が求められている。従来の19世紀を起点とする「知識伝授型モデル」では限界が見えており,別の学習モデルを本格的に導入する段階に入っている。「学習支援型」モデルや「互学互修型」モデル等の成果が出ているが,しかしこれらに対応できる教員は残念ながら僅かである。さらに実務家教員がこのような学習モデルを理解した上で,実際の教授法を展開できるかが現在問われている。このような変化は当然,授業法の多様化をもたらす。一方通行的な知識伝授型の講義だけが授業であるいう時代は,欧米では去ってしまい,セミナー,ワークショップ,ドリル,ロールプレイメソッド,ケースメソッド,プロジェクトメソッド,エディトリアルメソッド等々,如何に効果的・効率的に学んでもらうかを工夫している状況にある。
次に,実務家教員に求められるものである。ここで言う実務家教員とは,実務の世界から専任教員あるいは兼任教員となった者を指す。大学の統廃合・再編成,社会との接点の拡充,先端実践領域の拡大等を背景とし,教員に求められる機能が変容し多様化していることから,実務家教員に対する需要は拡大している。また,コスト削減のための非常勤の増大,競争的資金導入による特任教員の増加,専門職大学院の増加等により,求める教員のタイプや需要も多様化しており,これらの理由にからも,実務家教員が増加している。実務家教員に求められるものは何か。対比的に言えば,プロパーの大学教員は,研究者であり,その研究リソースを如何に教育コンテンツに展開するかが大きな課題である。この場合,学問の内的論理に沿って授業を構成することが教員の役割である。一方,実務家教員にとっては,実務経験やそこで得られた知見をリソースにし,如何に教育コンテンツを編成するかが課題となる。そこで問題となるのが,「実務家の教員は既存教員の代替か補完か相乗か」という問題である。どれもあり得るが,それを自覚的に検討している大学は少ないのではないか。アカデミック教育とプロフェッショナル教育のそれぞれにおいて,学術知と実務知をどう構成するか,あるいは自分の実務知を学術知とどうすり合わせるかということが,実務家教員に求められている。
実務家教員には,アカデミアにおける知識体系とは異なる実務を通じた知識と経験,すなわち実践知の構築とその提供,そしてそれを生かした教育指導が期待される。単に,実務事例を紹介するだけではなく,それを学術的に意味づけること,すなわち実務リソースを生かした教育コンテンツを提供し,それを学ばせる術を駆使できるように教員自体を育成すべきである。しかし,実務家教員の授業を見ると,「講演はできるが,講義はできない」「講義はできるが,授業はできない」「授業はできるが,指導はできない」という者が多い。また,実務家教員の陥るタイプして「実務事例紹介タイプ」「にわか学者タイプ」「一方的教育タイプ」「おもねりタイプ」等が見受けられる。
実務家教員の育成に向けて,育成がOJT(On the Job Training)で行われていると言われるが,OJTは放し飼いという意味ではない。職務を通じた育成を意図的にデザインしているかが問われる。また,ある段階ではOffJTも必要になる場合がある。実務家教員の教授法実践「訓練」とは,様々な教育学習理論,学習モデル等を習得し,シラバスの構成や実際の授業演習を行うことである。実務家教員として登用する際に,こういった授業法教育・訓練を課すことの条件化も検討に値するのではないか。また,実務家教員は研究業績との関係で登用が困難な場合がある。例えば,英国では,ティーチングフェロー(教育専門職)やリサーチフェロー(研究専門職)が存在し,前者であれば研究の,後者であれば教育の義務が免除される。また,アドミニストレーティブフェロー(行政専門職)もある。それぞれの専門を生かしたような実務家教員の処遇・呼称があっても良いのではないか。これからの時代,特に知の世界においては,実務知ないしは企業知,市民知を大学の中により多く取り入れなければならない。その際の受け皿的な制度については,今後工夫の余地がある。
次に大学のアドミニストレーター及びスタッフディベロップメントについてである。国立大学の法人化や大学間競争が激化する中で,職員の戦力化が非常に大きな課題となっている。現在,職員への役割期待,ロールモデルが変容してきており,これまでの単に事務作業を行うオペレーターモデルからアドミニストレーターモデル,ディレクターモデルへと変化している。しかし,職員研修を行うと,作業処理のみに関心が集中したり,複雑な思考に不慣れでマニュアルを求めたがったり,生産性や専門性の欠如といった状況が見える。では,スタッフディベロップメントや大学アドミニストレーターの育成のためには,どのようなロールモデルと行動活動イメージを策定し,それらに必要などのような知識とスキルのインベントリーを形成し,その学習に相応しいどのようなカリキュラムを編成すれば良いのか。そのため,「大学アドミニストレーター検定」制度の創設を提案する。検定を行うには,能力の担保と学習意欲の促進が主たる狙いである。その方法や育成標準を提示することが重要である。また,今後は大学の統廃合等のために教員と共に職員の流動性が高まるので,その場合も役に立つだろう。例えば,マーケティングや広報,総務(危機管理)については国公私共通の検定とし,財務,教務・学事,国際交流等は国公私別の検定にした方が良いかもしれない。これにより,大学経営管理の再検討・再吟味を通じ生産性の向上に寄与する等が期待できる。さらには幹部教員への啓発効果等の副次的効果も現れるのではないか。
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【妹尾堅一郎氏の意見発表に対する質疑応答】 |
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実務家教員は講義ができても授業ができないとのことだが,これは実務家教員に限らず,大学教員でも同様の者がいる。現在,学生による授業評価が行われているが,これを活用すれば,問題の解決につながるのではないか。授業評価についてはどのように考えているか。
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授業評価は様々な場面で行われているが,それを活かし切っているかどうかについては疑問が残る。また,教員によっても,受け止め方,考え方が様々である。実務家教員に限らず,一般の大学教員にも授業ができない者がいることについては,実務家教員が一般教員の刺激になればと考えている。
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ある大学関係者から聞いた話では,最近の学生は教員が10分遅れると事務室に「なぜ教員がこないのか」と電話をしたり,授業評価の際に「教え方が下手な教員の代わりに予備校講師に教えて欲しい」と言ったりするそうである。
教えるということについては,スキルの問題があり,学生の授業評価でも,スキルに依存する部分が大きい。また,コンテンツの問題もある。つまり,教える内容がどれほど知識化されているか,伝達可能な知識として体系化されているか,あるいは抽象化されているかという問題である。さらに,教員の人格的な問題もある。評価の際には,これら3つの要素は不可欠であり,さらに異なる視点の評価軸が必要ではないか。その際,大学の理念をどのように位置付け,その視点に照らし合わせた評価をどのように行うかも重要ではないか。
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知識を体系化して教えるという知識伝授型の教育が,今後,学生にとってどういう意味を持つかを検討する必要がある。つまり,教員の側に体系化して教えなければならないという思い込みがあり,学生は見向きもしないのに,教員の側の論理で授業が行われてしまう例があまりにも多い。例えば,「概論」とは本来,もっとも重要なコンセプトのみを強調すれば良いものだが,概論という名にとらわれて全て隅々まで細かく教え込もうとしてしまうため,学生が「引いてしまう」。こういった例が多発している現在,学ぶ側・教える側の論理をどのように相互構成する新しいインターフェースの構築が重要となる。
また,知識論的には,社会人教育や専門職大学院では,既存の知識を体系化して教えるだけでは,気づきや学びは起こらないし,知見の創出が促せない。教師は「学びの場と機会のプロデューサー」でなければならず,学生レベルに応じた知の在り方を考える必要がある。
全人格的教育については,学生評価の項目に,教員が魅力的かどうかという視点があり,学生は教員の熱心さ等には敏感に反応するため,この部分の評価は重要である。そして,大学の理念に沿った評価については重要だと思うが,教員も意識が薄いばかりでなく,さらに職員の方が浸透度が低いようだ。職員で大学の理念を答えられる者は非常に少ない。
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大学のアドミニストレーター養成について,検定の創設を提案しているが,例えばマーケティングについては,学生募集のためのマーケティングと製品開発のマーケティングでは大きく異なる。そのため,共通テストが実施できるほどコンテンツが用意されていなければ,通常のマーケティングについての検定になりはしないか。大学の理念や歴史等を学ばなくても,プロモーション的な方法論だけを学んでしまうということが起こりかねないと危惧する。さらに,検定試験問題は誰が作成するのかという問題もあるのではないか。
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確かに安易に実施すると,既存の資格試験の焼き直しになってしまう部分があり,その点については十分な工夫が必要である。例えば,マーケティングをセリングと勘違いしている職員も多数いるため,我々の研修では「この大学の持っているリソースをどうすれば学習上の強みにすることができるか」という問いかけから始めている。この問いかけに対しては,大学独自の回答を持たなければならず,そのための活動を始める時期に来ているのではないかと考えている。
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現在,実務家教員の持ち味を生かし,活躍する場をつくることは重要な課題である。一方で,実務家教員はある種の信念を持っているが,彼らを大学の教員として育成するためにどのようなプログラムがあるのか。
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実務家教員の中には,「議論をすれば良い授業」という誤解がある。本来は,大学の場で議論する際には,その議論を通じて何を学ぶべきか,何を得て,次にどのような学習を展開すべきかを指導できなければ大学の教員とは言えないはずだ。一般教員にも実務家教員と同じような考え方の者が少なからずいるようで,残念に思う。
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FDのトレーニングの場はどこかを考えると,それは大学院ではないか。例えば,しっかりした大学院で学んだ者は,良い教員になるのではないか。人間は自分が学んだ経験が原体験になるため,大学院教育を多様化し,優れたものにすれば,そこから次世代教員のFDが始まるのではないか。現職教員の問題を放っておいて良いわけではないが,大学院については重点的にFDを行う必要があるのではないか。
また,大学院の授業方法が専門職大学院制度の創設により多様化しているが,大学院の授業に対して何らかのコンセンサスが必要ではないか。
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「優れた大学院で教育を受けた者は良い教員になる」という構図は,確かに一面では良い。彼らの多くは教育に関する感度が高く,学ぶことについての意識が高いため,教育に対して様々な工夫を施すが,反面,それ以外を知ろうとしない傾向がある。また,自分には合っているが,他人には合っているのかという振り返りをしない。例えば,アメリカのMBAを修了した者はそれが最高だと感じてしまい,他大学のMBAのスタイルを受け入れない。教員には自らが学んだ方法論以外のものが存在するということを知って欲しい。
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社会人が担当した授業の評判を学生に聞くと,「どの科目でも同じことしか言わない」という回答が返ってきた。なぜかと考えると,大学教員が持っているエートスと,実務家教員が持っているエートスが違うからではないか。大学は多様化しユニバーサル化しても,レベルが異なっていても,大学的なものを共有する場でなければならないと考える。大学的なものというのは,有史以来の人間の知的営みの総体であり,その中で大学人が本質的だと感じる価値を根底に据えた上で,それぞれのレベルに応じた多様な教育を展開する必要がある。この大学的なものというのは,各々の教員が学問的な営みに従事することにより生まれるものであると考える。
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【本日の意見発表に対する全般的な質疑応答】 |
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昨年から学生を8グループに分けて,約2時間ずつ話をするようにしている。そこで,がっかりしたのが,教員が学生の人格を尊重しない事例や授業内容を時代の変化にある程度合わせるべきだということを理解していない事例があったということだ。授業評価を行うと,必ずそういう事例が出てくる。そして,毎年同じ教員が低い評価を受けており,評価結果が改善に活かされていない。そこで,当該教員の所属長に改善方策を提出させ,半年後,1年後にフォローアップを行ったが,あまり効果はなかった。大学教員はトップダウンを嫌うため,最近では,学生の力を借りるようにしている。学生が言ったことに対して,教員は余り抵抗しないという現状があるためである。
FDについてもトップダウン型で行う場合に,学生の力を有効に活用すべきではないか。これについては,どのように考えるか。
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同感である。岡山大学の事例であるが,「学生・教職員教育改善委員会」を設置し,当委員会に学生を参画させ,学生の企画力を採り入れた新入生対象の履修相談会や新授業科目開発の取組み等を行っており,これは平成17年度の特色GPに採択されている。学生をどのように取り込むかについての1つの知恵になるのではないか。
同時に,スタッフ機能をどのように取り込むかが重要である。優れたスタッフの存在が不可欠である。
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FDの必要性については,私が所属する大学でも意識は低い。先日,研究科長会議の場で,教育に関する問題点について議論する機会があったが,このときも殆どが大学院教育の問題が議論され,学部教育の問題は出てこなかった。このように,学部教育に対して危機感を持つ教員は少ない。その一方,教員は,自分の専門分野の授業に関しては様々な工夫を行っている。また,7年前に学生に「あなたにとって意味のある授業は何か」という調査を行ったところ,「自分の知識,ニーズに合った授業」が最も多かった。一定の専門的志向がある学生にとっては,授業の内容こそが重要であり,教師の側は授業内容をより濃く出すことに努力しており,その限りでレリバンス(関連性)がある。ところが,レリバンスがある学生は,それ程多くない。にもかかわらず,大学教員はそのことに気づいていないか,大学全体としてそれに気づかない構造になっている。それが問題であり,その意味でレリバンスを考えなければ,教員の中にFDが必要であるという意識が出てこないのではないか。そして,それは本来,大学のマネジメントが考えるべき問題であり,未だそのことが十分意識されていないのではないか。
デレック・ボック氏は自著の中で,「大学教員は結構努力しているが,教えていることが社会に対してどのようなレリバンスがあるのかを教員個人が見ることができていない。しかし,それについては,むしろ大学のマネジメントあるいは理事会が一定の責任を持つべきではないか」と述べている。このメカニズムはただトップダウンとかボトムアップという問題だけではなく,そこにどのようなメカニズムを組み込むかが重要ではないか。
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大学は教員を選考する際に,基本的には研究業績で選んでいる。一方,教育はどのように評価するのか。教育も大学人としてのエートスであり,教育を自らの責務と考えている者が自覚的に行う部分もあるが,FDを行うにしても,教育も何らかの尺度で評価をされなければならない。その際の評価尺度については,企業とは異なり,大学では,どのような人材を育成し,どのような人材を輩出したかが尺度になる。それは,大学がどのような人材育成理念を持っているかと密接に関連している。したがって,そのような視点での評価体系が必要になり,自律的な評価体系は大学内部と外部評価機関による評価の双方が必要になる。したがって,大学内部の評価と外部評価を競わせながら,お互いに良い結果が出るようにすべきではないか。
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学生の教育に対する評価は,実は微妙であり,良い授業を受けたことのない学生の評価基準は低いので,結果としてレベルの低い授業も高く評価されてしまう場合もある。しかし,いったん良い授業を受けると,評価軸が上がる。授業に対して学生の目が肥えていくからだ。いわば授業の「見巧者」として学生の目も育成しなければならない。教え方より,教えている内容について関心が集まるというのは,実は良い教育が行われているからだという点に学生自身が気づくべきだろう。よって,学生評価を利用するのは,FDを進める上でよい取組みだと言えるが,学生は,現在あるものしか評価の経験軸がないため,どのようにこれを高めるかが,大学の教育レベルを上げる上でも重要ではないか。
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学生が入学前に,この大学に行けばどのような教育を受けられるかが分かるような仕組みが必要ではないか。本日の意見等を踏まえ,制度としてどのようにすべきかについても今後議論を行っていきたい。
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事務局から,「教育再生会議」について説明があった後,委員より株式会社立大学についての質問があった。質疑応答の内容は以下のとおりである。
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株式会社立大学の全国化の問題については,中央教育審議会の場でもきちんと議論をする必要があるのではないか。
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構造改革特別区域についての評価スケジュールは,文部科学省としての調査結果を11月上旬を目途に特区評価委員会に提出することになっている。次回以降,制度部会で文部科学省の特区評価に対する意見を御報告し,それに対する意見をいただきたいと考えている。
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現在,大学設置・学校法人審議会では,設置計画履行状況等調査委員会を設置し,株式会社立大学を含めた調査を行っているところである。昨年度の調査では,非常に厳しい結果が出て多数の留意事項が付されたが,本年度はその部分を中心に調査を行っている。大学設置・学校法人審議会のみならず,当部会でも,この問題について討議できる機会を設ける必要があるのではないか。
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株式会社による大学等設置事業を全国化すれば,学校教育法や教育基本法にも影響が出てくる。これらの法律を改正するとなれば,やはり中央教育審議会でもこの問題について議論する必要があるのではないか。
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ただ今の問題については,事務局とも相談し,当部会及び分科会で取り上げる方向で検討したい。
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