独立行政法人文化財研究所 東京文化財研究所修復技術部長 青木 繁夫
文化財を文化資源として考えたとき、そこには文化財的価値と経済的価値が共存していることは容易に理解することができる。文化財を経済的活動の資源としてその枠内でとらえたとき、経済的価値は個人や市場が文化財に与える効用、価格、有用性などのキーワードで具体的に捉えることが可能である。しかし、文化財の経済的価値は、文化財的価値の基盤の上に成立しているものであり、それが失われてしまえば消滅してしまうものであると考えられる。
文化財的価値を考えた場合、以下のような価値基準があると思われる。
これらの価値は、専門家によって容認された専門的基準によって評価され、重要文化財などに指定されて保護されている。このように文化財は文化財的価値を有していて、経済的価値発生を動機づける基盤になっている。このように考えてくると文化資源は、文化財的価値を基盤として、経済的な蓄積や供給を行う「資産」と考えることが可能であろう。これらのストックは過去―現在―未来世代へ可能な限り健全な状態で引き渡さなければならない義務がある。現在の世代が行っている博物館、出版界などでの社会・教育・経済的活動にとても重要で、そこでは文化財の活用を通じた新しいサービスが継続的に創造されている。しかし、文化財を単なるサービスというフローを生み出す消耗品として近視眼的に取扱い、何らかの損傷をうけてしまった場合、回復力のない文化財は価値を喪失してしまい、将来の世代の経済的、社会的、文化的な生活のための基盤が奪われることになる。このように考えていくと文化財の修復は、資源としての基盤となる文化財的価値および経済的価値を守り、かつ再生産する重要な活動であると認識することができる。
文化財の修復は、前述したような基盤の上に成立しているものであり、それらを保証するためにさまざまな約束事がある。それを修復技術者の間では一般的に「修復理念」と云っている。
本物としての価値を損なわないために現状維持修復を原則とし、復元などが伴う場合には、その根拠を第三者に対して合理的に説明できること。補修復元部分については明確に判別できること。次回の修復時に支障のない修復材料や技術の選定(可逆性)を行うこと。修復時には文化財が持っているさまざまな情報が失われる危険があるので、可能な限りそのような危険のない方法を選択し、危険がある場合は何らかの形で担保を取ること。修復記録を作成すること。これらの成果を体系的に整理して博物館活動や研究活動などの場に還元し、公開すること。
このように文化財的価値を守るために様々な条件の中で実際の修復が実施されている。絵画、彫刻、考古資料などさまざまな分野の文化財があるが、それぞれの対象物の材質的問題あるいは劣化過程の違いなどがあるために修復の取り組み方に若干の違いがある。一般的に修復は以下のような手順で行われる。
修復対象文化財の材質、製作技法、劣化状態などを知るための調査、対象文化財に対する人文科学的な調査と自然科学的な調査が同時並行で実施される。
自然科学的調査は、原則として非破壊で現場における調査が要求される。顕微鏡、ファイバースコープなどでの観察、赤外線、紫外線蛍光などの撮影、X線透視撮影などによる構造調査、化学組成分析、有機物材料の分析などがある。
この調査に主として使用される機器は、(写真-1)
顕微鏡 ― 実体顕微鏡、偏光顕微鏡、万能顕微鏡、手術用顕微鏡、電子顕微鏡、レーザー顕微鏡
X線 ― 高エネルギーX線CTスキャナー、工業用X線透過撮影装置、ソフトX線透過撮影装置、微焦点X線透過撮影装置
画像解析 ― スーパーアイ画像解析装置、赤外線カメラ、紫外線カメラ、波長可変型光源装置
分析機器 ― 波長分散型蛍光X線分析装置、エネルギー分散型蛍光X線分析装置、モバイル型エネルギー分散型蛍光X線分析装置、X線回折分析装置、ガスコロマトグラフ質量分析計、高速液体クロマトグラフ質量分析計、イオンクロマトグラフ、フーリエ変換赤外線分光光度計、分光測色計
写真-1 X線写真撮影
写真-1 モバイル蛍光X線分析
事前調査と文化財的価値との総合判断によって修復方針を決定する。この決定は、修復技術者だけで行うことはなく、依頼者である博物館学芸員などと十分協議して行う。また、修復中に発生する問題や新しい事態には当然のことながら学芸員と協議しながら対応している。
絵画や彫刻などの美術品の汚れは、それ自体が古色としてその古びたさまを大事にすることもあり、あまり積極的にクリーニングをしないのが一般的である。
考古資料や建造物では汚れあるいは錆が劣化を促進する原因になる恐れや機能を回復するためにクリーニングを行うのが一般的である。クリーニングの方法には、実体顕微鏡下でマイクログラインダーやメスなどを使用する機械的方法、超音波洗浄あるいは窒素ガス中にカーボランダムなどの研磨剤を混入して吹きつけてクリーニングする物理的方法、酸性やアルカリあるいはキレート薬剤などの化学薬品を使用する方法などがある。それらはクリーニングされる文化財の材質、劣化状態などを勘案して適切なクリーニング方法が選択され実施される。しかし、建造物などは規模も大きく、化学薬品などを使用した場合、環境汚染の問題にも関係してくるため慎重な対応が必要である。この場合にはレーザークリーニングが行われることが多い。
事前調査の結果と活用方法などの要件を踏まえて修復材料および修復技術の選定をして実際の修復を行っている。
日本画、漆工芸品、木彫仏などの修復は伝統的技術によって修復されることが多く、修復材料も澱粉、和紙、漆など天然素材が用いられることが一般的である。伝統的技術や天然素材で修復できない部分については新しい科学的技術や材料が使用される。たとえば、絹の上に描かれた日本画では、絹が劣化したために欠損が生じていることがよくあるが、その欠損を埋めるために使用する絹はあらかじめ電子線を照射してオリジナルの絹と同じ程度に人工劣化させた絹を使用して補修を行っている。伝統的技術を基本にしながらもそれで補えない部分について科学的な新しい技術や材料を導入して修復を行っている。
考古資料では土中に埋蔵されていたという経歴があり、伝世された文化財と劣化機構や劣化状態にかなりの違いがあって伝統的な技術や天然素材の修復材料では修復できない事例が多数ある。かなり科学的な手法を用いて修復を行う。真空凍結乾燥による出土水浸木材の保存処理、水素プラズマによる金属遺物の保存処理など科学的処置が行うことが多い。
修復に際しては必ず記録を作る必要がある。修復記録を作成する目的は、文化財に対して何時、誰が、どこで、どんな材料と技術を使用し、どんな考え方で修復を実施したかを記録することにある。その情報は必要に応じて公開されるものでなければならない。記録方法としては、文字記録、普通写真、X線フィルム、図面、ビデオテープ、分析データなどがある。現在ではデジタル技術を使用した記録作成が一般的になってきている。デジタルカメラで写真を撮影して、写真測量の技術を応用してデジタルオルソ画像を作成し、地理情報システムを用いてデジタルオルソ画像の上に修復情報を描き込む方法が行われている。
ここでは、一つの修復事例をあげてみたい。
日本では刀身や柄頭、鞘尻などに金や銀を象嵌した遺物が5世紀(古墳時代)以降、300例ほど発見されている。それらの遺物が重要なのは、その中に「銘文」の象嵌を施した物があるということである。恐らく日本で発見される最も古い「文字」資料と云っても差し支えない。それらは埼玉県稲荷山古墳出土辛亥銘鉄剣のように国宝や重要文化財に指定されている。これらの遺物は歴史を理解する上で重要な物であるが、錆に覆われているため肉眼で象嵌を発見することは困難である。通常はX線写真を撮影することによって発見されることが多い。発見された象嵌は錆の中から研ぎ出されることによって人の目に触れることになる。そのためには文字としての構成要素である字画や象嵌の製作技術などの情報を損なわない研ぎ出し処理方法を開発する必要がある。
古墳時代の象嵌遺物は鉄地にタガネで溝を彫り、そこに金線や銀線などを嵌め込んだ物である。象嵌された遺物は埋蔵中の腐食のために表面が厚い鉄錆に覆われ、壊れていない限り象嵌は見られない。当然のことながら銘文を判読したいとの要求があり象嵌の研ぎ出しはかなり古くから行われてきた。研ぎ出し作業の最も早い例では大正末期から昭和初期に行われた熊本県江田船山古墳から発見された銀象嵌銘大刀の研ぎ出しがある。これは刀の研師が行ったものである。その後、歯科用グラインダーを使用するなどして研ぎ出しが行われてきたが、削ることによって象嵌表面に傷を付けたり、研ぎすぎによって字画が不明瞭になったり、製作技術情報が失われたりしていた。とくに「銘文」象嵌の字画が不明瞭になることは銘文判読に大きな影響を与え、歴史認識を左右する大きな問題である。そのため象嵌表面の情報の損失を少なくする処理方法の研究開発が必要であった。すでに述べたように象嵌の表面を覆っている鉄錆はかなり堅いもので従来の研ぎ出し方法では、処理中にどうしても象嵌表面を傷つけてしまう危険が大きい。電気還元や化学薬品などを使用して錆の除去を行った場合、錆ごと象嵌が取れてしまうことが過去のクリーニング実験で知られている。そのため従来にない新しい方法を検討しなければならなかった。その結果として候補に上がったのが水素プラズマを用いて表面だけの鉄錆を還元して取り除く方法である。
プラズマ装置の開発にあたっては、プラズマメーカーの研究員と共同で、鉄錆の状態及びその種類によるプラズマ処理条件(ガス濃度、処理温度、真空度、処理時間、電源及び電圧など)の設定実験を実施した上で設計を行い製作した。装置は、遺物の金属結晶の変化の可能性を考慮してプラズマの中では比較的低温でプラズマが発生し、それが大きな面積で得られる高周波放電を利用した平行平板型反応装置とした。
象嵌が発見された柄頭(写真-2)は、錆に全体が覆われているが保存状態は比較的良好であった。全長7.6cm、最大幅4.3cm。面取りがあり断面が八角形である。
※X線写真撮影(写真-3)
撮影条件:フィリップス工業用X線装置MG-321
富士工業用X線フィルムIX-100
0.3mm鉛増感紙使用
管電圧130~140kV、管電流5mA、照射時間3分
撮影距離1m
現像液レンドール 20度、5分
X線撮影によって二重円文を2本の平行線で六角形に繋ぎ、その中に右または左向きに翼を広げた単鳳を施した亀甲繋鳳凰文の象嵌があることが判明した。側面には亀甲繋鳳凰文が3段、頂頭には変形鳳凰文が、目釘孔の周囲には単弁花文が施されている。象嵌の金属が腐食して周囲に作る「にじみ」は見られない
写真-2 保存処理前の象嵌遺物
写真-3 X線写真
※保存処理(写真-4)
修復前の記録作成後、柄頭内部の木材片はアクリル樹脂で強化してからプラズマ処理を行った。
プラズマ処理条件:高周波周波数13.56MHz
高周波出力2kW
処理温度約200℃、処理時間1時間
ガス注入量
窒素400ml/min
水素400ml/min
アルゴン200ml/min
処理槽内圧力約133Pa
この処理によってオキシ水酸化鉄やマグネタイトなどの3価の錆が、水素プラズマと反応し、還元されることによって表面の錆層に体積変化がおきるとともに減圧下での加熱によって脱水作用が起き、錆が取れやすくなる。特に異種金属と接している部分にその傾向が著しい。プラズマは遺物表面でしか反応しない。したがって反応深さを大きくするためには処理時間と高周波出力を大きくする必要がある。実際は上記の条件で処理後、錆を除去できるところまで除去し、残った部分を再度プラズマ処理した。
※象嵌の露出処理
象嵌を露出させるには、それを覆っている錆を取り除かなければならない。プラズマ処理した遺物表面の錆は、象嵌線およびその周囲の堅く緻密な錆との界面で剥がすことが可能である。その作業は実体顕微鏡下でプラズマ処理によって浮いた錆をメスなどで丁寧に剥がすことによって行われる。(写真-5)錆を剥がすことが困難ならば、錆の除去は無理して行わず再度プラズマ処理を実施してから剥がす。再プラズマ処理は露出された象嵌部分をアクリル樹脂で保護してから行う。
写真-4 プラズマ処理中
写真-5 顕微鏡下の錆の除去
※脱塩及び強化処理
プラズマと露出作業後、ソクスレー脱塩処理装置を使用して遺物中に残存している錆発生の原因物質である可溶性塩類を除去する。その後、アクリル樹脂を減圧含浸して遺物の強化を行う。
このようにして重要文化財群馬県平井一号古墳出土柄頭の象嵌処理が行われた。(写真-6)
写真-6 保存処理後
プラズマによる象嵌遺物の保存修復技術が確立されたことによって従来の方法では象嵌の製作技術を失わせる危険があったが、この技術開発によってその危険性は少なくなり、タガネ溝の幅、タガネを打つ間隔、タガネを入れる方向、象嵌線の重なりが観察できるようになり、かつ銘文判読に影響を与える字画や撥ねを注意するような繊細な保存修復を実施することが可能になった。
このような技術開発は文化財としての価値の維持や博物館活動などの生涯教育などを支える基盤として重要な役割を担っている。
文化財の保存について何らかの理由で傷ついた文化財を修復して再生産することはとても大切なことである。しかし文化財の永い、永い生命誌を考えたとき修復をどうしても実施しなければ文化財としての価値が保てない限り修復しない方がよいと考えている。そのためには文化財の劣化や損傷をできるだけ予防することが必要である。文化財を活用しながら劣化を予防することはかなり困難なことである。そのためには劣化機構を研究し、文化財劣化の「環境影響評価」方法を早急に確立することが求められている。とくに鎌倉大仏のように屋外に保存されている文化財においては緊急の課題である。
地震や台風(風水害)あるいは火災などから文化財を守り、災害が発生したときにどのような対応を行うのか、いまだ多くの問題を抱えているのが現状である。阪神大震災いらい博物館などで展示台を免震構造のものに換えるなどの動きはあるが、まだ初期段階であり、今後さらに免震機器の研究開発が必要である。風水害の被害についても文化財防災の観点から被害の予測を行う研究は、始まったばかりであり、国宝厳島神社の台風被害が地理情報システムを利用した解析で一定のコースを通過した台風の場合においてのみ発生することが判明した程度である。気象関係者、防災研究者、風工学研究者などと連携して予報制度の確立や災害が発生したときの画像による情報交換システムなどの体制作りを行政担当者と連携しながら構築する必要がある。これには変化していく状態を衛星や自治体からの情報などをもとに整理体系化して対策を実施する行政と研究者の連携体制が望まれる
文化財の修復の観点からは、以下の点について様々な研究者との研究開発が必要である。
本来、「モノ」通じて一体で表現されてきた文化と科学が、産業革命以後の近代化の中で分離してきた。その結果、様々な矛盾を抱えてきた。複雑系の代表である「モノ」、文化資源の原点に帰って、活用して共通の研究基盤を作り新しい価値を創造できる可能性があると考えられる。
1)浜田 耕作『通論考古学』大正11年
2)樋口 清治・青木 繁夫「金属製品のクリーニングにおけるエアーブラッシュの応用」『保存科学』13号、昭和49年3月
3)『Current Problems in the Conservation of Metal Antiquities』1993年3月 Tokyo National Research Institute of Cultural Properties
4)青木 繁夫・犬竹 和「象嵌された遺物のプラズマによる保存処理について」『保存科学』34号、1996年3月
5)青木 繁夫「象嵌を持つ大刀の保存処理の変遷」『流廃寺跡金銀象嵌鉄剣科学調査報告書』福島県棚倉町教育委員会、2003年3月
科学技術・学術政策局政策課資源室