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大学の教員組織の在り方に関する検討会(第4回)議事録・配付資料

1  日時    平成15年12月19日(金曜日)   9時30分〜12時

2  場所    三田共用会議所 第3特別会議室(3階)

  議題
(1) 大学の教員組織の在り方及び職の在り方について
(2) その他

  配付資料
資料1   大学の教員組織の在り方に関する検討会(第3回)議事要旨(案)
資料2   教員組織検討会(第3回)における意見の概要
資料3   テニュア制度について(案)
資料4   助手の設置者別・文理別の実態について
資料5   これまでの各論点についての意見の整理(案)
資料6   大学の教員組織の在り方に関する検討会における意見の概要
(大学分科会(第30回)〔平成15年12月18日〕報告資料)

   参考資料1   諸外国の大学教員の比較(PDF:14KB)
参考資料2   欧米諸国における大学教員の職について
参考資料3   大学における各職の職務内容、資格等

(机上資料)
   教員組織の在り方に関する基礎資料
   高等教育関係基礎資料集
   大学審議会全28答申・報告集
   大学設置審査要覧
   教育指標の国際比較(平成15年版)

 出席者
  (委員)   黒田 玲子
  (臨時)   安西 祐一郎(座長)、荻上 紘一(座長代理)、井村 裕夫の各臨時
  (専門)   小野田 武、川村 正幸、福田 康一郎、堀江 孝至、森脇 道子、四ツ柳 隆夫の各専門
  (文部科学省)   遠藤高等教育局長、林科学技術・学術政策局長、井上科学技術・学術政策局次長、清木大学課長 他

 議事
事務局から資料についての説明があり、その後、教員組織の在り方について自由討議を行った。

(○:委員、●:事務局)

委員  資料3で、「当該大学の教員としての身分を保障する」と書いてあり、給料も全部保障するようにとらえられるが、必ずしも給料は保障されない。書き方の工夫をしたほうがいいのではないか。

委員  これは非常に大事なポイントで、テニュア制度に誤解があるのではないかと言われていた主なところはそこにあるのではないかと思う。テニュア制度の場合は、給料が保障されるわけではない。テニュアをとったからといって、居残るのは大変だという制度になっている。日本で任期付とテニュアを導入する場合、テニュアの方の評価をそのまま今のようにしておくと、任期付から見ると非常なギャップがあるということになるかもしれない。

委員  テニュアに関連して、特に国立大学がそうであるが、従来は定員枠と人件費がセットになっていたので、その感覚が非常に強くて、それがいろいろ誤解を生む強い原因になっている。定員の枠がなくなると人件費の枠がなくなるという発想が行き渡ればこの会の考えと同じになるのだろうが、いまだにそういう意識が強く残っており、誤解を生む強い原因になっている。

委員  テニュアと関連して給与の問題が出たが、関連して、ドイツの制度を調べていただきたい。ドイツの場合には、原則として昇給はない。昇給する分は、評価によって昇給するという制度の導入に踏み切った。日本でも、従来は年功序列であって人数によって給料も決まってきた。しかし、国立大学法人になると、大学が変えることが出きるわけだが、その場合にそのドイツの在り方というのも一つの参考になる。アメリカのように、給料を2割しか出さないとかそういうことは日本では出来ないだろう。やはり、昇給の在り方というのは見直さないといけないのではないか。

委員  テニュアトラックでひとつ教えていただきたいが、アメリカのこの制度で、どのような形で人事の流動性、つまり大学間の移動がうまく機能しているのか。

委員  テニュアの評価を受けて認められるとその大学のアソシエイトプロフェッサーないしはプロフェッサーになれる。日本での難しさはそこにあると思う。知り合いで、テキサス大学にいた者がテニュアはとれなかったが他の州の大学に移りそこでテニュアをとった。そういうことをアメリカではしている。その時点で動かないといけないというのが条件となっている。日本の場合、もしそういう制度を導入したとしても、アメリカのように簡単に動けるかどうかということは難しい。

委員  アメリカは日本のように給与法がないので、テニュアをとっていない場合はもちろん頻繁に動くが、テニュアをとってからでも他の大学にもっと高い給与で引き抜くことはある。日本の場合は引き抜こうと思っても給与法に縛られているので、少なくとも待遇面でということは、国公立の場合はほとんどできない。その辺もずいぶん違うと思う。

委員  私がこの質問をした理由は、日本でテニュアを作ると、逆に流動性がなくなる心配はないだろうかと。学部から大学院という連結を強めれば強めるほど実は学生の純粋培養は進んでいく。そういう事が逆に加速されるようなことではないかどうかと非常に気になった。

委員  任期付雇用がだいぶ増えて来たが、これがどこまでスムーズに行くのかどうか、そういうことを見守る必要があると思う。任期が終わった時にどうなるのか。ポジションが空けばいいが、そうでないと動かないといけないのが原則だと思うが、どこまでスムーズにいっているのかどうかが心配。

委員  教授としての業績をあげるためには大学院の学生が必要だと思う。そのためには、いい学生を囲い込む必要があるが、日本の卒業研究の制度というのは世界でもあまり例を見ない。卒業研究の時から囲い込んで大学院まで育てることによって、研究室の業績をあげる傾向はあるのではないか。
 アメリカの例については、テニュア制度の中での流動性には、給与の問題が絡んでいるかと思う。フルプロフェッサーでも同じ大学の中でも給与は違う。給与、待遇で引き抜くというのは確かにある。

委員  ドイツを訪ねた際、ドイツ文部省とミュンヘン大学に行って聞いた話だが、若干、本省と大学の間では温度差があって、本省の話だと、教授の給料は基本的な給料は一定であり、後は研究業績等評価に基づいて昇給するということを明確に打ち出している。州立大学に行くと、基本的には日本と似ているが、一定の数式のようなもの、例えば論文をいくつ出したかとかというようなもので基本的には給料を決めるというようなことを話していた。本当に評価しているという印象はなかった。大学によって違うのかも知れないが。

事務局  私どもが把握しているのは、従来2年ごとに1号ずつ昇給していたものを、準教授制の導入に伴い、教授を2つの層に分け、定期昇給のようなものを廃止したと。業績給については、準教授はなくて、教授のみ業績給を適用し、学部ごとに決定していると。その評価に当たっては、専門家による評価、学生の評価に基づいて業績給を決定している、ということである。

委員  ドイツの大学の医学部の方に聞いた話だと、自分の卒業した大学おける就職は認められずに他の大学において就職をする制度がずっと続いていたが、それが改善されてきたいうことだが。

委員  その原則はドイツの大学ではまだあるらしい。ただ、ジュニアプロフェッサー制度を導入するとそれが崩れるのではないかという心配はあるようである。

委員  一種の業績給を導入するというのはどうだろうか。

委員  大学の法人化にあたり、だいぶ給与についても検討したが、研究と教育だけで評価をして給与格差を設けるというのはなかなか難しい面があり、社会貢献とかも含めて多面的な要素で業績査定をしていくことになった。ただ、それもすぐにはなかなか決めにくい。なぜかというと制度的な仕組みをきっちり作らないと、異議申し立ての機会もしっかりと与えないといけないということで、納得できるしくみを作るのはすぐにはできない。ただ、3年、4年のところでやろうというのが方針となった。そういうことから言うと、現時点ではむずかしいかもしれないが、その方向性ぐらいを示すことはあってもいいのではないか。

委員  文化というか習慣というか、非常に難しいことだと思うが、日本の場合は教員の給与というのはほとんど事務的に決まる。主任教授や学部長が、この先生の給料をいくらにするとか決めるということはまずない。私学ではそういうことがあるのかも知れない。ところがアメリカや中国では事務的に決まるということはほとんどない。チェアマンなり学部長なりの考えで決まる。それがいやなら他に移る。これを日本で導入するというのはなかなか難しいと思うが、法人化で制度的にはできることとなっており、その辺を少し議論してはどうだろうか。

委員  現行でも、学部長が教員全員をみており、特別昇給とか手当ての増額とか、学部長の判断でできる例もある。その範囲は狭いが、だいたい一割ぐらいの幅で裁量でできる。

委員  すぐに実行できない問題が多いとは思うが、方向としてある程度のことを書き込めたら書き込んではどうか。方向としては能力給を導入するべきである。というのは、これから国立大学も法人化して、毎年、若干のカットを避け難い状況になると思うが、そういう中で従来型の給与制度を維持すると、大学としては非常に困るのではないだろうかと。そうすると今のドイツのような制度、あるいは、フランスの制度を、つまり年功序列給だったものを抑えて能力給を導入するといった、そういうどちらかの形を導入していかないと、これから法人化してうまくいかないのではないかと思う。

委員  日本の私立大学の多くは、国家公務員の給与体系をベースにしているところも大変多いと思うが、どの程度把握しているか。

事務局  いくつかしか見ていないが、大学の学則等を見ると、国家公務員と同じような形で、教授、助教授、助手とそれぞれ級を分けて、何号俸といった表を作っているところがあるのは承知している。

委員  何を言いたいのかというと、私学は本来自由にできるはずであるが、それにも関わらず、現実は今の説明のとおりになっている。要は、あまり業績評価とか、そういう差があるものをそもそも導入していない。給与も横並びであるというそういう実態の中で、どううまく制度を入れてそしてそれを機能させていくかということが、今、話に出ていることだと思うが、そこはやはり注意深く、なおかつ、知恵を出していかないとなかなか成果が得られないと思う。何かしらの方向性は出すにしても、給与とか評価ときちっと一緒にして提言しないと難しいのではないか。

委員  給与の問題だが、法科大学院の教員の例で言うと、一つの法科大学院の中で、年齢が同じぐらいの教授で給与が倍ぐらい違うケースがある。それは、実務的な経験もある先生を外から呼ぶために高くせざるを得なかったこともあるらしいが、やはり、必要性があれば私学の方は国立とは違い、かなり柔軟なことが行えるという、そういう可能性をもっているのではないかと思う。

委員  その辺は同感で、必要性があると確かに変わるとは思う。ところが、地方の私立短大の場合には、どういうことが現実かというと、人が得られないということのほうが現実。だから、今の横並びのところにあわせて、なんとかお越しいただくというのが、日本の場合の知恵だと思う。

委員  この機会にテニュア制を導入するのは望ましいと思う。ただし、あくまでも日本の場合、先生方の流動性を増やすことをやらないといけない。処遇については、固定的な給料と裁量給でやる。裁量というのは、必要に応じれば能力とは関係なく、いくら出してもいいというもので、そのような性格を強めていただくような、何か期待する方向を強めていただいて提言をしていただきたいと思う。

委員  私も基本的にテニュア制度を導入すべきだと思う。それから、やはりそこでできるだけフェアな選考をするということが、日本の大学の全体のレベルを上げることに役立つのではないだろうか。ただ、心配があるとすれば、テニュアを取れなかった時にどうなるのかということがあるが、地方の大学で空きがたくさんあるのであれば、そんなに心配することもないかもしれない。分野によっていろいろと違いもあるし。

委員  例えば、テニュアトラックのアシスタントプロフェッサーは給与がいいとか、若手研究者の研究費がとりやすいとか、何かインセンティブを与えることによって、若い人がそちらに行こうというふうになる仕組みを考えることが必要である。

委員  今下にいる若い人達からは、上にいる人たちの流動性のなさを指摘される。助手の問題でも、名前だけを変えて給与体系を変えないということでは意味がない。

委員  一つの問題は、3段階制がいいのか2段階制がいいのかということだと思うが、助教授の「助ける」をとってしまうと教授とあまり変わらない。教授でいいのではないかという考え方もある。しかし、やはり、教授ではなくて、教授に準ずる準教授の段階があったほうがいいということも考えられるかもしれない。そのあたり教授と任期つきの助教授との2段階でいいのかもしれない。教授、準教授、助教授の3段階もいいかもしれない。その辺の利害得失をいろいろと考えた上で、身分や名称を考えたらどうかか。

委員  教授・助教授・助手について、同じラインに並んでいるかというと、分野によっても違うと思うが、医学部でいうと確かに並んでいる。ただ、並んでいるものとして講師があるのは、医学部とかごく一部だけだとは思うが。

委員  それに関して、従来、定員の余裕があるときはそうだったが、現在は定員削減もあり、新しく部門や科目を作るときには、教授・助教授・助手を基本ユニットとせざるを得ない。従来の構図はあまり成り立たなくなってきているのは事実。その3つが講座を引きずっているからまずい。
 平成13年の設置基準の改正の表現も非常に曖昧。しかも、講座学科目省令が廃止されたが、それが周知されていない。以前の省令を見ると非常にたくさんの講座がきちんと書いてあるが、それが撤廃されたにも関わらずまだあるように皆誤解している。ここがポイントで、ここを変えていかないといけない。では逆に、ばらばらでいいのかというと、そうではなくて、一つのユニットとして3つにするのか4つにするのかぐらいで議論して、それを講座と言う名前にしないなどの方がよいのではないか。

委員  大講座制といっても実は名前だけで、講座を5つ集めているだけの話であって、それぞれの講座は独立していて、権限は何もない。そういう形が非常に問題。基本的には、学科目制をとり、そのかわりチェアマンをきちんと置く。そのチェアマンが責任を負う。そういう形にすればいいのではないか。それから、段階については、やはり3段階ぐらいが現実的ではないかという気がしているが、教授と、教授に準ずる2つはテニュアポジションで、その下のものはテニュアトラックというあたりが比較的現実的かなと。そしてその際、講座は廃止して、全部学科目で、そのかわりチェアマンを置き、責任を負うような形がいいのでは。

委員  これまでの議論から言うと、学校教育法58条の、学長・教授・助教授・助手の「助手」のところを落とす形になると思うが、今のテニュアトラックの助教授相当の人については、教授・準教授とここに定めた時に、そういったテニュアトラックの者を置くか置かないかは大学の実情に応じて違ってくるので、そこのところは「置くことができる」というふうになるのだと思う。それから設置基準の第9条を見ると、教授と助教授、教授と助手が最低ラインとなっているが、講座のこういう規定は廃止したほうが使いやすくなるのではないか。また、教授だけで講座制を持てるようにする必要があるのではないか。

委員  アメリカの場合、チェアマンがオーガナイザー的な役割を担っている。日本の場合は、講座の主任教授になった人は全権を握っているという印象がある。大講座制にして主任というものを作った場合にも、主任になった人が全権を握って全てを運用するシステムを導入しようとすると、大講座といいながら、中にある小講座が分離した形で機能するような形になってしまうところがある。教授というような人がプロモートされて増えてきた場合、その運用の在り方というのは、日本の今の感覚でいうと、アメリカのようなチェアパーソンがオーガナイザーとしてやっていくシステムはなかなかうまう機能しないのではないか。
 大講座に向けた各大学の動きは進んできているが、今までの講座組織を合体させた大講座にし、研究教育診療体制もうまく機能し、話し合いでうまくいっている大学はある。ところが、一方では、大講座になりながら、結局、小講座に分離してしまったという捉え方をしている大学が多いのも事実。その辺、講座制の捉え方が運用の仕方によってだいぶ違うのではないかというのは危惧するところである。

委員  うまくいっているところというのは、リーダーシップを唱えてやっているところ。大講座になったとはいえ、ほとんどの大学は従来の発想が抜けずにそのままになっているのが多い。問題は、新しい教育体系に変えたいという場合に、それが出来ないことである。そもそも一緒にやろうという発想がない。これがやはり問題である。
 現場では、講座学科目省令が平成13年に改正になった時を契機に、単位認定の権限はなくなっていると説明している。しかし、従来から自分がこれを担当していると思いこんでいる者が多い。この授業科目を担当するんだ、この診療科を担当するんだという。その権限は法的には何の根拠もなくなっているのにもかかわらず、現場では、未だに権限を持っていると思いこんでいる節がある。ここの講座制の部分が中途半端な書き方だと、現場ではまだ権限が残っていると錯覚するのではないか。

委員  明治以来続いているものを変えるのはなかなか大変だと思う。アメリカの内科の場合、主任教授がいて、その下に現在で30〜40名いるが、その教授を全部束ねてオーガナイズをしないといけない。研究面ではそれぞれは完全に独立しているが、臨床面ではチェアマンが責任を負って全部決めている。だから、そういう形にしていくと学科制でうまくいくのではないか。という気はするが、明治以来のメンタリティーが続いているので、講座の教授になったらこの講座はおれの物だ、と皆思っている。しかし、最近それでいけないという動きが出てきて、例えば外科では、4人の教授のうちの2つは分野を決めた外科の教員にして、残りの2つはその時その時に選ぼうと。全体を学科制にしようということでやっている。それがうまくいっているのは、やはり、リーダーシップのある教授がいるところだが、その者がいなくなるとうまくいくかどうか分からない。
 そうすると、基本的に講座制というのはやめて、学科制でやると。学科のチェアマンの権限、教授の権限をきちんと決めて、教授も本来はアメリカで見ているとそんな大きな権限はない、自分の研究を進める権限はそれは持っているが、大学運営に関してはチェアマンが大きな権限をもっている。そういうふうに制度を変えていかないといけない時期に来ているのではないか思う。個人的には、学科制にして、チェアマンの権限をきちんと定義してやることが重要ではないかと思う。

委員  工学部にいた経験があるが、そこはそれほど絶大な権限はなく、むしろ若い人を育てるのに一つのユニットとして機能していたと思う。今は大講座制になっているが、実態としては、小講座の集合になっている。ただ、それでも、様々なプロジェクトに対し、共同して仕事をし、共同して人を育てるということがある。若い研究者を育てることを考えた時に、研究者の成長に対し責任を持っている人がいるということは、完全に一人一人がばらばらになってしまったときの育て方とは少し違う良さがあるかなと思う。今まで講座という形で運用されたので、学科目にして大講座にして、それでも人を育てる体制を運用で作っていくことはできるかと思う。

委員  組織というものは、大学院重点化大学だと、研究組織は下部で、教育組織はぜんぜん別に更地で作っていく。また、その方が教育組織には他の学部まで巻き込んでカリキュラムを構成しているので、かえって、今のところよく機能している。つまり、教員組織が教育を軸とするのか、研究を軸とするのか、大学によって相当違ってくる。そのことを踏まえると、なかなか今回の件について、テニュア制も含めて一気に結論を出すのは、現実には相当難しいのではないかという気がする。

委員  基礎医学は、従来、生理学、生化学、解剖学、病理学、全部講座単位で教育を行うシステムだったが、医学部においては、モデルコアカリキュラムとういのが提示されており、その対応をするために、講座単位の教育をやっていたのではできない。つまり、呼吸器なら呼吸器というものについて、解剖の先生が構造を教え、呼吸器の機能について生理の先生が教え、そこへまた放射線の先生が画像がどうとか教える。そういう混ざり合った教育をしないと、今の教育は医学部ではできない。若い人たちは実に如実にそれを感じており、むしろ、基礎のほうから従来の講座単位のシステムを改めるべきだという。したがって、基礎講座は大きく言えばひとつの講座単位にしてしまい、その中で各教員が何をやるのかという、そういう動きになっている。だから、講座が教育を主体にして考えた時には、具合が悪いのは明らかであり、その中で研究の独自性を持ってそういうことが認められて進んでいけばいいと思う。そういう方向で講座を捉えていくことも可能なのではないか。

委員  従来は教育も研究も全て講座単位でやってきている。どうしても講座はあらゆるものの単位になってきていた。しかし、今は変わってきている。そうすると学科目制というのは基本的には教育の単位ではないだろうかと。研究に関しては、今までは、国立大というのは、ある程度校費的なものがあって、若干の基盤的なお金があったが、これからはほとんどが競争的研究資金になっていくだろう。競争的研究資金がとれないと研究ができなくなるだろう。しかし、教育はやるべき。そうすると、学科目制で、そういうほうがやりやすい。研究面は、チームを組まないといけないので、たとえば教授と任期制の助教授が組んであるテーマをやるとか、いろんな組み合わせが作れる。

委員  講座の枠というのは、その中にいる人にとっては安住の地であるが、今はそういう時代ではなく、講座の枠を越えた取り組みが不可欠になっている。研究にしろ教育にしろそうである。よって、教育組織として学科目として、必要ユニットは何かということを語る際、それがうまく構成してひとつの教育を担当できるように組織を構成できるような配慮をしておかないと、また同じユニットになってしまう可能性がある。では、ばらばらにしていいかというと、それでは何もできない。一つのユニットとして、何がどれくらいの人数の基本構成をするかということと、教育にあたっては、それがうまく組み合わさる条件を制度の中にうまく組み込めれば一番理想的である。

委員  助教授の規定の「助」という文言は、実質的に意味がないので、なんらかの形で削るべきだと思うが、ただ、その場合、教授という1つのパーマネントテニュアのポジションがいいのかというと、後に不自由になるのではないか。2つのポジションがあって、昇進というようなことで何かの評価が入るような仕組みにしておいたほうが、全体の活性化になるのではないか。ただ、それぞれの2つの教授職が何ができるかという責任というのも、その裏腹に考えておかないといけない。例えば、上位の職に上がるときには、同一大学では禁止するというものも大学によっては決めていいのではないか。その辺をフレキシブルにするためにも、段階としては2段階が望ましいと思う。

委員  助教授という名前はやはりこの機会に変えたほうが良いだろう。ある程度プロモーションというものがないと、評価が難しくなってくるので、そういう意味で、段階としては3段階くらいがいいと思う。
 それから、運営上の責任を負うのは上位の教授でないといけないと思うが、それ以外の教授も研究的では独立してやれる、そのような立場がいいのではないか。3段階というのは、アメリカで言うと、教授・準教授・助教授。そういう形で準教授以上はテニュアにして、一番下はテニュアトラックにする。そういう3段階がいいのではないかと思う。講師というのはこの際考えずに、準教授にまとめてしまっていいのではないか。

委員  評価を入れるとなると、3段階ぐらいは必要ではないだろうかと。講師、助教授、教授の名称は変えたほうがいい。それから、長い歴史の中で社会的にも、講師・助教授・教授の名称が認知されていると思うので、それを払拭するだけのものがないと、様々な影響が出てくるのではないかということを懸念している。
 また、これからは評価、競争というものも入ってくるので、その場合には、国際的には3段階だとしても、その大学ではもっと様々な資格制度というものを入れていかないと、たぶん対応できなくなるのではないか。それはその学校の考えでいいのではないかと思う。

委員  例えば社会科学の領域では、助教授というのは、単に教授になっていない若手の教員という捉え方であり、ほとんど対等で助けてもらうことは無いという関係なので、個人的にはあまり助教授について改めなければいけないという意思は強くない。ただ、教授に上げる際に何らかの審査が必要というのは、これは間違いないところであり、それを準教授という名称にするということであれば、それはそれでいいのではないかと考える。ただ、社会的に新しい名称が根付くかどうかという問題はあるかと思う。

委員  実際、自分の配下に置いて研究の手助けをさせている例は多い。やはり、名称の問題で、助けなくてはいけないということで、助けることをやっているところがあるのは事実。分野によって多少違うとは思うが、やはり外国との比較で、インターナショナルにどういう位置づけにあるのかということを比べればいい。ただ、トップの教授とは明確に区別して、そこに厳しい評価をつけるのは理想的だと思うが。

委員  助教授については、「〜を助ける」という職務規定を読んで助教授になった人はいないと思うが、その職務規定が実態とかけ離れているのであれば、それはそれで文言を直せばいいと思う。職務規定がそう書いてあるから助けている人は一人もいない。助教授は現在それなりの地位があるので、その名称についてあまりこだわっている人はいないと思うが、職務規定が変なのでこの際変えるというのであればいいと思う。本質ではない。

委員  段階としては、3階層だろうと思う。現在の助教授はアメリカでいうアソシエイトプロフェッサー。問題は助手相応の名前をどうするか。実態的にはアシスタントプロフェッサーが助手の役割をしているのであれば、そういう名前をつける。昔の日本でいうと、アシスタントプロフェッサーというと、教授を助ける、助教授を助けるということで、なんとなく講座制をイメージしてしまうが、そうではないんだという法律上の定義をきちんとして、社会的には助教授というのは定着しているので、なおかつ助教授の中で力がある人たちを準教授とする。そういう3階層かなと。また、助手相当のところは、教官に育っていくラインとは別かなと。教官になって行く人たちは3段階にする。

委員  そのことが結局、テニュア、テニュアトラックのケースと違うケースに分けようというのがそもそもの議論だったと思うので、テニュア及びテニュアトラックでいえば賛成でいいのではないかというところが、なんとなく皆さんの理解となっている。ただ、日本の助手の方があまりにも職域の幅が広いので、アメリカのアシスタントプロフェッサーに相当する方が何%なのかはこれから精査していかないと、全員をアシスタントプロフェッサーにしてしまうと、とんでもないことが起こってしまうということになる。

委員  一番はじめに議論があったのは、じゃあ助手を全部そうするかというのは間違いで、将来の研究者養成のコースの、あるいは組織の機能単位としてのユニットの中に組み込まれる職名として、わかりやすく言うと、講師相当に力のある者を置く。そのアシスタントプロフェッサーにする。ということにしておけば、まだ助手は各大学により事情があるだろうから、残しておくことも可能にしておかないと、一律に上に上がったら大変なことになってしまうので、その辺の配慮をしていただければと思う。

委員  テニュアトラックというと全てが上に上がっていくと思われるが、実はそうではなくて、激しい競争社会があって、別に落ちこぼれたというわけではなくて、別の大学のテニュアトラックに行くか、そうではなく自分はやっぱり企業の開発研究に行くとか、先生になるとか、いろんな人生のキャリアパスのネットワークがある。日本はそれがないとすると、割合を何%対何%対何%で思い描いて3段階のキャリアパスを作るのか。そのビジョンを描いておかないと、結局ぐちゃぐちゃになってしまって、上に上がれない人が溜まってしまうことになるのではないか。

委員  その点は前回も申し上げたが、日本の医学部だと、きわめてピラミッド型の定員制がひかれているわけだが、例えば講師の人が助教授、そしてテニュアになる。さらにその人が教授に上がってくるとなった場合に、頭がつかえていない状態、要するにどんどん数を増やしていっていいのかということも、非常に重要だと思う。
 教授も、チェアパーソンがいてその人が非常に管理能力があって、絶大な権限があるということではなく運用してくれればいいが、それから、各部門の長になる教授の人たちが、協議体としての運用の仕方を理解して、そのように取り組んでくれればいいが、そうでなくやった場合には、それこそ分離してしまって、講座制というのはむしろ悪い方向に行くのではないかということもある。システムとしてどういうピラミッドなのかどうなのか。その辺のところの議論が非常に重要だと思う。

委員  今の話は、各大学の教授定員が何人いるか、助教授定員が何名いるか、というやり方をとっている大学からすると、どう対応していいのか分かりかねる面もある。今までの議論からいうと、結局、準教授というのは助教授としてしてきた人たちを指しているんだろうと思う。そこまではテニュアだろうと。で、そのテニュアトラックのところを、今の助手層の一部を、まあ、講師の層だろうか、その中からいわゆる新しい助教授を作ろうというのが今までの議論だと思うが、そのうえピラミッド構造も考慮していく議論というのは、これは議論し切れるのかなと。これはかなり各大学の運用の問題に関わってくる問題なのではなかろうかなと思う。
 それともうひとつ、今までの議論が3段階と言っているのは、これは教員としてのものなのかということ。問題はこれまで助手は教員の一種として扱われてきた。国家公務員の給与体系から言うと間違いなく教員の給与である。だから、そこのところにメスを入れていかないといけないのではないかと思う。いわば教員でもない、事務職員でもない層というふうなものを、現在の助手の一部を、半分ぐらいをそちらに移すのか、明確に移すのか、教員の層は助手の一部でこれだけだと、いうふうにするのかどうかということ。

委員  保健系の教員がピラミッド型になっているのはやはり理由があり、臨床実習をかなりやらないといけない。その実務的な指導をする教員組織として置かないといけない。それが助手が多い理由。特に臨床系に関しては、その定員が配置されているので。

委員  それから、ひとつの大学の問題ではなく、内部昇格、つまり移動しないということも問題があるのではないか。かならず上がるということを考えてもらうと困る。やはり上に行くときは飛躍してもらわないといけないわけで、中で飛躍してもいいけど、外でも飛躍してもらわないといけない。内部昇格が2回続けてできないところもある。助手から助教授になった人は、絶対に教授になれない。そうでもしないとずるずる上に行ってしまう。そういうことも考慮したシステムを作らないといけない。

委員  現状では、国立では違うのかもしれないが、多くの大学では、講師の昇格で公募するというのはまず無いと思う。また、公募で助教授を採用すするというのもまず聞かない。教授については原則公募でやっているが、それ以外では大体外部からということが多いだろう。

委員  助手の公募ということについては、例外だろう。では、どういうスタンスが一番多いかというと、大学院の博士課程の修了者に対して、その中で指導教授が能力を見ているというのが多いパターン。あるいは臨床系だと、そこの実績を勘案して、要するにティーチングスタッフとして助手を採用している。助手は医学系では学位は取得している。そういう形で採用しているので、自校出身者の割合というのは、卒業後の教育段階から出ている場合には高くならざるを得ない。ただし、最近に変わってきており、教授選考に関しては、公募して選挙をやると、自校出身の者が負けるパターンも多くある。

委員  臨床系では、卒業した人が大学の附属病院に残って臨床のトレーニングを受けて、そのままプロモートされていく。今後は、来年から臨床研修の必修化ということになり、卒業した人たちがみんな2年間の臨床研修が義務化されて、定員が各大学病院決められたので、卒業生でも自分の大学で受け入れることができなくなった。従来より10%強の人が今まで以上に他の施設に移動する、混ざり合うようなことになる。そういう動きが始まっているので、これからは自校出身者ということだけではいかないだろうと思う。

委員  教授については、階層としては3段階ぐらいが妥当ではないかという意見が多く見受けられる。それから、名称に関しては、どうも教授・準教授・助教授でいいのではないかという意見が何名の方から出されていたように思う。職務内容に関しては、「〜を助ける」という規定は改めないといけない。職名に関しては、必ずしも「助」という字を排除しなければいけないという意見でもないように思う。

委員  今いる助教授と、新しく作ろうとしている助教授はぜんぜん格が違うので、社会的に混乱するかも知れない。今は一般の人には助教授は結構えらいという感覚が結構ある。

委員  社会的には間違いなく混乱を起こすのではないか。アメリカのアシスタントプロフェッサーに見合う日本の名称は「助教授」はとるべきでないと思う。むしろ、「教授補」、「補教授」にするとか、何か全く違うものをつけないと、明らかに混乱を起こす。

委員  今の助手を講師にしたらどうか。確かに今の助教授より下だという概念は定着していて、もうちょっとで助教授になる人ということで。

委員  講師という名前は非常に幅広く、助教授の下の意味の講師もあるけれども、そうではない講師もいる。

委員  名称に関しては各の先生が知恵を絞っていただければいいと思うが、例えば「権」というのも考えられる。判事補もあるので、「教授補」も考えられるかも知れない。

事務局  実態面に与える影響も考えないといけないのではないだろうかと思う。今現に、助教授というポストがあって、助手の人の一部をそちらに位置づけるということになると、どうしても上へ上へとなる。国立大学については法人化するが、法人化したばかりの段階で、実態面あるいは給与面、雇用面その他への影響があるのかなと。現実に与える影響も考えないといけないのではないだろうか。

 次回の日程
次回は、日程調整の上、決定することとなった。



(高等教育局大学振興課)

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