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これからの博物館の在り方に関する検討協力者会議(第15回)議事録

1.日時

平成19年10月31日(水曜日)13時〜14時

2.場所

学術総合センター「中会議室2」

3.出席者

(委員)

佐々木委員、鷹野委員、高安委員、中川委員、名児耶委員、水嶋委員

(事務局)

平林社会教育課長、栗原地域学習活動推進室長、渡部社会教育課長補佐、神保美術学芸課美術館・歴史博物館室長補佐 他関係官

4.議事概要

  • (1)事務局より、挨拶と意見発表者(川崎繁氏)の略歴紹介があった。
  • (2)主査より、挨拶があり、内容は以下のとおり。
    •  委員会の中で、博物館法改正について議論しているとき、多くの委員から、当時の状況を考えると、これだけ行き届いた博物館法をつくられたというのは大変なことだという評価の意見がたびたび出ており、博物館法をつくるときに中心的な役割を果たした先生が、今、我々に当時のことも含めてお話しくださるという、これは我々にとって、今後の検討を進める上で重要な糧になるのではないかと思っている。
  • (3)川崎繁氏から、意見発表があった。
    •  今日は、博物館に関する分野でご活躍の皆様のお集まりで、日頃からいろいろとご苦労なさっていることと思います。心から敬意を表したいと思います。
       私も、縁あって、人生初の仕事が博物館、美術館、図書館の仕事でございました。それが今からおよそ半世紀前の昭和22年10月でございます。配属されたところが、当時の社会教育局文化課の図書館・博物館係でございました。
       当時は終戦直後で、食べるのに困るような状態でございましたが、どのようにして国の復興を図るのかというさなかで、とにかくこれからは文化をもって立国の精神にするということから、図書館や博物館は、一番先に手がけられる仕事になったわけであります。何せ終戦後間もなくですから、図書館、博物館に限りませんが、教育、文化の立法がメジロ押しです。教育、文化に限りません。全てにわたって新しい法律がどんどん出てくるわけでございます。ほんとうに法律の作成ラッシュでございました。
       博物館にしろ、図書館にしろ、早く法律をつくり上げて、しっかりした制度をつくってほしいというのは、明治時代から運動としてありました。それが昭和に入って、いろいろ経緯がございましたけれども、ようやく戦後の占領治下で立法化が進み、図書館についてはアメリカの後押しがありましたが、私の記憶では、博物館についてはアメリカが後押しをしたという記憶はありません。博物館は自力でやりました。これは余計な私の所感でございますが。
       そもそも博物館創設の動きは歴史的にも古く、実は明治4年(1871年)に、前年、政府が物産局仮役所を設けて、日本の古今の物産の収集・調査を始めて、これを湯島の大成殿にまとめて「観覧場」としたのが、博物館の発端になっているわけです。
       図書館との比較をしながら申し上げますと、法制的には図書館が先行し、明治32年に「図書館令」ができました。これはやはり図書館関係の方々のご熱心な動きがありました。この問題についてはたしか、椎名仙卓さんが、国立科学博物館におられたころに調べたものを、日本博物館協会発行の『博物館研究』で発表しておられます。要するに、この「図書館令」で公立図書館の館長、書記の職制が定められたのです。待遇は判任文官相当にする、身分取扱は公立中学校の教諭に準じる等、採用その他を含めて制度化されました。その後(明治39年)、「司書」の職制も定められ、館長、司書については、奏任文官待遇とするなどの改正があり、大正になってから、「公立図書館職員令」と名称が変わります。これが後々、司書の養成制度につながっていくのです。さきに筑波大学に統合した図書館情報大学は、その前身は、上野にありました国立図書館が国立国会図書館の創設により統合された際(昭和24年)、その附属施設であった「図書館職員講習所」を文部省に存置し新設した「図書館職員養成所」です。
       戦後の図書館の「司書」という専門職員は、「養成所」を経て日本全国に散らばっていきました。「養成所」においては、高校卒業程度で2ヵ年、大卒1ヵ年受講料は無料でした。一流の講師をお呼びいたしまして、例えば東洋史で言えば、日本学士院会員でおられた石田幹之助先生など、そういうレベルの方に安い謝金ながら講義をしていただきました。
       当時は、就職もままならず、受講料は無料でしたから、とにかく受講希望者が大勢やってくるので、試験で選抜して入学させていましたが、そういう意味では優秀な人たちがどんどん育っていきました。明治以降の法令的なそもそもの制度が、そういう具合に全部尾を引いてきているわけです。
       博物館については、博物館法に生涯をかけて尽力された棚橋源太郎先生(1952年初開設の立教大学初代博物館学講座講師)のお話によると、明治30年当初、「図書館令」の話が出たときに、当然、博物館にもその話があったようであります。
       しかし、職員の身分、待遇問題について、博物館関係者の意見がまとまらなかったようです。それは、職員の身分・待遇を高等官相当とする案について、一部、勅任官在官者から強く反対され、一方、内務省からも、高等官というのは当時、相当偉い待遇でございますから、高等官をそんなに全国につくられたのではたまったものじゃないと一蹴され、頓挫しました。
       ところが図書館のほうは、すっと流れていくわけです。今、私が申し上げていることは、博物館法をつくるときの立法の一つの基本である、博物館の概念の整理をするときの問題にひっかかってくるのであります。立法のときの第1段階として考えたのは、これはもう博物館界の念願でもあり、特に棚橋先生の持論でございましたが、博物館の総合法にすべきである。つまり、公私立、国立、大学の附属施設、それらを網羅した総合的な法律をつくって、職員制度を明確にし、助成政策を打ち出すべきだ。これは年来の主張であったようでございます。
       そのときに、動物園、水族館、植物園等のカテゴリーを博物館の概念に統括することが出来るのか出来ないのか、相当議論したわけであります。たしか、関西の動植物園、特に水族館関係者は、そんなに無理をして博物館法の中に入れてもらわなくてもいいのではないかというお話もあったように聞きました。東京の方では、博物館という広い概念から言えば、動植物園、水族館も何ら異なるところはないのだから、当然のことながら概念に含めるべきではないかとなったわけです。
       そこで、当時の上野動物園の園長であった古賀忠道先生が、その調整に大変な努力をされ、博物館概念を構成する立法寸前まで努力されました。関西側も、絶対に反対という声があったわけでもないようでしたから、その辺は議論がおさまりました。
       この点、ひとつ問題が残りました。特に関西では、所管問題を留保していたわけです。立法上は、あくまで助成をするということもあるし、専門職員の資格を法定するわけですし、教育性、公益性が担保されなければなりません。
       そのために、教育委員会所管問題が出てくるわけです。ところが、動植物園、水族館関係者の一部には、そこまで強引に一色にしなくてもいいのではないかという意見があった。当時は、観光や産業振興の部局、殖産産業的な部署にセクションを置いて管轄していたところが、動物園や水族館には非常に多かった。
       日本における利用者総数を、立法前に調べたことがありますが、圧倒的に多いのは、やはり動物園と水族館なのですよ。しかも戦争直後ですから、みんな動物園や水族館に何か楽しみや潤い、心の安らぎを求めるのですね。だから、これだけ人の心を休ませたり慰めたりするものはないということを考えれば、博物館概念の中に入れない方がおかしいと思いました。
       さらに、欧米の文献がないか調べたら、やはりあるのです。アメリカのスミソニアン研究所・国立博物館の、グード博士が、論文で、どうして動物園等を博物館概念の中に入れて扱わないのかと主張しておられるのです。アメリカでは、つとにそういう扱いをしていて、そういう主張を明治の時代に言っておりました。
       このようなことも考えたときに、法律における「博物館」の概念には、従来の動・植物園、水族館全体を含めて定めるべきだ、ということがまず1つ確定しました。
       それでは国立はどうかというと、昭和24年に法隆寺の金堂が焼失し、その翌年には、金閣寺が放火で焼失しました。そこで、急遽、文化財保護法が昭和25年にできました。文化財保護法ができたときに、日本の文化財の保護行政を強化するために、文化財保護委員会ができ、その保護行政の一環を担わされたのが、上野の国立博物館です。したがって、上野の国立博物館は文化財保護委員会の附属機関になったわけです。これにより、我々が総合的に考えていた国立の一つが、すぽっと抜け落ちてしまった。
       文化財保護委員会所管ではありますけれども、国立博物館を博物館法上の博物館として規定を置きますから、いろいろ協力してくださいとお願いしましたが、文化財保護委員会の方は、それはしばらく控えてもらいたいと。今は、いかにして博物館の機能を使って文化財保護をやるか、懸命のところであるので、他の法律の適用など受けるのは、今はその時期ではないので遠慮してもらいたい、とのことでした。
       国立博物館を総合法のシンボルの一つに考えていたわけですが、図書館法(昭和25年)をつくるときに、その中核として考えていた上野の国立図書館が、その前年国立国会図書館に統合されたのと同じ運命なのですよ。総合法的な考え方が、そこから1つ崩れていくわけですね。せっかく動物園とか植物園、水族館が包含されていく中で、国の都合で、陥没していくような感じでした。
       そういうことで、図書館法と同様、公立と私立の博物館を直接の対象にする法律体系になったのです。
       そこで国立の施設が、博物館法上にいう類似施設になり、国立の方から反発が出た。
       それから、教育機関としての博物館の支援・助成を図る、また、学芸員の資格・養成を図るなどの意味で、公的に担保をするために教育委員会に所管を限定するわけです。そうすると、所管外の施設がたくさん出てくる。これらの施設から、我々をどうして同等に扱わないのかと、こういうひずみが出てまいりました。
       これらを総合して、当時、法的に説明をいたしましたのは、今一番やらなければならないことは日本の博物館の存続を保つことである。具体的に言えば、博物館の持っている貴重な資料の散逸を防ぐことである。博物館の倒産を防ぐことである。何よりもこれをまず一番緊急の課題にしなければいけない。さらに、そこで働く専門家をいかにして養成していくのか、未来を睨みながら考えなければいけないと説明いたしました。
       なぜならば、今もそうだと思いますが、日本の博物館の大多数を私立博物館が占めていました。それには、宗教法人が設立した施設も含まれます。今のホテルオークラに大倉集古館がありました。立派な博物館で、東洋的な貴重な資料が集められておりまして、立派な堆朱などがたくさんありました。建物もなかなか重厚ないいものでしたが、そこが経営難になりました。今でもホテルの一角に「大倉集古館」があると思います。
       地方にもこのような例が沢山出ました。博物館が潰れるということは、結局、資料を散逸してしまうことなのです。当時の占領下の話しですが、外国のバイヤーが日本の資料を買い求めているような話しをよく聞きました。博物館がいろいろと困っているからいい資料を売ってしまうケースもあるわけですよ。
       それから、博物館には、固定資産税、不動産取得税、市町村民税などが課税されますし、もちろん相続すれば相続税など、もうどうしようもない。中には、地方で展覧会をやると興行税をかけられるようなこともあった。それから後に、入場税が課せられようとしましたから、古賀先生をはじめ関係者が、大蔵省に何回話し合いに行ったかわからないです。
       税金をいかにして私立博物館から外すか、これがもう緊急な課題でした。これは税法上非課税規定を定めない限りできません。陳情ではできません。議論すべき課題はたくさんあるにしても、とにかくそういう問題に当面手を打っていかなければいけない。だから早く法律をつくり上げていかなければならない。多少の不始末も後で直すというぐらいの勢いで取りかからざるを得なかった。
       学芸員資格の問題もそうです。図書館には司書資格があり、養成機関まであるにもかかわらず、博物館はそういうことについて非常に不備である。これではいかんということで、これも大学を中核にして養成していくことになったわけですが、当時は大学と講習と並行して行ったわけですが、その講習は芸大でやりましたが、これがもとになって大学の博物館学講座が構成されていったのです。
       当時の講習は、1カ月やりました。しかも自然科学と人文科学を、当時は分けてやったわけです。ただこれは後に、どうも現実に即さないということでやめになった。しかし、これはいかにしてその専門性を生かすべきかというあらわれだったのです。
       いずれにしても、課税問題をいかにして解決するかは大きな問題でしたから、説明として、緊急性ある立法としての性格を強く訴えたわけです。
       これは余談ですが、博物館法ができてから、渋谷駅前に五島プラネタリウムという財団法人ができました。そこは、戦後初めて、ドイツのツァイス製のプラネタリウムをしつらえて開館しました。その機械は、輸入品ですからウン千万円ぐらいして、それに高額の関税がかかります。そこで大蔵省と折衝して、関税定率法の免税規定を適用してもらいました。これは大変喜ばれましたね。今でこそなくなりましたが、当時プラネタリウムはあそこしかなかったものですから大変なものですよ。
       そんな具合で、税金は随分、博物館の運営に大きな影響を与えるものだなと思いました。
       そういうことで、博物館概念の集約と登録制、学芸員資格の設定と養成問題、それから免税の問題、また公立博物館に対する助成などを規定いたしました。このような内容が、当時の立法の主要な骨子となったと申し上げることができるのではないかと思います。
       いずれにしましても、立法のときに、外国の法制度も随分調べましたが、大ざっぱに言うと、博物館法ができるちょうど100年ぐらい前に、「ミュージアム・アクト」がイギリスにできています。日本語では、博物館令と訳したほうがいいのかもしれませんが、図書館の方も、図書館法ができるちょうど100年ぐらい前に、これまた「ライブラリー・アクト」というのができております。日本はやはり100年遅れているのだなと思ったことがありますが、それはしかし、その国々の状況ですから、こだわるべき問題ではありませんが、それだけ博物館や図書館に対する認識が、欧米に比べて日本はまだまだ立ちおくれていた面があったのかなという思いは致しました。
       私はもう職を退いてしばらくたっておりますから、その後の状況は全然わかりませんから、どうも的外れなことが多いと思いますけれども、私は私なりに、これからの博物館に期待したいと思うのは、個々の博物館がひとりで相撲をとるというより、むしろ、その個性を生かして、内外の博物館等と連携、連合を組み、その蓄えたすぐれた資料価値や調査研究成果をもとに広く活動を展開していただきたい。そして国は、これに積極的な支援・助成に努めることを願うものです。
    •  どうもありがとうございました。やはり先生は博覧強記でいらして、また将来に対する提言までお付け加えいただいたので、今後の討議を進めていく上では大いに参考になりました。先生は、かくしゃくとしておられますので、また機会を設けて、言い足りなかったことをじっくり伺う機会を設けてみたいと思っております。
       それから皆さんのお手元に、博物館法の制定について、先生のレジュメと、「博物館法の思い出」という文章がついております。中をお読みしますと、現在の我々の討議している内容と非常にオーバーラップするところがございますので、これもじっくりお読みいただきたいなと思っております。
       それでは、本日の会はこれで終わりです。ありがとうございました。

─了─

(生涯学習政策局社会教育課)