子どもの徳育に関する懇談会(第3回) 配付資料

1.日時

平成20年10月24日(金曜日) 14時30分~17時

2.場所

合同庁舎7号館東館3階 2特別会議室

3.配付資料

4.出席者

委員

鳥居 泰彦 座長 (日本私立学校振興・共済事業団理事長)
鷲田 清一 座長代理(大阪大学総長)
天野 秀昭 委員 (特定非営利法人日本冒険遊びづくり協会理事)
大野 裕 委員 (慶應義塾大学保健管理センター教授)
河合 優年 委員 (武庫川女子大学教授)
坂口 一美 委員 (社団法人日本PTA全国協議会常務理事)
馬場 喜久雄 委員 (板橋区板橋第八小学校長)
平野 啓子 委員 (語り部・かたりすと,大阪芸術大学放送学科教授,武蔵野大学非常勤講師)
無藤 隆 委員 (白梅学園大学教授)
森 隆夫 委員 (お茶の水女子大学名誉教授)
森田 洋司 委員 (大阪樟蔭女子大学学長)
渡辺 久子 委員 (慶応大学医学部小児科講師)

オブザーバー

(ヒアリング講師)
岩立 京子 東京学芸大学総合教育科学系教授
櫻井 茂男
(文部科学省)
銭谷事務次官、玉井文部科学審議官、金森初等中等教育局長、徳久大臣官房審議官、森本官房政策課長、森社会教育課長、上月生涯学習推進課長、新田家庭教育支援室長、鬼澤企画・体育課長、池田青少年課長、高橋教育課程課長、濱谷幼児教育課長、磯谷児童生徒課長、塩原児童生徒課課長補佐 
(国立教育政策研究所)
大槻国立政策研究所次長、中岡教育課程研究センター長筑波大学大学院人間総合学科研究科教授

5.審議の概要

(1)開会

(2)資料確認・説明

事務局から配付資料の確認があった。

(3)ヒアリング

岩立京子 東京学芸大学総合教育科学系教授より「幼児期の道徳性の芽生えを培うために‐発達心理学と幼児教育の観点から‐」とのテーマで発表があり、関連の質疑応答がなされた。

<岩立教授より発表>

「幼児期の道徳性の芽生えを培うために」と題して、発達心理学と幼児教育の観点から発表をさせていただく。今日の発表の要旨は3点。1点目は「道徳性の芽生えはいつ頃、どのように見られてくるか」。2点目は、「親のかかわりは幼児期の道徳性の芽生えにどのように影響するか」。3点目は、「幼児期の道徳性の芽生えを培う幼児教育・保育のアプローチ」はどうか。まとめに、「幼児期から児童期へ道徳性の芽生えを培うために何が必要か」ということを保育者の資質向上の観点から発表せていただく。

1.道徳性の芽生えはいつ頃、どのようにみられてくるか

  道徳の発達研究における乳幼児のとらえ方は、PiagetやKohlberg古典的アプローチによる研究パラダイムでは、子どもの悪い行為に対する社会認知的判断が指標となっている。この測度では、乳幼児は自己中心的、前慣習的思考家として位置付けられ、他者から与えられる魅力的な誘因や罰に反応する自己本位なモラリストとして位置づけられてしまう。これは、幼児教育にかかわっている者としては、乳幼児が非常に過小評価されていると感じる。
  一方、近年の発達研究では、道徳について、Kochanska、Thompson、Grosseckといった研究者たちが広い枠組みで「子どもが自己と他者をどう調整しながら社会化されていくか」という観点から研究を始めた。道徳的感情面、すなわち認識だけではなく自己意識、生まれ持った気質、心の理論などから広く研究している。今日では、0歳代から他者の思考や感情、信念に非常に興味を持つ他者志向的な有能なモラリストとしての位置付けがなされ、特に生後3年間の発達が明らかにされてきている。道徳性の芽生えの兆しがどのように現れてくるかについて見るとき、愛着は強調してもし過ぎないくらい重要な原点となる。生後0歳の後半ぐらいから、子どもは信頼の置ける他者に向けて自分から基準を取り込もうとして参照する。すべての価値やルールの学びの内化のスタートが0歳代後半にあると言われている。
  他者の心、意図、欲求、感情に気付くなどの行動基準の表象は1歳半ごろから見られ、基準や秩序が破られたことに対する感受性は2歳になるまでに見られる。生後3年間の間に愛着対象から日々の体のかかわり、情動表出、言葉による基準の伝達などを受け、それらによりプロトタイプの出来事のイメージが形成され、これがベースとなる。
  自己理解と自己調整の発達について最近着目されているのは、気質を反映した抑制的なコントロールの個人差が1歳代ごろに出てくるということである。“「ダメだ」と言われて一瞬止められる”といったような単なる外からの刺激への反応ではなく、自己調整的な主体的な注意の向け方に個人差が出てくる。
道徳的感情については、2歳から3歳頃に、誇り、恥、罪など自律的なコントロールにつながる感情が芽生えてくる。認知的測度ではなく、感情的、行動的測度をとると、生後3年間の発達が着目されてくる。その後、幼稚園で集団に出会い、生活していく中で確かなものになってくる。

2.親とのかかわりは幼児期の道徳性の芽生えにどのように影響するか

養育態度と道徳性の芽生えの関係に関する研究があるが、Baumlindは、親の育児行動を1権威主義型、2威厳のある、3許容的の3分類に分け、一番よいのは威厳のあるかかわりであって、社会的責任感、協力、仲間との友好関係、向社会的行動との関連を示すとしている。Hoffmanは、親のしつけ態度を1理由づけ、2力の行使、3愛情の除去の3つに分類し、「理由づけ」がいちばん罪悪感や共感と関連しているとした。Likconaは、親が公正的であろうと努力していると感じていると、子どもたちも親の制約を受け入れようとすることを示している。

3.幼児期の道徳性の芽生えを培う幼児教育・保育のアプローチ

DeVries&Zanは、アメリカの幼児教育を1軍隊型、2コミュニティー型、3工場型の3つに分類している。「軍隊型」は、保育者を軍曹に例え力づくで子どもに言うことを聞かせていくこと。「工場型」は、子どもは尊重するが、工場長のように同じものを効率よく生産していくようなかかわり。「コミュニティー」型は、子どもを尊重し、他者への肯定的な態度で問題が生じると、話し合いで納得を導きながら解決するということであるが、この型は、子どもに対する脅かしや罰が見られず、道徳的な性質を育てるという結果が出ており、公正主義的アプローチと言われている。
  Hollowayは、外国人の目から見て日本の幼児教育を、1関係重視型、2役割重視型、3子ども重視型の3つに分類している。「関係重視型」は、関係性を重視するがゆえに個があまり重視されなくなる。「役割重視型」というのは、外から与えられた役割に忠実に動くように強制していく。「子ども重視型」は、現在、重視されている柔軟な創成カリキュラム(エマージェントカリキュラム)で、子どもの発達に応じて子どもの発達の足場づくりをしていく。Hollwayは、日本の幼児教育は、どの型のものもたくさんあって、きわめて多様だと言っているが、自分としては、日本が目指す幼児教育は「コミュニティー型」や「子ども重視型」と共通部分があると考えている。それは、子どもを尊重し、遊びや生活体験を通した総合的指導、環境による教育を行うということだが、その重要さについては、今のところ国民一般にはあまり知られておらず、あまり広がっていないと思う。

【日本の保育の特徴について、VTRを放映し説明】

次のビデオ映像は、3年間幼稚園に行く中で、自分を出せない子が友達とのかかわりの中で自分を出していき、遊びの方向に向かって自分をたくましく出して、ぶつかりながら、教師の援助を得て乗り越えていく姿を撮影したもの。表情に着目してご覧になっていただきたい。

※VTR放映〈幼稚園での遊びの場面〉

《説明》遊びが発展してきて、子どもたちは遊ぼうと思い非常に早く幼稚園に来る。もう何日か続いてどんどん遊びが発展していく。子どもたちは、やりたい遊びの中で自己を主張し、同時に、抑制していく。
  ~後のVTRの中で、けんかを始めることとなる一人の子どもを指し、
この子はすごく自分が出せない子だったが、5歳児になって非常によく自分を出せるようになってきている。

※VTR放映〈けんかがはじまり、教員の仲裁もあって、協同的問題解決に至る場面〉

《説明》子どもたちはやりたいことに向けて自分を主張していく。また、やりたいことに向けて葛藤や対立というものを修復していく。こういう場面は家庭ではなかなかつくれなくて、やはり幼稚園という生活の場、遊びの場で生じてくる。

4.まとめ

「道徳性の芽生えはいつごろ、どのように見られてくるか」については、生後3年間が色々な発達の側面で、情動、認知、行動調整といたっところから非常に重要である。親のかかわりについては、ある程度わかってきており、親のかかわりは非常に重要なのだが、その際も、アタッチメントはもちろんだが、いい意味での権威と理由づけなどが重要。
  「幼児期の道徳性の芽生えを培う幼児教育・保育のアプローチ」も、子ども中心、構成主義的アプローチ、遊び中心の質の高い保育が望まれる。また、家庭の機能が低下しているということで、幼児教育・保育においては家庭との連携も重要である。保育者がどうかかわるのか。本当に子どもが自分をかかわらせて遊びたいという方向に持っていけるのかが非常に重要だと思う。そうでないと、本当によそごとで何があっても関係ないということになってしまう。
  子ども自身が価値やルールを取り込んで内化していくことを促進するためには、保育・教育の質の向上が不可欠である。遊びや生活の中の生き生きとした関係的、情動的、認知的体験を通しての総合的な指導の推進、原体験を通しての最初のプロトタイプをつくっていくことが重要である。
  保育者の資質向上の観点からは、情動的に難しいお子さんも増えてきていることも踏まえれば、多様な子どもの援助とその保護者への専門的支援、ペアレンティング・プログラム等色々なことを学んでいくことが重要である。家庭との連携も、より一層推進・養成が望まれる。
  さらに、「保育者養成・研修メンタリングシステム」といって、ベテランの知と経験を若手の保育者に伝えていく世代間伝達のシステムを構築すべきである。
そのほか、幼稚園でも学級崩壊が時としてあることから、「保育者のための保育・教育相談システム」なども重要だと思う。

<質疑応答>

【鷲田委員】
  ビデオを見て2つびっくりしたことがある。1つは、相当本気でけんかするだなというのを再確認したということ。
  もう一つは最後のシーンで、一人ずつみんな考えは違うんだということを最後に知るということが言われたが、実は、何に驚いたかというと、半年ぐらいにわたって大体17、8から20歳過ぎの延べ3,000人の人たちと一緒にチームをつくって大きな展覧会をしたことがある。その展覧会が済んで反省会をしているときに、19歳のフリーターの女の子がつぐづぐ皆に向かって「人間って、正しいと思うことが一人ずつ違うんですね」って言った。彼女が19歳で半年かけて学んだことがそれだった。私はもうびっくりすると同時に、じーんときた。
  何が言いたいかというと、この懇談会のテーマである徳育の「徳」とは一体何かという議論を限定していかないといけないと思うのだが、先程の発表で、「道徳性の芽生え」と言ったとき、そこでの「道徳性」が何を指すのかということが気になった。例えば、1よい・悪いといった価値観がわかるようになることとも、2してはいけないこと、してよいこと、しなければならないことという規範の意識が芽生えることともとれるし、3他人への思いやりや、想像力、イマジネーションが働き出すというところもある。逆に4自分を調整や意識するという一種の反省脳、リフレクションの芽生えともとれるし、5自分も一つの社会的な存在(One of The)なんだということを意識すること、6先生が教えたようにルールに従うということが理解できるようになることなど、「道徳性の芽生え」にもいろいろなものが考えられると思う。
  先ほど話した若い子は、19歳になって初めて「正しいと思うことが一人一人ちがうんだ」と分かったと言っていたのだが、「道徳性の芽生え」にもいろいろなものが考えられるとすれば、その一つ一つをとたっとき、例えば「1.5歳で道徳性が芽生える」といったような、簡単な言い方はできないのではないかと疑問に思った。

【岩立教授】
  世の中にはさまざまなルールや価値等があり、それらが子どもの中に取り込まれて内面化され特性となってきたものが、道徳性である・その人の性であると心理学的には言う。道徳は社会にあり、子どもは生まれたときから道徳をもってはこないが、生まれてきてからいろいろなかかわりの中で、それが内面化されてくる。それがその人のルールとなり特質となったときに、道徳性という言い方をする。この場合の道徳的価値に関しては、例えばLickhonaは、core virtuといって中心的な価値を挙げている。例えば、自己コントロールや信頼、親切、ケアリング、責任、正直、公正と、強調する価値は、研究者によって違っている。
  例えばLickhonaは、究極に大事なものとして、尊重と責任ということを位置付けているし、Selmanは、他者の立場に立つことや、葛藤解決という技術的な意味での価値を述べている。何を強調するかは研究者ごとに違うが、人は、これらすべての道徳性を、生涯かけて学んでいくのではないかと思う。子どもたちは社会と出会っていく。自己と社会、自己と他者が対峙していく。そこで初めてぶつかりを感じていくことで、調整ということが最初期にくる。自己主張と他者の認識の調整のところを幼児期の教育では大切にしていこうとしている。もう少し社会的な認知等が発達してくると、社会的責任や公正など違う価値を学んでいくと思う。
  価値やルールは、本当にさまざまある。例えばKohlbergのように、それが、文化、社会を問わず、普遍妥当性を持つものだという考え方をする人もいれば、文化相対的であるという形で述べる人もいるが、いずれにしてもたくさんの価値が挙げられている。もちろん、幼児期の段階でそれらを内面化できるわけではない。ただ、自分とは違う人がいるんだとか、違った意見があっても尊重し合っていくのだという原点の学びを幼児教育では保障したいということである。
特に、幼児教育の特質としては、体と体をかかわらせながら、感情と感情をかかわらせながら生活や遊びを展開していくということがある。先ほどの発表では、知的な学びに偏らないという意味、原体験としての体や心を伴った学びを保障したいという意味で、最初期の限られた価値やルールの学びを「道徳性の芽生え」ととらえ、この言葉を用いて話したが、たくさんの価値の学びを道徳性の芽生えといっているのではない。

【鷲田委員】
  先ほどの話でも、学者が言っている9つの価値が挙げられた。さらにその9つ価値をくくっているものとして、何か一つ道徳性ということをイメージされていると思うが、それは何か。要するに、自分と他人とが衝突したときに、それを回避する、あるいは調整する能力ということになるのか。

【岩立教授】
  それが原点になると考えている。社会化のプロセスを考えると、他社との関係において、自分をどう自分らしく表現していくのかの調整は、おそらく生涯続いていく。それが基本になると思う。

【鷲田委員】
  衝突の回避というだけであれば、別に道徳でなくてよいのではないか。政治だってよいし、駆け引きでもよい、取引でもよいわけだが。

【岩立教授】
  そこがお互いの存在を尊重し合うということで、自分がしてほしいことを相手にも望みつつ、お互いが尊重し合い責任をとっていくということ。それは、確かに、バイアスがかかるということかもしれないが、何か意図的なものが働いて総合調整していくこともある。

【鷲田委員】
  相手と私が共存するためには、お互いを思いやるという形で共存する場合もあれば、外交とか、駆け引きとか、要するに共存するための取引をするということもあり得る。もしも自他の調整ということだったら、「道徳性の芽生え」というときの「道徳性」の意味が、まだ広いかと思うのだが。

【岩立教授】
  確かに、そこに信頼が入ってきたり、公正が入ってきたり、平等が入ってきたりということで、だんだん深まり広がっていかないといけない。まだ幼稚園では自他の調整にとどまっていると言えるのかもしれない。

【馬場委員】
  Baumrind、Hoffman、Rickhonaの話をされたが、この3人はどこの国の研究者か。3人が言っていることは、その国の子どもの特徴のようにも聞こえたが、すべての子どもに言えるのか。特に日本の子どもにも言えるか教えてほしい。

【岩立教授】
  私もこの3分類で日本の幼児教育が分類されるかどうかは疑問である。ただ、基本的な軸として、権威主義的なのかどうか、あるいは子ども尊重なのかどうかということでは、軸や次元は上がってくるのではないかと思う。特にBaumrindの分類では、権威主義的に相手を抑えてくるのか、子どもを尊重しながら生かしていくのかという次元が入ってくる。Hoffmanについては、これは個人的な意見だが、アメリカ的で、理由づけという認知的なものを非常に重要視しているので、ソーシャルスキルトレーニングや認知行動療法等を重視してくる。日本の幼児教育はもう少し情動的に対応していく面があるので、文化的差異はあるのではないかと思う。

【平野委員】
  レジュメの「基準への感受性」の項目に書かれている、1歳半の子どもが鼻に口紅についていると恥ずかしがるという実際の状況を教えてほしい。

【岩立教授】
  実験では、子どもが気が付かないうち、寝ている間などに口紅をつける。自己意識が未発達の子どもは、口紅が着いていても平気だが、自己意識やモラルセンスが育ってくると、いつもの自分と違うことに気づいて、一生懸命、鏡を見ながら口紅を取ろうとする。容姿に対していつもの自分という基準が芽生えてきている。だからこそ違う自分に気づく。これがある種の障害を持っていたり、非常に未熟なお子さんだと、口紅がついていても平気であり、つまり、基準が未熟だと解釈している。

【森委員】
  子どものしつけは親がするが、親のしつけはだれがするかということを考えると、具体的にどのようにしたらよいのか。レジュメの最後のまとめで、保育者は親に、保護者への専門的支援をすると書いてあるが、保育者が専門的支援をするよりも、親というのがまず出て、家庭で親がどうするかというのをここへ1項目起こして考えていただきたいと思う。親のしつけはどうすればよいかという観点で何かいい本があったら教えてほしい。

【岩立教授】
  親に対してある種の振り返りを促し、自分の子育てについて顧みさせる本は多いと思う。
  親のしつけについては、保育者が親を尊重したり、親の相談に乗ったり、話し合う場をつくったりする形で子育て支援をしていくと、それが家庭でのしつけに間接的に影響を及ぼすと言われている。家庭に直介入するのは難しいが、幼稚園・保育所というのは今、5歳児で95パーセント以上通園しているので、保育者が非常に専門性を発揮して、子どもの成長について同じまなざしで見たり、子どもの発達の意義を伝えたり、保護者などの相談に乗ったりしながら、ともに成長し合うという形で今、とらえることが多い。保育者は母親のまなざし、親のまなざしから学び、親は保育者の専門性から子どもの見方を学び考えることで、親の成長を促すというような子育て支援のアプローチが今、行われているのではないかと思う。
  この本を読めばというのは、今は思い当たらないが、至るところで子育て支援として親の成長を支える、支え合うということが行われていると思う。

【河合委員】
  最近、Heitが、モラルというのは、感じたものについて後から理論的に意味付けをするものであり、その前にあるのは、我々が文化を超えて持っている直感的なものではないかと述べているが、私たちが徳育を考えていくときの感性について、どのように考えるか、教えていただきたい。

【岩立教授】
  感性というところが難しい。それを研究したり理論付けようとしたりすると、認知的になってしまうので、パラドックスが生じてくる。だから、これは一番研究しにくい部分である。
  しかし、今では、生まれたときからの個人差、感受性や感情に対する個人差が、神経生理学的な研究や、生物学の研究などでも示されるようになっている。とにかく感性の個人差はあると思う。それに対して理論付けることはできないとしても、できるだけ子どもがその子らしさを発揮できるように、個人差をよく理解してあげたいというような思いで、アプローチをどうしていくかということではないか。
  ただ、本当に心が動くというところが問題で、例えば、この頃道徳の授業を見るが、可もなく不可もなく、ジレンマに対する質問ごっこのようなことが行われており、子どもたち自身のジレンマになっておらず、心が動いていない。感性がどう動くかということがとても重要だと思う。

櫻井 茂男 筑波大学大学院人間総合学科研究科教授より「現代の子ども(おもに学童期・青年前期)の育ちと心の発達をめぐる課題等」について発表があり、関連の質疑応答がなされた。
  <櫻井教授より発表>
動機付け、すなわちやる気や無気力というものを専門としている。共感性を通して、社会や人に対してよい行動をするという向社会的行動の研究をしており、発表では、だいたい児童期・青年前期、小・中学校時代の発達とそれに伴う幾つかの問題点を取り上げ、それにある程度道徳性の問題を加えていきたいと思っている。最初に小学生と中学生における基本的な発達について確認し、それに基づき、小学生と中学生における発達的な問題と提言、どう対応していくのかという話をしたいと思う。

1学生と中学生における基本的な発達
児童期(小学生)と青年期前期(中学生)の変化をレジュメに示した。
  身体的・運動的な側面として、小学生は体が順調に大きくなっていく時期。中学生あるいは小学生の後半は二次性徴が発現する。この二次性徴が自分というものに気付かせ、自分を考える契機、つまり、自分が変わってきたという形で内面へ心が向かう第一歩になる。
  次に感情的な面。感情の表出のコントロールがうまくなってくる。
  それから、知的な面。小学校低学年であれば、具体的な物を使って考え、記憶量が増大してくる。幼稚園時代は自分で記憶方略が自発的に使えなかったが、この頃になると、記憶方法がわかってきて使えるようになってくる。もちろん幼児期もだが、好奇心は旺盛で、非常に積極的で活発であるというのが小学生の特徴である。
  中学生になると、徐々に具体から離れて抽象的に思考ができるようになってくる。得意・不得意がだんだんはっきりしてくるのもこの時期で、競争心が非常に旺盛になり、人と競争して勝ちたいという気持ちがかなり強くなってくる。
  ことばの面では、書きことばの習得と洗練ということがある。幼稚園時代は話し言葉が中心だが、小学校に上がり、書きことばを習得してうまく使えるようになってくる。外面的な表現が、内面にも徐々に広がってくるのがこの期の発達である。
  心理・社会的な側面については、エリクソンの発達の段階説に従って示している。小学校時代というのは、知的にも、社会的にも成長して、有能感や自信をこの時期に獲得する。中学校になると、自分への気付きが二次性徴によって開始されるとともに、知的な発達の面でも抽象的な思考ができるようになるので、自分の内面、すわなち、自分を知り、自分の生き方を方向付けられるように、徐々になってくる。いわゆる自我同一性の確立、あるいはそれができない場合の拡散は、中学生だけではなくて、大学生くらいまで徐々に進んでくる。
  このような側面を総合してみると、小学生は意欲的に学び、自信を持つ時期であり、中学生は自分に注意が向き、自分を知り自分の将来を考える始める時期と位置づけている。

2小学生と中学生における発達的な問題と提言
(1)学ぶ意欲が低い。
  児童期というのは一番好奇心旺盛で色々なものに興味を持ち、記憶力も良く具体的に考えることができる時期である。学ぶには一番安定したこの時期に、なぜ学ぶ意欲が失われてしまうのかと疑問に思っている。学ぶ意欲が低いということは、PISAなどの調査結果からも出てきているが、その対応についてである。
  まず、夢や将来の目標(実現可能性が高い夢)を持って学ぶと意欲が持続するということ。ただし、夢や将来目標を、より身近で具体的な目標につなげなければうまくいかない。
  次に、よく理解できれば、おもしろくなり、意欲的になれるということ。よくできたことを褒められるとうれしくなり、意欲的になれる。
  さらに、勉強をすることが大事であることを教え考えさせる。キャリアの発達等々関係もあるが、これは考えるべき大事なことだと思う。
  そして、成績がよければそれでよいのか、いくら成績がよくても、無理してやって後で精神的に何か不健康なこと起きたのではよくないのではないか、ということもある。研究上は、動機付け・やる気が高いことと同時に、それが精神的に健康であるということにも注意すべきだと言われている。

(2)ルールが守れない、規範意識が低い。
  これについての原因は多様な要因があると思うが、「してはいけないことをしない」という基本を、家庭や学校で、きちんと教えていないのではないか。あるいは大人が手本を示していないのではないか。対応としては、親がよいことや悪いことを教えることが、この問題での基礎であると考えている。
  発達的に見ると、小学生は道徳の判断が他律から自律へと変化する時期である。よって、小学校の低学年・中学年では、道徳判断の基礎をしっかり教える必要がある。
  それから、手本という意味では、子どもは大人のまねをしている可能性は非常に高い。大人がしっかりルールを守り、手本を示すことによって規範意識が高まる。
  学校生活の中で、自らルールを作り、自治を行う経験をさせるということもある。ルールが守れないのは、ルールよく理解していないからということもあり、自分たちがルールを作り、それを使って自治を行うことは、とてもよい経験ではないかと思う。
  そのほか、ルールを守れたら十分に褒めてあげること。ルールを守ることにより、人が安全・安心に生きられ、社会がうまく機能することを実感させること。
  最後に、ルールを守らない子どもを注意する地域の力を育てていかなければならないと思う。

(3)攻撃行動(とくにいじめ)が多い。
  攻撃行動が多いというのが、小中学生の問題かと思う。幼児期は、どうしても行動に訴えてしまうことも多いが、徐々に言語が習得されて、言葉で表すことができるようになってくれば、直接的に攻撃行動、特に身体的な攻撃行動というのは少なくなってくるはず。だが、実際にはそうなっていないという現実もあると思われる。
  対応の仕方の前に、相手の立場に立って考えられるということが基本。大人が他者の悲しい気持ちに共感し、思いやり行動をとるようにすれば、子どもはそれをまねするようになる。相手を攻撃してどういう気持ちになるのか。それがわかれば、子どもたちはそれをしないようになると思うし、大人が実践して思いやりの行動が示せば、子どもの攻撃行動は少なくなるのではないかと思われる。
  レジュメに「最近の研究」と書いたが、これは大学生を対象に昨年度行った研究である。
  他者の悲しい気持ちに共感すること(従来の共感)と同様に、あるいはそれ以上に、他者のうれしい気持ちに共感できることは、思いやり行動を促進し、攻撃行動を抑制するという結果が出ている。大人が他者の成功、うれしい状況喜び、称賛すれば、子どもはそれをまねるし、子ども自身が他者を褒めるような気持ちになることが大変重要なのではないか。思いやり行動を発見したら十分褒めてあげることは鉄則かと思う。
  それから、子どももストレスが非常に多い。適切なストレス対処法を身につけさせることが必要である。特に友人関係のストレスは非常に大きな、広い領域の不適応反応を起こすという研究結果がある。この対処法が重要。そのような意味で、カウンセラーの配置というのは、大事になってくると考える。

(4)自己認識が甘い。自分を客観的に見られない。
  自己認識が甘いという点、自分を客観的に見られないという点は、特に中学校、高校生に多いと実感している。幼児期は万能感、何でもできるという気持ちがあり、色々なことに挑戦してもいい時期だと言われている。しかし、中学校、高校になっても、やる気になればどんなことでもできるでは困るのではないかと逆に考えた。ある程度自分を見つめて、自分の長所・短所がわかるようになってくれば、自己認識を確立していかなければいけないのではないかと思う。
  特に自己認識が甘いという点に関する原因としては、「あなたは本当はできる子どもなのよね」と言われ、子どもたちが育ってきたという経緯があるのではと考える。失敗経験が少ない。できることだけをしてきた。挑戦的なことはしなかったということ。
  対応として、子どもの可能性を安易に肯定しないことが大事なのではないか。子どもをよく見て、対応すること。
  それから、小学校の中学年ぐらいからはもっと厳しく対応していくということも必要かと思う。成長とともに相対的な評価も重要になってくる。自分を顧みて、自分を知ることが大事になってくると言ったが、やはりそういった場面では、自分から客観的に相対的な評価を求めて、自分の位置付けを見つめ捉えていくことも決して悪いことではないと思う。こちらから相対評価を押しつけるわけではなく、子どもがそれを欲し、子どもの成長にとって自分を知るために大事であれば、評価は必要であろう。そして、何よりも、中学校ぐらいになったら、キャリア教育の中に入ると思うが、自分を見つめている時間を持つことが重要であろうと考えた次第である。

<質疑応答>

【平野委員】
  親がよいことや悪いことをしっかり教えることが基礎であるとの見方には私も同感だが、子どもがその親を尊敬してないと、親が本当によいことを教えていても素直に心を聞かないこともあるのではないか。目上を尊敬しなさいとか、目上を大切にしようということが、今の時代に欠けているような気がしている。例えばおじいさん、おばあさん、地域の長老など、そういう方たちを尊敬尊重するということが随分希薄になっているように思う。しかし、実は、そのようなことが子どもにルールを守らせていく教育に、大きくつながるような気がするが、その点考えを教えてほしい。

【櫻井教授】
  私も、おじいさんやおばあさんなど、親から比べるとずっとゆとりを持って子どもに接しておられる方が、よいこと・悪いことを静かに話すことが、子どもの心に響くのだと思う。子どもに受け入れられやすい言葉や間をとって、ゆっくりと話ができるという意味では、地域の人、特におじいさん、おばあさんという方は、こういう教育にとっては非常に重要な存在であると感じている。

【天野委員】
  例えば、だれのためのルールなのかという話もあると思う。
  今までもこの研究会で道徳や徳育といったときに、片面ではかなり危うさを感じている。その最大の理由というのは、例えば戦前に国民を戦争に駆り立てたルールというのが国民運動として起こっていた。そのようなことが道徳だった。道徳を守れるようにしていくことがルールだったわけだが、それが本当に道徳だったのかどうか。そのルールというのは一体だれのための何のものなのか。徳というのは一体何を考えることが徳なのかということを、本当は根本から考えなければいけないのではないかと思うが、その辺はいかが。

【櫻井教授】
  あまり道徳性について研究してきたわけではないので、何と答えていいのかわからないところもあるが、私としては、何か既にあるものとしてルールというものを捉えて今回の話をした。その意味では、道徳性やルールが何を意味しているのかということを最初に定義して、あるいは決めて取りかからなければいけないのではないかと思う。
  私がここでルールと言っていることは、基本的には他者に迷惑をかけない、あるいは他者も一緒に気持ちよく生きられるという意味でルールを守ること。基本的に頭にあるのは交通のルールや、そういうものがあって話をしたわけだが、もっと深い意味でのルールについてはここでは特に言及はしないつもりでいる。むしろそういう意味で話をしたというのが現実である。

(4)自由討議
事務局から、自由討議の参考用として配付した資料4、5、6について、説明があった。
  【馬場委員】
  資料5では、経済環境の厳しい中、子育てをする親の増加ということに触れている。貧すれば鈍するという言葉は理解できるが、現在の学校の様子を見ていると逆のことがある。
  今、学校ではあいさつが大変大事だと指導している。あいさつの中では、「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」「いただきます」「ごちそうさま」「行ってらっしゃい」「お帰りなさい」などがあるが、その中で「お帰りなさい」というのが大変少なくなっていると思う。経済の関係で共稼ぎをしているので、かぎっ子が多くなるという状況が以前はあった。ところが、最近の状況を見ると、経済が苦しいので共稼ぎをしているのではなく、親がより一層遊興にお金を使うために働いており、そのために「お帰りなさい」が言えない家庭が増えているように感じている。
  また、不登校が結構増えている。不登校の原因の一つとして、今までは、学校は「行かなければならない」ところだった。「何があっても行きなさい」、というような気持ちが多かったのだが、今は「行かなくてもいいのではないか」という親がいる。実際の学校現場では、終業式の前に「早く通知表をください」というようなことがある。冬休みや春休み前に早く旅行に出かけると安く行けるという理由で、「最後の2、3日は学校に行かなくても」となるのだが、こうしたことは、むしろ、経済的に豊かな人の方に見られる変化ではないかと感じている。

【森委員】
  3つほどある。
  資料5の「善悪に対する知識と感性」という箇所。よいことはこういうこと、悪いことはこういうこと、だけでいいのだろうかと私は思う。よいことをすれば、よい結果になるとか、悪いことをすれば地獄に落ちるとか、勧善懲悪をはっきりさせなければいけないのではないかと思う。自分たちの小さい頃は、銭湯へ行くと必ず地獄の絵があった。無意識のうちに、悪いことをしてはいけないなという教育、道徳教育の予習を無意識的にやっていたと思うのだが、今はそのようなものがない。
  それでは、よいことをすればどうなるのか。教育のことを知・徳・体というが、知の頂点はノーベル賞、体はオリンピックの金メダルだと思うが、徳の頂点というと、それがないことが気になっている。要するに、勧善懲悪という因果応報をはっきり教えるようなことを考えてもよいのではないかということが第1点。
  それから、いじめという言葉については、例えば辻仁成の「海峡の光」という小説では苛酷の「苛」という字を使い「苛め」と標記しているが、このように漢字で書くべきだと思う。さもなければ片仮名で書くべきかと。三浦朱門氏は片仮名で「イジメ」と書いているが、そうすると、「はっ」とする。平仮名で「いじめ」と書いてあると、なよなよとして、いじめの実感が伝わってこない。だから、漢字で苛酷だと表すということを、かねがね主張しているが、それが第2点。
  第3点は、家庭の役割分担では家訓をつくること。生涯発達論的にいうと、家庭に家訓、学校に校訓、では、大人はというと、会社の社訓であり、自営業の人はとなれば、信念を持つということではないかと思う。

【坂口委員】
  今は、ちょうど運動会シーズンで、子どもたちの運動会の様子を見た。その学校で騎馬戦をやったときに、子どもが騎馬の上に乗るのではなく、4人が手をつないで、他のチームとじゃんけんをしていた。何でそれが騎馬戦なのかと思ったら、よくよく見たら、その中に、障害を持った肢体不自由の子どもがいた。その子どもを騎馬戦の中に入れるために、子どもたちが騎馬戦のルールを変えていたのだ。もう一つの騎馬戦のグループがあったのだが、それは通常どおり1人の子どもを3人が乗っけて、帽子を取り合うというものだった。
  そのとき思ったのが、ルールというものは何なのかということ。その学校では、障害のある子と一緒に運動会の中で騎馬戦をするために、ルールを自分たちで決めて、そのルールに従って騎馬戦をやったわけだが、自分たちの環境の中でよりよく生きていくため、共生していくために、一緒に何かを学んでいったり、一緒に何かを考えてルールを変えていったりすることも一つの徳育というか、大事なことなのだということを運動会に出て感じた。

【坂口委員】
  母親が子育てをしていくときというのは、非常にタイトなもので、ましてや子どもを3人ぐらい年子で育てるとなると毎日が戦争のようで、自分が持ってきた、学んできたことなど、度外視して子どもと向き合わないといけない。自分も今ぐらいの年齢になって、子どもも成長し、次は孫ということになると、非常に余裕を持って子どもを見ることができるが、子育ての渦中では、なかなかそれは難しい。
  大阪では、「親を学ぶ」講座が行われており、自分もその受講生になっているが、そうした講座のカリキュラムを活用するのもよいのではないかと思う。親としての資質のようなものは、本当は、家族の中でそれぞれの役割分担があり、その中で自然に身に付き、学んでくるはずのものなのかもしれないが、今は、そういうことがなかなかできにくなっており、その中で、子どもを抱えた母親が非常に悩んでいる。
  このカリキュラムは、親を学ぶということを、1中学・高校生の時期の親になるための学び、2子育て前期の幼児を抱える親の学び、3子育て中期の、中学・高校生つまり思春期の子どもを抱える親の学び、それから、4子育て後期の、地域の側として他の親を支えるというような学びの4つの段階に分け、一つの事例をとりながらやっている。
  その中では、実際にワークショップをしながら気付いていったり、それにより子どもに接していく仕方を変えていったりということが起こっている。地域のボランティアによる草の根的にファシリテーターが養成されていて、それが地域の公民館やコミュニティセンターなどで主催して勉強会をしているという状況である。
  本来は家族間の中で自分の親から学んできて子育てをしてきたものが、なかなかしづらくなっており、それを社会的なコミュニティーの中で形成せざるを得ないという状況だが、それも一つの手段であるかと思う。

【大野委員】
  「何を教え、何を身につけさせるか」というところで、「自分を律すること」と「社会との関係」の2つが出ているが、その間の人と人との触れ合い、共感というものをお互いに感じ合うような力を育てるというのが、大事なのではないかと思った。先ほど岩立先生のビデオであったが、けんかをして、それをことばで調整をしていくということは大変大事だと思う。そして、櫻井先生が言われたように、人が喜んでいることを一緒に喜べる能力を育てる。これは人と人との触れ合いでことばを使いながら行っていくということだと思う。
  「だれが、何をするか」ということになると、家庭でもそうだが、少子化になると、学校や地域で子ども同士が生でぶつかり合うような体験をして、そこで共感をし合って、またその中で、コミュニケーションスキルを伸ばしていくことが必要なのではないかと思う。

【天野委員】
  子どもの遊びの中では、地形、人数、メンバーや年齢構成などにより、皆が入れるようにルールを変えていくということは、子どもが自然発生的にやっていれば普通に出てくる。自分たちで決めたことについては、「これはみんなが楽しく遊ぶためにつくったルールだから、みんなで一生懸命守ろう」というふうになる。これは誰のための何のためのルールかといえば、自分たちがお互いに生き生きと遊ぶためにつくられた自律的なルールであると思う。
  この懇談会でも、徳について考えるのであれば、子どもが自律していくような形をどうやったらつくれるかということを話す必要があると思っている。
  大人が決めたルールを子どもに守らせるというときには、みんなが守れるようにルールを変えていくというやり方を大人はしない。子どもであれば、皆がルールを守れ、入れるように、遊びのルールを作っていくが、大人の方はルールを変えていくとはせず、大人が決めたルールを子どもに守らせるという形でやっていく。その場合に外れる子どもは必ず出てくるし、それは「外れた子どもが悪い」というのが、これまで大人が言ってきた言い方だが、それは本当なのかどうか、という振り返りが必要だと思っている。
  私の考える正しさと他の人の考える正しさは多分一致しないかもしれない。そのときに、社会のルールは誰がどのような形で決めるのかということが大変重要となるはずだが、その辺が少し危ないと思っている。要するに、やはり子ども同士いい関係をつくっていく、コミュニケーションをつくり上げていくために、自律的にルールをつくる力を養っていくことが必要なのではないかと思う。
  大人たちは、ルールを決めて子どもに守らせるという役目を担い、自分たちの決めたルールを守れない子どもを何とかしようとしてきたが、そのことが、子どもから主役の座を奪い続け、子どもが自律できなくなってきた最大の原因ではないかと考える。
  最近の子どもは遊び方が変だとよく言われるが、これは遊ぶ環境がおかしくなったからではないか。冒険遊び場の活動では、子どもが遊ぶ環境を何とかしようとしてきた。その結果として、穴を自在に掘ったり、基地をつくったり、木の上に小屋をかけたり、かまどで火をたいたり、自在に遊ぶ子どもが現代にもいる。そこでは、たくさんの親子が集って、誰が誰を指導するということではなく、お互いに支え合うということが、ごく日常の姿として起こっている。つまり、プレーパークは自分の責任で自由に遊ぶというところで、それ以外のルールは何も決めていないから、こちら側が、ルールを守りなさいというものは、作ってこなかったが、それでも、子どもは人を排他することなく、「僕ががやりたいことをやっていいということは、他の人たちもやりたいことがやれるということだよね」とった発言が、小学4年生からも出てきたりする。子どもの側が、こうしたことに自然に気が付いていくというのは、大変よいことだと思っているが、そのときにはやはり主役は彼らであるということが非常に重要だと思う。
  だから、その徳というものを、誰が誰のために、何のために作ろうとしているかという根本の問いを、きちんと立てていく必要があるのではないかと思っている。

【馬場委員】
  先ほど櫻井先生が言われた「してはいけないこと」、それをどう子どもに伝えるかという話があったが、ルールについては、もちろん子どもたちがつくっているルールもあるし、同時に、生活指導の中では、子どもたちだけでは作れないルールも幾つもあると思う。最近、高校生が「廊下で走ってはいけない」というルールがあるのに、2人で競争して亡くなってしまったが、それは一つのルールである。また、つい最近の給食のパンが喉につかえたというのは、ルールというよりも、食事のマナーだと思う。
  すなわち、守らせるルール、守らなければいけないマナーというものもあるということだと思う
一方、先ほど櫻井先生が言っていた「してはいけないことをしない」ということは、ルールとはまた別の問題ではないかと思う。例えば、「卑怯なことをしない」、「嘘はつかない」、「人を傷つけない」というのはルールではないと思う。ルールではなく、やはりやってはいけないことがあり、それをどう伝え、どのように子どもとやっていくのが一番よいのかというところで、我々は悩んでいる。

【鷲田委員】
  徳育に関して文部科学省に尋ねたかったことが2つある。
  1つは、1945年から57年か58年ぐらいまで道徳時間というのは小学校になかったと聞く。その間、道徳の時間がなかったということは、今の50代終わりから60代終わりぐらいまでの10年間の人は道徳の時間を経験しておらず、道徳を学校で習ったことがない。にもかかわらず、もしも、今の60代だけが道徳性が低いのではないとするならば、当時道徳の時間がなかったということは、別にそれでよかったということになる。あの10年間の世代だけが特別道徳性に問題があるということがなかったら、少なくともこの徳育を考えるときに教科としての、あるいは学校で教える科目としての道徳というのはあってもなくても関係ないということになる。その理屈でいうと、要するに、徳育というのは、地域や家庭で大人が引き受けるべきものだという結論になる。
  しかし、もう一つの考え方は、家庭・学校・地域のうちの家庭と地域の教育力、特に徳育に関する教育力がなくなってきたからこそ、かつては本当は別に学校で教えなくてもよかったものが、逆に学校でこそかなり真剣に、これからの徳育というのはどうあるべきかを考えなければならないようになってきたとも考えられる。現在この徳育についての懇談をするときに、文部科学省の方は、どのようにお考えなのか、特に10年間ほどの道徳の時間の不在についてはどのように評価されているのかが1点。
  もう1点は、これは、現中教審会長が彼の教育に関する本の中で、あくまで個人的な意見として書いているが、学校で道徳教育やモラルは教えられないし教える必要もないと。学校で教えるべきは社会的な共存のルールであるということをはっきり明言されている。これは別に、彼は個人的な意見として書いておられるが、現に学校における道徳の授業のあり方に関しては、一方に一つ非常に明確な考え方がある。道徳は教えられない。教えられるのは社会的な公共的なルール、公共性だけだという。これについてどのようにお考えなのか、この2点についてぜひ教えていただければ、ありがたい。

【鳥居座長】
  文部科学省のほうで答えを用意する前に、その時代を生きてきた人間として、話を整理しておきたいと思うが、1945年に戦争が終わったときは、日本は本当にどさくさだった。私たち教育を受けていた子どもたちも何が何だかよくわからない状態だった。当時は、SCAPIN(Supreme Commander for Allied Powers Instruction Note)、要するに連合国司令部の指令第何号というもので次々と指令が出た。後に調べた記憶では、GHQ指令とか、SCAPIN指令かで、歴史と地理の教育が禁止された。それから、武道の教育が禁止された。武道の教育はGHQの指令ではなくて、文部省から指令を出せという指令になり、文部次官通達で、武道の教育が昭和27年まで禁止された。
  それで、道徳はどうかということだが、記憶ではGHQ指令では、道徳教育の禁止という指令はなかったと思う。ただ、全体的な指令の中で多分かつて私たちが子どものころ使っていた修身の教科書の使用が中止された。そのかわりに、文部省著作教科書、今のような検定教科書ではなくて、文部省そのものが著作している教科書で『民主主義(上・下)』2冊で、我々は新しい時代の規範、道徳、民主主義の考え方を教わった。これはだいたい主として中学校の後期から高校生の初めぐらいが使った教科書だと思う。
  その中で今、鷲田先生からお話があった、「学校で教えなかったからどうだったんだ」という意味の質問だが、私の考えを言うと、その時代は、実は親の世代がしっかりしていたと思う。親は戦争の大混乱で本当にひどい状態で、焼け野原のような中でも親はしっかりしていた。学校の先生もしっかりしていたので、教科書はなくても、昔の、いわゆる広い意味での道徳教育は行われていたと思う。あいさつもきちんと学校で私たちは教わったと思う。
  それから後は文部科学省にお任せするが、山崎先生に中教審の会長を私からバトンタッチしたわけだが、実は、その当時の文部科学大臣と安部総理大臣、山崎新会長に引き継ぎの会合をした際に、お土産に差し上げたものがある。それは明治5年に福澤諭吉が書いた『童蒙おしえぐさ』の現代語訳したものを差し上げた。
  それを見ると、何にも知らない子どもたちに教える言葉は、全体で29章から成っており、1章につき4つか5つの話が書いてある。その本の中のほとんどがイソップ物語、あるいはアレキサンダー大王がお母さんをどんなに大事にしたかというヨーロッパの本からとった話である。
  だから、明治の5年のころには、日本の道徳教育の原形の一つが儒教であり、江戸時代から伝わった色々な伝統的な教え方、家訓や色々なものがあったと思うが、それに新しいものをつけ加えるために福沢諭吉が持ってきたのがそういうものだったと思う。それが一つにまとまり、明治期・大正期の道徳教育ができてきたのだと思う。
  大正時代の修身の教科書は1年生用、2年生用と、6年生まで6冊に分かれている。その内容については、昭和期に入ってだんだん変わってくるところもあるが、それを調べてみると、今、話した福澤諭吉の話が何カ所か取り入れられている。要するに、文部省著作教科書の時代から既に相当研究して、融合しながらつくってきたのが日本の修身の教科書であり、よく言われるように、軍国主義教育のために修身教科書がつくられたということは、私は当たっていないと思う。そうではなく、もっと人間教育のために考えたものだったのではないかと思う。

【高橋教育課程課長】
  鳥居座長からのご説明でほぼよろしいかと思うが、事務的に少し経緯を申し上げたいと思う。先ほどお話もあったが、GHQの指令により、昭和20年12月終戦直後、修身、日本歴史、地理と、これらの停止に関するということで、戦前の修身、日本史、地理については扱わないということになった。その後、昭和22年の3月31日に、教育基本法が教育勅語にかわるものとして成立した。
  それに伴い昭和22年4月から新しい六三制に基づく学校教育が行われた中で、当初は、道徳教育を学校で行わないということではなく、道徳教育は、特別の時間、修身のように特別の時間を持つのではなくて、社会科などを中心に教育課程全体の中で行うのだという考え方を当初はとっていた。当時の中教審の前身である教育課程審議会の関連する答申などを読むと、これは戦前の修身等の関連で考えていると思うが、道徳を主体とする特定の教科や科目を設けることについて、「児童生徒に一定の教説を上から教え込んでいくような形になるのは望ましくないのではないか。むしろ子どもたちに実践の過程において体得させていく方法をとるときに、特定の時間をとるよりは、社会科を中心に教育課程全体で行う」といった考え方が出されている。
  ただし、その後、教育基本法から10年近く経過した昭和33年の答申を見ると、「道徳教育は社会科をはじめ、各教科その他教育活動の全体を通じて行われているが、その実情は必ずしも所期の効果を上げているとは言えない」というのが当時の審議会の答申で、「今後も学校教育の全体を通じて行われるという方針は変更しないが、現状を反省し、その結果を是正し、進んでその徹底強化を図るために新たに道徳教育のための時間を特設する」としている。当時特設道徳と呼ばれていたが、現在の道徳の時間が昭和33年に1時間設けられたということで、これがその後、今回の改定で6回の全面改定を経ているが、基本的にはこのスタイルが続けられている。したがって、道徳については現行の指導要領も新しい指導要領もそうだが、まず総則というところで教育課程全体を通じて行い、同時にそのかなめの時間として週一コマの道徳の時間が位置づけられているという状況になっている。
  私どもは、その特設道徳の時間がなかった昭和22年から30年ぐらいの指導要領で学んだ方々の道徳についてという、そういう評価はしていないが、ただ、あくまで特設の時間があったかなかったというだけであり、道徳教育そのものは戦後一貫して行われてきていたということは一つ言えるのではないかと思っている。

【無藤委員】
  道徳教育を、学校の教育課程全体で行ってきたことに関して、特に小中学校の特徴としては、特別活動、中学校では生徒指導、小学校では学級活動やホームルーム、中学校は部活動が入る。それらは道徳というのとはちょっと違うとは思うが、例えば子どもたちに頑張ることを教えていくとか、団結してみんなのためになるような活動をするとか、それから、例えば小学校のホームルーム、例えば掃除当番をサボるとホームルームで取り上げて色々議論するなど、ある意味で民主主義を学級で実践するという意識が非常に強かったと思う。その弊害もたくさんあったとは思うが、ある種の広い意味での道徳性の教育として、特別活動に類したところを日本の先生方は考えていた。それは日本の学校の大きな特徴で、かなり欧米のそれと異なるものだと思う。
  それが最近では、どうしても学力というか、幾つかの教科の教育の方に重きが置かれ、特別活動の役割といった辺りには、十分配慮し切れていない問題点もあると思う。そういう意味では、改めて道徳と特別活動の位置付けや、その中身も考える必要があると思う。
  それから、中学校においては、部活動というのが単に運動能力を伸ばすとか、チームで勝つというだけではなくて、そこで十分授業で吸収し切れない子どもたちの伸びたい気持ちを生かしていって、規律ある生活というものを可能にしていくということを、少なくとも部活動を頑張って指導されている先生方は考えているだろうと思うが、そこにも大事な意味があると思う。

【天野委員】
  当時の道徳の時間については知らないが、その当時の大人や親がしっかりしていたこと、学校の先生に権威があり、社会的に非常に力があったという話もあったが、もう一つ大事なことは、子どもが自由に群れていたということだと思う。その当時の子どもには、大人の世界に支配を受けていなかった時間がかなりたくさんあり、子ども同士の中で伝承し合ったことや、子どもたち自身が主役で自分たちの時間を過ごすという体験がおそらく格段に多くあっただろうと思う。
  大人が大人の価値を子どもに対して示していくのは悪いことだとは全然思わないし、それに子どもが気付いていくことがあるのもまた事実だと思う。そのことを否定しているわけではないが、ただ、現代を振り返ると、子どもの時間のほとんどを大人が支配していると思う。学校教育に始まり、塾も、けいごごとや習い事も、大人が意図をもって子どもにかかわっているわけで、それがすべて成績や大人の評価により、子どもの時間の使われ方というのが出されていくと、子どもが主役になれない。公に対する自律という話などもあるが、自分を立てられない人間が他者に対する迷惑を考えられるのか。多分考えられないと思う。社会との関係をきちっと考えられるとか、人に対する迷惑をきちっと考えられる。例えばいじめたり、いじめられたりというのはつらいことなんだ、悲しいことなんだということを理屈でではなくて、気持ちで感じ、共感することができるといったことは、やはり自分自身がきちんと立って初めて起こってくるというか、わかってくることだと思う。
  関係というのも、自分があって初めて成り立っていく。自分自身を形成していかなければいけない幼児期から、子どもはずっと大人によって乗っ取られて続けており、そのことが子どもの足腰をものすごく弱体化させていると強く感じる。
  そのような状況でも、冒険遊び場の活動を通じ、遊び場の中で息を回復していく子どもを何人も見てきた。中高生などが「初めて自分のことを好きだと思った」とか、「ここに来て初めて自分のことをいいと思えるようになってきた」といった話は、本当に枚挙にいとまがない。
  終戦直後の大人たちは、子どもに対する手も今のようにかけてないし、時間もかけてないし、それで、子どもはエスケープして遊んでいたり、自分たちの時間を持っていたり、自分たちの世界を持っていた。一方、エスケープを許さない現代のこの状況になったときに、今、大人が子どもに対して示さなければならない徳とは何なのかを問われれば、多分その時代とは違うものではないかと感じる。今の子どもたちの状況をどのように分析するのかというときに、これは子どもの方を直さなければいけないのか、それとも、大人が徳の感覚を考え直す必要があるのかということになるが、「子どもに対して不足しているものをきちんと大人の責任として提示する」というのが当時の道徳であったとしたら、多分今の道徳は、中身が違うと感じる。

【渡辺委員】
  自分も、小児科の臨床現場で小児の心身症、あるいは白血病や腎臓病で不安になっている子どもたちの言い分や本音、その日、その瞬間のつぶやきを聞いていて、子どもの子どもらしさや幸せは大人の世界によりつぶされていると思っている。
  特に、大人の都会的な競争心や虚栄心や上昇志向、私たちより一回り若い世代の父母の競争心、虚栄心、焦りに子どもたちがつぶされている。それから、今の時代は、子どもの発達が少々遅れただけでも発達障害と言ったり、子どもがちょっと心臓に穴があいただけでも、お母さんがちゃんと産んでやれなかったと言い子どもを不安にさせる。つくづく子どもの方が大人を見ている。私たちは今子どもにすてきな感化を与え得る大人集団として、今、日本は機能していない。そのことがすごく問われていると思う。
  そのように思うからこそ、日々自分たちは病棟のチームちしてきちんと子どもと向き合おうと皆でやっているわけだが、「一人一人の子どもを安心させること、今日が生き生きすることがこの子の人生の大事な分かれ目になる」という合い言葉でやっていく。すると、本当に子どもたちはすてきな子どもになる。乳幼児精神保健学では、人間にはミラー細胞というものがあって、人間の赤ちゃんは実際にただじーっと見ているだけでも、相手がやっていることと同じようなシミュレーションをしているときの電気放電が脳に起きると言われている。やはり感化というのが刻々と子どもの中で起きている。子どもは大人集団の雰囲気、香り、あるいは不協和音を見ているのだという認識が必要である。
  小児科にはたくさんいじめられている子どもも来る。いじめが起きているときには、担任にもあいさつをするが、誰よりもその集団の父親役である校長先生に来ていただくようにしている。そのときに、例えば日曜日であれば、金曜日のその子の状態はどうであったか伺うと、どの校長も一言も答えられない。自分たちは、学校集団での子どもの様子をクラスまで見に行くことをお願いしている。しかし、少子化だといわれながら、そのようなこともしないのかと思う。医療の現場でも、学校でも、子ども、子どもと言っているが、子どもが大事にされてはいない。子どもの本当の力を見ようとする私たちがいない。子どもを決めつけて排除して、親を叱って、そして、親を追い詰めていく私たちしかおらず、これは、プロフェショナリズムだとは思えない。
  それぞれの大人力があり、それが発揮できていないところで、教育の専門家がどんなにきれいな研究発表をされても、子どもたちが納得しないだろう、とは私は胸が痛む。今の日本の情報化社会の情報を生かせば、日本は本当によくなると思う。大人と子どものお互いの共存、あるいは命をつなげてくれる人たちに対する尊重ということがあると思う。
  私は少なくとも自分たちの命をつなげてくれる次の世代は大事であると思う。戦後の焼け野原で感じられた、命が大事だという気持ちの復活だと思う。自分は戦後のベビーブームの世代で本当に物のない時代に、ともかく真心を込めてしかられた。真心を込めて導かれた。ありとあらゆる地域のおじさんやおばさんたちに見てもらった。見守られているとはだれも言わなかったけど、現実に実感としてあった。そういったものを復活していくような音頭取りをこの文部科学省の会にしていただきたいと思う。つまり、お母さんたちを励ましたい。子どもたちを励ましたい。私たちは、次の世代のために幾らでもやるよ、というような若い教育者、若い医者、若いワーカーたちを育てていかなければいけないと思う。

【森委員】
  4点ほどある。道徳の時間の実態は惨たんたるもので、現場へ行くと、ほとんどビデオやテレビを見せるだけとか、あるいは道徳の時間を削って何か学校行事をやろうとか、道徳の年間指導計画を毎年、年度の数字を変えて出すだけだといった話を耳にする。きちっとやっているところもあるが、そういう意味では形骸化していて非常に残念なことであることが第1点。
  第2点は、道徳教育の場合に、戦後、民主主義で平等ということが非常に強調されて、教室から教壇がなくなった。教壇の上に上って先生は偉ぶっているのはおかしいから、みんな平等なんだから教壇をなくすというのは、これは戦後の民主主義の最大の誤解だと思う。全国の先生が集まる中央研修で、教壇のある学校は手を挙げてというと、ほとんど挙がらない。
  教壇というのは、マックス・ウェーバー流に言えば制度的権威で、権威には人格的権威と制度的権威がある。櫻井先生が言われた好ましい権威主義は、私は人格的権威のことではないかと思う。私も学生と随分教師論を調査したことがあるが、いい先生とはどういう先生かというと、近づきがたいけれども、親しみがあるというか、そういう矛盾した要素を持っている先生がいい先生であるとのことだった。ところが、戦後の教室や実態を見ると、子どもたちは先生と友だちのような関係で、後ろから先生の肩をたたいて、「ねえ、あんた、ちょっと」とか権威どころではない。全部が全部そうだとは言わないが、そういう実態が戦後あったということ。
  第3点は、徳育と知育を比較すると、今、学力調査で知育ばかり騒いでいるが、私は、体育調査もあるし、学力調査もあるなら、徳育調査は、どうするのかと気になっている。最近、本を読んでいたら、知育は自習できるからたいしたことはない小事であるが、徳育は自習できないから大事だと言っている本があった。知育は小事、徳育は大事という論文を見て、なるほどと思った。これは大人や学校が教えなければいけないことだと思った。
  第4点は、道徳教育をヨーロッパでは宗教に依存しておこなっている。フランスの場合は、水曜日は休日で教会へ行く。ドイツの場合は、学校で宗教教育を牧師が来て行うが、これは宗派別に行うのだが、近年は無宗教の人が増えてきた。子どもの場合には親の宗派で最初宗教教育を受けるが、ある年齢に達すると、プロテスタントか、カトリックかどちらを選ぶかと子どもに聞く。ところが、無宗教の人が増え宗教によらない道徳教育を考えなければいけないということになってきている。そこで関連して、日本の道徳教育というのは宗教によらないから非常に先進性のあるという意見まで出てきたが、日本でもそういうことを言う先生もいる。

(5)その他

  当面のスケジュール(案)について、事務局から、資料7に基づき説明があった。
  次回会議は、11月に開催の予定。

(6)閉会

お問合せ先

初等中等教育局児童生徒課

Get ADOBE READER

PDF形式のファイルを御覧いただく場合には、Adobe Acrobat Readerが必要な場合があります。
Adobe Acrobat Readerは開発元のWebページにて、無償でダウンロード可能です。