子どもの徳育に関する懇談会(第2回) 配付資料

1.日時

平成20年9月10日(水曜日) 14時~16時

2.場所

フロラシオン青山(2階)芙蓉東

3.配付資料

4.出席者

委員

鳥居 泰彦 座長(日本私立学校振興・共済事業団理事長)
鷲田 清一 座長代理(大阪大学総長)
安彦 忠彦 委員(早稲田大学教育学部教授)
天野 秀昭 委員(特定非営利法人日本冒険遊びづくり協会理事)
大野 裕 委員(慶應義塾大学保健管理センター教授)
押谷 由夫 委員(昭和女子大学教授)
陰山 英男 委員(立命館大学教育開発推進機構教授、立命館小学校副校長)
河合 優年 委員(武庫川女子大学教授)
小泉 英明 委員(独立行政法人科学技術振興機構社会技術研究開発センター領域総括)
坂口 一美 委員(社団法人日本PTA全国協議会常務理事)
馬場 喜久雄 委員(板橋区板橋第八小学校長)
平野 啓子 委員(語り部・かたりすと,大阪芸術大学放送学科教授,武蔵野大学非常勤講師)
無藤 隆 委員(白梅学園大学教授)
森 隆夫 委員(お茶の水女子大学名誉教授)
森田 洋司 委員(大阪樟蔭女子大学学長)
柳田 邦男 委員(ノンフィクション作家)
渡辺 久子 委員(慶応大学医学部小児科講師)

文部科学省

 玉井文部科学審議官、徳久大臣官房審議官、森社会教育課長、上月生涯学習推進課長、高口男女共同参画学習課長、高橋教育課程課長、濱谷幼児教育課長、磯谷児童生徒課長、塩原児童生徒課課長補佐

オブザーバー

 天野保育指導専門官(厚生労働省雇用均等・児童家庭局保育課)
(ヒアリング講師)
 子安 増生 	京都大学大学院教育学研究科教授
 白井 利明 	大阪教育大学教育学部教授
(国立教育政策研究所)
 大槻次長

5.審議の概要

(1)開会

(2)委員自己紹介

  • ※ 前回欠席した委員より、自己紹介を兼ねて、子どもの徳育等に対するそれぞれの考え方について発言があった。

【鷲田座長代理】
 大阪大学の総長をしている。研究者としての専門は哲学と倫理学で、日本倫理学会の会長をさせていただいている。教育実践はあまりされていない理論研究の団体ではあるが、筑波大学で行う秋の大会で、「道徳教育と倫理学」というテーマでシンポジウムをすることになっている。民間での活動では、山折先生たちとご一緒に「こころを育む総合フォーラム」といって、子どもの養育に関する研究会に参加させていただいている。徳育に限らず、子どもや若い人たちの教育について論議する場に出ているが、教育について私が発言するとき常にとっているスタンスは、子どもたちが抱え込んでいる様々な問題のほとんど全てが、実は大人社会が抱え込んでいる問題の写しなのではないかということ。大人社会の問題がストレートに写っている場合もあれば、子どもたちなりの形に変換されて表れている場合もあるかもしれないが、教育について論じるということは、大人社会の自己点検・自己反省というものでなければならない。

【河合委員】
 子どもの発達を研究しており、特に、システムとして子どもを見ている。子どもというものは真空の中で育つのではなく、子どもを取り巻く家族や地域社会、メディアや文化という目に見えない価値観というようなものが子どもというものをつくり、育んでいく。これを実証的にすべく研究しているが、道徳という非常にデリケートな部分でも、もう少しエビデンスに基づいた形で議論をしていくことが出来ればと思っている。最近ではHeitという研究者が道徳に関して、感情や感性といったような直感的なものが知識の前にあるということを主張していて発達研究の領域では話題になっているが、知識のような形の道徳と同時に、なぜしてはいけないのかを感じるという、その前にあるものをどのように教育の中で考えていけばいいのかということを考えさせて頂ければと思っている。

【無藤委員】
 発達心理学を専攻しており、特に、学校教育あるいは幼児教育への応用部分を主としてやってきた。中央教育審議会で委員を仰せつかり、先般の指導要領改訂の中でも特に幼稚園と小学校の部分に関わったが、その中でも道徳教育や規範意識の涵養ということが強調された。本懇談会では、道徳教育を含め、もう少し広い観点で様々な子どもの問題を扱っていただけると思っている。私の研究領域は、教育実態とともに、子どもの様々な問題行動をめぐる家庭や社会、あるいは本人の持つ要因の調査であるが、そういう意味からも、家庭・地域背景というものは無視できない。また、しつけや教育に携わる大人やメディアなどが、将来の社会に生きる子どもたちに対してどのような姿を示していくかということも大事ではないかと考えている。そういう意味で、狭い意味での学校教育と、もう少し広い社会の中の影響というものについて考えていきたい。

【陰山委員】
 私は教育再生会議に委員として参加させていただき、当時いじめ問題が大きくクローズアップされている折、心の問題、とりわけ学校現場について非常に厳しい、いろいろな意見をお伺いした。当然ながら道徳はその中心となるだろうが、子どもたちの心のあり方が一番大きな課題だと考えており、3点ほど申し上げたい。
 1点目は学力との相関について。一般的に学習と心のあり方というのは相反するように考えられ、勉強ばかりやっているから心が荒れるといった話がスムーズに入っていくような社会的土壌がある気がする。しかし、今朝もこの近くにある読み・書き・計算の実践を昨年からやっているある都内の小学校に行ったところ、この学校の児童の保護者は外国人の方や生活困窮されている方々もおり、学校が荒れることが多かったが、きちんとした学習習慣を身につけることによって、ものの見事に短期間で子どもたちが落ち着いた生活をするようになったとのこと。当然、成績も上がってきたという話を聞いてきている。2点目は戦後教育との相関。近年の犯罪状況を見てみると、実は戦前よりもまだ安定している位であるが、一方で60代や70代の犯罪についてもよく聞く。子どもだけに目を向けると戦後教育との関係というようなことが言われるが、社会が抱えている病理との関係はもっと大きいのではないか。3点目はやはりメディア。いじめはよくないというニュース番組の後、出演しているタレントをあたかもいじめているような番組が放送されている。あれを一個の人格に見立てた場合、ジキルとハイドのような二重人格ではないのかとも思う。
 そういった点から、一番重要なのは実証性ではないか。心の問題というととかく主観的なものが多くなるが、実際面として、子どもたちの心のありようと、学校あるいは社会のあり方について、実証性をもとにした議論をしていくことによって、おのずと結論は導き出せるのではないかと期待している。

<鳥居座長より>

 たまたま今日はこの場所で会を開かせて頂いているが、陰山先生のお話にもあったように、この先に青山小学校、その近くに青南小学校という小学校があり、2つの小学校が長い歴史を持っている。その上には青山高等師範学校があって、今はその跡に碑が立っている。学校の先生になる人はどういう心がけだったか、その碑を読むとわかるというゆかりの場所である。そのようなことを思い返すと、修身の教科書を使った世代は、学校の先生には1人もいなくなり、大学の先生にもほとんどいなくなった。そのため、修身の教科書がどんなものだったのかということもわからず、戦後63年間の間隙を何が埋めてきたのかということをいろいろ調べてみても、徳育という言葉に相当するようなテキストはほとんどない。そういう時代を経過しているので、私たちが改めてこの新しい時代の徳育というものを考えるにあたっては、外国の話や新しい研究の成果などを参考にしていかなければならないと思う。

(3)資料確認・説明

  • ※ 事務局から配付資料の確認、厚生労働省の天野保育指導専門官から保育所保育指針について説明があった。

<天野保育指導専門官より>

 保育指針は、幼稚園教育要領等と同様にこの3月28日に大臣公示され、今回初めて、遵守すべき法令として位置付けられた。保育指針は第1章から7章までで構成されているが、徳育との関連で見ると、第2章「子どもの発達」において、子どもは様々な環境との相互作用により発達していくことや、「乳幼児期の発達の特性」及び「発達過程」について示されている。このうち、乳幼児期の発達の特性として、(1)大人に愛され信頼されることによって情緒の安定を得て人への信頼感が育つ、(3)子ども同士の相互の関わりを通じて、情緒的、社会的及び道徳的な発達が促されるとされている。また、乳幼児期は生涯にわたる生きる力の基礎が培われる極めて重要な時期であることが強調されている。また、「発達過程」において、誕生から就学までの子どもの発達の道筋を示している。その際、子どもが成長する姿をこの年齢は必ずこういう姿であるといった限定したものとして示すのではなく、子どもの発達の順序性や連続性を重視して示している。したがって年齢の前に「おおむね」という言葉をつけて、緩やかに規定したり、子どもの発達の個人差等を考慮している。さらに、個の発達と集団の発達との関連や十分な自己発揮と他者の受容の重要性などについて触れている。保育指針においては、こうした子どもの発達、特に心身の発達を0歳から6歳までの成長の流れの中できめ細やかにとらえつつ、発達過程を踏まえた保育課程を編成することが規定されている。そして、第3章の「保育の内容」では、特に「養護」にかかわる内容の中で、乳幼児期に十分に自己表出することや、自己肯定感を育むことなどについて記されている。保育所が子どもの発達を見通して組織的、計画的に保育を行い、保育の質の向上が図られるよう保育指針は改定されたが、乳幼児期の子どもと保護者の結びつきや関わりといったことについても第6章「保護者への支援」で規定しており、広く子育てや保育・教育の関係者に読まれ、活用されることが期待される。

(4)ヒアリング

  • ※ 子安増生京都大学大学院教育学研究科教授より「子どもは『心の理解』をどう発達させていくのか」について、関連の質疑応答がなされた。

<子安教授より発表>

 発達心理学を専門としており、幼児期・児童期の認知的な発達について、心理学の実験的な手法を用いて子どもの発達のプロセスを見ていくという研究をしている。1994年にイギリスに行った際、イギリスは心の理論研究が非常に盛んであるということを目の当たりにし、心の理論研究というのは非常に大事な分野であるということを痛感した。

1.幼児期の重要性

 よく「三つ子の魂百まで」と言われるが、心理学の実験的な研究で、「満足の遅延」という分野がある。これは、今即座に欲しいものがあり、それを満たすことはできるが、少し我慢して待つともう少し報酬が大きくなるというもの。簡単に言うと、幼児はやはり目の前のものが欲しいので、明日、明後日まで待てない。それが7歳から9歳ぐらいのところで、待ってでもたくさんもらったほうがいいという子どもたちがはっきりと増えてくる。知的レベルを比べると、知的レベルの高い子ほど待てるという一般的な傾向が1960年代の研究で明らかにされており、その時代の子どもたちは一体どのように育ったのかということを追跡した研究が、ショーダ、ミッシェルの一連の研究の一つである。その結果は、幼児期に待つことが出来た子どもたちは適応能力が高く、社会的にもうまくやっていて、学業の面でも非常に優れた結果を残している傾向にあるというデータが出ている。よって、人間の道徳性の発達を考えるとき、その人の認知的な側面と感情的な側面に加えてもう1つ、意志的な側面というものを意識したい。意志というのは、自分の感情をコントロールする一種の認知能力かもしれないが、感情統制の非常に重要な側面というものがあるのではないか。もう1つ、幼児期の重要性に関して一時期ベストセラーになった本で、『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』という本がある。私は、幼稚園に毎週1回3年間、幼稚園のあるクラスを参加観察し、幼児が3歳から6歳になるまでのプロセスをつぶさに見させていただいた。幼稚園の中では本当にいろんなことが起こっていて、そういう人間関係の場に子どもたちがいることによって、本当にいろんなことを学んでいくのだということを学んだ。その時期というのが、ちょうど心の理論の成り立ちと非常に関わっているのではないかと思う。

2.愛着と切離

 愛着と切離、アタッチメントとデタッチメントという言葉を対にして考えると、親子の結びつきには愛着が重要である。これは、John Bowlbyというイギリスの精神科医が、第2次大戦後、いろんな困難を抱えたケースで施設にいる子どもたちの保育・養育というものを考えていく時、親に代わる人たちの養育行動・愛着行動には、子どもを親身に見ていくことが子どもの心身の発達に非常に大事だという理論があり、それを愛着(attachment)というふうに概念化したわけである。attachmentというのは、決して過保護に繋がるということではなく、子どもを支えるといったような温かい目で見るということ。しかし、子どもはいつか自立しなくてはならないので、いつまでも愛着ではいけない。つまり、切り離しということ。動物はいろんな形で必ず子別れをする。人間はなかなか別れ切れないというところが人間の人間たる所以かもしれないが、切り離すということは、決して無関心ということではなく、関心を持ちながらも子どもの自立を見守るということが切離という言葉である。ところが幼稚園に観察に行ってみると、4月や9月頃には、園児がなかなか親と別れられない状況が見られる。いろんなケースがあるが、親が過剰に関わってしまうといったような、やはり切離という問題ではないかと思うものがある。「切」という言葉には、切るという意味もあるが、親切とか大切といったような場合の「切」というのは、ぴったりという意味のようである。つまり、切離という言葉を私が使うのは、子どもからいかにぴったり離れるか、全く切れてしまうのではなく、関心を持ちながら離れられるかということからである。

3.心の理論の発達

 心の理論の発達について今日はお話しさせて頂くが、この概念そのものは、アメリカの動物心理学者のDavid Premackという人が提案したものである。非常に賢いサラというチンパンジーがいて、サラはプラスチックの板を言葉として使用し、人間の側からもプラスチックの板を並べて何かを伝えるということが可能な、そういう賢いチンパンジーを飼っていたわけだが、その賢いチンパンジーたちはもしかしたら、単に、いろんな問題解決ができるとか覚えられるとかいうことだけではなく、他者の心というものを読み取りながら生きているかもしれない、それを心の理論と呼んだわけである。なぜ「心の」という言葉を使ったのかというと、私たちは物の理論というものにのっかって生きているからである。物の理論とは、物の性質というものを知り、その性質を利用して生きているということで、物に関するいろんな知識を利用して私たちは生きているわけだが、それと同様に、日常生活においては、他者の心というものに関する知識を利用して生きている。ただ、心というのは目には見えないので、そういうものがあると想定することによって現象が説明できる。だから、この人の心の中は見えないが、この人の今の振る舞いを見たら、どうも怒っているようだ、どうして怒っているかというと、どうもあの件らしい、といったようなことを私たちは推測しながら生きているということ。そういったことを心の理論という言葉で表現したわけである。人間が他者理解に対して行うのと同じような行動をチンパンジーたちは行っているかどうかというと、はっきり証明できないが、それに非常に近いことを彼らはやっているというようなことが、霊長類学者の研究によってわかってきている。

4.誤った信念課題

 1983年にオーストリアの心理学者のHeinz WimmerとJoseph Pernerたちが、誤った信念課題という実験的な手法を使い、子どもたちの心の理論の研究を始めた。人と自分が同じことを考えているときは同じ行動をするようなので、同じ方向に向いている時は、他者のことを思っているかどうかがよくわからない。人と自分が違う時、ずれがある時にこそ、その人が他者のことがわかっているかどうかというのを理解できるんじゃないかということ。つまり、他者の思い込みとか思い間違いというものについて正しく推論できれば、それは他者の心が理解できているということになるのではないかということをやってみたわけである。私たちが認知発達の研究をするときは、幼児あるいは児童に対して幾つかの方法を使って研究を行う。1つは、1対1で子どもたちとやり取りをする。時にはパソコンを使ったり、小学生以上なら簡単な問題冊子みたいなものを作って解いてもらうようなやり方もしたりするが、今日は、私が幼稚園児を相手にパソコンでやるときの材料をお持ちした。2つ課題があり、誤った信念課題と二次的信念課題というもの。誤った信念課題というのは、Aさんはこう思っているということがわかるかどうかということで、二次的信念というのは、AさんはBさんがどう思っているかということについて理解できるかという意味合いである。

  • ※ 信念課題と二次的信念課題について、アニメーションを使って説明。

 こういった2つの課題で心の理論を調べる研究を進めてきた私のデータでは、誤った信念課題では、3、4歳児では正答がゼロ。4、5歳で40パーセントぐらい、5、6歳で82パーセント、小学校に上がると、健常な子どもの場合は間違わないという課題になっている。4人の男の子がいて、10かける10のます目の中に数字を順番に入れていくという、非常に単純な課題があった。幼児のやることなので、25枚ずつ配るという知恵はない。みんな適当にこまを持ってやり始めると、こまを半分近く持っていてどんどん出せる子と、5枚ぐらいしかなくてなかなか出せない子が出てくる。どうするのかと思って見ていたら、ある子が、これはおもしろくないからやめようと言う。どんどん出せる子と出せない子がいるのは不公平で面白くないと感じたらしい。ところが、この子自身は出せない方の子ではなく、こまを持っている。持っているけど、これでは面白くないからやめてやり直そうというので、私はこれを幼稚園児のニュー・ディールと名づけた。ご承知のように、ニュー・ディールというのはアメリカの不況下における経済政策のことを言っているが、本来の意味は配り直しということ。トランプのカードの配り直しなので、経済政策で言うと再配分ということになるが、子どもたち自身が自主的に再配分し、その理由はみんなが楽しめるゲームにしたいということ。これは、私が3年間幼稚園に行っていて、一番印象に残るエピソードだった。二次的信念の方は、データとしては少し曖昧なところがあるが、統計的に言うと、4年生までが60パーセントぐらいでフラット、5、6生年が70~80パーセントでフラットというような、2段階で理解されるというデータが出ている。そういう意味では、小学校の間でも二次的信念を理解できない子どもたちが結構残っているということになる。
 こういった心の理論の研究を通じてわかったことは、心の理論ができるということは他者の心の中が推測できるということだが、そこに起こる幾つかの問題点というのがある。例えば、嘘やいじわるということは、3歳児では起こらない。5、6歳児になると相手が嫌がることが非常によく分かってきて、はっきりとしたいじわる行動ができるようになる。そして、二次的信念がわかるのは大体9歳までだとすると、子どもたちは、自分の世界や秘密というものを持つようになるし、悪意を持ったいじわるというのも出てくるようになる。それは、子どもは知恵がついてくると同時に、その知恵を使ったいろんな問題点、葛藤というものも生まれてくるのではないかということ。
 今の学習指導要領は非常によくできている。4つのテーマがあって、自分自身と他者と自然と社会について取り上げるのが道徳だということで、非常に広く道徳というものを捉えているような規定になっており、学年ごとにどんな課題があるということがきめ細かく書かれていると思うが、その中にもう少し心理学的な知見が盛り込まれていくといい。もちろん今の学習指導要領は発達段階に即したことが書いてあるわけだが、より実証性のある、裏づけされた課題というのが出ていけばと思う。
 定言命令、仮言命令というのは哲学の用語だと思うが、単に何々せよというのが定言命令だとすると、何々の場合には何々するなというのが仮言命令ということになるが、仮言命令というのは、子どもたちにとっては実は非常に難しいということが分かっている。小学校高学年の子どもでも、仮言命令の論理学的に正しい意味というのは実はきちんと理解していない。そのような中で、私たちは何を子どもたちに伝えればいいか。
 最後に、心の理論課題は物語形式をとっていて、物語の中の登場人物がどんなことを考え、行動するかということが重要なので、その物語を通じて私たちはいろんなことを学んでいく。最近の子どもたちは本を読まなくなったと言うが、必ずしも本でなくても、映画でもアニメでもいいのでいろんな物語を知って、いろんな人間のパーソナリティー(個性)だとか人間関係のあり方とかいうものを、もう少しこちらから意識的・意図的に子どもたちに理解してもらうような方法というのはあるかもしれないと考えている。

<質疑応答>

【馬場委員】
 愛着と切離のところで、現場で子どもを育てる中での私の考えについてお話をもう少し詳しくお伺いしたいのだが、子どもたちと親との関係で、親離れ・子離れの時期、愛着、あるいは私は密着という言葉も使っているが、おんぶなど親と接する時間というのは、一生のうちに決まっているのではないだろうか。その時間が小さい時にとれない子どもほど、高学年になっても親離れ・子離れができないような気がする。子どもの頃にしっかりと密着していると、離れる時間も早いのではないかと感じているのだが、どうか。

【子安教授】
 可能性としてはあるが、私が愛着・切離と申し上げているのは、親というのはどこかで意識的に子どもをうまく見守りながら切り離していかなければいけないのではないかということを、少し強調した言葉として使っている。

【天野委員】
 知恵の話で、善と悪というのは行為の裏表で、知恵がつけば、悪知恵もつく。だから、知恵のついた子に悪知恵は駄目というのはきっと無いだろうと。どちらかが良くてどちらかが悪いという話ではないだろうと思っているが、どちらのほうが表出するのかということが、徳育という話にとっては大きな問題なんだろうと思う。知恵がつけば悪知恵がつくのは当然だが、人を生かすことに知恵を使うのか、人を貶めることに使うのかでは随分違う。その出方に影響しているものは何だとお考えか。

【子安教授】
 先ほど、認知と感情と意志の3つが大事だと言ったが、知恵がつくというのは、認知能力が発達するということでもあり、悪知恵がつくということもその範囲の中だと思う。それに対して、知恵もやはり暴走する。その知恵の暴走を抑えるのは、意志の力である。そういう意味で、感情を抑えるのも、感情の暴走を抑えるのも、知恵の暴走を抑えるのもやはり意志の力であり、そこをどのように育てていくかということが大事な点ではないかと考えている。

【森委員】
 教育者の立場からすると、この言葉を教えたらどうなるかという変化を見たい。受動的な分析だけではなく、教師が能動的にどう働きかけたらいいかを考える。例えば17で「『心の動き』を知覚したり予測したり説明したりするときには『物の動き』」とあるが、私は言動という言葉もあるのではないかと思う。先ほどの保育指針の内容でも、子どもがどういう表現をするかといった心理学をベースにしたものが多いが、そのころの年齢にどういう言葉を先生が教えるのかといったことは全然出てこない。

【子安教授】
 心理学の中でも私は主に発達の方にシフトしているが、元々は教育心理学を学んでおり、教育心理学というのは、教育の効果を検証する学問だと思っている。つまり、親や先生が子どもに対して何らかの関わりを持ったとき、その効果がどうであるかということを調べる分野であって、私よりも適任のスピーカーがいらっしゃるんじゃないかと。言動について、物と心というのを一応2つに分けたが、心を理解するためには、行動と言葉(行動の中にも本人自身が意識していないような言語的な行動があると思うが)、それをもとに私たちは、この人はこう考えているんだろう、今こう感じているんだろうという心を構成していくという話を今日はさせていただいたつもりである。

  • ※ 白井利明大阪教育大学教育学部教授より「子どもの信頼をどう育てるか」について発表があり、関連の質疑応答がなされた。

<白井教授より発表>

 時間的展望というもの、過去を受けとめ、未来に希望を持って今をよりよく生きるということはどういうことかということを研究している。この時間的展望、日本語で言うと見通しだが、満足を遅延できるということは、そこにはやはり、見通しなり、希望なり、あるいは1週間待ったらもらえるという信頼も含めたものがあるのではないかと考えており、満足の遅延というのは、時間的展望の中心になるものだと考えている。発達心理学が専門で特に青年期を中心に研究しているが、最近は大学生や大卒者について縦断研究をしている。青年期、就職、結婚、出産と大きく変わるので、時間的展望も次々に変わってくるのではないかということ。また、非行からの立ち直りの研究を、家庭裁判所の調査官や児童相談所の心理判定員、あるいは法務省関係の技官と一緒にやっている。非行というと原因が注目されがちで、実際どのように立ち直っていったのかという研究は極めて少ない。今は出会いモデルというものを提唱しており、どういう大人とどんなタイミングで出会うことが大事なのかということを、少年の資質も含めて研究している。他にも、フリーターの問題について、23歳から39歳までの8,500人に調査をしており、フリーターがどのように正社員になっていくのかというプロセスを研究している。非常に多岐にわたるように見えるが、私としてはひとつテーマと思っているものがあり、現代社会で大人になるということはどういうことかということに関心があるというふうに考えると、全部がくし刺しになるのではないか。そうした非行少年やフリーター、大学を卒業して社会に入っていく人たちがどういう人生を歩んだのかという目から、逆に子ども・青年期というものをどのように過ごしたらいいのかということ、大人になるという視点から考えてみたこと、希望を持って生きるという観点から考えてみたことを、今日は意見としてお話しさせて頂きたい。

1.学童期・青年期の発達課題

 学童期・青年期の発達課題について、Havighurstというアメリカの研究者が資料の5ページ・6ページのようなものを挙げている。アメリカの1950年代から60年代にかけての白人の中産階級ということで、時代も社会も違う特定の人たちを、現代の日本の子ども・青年に当てはめることができるかどうかという疑問もあるだろうが、比較的参考になるような内容もあるのかなと思い紹介させて頂いた。まず、同調の実験というものがあるのだが、小学生、中学生、高校生で、大人に従うのか、それとも友達に従うのかということを考えると、大人に従うという面は年齢が高くなると減少していく。一方、友達に従うという点で見ると、小学校の中・高学年ぐらいになると、友達の目が気になり、友達に従うということが増加する。しかし、青年期になると、友達に従うだけではなく、自分の意見というものを持つようになる。振り返ってまとめると、まず、小学生の段階では大人が絶対だが、必ずしも決まりを守っているわけではない。そうした段階を道徳的他律と名づけている研究者もいる。それに対して、小学校の中・高学年から中学生にかけて、友達によく見られたい、秘密は親には話さないが友達とは話をするというような、子どもたちの集団というものが出てくる。こうした友達との関係というものを基盤にしながら、親から自立を図っていく。また、自我の解体と再編成と書いたが、親や家庭からつくられた自分というものをいったん壊し、自分の足で立つ自立という方向へと向かっていく。それだけに、さまざまな問題行動や不調、あるいは無気力といったようなものが表れやすい時期に当たるかと思う。それに対して高校生は、自分で判断をする。しかも、自分勝手に過ごすのでもなく、決まりは結構守ることができるようになっていく。これを道徳的自律と呼ぶ研究者もいる。以上のような発達の筋道を紹介させていただいた上で、私なりに考えてみたいことが幾つかある。1つは、逸脱というものが規範意識というものを形成する過程において持つ意味というものについて。次に、自我の解体と再編成について。つまり、大人からは一見否定的に見えるようなことでも、発達的には大切なことがあるのではないかと思っている。前回のゲストスピーカーである二宮先生の発表の中で、少しやんちゃな子どものほうが、しっかりと決まりを守っている子どもよりも、むしろ道徳的な自律というものはその後いいというような話を聞かせて頂いたこともある。また、発達的な意味というのは、大人を乗り越えて発達していく子どもの可能性だと考えている。それは単に決まりを守るということだけではなく、次の新しい社会を作っていく可能性というものが、子どもの未熟さと呼ばれるものの中にあるのではないかということ。「子どもが未熟さを生きることができることを保障する」と書かせて頂いたが、先ほどattachmentのことで子どもがしっかりとお母さんに抱かれるという発言もあったが、本当にそのとおりだと思う。子どもが子どもとして生きられる、そういうことがあって大人になることができるので、早く大人にならせようとすると、かえって大人になることができないという現象も起こるのではないか。

2.子どもの希望はどこから生まれるのか

 小学校2年生のことが資料に書いてあるが、次のように意味づけてみた。おかあさんが子どもに「よくできたね」という言葉をかけ、子どもの満足を一緒に共有する。そうすると体験に括りが入る。体験に括りが入るというのは、満足を共有することによって、過去というものがまさに過去になっていく。これを過去化というふうに呼んでいるのだが、過去のものが過去にならない現象として、例えばPTSDと呼ばれるような現象というのがあり、過去が現在に侵入し続けていて、過去化されていないというように考えられる。そうした過去というものを過去の事象にすることによって、子どもはくじけそうになりながらも頑張った過去の自分と向き合うことができる。そうした過去の自分と向き合うことができると、今度も頑張るよという形で未来が立ち上がってくる。未来が立ち上がってきて、過去と未来というものに相対することで、「生きられる現在」というものが生まれてくるのではないか。つまり、見通しを持つということは、今をよりよく生きるためにあるのではないかと考えていて、過去の自分と向き合うなかで未来を構想し、希望が生まれる。過去と未来とを相対することで、時間の広がりというものが生まれてくるのではないかと考えていて、過去の肯定の共有が未来を立ち上げるというふうにまとめた。もう1つ、小学校3年生の作文の例を見て頂きたいのだが、この作文は書くだけではなく、先生に見せているので、子どもは先生の反応を見ているのだろう。先生は、人間の持つ醜さというものが描かれているこの作文を読んで、とても子どもを愛おしく思ったそうです。そうした教師の姿を見て、子どもは自分の醜さと向き合うことができたのではないか。そうした子どものすばらしい才に接して、教師はますます子どもが愛おしくなっているのではないかと思う。こういった先生の中に、実は希望というものも立ち上がっているのではないか。つまり、希望を育てるということは、こうした人間への信頼を育む大人の丁寧な関わりの中で共有というものが行われ、未来が立ち上がってきたり、自分で自分のことと向き合うことができたりといった関係になっているのではないか。大人が教えて子どもが伸びていくという局面もあると思うが、人格形成の基盤というものを考えたとき、やはり大人と子どもとの共有の中で、子どもの中に大人に認められたといったようなことが実感できると、子どもの中に希望が生まれてくる。そして、子どもの中に希望が生まれてくると、大人の中にも希望が芽生えてくる。そんなふうに大人と子どもが一緒に育っていくことが、世代間対話と言われるものではないか。

3.公共心のある子どもに育てるには

 最後に、「公共心のある子どもに育てるには」ということでお話ししたい。まず、真ん中に自分への信頼というものを書き、その周りに身近な他人への信頼を書いたが、実は、最初に身近な他人への信頼があって、そこから自分への信頼というものへ返っていくという両方向があると思う。自己肯定観ということが先ほども出たが、こうしたものも自分への信頼と関わっていると思う。今からお話しするのは、一番外にある見知らぬ他人への信頼というもの。専門用語で社会的信頼と呼んでいるが、こうした見知らぬ他人への信頼というものを育てていくことが、私が考える公共心と呼ばれるものの中心、あるいは基盤になるものではないかと思っている。こうした社会的信頼という研究は日本ではほとんど行われていないが、ヨーロッパやアメリカの心理学の研究では近年盛んに行われている。本当に困っている時は見知らぬ他人から助けてもらえる、こういう経験が社会的な信頼を生んでいくわけだが、同時に、人を助けることができる存在であるということが社会的信頼を生むとも言われている。例えば、アメリカの研究で、クラブ・サークル活動をしている中学生の場合と、地域のボランティア活動をしている中学生を比べてみると、クラブ・サークル活動でも社会的信頼が伸びる面もあるものの、見知らぬ他人に対してのボランティア活動をすることにより、社会的信頼がますます伸びていくといったようなデータが蓄積されている。こうしたアメリカの研究からの知見は幾つかまとめられるのだが、まず、同じ価値観の者ではなく、考え方の違う者同士が力を合わせる体験が重要であるということ。また、同じ世代だけではなく、大人と一緒に活動する。しかも、大人も様々な大人がいるということがわかることが重要。そして、社会を変えることができる、そういった経験というものが重要であるというようなことが蓄積されている。日本ではボランティア活動、アメリカでは社会サービス活動と呼ばれることが多いそうだが、イギリスでは、シティズンシップという、学習なり体験として呼ばれることが多いらしい。シティズンシップは「個人と国家との間の権利や義務に関する契約」と政治学の分野では呼ばれているようだが、シティズンシップを促す社会参加ということで、アメリカの発達心理学者であるHartは、ユニセフから出版されている本の中で次のようなものを書いている。子どもが社会参加する上で、形だけの参画ではなく、主体的な参画が必要であると。例えば、冒険遊び場づくりというものを8歳から10歳の子どもたちが自分たちで考えて取り組んだというようなことも紹介されている。みんなの社会はみんなで作っているということが実感できるような取り組み、その中で、自分は助けてもらえる、あるいは見知らぬ人を助けることができるといった相互性のある活動というようなものや、社会の仕組みや権利についての知識というものを修得していくと同時に、それを実行するような経験を積むようなこと。児童の権利に関する条約というものもあり、近年では、児童の権利、あるいは意見表明権といったことも重視されているかと思うが、そういった取り組みをアメリカやイギリスだけではなく、日本でも少し焦点を当てていく必要があるのではないかと思う。

<質疑応答>

【鷲田委員】
 自立という言葉はよく言われるが、independent、つまり誰にも頼らないで生きていくということではないですよね。私はそこが非常に誤解されていると思っていて、自立イコール、independenceだという議論が多いと思う。だから、だれにも依存しない、全部自分で責任とらないといけないのではなく、自立というのは、interdependentである。つまり、人はだれもひとりでは生きていけないのだから、自立しているというのは、困った時、あるいはいざとなった時に助けてもらえる、あるいは支援してもらえる、そういうネットワークや仕組みを活用できるように自分で設定できること、そういった準備ができていることが、私は自立というのだと思う。そうすると、社会的信頼ということが非常に重要になってきて、相互のdependence、interdependenceということが社会的信頼の実質を成すのだろうということで、ここは非常によく納得できた。しかし、今の子どもたちの現実を見ると、困った自分が追い詰められた時、誰にも助けてもらえないというのが子どもたちにとってリアルなのではないか。例えば、親に見放され、学校に見放された後は、見捨てられるだけで行政や企業が助けてくれるわけじゃない。働き先がなければ、もうそれで終わり。せいぜい派遣で使い捨てだとかいうような感覚、自分は助けてもらえない存在なんだという方がリアルなのが今の社会だと思う。同じように、自分が他人を助けることができる存在だということが実感できないのも今の社会で、例えば、何か社会的な問題や不幸があった時、自分は何かをしようと思っていても、あまりにも微力過ぎる。つまり、社会が高度にシステム化されている中で、私の力なんかは何の働きもしない、こんな私なんかは何の役にも立たないというのが実感である。そういうとき、彼らは何を支えに生きているかというと、先生のおっしゃるとおり社会的信頼なのだが、それが非常に小さなサークル、つまり友達の中、ここだったら自分は困ったときに助けてもらえるというところ。例えば、一緒に死にたいと言ったら、一緒に死んであげるぐらいの濃密な信頼を持っているところでのみ認められ、社会的信頼というのが極限にまで小さくなっているというのが、すべての子どもとまではいかないが、そういう傾向が出てきているのではないかと思う。そういう現実に対して、我々は一体何をすればいいということになるのか。

【白井教授】
 何ができるのか、非常に重い問いかけで、それこそこの審議の場で話し合って頂きたいと思うが、いろんなことが言えると思う。例えば、違う考えを持った者同士で力を合わせるような体験、これはどんなに小さなことでもいいと思う。あるいは大人にもいろんな大人がいて、いわゆる立派な大人もいると思うが、必ずしも立派じゃない、一見いいかげんに生きているような大人と出会い、本当に生き方というのは自由なんだと思うことによって、自分の生き方について責任が持てるということもあるのではないか。小さなことかもしれないが、そういう小さなところを少しずつ変えていくと同時に、誰かを助けることができるというだけではなく、自分は困っていたら助けてもらえるんだという、大人で言えば窓口みたいなものを、例えばピアサポートとかピアカウンセリングということの実践も、心理学では積み上げているところもある。そうした実践の中で助けてもらえる、あるいは自分が何かできるという、そういう小さな芽生えでもいいと思うし、積み重ねることはできるのではないかと思う。

【森委員】
 自分で立つ自立というのが7ページに出てくるが、11ページでは道徳的自律と律するほうが出てくる。立つほうの自立と律するほうの自律の交通整理をしていただかないと、我々教育屋は一番困る。京都大学名誉教授の加藤尚武さんの『子育ての倫理学』という本を読んだが、そこでは、自分で立つ自立のほうは自分で律する自律の後だと書いてある。自分で律する自律の方は善悪の価値判断が認識できるということで、それが実行できるようになって初めて自分で立つ自立ができる。これも一つの考え方だと思うが、心理学では自立と自律の交通整理をどうしているのか、学習指導要領ではどうなっているのか。

【白井教授】
 とても苦慮するところではあるが、一応英語では、立つほうはindependenceで、律するほうはautonomyという言葉を当てている。independenceのほうは俗に言う独立というふうに考えていて、親や大人の統制から離れ、自分で責任を持って自分の生活というものを切り開いていくようなことを立つほうの自立というふうに考えている。autonomyであるが、これは、自分の中に何らかの価値判断、あるいは善悪判断の基準というものがあり、それに基づいて自分の行動をコントロールしていくような側面、そういうものを律するほうの自律ということで考えている。どちらが上位概念ということはない。

【高橋教育課程課長】
 今回改定した小・中学校の道徳の「第3 指導計画の作成と内容の取扱い」では、「各学校においては、各学年を通じて自立心や自律性、自他の生命を尊重する心を育てることに配慮する」との記述がある。立つほうの自立は「自立心」といった形で、自らの生活を自分で行っていくといった意味合いで使っているのに対して、自ら律する自律は「自律性」といった形で、自らを律して、いろんな行動・規範などを振り返ることができるといった意味合いで用いている。「律する」と「立つ」の順序性については必ずしも学習指導要領では意識しておらず、文脈によって2つを使い分けている。

【無藤委員】
 論者によって様々ではあるが、比較的多い用法として、特に指導要領なり教育の議論との結びつきで言うと、independenceの方の自立というのは、例えば幼稚園の場合、生活上の自立、要するに身の回りのことはできるという意味だが、小学校低学年の生活科でも使われており、それが次第に精神的な自立に向かうという流れで、自分で行動できるという意味合いで主として使っていると思う。これは多分、Havighurstから来る発達課題でもそうであると思う。それに対して自分で律するほうは、道徳判断における他律から自律性という流れをかなり意識して使っており、自分の考えを自分なりの原理原則で判断できるとか、自分なりの価値観を持てとかいう意味合いが多いのではないか。

【鳥居座長】
 今から108年前に新渡戸先生がお書きになった『武士道』の中に似たようなものが出てくる。この本は、最初は英語で書かれているので、後で日本語に訳されている。その中に出てくるのは、self-controlという言葉。いろんな訳者が訳していて、東大の総長だった矢内原先生の翻訳が一番古いわけだが、そこでは克己と訳している。その克己を、今の森先生の整理で言うと、律するほうの自律と同じ意味で使っていると思う。

【森田委員】
 社会的信頼に関して、社会学の中では、ある意味では行為の交換体系と考えている。行為というのは、単に行動のやり取りだけではなく、そこにのる物財、心理、情緒といったようなものすべて含んでおり、その間に出来上がってくる産物として、ソーシャルなレベルでの信頼、つまり社会的な連帯なり統合なり、そういう感覚が一つの結果として出てくる。行為は大ざっぱに分けて2つの体系をとり、1つは互酬性モデルと言う。つまり、自分が行為を与え、そして何らかの形で自分へ返ってくるという行為。それから、互酬性の延長。例えば、AとBという2人がギブ・アンド・テークの関係になる。これは通常よくある光景だが、AからBへ、BからCへ、CからDへとずーっと行って、いつ返ってくるかわからないが、いつかは自分のところへ返ってくるかもしれないし、返ってこないかもしれない。互酬性というのはツーウェイだが、そういう一方向的なワンウェイの中での交換体系というものがある。いつかは返ってくるかもしれないけれども、返ってこないかもしれないという交換体系を社会の中にいかに築いていくかということが、社会的信頼、ソーシャルなレベルでの社会的信頼感を増す、あるいは連帯感というものをつくり出す元になっている。そういう互酬性の遅延という観念をいかに子どもたちの中に形成していくかということだろうと。これは、社会学で言うと、1960年代のBlauの研究を元としてそういった理論が展開され、世の中の社会福祉制度やボランティアとかいうものを、どういう交換体系の枠組みで考えるのか。あるいは企業の中だと、事業部門制度というような会計方式、これをどう切っていくかという、ソーシャルなレベルでのシステムの問題から人間関係のありようまでを含んだ理論として考えられている。その交換体系の後者は、社会的ワンウェイの交換体系が非常に重要であろうと思うが、心理学ではどうお考えなのか。Blauの研究は心理学の中にも影響を与えており、その後の展開があればお教えいただきたい。また、ここで考える場合も、先生のモデルだと、どうも互酬性のようなもの、あるいは行為のやり取りの中の子どもの対面的関係の中でのモデルに限定されているようであるが、社会的という意味での信頼関係をとるという場合には、もう一つ違ったモデルが必要ではなかろうか。

【白井教授】
 実は社会的信頼というのは社会学で出てきている言葉で、日本では使っている人はいないが、欧米では心理学者も使っている。また、ソーシャルキャピタルも社会学からお借りして非常に重要になってきているが、日本の心理学サイドではまだまだ研究されていない。心理学の場合、互酬性ということで、例えば児童期の後期になり、ギブ・アンド・テークの互恵的な関係がそこで成立するとかいったことが大きな基盤となっていくわけだが、それは、知っている者同士、仲のいい者同士だけではなく、地域に何らかの活動をすることによって知らない人たちへと輪が広がっていくような、そういうところまで考えると入るが、社会学の場合には、さらに規範や制度といった問題が入ってくる。その辺りはやはり社会学の方からもっと教えていただいて、内容が豊かになっていくといいなと。

【子安教授】
 1点だけ補足すると、多分、今の問題を心理学でやっているのは北海道大学の山岸俊男先生で、「安心社会から信頼社会へ」とおっしゃっている部分に相当すると思う。

【渡辺委員】
 私自身は、鷲田先生が自立はinterdependenceだとおっしゃった点と、私の専門としている乳幼児の精神学、乳幼児の新しい知見とが非常に響き合うので、そのことを少しご紹介することにより、何かがもう少し繋がっていくのではないかと思う。今年の8月1日から5日間、横浜のパシフィコで世界乳幼児精神保健学会があり、そこで、ニューロサイエンスの研究者、精神分析者、心理学者、臨床現場で障害児を育てたりしている人たち約2,000人が集まり、最新の知見を交換した。その場で新しく再評価されたのが、土居健郎先生の甘えの理論。甘えの理論というのは、interdependenceということを40年ぐらい前から言っていながら、欧米ではある意味で無視されてきたという理論。ところがその間、乳幼児の精神保健、あるいは乳幼児の発達研究は、ビデオや音声学、あるいはMRIの脳循環ということで響き合いの関係性の研究をしてきた。つまり、お母さんが傍にいるときと離れたとき、何カ月ぐらいで子どもはわかるのかと。例えば、小林登先生の研究班の30年前程前の赤外線を使った研究でも、物言わぬ赤ちゃんが生後5、6カ月ぐらいで既に、お母さんが傍にいてただぼやっとしている時とお母さんがいない時とで、血流状態が違うということがわかっている。少し飛躍するが、人間の赤ちゃんというのは社会的にアンテナを張るように生まれ持っている、もともとinterdependentな関係にみずから入ろうとする脳を持っているということ。その証拠として、かなり年齢の低い未熟児でも、相手が自分に温かいものを向けている時、既に脳の中でそれを感知する力があるので、大人がその子をあやしながら一緒にリラックスしている時には、それをよく感じ、その人と波長を合わせて生きるということが現に起きているということをデータが示している。それは今、国際的にも研究されており、未熟児の赤ちゃんがお母さんから切り離されて保育器の中に隔離されていても、1回目の面会のときにはお母さんのほうが緊張していてぎくしゃくしているから赤ちゃんはじっと寝ているが、その時にお母さんが一生懸命に働きかけると、1週間後の抱っこの時には、赤ちゃんがちょっとでも反応してくれる。そういったほんのささやかな自分の働きかけに相手が応えてくれたというささいな一瞬が、お母さんにとってすごく深い安心になり、自分のちょっとした目の動きとか反応にお母さんが応えてくれるというその関係性が、早い時期に赤ちゃんに感知され、2週間目には、お母さんが「ねぇ、そうだよねぇ」と言うと、赤ちゃんが「ふんふん、ふんふん」と言って、二重奏をするようにやり取りしている。そういうところを見ると、人間というのはもともと社会的に響き合うという脳の構造を持ちながら生まれていて、それはすごく微かな阿吽の呼吸のレベルで起きているが、それを乳幼児の精神保健の人たちは直感的育児として、親行動を赤ちゃんが誘発するものとして何十年も研究している。赤ちゃんがお父さんやお母さん、周囲の人の育児行動を触発し、触発された直感的な育児行動がまた赤ちゃんの応答性を高めるという、互恵的なものが絶えず起きている中で脳が発達していると言われている。そうなると、乳幼児精神保健というのは、古い精神分析や古い心理学は根本的に書き直されなければいけないと、少なくとも今回の学会では言われている。そういった研究者たちは今、赤ちゃん、あるいはヒトのルーツの意識が一体どこにあるのか、その意識において言語的な意識以外に無意識の身体的な意識というものがどのようにあるのかといったところを研究している。身体的な意識は記憶として残り、胎内環境の記憶やどういう形で生まれてくるのかということも全部記憶されている。早く生まれた子どものほうが早く外界に出ているので、外界のいろんなものに触発された早熟の部分があるし、未熟性があって生まれているから弱い部分もあるといった、未熟児の発達そのものの研究も細かくなっている。
 先ほどの自立と自律についても、まさに乳幼児の精神保健のテーマである。赤ちゃんはおなかの中から一人で生きているが、その生命の滋養といったものは羊水や子宮に全部守られている。たった一人という存在、身体感覚としてはありながらも、絶え間なくinterdependentな関係の中で守られ、疑うことなく生まれてくる。さらに、土居先生が言っている人間の持つ非言語的な無意識の、まだ解明されていない一種の脳の動きとして、思わず動いてしまうといったところのinterdependenceと甘えがつながるという知見も出ている。それぞれが繋がっていくことによって人間の理解が深まっていかなくてはいけないのだが、今回すごく強調されたところは、もっと自然な赤ちゃんの姿から私たちが学び抜かなければいけない、あるいは、苦境に陥った赤ちゃんや人間から学んでいかなければいけないということ。interdependenceをもう少し教育に取り入れて、一人一人の子どもの資質を家族が見抜いていけるような、そういう雰囲気の関係を親と先生たちがつくっていく、親と先生と社会が一人一人の子どもの資質をみんなで学んでいくというような、そういうinterdependentなものがあれば、フリーターやひきこもりの子どもたちの可能性や希望がもっと立ち上がってくるように私は思う。

【天野委員】
 自分で言うのもなんだが、冒険遊び場というのはかなり有効な手だてだと思っている。私たちがずっとやってきている冒険遊び場は地域の中で作られてきているのだが、すべての年齢の方たちが集まってくる。子どもの遊び場といいながら、実は子どもを中心としたコミュニティーの場であるというふうに言った方が近いのではないか。Roger Hartの『子どもの参画』という本の中でも子どもの参画ということについて8つのはしごの図解をされていて、子どもの参画状況が一番高いのが8段目になっているのだが、そこにも冒険遊び場というのが挙げられていて、子どもの主体みたいなものをどのように保障していくかということだが、そこのところもそういった解説をされている。徳というのをどのようにここで理解していくのかということがすごく大きいと思うが、善悪の規範という捉え方をすると、これは大人の世界だと思う。子どもの遊びの世界から見ていくと、子どもの行動規範というのは、善悪ではなく快・不快である。つまり情動の方である。子どもは、面白いからそれをやるのであって、正しいからやっているのではない。善悪を早いうちから子どもにたたき込もうとすると、情動のほうが殺されていくということを強く感じている。僕らの遊び場は、子どもがやりたいことを実現していこうということで作られてきているので、快と不快をベースしている。だから、大人社会からすると非常に受け入れ難い子どもの逸脱のシーンが目立つ場合がある。そのとき大人がどのように対応するかということが問われていくので、問題を起こさないために大人が対応するのではなくて、起こった問題を子どもと共にどう解決していくかということに大きなウェイトが置かれている。子どもの危機というのは、情動が殺されているということ。要するに、かなり早い段階から子どもを大人化しようとしているということ。このことが子どもの中の子ども性を殺していて、そこから起こっている問題というのが、実はたくさんあるのではないかと感じている。

【大野委員】
 2つ質問だが、1つは子安先生に、心の理論と社会の変化というのはどのように関係してくるのだろうか。心の理論というのは一つの子どもの発達過程であるが、環境が変わっていく中で、どういうふうに関わればそこをうまく引き出せるようになるのか、理解をする何か知見があれば教えていただきたい。白井先生には、子どもの信頼をどう育てるかということで、最近、子どもの危機と言われているが、本当にそうなのだろうかということを伺いたい。今、子どもが孤立していると言われているが、先生の研究で縦断的に見ていて、だんだんと悪くなっているのか。というのは、私がやっている自殺研究でいくと、若者の自殺というのは世界の中で日本が非常に減っている。むしろ60代、70代はコホート的に自殺・他殺が多い。そのあたりを考えると、果たして本当に今の問題だけなのか、過去には問題がなかったのか、その辺りの変化というものを捉えて支援をしていくことが必要なのではないかと思っている。

【子安教授】
 まず、心の理論研究の中で、社会の役割というか、心の理論が促進できるかどうかという話だと思うが、ひとつ流れとしてあるのは、心の理論は一体どこで形成されるのかということ。もちろんかなり人間固有の能力であるとしても、そこに社会的な役割というのはあると思うが、特に重視されている研究は兄弟の関係。兄弟の数と心の理論の達成の早さというのに相関があるというデータがあるが、それには反論のデータもあり、まだ確定したものではない。可能性として兄弟の効果というのはあると思うが、データとして立証できるところまでは達していない。もうひとつは文化差で、日本と韓国のデータを欧米のデータと比べると、心の理論の達成時期が半年から1年遅いというデータがあり、これはかなり安定したデータではあるが、そこに至る解釈は非常に難しく、甘えで解釈する方もいるが、考えられるのは、例えば親が子どもに対して全部配慮して、子どものやることを先回りしてやれば、子どもは他者のことをあまり考えなくていいからゆっくりなのかという、そういう解釈の可能性はある。事実としては、欧米に比べてアジアの子どもたちは遅いというデータはあるが、それは社会のどの役割に帰するかということに関しては、まだ結論は出ていないということ。

【白井教授】
 子どもが変わったのかというのは非常に大きな問題だが、変わった面と変わっていない面があると思う。先ほどの自殺について、今、60代が多いということだが、昔、40年、50年ぐらい前の青年心理学の本を見ると、青年期が一番自殺が多く、それは青年期が不安定な時期だからというふうに書いてあったと思う。それが40年、50年たったら今度は60代ということは、どうもある特定の年代の方がずっとシフトしてきたという見方もできる。ある世代の経験のされ方、それはまた時代との響き方ということもあると思うが、40年、50年前の青年心理学の本は何だったのか。青年期というのは不安定だからそういうことが起こるという紋切り型の解釈で考えていて良かったのだろうかという疑問も湧いてくる。ですから、今の子どもがこうだとか、あるいは高齢者だからどうだとか、そういうことを超えて、1つ1つ、時代、状況といったものと関わって丁寧に見ていく必要があるのではないかと思う。さらにもう一つ、未熟だとか、こういう点が悪いと言われている中に、新しい可能性とか、今の時代の価値観を超えていくような可能性をもっともっと見なくてはいけないのではないかということも、今日お話ししたかったことのひとつである。

【押谷委員】
 子安先生に、心の理論ということになると思うが、価値意識というものの心の理論という中での理解、それはどのように押さえているのか。それと、白井先生に、子どもの信頼をどう育てるかということにおいて、結局、大人が子どもをどう信頼するかというのが大変大きな要因かと思うが、どうすれば大人が子どもを信頼できるのか。

【子安教授】
 資料の38ページに古典的なPiagetの道徳判断の課題というものがあるが、これは、お手伝いをしてお皿を10枚割った場合と、盗み食いをしようと思ってお皿を1枚割った場合とで、結果は10枚のほうが被害が大きいが、動機の問題に着目している。子どもは、最初は結果のほうに着目するが、だんだんと結果だけではなく、動機のほうも判断しようとするようになってくるという1920~30年代の研究があり、その追試データが39ページのスライド。1~2年生の間に急激に上がり、2~6年生も徐々に上がってきているデータを用意した。これを善悪判断というふうに考えると、背景に認知的な能力の関わりがあるのではないかということだが、統計的には二次的信念誤課題がわかれば道徳性もわかるので、善悪判断の基礎に心の理論も含めてさまざまな認知的な理解があるのではないか。そういう意味で道徳の善悪の判断ということと、その前提にあるさまざまな知的理解というのは非常に密接に関係しているのではないか。

【白井教授】
 大人が子どもを信頼できるにはどうしたらいいのかというご質問だったが、やはり大人が子どもの声を聞けるかどうかということに尽きるのではないか。決して子どもの言っている言葉の表面とか行動の表面ではなく、しっかりと子どもの声を聞けているのか、それだけのチャンネルを大人が持っているのか、包容力があるのか、そういうことが子どもにわかれば子どもは変わっていくし、子どもが変わるということの中に大人の希望もまた生まれてくるのではないか。

(5)その他

  • ※ 次回会議の日程について、事務局から説明があった。
     次回会議は、10月に開催の予定。

(6)閉会

お問合せ先

初等中等教育局児童生徒課

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