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資料7

「学校評価の推進に関する調査研究協力者会議」における意見の整理

平成18年12月15日

1. 学校評価全体の在り方について
  学校評価の必要性・目的・意義(位置付け)について
学校評価に取り組む動機、評価結果を受けた改善策の在り方について
学校評価の用語の定義(位置付け)について
外部評価(学校関係者評価)の定義(位置付け)について
学校評価に関する研修の重要性について
  指導主事の在り方について
学校の情報の公開について
  保護者との連携について
学校評価への教育委員会のかかわりについて
私立学校における取組について
義務教育諸学校と高等学校との違いについて
学校評価と教員評価の関連付けについて

2. 自己評価の在り方について
  自己評価の公表の在り方について
自己評価の実施率と公表率の差について
自己評価の実施・公表の義務化について
評価項目・指標の設定について
評価手法について

3. 外部評価(学校関係者評価)の在り方について
  保護者等による外部評価(学校関係者評価)の意義(位置づけ)について
外部評価(学校関係者評価)の公表について
外部評価(学校関係者評価)の課題について

4. 第三者評価の在り方について
  専門的な外部評価としての意義(位置付け)について
評価の在り方について
評価者の在り方について
評価結果の活用について
評価の主体について
国と地方の役割分担について



協力者会議における意見の整理(第1回〜第4回)

1. 学校評価全体の在り方について

 
【学校評価の必要性・目的・意義(位置付け)について】
 今、学校への裁量権の移譲が進んでいる中で、学校が比較的自律的にできるようになる裏返しとして学校評価が必要ではないか。

 学校評価の目的について、県・市町村の教育委員会や学校それぞれに思いやレベルが様々であるので、きちんとした整理が必要。

 学校評価を通じて、三重県の取り組みにおけるベンチマーキングや、大学におけるGP(GoodあるいはBest Practice)、イギリスにおけるBeacon schoolなど、モデルとなる学校を浮かび上がらせて、他の学校がその実践を取り入れて改革を進めることが必要。

 英米型の学校評価が結果責任を問うのは、学校が経営主体となっているため。日本の現状からは現実的に難しく、望ましいかどうかもわからない。学校評価は、今は管理ツールというより、コミュニケーションツールとして認識すべきではないか。

 学校がアンケートや情報を流すことにより、提案が保護者から寄せられ、それがアクションにつながる。学校評価とは、評価自体が目的というより、その内容をいかに保護者が共有でき、学校に対して何ができるかということを引っ張り出す一つの手段ではないか。

【学校評価に取り組む動機、評価結果を受けた改善策の在り方について】
 学校評価がこれまで定着しなかったのは、学校にかかわる様々な基準が定められるなど事前の管理が行き届き、それさえ遵守すれば一定の成果が生み出されて当然という見方があったからとも言える。また、マネジメントは管理職の問題であり、授業など教育活動は教職員の問題であるという分断が当然視され、両者が交わる視点をもたなかったことも挙げられる。

 評価結果の公表や外部評価について、現状では学校関係者は少し距離を置きたいという気持ちがある。しかし、公表や他者から評価を受けることが自分たちの改善にもつながるという認識を持つことが大事であり、学校関係者にとって意味あることという理解を得られるようにしたい。

 どのような課題も当事者が問題と認識しない限り、何も機能しない。どれだけ外から評価結果を突きつけられても、それをなるほどと思わない限り、むしろ、それを糊塗する動きが加速する。したがって、いかに内発的な動機づけをとりながら、自己評価を徹底していくかが重要。

 学校が抱える課題に対応するために、学校側からの提案に応じて県が教員を加配する。次年度も続けようと思えば、税金によって特定の学校に特別な手当てをする以上、きちんとその評価をして成果を示す必要があるし、学校の方にも示すモチベーションが生じる。

 自己の裁量でアクションを起こし、それに対して保護者等のサポートや、教育委員会からの加配や特別な補助などを得る。そして直すべきところは直す。これがあれば、評価への取り組みを学校が続けられると思う。

 管理職ではない一般の教員は、いい授業がしたいと思っており、それを評価してもらいたいという思いが非常に強い。学校経営へのアドバイスという形では、なかなか一般の教員に伝わらないので、学校評価が浸透していくためには、これを通じて個々の教員の授業の改善・改革につながると位置づける必要がある。

 ある学校で学校評価の研究に3年ほど取り組んだ結果、1つは、初年度は毎月約20件ほど児童に関する苦情などが保護者や地域から校長室に直接電話がかかってきていたのが、今では2カ月に1件ほどまで減った。これは、学校評価の取組を通じて、教職員が一体的な取り組みをしているからではないか。
 2つ目に、学力について、若干印象的ではあるが、国語・算数で平均約5点ほどアップしたと、教職員が1年を振り返ってみる中で結論付けている。

 県教委が学校を評価し、学校に児童生徒が集まらないので校長はリーダーシップを発揮すべきとなった時、その校長を任命したのは県教委の責任ということになる。教員評価をして、この学校にろくな教員がいないとなると、配置した県教委の責任に戻ってくる。コミュニティスクールなどのように、学校レベルで主体的に教員を採用するなどの状況をつくり出さないと、最終的に誰に責任があるのかが不明瞭になる。

 これまで細分化して学校に予算を配分していたのを全部やめて、学校規模に応じ2,000万とか3,000万を一括して学校に配分し、校長のマネジメントでその予算を好きなように使うという取り組みを行った。さらに、人事についても校長による教員公募、つまり本校にはこういう教職員が必要だという取り組みも始めた。これらを通じて目標管理の考え方が根づいてきたと思う。

 学校選択制を採り学校予算を児童生徒数当たりで決めている国、例えばイギリスでは、学校評価結果が児童生徒の増減にかかわり、それが学校予算に反映するなど、仕組みは単純である。日本で今のところそのようなシステムをとらないとすれば、評価結果による「ご褒美」や「ペナルティー」をそもそも考える必要があるのかないのかという問題がある。

 評価結果に基づき、少しメリハリのある予算配分など、人事・財政面での「ご褒美」があってもいいと思うが、義務教育については、地域性があり、校長の責任ではどうしようもない部分があるので、高等学校と義務教育とで分けたほうがよいかもしれない。しかし、少なくとも現状よりはあってもいいのではないか。

【学校評価の用語の定義(位置付け)について】
 学校評価の用語をめぐる混乱があり、言葉の定義を整理する必要がある。

 自己評価にいう自己とは誰なのかという問題などもあり、概念を整理するのであれば、当事者や受益者といった言葉がより妥当かと思う。

 これまでの定義では、学校がみずからやれば自己評価、学校が外部の評価者を任命して実施すれば外部評価、学校の意思とある意味無関係に、学校以外の主体、例えば教育委員会などが実施すれば第三者評価、と区別してきた。

 ガイドラインでは外部評価は設置者が設けた外部評価委員会が行うとあるが、これは学校からみると、外部評価なのか第三者評価なのか混乱する。例えば、外部評価は、学校が評価する人を決めて実施する外部の評価、第三者評価は、学校の意思と無関係に第三者がその学校を評価する場合などと区別する必要がないか。

 第三者評価は、自己評価・学校関係者評価・仲間うちの評価の質を担保したり、内部だけではわからないから第三者の助言を必要とするため、と定義できる。第三者評価の位置づけは、ベストプラクティスを発見・分析したり、あるいは改善支援が必要なところに対して専門的に分析するような位置づけが妥当。その観点から、自己評価、学校関係者評価あるいは地域の評価、それに専門的な第三者評価、の3つの位置づけとしてはどうか。

 自己評価の信頼性を確保するために外部評価を行い、さらに第三者評価が入ってくるとなると、外部評価でもだめなのかということになり、そうなると3つの評価を段階づけから、一番大事なはずの自己評価が一番だめな評価ということになってしまうのだろうか。このような構造的な問題について留意する必要がある。

 今後、個別の学校評価の実施から、組織的・体系的、あるいは継続的・発展的な評価に評価システム全体として進化をさせていく必要がある。

【外部評価(学校関係者評価)の定義(位置付け)について】
 自己評価・外部評価に加えて、第三者評価が入ると、外部評価とは何かという説明が必要。外部評価について、何らかの整理をしてわかりやすい別の呼び方にする方が、あまねく全国でこれらの評価を実施する以上適切だと思う。

 自己評価の対概念は他者評価であり、外部評価の対概念は内部評価である。自己評価と外部評価を並べるのは概念がねじれている。その点で、学校関係者評価と言いかえるのは妥当な方向。

 保護者や地域住民が学校評価に加わった場合に、それを外部ととらえるのが適切かどうかは検討を要する。一方、教職員と保護者を対峙的にとらえると、保護者は外部という位置づけもわかりやすく、これまで現場での受けとめ方は、そのように位置づけて評価を実施してきた経緯もある。

 保護者による評価をどのように位置づけるのかとなると、それは全体的な評価システムをどういうように組み立てるのかという話に行き着くところがある。

 学校評価について検討する中で、学校関係者評価という用語は、学校の教員や、従来外部評価者と呼ばれていたメンバーにとって、非常にわかりやすくなったと感じる。教職員の視点からは、保護者や地域の方を学校関係者とシンプルなとらえ方ができる。さらに第三者評価は専門家による評価と位置づけられ、以前よりわかりやすい。

【学校評価に関する研修の重要性について】
 学校評価の手法に関する学習機会が不足しており、多くの教職員が客観的な評価を行うことは難しい。特に豊かな心とか、いじめなどについて、これを学校評価でどう表現したらいいのか悩むなどの問題がある。

 学校評価を進める上で、研修重視の導入が重要。校長・教頭や、主に教務主任を対象とした学校評価に関する専門性を高めるための研修など、色々な研修を組み合わせながら、懐の深い導入の仕方を考えないと、何のためにするのかわからない評価が、数字の上だけでは進んでいくことになる。

 学校評価の結果が評価者により違うのは、個々人が持つ教師としての力量の相違からくる評価感の違いにある。ベテランになるほど、あまりブレが出ない。もしも力量が高い者同士で評価結果に差がある項目があれば、それは客観的な評価が難しい項目か、そもそも評価項目として不適切という考え方も出てくる。

 これまで学校現場での学校評価にかかわってきた経験からは、意外に評価者によって評価は違わない。そもそもトップ校と定員割れしている学校を同じ基準で評価するわけではなく、また、マネジメントを評価するものであるので、実態をどう把握し、それに対して校長をリーダーとして最大の効果を上げるためにどう努力しているかを評価するので、それほど違いは出ない。

 第三者評価においては、評価者の研修やトレーニングが信頼性にかかわるので、それが第三者評価システムの成否にかかわってくる。

指導主事の在り方について
 各学校は、これまで数年間学校評価に取り組み、ノウハウも相当蓄積したが、教育委員会の指導主事は必ずしも学校評価を理解していないという逆転現象がある。また、教科指導の際に、学校経営について学校の方が知っているという状況で指導できない状態になっている。県・市町村の教育委員会が、学校評価について学校経営との関連で指導主事をいかに研修するかが一番の課題。

 学校で教職員が評価の経験を積み、学校の優位性が高まると、教育委員会の指導主事をどう鍛えるかが課題。県レベルで第三者評価システムをつくる際には、特にそれが問題。指導主事の他に学校評価のノウハウを持った専門家を集めたとなると、指導主事の通常業務でもその存在意義にかかわるため、優先的に指導主事を鍛えたり、学校評価の経験のある者を指導主事にすることにより、補っていく必要がある。

【学校の情報の公開について】
 評価の公表以前に、学校の基礎的状況や、地域の教育の情報などが共有されないと、学校から公表された情報を判断もできないし、関心も持てないというのが地域の状況。

 今まで学校要覧や学年だよりなどで学校の情報が提供されてきたが、さらに一歩進んで、施設を開き、授業を開くように、情報を開き共有するということを学校は目指すべき。

 そもそも評価とは何かというのが、一般の保護者や地域の感覚。まずは学校に関する基礎情報を保護者・地域で共有し、それから評価へつなげないと、このままでは保護者等を対象としたアンケートが来ても、その回答結果が学校を本当に理解しての数字なのかどうかが問われる。

 情報の共有化が学校評価でも重要なポイント。保護者は、アンケートの依頼がきても、わからないことを聞かれても回答できないので、適当につけておく、と言う。果たしてそのようなアンケート結果が有効な学校の改善につながる資料になるのかどうか疑問。

 広く保護者や地域と情報を共有することは非常に重要だが、例えば学校は、こういう取組をするという情報は非常によく出すが、その結果、児童・生徒がどうであったかについてはあまり具体的なデータをもとにした情報を出していない。何を共有する必要があるのかという情報の質の検討が、学校評価においては重要。

保護者との連携について
 学校の自己評価について、存在自体知らない保護者がほとんどであり、PTAなどの役に何も就いていない者は全く知らない。学校の現状や取り組みについて全く無関心の保護者が非常に増えてきているのが実情。

 学校は、家庭からも放り出された子どもへの対応に真摯に取り組んでいる現状がある。家庭や地域に対しても多くを期待できないという事実を認めるところから、学校と家庭、地域の役割分担や協力関係を考えていく必要がある。

【学校評価への教育委員会のかかわりについて】
 学校評価を通じて、国、都道府県・市町村の教育委員会、学校がそれぞれ何を担うべきかという戦略をしっかりつくる必要がある。

 学校の自己評価結果を踏まえた具体的な改善策を考える際に、その中には、学校の努力で改善できる部分と、例えば人事や予算など、教育委員会がその学校にどのような支援をするのかが問われる部分がある。教育委員会は、評価結果を踏まえた取り組みが求められる。逆に言えば、自己評価結果から教育委員会の支援が妥当かどうか見る必要がある。
 また、教育委員会は、学校が具体的な改善策を立て、それが次年度の教育活動にどう反映しているかということを見る必要がある。例えば、学校によっては、教育課程届や学校経営方針等に具体的な改善策が全く反映されていない例もあるので、教育委員会の相当な指導が必要。

 市町村教育委員会や都道府県教育委員会などの教育行政が、学校現場にどのような支援をしているのかということを評価しない限り、学校現場は納得しない。学校にばかり取り組めというより、教育委員会が支援やサポートを適切に行うことでうまくいく部分もある。

【私立学校における取組について】
 私学は、たとえどんな小さな学校でも、その建学の精神に賛成して、父母や子どもが来ている。これらの私学を比較したり、標準化を図ることは無理ではないか。

 何のためにそれぞれ独自の私学が同じように学校評価の実施・公表に取り組まなくてはならないのか。

 私学も公教育であり、唯我独尊というわけにはいかない。しかし、公立と私立の区別はあり、単に私学も入れておかないとおかしいという理由で一緒にされるのは困る。何かはっきりとした理由が必要。

 私立学校の場合、公立が念頭に置かれているガイドラインを見ても私学とは違うところがあり、これまでの取り組みが学校評価なのかどうか、評価の調査の回答に迷いがあるのではないか。私学団体としても取組を始めたところであり、現在は調査の数値は非常に低いが、私学の現状についても理解願いたい。

 私学の場合、生徒が周辺各県から通学してくるとなると、どこを地域として考えるか。学校の所在地として、地域美化運動や、最寄り駅までのバスマナーなどや、医療機関との連携とか、バザーの収益金を地域に還元するなどしかできない。これらの取組を大変ありがたいと言ってくださるのが、外部評価となりうるのか。

 知事部局の私学担当部局は、設置基準の適合性は見られるが、指導主事もおらず、都道府県・市町村教育委員会が公立学校に対して行うような様々なサゼスチョンを私学は得られない。

【義務教育諸学校と高等学校との違いについて】
 義務教育と高等学校とでは異なり、高等学校は既に選択が前提であるので、高等学校の学校評価は、受験者である中学生に対する選択のための情報として、できるだけ正確な、学校評価に関する情報を出す必要がある。

 評価結果に基づき、少しメリハリのある予算配分など、人事・財政面での「ご褒美」があってもいいと思うが、義務教育については、地域性があり、校長の責任ではどうしようもない部分があるので、高等学校と義務教育とで分けたほうがよいかもしれない。(再掲)

【学校評価と教員評価の関連付けについて】
 学校には、学校評価と人事評価との混同や、さらにはその根底にある評価そのものへの拒否姿勢があり、特に一部の地域ではそれが非常に強い。

 新しい教員評価制度において、各教職員が年度当初に学校教育目標を踏まえた自己目標を設定して、その達成のために主体的に取り組んでいく中で、学校評価と教職員の人事評価制度をリンクして、お互いに学校の質を高める、教職員自身もその質を高めていく評価にしていこうと取り組んでいる。

 学校評価と教員評価のリンクについては、ガイドラインでも、県レベルでも困難な内容。学校評価の取り組みの中で、組織の方向性や、力の入れ方などを色々とチェックすると、生徒指導や教務などの学校組織の誰が悪いというところまで、取り組もうと思えば突き詰めることができる。しかし、このように教職員の人事評価とのリンクが前面に出過ぎるのは、ガイドラインでも分離しているが、少々まずい。

 学校評価と教員評価とのかかわりについては、学校評価は学校の質を高めるために行うためのものであり、人事の個人的なプライバシーのところは外しており、ガイドラインに示された考え方に心がけて取り組んでいる。

 学校という組織の評価は、どうしても教員の評価とつながりが出てこざるを得ない。しかし、例えばBest schoolGood schoolを構成するスタッフ個々の評価、あるいは、校長の評価であれば、一般の教員は抵抗が少ないと思うが、学級担任や学年主任レベルの教員の評価になると、大変難しい問題。

 学校の結果責任を誰がとるのかを考えると、学校評価は教員評価に行き着かざるを得ないかもしれない。例えば、県教委が学校を評価し、学校に児童生徒が集まらないので校長はリーダーシップを発揮すべきとなった時、その校長を任命したのは県教委の責任ということになる。教員評価をして、この学校にろくな教員がいないとなると、配置した県教委の責任に戻ってくる。コミュニティスクールなどのように、学校レベルで主体的に教員を採用するなどの状況をつくり出さないと、最終的に誰に責任があるのかが不明瞭になる。(再掲)

2. 自己評価の在り方について

 
【自己評価の公表の在り方について】
 学校の自己評価について、存在自体知らない保護者がほとんどであり、PTAなどの役に何も就いていない者は全く知らない。学校の現状や取り組みについて全く無関心の保護者が非常に増えてきているのが実情。(再掲)

 学校評価に取組み始めた当初の目標は、教育内容からは遠い、例えば遅刻防止や時間厳守などが多かった。しかし、外部に公表することによって、例えば光熱水費の削減などが本当に教育的な内容なのかと外部の方々から色々な指摘を受けたことで、本来の教育指導、進路指導の充実、授業内容、基本的な生活習慣、学力向上へとシフトしてきた。

 学校は、外部の声を受けて、それが改善や気づきに結びつくのではないかと期待しており、学校改善につなげるために評価結果を公表すると位置づけるのがいいのではないか。

 学校評価の公表の要点は、1つは学校が自らを評価し、改善に努めていることを対外的にアピールするものであること。2つには、情報を受け取る側からみて、学校の改善の努力を知ることとともに、他の学校と比較したいということがある。その点で、共通した項目が設定されていないと、情報を見る意味がなくなる。

 これまでの学校評価は、PDCAサイクルに沿ったものというより、チェックリスト的に学校の取組を評価するものが多かったのではないか。学校の内部向けの、反省会的なチェックリストとしての自己評価をそのまま公開しても、保護者には理解できない。今後、わかりやすい公表の在り方を研究することが必要。

 自己評価をそのままストレートに公表すると、誤解を与える内容が含まれている場合があるので、校長が適宜判断して工夫して公表する必要がある。全てを全方位で公表しなければならないというものではない。

 費用をかけて仕事をしている以上、評価や反省が必要であるが、それら情報の公表については、誰に対して何を公開するのかが非常に重要。そこが決まらないと、公表率は上がらない。

【自己評価の実施率と公表率の差について】
 学校評価はまだ制度の熟度が高まっていないため、まだ公表する段階になっておらず、公表率が低くなっているとも考えられる。時間が経過すれば、公表するだけの情報を学校が持ち、公表する段階になっていくとも考えられる。

 これまでの自己評価は、単なる反省会に留まり、改善につながらないものとなっていたのではないか。評価結果がどう改善につながるのかがよくわからず、それが公表できない状態になった理由ではないか。

 学校の立場からは、自己評価の定義がはっきりしない中で、おそらくどの学校も、毎年12月から3学期間をかけての研修会等の最大のテーマとして、1年間の教育活動を評価し、教員が集計し、各担当が持ち帰ってその改善策を全部提示している。このサイクルを自己評価とすれば、自己評価実施との回答になるが、それらはいちいち公表しないので、そこで差が生じたのではないか。

 公表率が低いのは、例えば、年度末のPTA総会で校長が報告するとか、「校長だより」や「学校だより」で知らせる、ホームページに載せる等、様々な方法で長年に取り組んでいる中で、定義せずに統計をとっているために、同じ方法でもそれを公表と思う校長と思わない校長がいるのではないか。時間が経過しガイドラインが周知されれば、公表率も徐々に上がると思うが、その実質は数字ではとらえ切れない。

【自己評価の実施・公表の義務化について】
 学校評価などの評価制度は、教職員のモチベーションがなければ絶対に定着しない。それに取り組むことにより何かがよくなるという実感がなければいけない。今の自己評価は、極端にいえば、反省会という名の飲み会が繰り返されている状態であり、それゆえ国が自己評価を法的義務としても、結局は反省会でおしまいになってしまうのではないか。

 A県では既に学校評価の実施と公表を義務化しており、それにより評価を意識するようになった効果はあるが、教育の質の改善にまでは到達していないのが現状。そういう意味で、義務化したからといってどうなるのか、という反応が学校から出てくると思う。

 調査結果からは、私学は自己評価すら実施していないのではないかとなるが、私学も自己評価を必ずやっている。全体を通じた標準化はできないが、公表自体は可能である。しかし、そもそも義務化して公表する意味は何か。何のためにそれぞれ独自の私学が同じように学校評価の実施・公表に取り組まなくてはならないのか。(再掲)

 広く学校評価の良い効果を広げていくためには、もっとシステムを考える必要がある。B県の場合には、特に教員の研修を通じて学校評価のプロセスの充実を図ったが、評価の義務化よりもこちらのほうがインパクトが大きかったと思う。

 評価を義務化するかどうかより、学校評価全体のシステムをどうつくり、学校がそれに対してどうかかわるのかということが保護者に見えるようにすることがまず大切。

【評価項目・指標の設定について】
 学校評価の具体的な内容や方法について、全くそのとおりにしなければならないということではなく、どのような内容・方法がふさわしいか整理する必要がある。

 これまでの日本の学校評価は、どちらかというと学校におけるリーダーシップやマネジメントが中心だが、学校全体のパフォーマンスという観点からは、個々の子どもの発達・満足度や、学習の達成度などが、むしろ項目として重要。

 学校の目標は、数字の羅列でもいけないが、漠然とした教育目標を掲げても、それが具体的な中長期の目標や単年度の行動計画にどれだけ移せるか疑問。現状ではようやく市レベルで数値目標をトップダウンで取り組むところが出てきた。保護者や地域住民が理解できる内容を学校が発信しないと、その協力も得られない。

 学校評価は、質を一定程度向上させるのはいいが、数値を競うだけで終わる数字至上主義になってはいけない。数字をよくするために子どもたちや教員が頑張るのではなく、そこに至るプロセスを大事にしていきたい。

 4ないし5段階で学校を評価する部分だけがクローズアップされると、学校の格付にならないか。学校の質について一定の評価は避けられず、それを頭から否定する必要もないが、単純な格付にならないように工夫する必要がある。

 学力調査のデータのみで学校の評価をA・B・Cと付けるのは極めて困ったことであり、学力調査のデータ以外のどのような評価基準を開発するのかが課題。

 評価項目が必ずしも教育目標の実現に向けた学校全体の最適を考える視点に結びついていない場合がある。例えば学校の様々な分掌毎に、それぞれが自分さえよければいいとなると、学力向上には非常に力を入れているが服装は少々乱れていてもいい、ということになる。このような部分最適では、真に優れた学校とはならない。

 市町村として程度共通したアンケート項目を決めて、そこに各学校の取組に応じて各学校の持つ個別的な項目をつけ加えるという工夫しながら、学校評価システムの構築に取り組んでいる。

 学校評価の公表の要点は、1つは学校が自らを評価し、改善に努めていることを対外的にアピールするものであること。2つには、情報を受け取る側からみて、学校の改善の努力を知ることとともに、他の学校と比較したいということがある。その点で、共通した項目が設定されていないと、情報を見る意味がなくなる。(再掲)

 ガイドラインに定義されている自己評価とは、学校が重点目標を定め、それに沿った取り組みを並べて、その取組状況や達成状況を評価するということが前提。それならば、教育委員会が各学校に同じ項目で評価を行うよう定めることは、この流れとは別のものとして位置づけることになるのではないか。

 単なる評価のための評価や、データをとることだけが目的のアンケートでは、市民には理解しにくく困惑する。学校として、網羅的にではなく、例えばこういう部分を良くしたいとか、この地域ではこれを目指すというように具体的に焦点を絞り、かつその結果を踏まえたアクションがどこまでいくかをあらかじめ学校が見越してアンケートを実施するならば、保護者にとっても回答しやすいものとなる。

【評価手法について】
 学校が組織体として、教育活動の方向性や力の配分の在り方について教職員間で意識を共有し、限られた資源・時間を有効に活用することが課題。

 C県では、学校の自己評価は、個別評価、合議評価、そして結果報告を行う。これは、1人で評価すると非常に独善的になりやすく、他人と話し合うことによって気づきも生まれるのではないかとの趣旨からである。

 評価の際に、いわゆる定量的な評価と定性的な評価のバランスの問題がある。さらに定性的な評価でも、良い悪いというまるばつレベルと、どの程度良いかという段階的な定性的評価もある。これらをどう考えるかという問題整理が必要。

 学校評価は、質を一定程度向上させるのはいいが、数値を競うだけで終わる数字至上主義になってはいけない。数字をよくするために子どもたちや教員が頑張るのではなく、そこに至るプロセスを大事にしていきたい。(再掲)

3. 外部評価(学校関係者評価)の在り方について

 
【保護者等による外部評価(学校関係者評価)の意義(位置づけ)について】
 小・中学校を中小企業ととらえると、その学校経営のガバナンスを誰がするのかというと、顧客としては保護者や生徒となるだろうし、金融機関に当たるところとしては市町村教育委員会等となってきて、それらが中心となってガバナンスにあたる学校関係者評価を行い、学校のマネジメントを向上させていくということになる。

 各学校の教育と経営に責任を持つ教職員がまず評価を実施する必要がある。そこに設置者(義務教育では市区町村教育委員会)がかかわる。この責任と権限関係を整理した上で、現在の日本はイギリスと異なり保護者・地域が学校の管理運営にかかわっていないので、保護者・地域住民を、英語で言うステークホルダー、新たな用語の整理では学校関係者を、制度の過渡期には評価者として位置づけるしかないと受けとめている。

 外部評価においては、客観性の確保よりも、自分たちでは気づきにくい事柄に気づく、他の発想に気づく、あるいは学校の中にはない見方を教えてもらうことに意味があるのではないか。しかし、それがどれほど妥当性を持つのかは、また別途検証される必要があると思う。

 児童・生徒による評価の学校評価における位置づけはどうなるのか。データの1つになるというのはあるが、児童・生徒によるチェックは、評価として位置づけられないのか。

【外部評価(学校関係者評価)の公表について】
 外部評価の公表は、学校自らが具体的な改善策を考えるインセンティブを与えるという意味で非常に効果がある。

 外部評価の公表については、単に結果の公表だけではなく、結果に基づき学校はどう考えるのかということをあわせて公表するなど、公表の在り方を検討することが重要。

 外部評価者が突きつけた課題を必ずしも校長自身が受けとめられないなど、校長のマネジメント能力の差異によって、外部評価結果がうまく生かされたり、逆にそれが徒労感を募らせるものになったりする実態がある。

【外部評価(学校関係者評価)の課題について】
 外部評価の導入により、地域協働や地域の学校理解は深まったが、学校が活性化したかどうかは校長の在り方次第であり、中には地域の人々が校長に対する不信感をかなり持った例もある。一方では、一生懸命取り組んでいる学校に同調して、外部評価者が外部者としての視点を失い、内部の視点で学校を見るようになっていった経過もある。

 各学校の外部評価結果をホームページで公表する前提で進めたところ、外部評価者が、その学校の評価結果の数値を表に出すことにより学校選択制による入学者減につながることを危惧して、外部評価者自身が抑制的な評価をするなど、学校に同調する傾向が多く見られた。評価結果をただ公表すればいいということになると、外部評価結果がより自己評価結果を支える結果となって、期待する効果を上げないおそれがある。

 外部評価者には、学校評価はあくまで学校改善に結びつけることが目標なので、正直にありのままに評価するという方がいる一方、外部評価者が学校の中に入り込めば入り込むほど、評価結果の公表により想定される影響を深く考えるようになり、本来の評価はそれとして、公表に当たってはこうだということになった学校が実際にあるなど、学校に同調していく傾向が確かに見られる。

 専門性を持たない外部評価者が、基礎基本の学力の強化について発言しても、それを見る者からの信頼性は保てない。

 保護者等による外部評価をしても、年々要領がわかってきて、毎年同じサイクルで淡々と繰り返すだけに終わり、結局は学校の活性化や具体の改善に結びつかない例がある。さらに、授業や教育の質について、地域の方やPTAの関係者だけの外部評価では限界があることから、第三者評価の導入という方向に向けて、これらの課題を解決する方策を検討しているところ。

4. 第三者評価の在り方について

 
【専門的な外部評価としての意義(位置付け)について】
 学校の自己評価も、目標が抽象的すぎたり、組織的な取組みができていないなど、不十分なレベルでしか進んでない。しかし、そのような問題があること自体を自分自身では認識しにくい。それゆえ専門的なアドバイスが必要だが、保護者等による外部評価では、学校内部の仕組みに踏み込んだ提言や改善点なりの提案は、通常難しい。より専門的なアドバイス機能を持った外部評価こそ有効。

 第三者評価は、自己評価・学校関係者評価・仲間うちの評価の質を担保したり、内部だけではわからないから第三者の助言を必要とするため、と定義できる。第三者評価の位置づけは、ベストプラクティスを発見・分析したり、あるいは改善支援が必要なところに対して専門的に分析するような位置づけが妥当。(再掲)

 イギリスの例で言うBeacon school的な発想で、統一的な評価方法や評価指標の開発をすることによって、全国的に成果の活用や共有化が図られる。

 イギリスの学校評価は、元来は地方によってばらばらだった教育制度を、国が全国的(正確にはイングランドを中心とした全部ではないが)・統一的なプロセスや評価基準をつくり活用していることや、また、設置者から独立した評価機関を置いたことが特徴的。この独立性に意味があるということで、評価結果を受けた具体の改善については、評価主体は一切関知しないという形で整理されている。

 第三者評価結果を受けて、専門的な分析と支援が必要になるということで、設置者である教育委員会の支援に教育コンサルタントを活用するということが、今後進んでくるのではないか。

 制度設計にもよるが、第三者評価にはコストや時間がかかるので、どこまで国や地方自治体が取り組むのかということが課題になる。

【評価の在り方について】
 第三者評価においては、単純な相対評価をして欲しくない。一つ一つの学校が抱える状況をしっかり見た上で、現状はこうだということを踏まえて、その学校が改善に向けてがんばろうという意欲につながるような評価としたい。

 全国の学校は様々に取り巻く状況が違うので、その学校がどのような条件の中で取り組んでいるのかという条件をよく把握した上で、評価を行うべき。

 施設設備などのように、学校の裁量の範囲を超えて教育委員会の支援のあり方が問われる部分など、誰がそれに責任を持つのかという部分をきちんと整理した上で、学校の取組や努力をきちんと評価するならば、学校の元気につながる。

【評価者の在り方について】
 第三者評価においては、その学校を知らない人が行くメリットがあり、むしろよく学校を知っている者が行くのは良くないのではないか。学校のことを妙に知っていると、校長の具体の苦労がわかってしまい、なぜ学校がこんな状況にあるのか、という素朴な質問ができなくなり、率直な評価ができないというデメリットを感じる。

 全国すべてで、学識経験者などの専門家を確保することは困難と考えるが、ガイドラインにもあるように、接続する学校間の評価、例えば高等学校や小学校の教員が中学校を評価するという仕組みを取り入れるならば、厳密には第三者と言えるかどうかの問題は残るものの、専門性は確保できると思う。

【評価結果の活用について】
 学校が自己評価を行うに当たって、どう取り組めばよいのかとか、この自己評価で大丈夫かという不安があるので、それに対して第三者評価を通じて専門的に別の角度から評価することにより、自己評価を質の高いものにすることができたということが少しずつ出てきている。

 学校の自己評価においては、その学校はよく取り組んでいるという結果が現在のところ非常に多いが、より具体的にどこがよくて、どこをどう伸ばすべきということが必要。第三者評価を通じて、問題点の指摘だけではなく、長所を生かし、課題に具体的に対応できるヒントや示唆が得られるようになるのではないか。

 外部評価について、当初は教員にたまにしか来ないのに何がわかるという雰囲気もあったが、指摘を冷静に考えると納得できる点が多々あった。それまでは自己満足の授業であったものが、学識経験者等から外部評価として客観的に説明を受けると、反発だけでなく、次は立派な授業をしようという方向へ、校長が教員を指導するよりも簡単に改善に結びついた例もある。第三者評価の生かし方によっては、管理職にとってとても助かるということもある。

【評価の主体について】
 人事権をもつ都道府県教委が評価を行うと、評価者と支援が一体になる可能性がある。県教委は支援に来たのか評価に来たのかわからない、ということになる。

 教育委員会は設置者あるいは人事権者であり、第三者評価の主体としてふさわしいかどうかは議論が必要。国や教育委員会などは、例えば第三者評価機関の認証を審査するなどの役割を担う方がいいのではないか。

【国と地方の役割分担について】
 学校評価を通じて、国、都道府県・市町村の教育委員会、学校がそれぞれ何を担うべきかという戦略をしっかりつくる必要がある。(再掲)

 先進的な地域では、既に第三者としての評価者が学校に入って診断するという取組を始めているが、これと、国などによる第三者評価を今後どうすり合わせるかが課題。

 市町村教育委員会で独自に第三者評価システムをつくり、動き出しつつあるという状況の中で、学校評価の全体的なシステムをもう一度組み立てないといけない状況にあるのではないか。


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