教育の役割に応えるための目標 個の理解
個人の能力や可能性を存分に伸ばすためには、個に応じた教育を進めることが必要である。そのためには教師が個々の子どもの長所を見いだすことが前提となるが、これを支援する観点から、教育と脳科学との連携が求められる。
また、男女の別、年齢の違いなども個を形づくる多くの要素の一つであり、個に応じた教育を実現するため、このようなそれぞれの要素と脳機能の発達との関係を解明することが必要である。なお、個を構成するそれぞれの要素ごとに脳の発達に差が見られる場合であっても、それらの差はその集団の統計的偏差を示すにすぎないこと、また社会的・文化的な影響を受けている可能性があることから、これらの脳機能の発達の違いのみをもって教育の場に違いを設けることや個人の能力を規定することにつなげることのないよう、留意する必要がある。
注意力、意欲、動機づけ、創造性の発達促進
現代社会の環境の変化に対して、いかに人格形成を促し、自己を確立させ、創造性を涵養するかが課題となっている。それらの変化に対して、教育を受ける側の注意力、意欲、動機づけが如何なる影響を受けるかを明らかにすることが期待される。
また、それに対比して、能動的な直接体験、あるいは視覚、聴覚のみならず触覚や自発運動をともなう多重的感覚運動体験が脳発達に如何なる作用を及ぼすかも明らかにする必要がある。
過剰な刺激や偏った刺激あるいは実体験を伴わない仮想経験などが大きな役割をもち、なおかつ能動的に刺激を選ぶことよりも受動的な学習が多い現代社会に育った子どもたちは注意力や意欲、創造性などの発達が阻害されている可能性がある。そうしたことが子どもの脳に与える影響を明らかにする必要がある。
慢性疲労症候群などの疾患が不登校児に見られるとの報告や、いじめが意欲や動機づけあるいは創造性を阻害するとも言われており、そうしたものの影響も明らかにされなければならない。同時に子どもにおける注意力や意欲などの発達についても明らかにすることが期待される。
さらに、注意、意欲、動機づけが脳のどのような仕組みで生ずるか、仮想体験のような受動的体験、視覚のみの単次元的体験が脳発達にどのような作用を及ぼすかを、実験動物などを用いて明らかにする必要がある。
脳科学の知見を生かした適切な教育課程の開発のための知識の集積
教育課程は児童生徒の発達段階や社会の変化を十分に踏まえ、不断にその改善の可能性を検討されるべきものである。これまでも教育課程の基準の策定に当たっては、学校現場の経験や教育学の知見に加え、学力調査の結果なども踏まえながら行われているが、今後は児童生徒の発達段階についての科学的な根拠、特に脳科学の知見も生かすための知識の集積を行う必要がある。
このような観点から第一に、環境からの刺激、反復練習や様々な学習活動による刺激、異常刺激や感覚遮断などの様々な刺激の形態が、聴覚機能、視覚機能、言語機能、計算機能など種々の脳機能の発達に与える影響に関して、感受性期(臨界期)*についてその有無を含め明らかにする必要がある。こうしたことは、体育・スポーツおよび芸術など、身体性や感性に関わる教育の側面についても同様である。
第二に、子どもの学習能力は、各教科などによって独自の発達過程をもっているのか、あるいは全体としてお互いに影響しあって発達するのかを明らかにする必要がある。このような研究を実施するに当たっては、子どもの個性についての研究や感受性期(臨界期)などの研究も参考にするとともに、学校をはじめとする教育の場との密接な連携を図るべきである。
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注釈):感受性期(臨界期) 「感受性期」とは、学習効率が高い時機を指し、その期間を逃すと後でも学習は可能であるが効率は低くなる期間を指す。また、鳥類の「刷り込み」(imprinting)現象にその典型が見られるように、学習が可能な期間で、かつ、その時機を逃すと後で学習することがほとんど不可能な期間を「臨界期」という。人の各種脳機能における感受性期(臨界期)については、視覚などの一部の機能を除き、正確なことはほとんど解明されていない。 |
生涯学習の推進
高齢化社会、さらには急速に進展しつつある情報化社会に対応した再教育や生涯学習の推進と高齢期においても活力ある生活を送るための方策が課題となっている。特に、高度の情報化の中で、中高年になって情報通信機器や新しい概念からなる情報通信に関する用語に初めて遭遇した中高年層の学習を推進し、情報化による格差をいかに小さくするかが課題となっている。
このような中高年層の学習を促進するために、成熟脳の可塑性や学習の仕組み、さらにはそれを制御する物質を明らかにする動物を使った研究が期待される。特に、成熟脳において従来は新生しないと想定されてきた脳内神経細胞が、学習によって脳の一部の領域で新生する可能性が実験動物などで示唆されていることから、どのような学習がどのように神経細胞新生を起こすのかを明らかにすることが求められている。
脳機能障害の解明と脳機能に障害のある人々の社会参加を目指す教育・療育の推進
今日では、障害のある人々の自立と社会参加が強調されるようになり、障害を理解することが社会全体の課題になっている。また、乳幼児を含む若年者の脳機能障害については、障害の早期発見と、その障害による困難の軽減・克服、及びその障害をよりよく理解した上での社会参加能力を高めるような適切な教育・療育が重要である。障害をよりよく理解するための取組や教育・療育については、脳神経科学、発達心理学、行動心理学、小児医療などを含む広い意味での脳科学の分野から、診断基準の研究などを行うとともに、その機能の補償作用などに着目した具体的な教育・療育のあり方について、現場との共同による研究が求められる。
また、成人や高齢者の脳機能障害の仕組みの研究は、回復過程やリハビリテーションの効果についての理解を深めることにもなることから、訓練の誤用、過用を防ぐためにも重要である。
さらに、脳損傷から神経細胞や神経回路網がいかに回復するか、あるいは残存した神経回路がいかに機能代償作用を示すかを、臨床試験及び実験動物などを使って明らかにする必要がある。
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