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3. 「脳科学と教育」研究の推進に当たっての基本的考え方

(1) 研究の基本的な進め方

   「脳科学と教育」研究については、教育における課題を踏まえつつ研究を進めることを基本とし、脳科学、教育学、保育学、心理学、社会学、行動学、医学・生理学、言語学、体育学などの研究を架橋・融合した取組によって実施することが適当である。具体的には、教育の場からの課題の提示に対して、脳科学をはじめ関係する科学が如何なる貢献ができるのかという観点から対話・交流を進めつつ、これに基づき、架橋・融合した研究活動を行うことを基本的な進め方とする。

(2) 教育の役割に応えるための目標

1個の理解
   個人の能力や可能性を存分に伸ばすためには、個に応じた教育を進めることが必要である。そのためには教師が個々の子どもの長所を見いだすことが前提となるが、これを支援する観点から、教育と脳科学との連携が求められる。
   また、男女の別、年齢の違いなども個を形づくる多くの要素の一つであり、個に応じた教育を実現するため、このようなそれぞれの要素と脳機能の発達との関係を解明することが必要である。なお、個を構成するそれぞれの要素ごとに脳の発達に差が見られる場合であっても、それらの差はその集団の統計的偏差を示すにすぎないこと、また社会的・文化的な影響を受けている可能性があることから、これらの脳機能の発達の違いのみをもって教育の場に違いを設けることや個人の能力を規定することにつなげることのないよう、留意する必要がある。

2注意力、意欲、動機づけ、創造性の発達促進
   現代社会の環境の変化に対して、いかに人格形成を促し、自己を確立させ、創造性を涵養するかが課題となっている。それらの変化に対して、教育を受ける側の注意力、意欲、動機づけが如何なる影響を受けるかを明らかにすることが期待される。
   また、それに対比して、能動的な直接体験、あるいは視覚、聴覚のみならず触覚や自発運動をともなう多重的感覚運動体験が脳発達に如何なる作用を及ぼすかも明らかにする必要がある。
   過剰な刺激や偏った刺激あるいは実体験を伴わない仮想経験などが大きな役割をもち、なおかつ能動的に刺激を選ぶことよりも受動的な学習が多い現代社会に育った子どもたちは注意力や意欲、創造性などの発達が阻害されている可能性がある。そうしたことが子どもの脳に与える影響を明らかにする必要がある。
   慢性疲労症候群などの疾患が不登校児に見られるとの報告や、いじめが意欲や動機づけあるいは創造性を阻害するとも言われており、そうしたものの影響も明らかにされなければならない。同時に子どもにおける注意力や意欲などの発達についても明らかにすることが期待される。
   さらに、注意、意欲、動機づけが脳のどのような仕組みで生ずるか、仮想体験のような受動的体験、視覚のみの単次元的体験が脳発達にどのような作用を及ぼすかを、実験動物などを用いて明らかにする必要がある。

3脳科学の知見を生かした適切な教育課程の開発のための知識の集積
   教育課程は児童生徒の発達段階や社会の変化を十分に踏まえ、不断にその改善の可能性を検討されるべきものである。これまでも教育課程の基準の策定に当たっては、学校現場の経験や教育学の知見に加え、学力調査の結果なども踏まえながら行われているが、今後は児童生徒の発達段階についての科学的な根拠、特に脳科学の知見も生かすための知識の集積を行う必要がある。
   このような観点から第一に、環境からの刺激、反復練習や様々な学習活動による刺激、異常刺激や感覚遮断などの様々な刺激の形態が、聴覚機能、視覚機能、言語機能、計算機能など種々の脳機能の発達に与える影響に関して、感受性期(臨界期)*についてその有無を含め明らかにする必要がある。こうしたことは、体育・スポーツおよび芸術など、身体性や感性に関わる教育の側面についても同様である。
   第二に、子どもの学習能力は、各教科などによって独自の発達過程をもっているのか、あるいは全体としてお互いに影響しあって発達するのかを明らかにする必要がある。このような研究を実施するに当たっては、子どもの個性についての研究や感受性期(臨界期)などの研究も参考にするとともに、学校をはじめとする教育の場との密接な連携を図るべきである。

   *( 注釈):感受性期(臨界期)
   「感受性期」とは、学習効率が高い時機を指し、その期間を逃すと後でも学習は可能であるが効率は低くなる期間を指す。また、鳥類の「刷り込み」(imprinting)現象にその典型が見られるように、学習が可能な期間で、かつ、その時機を逃すと後で学習することがほとんど不可能な期間を「臨界期」という。人の各種脳機能における感受性期(臨界期)については、視覚などの一部の機能を除き、正確なことはほとんど解明されていない。

4生涯学習の推進
   高齢化社会、さらには急速に進展しつつある情報化社会に対応した再教育や生涯学習の推進と高齢期においても活力ある生活を送るための方策が課題となっている。特に、高度の情報化の中で、中高年になって情報通信機器や新しい概念からなる情報通信に関する用語に初めて遭遇した中高年層の学習を推進し、情報化による格差をいかに小さくするかが課題となっている。
   このような中高年層の学習を促進するために、成熟脳の可塑性や学習の仕組み、さらにはそれを制御する物質を明らかにする動物を使った研究が期待される。特に、成熟脳において従来は新生しないと想定されてきた脳内神経細胞が、学習によって脳の一部の領域で新生する可能性が実験動物などで示唆されていることから、どのような学習がどのように神経細胞新生を起こすのかを明らかにすることが求められている。

5脳機能障害の解明と脳機能に障害のある人々の社会参加を目指す教育・療育の推進
   今日では、障害のある人々の自立と社会参加が強調されるようになり、障害を理解することが社会全体の課題になっている。また、乳幼児を含む若年者の脳機能障害については、障害の早期発見と、その障害による困難の軽減・克服、及びその障害をよりよく理解した上での社会参加能力を高めるような適切な教育・療育が重要である。障害をよりよく理解するための取組や教育・療育については、脳神経科学、発達心理学、行動心理学、小児医療などを含む広い意味での脳科学の分野から、診断基準の研究などを行うとともに、その機能の補償作用などに着目した具体的な教育・療育のあり方について、現場との共同による研究が求められる。
   また、成人や高齢者の脳機能障害の仕組みの研究は、回復過程やリハビリテーションの効果についての理解を深めることにもなることから、訓練の誤用、過用を防ぐためにも重要である。
   さらに、脳損傷から神経細胞や神経回路網がいかに回復するか、あるいは残存した神経回路がいかに機能代償作用を示すかを、臨床試験及び実験動物などを使って明らかにする必要がある。



(3) 教育を取り巻く環境の変化に対応するための目標

1環境要因が人の成長と学習活動に与える影響の解明
   教育の大きな目的の一つに、自己の確立など人格の形成があるが、様々な社会的な環境要因によって、自己確立、他者への理解、自己の価値観の形成などが妨げられている可能性が指摘されている。その他、教育の場に生じている様々な課題は、環境の変化に由来するものが多いといわれている。
   こうしたことから、社会的な環境の変化が教育に与えている影響を脳科学との融合的な研究分野として確立し、研究していくことが必要であり、上述のような教育を巡る社会的な環境の変化が人の脳発達にどのような影響を与えているかについて、また周産期医療、育児・保育から教育の場において、社会的な環境の変化が人の脳発達にどのような影響を与えているかについて具体的に把握することが必要となっている。

2コミュニケーション能力の育成
   乳幼児が情報機器にさらされていることが言語などのコミュニケーション能力に大きな影響を与えているだけでなく、対面コミュニケーションや他者の表情を読みとるという共感性、社会性に影響を与えているといわれている。さらに少子化や核家族化はそうした傾向をさらに悪化させ、地域における子ども相互の関係集団の希薄化もコミュニケーション能力の育成に支障となっている可能性が指摘されている。また、障害のない子どもにおけるコミュニケーション機能の発達もすべてが解明されたわけではなく、今後の研究が待たれている。コミュニケーション機能の発達は、他人への思いやりや相手の立場に立てる心の育成にも関係が深い。
   情報化とともに進展してきた情報や生活様式の国際化は、世界共通言語としての英語使用の必要性を高めている。したがって、英語を使っての自己表現や他者とのコミュニケーションの教育、ひいては英語教育をいかにすべきかが学校教育の重要な課題の一つとなっている。また、英語を使用する必要性の増大と情報化の進展は、生涯の遅くに情報通信機器に遭遇し、英語使用に不慣れな中高年層に適応障害を引き起こしている。このような中高年層にいかなる生涯教育を行うかが課題となっている。

3学習障害、注意欠陥/多動性障害などへの対応
   通常の学級に在籍する児童生徒について、文部科学省の調査研究会が担任教師を対象に平成14年に行った全国的実態調査によれば、学習障害、注意欠陥/多動性障害など、特別な教育的支援を必要とする児童生徒は、通常の学級に約6%の割合で在籍していることが推定されている。また読字障害、算数障害、書字障害などの高次脳機能障害への対応が学童期における大きな課題となっている。これらの疾患には遺伝子の異常が見つかっているものもあるが、原因不明なものも多い。アメリカ精神医学会や文部科学省の調査研究協力者会議の報告では、中枢神経などに何らかの要因による機能不全があると推定される旨が述べられているが、一部に内分泌撹乱作用を有すると疑われる化学物質や環境汚染物質の影響であるとする報告や、さらには乳児期から情報機器にさらされていることが原因であるという説もある。
   こうしたことから、学習障害などが脳のどの部位のどのような機能障害によって起きているのかを細胞・遺伝子レベルの研究や脳機能の非侵襲計測などによる研究によって解明し、教育・療育に応用していくことが期待される。学習障害や知能に関係する遺伝子の発見だけでなく、遺伝子を発現させる因子などを追究することも必要である。さらに、代償作用*の仕組みを解明し、ひいては代償作用を促進する方策の解明も重要である。
   また、学習障害については脳における機能局在との関連性が従来から指摘されてきたところであるが、これまでは人における有力な研究手段があまりなかったため、その脳の内部における仕組みは充分明らかにされていなかった。これに対して近年発展の著しい脳機能の非侵襲計測などによる研究を応用すれば、脳の内部の仕組みの解明ばかりではなく、機能補填の仕組みも明らかにできる可能性があり、実際的な教育課程・教育方法の開発・改善に大きく寄与する可能性がある。

   *( 注釈):代償作用
生物体のある器官の一部が障害を受けたり失われたりしたとき、残りの部分が発達するなどして機能の不足を補ったり別の器官がその機能を代行すること。
遺伝子レベルについても類似の現象がある。

4過剰なストレスから脳を守り、健全に発達させる方策
   現代社会における過剰なストレスが脳機能に与える影響を解明することが課題となっている。
   現在では、過剰なストレスがもたらす問題は、成人だけの問題ではなく乳幼児期から始まるといわれている。虐待、いじめ、早期教育など子どもに与えられる過剰なストレスが脳機能に及ぼす影響について脳機能描画を用いて明らかにすることが期待される。
   また慢性疲労症候群などの疫学的調査も必要である。またコルチゾール*などの測定によるストレス強度の測定と行動実験なども必要である。
   さらに、遺伝子の発現解析法の開発が進みつつある現在、環境による遺伝子発現への影響に関する研究は教育・療育に大きな影響を与える可能性がある。


   *(注釈):コルチゾール
         副腎皮質ホルモンの一種。


(4) 研究の手順の特性

   
脳科学は、神経生理学を中心とした動物実験や、損傷を受けた人の脳を対象とした研究を手がかりとして、その成果を一般化する手法により発達してきた。このような手法は、人を対象とした「脳科学と教育」研究にそのまま適応するには困難なことが多く、「脳科学と教育」研究は次のような段階を踏んで研究を進めていくことが多くの場合適当である。

1特定分野・事項を対象とする研究から普遍化・一般化へ
   前述のように「脳科学と教育」研究は全く新たな研究分野であり、人を対象とした研究であることから、比較的取り組みやすい研究から開始することが適当である。したがって、以下のような研究の手順が考えられる。
    ・ 動物を用いた研究から人を対象とした研究へ
障害のある子どものみを対象とした研究から障害のない者を対象に含めた研究へ
特定分野・事項を対象とした研究とその普遍化を目指す研究を橋渡しする理論そのものの研究

2一般化から個性を重視した研究へ
   また、「脳科学と教育」研究は人の教育の場における課題の解決を目指した研究であるため、これまで自然科学の分野で志向されていた抽象化・一般化という流れの他にそれぞれの人の個人差にも対応した研究が求められている。
    ・ 個人差に着目した研究
個性とはそもそも何かという研究

(5) 現在までの研究の取組

   脳の発生初期の神経細胞分化や回路形成の仕組みに関する研究は、分子生物学的手法が非常に有効なこともあり、我が国を含めて世界的に多数の発生生物学者や分子生物学者がこの領域に参入した。その結果、我が国でもこの領域の研究は著しく進展し、かなりの知見が既に得られている。しかし、脳の特徴である環境からの入力や脳自体の活動の影響のもとに神経回路網が自己組織的に発達してくる仕組みに関しての研究はそれ程進んでいない。
   ただ、視覚系の発達と可塑性に関しては、古くに開発された仔ネコの片眼遮蔽標本を使った研究が我が国でも展開されている。これらの実験から単に入力のみならず脳自体の活動が神経回路の可塑的変化に重要なことが明らかにされている。また、臨界期は体性感覚、視覚、聴覚など機能ごとに異なっていることが動物実験で示されている。
   さらに、人の脳機能発達に関して、乳幼児に適用可能な近赤外分光描画などの非侵襲的脳機能計測技術が開発されたことから、人の脳機能発達を神経科学的に解明する研究が開始されている。しかし、臨界期が青少年期に及ぶと想定されている高次脳機能の発達に関してはほとんど研究がなされていない。

1先駆的な取組の推進
   科学技術振興事業団において、戦略的創造研究推進事業の社会技術研究公募プログラムとして、平成13年度より「脳科学と教育」領域における研究が実施されている。同領域については、学習という概念を、脳が環境からの外部刺激に適応し、自ら情報処理神経回路網を構築する過程として捉え、従来からの教育学や心理学などに加え、生物学的視点から学習の仕組みの本質に迫ることを目指したものである。これについては、本検討会における検討に先立って実施されているが、本検討会での検討結果と一致する方向で研究が進められており、引き続き内容を充実させて研究を推進していくことが重要である。

2「脳を育む」領域の研究の推進
   科学技術・学術審議会計画・評価分科会において平成14年6月に取りまとめられた「ライフサイエンスに関する研究開発の推進方策について」では、脳科学研究の研究領域として、従来から取り組まれてきた「脳を知る」、「脳を守る」、「脳を創る」領域に加え、新たに「脳を育む」領域の創出が提言された。この領域においては、非侵襲的脳機能計測技術を活用した、ヒト*の感覚・運動機能、ヒトに特徴的な言語機能の発達などの臨界期の明確化、生後環境が高次脳機能発達に及ぼす影響の解明、発達脳可塑性の臨界期及びその終止の仕組みの解明が重要であることが報告されている。また、乳幼児の認知・行動発達を理解するため、ロボット工学、発達心理学及び理論神経科学を融合した行動発達の研究、成人や高齢者における学習・記憶の仕組みの理解を基にした、脳科学と教育工学の融合的研究、神経科学分野の研究者のみならず、小児科医、教育学研究者、現場の教育者などによる子どもの精神機能発達障害に関する融合的研究、成人・高齢者脳の可塑性と学習能力の解明が重要であると報告されている。
   「脳科学と教育」分野の研究を推進するためには、これらの学習・言語・感情・運動発達をはじめとする社会活動と関係する脳機能を解明し、生涯にわたる脳の健康的な発達の仕組みの解明を目指す課題を確実に進めることが不可欠である。
   なお、理化学研究所脳科学総合研究センターでは、こうした指摘や社会的な要請の高まりなどを踏まえ、平成15年度より新たに「脳を育む」研究領域を発足させ、研究に着手したところである。

   *( 注釈):ヒト
人間を生物の種の一つとして表記する際には、片仮名を使用した。


(6)

研究に当たって留意すべき事項

   中間取りまとめでも述べたように、「脳科学と教育」研究は人、特に脳に関わる研究が中心であることから、倫理的配慮を十分に講じることや、研究計画などに関する十分な情報発信を通じて、社会の理解や協力を得て進めていくことが他の分野の研究以上に重要である。

1倫理的配慮
   研究の実施に当たっては、常に人間の尊厳や個人のプライバシーを守ることを大前提とし、被験者に対するインフォームド・コンセント*を得ることが必須である。また、科学的に妥当で正当な考え方に基づき、慎重に研究を進めることが極めて重要である。
 具体的には、被験者に対しては、研究の意義や方法、研究に危険性が伴う場合にはその危険性について十分に説明をして理解を求めることを原則とするべきである。説明の内容としては、その他、個人情報の保護の方法、研究の参加・不参加が被験者に対して利益・不利益をもたらさないこと、同意はいつでも撤回できること、研究の成果が学会などで公開されることなどが含まれるべきである。また、被験者が新生児や幼児であるなど、同意の能力がないような場合には、保護者などの代諾者からのインフォームド・コンセントを得るなど、研究毎に適切な方法を検討する必要がある。また、研究の実施に当たっては、被験者の情報の保護が必要であり、そのための方策を検討しておく必要がある。
   さらに、人を対象とする場合又はヒト由来の試料を利用する場合には、研究機関内に倫理委員会を設置し、研究の科学的正当性及び倫理的妥当性について検討を行うことが必要である。その構成は、研究機関外の者、専門以外の者などが含まれるべきである。

   *( 注釈):インフォームド・コンセント
研究対象者となることを求められた人が、研究者などから事前に当該研究に関する十分な説明を受け、研究の意義、目的、方法、予測される結果や不利益などを理解し、自由意志に基づいて与える、研究対象者となること及び資料の取扱いに関する同意。(informed   consent)

2社会の理解と協力
   特に脳は、身体器官の中で特別なものとして取扱われていることから、新生児研究などにおいて実績を有するフランス、イギリス、オランダなどの欧米諸国の先例を参考にしつつ、研究計画や成果のみならず、研究の進捗状況に関することを含め、正確かつ解りやすく情報発信することに、研究実施と同等に重要なこととして、取り組むべきである。
   情報発信に当たっては、特に科学的根拠に裏打ちされない単なる類推や思い込みが一人歩きすることのないよう、客観的な証拠に基づく事実と、それ以外のものを明確に区別して示すことが重要である。
   また、研究に必要な情報の収集や研究実施体制の構築に当たっても、社会の理解や協力が得られるよう十分に配慮すべきである。

 



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