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資料5-1

過去の著作物等の保護と利用に関する小委員会における発表資料

2007年5月16日
劇作家・大阪大学コミュニケーションデザイン・センター教授
平田 オリザ

 保護期間の在り方について

 保護期間の在り方について、現時点での延長には反対いたします。
 理由は以下の通りです。

 日本劇作家協会では、この問題について理事会で討議いたしましたが、出席した十二名の理事全員が延長には反対でした。日本劇作家協会としては、劇作家の権利保護を責務とする団体の性格上、「延長反対」を積極的に打ち出す決議まではしないが、会員に対して賛否両論並記の充分な情報を提供し、この問題に関する個々人の関心を高めていこうということになりました。

 多くの劇作家が保護期間の延長に反対するのは、戯曲が「上演」という二次利用を前提にして作られる特殊な文芸作品であることに由来すると思われます。多くの劇作家は、何よりも自分の作品が、多く、長く、各地で上演され続けることを希望しています(もちろん、これはすべての劇作家の意見ではありません)。
 保護延長がなされた場合、もっとも危惧されるのは、権利者が拡散し、一部の権利者の反対によって、上演ができない可能性が出てくるのではないかということです。顔も見たことのない四親等、五親等の親族によって、私の作品の上演が許可されたり許可されなかったりするという状態を想像するのは、あまり心地いいことではありません。
 現在でも、実際に、芸術に無理解な親族によって、上演が許可されないというケースは多数見られます。保護期間七十年ということになれば、直系親族ではない親族にまでさらに権利者が拡大し、上演不許可が続出することが懸念されます。

 戯曲上演にあたっては、多くの場合、著作権者の同意の下、改編、加筆などが行われます。したがって、これまで取りざたされてきた「過去の著作物の円滑化方策」や、「アーカイブなどによる利用の円滑化」だけでは、問題は解決しないのではないかと思われます。

 以上、戯曲の特殊性について書きましたが、ここでいう「特殊」とは、近代社会において少数派であるという意味です。しかし一方、戯曲は、文芸作品としては、他のジャンルにも劣らない古い歴史を有しています。

 戯曲は、洋の東西を問わず、元来、集団によって生み出されてきました。シェイクスピアには多くの種本があり、また、その戯曲は、俳優との共同作業によって生み出されたものだということは周知の事実です。歌舞伎においても、かつては集団創作が普通でしたし、一度作られた作品も、多くの名優たちの手によって書き換えられて現在に至っています。
 これは、近代以前の他の多くの芸術ジャンルも、同様であったと思います。

 その後、近代社会の成立と共に、作品は、個人のものとして尊重されるようになり、著作権という概念もそこから生まれたものだと思われます。もちろん私も、近代社会を生きる一員ですから、その権利を守りたいと思いますし、日本劇作家協会の著作権担当理事として、その点に関して応分の仕事をしてきたつもりです。

 しかし一方で、現在の著作権の考え方が、近代・西洋という、たかだか百数十年ほどの歴史の中で作られた権利であるということも忘れてはならないと思います。
 インターネットの急速な発達などにより、この権利の取り扱いが大きく変わっていくだろうことは十分に予想されます。この大変革の時期に、旧来の権利の保護期間を、実質上、不可逆的な法改正によって、いまの時点で延長することには、後世から拙速といわれる危惧はないでしょうか。

 この点を踏まえ、私は、本延長問題についての五十年間の凍結を提案します。
 もちろん延長賛成派の方は、この凍結案に不満があるかとおもいます。
 そこで、「五十年間問題を凍結するが、もしも五十年後に、多くの国民の理解を得られて保護期間はやはり延長をした方がいいということになったら、2007年から2057年の間に死亡した方にも、70年の保護期間を適用する」と、いまの時点で定めてはいかがでしょうか(インセンティブの問題を考えるなら、すでに亡くなっている方の保護期間を延長する意味がないことは、多くの意見発表者が述べたところです)。
 このような国民の合意形成を前提とした凍結期間を設ければ、延長賛成派の方は、「よし、国民の皆さんが70年への延長を賛成するような名作を書こう」と考えて、より一層のインセンティブを得られるのではないでしょうか。

 何も、いま、急いで決めることはありません。
 五十年の間に、世界は大きく変わります。
 ギリシャ悲劇以来の二千五百年の文芸の歴史、そして未来の数百年を見据えれば、この直近の百数十年の著作権の在り方は、特殊なものであった(間違いであったとは思いません。いまの時代に、著作権法はどうしても必要な法律です)とふり返る日が来るかもしれません。未来に憂いを残さないような判断をお願いしたいと思います。

 補足(他に、私が保護延長に慎重な理由を列挙します)

 平均寿命が伸びたことは、保護延長の理由にはならないように思われます。
 たとえばチェーホフは、1904年に44歳の若さでなくなりました。そのために日本演劇界は、戦後、チェーホフ作品を無償で上演する恩恵を受けました。もしもチェーホフが80歳まで生きて、保護期間が70年だとすると、私たちは、まだチェーホフ作品の上演料を払わなければならないことになります。
 この説明を聞けば、ほぼすべての演出家、プロデューサー、そして最終的にチケット料金を余計に負担する演劇ファンは、保護期間の延長に反対するでしょう。
 ある劇作家が20歳で書いた戯曲作品は、その作家が80歳まで生きて、さらに70年保護されるとすれば、発表後130年間、自由な上演ができない状態に置かれます。これは現在の演劇界の感覚からは非常にかけ離れたものだと言わざるを得ません。130年前に発表された作品は、国民の一般通念として「古典」となっているのではないでしょうか。

 私は、海外で共同作品をよく作っていますが、その際に、日本の保護期間が五十年であることで不利益をこうむったことはありませんし、またどのような不利益があるのか想像もできません。私が契約を結んでいる海外のエージェントにも問い合わせましたが、そのことで不利益をこうむる可能性は、まったく想定できないという答えが返ってきました。
 また、もちろんそれが、恥ずかしいなどと考えたこともありません。
 もしも、70年に保護期間が延長されれば、日本政府は、いずれアジア・アフリカ諸国に対しても、保護期間の延長を求める立場になるでしょう。私は、そのことを思うと、それを思っただけでも恥ずかしい気持ちになります。
 日本が目指す知財立国とは、「一国知財主義」ではないはずです。知財による国際貢献を目指すのなら、いまこそ、アジア・アフリカ諸国との知財による連帯を準備するべきではないでしょうか。

 もしも、この延長問題が、他の外交案件との絡みで処理され、どうしても受け入れざるを得ないのならば、私は以下のような提案をしたいと思います。

 著作権の保護期間を50年から70年に延長するにあたって、その延長された20年分は、著作物を利用する権利が個人から公共へと移行する期間と考え、該当期間の著作権使用料は、個人ではなく国家が徴収する。その収益は、半分を日本国の文化振興、特に子どものための芸術教育や、若手芸術家への支援に充てる。もう半分は、UNESCOに委託し、途上国の芸術文化振興の基金とする。

 保護延長賛成の方々は、口々に「金銭の問題ではない」と仰います。ならば、この期間の著作権使用料を公的な資金に充てることには異存はないと思われます。
 また、この案ならば、海外との不均衡という問題も解消され、さらに上記のアジア・アフリカ諸国との連帯も達成できます。

 今後、芸術作品は、ますます公共財的な性格が強くなっていくと思われます。また、そのことが、芸術への公的支援の大きな根拠のひとつともなっています。
 そうであるならば、いたずらに個人の権利の主張を進めるよりも、いま生きている芸術家の公的支援の拡充、芸術教育の普及などを国民全体に訴えていった方が、芸術界にとっても得策なのではないかと考えます。
 「死んだら、どうせ公共財になるのだから、生きているうちに支援をしてくれ」と言うのが、私の偽らざる思いです。

以上


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