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国語分科会

2003年9月9日 議事録
文化審議会国語分科会第15回議事要旨

文化審議会国語分科会第15回議事要旨



平成15年   9月   9日(火)
午後2時〜午後4時
東海大学校友会館「阿蘇の間」





〔出 席者〕
(委員) 北原分科会長,阿刀田副分科会長,青木,臼井,沖山,甲斐,小林,五味,齋藤,舘野,手納,藤田,松岡,水谷,山根各委員(計15名)
(文部科 学省・文化庁)   素川文化庁次長,寺脇文化部長,久保田国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

〔配 布資料〕
   読書活動等小委員会の意見のまとめ
   国語教育等小委員会の意見のまとめ

〔経 過概要〕
   事務局から,「事務局の異動についての紹介(文化庁次長,国語課長)」及び「配布資料の確認」があった。
   配布資料1について,読書活動等小委員会主査の甲斐委員から説明があった。
   配布資料2について,国語教育等小委員会主査の水谷委員から説明があった。
   両主査の説明を受けて,最初に配布資料1について,次に配布資料2についての意見交換を行った。
   今後,両小委員会の「意見のまとめ」と本年1月に出された「これからの時代に求められる国語力について(審議経過の概要)」を基に,国語分科会の報告をまとめていくことが了承された。
   まとめの素案作成については,分科会長が副分科会長及び両小委員会の主査,副主査に相談しながら進めていくこと,また,11月中旬から12月にかけて実施を予定しているパブリックコメントの期間中に,ヒアリング(2,3名程度)を行うことが了承された。
   なお,ヒアリングの実施に当たっては,国語分科会の「報告」をまとめるのに資するような形で行うことが確認された。
   次回の国語分科会総会は,9月29日(火)の午後2時から開催することが確認された。開催場所等については,事務局から改めて通知することとされた。
   意見交換における各委員の意見の要旨は次のとおりである。


   <「読書活動等小委員会の意見のまとめ」について>
   読書をすると,国語力のどの部分の力が付くかというようなことについては,書いてあるのか。国語教育の方では三つに分けて,高次の情緒力・論理力・語彙力とあるが,読む力が付くというのでは余りにも当たり前になるけれども,それについてどこか言及したところはあるのか。
   
   1ページの(1)「読書の重要性」というところで言及している。「審議経過の概要」を踏まえて,その上に立って読書の問題を取り上げていったということで,国語教育等小委員会のように具体的なところにまで踏み込んでいくことはしていない。
   
   今のお話であるが,読書活動等小委員会,国語教育等小委員会とも,それぞれ取り上げる国語力の細分化した言葉の力とかかわり合わせて,考えていくところまでは十分に検討していない。
       読書活動等小委員会では,どのような本を具体的に推薦すべき本として取り上げることができるかというような具体的な書名を挙げることは避けてきているが,代表的な本を挙げると,その本を通して身に付く言葉の力が具体的に目標化しやすいというようなことはあるのではないかと内々思っていたところである。
       国語教育等小委員会でも,学校教育における国語の教科書の教材それ自体を,例えば読むことの面からアプローチしていったときに,具体的な教材名が挙げてあれば,言葉の力のどういうところを目標として取り上げることができるかが非常に鮮明に描き出しやすい。そういうことが頭の中にイメージとしてありながら議論を進めてきているというような面があって,あえて具体的には言わないで,例えば,高次の情緒力とか論理力というようなことを言って,今日最も重点化して考えるべきものとして取り上げてきているわけである。すなわち,具体的なものを出して議論することは,あえて避けてきた面があると思っている。
   
   いわゆる文学作品を読むようなことだけではなくて,調べるために,科学的な本を読むようなこと,もっと言えば,知識のためとか,いろんなための読書があると思うが,それをしたら教養が付くし,人間づくりができる。しかし,それが国語力なのかどうかが気になっている。別に国語力だけではなくて,人間をつくるのが大事だというふうに言えば,そういうことであるけれども,国語力から見たときの読書というのをもう少しはっきりさせる必要があるのではないか。
   
   今,御指摘があったように,具体的なものを避けるというのはいろんなニュアンスがあっておっしゃったことだと思うが,読書活動等小委員会では具体的な提案もたくさんあったと思う。こういう報告というのは,大きな立場から総論的なことを答申していくことになるのだろうが,会議の中で出た極めて細かい具体的なものというのも,やはり何かの形で答申に反映されていくようなことをやらないと,書いてあることはもっともだろうけれども,具体的にはどうしたらいいか分からないということになってしまい,せっかく1年以上かけてやってきた意味がない。
       例えば,学校図書館図書整備5か年計画がなかなかうまくいっていないというようなことについては,何をやっているんだというのが委員会の率直な感じであって,文部科学大臣,もう少ししっかりして,これがちゃんと行われるようにやってほしいというような具体的な要求があった。また,「自ら本に手を伸ばす子供を育てる」ということは,上から押し付けのようなリストを作るのではなくて,子供たちがお互いに選んで,「おれはこういうのを読んだよ」「これは面白かったよ」と,子供たち中心に本をどんどん選ばせていく,そういうようなサークルを作ったらいいのではないか。そういうところで選ばれたものを全国的にということは無理だとしても,ある程度複数の団体の中から,どんなものが子供たちに選ばれているか,一つの参考として,子供たちが現状で入手できる本の中からどんなものを喜んで選んでいるのかということをリストアップするようなこともいいのではないかという提案も出されている。それから,一番問題になった学   校教育において読書を明確に位置付けるということについては,一体どこまでやれるのか,そこは意見が分かれているようだが,分かれたままでもいいから,こういう具体的な意見が出て,実行を非常に強く望んでいるという姿勢を,答申の中で明確化していく必要があるのではないかということを感じた。
       全体を通して,一つ一つ具体的なことが何かできるほど議論は進んでいないとは思うが,せっかく出た具体的な提案は全体の総意ではないまでも,ある程度許容されたものについては拾い上げて,答申の中に入れていく必要があるのではないかと感じている。
   
   読書活動等小委員会のまとめの7ページの上から5行目のところが,委員会として,私自身が考えてもちょっと不足をしているというか,問題になりながら,更に明らかにしなければならないところだろうと思う。「さらに,小学校・中学校・高等学校の発達段階,学校段階に応じて,読書する力の内実と目指すところを明らかにしなければいけないのではないか。こうした中で,「調べるための読書」等も位置付けられてこよう」の部分が,委員会の中でも何度か出たり入ったりする形で,例えば,調べるために本を読むことをここで言う読書として位置付けて考えるかどうかとか,情報収集,情報活用のための読書ということをどう位置付けるかというようなことについては出たり入ったりした。そのときの言葉で言えば,読書のうちの8割ぐらいが1冊の本を丸ごと読んでいく,教養としての読書みたいな位置付けがあって,あと2割ぐらいはやはりそういう読書もある,ぐらいの話で出たり入ったりしていた。
       国語教育等小委員会のまとめで,「発達段階に応じて」というところで,情緒力・想像力,更にその上で発達していく論理力,論理力の中で情報を複合して論理的な思考を行うとか,社会科や理科の学習などを通して,論理力の育成を努めるというふうにあって,なるほどと思ったのであるけれども,こういうとらえ方とかかわらせて,読書についても,ここで言う力の内実と目指すべきところを発達段階に応じてもうちょっと深めて考えていただければ,中身がもっと豊かなものになるのではないかと思った。
   
   読書活動等小委員会で確かに今のような意見が出て,私も調べるための読書というのは高等学校辺りから本当に必要になってくるだろうと思うが,これは多分司書教諭の育成などとも関係があるのではないか。調べるための読書で,一番基本になるのはレファレンスブックに対する知識である。通読するためでない,辞書とか,年鑑とか,年表とか,あるいはそういう形で出ていなくてもレファレンスブックとして役に立つものが世の中には一杯あって,本来,図書館学の中でレファレンスブックに関する知識というのは非常に重要なパートを占めている。高等学校で調べるための読書をやれと言っても,それを担当する,そのことを学校の中で教える司書教諭の方がレファレンスブックについての正確な知識を持っていないまま,「年代を調べるには年表があるから,それを見たらいいでしょう」では,高等学校の教育にはならないと思う。
       今,実際問題として,学校の司書教諭制度がきちっとしていないし,司書教諭と言われる人たちが,日本で出版されているレファレンスブックというものについてどれだけ知識を持っているか。「参考図書の研究」などという本が2,3冊出ているけれども,そういう本があることさえ学校教育の現場の人は知らないのではないか。レファレンスブックというものについての相当の知識を持った上で,このことを調べるのだったら,こういう本があって,その本はどういう点において特徴があるか,こっちの方は初歩的だけれども,こっちはちょっと特殊な見方だけれども,なかなか役に立つとか,そういうことについてのある種の知識がないと,調査のための読書を指導することはできないと思う。調査のための読書というのは高学年からやっていく必要があるが,それを指導する司書教諭の育成と充実が非常に大切ではないか。漫然と「調べるための読書」と言われても,本当に的確な指導はできないだろうと感じている。
   
   読書活動等小委員会の7回の流れを考え直してみると,やはり小学生から高校生に至るにつれて読書離れがあるという,その現実にどう対処すべきかというところに委員会は意を用いてきたと言えるように思う。どうすれば,高校生,中学生を本の世界に導き入れることができるかというところで,いろいろと話し合ってきたわけである。
       その結果,7ページの下から4行目のところにあるが,「直接役に立たなくても面白いという読み方を学校教育の中できちんと教える必要があり,これまでの教育では,読むことの楽しさを教えることに失敗しているのではないかとも考えられる」ということが出てきた。そこでは,例えば漫画を読むこともいいのではないか。幅広い,雑多な読み方ということが必要なのではないかという意見も大分出ていた。したがって,読書活動等小委員会では,読書離れを食い止めて,幼児から老人まで,すべての日本人が本を読む意欲を持つためには,読む本を余り制限しない方が良いということになった。そういうわけで,一番下の行にある「学校教育においては,なぜ読む必要があるのか,なぜ読んだ方が生きる力になるのか」ということを,このまとめは改めて考えていくための提言であるというふうに私は思っている。
   
   付け加えであるが,学校教育の中での国語力……国語科教育を通しての国語学力というふうに言ったらいいのか,国語力と言ってもいいのかもしれないが,それと読書の問題を絡めたときに,今,国語科だけではなくて,各教科,総合的な学習の時間というような教育課程の設定の中で,読書を入れた指導はかなり活発に行われている。特に国語科教育の中では,どういう課題の場合にはどういう本を子供たちに紹介して,たくさん読ませて,そして集めた情報の中から自分の課題を解決していくというような指導が活発に行われている。そういうわけで,言葉の力を付けていくというような一つの目標設定をしてみても,それに即した学校教育,国語科教育の中での読書活動というのはかなり鮮明な実践事例をたくさん収集できる,御紹介できるというふうに私は思っている。
   
   以前配られた学習指導要領をちょっと御覧いただくと,実は情報を活用することについて触れられていて,手元の小委員会基礎資料という資料の中の12の46から47,48辺りにある。これは中学校であるが,特に48ページ,情報の活用という四角の中を御覧いただくと分かりやすいかと思うが,第1学年,第2学年及び第3学年と分かれていて,様々な種類の文章から必要な情報を集めるための読み方を身に付ける。これが1年生である。2,3年生だと,目的を持って様々な文章を読み,必要な情報を集めて自分の表現に役立てることとある。
       この夏休みも,私は幾つかの国語の研究会に顔を出したが,多くの教員がとまではなかなか言えないけれども,ある程度の教員は国語科の中で意識的にこのような指導を,特に図書館を使ったり,新聞を活用したり,辞典あるいはインターネットを使ったりしながら行っている。情報の活用を目的とした読みの指導については,国語科にどちらかというと任せてしまっていいのではないかと私は考えている。
   
   読書というのは何を読むのかということである。今言ったように,情報,調べるためのものも読書に入るのか。学校教育に読書を明確に位置付けるということだが,先ほど言ったように,読む本には科学書とかいろんなものがある。例えば,『土星の不思議』という本があったとすると,これは小説とは全然違うわけである。情緒力というのは後で問題になるかと思うが,教養や知識を高めるための読書だったら,読書の範囲が非常に広くなってくるだろうと思うけれども,その辺は,我々はどういうふうに限定したらいいのか,しないでいいのか。
   
   先ほどからお話を聞きながら,先日,私の担当しているラジオ番組に出演してくれた青年のことを思い出していた。21歳で,今世界的な起業家として活躍している大学生であるけれども,この人は,小学生のころから,珍しい虫を見付ければとにかく本で探して調べるのが好きで,何か分からないことがあれば必ず本屋さんか図書館に行って調べていた。その興味がどんどん広がっていって,ある時は家紋を調べるためにあらゆる本を探って調べていく。中学に入った時に,今度は新聞の株の欄の数字を眺めていて,この数字がほかの三面記事と連動していることに気付いて,今度は経済の本を読もうということに目覚めるわけである。
       そういう形で,調べるということは自分の好奇心を満たすための読書につながっていて,調べるための読書を切り分けて,それは読書ではないとするのは,読書そのものの幅を狭めてしまう。調べるための読書というのは非常に大きな入り口になり得ることだし,とても重要な読書の一つの形ではないかと私は思っている。
   
   学校教育の中で読書をどう取り入れるかということは,この答申そのものをどういう形で出すかということとかかわってくると思う。一つの考え方として,少なくともここのところから入っていったらどうかということを今ちょっと考えていたのであるけれども,伝記というジャンルがある。自分自身の子供のころを振り返ってみると,夢中になって伝記を読んだ時期があって,それは読書であるけれども,そこに扱われている人物というのは,音楽家もあれば,画家もあれば,生物学者,数学者,天文学者,いろいろあると思うので,音楽の時間でも,歌ったり音譜を覚えたりということではなくて音楽家について読む。これは一つの例であるけれども,イメージとして考えたときに,読書の取り入れ方というのは,各教科で,例えば,伝記というのは全く一つの例であるが,読書を横,各教科というものを縦と考えたときに,必ず読書とクロスするポイントというのがあるのではないかと思うのである。
       だから,先ほどの答申の書き方で,これは国語教育等小委員会がまとめたものです,これは読書活動小委員会がまとめたものですという形で出すのではないと思う。そうすると,大きく国語教育,その中の社会での教育,学校の教育,またその中に読書というものが学校教育にも入ってくるし,生涯学習にも入ってくる,いろんなクロスのさせ方というのを考えていく。そうなれば,箇条書きではない,もっと全体が有機的につながる答申にもなるし,それが現実の自分たちが今行っている読書,物を考えること,物を作り出すこととつながる答申になるのではないか,そういうふうに思っている。
   
   読書を考えた場合に,例えば楽しむために読む読書というのがあるし,調べるために読む読書もある。あるいは知的欲求を満たすという意味で読む読書もあるし,そのほかにもあるが,そういったいろいろな目的があると思う。その目的に合わせて本を読めるようになることが,読書として一番大事ではないかなと思っている。
       しかし,まとめの中に,首長や校長などがリーダーシップをとって,いわゆる読書をする子供を育てるために環境等を整えるべきであるというような内容もあるが,その方法とか,何が読書かという内容とか,そういうことが首長,リーダーたちには分からない部分があるのではないかというところがあると思うので,そういったところをきちんとリーダーたちに教えるような形で,何かをしていくことが必要ではないかと思う。
       調べる読書,楽しむために読む読書,知的欲求を満たすための読書については,日常生活の中でもそうだし,国語教育等の中でも十分に指導という場に乗せていく必要があると考えている。そうした中で,常に本を手に取って,すぐ読む,つまり活用できる,そういう子供たちにしていく。そういうことをきちんと伝えていくというか,伝えられる場を設定していくというか,そういうことが今後大事ではないかと考えている。
   
   学校教育の中での読書を明確に位置付けることが,私としては,この意見書の中の一番の目玉であろうと考えているが,ここの位置付けをもう少ししっかりしないと,この議論を始めた元のところに戻ってしまうのではないかと感じている。というのは,読書というのは確かに情緒とか知識を与えるけれども,それ以外に,人生一回しか生きていない人間が,自分が実際に経験しないことを読書を通じて経験できる。また,本を読むということであるけれども,読書の中には字だけではないものもあるはずだと思う。
       先ほどから調査,調べるための読書というお話が出ているけれども,私どもも知識を得るためにここを開き,あそこを開き,あの図鑑を見,そういうところから本当に抽象的ではない物事の具体的な大きさとか,深さとか,そういうものが分かってきたわけであるし,そういうものもすべて自分が書いたものではない,自分が聞いたものではない,経験したものではないものを全部読書を通して,必要な資材,教材として入れていかなければいけないのではないか。
       学校教育の中で,名作とか,本を奨励したり推薦したりすることに大変危惧を持っていらっしゃるというのも理解はできるが,そのおそれを持っていると,なかなか次には進めないのではないか。健康な子供になるには,健康な体を作るためには,いろいろな食物を食べなければいけない。運動もいろいろなことをやって初めて総合的に走ることも投げることも力が付くわけなので,この辺で少し勇気を出して,評価は違っても,それは学校教育の中で結論を出すべきものではないと思うので,学校教育を過ぎた後で,それが何かの栄養になっているという可能性もあるので,少し出過ぎるかもしれないけれども,その辺までやった方がいいのではないかと,これを読みながら考えていた。
       例えば,読書を奨励するために,本については消費税をなくすとか,書籍の購入額に応じて税金控除をするとか,それぐらい大きなことがあってもいいのではないか。学校教育の中で子供を安全に教育して,ここから先は,親や先生は責任が持てないからいけませんということをちょっと外さなければいけないのではないかと感じている。
   
   まとめの8ページにある「教科書や副読本等の内容を子供の読書活動に結び付ける」とか,9ページの「著名な作家に読書経験を書いてもらい公表する」とか,この辺を読むと文学作品が中心のような気がして,読書はもっと国語から離れてもいいから,本当に本を読むこと自体をもっと習慣付けるようなことを,学校教育でも,あるいは人生の各段階でもやるように持っていった方がいいのではないか。


   <「国語教育等小委員会の意見のまとめ」について>
   先ほどの説明で,「高次の情緒力」という言い方について,いろいろ議論があったということだったが,やはりよく分からない。高次の情緒力というのは,一体何が高次であって,普通の情緒力ではいかんのか。ここに例を挙げていることも,他人の痛みを自分の痛みとして感じるとか,もののあわれから祖国愛まであって,これが高次の情緒力だと言われても,多分,分からないのではないか。何回も「高次の情緒力」というのが出てくるが,これはもう一回考え直さないと,このままの言い方で出しても何のことか分からないと思う。情緒力が必要ということはそのとおりだし,読書によって情緒を養うこともできるが,ここはもっと議論が必要ではないかというのが一つである。
       もう一つは,国語の授業時間を増やすということが書かれている。特に小学校で増やして,高校では減らしてもいいというようなニュアンスで書かれているが,二つ問題があると考えている。
       これも議論されたならば教えてほしいのであるが,今の小学校の国語の授業がどのくらいあって,これは全国統一でやっているのか,あるいは地域によって違うのか,私学はどうしているのか,デコボコがあると思うけれども,そういう小学校の国語の授業の中で一体何が足りないのか,授業数を増やした場合に,授業数を増やすことで解決するのか,今の国語の教え方が駄目なのか,あるいは教え方はいいのだけれども,問題があるということで授業数を増やすのか,増やすとすればどのくらい増やすのかということまで議論されたのかどうか。ほかの教科も増やしたいというかなり大きな要望があり,中には,法教育,あるいは宗教教育,こういうところまで必要だという議論もあり,国語の時間を増やすならば,今の国語の時間の実態と,こういう理由でもって増やさなければいけないというところをもっと丁寧に書かないと足をすくわれる。私も,何となく抽象的には国語の時間を増やした方がいいと思うが,今のままだと余り説得力がない。
       それと,高校の方で減らしていくということになると,さっきの読書活動等小委員会の方で議論していたのは,小学校はともかく,中学生,高校生になって本を読まなくなる。これに対してどうすればいいかというのを考えて,考えあぐねているというところなので,その関係から言うと,小学校のときにやって,高校で減らすということでいいのか疑問があるということである。大きく言って,その2点をお尋ねしたい。
   
   後の方から,お話ししたい。実は委員会の中で,これは完全な合意が形成されてはいない。一つの答えにはなっていない。別の言い方をすれば,高校段階で要らないという考え方は極めて政策的な考え方に基づいて出てきた意見である。小学校の国語の授業時間が必要だというのは,諸外国においてもそうであるし,あらゆる能力の基本になるものだからという理屈が基にあって,それで多くしようというのはすんなりと出てきた。高等学校の場合には,減らしてもいいというような意見が出てきたのは,学校教育全体の中で,国語の授業だけを増やせ,増やせと言っても,ほかの人が認めてくれない。だから,譲るところは譲らないと政策的に成り立たない。小学校は増やして,高等学校は減らしてもというのは,このような考え方があったからである。
       けれども,高等学校段階でも,やはり大事ではないかという意見も委員会の中では出ていた。そこをきちんと合意形成した上での報告ではなくて,全体に共通の事柄をまとめる形でここでは出している。できればもっと詰めなければならないだろうと思うが,詰める前に,この分科会自体が政策的な立場で物を言うべきなのか,あるいは教育的な考え方に基づいて生まじめに考え方を出していくべきなのか,そういう基本的な方針をどこかで最終的には議論しておかなければ,ある部分では政策的,ある部分では理論的ということが,今の読書の場合にもあるかなという気がした。だから,どこかで調整する必要があるのではないか。高等学校は要らないということについては,そういう背景があって出てきたものである。一人一人の委員の意見は多分違う。私は譲りたくないと思っているけれども,まとめるためにということで,こういう形になっている。御不満かもしれないけれども,現実はそういうことである。
       もう一つの「高次の情緒力」の言い方については,本当に少しでも知恵をちょうだいしたい。この言葉が今世間に出ていったときに,言おうとしていることを受け止めてくれるかどうかというのがすごく心配である。だから,これに代わる言葉,例えば「情緒力」という言葉だけでやると,社会性の強い部分のところが落ちてしまう。この中には道徳的なものまで含まれている。要するに,基本的には論理力というのから議論は出発している。論理力が必要だ,これについてはだれも異議はない。ただし,論理力だけで国語の力を積み上げていっていいのだろうか。情緒力というのは,非常に個人的なレベルでの情緒力というか,悲しいとか優しいとかいうところではない社会性の加わった情緒性の問題,人に対する,個人に対するのではなくて,社会全体に対する優しさとか,社会を愛する気持ちとか,そういうものを感覚的にとらえて,自分の行動の基にできるものというのは一体何なんだろうか。そこで,言葉があっちこっち動いて,普通の情緒力では駄目だ。高次の情緒力,何とかの情緒力,こういう方向へ行って,しかし,それでは通じないではないかという状況のままでいるところである。是非,これに代わるうまい言葉,あるいはこの部分を二つに区切って,情緒力で表されるものともう一つ別の概念の二つを用意したらどうかとか,そういう助言をいただけると大変有り難い。
   
   「高次の情緒力」が何回も出てくるが,使い方が少し揺れてもいる。情緒という言葉は,大体一つの意味を持っている。最初の定義は無理な定義をしているので,無理な定義の使い方と,普通の人が理解している……例えば,私の辞書には「情緒」を「ある物事にふれたときに起こるしみじみとした感情。また,その感情を誘い起こす独特の雰囲気」と書いてある。情緒豊かな城下町とか,江戸情緒とか……その江戸情緒などの使い方からは,8ページに書いてあるような定義はちょっと出てこない。本来的には「じょうしょ」で,「じょうちょ」というのは慣用読みであるけれども,定義には「情緒を解する力」とあるが,情緒を解するのではなくて,情緒をもよおす力ではないか。
       また,国語力であるから,それは論理的な思考力とかいうのと一緒であるので,言葉になる以前の概念化する力のことなのかと思うと,この定義はこうなっていて,着想する力とか,指導要領などによく書いてある考え方,見方というような自分の立場,いろんな教養の言葉にする前の立場みたいな,基本的資質とか,もっと言えば教養とかいうような話なのかとも思ったりした。3ページの3行目には「その出発点となる最初の仮説を選ぶのは,その人の高度の情緒力によると考えられる」とあるが,この辺りだと,教養とか能力というのと置き換えた方がいいと思う。非常に大事なところを表す言葉であるから,今日は私もいい言葉が出ないが,これだと皆さんにちょっと分かりにくいのではないかという感じがする。
   
   ちょっと話は変わるけれども,国語教育のまとめの10ページにある,「地域社会を大事にする」の最後のところに,NPOを支援するとか,マスコミを活用するという話が出ている。読書の委員会でも言ったのだが,読書文化賞なり国語文化賞なりという賞を設けて,大した金額でなくても地味な活動をしている人には非常な喜びになるので,そういう賞を設けてということを言ったのであるけれども,読書のまとめに入っていなかったので,改めて入れてほしいと思う。
       文化庁の名前でも文部科学省の名前でも構わないけれども,読書推進,あるいは国語の文化,日本の文化でもいいが,そういうものを推進していると思われる活動,特に日の当たらないというか,図書館関係などは地味なものが多いので,そういうものにできるだけ幅広く……厳選することに意味があるのではなくて,光が多く当たることに意味があるので,……賞を与えたい。そういう賞をもらえれば,その人たちはそれをもらった以降,多分非常に活動がしやすくなると思う。そのような活動を生み出す試みは,この間までの資料集めの中でも相当出てきているので,とりあえず賞を創設していただきたい。これはそんなに費用はかからないし,これを発表すれば,マスコミは当然取り上げるので,その波及効果を利用することもできる。
       実際,NHKで,自分が企画してかかわった『にほんごであそぼ』という番組,皆様は御存じないかもしれないが,2歳から6歳までの視聴率は47%になっていて,半分の子供がテレビを見ていて,みんな「ややこしや,ややこしや」,あるいは「じゅげむ」と言っている。どういうことかというと,演劇的な要素つまり体の動きとセットになった古語,あるいは方言といった身体性の濃い言葉というものは,子供にとっては体に入ってくるということである。演劇的な要素の大切さというのはまとめの中にも書かれているが,もうちょっと強調されてもよいのではないか。テレビというものは,そういうものをやっていくには非常に良いものであったので,そういうバックアップ等ができればいいなというふうに思っている。
   
   今の御発言に関してであるが,10ページの下から4行目の「国語力向上に貢献している番組やマスコミの取組などを紹介し,表彰することなども考えてはどうかという意見も出された」というところで,取り上げてある。
   
   国語教育等小委員会のまとめの6ページ,(1)の「国語教育を中核に据えた学校教育を」の「また」以下の6行,「また,発達段階・学校段階を考慮すれば」云々の6行についてであるが,こういう形で答申等に入れることについては,私は反対である。
       政策的というか,戦略的に,小学校で増やすために中・高で減らしていってもいいととられるような書き方をすることそのものは,まずいであろう。今,小学校1,2年生は週に8時間やっている。中学校2,3年生は週に3時間である。高等学校は,3年間で最低2時間やればいいというふうになっている。中学校の週3時間をこれ以上減らして,論理的思考力の育成もあるまいという気がする。もっとも論理的思考力については社会科や理科でやればいい,国語は情緒力をやればいいということなら別だが,本答申はそういうふうに考えていないようなので,わざわざ減らしてもいいというようなことを書くことそのものに反対する。
   
   大賛成である。小・中・高の各段階でやらなければならないことはたくさんあるわけである。今,高等学校の国語教育はとんでもない状況になっていると思うので,それはちゃんとした教育をしないからいけないので,もっとちゃんとした教育をしなければいけないということも含めて,小学校を増やすのは大いに結構であるけれども,ほかを減らすというのは困る。
   
   今御指摘いただいたような別な考え方に立った主張というのは,小委員会の中でも随時なされてきた。私は,小・中・高全体に国語科の授業というのは今よりも増加すべきであるという主張はずっと続けてきていた。しかし,そういうことに関して,ここでまとめるときには,ある一つの考え方を主軸にするという書き方でまとめていくということが小委員会全体の流れとしてあったので,両論併記,あるいはこういう意見もあったというような付け加え的な,まだ中途段階だから,そういうような方向での記述の仕方もあったわけだが,それは採らなかったことが,今御指摘をいただいているということで,こういう意見もあったということを付け加える形の,中途段階のまとめであった方が良かったのかと今ふと思った。そういうことで,小委員会の方でも,御指摘いただいているようなことは随所でだれかが発言していることなので,そのことはちょっと付け加えたいと思う。
   
   今のと同じように,批判になるけれども,8ページに「漢字指導の徹底を考える」というところがあって,先ほど,これは全体のまとまった意見ではなかったという説明があったが,「小学校6年生までに常用漢字のすべてを読めるように,現在の学年別漢字配当表を検討することも考えたらどうか」と書かれている。これは非常に強烈な発言であって,これがなぜここへ載っているのか。常用漢字のすべてを読めるということは,常用漢字に備わった音訓のすべてを入れた熟語,漢語を入れると,多分6,000か7,000語になるだろうと私は思う。日本語教育の日本語能力試験の1級が常用漢字である。それを小学校6年生までに入れるということは,そういう本文を教科書の中に登載すべしというふうになるわけで,これは賛成できない。
   
   このことに関しても,やはり討論が随分繰り返されて,途中での議事録には別の考え方も記載されているのであるが,最終的に,インパクトがあるというので,こうなっている。私もいろいろ意見を申し上げたが,結果としてこうなっているということで,今いろいろ出していただいた方が,先行き修正していくためには重要である。
   
   「高次の情緒力」の言い方であるが,改めて「情操」という言葉を提案したい。情だけではなくて,社会性ということを考えると,バランスがとれているのではないか。
   
   私は,これはただ「思考力」だけでいいと思う。思考力と言ったときに,何か論理的なことを考えるかもしれないが,その中には社会的な思考力があり,文学的というか,芸術的な思考力があり,自然科学的とは言えないある種の科学的……論理的というと,またちょっと別の意味が加わってしまうが……科学的な思考力があるので,要するに,頭の働きだと思うわけで,思考力と語彙の育成でいいのではないか。「思考力」と言ったときに,全部頭の働きなのであって,「高次の情緒力」とか何とか言うより,「思考力」だけでいいのかなというふうに考えている。
   
   「高次の情緒力」のところは,議論が出たり入ったりするので,やはりこの語を提案した委員がいらっしゃるところで,一度話し合いの時間を正式に設けていただきたい。御本人がいないところで話すのと,いるところで話すのとではやはり違うと思うので,皆さんが集まって,議論する時間を設けていただきたいというのが一つである。
       もう一つは,私は国語教育等小委員会の方に所属したので,読書のところとつながるところ,国語教育のまとめの3ページであるが,ここの1点だけ触れさせていただく。これは「「自ら本に手を伸ばす子供」を育てる」というところだが,この段落の中に,きちんと国語教育を受けて育った子供が親になって,初めてきちんと教えることができるというようなことが書いてある。ということは,今教えられる親はほとんどいないのが前提というか,そういうところで,この教育をスタートさせるのだという認識がまず必要だということと,そのためには,子供に何を与えればいいかという部分だけを増やすのではなくて,今の成人たちを含んだかなりの層に対する読書の啓発活動が必要で,生涯発達的な観点がやはり必要である。
       それから,読書活動等小委員会というのは,これだけ本を読まなくなった人たちにどうやって読んでもらおうかという,その原点を明確に打ち出した方がいいと思う。つまり,まず読んでもらってから,何を子供たちが学んでいるのか,何を大人が学んでいるのかということをきめ細かく調査していく必要があるのではないか。個人の生態学的な脳科学によって国語力を身に付けるのと同じように,きめ細かな調査というのを並行して子供にしていくことをどこかに書きながら,国語教育とつなげていただければというふうに考えた。
   
   一つだけ,国語教育の委員会に忘れないうちにお願いしておきたいのは,国語の教員を中心とした教員の再教育のことに触れてほしいということである。それを是非研修をやるなりしてやっていく。指導者の育成ということで,国語の教員もさることながら,理科や社会科の教員などにも国語力を付けてもらう必要がある。
       それから,社会人に対しても,文化庁を中心に,講演会とか,お父さん・お母さんを集めて言葉の大事さを訴えるような集会とか,社会人の特に小学生のいる親の再教育みたいなことも必要ではないかということも入れていただくと有り難い。



(文化庁文化部国語課)

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