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・21世紀の社会と科学技術を考える懇談会・
   
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1.日  時:平成11年8月21日(土)、22日(日) 


2.場  所:国際日本文化研究センター  第1共同研究室 


3.出席者:(委  員) 井村、廣田、村上、石井、宇井、中島、安井、米本、鷲田の各委員 
                             熊谷議員、大崎政策委員 
                             岡本京大名誉教授 
                             堀場会長 
                (事務局)科学技術庁  崎谷科学技術政策局審議官  他 
                             文部省         井上学術国際局審議官      他 


4.議事 


[1日目  8月21日(土)]

・座長・  最初に、本会合の目的を簡単に説明したい。2001年、あと1年4カ月で発足いたします「総合科学技術会議」の性格づけをするために、この21世紀の社会と科学技術を考える懇談会を発足し、討議を続けてきた。この新しい「総合科学技術会議」においては人文・社会科学も含めるということになっている。したがって、どういう形で人文・社会科学と科学技術の融合を図るべきか、あるいはまた日本の伝統文化と科学技術の統合をどのようにするかということが問題になるわけだが、これは大変難しい課題である。しかし、少なくとも21世紀初頭の社会が抱えるさまざまな課題と、その中における科学技術の果たすべき役割ということについては十分討議をする必要があるのではないかということで、この懇談会を進めてきた。 
  その中で出てきた問題の一つは、科学技術というのは果たして何なのか、科学と技術、サイエンス・アンド・テクノロジーとどう違うのかという問題である。それから、それと若干関連するが、明治以来、日本がどのような形で西洋の科学技術を受容してきたのか、そこにどのような問題があったのか、あるいはまたいわゆる科学的精神というものを十分学んでいるかどうかということの問題がある。 
  科学技術基本法ができ、基本計画をつくるときには基礎科学の重要性というのが盛んに問題になった。しかし昨今、日本の経済状況が悪くなると、新産業の創出というところに力点が移り、科学技術に関する日本人の考え方にかなりの揺れがあるというのが現状ではないかと思っている。そういう中で、今後、科学技術のあり方というものを日本の歴史を振り返りながら考えていく必要があるのではないかということで、このワーキンググループを出発したわけである。 
  しかし、もう一つ視点を変えてみると、明治以来、日本は近代化に成功してきた。これはアジア諸国の中では日本だけが例外的に成功したわけである。その理由がどこにあったのかということを振り返ってみることもまた21世紀の日本の科学技術を考える上に大変重要ではないか、そういうふうに思っている。21世紀の我が国の科学技術のあり方を考える上に、やはり過去百数十年にわたって日本の科学技術が歩んできた道を振り返るということは大変重要なことではないだろうかと考えている。 
  本日は村上先生に、こうしたいろいろの問題についてまず話をしていただき、その後はごく自由に討議をしていただきたい、そのように考えている。 
   
・座長代理・  私が科学技術の歴史を専門に勉強してきて、それから日本における受容というようなことも私自身の勉強の中の一部ジャンルとして入っていた関係上、皆様方よく御承知のことだとは思うが、記憶にアンダーラインをする、あるいはそこのところだけを少しいわばアンダーラインをしながら抜粋してくるというような、これからの討議の材料になるようなことを少し申し上げたいと考えている。 
  発表要旨に従って話をするが、とりあえずこのワーキングループが、いま座長からも話があったように、科学と技術というもの、あるいは日本の「科学技術」というものが欧米の「科学と技術」という言い方と本質的にどこか違うことがあるのだろうか、あるいは我々が残してきた歴史の後づけの中で日本として考えなければいけないことがあるのだろうかということが私どものワーキンググループのテーマであるが、そこに関連するようなことすべてを網羅することはとてもできないので、とりあえず明治期、あるいは幕末から明治にかけての近代化に当たっての同じ時期の欧米と日本の場合とを多少とも比較しながら、議論の基礎になることを少し申し上げたい。 
  私は、この点では、こういう勉強をしている人間たちの中ではどちらかと言えば少数派ですが、比較的はっきりと、今私たちが考えているような科学が欧米において成立したのも実は19世紀だというふうに考えている人間である。これを細かに敷衍んしていきますととても時間が足りないので、そこは天下りにそういうふうに考えておくということにしたいと思う。 
  全く天下りでそう申し上げるだけでは無責任なので端的な事実を幾つか申し上げれば、例えば、途中にも出てくるが、ヨーロッパの大学で自然科学に集中した教育と研究をするためのインスティチューションとしての理学部というものが成立するのは基本的には19世紀である。フランスの大学でファキュルテ・デ・シアンスというのがナポレオン時代からぽつぽつとつくられているが、これを明確な理学部と訳せるかどうか。発音してもよくわからないが、ファキュルテ・デ・シアンスは複数形であるが、これを明確に理学部と言えるかどうかというのは多少問題がある。 
  資料4の中に「1830/31年から1914年までのドイツの大学の学部別学生数」という表がある。この表では、縦に年次変化が書いてある。毎年ではないが年次が書いてあり、横が大学の全体の学生数、それから神学部の学生数、法学部の学生数、医学部の学生数、哲学部の学生数というのが縦に経年変化で並んでいる。 
  注目すべき点は、1875年という年に突然「哲学歴史学部」と翻訳されているものと「自然科学数学部」と翻訳されているものとが出てきていることである。それが1875年にドイツ語圏の大学においていわば理学部と文学部が生まれた最初であるということをこの表は示している。この二つの学部は幾つかの大学で哲学部が分かれて生まれたものであるので、そういう意味で哲学部の中から新しく理学部に相当するもの、それから今の我々で言えば文学部に相当するものが姿をあらわしているのが1875年であるということに注目してほしいと思う。 
  それから、現在の私たちは「科学者」という言葉を使うが、それの例えばヨーロッパにおける各国語、ドイツ語にしてもフランス語にしても英語にしてもそうであるが、今私たちが使っているような使い方の「科学者」という語彙に相当する言葉ができるのはすべて19世紀である。つまり、そのときまで「科学者」という言葉に相当する言葉はヨーロッパ語の中に存在しなかった。これは非常に明確な事実である。例えば英語のサイエンス、フランス語のシアンス、ドイツ語のビッセンシャフト、それぞれに伝統と歴史とを持った言葉であるが、それらの言葉が今の科学をあらわすようになり始めるのがやはり19世紀であって、それまでは今私たちが「自然科学」という言葉に託しているような意味合いはシアンスにも、ビッセンシャフトにも、サイエンスにもなかったという事実もある。シェークスピアの作品に出てくるサイエンスというのを科学と訳せば、これは完璧な誤訳になると私自身は思っている。 
  いろいろなことを言われますが、少なくとも今私たちが科学と呼んでいるものがきちんとした形で姿をあらわしてくるのは19世紀である。だから当然私は、これはいろいんな人に怒られるが、ニュートンを科学者とは思ってない、哲学者だと思っている。今の「哲学者」という言葉によって表現されるものとは違いますが、哲学者だと。場合によっては自然哲学者と言ってもいいかもしれない。 
  ここで制度化されていく科学に二つの伝統があったというのが私の基本的な認識である。19世紀に科学という概念が比較的明確な形で形づくられ、それが社会の制度の中の一つとして自立していくときに受け継いだ伝統が二つあったんじゃないかと考えている。 
  一つは、先程から申し上げている哲学という領域を受け継いでいる。自然哲学を受け継いでいると言いかえてもいいと思うが、17世紀まではヨーロッパにおける自然哲学とか哲学とか呼ばれるものの本質は結局キリスト教の神の創造の実相を読み取ろうとする知的活動のことを指していたと考え、しかも、そういう知的営みというのは12世紀以来の大学という機関を拠点としてきたということになる。 
  もう一つは、18世紀から台頭したという。18世紀と書いていいかどうかわからない。こういうノウハウは実は人類の最初からあったと言えばそういうことになるので、18世紀というのはなぜ18世紀と書いたかというと、御存じのフランスの啓蒙主義の象徴であると言われているアンシークロペディー(百科全書)という膨大な百科事典がある。これが18世紀の半ばぐらいに編纂が完了した。デ゙イドロが中心になって編んだものであるが、デイドロという人は元々刃研ぎ職人の息子であり、技術者の出自を持った人であるわけだが、その出自も関係しているのかどうかわからないし、18世紀という啓蒙時代の一つの流行であったとも言えるのだが、技術の公共化というか、知識化と言ってもいいと思うが、というのがアンシークロペディーの中心的課題の一つであったというふうに考えられる。というのは、デイドロはマニファクチャーとかギルドとかへ出かけていって、そこで職人たちがやっている事柄をつぶさに観察して、それを言葉に表現し、言葉で表現し切れないところはチャートの図で、イラストレーションで表現する。したがって、アンシークロペディーというのは非常に膨大なイラストレーションである。アンシークロペディーのイラストレーションだけを集めた書物があるくらいである。日本にも実は百科全書絵引きというので、平凡社が百科事典の 100周年か何かの記念に出版した非常に厚くて大きな書物があり、膨大な絵がある。そのイラストレーションで、いわば実用化されているさまざまな技術というものを文字どおり文字化する、あるいは記号化するということを非常に熱心にやったわけである。それも一つのきっかけになる。 
  それから18世紀には、そこに書いた化学というのが、これは非常に重要な実用的学問で、錬金術からの流れをくんでいるが、化学が、アンシークロペディーだけでなくて、技術とその方法というか、手段というか、というような言葉使いが18世紀の特にフランスの啓蒙主義思想家たちの間でキーワードになるわけだが、そういうところで培われ、集められてきたさまざまな知識、シアンスというものがある。 
  ちなみに、18世紀のこういう知識人たちは、フランス語ではそのころフィロゾーフという言葉が使われたようだが、例えばダランベールのような純粋数学者のように見える人でも決して数学で飯を食っていたわけでもなければ専門的数学者であったわけでもないのであり、文学のサロンと幾何学のサロンと詩のサロン等を渡り歩きながらというような、そういう人たちが知識人であって、我々のような意味での研究者という存在はまだ姿をあらわしていないと申し上げていいだろうと思う。 
  このノウハウ的な知識というのは、19世紀、厳密に言えばフランスの例えばエコールポリテクニクがフランス革命期の最後のあたり、1790年代の半ば近くに王室の技術学校を改編する形でつくられるが、したがって18世紀の末期からと本当は言わなければいけないかもしれないが、18世紀の末ぎりぎりから19世紀にかけて次々に新設されていった技術学校というのがある。こういう技術学校を拠点にして、そういうノウハウは技術ではない知識としても教えられたということがある。 
  しかし、例えばポリテクで教えられたといわれるモンジュの画法幾何学のようなものも含め、それは数学の一部であるが、あるいは弾道学、あるいは冶金、鉱山、それから火薬の調合術、その他諸々、今で言う化学も入っていれば、数学も入っていれば、物理学も入っているが、しかし今の私たちの物理学や化学とはやや姿を異にした分野がそういう技術学校で教えられる。フランスではポリテクを初め、現在でもいわゆるグランゼコールとして知られているような技術学校、それから、ちなみにもう一つ申し上げれば、フランスはコルマンマールのような、今日で言えばどちらかと言えば人文社会系に属するのではないかと思われるような師範学校でもそういう知識は一部教えられていたようである。 
  ただし、これらは大学における学問とは厳然と区別されたものであって、大学は大学として極めて明確に自分たちの範囲を限定していたと考えて差し支えないのではないかと思う。 
  それから、19世紀半ばに科学者の共同体というのが次第に形成された。これは御存じの方は御存じだと思うが、最初は、どちらかと言えば言葉が同じの人たちが集まって共同体をつくる。だから、言葉が同じなわけだから、専門は同じでないわけである。一番最初にできたのはドイツにできたGDNAというゲゼルシャフト・ドイッチャーフュア・ナトゥアフォルシャー・エルツデである。自然探究者である。そのころのドイツ語では文字通り自然科学者に相当する言葉がナトゥアフォルシャーという言葉が使われ始めたようである。現在ではナトゥアビッセンシャフトラーという言葉がドイツ語の自然科学者に相当するが、ナトゥアフォルシャーという言葉が使われ始めて、そういう言葉によって呼ばれて、それにアルツデの複数のエルツデが加わって、医者も含め、自然探究者と医者とのドイツ連合とでもいうようなものが生まれた。 
  これに対して、フランスでも同じような組織がつくられ、イギリスで、これに刺激されてチャールズ・バベッジたちがつくったのがBAAS(British  Association  for  the  Advancement  of  Science)というもの、それから間もなくアメリカでもAAASがつくられる。これらは専門の共同体ではなくて、「科学者であればだれでも集まっていらっしゃい。お医者さんももちろんいいですよ。科学者と呼べるような人たちはとにかく一緒にやりましょう。社会のリコグニションをもらうよう努力しましょう」と、そういうたぐいのアソシエーションなりゲゼルシャフトなりがつくられたということになるだろうと思う。だからそれは純粋な意味での科学者共同体とはまだ呼べないかもしれない。それから間もなくして今度は「言葉はどうでもいいから、同じ専門の共同体というのをつくりましょう」ということになり、地質学会だとか物理学会だとかいうような専門家の共同体というものが19世紀半ばぐらいから次々に欧米でつくられ始める。多くの場合、そこに帰属する専門家、科学者と呼ばれる人たちは大学に帰属する人たちであったということになる。したがって、先程の二つのタイプということで言えば第2のタイプではなくて、第1のタイプの科学をやっていくような人たちが、科学者として社会の中で少しずつ自分たちの地位を形成していくというプロセスが19世紀後半にずっと起こっていたというふうに考えることができるのではないかと思う。 
  唯一の例外は先程申し上げた化学であり、それは産業との関連で触れたいと思うが、時代的にはほとんど同じ頃に近代産業技術というのがアメリカでもヨーロッパでも立ち上がった。第一次産業革命を経て第二次産業革命が19世紀後半だとすれば、その二つの産業革命を支えた産業技術の形成というのもこの時期である。 
  ただ、ここでときどき誤解があるのは、そういう産業技術の発展に、同じく台頭しつつあった新興的な新しい知的活動である科学というものが非常に強いサポートを与えたのではないかという誤解が時々あるが、私はそれは誤解だと考えている。つまり、少なくとも第1のタイプの科学というのは、この時期の産業技術の形成にはほとんど影響を与えていないと考えていいだろうと思っている。 
  実例を申し上げれば幾らでも申し上げられる。第二次産業革命の鉄鋼革命を起こしたUSスチールの母体になった例えばカーネギー、それから同じく、鉄鋼の後だが、電力・電気産業のほとんどすべての基礎をつくり上げたエジソン、あるいは自動車産業のヨーロッパで言えばダイムラーだとかベンツだとかオットーだとかいうような人たち、それからアメリカで言えばフォード、あるいはミシンのシンガー。誰を取り上げてもいいが、だれ一人として、大学において科学を学んだことなどはおろか、およそ高等教育とは無縁の人たちがそういう近代産業技術を立ち上げていく当事者であったわけで、彼らをして名前をつければアントルプルヌールという言葉しかないだろう。アントルプルヌールというのは企業家と訳されるが、単に企業を興すという企業家というだけではなくて、やはりアントルプルヌールという言葉の中に自らの技術革新によって企業を立ち上げてく人たちというニュアンスが時々込められているとみなすと、そういうアントルプルヌールたちが産業技術の形成を支えていたのであって、もちろん科学者ではないし、科学から強い影響を受けているわけでもないとあえて申し上げていいと思う。あるいは例えばイギリスの技術革新の最も中心的だったオイットワースというネジつくり者がいるが、これも本来職人である。 
  第2のタイプの科学はこれに寄与しているかと言うと、ここのところはやや微妙である。しかし、基本的には第2のタイプの科学が技術学校、アメリカで言えばモリル法が制定されるのが1862年だったと思うが、そのモリル法によってできたA&M(州が建てる農業学校、工業学校)、MITもその一つであるが、そういった大学の卒業者もおらず、それから、ディーゼルだけが確かTH(テヒニッシュホフシュレ)の、ドイツ語圏におけるどちらかと言えば高等教育に属する工学教育を受けた人だったと思うが、それ以外に、いわゆる産業技術を立ち上げた人たち、アントルプルヌールたちに高等教育から何らかの影響を受けている人というのはほとんど全く見当たらないという事実がある。 
  例外は化学であり、化学だけはフランスに学んだリービッヒという人が、1820年代だったと思うが、フランクフルトのちょっと北側にあるギーセンという小さな町の哲学部に就職して、そこで有機化学の分析のための知識と技術とを徹底的に訓練したというのがヨーロッパの大学における自然科学系のいわゆる研究室、ラボラトリーの一番最初の実例だと言われている。化学、薬品学の類の研究室を建てて、これはほとんど自費で建てたそうだが、そこで訓練を始めた。そこで、学生たちも偉かったのだが、リービッヒも偉かったと思うが、とにかくそこで育った学生たちが、当時の人工肥料と人工染料の社会的ニーズに非常に見事に合致した技術と知識を持ち合わせて社会の中で活躍をしていくという実例があり、化学だけは、いわば大学における化学の研究と、それから化学産業が立ち上がっていくときの基礎的な状況との間に密接な関係があるというのがよく指摘されると思う。化学は、その意味では、19世紀に既に大学において生まれた研究活動と産業技術との間に少なくとも比較的直接的な関係があるという分野として特筆すべきなのではないかと思っている。 
  基本的に大学というところは、こういうノウハウ的な知識と、それから、ましてや工学技術に関しては一切受け入れないというのが基本的な姿勢であったと思う。これも実は例外がある。これは後で話したいと思う。 
  さて、こういう状況とほとんど同じ時代に日本の近代化が始まったわけであるが、したがって時間差というのは実はそれほど大きくはないわけである。時間差が大きいのは実は大学の設立であり、もちろん日本にも大学という呼び名で呼ばれるある種の教育機関はなかったわけではないが、少なくとも欧米のユニバーシティー、ユニベルシテ、あるいはユニバシテットに並ぶような高等教育機関としての近代的な大学が設立されるのは二つ目のポツで書いた1877年の東京大学が最初であるので、その意味では、そういう組織が出来上がるのは七世紀の差があると申し上げていいのではないかと思う。 
  東京大学が今申したように1877年に設立された時に、御承知の通り法学部、文学部、医学部、理学部の4学部で出発した。ここで学部と言うのは、本当は学部と当時は呼ばなかったのは御承知の通りであるが、面倒ですから学部と呼ばせていただく。大学という制度の出発点には七世紀の差があるというのは先程申し上げた通りである。一つ前のポツのところの後半だが、「しかし、設立の形態や意図は、欧米で19世紀に生まれた技術学校に近い」と書いた。 
  つまり、ポリテクにしてもそうであり、THにしてもそうであり、それから先程申し上げたアメリカにおけるA&M(州立の農業学校、工学校)でもそうであるが、19世紀に生まれた欧米における技術学校の大半は、国家有為と言っていいかどうかはわからないが、とにかく社会に役立つ人材の養成というのが基本的に目的であった。ポリテクは言うまでもなく軍事的な国家経営をやっていくための技術者の養成であり、THの場合はドイツ語圏だから、THができる50年代、60年代はまだドイツ国家という近代国家としては形成されていなかったが、それでもやはりそれぞれの両国家の有為の人材の養成と、鉱山アカデミーにしてもそうであり、THと呼ばれているものもそうであり、それからアメリカの場合では当然ながら州立の農学校、工学校はそれぞれの州の持つ産業上の特色を生かした人材を養成するためにつくりましょうというのがモリル法の本質であったから、そういう意味では、そういう学校と非常によく似た目的と形態と意図によって設立された国立大学であるということが東京大学の特色であると思う。 
  理学部は、先程申し上げたフランスのファキュルテ・デ・シアンスを例外とすれば、ほとんど時代的に同じ時代に理学部ができているということであり、もう一つ非常に重要な特色は、当時の世界を見渡した時にということはほとんど欧米を見渡した時にということであるが、大学と名のつくところで神学部を持たない大学というのは東京大学しかない。神学部があるということは大学の基礎資格の一つであったわけであるが、これがないというのは極めてユニークな大学であったということが言える。 
  それから、日本において技術学校としては、御存じの通り工部大学校。その前の4年あたりから工部寮から始まり、最終的に1877年に工変大学校になるが、東京大学と並列させて発足する。これのオリジナルはTHであったり、それから後にETHになるスイスのチューリッヒのTHであったりするテクニクルが、当時ポリはなくテクニクルだったが、オリジナルになっているが、しかし、日本の工部大学校というのは、その設立に携ったヘンリー・ダイヤーや山尾庸三らの努力で、当時の欧米にない特色を備えていたということがしばしば指摘される。 
  その欧米にない特色を示すために、資料中の「NATURE(1877. 5.17号)」の記事を見ていただきたい。 
  これは大変面白い。1877年だから工部大学校ができた年である。「NATURE」という雑誌は、実は発刊されて10年足らずで、当時まだ今ほど有名ではなかったが、そこにこういう記事が出ているということは、ある意味ではちょっと驚きだと思う。この記事「ENGINEERING  EDUCATION  IN  JAPAN」はだれが書いたのか、C.W.Cというのはどうしてもまだわからない。どなたか知っている方がいらしたら教えていただければと思うのだが、ヘンリー・ダイヤーが何らかのニュースソースであったことだけは多分確かだろうと推測されるが、C.W.Cという頭文字だけの記事である。この記事が非常に面白いのは、技術教育がイギリスはだめである、まずだめであるというのが最初の段落である。要するにプラクティカルなことに関わってしまっていて、とにかく一日工場で働かせてしまって、一日働いてくたびれてすっかり力をなくしてから学校へ来たって仕方ないというようなことが最初に書いてあり、じゃあ大陸はどうかというのが第2パラグラフで、大陸もだめだと書いてある。こっちは“teaching  the  theory  and  discarding  the  practice”という、今度は実践をすっかり忘れてしまっていると言うわけである。セオリーばっかり尊重していると書いてある。そして第3段落目で、“While  England  is  so  far  behindhand  in  this important  question,  a  great  work  has  been  done  by  the  Japanese  Goverment  in  the establishment  of  an  Imperial  College  of  Engineering  at  Tokei,”  
  important  questionというのはENGINEERING  EDUCATIONである。Tokei と妙な綴りになっているが、これは東京と読んでおいていいと思うが、工部大学校をImperial  College  of  Engineeringと訳しておりまして、それが設立されたということは極めて注目すべきことであるというふうに書かれて、あと以下、詳しくそれが紹介されている。明治10年だから、まだ日本なんていう国をそれほどどこも注目していない時代にこういう記事が「NATURE」に載ったということ、それ自体もいささか面白いと思うが、技術教育という面で日本が非常に注目されているということが面白い。 
  次にもう一つ、これはヘンリー・ダイヤーが書いてある同じく「NATURE」に投稿した記事を引いた。これはEducation  and  National  Efficiency  in  Japanというので、御存じのようにダイヤーは日本から帰った後、「the  Britain  of  the  East」という随分しょったタイトルだが、非常に分厚い本を書いて、この中で日本の紹介をしてくれているわけであるが、そのダイヤーが「NATURE」に寄稿した、これは後ほど、1904年だから明治37年になる。つまり、日露戦争で日英同盟が締結されるころであるから日本とイギリスの関係が非常によかった時代ではあるが、なぞらないが、後でちょっと読んでいただくと、当時の日本がどんなふうに見られていたかということがわかる。日本びいきのダイヤーが書いていることだから割り引きはしなければいけないし、逆に言えば自分のやったことを賞賛していることにもなるわけだが、なかなか面白いと思う。 
  ちょっとだけ引かせていただくと、こんなことが書いてあるのが目につく。読み取っていただければ幸いだが、“The  inventions  and  improvements  which  have  been made  by  Japanese  officers,  engineers,  and  scientific  men  disprove  the  charge  which is  very  often  made,  that  the  Japanese  have  no  originality.”という文章がある。もう既にこのころに日本人はオリジナリティーがないという非難がしばしば行われていて、日本で達成された事実を見ればそれが全く間違っているということが証拠立てられているではないかというふうに書かれているというところなどはなかなか面白いと思う。 
  その後に何が書いてあるかというと、“no   Japanese Newton,   Darwin,  or  Kelvin  has  yet  arisen”と書かれてあり、ニュートン、ダーウィン、カルビン、これはある意味で純粋、先程の常識的分類に従えば第1のタイプの科学に属する、そういうところではまだ日本のそういう人物たちは出てきていないよというふうにダイヤーも言っており、ここで達成されたインプルーブメントとかインベンションというのはいずれも、どちらかと言えば、engineers 、officers 、そしてscientific  menというのが後ろからつけ加わっている。そういう順序になっているということにもやっぱり注目しておくべきかもしれない。 
  それで、いずれにしてもダイヤーは、この時、彼は本当のイングリッシュではなく、グラスゴーから来ているわけであったが、いずれにしても日本の工学教育というのを立ち上げた時に、いわば当時としては理想的な工学教育を工部大学校でやろうとしたというふうに考えられる。実際その教育はかなり成功したと言えると思う。例えば高峰譲吉とか、それから火薬の下瀬雅允とかいうような人たちが初期の卒業生から輩出するわけであるからその意味では非常に成功したんだと思われるが、その成功は東京大学に吸収されることによって1886年に東京大学の一部局に工部大学校がなる。私、ちらっと意地悪く東京大学の内部資料などをいろいろ調べたのだが、少なくとも私が調べた限りにおいては東京大学の側に違和感は全くないと申し上げていいと思う。実は、詳しいことは皆さん御承知の通りだが、この年に大学令が改定されて帝国大学になるわけだが、つまり、工学部が自分たちの仲間になるということに対して違和感はほとんど全く私の探した限りでは見つからなかった。 
  実は、これはもう4年程すると駒場農学校、つまり先程申し上げたアメリカのアグリカルチュラスカレッジに相当するものとしてつくられた駒場農学校が東京大学の農学部に合併されるわけだが、その時には、これは余り表資料にできないようなある種の談話みたいなものの中に、「ああいう人たちが我々の大学としての仲間に入るのか」というような、ちょっとしたそういう文言の断片を見つけ出して、少なくとも農学校に対してはやや東京大学というか、帝国大学の側に「へー」という感じがあったということを思わせるような資料がなかったわけではない。 
  そこにフェリックス・クラインの例というのを書いた。これは御存じの方がいらっしゃると思うが、ゲッティンゲンにいたフェリックス・クラインという有名な数学者、エルランゲンプログラムなんかをつくった人だが、フェリックス・クラインという人は教育行政にも大変関心のある人だった。彼は一時期、ゲッティンゲン周辺でTHを大学に昇格させる運動を随分やったわけである。つまり、場合によってはゲッティンゲン大学と合併させてもよいというようなプログラムを立てていろいろ大学とTHとの間で交渉をやったが、結局実らなかった。それは大学の側からはもちろん非常に強い拒否があった。これは自然にわかるわけだが、THの側からも、大学になると確かに学位授与権は手に入る。言うまでもなく、学位授与権はTHにはないし、エンジニアという称号しか与えられなかったわけだが、ちなみに、実は哲学部も長い間、学位授与権がなかったが、学位授与権があったのは上級学校である神学校と医学校と法学校であって、哲学部は大学の本体ではあったけれどもドクターは出せないという状況が続いていたのが、18世紀の終わりから19世紀にかけて次々に少しずつ改善されていくという状況があったと思うが、工学校はもちろんなかった。学位授与権が得られるのはいいとしても、そのために必要量なさまざまな、例えばラテン語ならラテン語だとか神学だとかいったようなものを工学校が準備しなければならないというのは、逆に言って自分たちの活動が縛られることになるので、まっぴらごめんだという反応も工学校の中にはあったようである。そういうわけで、フェリックス・クラインの努力は結局実らなかった。クラインは確か電気工学というのをゲッティンゲンの大学に課程としてつくったというのがほとんど唯一のそこで得た成果であったというふうに言われている。いずれにしても、この時期の欧米の総合大学で工学部、ましてや農学部を持つような大学は存在しなかったというのが実情である。 
  ちなみに申し上げるが、アメリカの先程のA&Mは大学ではなかった。後に州立大学になるが、州立大学のほとんどの出自は、今でもフロリダあたりにはアグリカルチャー・アンド・メカニカルユニバーシティー・オブ・フロリダとか何とかいうのが残っているが、今をときめくカリフォルニア州立大学も含めて、それらは結局こういう地域産業に根差したものが大学に昇格していくというのはその後の歴史をたどることになる。 
  そこに、念のためということで、Lawrence  Science  Schoolという実例が引かれている。これは19世紀の半ばぐらいにローレンスというお金持ちが寄附をしてハーバードにサイエンススクールをつくるということを行った。このとき寄附者のローレンスの指示は、どちらかと言えばエンジニアリングの世界の課程をつくってほしいという要求を寄附者としては出していた。ところが、そのときに実際にこのサイエンススクールを発足させるに当たっていろいろ奔走したのが実は例のアガシーという生物学者である。アガシーというのは日本へやって来たエドワード・シルベスター・モースのアメリカにおける先生だった人であるが、そういう人たちが寄附者の意向を換骨奪胎させてしまい、どちらかと言えば実用的な意味のあるのは化学だったが、化学を始めとする文字通りサイエンスのスクールにしてしまった。こういう例はほかにもある。イェールにもあった。 
  例外はフランスの地方大学であり、フランスの地方大学は工学部を持たない。さすがに学部という組織は持たなかった。ファキュルテでもなければ。しかし、しばしば、例えばフランス語でアンシーニマンという言葉がある。課程とでも訳せばよろしいのだろうか。ブザンソンではアンシーニマン・シュール・ドロノジー、時計学である。時計の設計とか、そういうものをやる課程。それからボルドーは、よくおわかりと思うが、フェルマンタシオン、醸造学という。発酵学のアンシーニマンができたり、それからリオンにはエコール・フランセーズ・ドゥ・チャネリー、なめし皮である。皮なめしの技術を教えるフランス学校というものが併設されたりして、これもやはりそれぞれの地方の産業に根差した技術教育をする課程というものを大学にぽつん、ぽつんとつけ加えていくということはやっている。グラスゴーには造船の課程があり、日本から山尾庸三が行った時には、山尾庸三ばっかりじゃないが、多くの人たちがそこに留学している。そういうふうに幾つか課程ないしはスクールというのが実現しつつあった。しかし、基本的には工学部という他の学部とイコールフッティングな組織としての学部ないしはそれに準ずるものというのは、この段階では、どこを探してもないと申し上げていいと思う。 
  東京大学ができてから20年たって京都大学ができるが、京都大学は最初から工学部を備えていた。これも面白い事実だと思うのは、京都大学はちょっと調べなかったが、初期の工部大学校、東京大学工学部への進学者の出自を調べてみた時に気がついたことであるが、80%近くが士族の出身である。医学部、法学部では大体50%弱、40何%というのが大体の数字であったので、これはやはり異様に高いということが言えるように思う。彼らは下級士族だから、明治維新によって生活の基盤を失った人たちである。そういう外的な事情もあったとはもちろん思うが、本来、知的エリートを生み出すべき士族たちの間に、国家建設に尽くそうという目標で工部大学校なり大学に入ってくるというのがこうした人たちの意識だったのだろうということになる。彼らは技術や工学に全く偏見を持たなかった。しかも、大学教育を受けた技術の分野の人材が行政や産業や教育などのセクターに吸収されていくという状況は、これもまた欧米にはこの時期には見られない。学士号を持った人たちが文字通り行政、産業、教育などの社会セクターにそのまま吸収されて、そこで働くということが日本における19世紀後半の非常に重要な特色である。 
  欧米での例えば理学部における卒業者がどこへ行ったかということを考えてみていただければすぐおわかりになると思うが、19世紀後半にはまだ理学部卒業生の就職先というのは絶無だと申し上げていいと思う。先程の化学産業が多少のリクルート先であったということは言えるかもしれない。それから、もう一つ重要なリクルート先は度量衡局ないしは標準局と呼ばれる政府の部局であった。アインシュタインが工学部を卒業して就職先がなくて、特許局に技師として勤めていたというのは有名な話だが、要するに当時、国際的・国内的にも、度量衡の整備だとか、単位の整備だとか、それから電力における標準だとか、さまざまなそういうことを定めていかなければならない、あるいは管理しなければならない。日本で言えばいわゆる試験場のようなものである。今、国研と言われているものの前身であるが、といったようなところにはわずかに就職先があったようであるが、ほとんど就職先はなかった。大学の教師になるだけということになる。さもなければ中等教育。フランスにおけるリセだとかドイツ語圏におけるギムナジウムだとかいうようなところの教師になる。しかし、おわかりだと思うが、まだリセやギムナジウムでは理学教育というのはほとんど行われていない。だから、そんなに販路があったわけではない。 
  特にイギリスの場合はそれが貧しかった。今でもある意味でそうかもしれないが、イギリスの中等教育というのは非常に独特で、大陸と比べても独特だと思うが、根本的に制度化されているとは言えない側面がある。ですから、フランスにおけるリセとかドイツ語圏やスイスにおけるギムナジウムのような形の制度化が行われなかったということがイギリスの特色だと思うし、それがパブリックスクールというような文字通り私立学校の中での紳士教育という方向で中等教育が行われているということ、つまり大学の予備門とは必ずしもなっていないという中等教育の影響がいまだに多少残っているようにも思うが、その意味では、日本では中等教育も含めて、教育のセクターにも大学出というのがどんどん出かけていくということがルーティン化されていたということも非常に早い時期の日本の特色だと思う。 
  では日本にはアントルプルヌールがいなかったかというと、探せばいないことはない。例えばそこには田中久重を書いた。芝浦製作所をつくったのは二代目で、いわゆるからくり儀右衛門の養子だが、とにかく江戸時代からの職人の伝統、巧の伝統の中から生まれたアントルプルヌールが結果的には大企業へと発展させるような産業技術の担い手になるということはないわけではない。豊田佐吉もここに挙げるべきかもしれないが、しかし、日本の産業の勃興者というのはどちらかと言えば経済で成功した人たちが、そのお金を使って産業をつくり上げていくというのが基本的パターンだということも、これもまたちょっと注目しておいていいことかもしれない。 
  古河を書いたが、古河というのは鉱山も含めて、どちらかと言えば工学系の企業をたくさんつくった。それが足尾の悲劇なんかも生むわけだが、古河市兵衛自身は生糸商人で儲けたわけだから、彼自身が何かエンジニアの技術的イノベーションで産業を立ち上げてきたわけではない。 
  そういう意味で言うと、先程も申し上げたように、まず日本の明治期の大学のあり方そのものが、ちなみに、これも言うまでもないことだが、1918年ぐらいまでは私立学校は大学と名乗ることを許されていなかったので、少なくとも今私がここでカバーしているような時期には大学と言えば東京大学と京都大学しかない、あと東北大学が出てくるというぐらいである。欧米の大学のあり方、アメリカの大学といってもいわゆるアメリカの本格的な本来の大学、今で言えばアイビーリーグと言われているような大学、つまりハーバード、プリンストン、イェール、コロンビア、ダートマス、ブラウン、ペンシルバニアといった植民地時代からの伝統のある大学はすべてヨーロッパの大学であり、ミッショナリーの経営だから神学部をもちろん持っている大学だが、そういう大学とヨーロッパの大学と日本の大学とを比べる時に明確に違うのは、日本の大学の出発点そのものが既に、19世紀の高等教育組織と言っていいのであろうか、欧米で19世紀に生まれた学校と非常によく似た、つまり国家経営のための技術者の養成ということを大学が目指しているというポイントが一つどうしてもこれは明確にあるということが言えると思う。これは当たり前といえば当たり前で、今さら強調するまでもないことである。そして、そこで教えられる学問内容というのは、第1の科学、第2の科学、そして技術の区別がほとんどなかった。これが言ってみれば、もう一つの非常に明確なポイントである。 
  もちろん区別が全くなかったかというと、理学部があって工学部があったのだから、理学部でやっていることと工学部でやっていることとが違ったはずであるが、当時工部大学校で使われた教科書と東京大学の理学部で行われた教科書を比較検討してみると、物理学、当時の言葉使いでは究理学であるが、究理学という面からだけ見ても、実は工部大学校で行われている教育内容の方が東京大学理学部の教育内容より程度が高い。これは電気なんかについてはもっとそうである。ということは、第1の種類の科学に関してさえも、工部大学校の教科内容は東京大学理学部を凌駕していたとさえ言える。結構そういう評価を下す人が教育学者の中にも多いが、という点から見ても、今、例えば私の知る限りでは東京大学では、理学系と工学系でよく似たことをやっていて、必ずしも仲がよくなくて、必ずしも自分たちの守備範囲をここからここまでと言わなくて、言うとけんかになったりしてというような実情があるが、既にそういう意味では相互乗り入れというか、明確な、ここからここまでは第1のタイプの科学ですよ、ここからここまでは第2のタイプの科学です、ここからここまでは工学ですよというような分類、分担はほとんどないのではないかと言うと少し極端かもしれないが、少なくともこの時期にそういう明確な区別はなくて扱われているというふうに私は読み取れると思っている。その意味で、京都大学のことについては余り勉強したことがないので大変申しわけないが、いろいろ別に教えてほしいと思うが、少なくともこの時期の東京大学と工部大学校の関係というのはそんなところであったのではないかというのが私の最終的な結論である。 
  その意味で、日本の科学は最初から神学とは縁を切っていた。だから、最初に申し上げた欧米の伝統の中における神学的哲学を背景にした学問というような意味での、その流れをくむ科学というのはほとんど全く理解がないというか、そういう形で科学を理解するということはあり得ない。それから、ヨーロッパの大学の中では非常に厳しく拒否されてきた第2のタイプの科学というものと第1のタイプの科学というものとの間の区別も、したがって、それほど明確にはならない。さらにそこに工学が加わって、これがいわば国家有為の人材、あるいは国家経営に対して必要な知識とノウハウというものにいわば収斂されるような目標のための教育であり研究であるというのが基本である。 
  もちろん、言うまでもなく、世の中から隔絶したような研究というものが全く無視されていたわけではなくて、例えば要旨上における野々宮ソウハチだとか、つまり当時の理学の世界が逆に、ちょうどイギリスにおけるロイヤルソサエティーに集まった人たちが一般の人たちから揶揄されていたように、「何か変なことをやっている人たちがいるよ」というような感覚で受けとめられるということはあったに違いないと思うが、そして、そういういわば第2のタイプの科学や技術とは全く無縁のところで理学というものを面白いからやるという、いわばcuriosityというふうな研究をやろうとしていた人がいなかったというふうに申し上げたいわけでは全くない。そういう人たちも確かにいたわけであるが、社会の中で受けとめられる科学というのは、やはり今申し上げたような性格を持っていたのではないかというのが、ここにおける私の最終的な結論である。 
  そして、その結果はどこへ行ったかというと、日本における大学の工学系の学生の比率の高さというのは今日でもほとんど世界に類例を見ないというふうによく言われる。先程引きました「NATURE」の次のページに英語の資料としてつけてある。ちょっと古いテーブルで申しわけないが、大勢に影響がないので、これは文部省がつくったものから単に英語に直しただけのものであるが、Enrollment  by  Department  Groupsというふうになっているが、1975年から1990年ぐらいまでの学部別登録学生数の経年変化である。その消長は余り意味がないので比率だけを見て取ってもらえればいいが、日本の大学生の大体70万人から80万人近くが社会系、商学部、経済学部、法学部、経営学部、その他である。その次の実線、35万人から40万人近くを推移しているのがエンジニアリング、工学系である。そして、Natural  Sciencesというのは理学系であるが、それがドッテッドラインである。一番下に点線があり、破線と一緒になっているが、破線は農学系である。ほとんど農学系と重なっているので大体5万人ぐらいで推移している。こうして見ると、理学系が5万人、工学系は少し大目に見積もると40万人近くということになって、理学系に対して工学系が8倍近くの比率を占めているというのが日本の現状である。理学系と工学系は、先程申し上げたように、日本の大学の場合に明確にヨーロッパの理学と工学とに分けているということと対応するかどうかさえ問題であるが、そういう点で、日本の知的社会がいかに工学的学問というものに対して寛大であったという言い方はよくないかもしれないが、理解があったという事実は、こういうことによっても傍証として考えることができるのではないかというふうに思う。 
  結論は、そういうことで、日本は近代化の出発点から、ヨーロッパにおいて科学というものがどういうふうに成り立っていたか、それから技術というのはそれとどういう関係にあったかということの歴史的に了解されてきたこととはほとんど無関係にと敢えて言えると思うが、その有用な部分を取り入れて、それが日本を支えてきたんだというのが私のここにおける、ほかにももちろん申し上げたいことがたくさんあるが、問題提起とさせていただきたいと思う。 
   
・座長・  主として19世紀以降の欧米の大学あるいは科学技術と、それから日本のを対比して大変わかりやすく話していただいた。 
  京都大学は第2の帝国大学としてつくられたが、一番最初に明治30年に理工学部ができている。理と工が一緒である。例えば化学だと最初一つの学科であって、それが、ちょっと今正確には覚えてないが、10年余りしてから工と理と分かれて、両方に分かれているということである。それから、九州大学がやっぱり同じような形で、理工学部として最初存在した。東北はちょっと特殊で、理学部が先にできて、次に工学部ができたのではないかと思う。しかし、大体において理と工がほとんど一緒になってできているというのが日本の大学の特徴で、東京大学は工部大学校があったから少し違うと思う。 
   
・委員・  それは人文系も最初そういう傾向があった。もちろん京都大学は最初からちゃんと法学部ができていたが、法文学部というのがどっちかと言うと普通のパターンかもしれない。 
   
・座長・  戦前でも、戦後はよくたくさんできたが。 
   
・委員・  帝国大学もそういうところが多い。 
   
・座長代表・  これはむしろ先生にお伺いしたいが、出発点は法務省管轄の法学校だったんですね、東京大学の法学部は。 
   
・委員・  二つ。一番最初に司法省法学校が明治7年で、それで東京大学の方は明治10年。先程の工部学校が合併された時と同じ年に司法省法学校が吸収されたわけである。 
   
・委員・  今日はサイエンスの伝統に二つのソースがあるという話だったが、これがその後ユニファイしたわけであるか。神の創造の実相を読み取ろうとする伝統と、それから実用的なものから出てきた伝統と、それがヨーロッパではサイエンスとして一つにまとまったのか。 
   
・座長代理・  理念上は今でも多少区別があるかもしれない。例えば最も典型的なイギリス・オックスフォードなんかへ行くと、やっぱり第2のタイプの自然科学をやることを潔しとしないような自然科学者に出会うことができる。ただ現実には、今そんなことは言ってられないという意味でユニファイされていく方向を認めつつあるということは確かだろうと思うし、それから、これは現代に起こっている、ここ数十年に起こっていることで、これは別の機会に申し上げたかもしれないが、まさに国際的レベルで起こっていることは、そういう純粋に面白がってやるような科学ばっかりではなくて、最初にミッションありきというような科学研究の姿もかなり欧米でも当然あって仕方がないというか、あるべきものだというか、どっちのタイプの反応もあると思うが、それも科学として認めようよという方向では、もう抵抗する人はないのじゃないかと思うが。 
   
・委員・  科学技術という言葉に関連して、これは日本独特の非常にあいまいな概念だという批判をよく聞く。ヨーロッパ等ではサイエンスとテクノロジーというのは全く別のものだ、インテグレートしたようなものはないというのがよく聞く説明であるが、この歴史を見ると、むしろ二つを一体にしたものの方が現実であるような今日の説明であったように感じるが。 
   
・座長代理・  私の反応を率直に言わせてもらえば、少なくとも今、欧米の人たちも、それを明確に区別できるとは思っていないだろうと思う。一般論として言えば、これは非常にわずかな例しかないが、アメリカから来た日本語のわかる研究者が私にいみじくも言ったのは、「日本語っていいね、科学技術と言えるからね。我々はどうしてもサイエンス・アンド・テクノロジーと言わなきゃいけないので、何となく日本語の科学技術という言葉の持っている全体性、包括性みたいなものを表現するのにちょっと何か違和感が残ってしまうんだけれど」。ということは、でも、逆に言えば、歴史的に見れば明らかに二つの違ったものをアンドでつないでいるという意識は彼らの中には常にあり続けると思う。 
   
・委員・  現在の理学部と工学部の関係であるが、化学の分野では非常に接近している。ほとんど差がないと言っていいかと思う。物理学では物性論の関係の人は同じような状況だと思う。ただ、素粒子論など非常に原理的な分野があるので、そういうところはやっぱり工学部ではやっていないというような感じである。 
   
・委員・  二つ程伺いたい。 
  一つは「NATURE」に出たC.W.Cが書いた最初の方のページであるが、日本の工部大学校のカリキュラムというか、教育体制の説明がしてあり、6年間あって2年ずつ三段階で行うと書いてある。それが日本語ではどう言うのかわからないが、このNATUREの記事では第一段階の2年間がジェネラルサイエンティフィック、それから第二段階がテクニカル、第三段階がプラクティカルというふうになっている。それで、サイエンティフィックのところでは数学とか英語とかも含めていわゆる理論的な初歩の勉強をして、それから技術の勉強をして、そしてプラクティカル、実習とか実質的な応用という意味であろうか。そういう形で三段階に分けていて、そして日本のおもしろい特徴のある教育体制として紹介されているが、よく考えたら、この三つの分割というのは、古代ギリシャ人が人間の行動を三つに分けて、見ること、つまり理論の原語になっていますテオレインという見るということ、それからポイーシスとかテクネのレベルである、つくるという行動、それからプラークシスという為す、行うという行動。この三つの行動の分割にぴったり合っていて、そして、それがヨーロッパでは学問の基礎になったわけである。そうすると、かえってこれは非常にヨーロッパ的な学問というか、教育の分割にむしろぴったり沿っているのではないかという疑問が出てくる。だからヨーロッパのテヒニッシュホフシュレとかではどういう教育体制あるいは教育の段階になっていたのかというのをちょっと教えてほしい。 
  もう一つは、先生のレジメの1ページ目で、これはとても面白かったが、近代産業技術の形成過程と科学の制度化というか、成立とが時代の上では重なっているが、その発展に科学はほとんど寄与していないと教えてもらったが、これは、こういうことがあるからこそ、こういうことが背景になって例えば19世紀以降、今度は思想とか哲学の方で理論と実践の関係とか、あるいは科学における原理的な研究と応用研究の関係とか、あるいはひょっとしたらもう少し古い話かもしれませんが、医学における基礎と臨床というような、何かこういうテオリーエンプラークシスという、ああいう議論はこういう背景があって出てきたのか、あるいはまたそれとは全く関係のない純粋に思想的な問題なのかということであるが。ちょっとその2点を教えていただきたい。 
   
・座長代理・  話していただいたことは大変面白くて、この三つの段階というのが古典的な学問観に相即しているというのは気がつかず、ちょっと考えさせていただきたい。面白い示唆をいただいたと思う。 
  具体的にTHなんかではどうだったかということは、これはアネボルトという人がユニバシテット・テフィニッシュホフシュウント何とかという大変浩瀚な分厚い本を書いており、ここの中に非常に見事に書かれているので場合によってはそれを紹介すればいいかと思うが、基本的にはここでは赤羽製作所の例が出ている。大変面白いのは、サンドイッチカリキュラムとよく言われる。これはいろいろ批判する人もあって、本当にそれがうまくいっていたかどうか、ここで言われているほどうまくいっていなかったよというふうに実証研究もないわけではないが、とりあえず理念としてはサンドイッチカリキュラムと言われていて、基礎的な原理を勉強して、実践活動をやって、もう一回もう少し原理的な話に戻っていって完成させる。その実践活動へ行く時に施盤だとか実際に手を動かして技術を習得したり、あるいは習得しないまでも実際にやってみて、これがどうしてこういうふうに動くんだとかいうようなことを学んでいく現場の体験というものをさせるために赤羽製作所というのをつくっているわけである。 
  例えば、ここで言うヨーロッパのコンチネンタルシステムというのはそういう部分がほとんど全くない。ポリテクでもそうであるが、製図をさせるとか、それから測量まではやる。例えば三角測量みたいなことまではやるが、現実に工員さんがやるような仕事におりてはいかない。それがヨーロッパ系の技術学校の特色だと思う。逆にイギリスの方はそっちばっかりやっているというのがここでの議論である。もしかしたら理念としてはヨーロッパの古典的な学問のやり方にぴったり沿っているかもしれないけれども、少なくとも技術教育に関してはヨーロッパもイギリスもそれを実践してはいなかったということになる。 
  これを計画したのがダイヤーで、ダイヤーの基礎的な教育というのはやっぱりヨーロッパで受けているわけであるから、その意味ではヨーロッパの本格的な学問理念が念頭にあったと言っても間違いではないかもしれないが、少なくとも、じゃあそれが実践されていたかというと、ヨーロッパでは大陸でもイギリスでも実践されていなかったというのが事実だと思う。 
  それから2番目の問題は、理論と実践の分離がこういうことがあったから行われたのかと言われれば、それも大学と、それから企業研究所、それから先程の度量衡的な日本で言えば国立試験研究機関と呼ばれていたようなものである。ああいうところで行われていたこととはやっぱり少し違うように思う。少なくともヨーロッパやアメリカの伝統的な大学に限って言えば、やっぱり応用というところへはなかなか走りづらい。応用までやるんだったら、それはどこかに任せておいて、自分たちは原理のところを追求しましょうという。例えば19世紀の終わり近くにドイツ語圏に、ドイツであるが、フィジカリッシェ・テヒニッシェ・ライヒサンシュタルツというPTLという組織が生まれた。これは第1の科学と第2の科学と工学とをひっくるめて、そして研究する。しかも応用研究までやる。最終的には現在のマックスプランクに行くわけであるが、そういう組織が19世紀のほとんどぎりぎり終わりにドイツでできる。でも、これは大学でできないからそういうものができた。だから、日本は違うが、少なくとも大学という組織ではなかか応用科学というものに走ることに対しては常にブレーキがかかっていたということは事実だと思う。 
   
・委員・  それで工学部が入れない。 
   
・座長代理・  入れない条件でもあると思う。 
   
・委員・  二つ教えて欲しい。一つは、私の学生の頃、いわゆる理工系振興ということで、工学部の講座数が非常に増加したと記憶している。あれは、世界的な風潮だったのだろうか。二つ目の質問は、先生の今のお話では、医学が触れられていなかったが、臨床医学は第1と第2のサイエンスのどちらに分類されていたのか。 
   
・座長代理・  理工系振興に関しては私は非常に明確なデータを今持っているわけではない。むしろ科技庁の方で持っていればと思うが、少なくとも工学を猛烈に尊重しよう、大学も工学系の大学をたくさんつくろうというキャンペーンをやった。もともと途上国というか、先進国でない国々は工学系から始まるというのは割合常識的な立場である。やっぱり国家有為の人材をつくるために工学系でとりあえずまずやっていこうと。それでも中国は、私は統計を正確に持っていないが、同僚の中国の研究者に聞いた話では、その人が教えてくれた数字をそのままお伝えすれば1対4ぐらいである。韓国が今、猛烈に工学系の大学を増やしている。大学として工学系というのをものすごく力を入れている。ただ、日本が先程先生が言われた理工系振興と言いつつ工学系を非常に増やしていったという時期に世界的に見て同じような現象が起こっていたということは、私の関係する限りでは、日本ほど露骨なブームは起こっていなかったんじゃないかと思う。 
   
・座長・  資料3の表を見てもらうと、日本の工学部の増加の数が枠の中に書いてある。詳しいのはもうちょっとこのデータがあるが、やはり戦争中に一度増加があって、それから昭和30年代の高度経済成長期にもう一度バッと増やしたということだろうと思う。ヨーロッパの方は私は知らないので、どなたか御存じであれば。 
   
・政策委員・  戦後初めて理工系学生増募ということを言いだしたのは、たしか昭和32年ぐらいである。32年ぐらいの時に理工系学生増募 8,000人計画というのを立てた。その背景には産業界の非常に強い要請があった。それにすぐ続いて昭和35年から所得倍増計画がスタートした。その所得倍増計画で理工系学生が今のままでいくと17万人も不足が累積をするから大変だという話から急激な拡充が始まる。私学の拡充がその時点で自由化されたから、それまでは、国立中心の拡充だったが、所得倍増計画の時から私学中心の拡充になる。欧米でも1960年代に入ると高等教育の拡充が政策課題になってくる。例えば1963年にはイギリスのロビンズリポートが出る。その教育計画の中にはやはり理工系の人材養成が大きな要素としてあったことは確かで、イギリスですとポリテクニクとか、ドイツのファッハホホシュレというようなものができてくる。ですから流れとしては同じ流れにあったけど、日本の場合には私学の存在があるから量的にはドラマティックに増えた。 
   
・座長代理・  今の大崎先生の発言で思い出したが、言われたようにドイツでTHもTUになっていく。ほとんどが、スイスのETHLとETHZというロザンヌとチューリッヒのTHだけが今でもTHと名乗っているが、THと名乗ったところはほとんど現在TUになっているので、その意味ではドイツ語圏における工学系というのは大学の中でワッと増えているはずである。THを大学の中に入れないとすると大学生としては、Hの大学生がUになったために非常に増えているということが統計上は出てくるはずである。 
  それから、その次の質問、少なくともヨーロッパの医学部で臨床と基礎の対立よりは内科と外科の対立がとりあえずあったということが、まずは出発点じゃないかと思う。外科医というのは大学の医学部の正式なスタッフにはなかなか入れてもらえなかった。それは技術職人であるという判断で、外科医は大学の医学部に必要であるということは認められていた。解剖するにしても、いろんなことをするのに。例えば16世紀、17世紀ぐらいの医学校の絵を見ると、メスを持って解剖しているのはスカートみたいな膝上のワンピースを着て、ひもで腰を縛っている人である。大学の正式スタッフというのは必ず足を出してはいけない。黒いトーガというのを着なきゃいけないことになっているわけである。そうすると、外科的な仕事をしている人は大学の正式な職員でないということを服装でちゃんと示してあるわけである。彼らはいわば職人であり、技術者である。もともと外科医というのはギルドから生まれてきた理髪医だから、大学のスタッフの中にはなかなか入れてもらえなかった。外科医たちは猛烈な挑戦をするわけで、医学部でおれたちの方が人体についてよく知っているではないかという挑戦をした。ヨーロッパのすべての学校とは言わないが、ほぼ大体すべての大学の医学部で内科医と同じだけの給料がとれるようになるのが18世紀の終わりから19世紀の初めぐらいだと思う。アッカクネヒトという人が「パリ病院」という本を書いていて、それはいかに外科医たちが内科医に闘いを挑んでいったかということの歴史みたいなところを書かれているが、そういう意味で、しかも外科医が本当の意味での医者として、医師として尊敬されるようになったのはだれかと言ったときに、恐らく19世紀の外科医たちがそうだったのではなかろうかというふうに言われている。これは臨床と基礎という現在の区別とはちょっと違うが、性格的には似たようなところがあるわけである。技術者として人体を扱うのか、それとも医師として人体を扱うのかというところで。その意味では、先程科学の世界で理論と実践かという区別から言えば性格は少し違うが、パターンとしてはちょっと似たところがあると思う。 
   
・委員・  その内科を中心とした臨床医学は、患者さんを治療するという応用面がありながらも、第1のサイエンスとして認められていたと理解してよいか。 
   
・座長代理・  例えばドイツにおける最初の物理学の教授というのはヘルムホルツだが、ヘルムホルツは医者だった。なぜかというと、物理学の教授なんてあり得ない。19世紀の半ば過ぎなのでフンボルト流の大学であるから、とにかくドクター論文を書いた上にハビリタチオンシリフトを書いて、大学にいられるようになって、そして正式の大学教授として任用されるまでプリバットツェントでいなきゃいけない。そういうプロセスをたどっていくときに、物理学でそんなことできないわけであり、だれも例外はいない。ヘルムホルツはもともと医者として、そういう手続を経た上で医学部のスタッフになれていて、教授職をとっていて、それが耳鼻科的な仕事をしながら音波の研究に入り、さらにもっとより一般的な波動の研究に入って、そして物理学的な波動、波についての物理学理論を打ち立てることによって彼は転向していくわけである。そして、そのハビリタチオンはあくまで医学部のハビリタチオンでいながら大学にいられるという資格は、医学部でいながら新設の理学部の物理学の教授として任用されていくという結果になるものであるから、その意味では、言われたように、内科的な仕事の中から文字通り物理学が立ち上がっていったというようなところが非常によくわかるのじゃないかと思う、その実例で言えば。 
   
・座長・  現在でもイギリスでは内科の医者はドクター、外科の医者はミスターと言う。それで、外科の医者はミスターと呼ばれることを誇りに思っていた。医学部を卒業すると「ドクター・・」というふうに呼ばれるわけである。今は医学部を卒業するとMDだから。ところが、外科の専門医の資格を取るとまたミスターに戻る。「おれは今度ミスターになったんだ」と威張っているという、これはきっと今言われたような昔からの伝統であろう。 
   
・委員・  1点だけ意見を伺いたい。読んだばかりなので印象に残っているが、竹内洋先生が、『学歴貴族の栄光と挫折』という大変面白い本を出された。旧制高等学校の特異な教養文化というものの歴史上の評価をしているユニークな本である。 
  その中にちょっと挑発的に書いてあったことがあります。それは初期の東京大学と、帝国大学令ができた東京帝国大学とは、名前が一緒だから東京大学と帝国大学と同じものと思いやすい。初期の東京大学というのはあったが、評価が不安定で、就職先もあまりなかった。明治初期は工部省や司法省の各官庁が独自に人材を訓練したので、一級の職業訓練というのは縦割りでやっていた。そこに帝国大学令でなぜかそれぞれ持っていた有能な教育機関を一気に東京大学といて吸収した。逆になぜこんなことができたのか不思議なくらいである。その点で、先生が比較された当時の東京大学の理学部の数学の教科書と比べると工部大学校の方が上だったというのは、竹内洋先生の解釈で言うと当然だったかなという感じもしますので、その点について。 
   
・座長代理・  確かに言われたように工部大学校は工部省管轄であり、先程先生も言われたが、司法省はそれなりの法学校を持っていたし、それはちょうど例えばフランスにおけるポリテクが軍需省管轄であり、国家有為の人材をつくり上げるにはそれぞれの省庁がそれぞれに実務家を養成するということが出発点で、そうすると文部省が東京大学をつくったというときに、その実務家というのは一体何だったのかというと、そんなに強いインセンティブは。 
   
・委員・  医者である。医学。 
   
・座長代理・  開成学校と大学、南校と東校であるから医学はもちろん非常に重要な中心になっていたが、文や理はそんなに大きな社会的インセンティブは与えられていなかったかもしれないということは、言われたことが一部は私もそういう感じを持つ。ただ、言われたように、帝国大学になったときにかなり話は違ってきた。それから文部省は確か省としては4年にできている。 
   
・政策委員・  正確に言うと、内閣制度ができるのが明治19年、文部卿というところが文部省に。 
   
・委員・  最初の教官の立場の人は71年と書いてある。 
   
・座長代理・  71年、4年である。基本的には4年が発足だと言って多分余り間違いではないだろうと思うが、そのとき文部省の大事なことは高等教育よりは、むしろどういうふうに日本を大学区、中学区、小学区に割って、人口 600人当たりに一つの小学校をつくっていってという、そういう学校制度をきちんと立ち上げていくことのために大学をつくるというのが文部省の多分インセンティブだったと思う。だから、言われたように、そんなに国家有為の学問を徹底的にたたき込んで人材をそこで養成しましょうという強い意図は、まだ10年の段階ではなかったかもしれないと思う。それは言われた通りだと思う。 
   
・座長・  京都に疎水をつくった田辺朔郎は工部大学校の学生で、その最後の2年のプラクティカルの時に大津から京都まで自分でずっと測量して歩いて、そしてあそこに疎水をつくることができるという結論を出した。その時21歳である。それを京都の知事でほれ込んで、それで当時の金で 120万を投じてつくらせた。だから、プラクティカルでもやっぱりそういうすごい成績を上げた人もいる。23歳で主任技師になって、27歳のときにあれを完成している。今、記念館が動物園の近くにあるが、あそこに行くと田辺朔郎のノート、その時の自分でつくったノートで、測量してあるのがあるが、全部英語で書いてある。英語の力も相当なものである。だからヘンリー・ダイヤーというのはなかなかいい教育をしたのだろうなと思う。 
   
・委員・  最初に英語を習わせて、それから幾何学とか何かを全部やらせている。 
   
・座長・  そうである。2年・2年・2年で、最後の2年でそういうことをやった人がいるということである。 
   
・委員・  最初の2年というのは要するに工学、一般教養じゃなくて。 
   
・委員・  教養科目みたいなものか。 
   
・委員・  そうである。後の日本で言えば中学で勉強したような幾何学とか、ああいうのを最初に英語で習っている。だって日本語の教科書がないわけであるから。 
   
・座長・   さっき先生から非常に詳しい話をいただいたが、これから後はできるだけフリーに話をしてもらおうと思う。一応、資料の1に、どういうことを議論してもらおうかということを書いている。これに従って少しばかり意見をこれから伺いたいと思うが、そもそも「科学技術」か「科学・技術」かというのをこの委員会で提起されたのは先生であり、これは前の科学技術基本計画をつくる時にも議論が出た。そこで、一番初めに少し科学技術の定義の問題について意見を伺いたいと思う。 
   
・政策委員・  科学技術か科学・技術かということに入る前に、その科学ということをどう理解したらいいかということがあろうかと思い、先生の話で沿革的に考えれば、自然現象を対象とする経験的学問と、それからそれを踏まえた何か技術というようなことで理解をしていいのかどうか。つまり、人文科学なんていう妙な言葉が日本にはあり、科学自体をどう認識するかという問題が一つあるのじゃないかと思う。 
   
・・座長・  先生から答えていただこうと思うが、資料の4をめくってもらうと、ごく始めに、科学と技術、科学技術についてということで事務局のつくった資料がある。そこに一応、科学、技術の定義と、それから科学技術という言葉の意味をまとめてあるので、それを見ながら、それじゃ先生、科学とは何か。 
   
・座長代理・  いま座長が言われた事務局で用意してくれた資料、そこで書かれていることは多分その通りだと思う。百も御承知で大崎先生は言われたのだと思うが、人文科学というのは確かに日本で独特の言い方であって、例えばそれを英語にするときにはヒューマニティーズという複数形を使う以外には恐らくないだろう。ヒューマンサイエンスとかヒューマンサイエンシズというのは、実は私も編集者の一人であるが、編纂した全5巻本というのが実はヒューマンサイエンスという片仮名であるが、これは違う意味であり、そのときもヒューマンサイエンスという言葉は一体どういう意味を英語では持つだろうかというようなことを随分議論したが、結局、ヒューマンサイエンスないしヒューマンサイエンシズと英語で言ったときには、人間についての科学的アプローチをする学問たち、つまり心理学の一部、それから自然人類学の一部というようなものを指して言うことが多いだろうと。それならわかるけれどもという話になった。 
  2ページ目が日本語の科学というのが書いてあるが、私が調べた限りでは日付では明治6年か7年の、先程文部省というのが果たしてあったかという話も出たが、少なくとも現在で言う文部省の内部資料の中にこういう表現がある。私が見つけた限りでの一番日付としては古いものだが、究理学、現在で言う物理学であるが、格物致知究理の江戸時代からの使い方で、当時まだ究理学と言ったようだが、「究理学は一科学なり」という文章があり、これを究理学とは一科学なりと読むのか、一科の学なりと読むのかわからない。そこで、科学という言葉が最初に使われた実例としてその文章を挙げていいかどうかということに関してためらいがあるのは、そうであるからである。 
  しかし、そういう使い方の中で出てきている言葉としては明らかに2ページ目に書いてあるような分科の学問、個別科学、ドイツ語で言えばファッハビッセンシャフトという言葉が一番適切だろうと思うが、一つ一つの科に分かれた学問という意味であるというのはどうも確かなようである。だから、科学という言葉が日本でできたときには、それは現在私たちが自然科学の代用品として使っている科学という意味内容ではなかったということになると思う。ドイツ語のビッセンシャフトという言葉がサイエンスの訳語であることは非常にはっきりしていると思う。知識なので、scioというのがもともとラテン語の語源だが、知るという単語で、これがビッセンという動詞をそのままドイツ語に置きかえただけであるので。 
  ただ、ドイツ語のビッセンシャフトという言葉もまたひどく厄介なのは、19世紀に非常に多用されるようになったときに、いろいろな意味合いを込められて使われるようになった。かなりイデオロギーを乗せた言葉としても使われるようになって、単に知識という意味ではない。新カント派のリッケルトに自然科学と文化科学、クルトゥーアビッセンシャフトとナトゥアビッセンシャフトという分け方があるが、そこでは文化科学と訳すより仕方がないのでそう訳しているが、クルトゥーアビッセンシャフトというそのビッセンシャフトを科学と訳していいかどうかもわからない。クルトゥーアビッセンシャフトを文化学と訳すべきであると言う人もいるわけである。それから、皆さん言葉に堪能な方々を前にして恥ずかしい次第であるが、例えばフランス語でscience  naturelという言葉を使うと、普通は自然科学よりもむしろ博物学的な学問、自然についての広い知識を指すことが多かった。少なくとも歴史的には多かったと言えると思う。そうすると、どうもサイエンスあるいはその訳語としてのビッセンシャフトを本当にそのまま置きかえれば「学」に相当するのが一番いいだろうというのが歴史的に見ての話である。 
  先生、人文科学、社会科学、自然科学という、この三つの柱の立て方は戦後で宜しいか。 
   
・政策委員・  これは占領軍の指導で一般教育というのが入って、人文・社会・自然の三系列主義がねられたときに生まれた言葉ではないか。それはそれとして、質問した趣旨は、例えば学術振興会で諸外国の対応機関と話をしていると、サイエンスには往々にしてというか、かなりの率でエンジニアリングは含まない。それからマセマティックスも含まない。医学も含まない場合が多い。だから恐らくサイエンスという言葉は、日本で言うとまさに理学部が扱っている分野をカバーするぐらいの感じで使っているところがどうも多いのじゃないか。また、それに応じて研究振興体制もあるいはできている場合が多い。 
  日本では、日本学術会議があり、日本学術振興会があり、それから今度の科学技術基本法でも学術と科学技術との調和ある推進を図れというようなことがあって、全体をカバーする用語としては学術という用語がある。だから、その科学技術か科学・技術かという議論と同時に、学術と科学というか、学術と科学技術の関係というのが両方絡み合ってくる。これは多分に観念的な議論にどうもなりそうなので、どこまでプロダクティブかわからないが、サイエンス、イコール科学と考えていいのかどうかも問題となる。そう考えていくと、科学技術と言う際の科学というのは、ある方向性を持ったものを指し示す言葉じゃないかという感じが前からしている。 
   
・座長代理・  そういう意味ではもちろんそうだと思う。今、科学と言ったときに私たちが科学という言葉に乗せている意味には、いま先生が言われたような意味での狭い意味使いが少なくともエスタブリッシュされているというのは、これは間違いないことだと思う。ただ、さっき私が余計なことを言ったのは、サイエンスという言葉が本来は非常に広い知識、ナレッジと完全にインターチェンジャブルに使える言葉として英語の中ではあったし、フランス語でも恐らくそういう意味合いを持っていただろうということは確かだと思う。 
  こういうエピソードがある。ウィリアム・ヒューレルというイギリス人がサイエンティストという言葉を1840年に使い始めて、これは最初に使ったということは非常にはっきりとわかっているが、そのサイエンティストという言葉を最初に声にして使い始めたときに、ぱっとそれを聞いたトマス・ハクスレーという人が「何とアグリーな言葉だ。こういうアグリーな言葉をつくったのはアン・アルファベティカル・アメリカンに違いない」というふうに言ったという逸話が残っているわけである。 
  アメリカ人に対するイギリスの知識人の蔑視もさることながら、それじゃなぜイギリスの知識人にとってサイエンティストがアグリーな言葉かと言うと、私はこうだと思う。要するに、「ist」という言葉の前につく概念というのは狭くて専門的で、それに対して、もしも逆に広くて一般的な言葉だったら「ian」をつけなくちゃいけないわけである。例えばミュージシャンに対してフルーティストであり、それからフィジシャン、それこそお医者さんだが、デンティストである、というふうに、前に来るものが大きくて一般的な概念か狭くて専門的な概念かによって恐らく「ist」と「ian」の使い分けが行われている。そうすると、「ist」にサイエンスをつけるというのは、これが非常に狭くて専門的な概念だというふうに感じられる。ところが、ハクスレーの頭の中ではサイエンスいうのは知識ですから、そうすると、知識というのは非常に広くて大きい概念である。それには「ian」がつくべきなのに「ist」をつけたというのは、イギリス語の習慣を知らない、教養のないアメリカ人だからこういうことができたのだろうというのがハクスレーの言い分なわけである。 
  ところが、もちろんヒューレルというのは決してアン・アルファベチイカル・アメリカンじゃなくて、インテレクチャルイングリシュマンであるが、その彼がなぜサイエンスという言葉に「ist」をつけられたかというと、ヒューレルの頭の中ではサイエンスという言葉はもはやナレッジとインターチェンジャブルなものではなくて、むしろ大崎先生がさっき言われたように、今私たちが狭い意味で使っている、そういう意味内容をサイエンスに持たせて使っているから「ist」がつけられたんだということになるだろうと思うし、実際にそういう狭い意味での科学というのがちょうどこのころに、1840年であるが、生まれてきていたのだということをヒューレルの方は時代を先取りしてぱっとそれがわかっていて、それを使ってこの言葉をつくった。ハクスレーの方はまだそれにピンと来ていないで、これになぜ「ist」をつけたんだというふうに受けとめたんだと解釈できると思う。 
   
・座長・  そうすると、ここでは一応狭い意味の方、自然科学という意味での科学というふうにしてこれから議論をしたいと思う。そうでないと、この問題を議論しだすと訳語が適切かどうかというところまでいくだろうと思うし、それで科学技術という言葉が適切かどうか。 
   
・政策委員・  私は工学部出身の人間で、出来が単純なのか粗雑なのか、あまりそういう高級な議論はよくわからないが、科学・技術と科学技術という言葉は同義の場合と違う場合があるので、やっぱり注意を要すると思う。科学・技術というのはサイエンス・アンド・テクノロジーである。そして科学技術という言葉は現在では、この資料の参考2にもあるように、科学及び技術の総体を意味する場合がある。しかし、技術と科学技術という言葉の間には、はっきりした違いがある。 
  どういう違いがあるかというと、技術という言葉の中には極めて個性的・個人的な技能・技芸、こういうものも技術という言葉に入る。だから、左甚五郎の彫った彫り物の技術とか政宗がつくった名刀というような技術、これも技術だが、これはすぐれて個人的な、個人の技能に依存するものであって、基本的には政宗が亡くなり左甚五郎が亡くなればそれで消えてしまうものがそういう技術・技能で、技術という言葉の中にはそういうものも含まれる。 
  しかし、科学技術というのは積み重ねがきくという意味でいわゆる個人的な技能・技芸とは違う。これはサイエンスに裏打ちされた技術、つまりサイエンティフィックテクノロジーである。これは単に技術と言う場合とは違うわけである。科学技術という言葉をサイエンティフィックテクノロジーと理解する場合には単なる技術とは違う意味があり、サイエンス・アンド・テクノロジーとも違う意味があるということをちょっと申し上げたいと思う。 
  つまり、単に技術と言うと非常に個性的・個人的な技能・技芸も含まれた一般的な言葉で、科学技術というのはその中でサイエンティフィックなテクノロジー、科学に裏打ちされた積み重ねのきく技術を言うのだというふうに私は考えているわけである。 
  それからもう一つ、エンジニアリングという言葉についてであるが、日本が工学部を大学につくったときに、これをスクール・オブ・テクノロジーとかスクール・オブ・テクニックスと言わずに、スクール・オブ・エンジニアリングとしたということは大変意味深いことだと思う。 
  エンジニアリングというのはもちろんエンジンという言葉から来ているわけである。今から約 300年余り前の1698年にイギリスのトーマス・サベリーが水を汲み出す機械を発明して、これを熱機関、いわゆるヒートエンジンと名づけたが、ここで大変興味深いのは、エンジンという言葉はエンジンという機械が発明されて新しく生まれた言葉ではなくて、それよりもはるか以前から存在していた言葉だということである。村上先生のような専門家には釈迦に説法かもしれないが、エンジンという言葉は新しく発明された熱機関という機械に対して新しくつくられた固有名詞ではなく、抽象名詞として古くから使われていた言葉で、その意味は、語源であるラテン語とか、フランス語のジニアスあるいはインジェニユイティーから来ており、今でも使われている言葉であるが、ジニアスというのは「非凡な創造的才能」というような意味であり、インジェニユイティーというのもほとんど同じ意味で、「発明の才」とか「創造性」というような意味の言葉である。大学の工学部をファカルティー・オブ・エンジニアリングと呼んでいるというのは、日本語で工学という言葉をつくったのも明治の人の知恵だと思うが、またその英訳をスクール・オブ・ンジニアリングとしたというのは大変意味深いものがあると思う。 
   
・座長・  先生、手を挙げていましたが、何か。 
   
・名誉教授・  特にないが、最前、座長が、科学技術会議としては科学という言葉を狭い意味でとろうじゃないかと言われたが、これは大変大事なことで、恐らく今日の議論の中心になると思う。それで、狭い意味ということを極めて端的にわかりやすく言うと、近代科学技術というふうにとると、これは枠があるわけである。 
  なぜ私がこういうことを言うかというと、先生も苦労されたが、安全学というもの、安全を科学しようじゃないかというので安全科学というものを言いだした。ところが、これは科学にならないということで安全学というような言葉にしたりなんかしているわけである。それから、私が一番このごろ問題にしているのは心の問題である。精神科学という言葉を使う。そうすると、「そんなものは科学じゃない」と。しかし、精神科学という言葉はちゃんと哲学の歴史にもあり、絶えずこの問題が問題になっているが、比較科学学というようなものを今やろうとしているわけである。文明圏それぞれに科学が過去の歴史でずっとあった。そういうものを比較しようとしておる時、それから特に今後日本が世界に貢献していこうという時に、それから近代の超克ということもあり、必ずしも科学を狭い意味の近代の科学技術に限らないで広く知識という方向でいくことが一つ、この科学技術会議の考え方としてあり得るのではないかという気がする。 
   
・座長・  ちょっと私の言葉が足りなかったと思うが、科学技術ということで議論する時には、科学を狭い意味の自然科学にしようというふうに言ったわけである。サイエンスという言葉は非常に広い意味があるのはいま先生も言われた通りであるが、科学技術か科学・技術かという議論をするときには狭い意味にとらないと、これは広がり過ぎてどうにもならないから、そういう意味で狭くとろうということを申し上げたわけである。 
   
・名誉教授・  科学というものをそれだけ独立して使った時には必ずしも狭い意味のものではない。 
   
・座長・  それはさっきの社会科学という言葉もあるわけで、非常にいろんなものが入り得るだろうという気はするが。 
   
・名誉教授・  それで私は科学技術会議としてはこれは大変大事な問題だと思っている。特に今後、東洋というか、日本が世界に貢献していこうという時に大変大事な問題で、安全科学の問題については大変これが議論になり、長いこと悩んでいただいたものであるから、この問題は大変大事じゃないかと。 
   
・座長・  できたら明日議論をしていただこうと思っているが。これから何をしたらいいかという問題の時にである。ただ、今までから科学技術か科学・技術かということでいろいろ意見が出てきたので、科学技術という言葉を議論するときには一応ナチュラルサイエンスということでいいのじゃないかと。 
   
・名誉教授・  科学・技術と科学技術とか、そういうことを議論するときには狭い科学の意味でいいけれども、しかし、科学というものを使ったときには、私は、このたびは広い意味で使おうじゃないかというぐらいのことを決定していただいていいのじゃないかという気持ちがする。 
   
・委員・  総合科学技術というようなタームと科学技術というタームとの関係についてであるが、法制上の人文科学のみに関わるものは除く、という在来の科学技術概念があるので、そういう狭いものを前提にしつつ、そこにほかのものも含めて総合するというふうに、理解しようということになるか。 
   
・座長・  一応私はそういうふうに考えたが、それは問題があれば指摘していただいて、これから何をやるかということはまた明日議論いただこうと思うが、それでは村上先生、まとめいただいて。 
   
・座長代理・  基本的には、あんまりもしかするとヨーロッパなりアメリカなりの伝統なり何なりに引きずられると、かえって現実を見失うかもしれないとも思う。日本語の使い方として、さっき先生が言われたように私も人文科学、社会科学、自然科学という言い方の科学に対してはやや異論がある。戦後の一般教育を立てていくときに一つのそういう使い方になったという結果であって。しかし、現実に今、科学という言葉が使われているのは人文科学という言葉も定着しているわけである。実は私は人文学と一々書きかえて、人文科学となるべく使わないようにしている、意識的には。でも、それは私個人の考え方で、一般社会の中では人文科学という言葉は十分に成熟して成立しているわけである。そうすると、そこで言う科学というのは、歴史的な問題は歴史的な問題として取り上げるけれども、今現実に私たちが日本の中で使っている状況の中で、さてどう対応していくかということを改めて考えなきゃいけないのじゃないかということは思う。 
  熊谷先生が言われたことで言えば、ちょっと異論があるのは、サイエンティフィックテクノロジーと言ったときにはテクノロジーがサイエンティフィックであるということになる。そうすると、それは私たちが通常使っている科学技術という意味ではなくて、科学的に裏打ちをされて、先程先生が提示されたような積み重ねのある技術、きちんと積み重ねることができて、再現ができるような技術についてのことになるのではないか。そういう技術が現在の科学技術の中に存在しているということはその通りだと思うが、私たちが科学技術と呼んだ時には、それも含めてだが、それだけではないのじゃないかと思う。 
   
・政策委員・  先程私がちょっと長々申し上げたことを整理すると、こういうことにしてはいかがかという提案である。 
  参考2をちょっと見ていただきたいが、ここの最初に「科学技術とは、科学に裏打ちされた技術のことではなく、科学及び技術の総体を意味する」と。こういう定義はやや不正確なので、私が申し上げたいことは、「科学技術とは、科学及び科学に裏打ちされた技術の総体を意味する」というふうに定義を整理すればいいのじゃないかという意味である。「科学技術とは科学に裏打ちされた技術のことではない」と言うとまた言葉の使い方に混乱が起こるから、科学技術というのは科学及び科学に裏打ちされた技術の総体を意味するというふうに定義を整理すればどうだろうという提言である。 
   
・座長代理・  それについては私がお答えする責任は多分ないと思う。 
   
・政策委員・  ただ、その場合の科学及び科学に裏打ちされた技術という場合の科学は、先生が言われたように、必ずしも狭い意味のナチュラルサイエンスとしなくても、人文社会科学系のサイエンスも含めたサイエンスに裏打ちされた技術というふうに理解してもいいのじゃないか。混乱も起こらないし、21世紀においては恐らくそういう方向になるのじゃないかという気もしている。 
   
・座長代理・  例えば浜松ホトニクスの経営者の晝馬さんがよく言われることだが、「自分たちの先端高技術を支えているのは大学工学部出ではない浜松工専でもない。普通の工業高校出身の連中だ」と明確に言われる。彼らは課題を与えると、工学部では理論を持ってきて、「これこれこういう理論から言ったら、こんなことはできっこありません」と言う。ところが、工業高校出の連中は理論を知らないので、「じゃあ何とかやってみましょう」と言って、まるきり違った方向から攻めていって事を実現してくれる。「そういう技術が我々の産業を支えてくれているんだ」ということをよく言われる。それもやっぱり我々の科学技術の中に入るのじゃないか。 
   
・政策委員・  そういうものも最終的には科学に裏打ちされた技術となって初めて現代に通用する技術になるんじゃないか。そういう技術を生み出すのにいろんな道があると思うので、それはサイエンティフィックテクノロジーになるプロセスがいろいろあるという解釈で良いのではないか。 
   
・政策委員・  定義を下すことが必要か、あるいは適当かということもやっぱりもう一つあると思う。沿革的に見ると、以前も一度申し上げたが、科学技術という言葉は政策目的を持った人造語であるわけである。比較的最近までは恐らく科学技術と言った場合に医は含んでいなかった。先生が科学技術会議のチェアマンをされたあたりから医学というのが入ってきたような印象がある。総合科学技術会議というのもまさに政策を担うシステムとしてできているので、それがどういう判断をするかということを言葉の定義で余り区切って窮屈にすることがいいかどうかということは一度議論いただく必要があるのじゃないか、それから研究自体をとれば、一つの研究を学術の研究と考えても科学技術の研究と考えていい場合がある。しかし、振興の仕方とか進め方というところに違いがあって、学術的な取り扱い、科学技術的な取り扱いというのがある。しかし、それは科学技術が学術を排除する、あるいは学術が科学技術を排除するということじゃなくて、大部分が重なり合っている絵みたいなものだと思う。その辺は基本的にはそういう一種の二元性があるということを踏まえた上で、しかし、それを総合科学技術会議ができるだけ一元的に舵をとってもらうというようなことではないだろうかと。そういう考えに立つと、科学・技術でない方が、よりフレキシブルになるのじゃないかというのがどうも個人的な印象である。 
   
・名誉教授・  外国語ではサイエンティフィックテクノロジーという言葉はあるのか。サイエンティフィックエンジアリングはあるが、サイエンティフイックテクノロジーという言葉は言わない。そんな言葉があるのか。 
   
・座長・  何か一つの言葉にして使うことがときにあるのではないか。テクノサイエンスという言葉、やはりさっき先生が言われたように科学に裏打ちされた技術ということもあるが、同時に、科学と技術が融合してしまっている領域も随分増えているわけである。だから、そういうことから科学技術という言葉を使った方がかえって便利だと。私もさっき先生が言われる前にちょっと言おうと思っていたんだが、やはりあんまり厳密な定義はこの際意味がないのじゃないか。ただ、科学に裏打ちされた技術だけを言うのは間違いである。それだけを言うのは。だから、ここは「のみのことではなく」とした方が本当はいいわけである。のみのことではなくて、もうちょっと全体を広く言うのだということで、それでいいかどうかということだが。 
   
・委員・ 「科学技術」という名称については、この会議の第1回か第2回目に委員が問題提起されたと記憶している。その席上で、別の委員が、「科学技術という言葉は全国の工学部長の集りで、長時間議論した上で決められたものだ」という趣旨の発言をされたこともよく憶えている。関連して、私の思い違いを訂正したいが、先程私は私の学生の頃、工学部の講座数が著しく増加したと発言したが、その後の政策委員のお話では実際に工学部の拡充が行われたのは昭和32年〜33年からだということで、私の入学年度昭和26年とは大分ずれている。ということは、昭和26年頃の私の経験は、当時の理系の学生の工学部志向が非常に強かった、ということである。具体的にいうと、当時、東京大学では理科 1類(理工系)と理科2類(生物系)に分かれていて、1類の方が学生数も多く、入学が許可される入学試験の最低点もかなり高かったし、事実、1類を志望したのに2類に廻された学生もいた。そのような状態で、工学部の大半の学科では理科1類の学生だけを受け入れ、理科2類の学生には門を閉ざされていたのに対し、理学部は1類と2類の学生を区別せずに受け入れていた。結局、このような工学部優位の実状が先にあって、制度がそれを後追いするという形で、工学部の拡充が行われたということになる。 
  さて、このような戦後の日本の理系の大学の実態、さらに先程先生の解説による、明治時代に日本は大学には最初から工学部があり、欧米ではその頃まだ総合大学に工学部がなかったという事実から考え合せて、「科学技術」という言葉が工学部中心に創られたとしても、私のような工学部と離れた領域の研究者もこの言葉を受け入れるべきだと、今は思う。私個人としては「科学/技術」という表現の方が、好みに合うのであるが・・・。 
   
・委員・  あのときにどういう意識を持って問題提起をしたかちょっと自分でもはっきり覚えていないが、総合科学技術会議というふうに仮に名前が変わって、そして文部省と科学技術庁が一緒になってというような、そういう事態が進行したときに、じゃあ何が政策の対象であるのか、あるいは目的であるのかというふうになったときには、やっぱりその科学の中には社会科学、人文科学というものが入ってないと困るのじゃないかと思う。 
   
・座長・  実はもうちょっと重要な問題があるので、比較的広く解釈をするということで次へ進みたいと思う。次の問題は、先程先生からいろいろ詳しい話をいただいたわけだが、明治以後、日本は西欧の科学技術を受容してきたわけであるが、その受容の過程で何か問題があったかどうか。もしそれがあったとするならば、やはり今後の総合科学技術会議のあり方を考える上に十分検証しておく必要があるであろうということで、その辺の問題について少し議論をいただきたいと思う。 
  資料の論点メモにも書かれており、それから大きな資料の3の2のところに日本人の科学技術の受容に関連するものというのがあり、そこに有名なベルツの言葉が書かれているわけである。ベルツが在日25周年のときの演説であり、日本人はどうも科学の木が生み出す実だけを取ろうとする、科学の木を育てようとしないというふうなことを言っているわけである。そのことについて少しばかり意見をいただきたいというふうに思う。 
   
・委員・  これは先程の先生のレクチャーへの質問も含むわけだが、あるいはこういうふうに理解してよろしいかという質問に結局はなるということだが、確かにベルツはそういうふうに日本人を批判したわけである。ところが、現在、我々が発展途上国の人たち、留学生を見ているのと全く同じことを感じるわけである。これはその国における学問の成熟度というか、根づく程度あるいは歴史みたいなものが浅い間はそれは免れないことなのではないか。 
  先生への質問になるというのは、そもそもヨーロッパの大学だって、最初にあったのは非常に実学的な分野と理解していいのかもしれない。法学、それから医学、それから神学である。神学ということについては僕はよくわからないので、これを実学と勘定していいのかどうかという、これも質問であるが。もしかすると中世においてはかなり実学であったのではないかという気がする。 
  最初フィロソフィーについてのドクターがなかった。つまり医学と法学についてだけドクターがあったということは、これは一種の職業的な資格認定みたいなものとかなり結びついていたことを示すのかもしれない。むろんその外側にはギリシャ哲学以来の学問というのがずっとあるわけだが、それが大学の中に根づいていたかどうかということになると、これは別の次元の問題で、結局、フィロソフィーが大学の中に定着し、そしてドクター・オブ・フィロソフィーというものができるというのにはかなり時間がかかっているのではないか。ヨーロッパでもやっぱり学問というのは最初から本当に木を育てるとか土壌を育てるとかというようなことを考えていたわけでもないので、だから結局ヨーロッパの方が先に進んできて、成熟してきたという過程をたどったというふうに仮に理解できるとすれば、ヨーロッパの次に日本が来て、その次にまた中国が来るのかもしれないというふうにも思える。ベルツがあのように言ったからといって、いまだにそれをスティグマのように考える必要もないのじゃないか。 
  日本は基礎をやらないとか、基礎ただ乗りだとかというのも本当にそうなのか。今までそういう傾向がなかったわけではないかもしれないけれども、それを自力で育てる力というのはどんどんついてきたであろうし、何か余りにベルツ、ベルツで我々最初から萎縮する必要もないのじゃないのかなと。我々はほかの発展途上国を見てやっぱり同じような感想を非常に強く持つものですから、そんなふうに思っている。 
   
・座長代理・  確かにヨーロッパも12世紀にイスラムから学問を受け入れたときには、ちょうどたまたまその資料の2のところに日本の近代科学技術史についてという資料があり、江戸時代の蘭学をめぐる動向というので、玄白の『解体新書』の翻訳における翻訳論というのをちょっと引いてもらうようにサジェストしたが、まさに自分たちの中に、イネイトになかったもの、あるいはインディジナスになかったものを学問を外から受け入れるときに必然的に行われる翻訳という作業、これを12世紀にヨーロッパは徹底的にアラビア語からラテン語への翻訳、それからギリシャ語からラテン語への翻訳というのをやったわけである。それは全く江戸時代の蘭学と同じことをやっていると思う。そして非常に多くの学問的内容を自分の中に取り込んだということは明らかにそのとおりである。 
  そのときに、今言われた法学が実学であるというのはよくわかる。それから医学もある意味で実学であるというのはよくわかるし、恐らく神学もそういう意味では実学であるというのはよくわかる。つまり、それはどういうことかというと、知的職能者集団を構成するという形をとったわけである。哲学というのはそこへ行く過程を示す、アルテスリベラーレスというのは哲学部のいわば基本だったわけで、例の論理学と文法と修辞学というもと、これがトリビュームだが、それからクワトリビュームと呼ばれている天文学、幾何学、算術、音楽という、その技を身につけることによってどこへ行くかというと哲学がわかるようになる。哲学がわかるようになって、それを実用的に敷衍するところでもっと高級な訓練を受けなきゃいけないというので、上級学校として神学部と法学と医学部ができた。それは全く言われた通りで、それが実学である。 
  ただ、ヨーロッパにおけるその実学さというのは非常に特別な意味を持っていたのは、やっぱりプロフェッションだったということだと思う。キリスト教的な神の概念に基づいて神が呼びかける。それがドイツ語のベルーフという言葉にもなるわけだが、ルーフェンするわけである。それに対して答える。答える方がプロフェスだから、いわば人間の側がそれに答えるというのがプロフェスで、呼びかける方はベルーフルーフェンであるが、それは同時にボケーションという言葉にもなるわけで、ボケーションというのはもちろん声を使って呼びかけることだから、つまり、神様が呼びかけて、人間の側が答えるという神と人間の間の契約関係の中で成立するプロフェッションであるという点で非常に重要なポイントがあって、哲学というのはそこに至る過程を支えるものであるということで、トマスのような神学ができ上がっているわけである。だから、その意味で私は実学というところの裏付けがやっぱりシークレットな構造を持っていたという、実学にしては非常に不思議な話だが、純粋に単なる世俗だけの実学ではなかったというところにヨーロッパの伝統の中における三つのプロフェッションの持つ意味があったのだろうと思っている。 
  面白いと私が思っているのは実は19世紀に先程申し上げたような理由でできた理学である。大学における理学というのは実学を排する方向へ向かうが、そのときにクライアントがいないという非常におもしろい特性を持っているのだと思う。つまり、同じような職能者集団として先輩だった医学部も、法学部も、聖職者を養成する神学部も、いずれも自分たちの知識活動を、いま先生が言われたような意味で実学的に使わなければならないという意味では必ずクライアントが存在している。ところが理学だけは、実は少なくとも大学における理学、さっきの第2のタイプの科学や技術は別だが、少なくとも第1のタイプの理学はクライアントがいないので極めて自己完結的な性格を持っている。自分たちの間だけで閉鎖的に完結してしまう性格を備えているのが、そういう意味での第1のタイプの大学に依拠した自然科学というのがある。その性格というのは今でもある程度は残っている。つまり、自分たちの中だけで知識が生産されて、自分たちの中だけで流通して、自分たちの中だけで評価されて、自分たちの中だけで消費されるという、ピアレビューなんて典型的にそうだが、そういう構造。だれかほかにその知識を使ってくれる人がいるわけでもなければ、必要なわけでもなければ。実はそういう科学のあり方というのは我々にとってはどこか余り理解しにくいところがあるのじゃないのかなというのが質問に対する一つの反応になると思う。 
  つまり、日本の社会の中ではそれほど自己完結的な科学というのがあり得るということに対して、制度の上では乗っかっている。制度の上では乗っかっているから、ピアレビューで、レフェリーがいて、論文が書けて、サイエンティフィックコミュニティーの中で評価されれば、それで科学者としてのラダーは上がっていくことができるという、そういうキャリアメーキングの方法もできている。だけども、その本質が全く実用的利用価値なしに知識が成り立ち得るという可能性に関して私たちはそれほど寛大ではないのではないかというのがやっぱりちょっと気になるところである。 
  これもよく出す例だが、日高敏隆さんという、今、滋賀県立大学の学長をやっていらっしゃる方がいらっしゃる。あの人がよく言われることだが、まだ彼が農工大の助教授のころだが、何かこういう集まりで日高さんが、あなた何をやっているんですかというので、自分の研究内容を説明しなきゃならなくなって説明した。彼はそのころチョウチョのフライングライン、飛線であるが、どういうふうにチョウチョが飛ぶかということを研究していたのでそのことを紹介したら、まだあんな偉いさんじゃなかったからだろうが、聴衆の一人が立って、「あなたは国立大学の先生でしょう。研究費は大学からもらっているのだろうし、科研費だってもらっているかもしれないし、給料も税金から出ているのでしょう。チョウの飛線なんていう役にも立たない、愚にもつかないことをよく研究して恥ずかしくないですね」と言われたという。 
  それに対して日高さんは、そのときは答えることができなかったけれども、今なら答えられると。彼はそれを言わなくてもいいと思うんだけれども、彼はそれをつけ加える。今や、あちこちの地方自治体で、我々の町はチョウチョの飛ぶ町であるというようなことを言う。そうすると、ガーデニングの専門家に任せるとどういうことが起こるかというと、町の真ん中に12カ月花を絶やさないようなガーデニングの花園をつくって、さあ、これでチョウチョが飛んできますと。「絶対それではだめですよ」と。 
  チョウチョというのは彼の研究によると、 100メートルのオープンスペースを飛び越せないそうである。だから、例えば名古屋の 100メートル道路のこっち側と向こう側ではチョウチョが違う。亜種ができるというふうにさえ言われる。それで、チョウチョの幼虫が育つ里山から町の真ん中まで飛ばすためには何が要るかというと、相当太いグリーンベルトが何本か必要で、そういうものをちゃんと用意して初めてチョウチョが飛ぶ町になる。「だから私の30年前の研究が役立つでしょう」と言われるわけである。それは彼の戦略もあるのかもしれないが、とにかく、まさに役にも立たないけど、面白いからやっている、ただ面白いからだけでやっていて、それを面白がる人たちがいるでしょう。その人たちだけで面白がっていればいいのだということに対して後ろめたさが常につきまとっているのではないか、日本の社会の中では。 
  もう一つだけ例を出させていただくと、私、広島大学にある講演で行ったときに、後で懇親会があって、理学部の先生が「私は生物学の助教授である」と言われ、「私は日本鱗翅学会に帰属しているが、生物学者として私は鱗翅学会に入っているということを絶対に大学の中では言えない」と言われる。鱗翅学会というのはアマチュアたちの集まりでもある。チョウチョの好きな人たちの集まりだから。そういう学会に所属しているということは、自分のキャリアラダーを上っていく上で、まだ私は助教授だから、教授になるためには大学の中では鱗翅学会に所属しているということは絶対言えないと言われた。 
  そういう雰囲気というのは何かというと、結局、制度だけはあるけれども、面白いからやるということだけでは日本の社会の中ではどうも学問が成り立ちにくいなあということはどこかに残っているような気がする。言われたことはよくわかるし、そのとおりだと思うが、でも、日本の社会の中で問題があるとすれば、その部分はもうちょっと、面白いからだけでもやれるような学問の余地を日本の社会の中にもうちょっと広げておいてもいいのじゃないかということは考えたい。 
   
・委員・  言われたことは全くそうだと思う。現在、全く欧米並みに、あるいはヨーロッパ並みに、あるいはイギリス並みになったというふうなことを私は申し上げているのではないので、いまだに成熟度の違いというのはあるだろうというふうに思うが、日本もやっぱり基礎的物理学に金をつぎ込んでいる。 
  それともう一つ、つけ加えたいのは人文学である。これはやっぱり江戸時代から、非西欧世界では珍しく、役に立たないことをやってきた前提があった。本居宣長の『古事記』の研究、その前には荻生徂徠の古文辞学というのがあるわけだが、あれはそんなに実学的というか、実用的な目的を考えていない。この伝統というのはやっぱりすごく大きいので、これは今、仏教学、サンスクリット学、あるいは聖書学なんていうのは世界で一流クラスの学者が出ているが、そういう古典研究みたいなものが意外に日本は目立っていないけれども、かえってヨーロッパなんかではお金がなくてアウトになりかけているのを日本が支えているというのがあるわけで、そういう人文の方では意外にあるのかなという気がするので、別に反論ではないが、一つ、つけ加えさせていただく。 
   
・政策委員・  先生の言われたことの繰り返しにしかすぎないが、やっぱりものの本によると、中世の大学の哲学部とか文学部というのはいわば教養学部のようなもので、そこで基礎・基本を学んでから3学部に進む。 
  ただ、それにクライアントがいないかというと、私はやっぱりクライアントは学校だったのだろうと思う。つまり、今でも理学部、文学部の卒業生は、少なくともヨーロッパにおいては中等学校の教員あるいは大学の研究者ということで、要するに教員層の生産という意味では学校がクライアントと言えばクライアントだったのじゃないかということが一つ。 
  それから、日本においてそれでは虚学を許容しない風潮があるかというと、私はそれほどでもないとは思うが、ただ、一度感じたのは、ずっと前、プリンストンの高等研究所を訪問したときに、碩学の先生をお招きして、何の拘束もなしに自由に研究させておくという、ああいう意味での寛容さというのは恐らく日本では無理で、日本だとやっぱりそういうのをつくっても、共同研究しなさいとか、セミナーを開きなさいとかということに多分すぐなるだろう。その意味では、まだ日本は大いに反省しなきゃならないのかという感じがする。 
  それからもう一つは、大学院重視、大学院重視といってアメリカ型の大学院を片一方で志向しながら、アメリカ型のリベラルアーツカレッジをつくろうという努力がないというのは、非常に中途半端、片翼飛行みたいなものではないか。CIAが国立大学の再編成の方向を出そうとしたときに、文学部、理学部などは独立につくらないで全部リベラルアーツカレッジに統合するという線を出した。それはあの時点ではむちゃくちゃな話だが、本当に大学院にシフトするのであれば、学部段階はリベラルアーツ的なものにするということが必要になるのじゃないか。 
  実はリベラルアーツというのはよくわからないから以前に辞書を引いたことがある。フリー・フロム・ヴォケーションと書いてある。何からリベラルかといったら、職業からリベラルだという意味ではないか。 
   
・委員・  とりあえずだんだんリベラルになっていく。成熟するとともに、という一般的な流れというのはないだろうかということである。 
   
・座長・  教育の問題はまた明日時間があれば議論をしていただこうと思うので。確かに今言われた点は非常に重要な問題だと私も思っているが、とりあえず明治以降の日本の科学技術の歩みの中での問題点をもうちょっと議論していただきたいと思う。 
   
・委員・  先程先生が言われたことは非常にその通りだと思って伺っていたのだが、どうしても一つだけ気になることがある。それは日本もだんだん豊かになってきてイギリスなんかに近づいてきたといったときには、そのイギリスというのは何となく印象として昔から非常に独創的な国で、今後も独創的であり続けるという文化に根差している要素があるような気になってしまう。イギリスから来た研究者に聞いたのは、最近、若手の科学者というのは9割ぐらいがみんなコントラクトベースで任期がついていると。その結果、目先のことばっかりやるようになった。まだ影響は出ていないけれども、これが10年たったら恐らく影響が出るであろうということをイギリスのスティーブ・フラーという人が、彼はアメリカから来た人だが、言った。もしもそうだとするならば、創造性というのは文化に根差すのではなくて、やはり相当制度的なものではないかという気がする。 
  それで、例えば、いま議論を聞いていて非常におかしいなと思ったのは、アメリカとヨーロッパを一緒に議論されていたわけだが、アメリカにヨーロッパ的伝統が最初からあったとは到底思えないし、アメリカというのは非常に科学の進んでいない国としてあった国が突如20世紀になってノーベル賞が増えてきて、今、減り始めているわけである。もしも仮にノーベル賞が創造性とかその国の自由度を判断しているのだとすれば、アメリカはまさに衰退。実はOHPを持ってきたので明日機会があったらぜひご覧いただきたいのであるが、そういうものというのは文化に根差しているいう前提で話すとどうも貧困なのじゃないかという気がして仕方がない。 
  アメリカというのはやっぱり、かつては物理学はゲッティンゲンとか言って、Ph.D.を仮にアメリカで取ってもそれはごみみたいなもので、ドイツに行ってオッペンハイマーみたいに箔をつけてこないとだめである。そこをやっぱりちょっと考える必要があるのではないか。そうしないと、何か日本人は昔から独創性がなくてとか、今後もないとか、イギリス人は今後もずっと独創的であるとかおかしな話になる。フランス人は昔はあれだけエコールポリテクニクにたくさんの科学者がいたのに、今はあんまりろくな人はいない。いても、かつてほどいない。そんなのは一体どうなっちゃったのだろうかというふうに問いかけをしないといけないのではないか。そういうふうな気がする。 
   
・委員・  実は、私は先生の御意見とは少し異なる雰囲気を感じている。日本の科学を基礎と応用に分類すると、基礎研究の方が尊敬される。これがベンチャーが育たない原因の一つではないか。先程の日高先生のチョウの研究も充分受け入れてきたと思う。クライアントがいないといわれるが、研究者の世界の中でステイタスが上がって行けば、それで特に不満はないのではないか。私が属している薬学という世界は実学に近いので、却って基礎が尊重されるという雰囲気があるのかも知れないが・・・。 
   
・座長代理・  先生の言ったことというのは一面ではおっしゃる通りだと思う。それは事の裏返しというふうに私は見ている。 
  それで、薬学に関して言えば、東京大学の薬学部というのは、これは失礼ながら随分間違ったと思っている。というのは、言われたようにプラクティスを全く無視した薬学の研究者は育てたけれども、じゃあ一体薬学とは世の中でどういうふうな意味を持っていて、疫学なり薬剤師なりというものはプラクティカルにどういうふうに動かなければいけないのかということに関しては全く教育のカリキュラムにも研究の中にも出てこなかったというのは私はかなり大きな失策だったように思う。つまり草薬ということしか伝統にないという。 
   
・委員・  失策かどうかは別にして、日本の薬学はもともと有機化学からスタートしている。先生は冒頭の解説の中で、リービッヒを例に挙げて、化学は例外的な存在で、他の領域の科学と異なって、19世紀に既に人工染料など産業にとって利用価値の高い知識を生産し、人材を供給していたといわれた。私としては化学ではなく有機化学といって戴きたいのだが、私の先生達にはリービッヒの孫弟子と自称される方が多かったということからも、このリービッヒの学問を受け継いだのが日本の薬学で、従って特に応用を意識せずに基礎の有機化学に徹しても産業界(創薬)に貢献できるという安心感があったのではないかと思う。 
   
・座長代理・  だから、理論をやっている方が高級で、応用をやっているのは一段下というある種の評価体系というのは理学者の中では確かに成り立っていると思う。言われたことは全然不思議でも何でもなくて、まさにそういう状況だと思う。 
  でも、じゃあその状況が一般社会の中でどこまできちんと浸透しているかと言われたときには、やっぱり先程のようなことが起こるというのが実情ではないか。つまり日高さんのようなことが起こるというのが実情ではないだろうかと思う。それは、中島さんは否定されたけれども、やっぱりある種の文化的雰囲気というものが必ずしもないわけではないというのが私の診断である。 
   
・委員・  文化的雰囲気をつくられるのではないかということ。 
   
・座長代理・  もちろん言われたことは非常に大事なことで、社会的制度だとか、それから経済的基盤だとか、政治的な背景だとかいったようなものも当然ながら文化の一部だから、そういうものを無視して、何かもうちょっと小さい意味での文化だけを議論するというのはナンセンスだというのはおっしゃる通りだと思うが。 
  でも、そんなことを言えば、ここで出てくるニュートンだ、ランキンだ、ランキンが出てくるのは恐らくグラスゴー時代のダイヤーの先生だったからだろうと思うが、それでもケルビンだというような人たちがイギリスの物理学を支えていた後、じゃあどうなったかというと、イギリスの物理学はそれ以来実はそんなに目覚ましい活躍をしていない。ドイツから来た人たちなんかが結構活躍するようになって。だから、カードウェルは、「イギリスは19世紀の後半には衰退している」と非常に明確に言っている。 
   
・座長・  しかし、キャベンディッシュはやっぱりすごい。だから理論物理学である。 
   
・座長代理・  そういう意味で言うと、そう簡単にどこがオリジナリティーがあって、どこが応用しかやっていないというような言い方をそう簡単にできないよというのはおっしゃる通りだと思う。もっと細かな腑分けが必要だというのはその通りである。しかも時代的な変遷と地域的な変遷というのをきちんと見分けなきゃいけないというのはおっしゃる通りだと思うが、それにしても、日本の状況というのをどうとらえるかというのは、もう一つやっぱり議論しておいてもいいことじゃないか。 
   
・委員・  私は虚学の象徴とされる哲学をやり続けてきた者だが、先程の日高先生のチョウチョの話もそうだが、遊び心というか、本当に楽しみというものが知的好奇心とか学問の原動力になっているということは明らかに日々感じている。考えることが面白いという、それだけで支えられているようなところがあるわけだが、技術という問題を考えるときにも、遊び心とか遊びというものが実は一番「実」に近づくということもあり得るのじゃないかと思う。 
  かつて、もう10年以上前だが、私がドイツでお世話になった哲学の先生が日本に来られたとき、自然科学とか人文科学、ヴィッセンシャフトというものの最高峰を担っているという誇りをかつて持っていたその国の人が、あきれ半分でこんなことを言われた。「日本人は技術、特に電子技術で遊んでいる」。ゲームセンターへ行くと、電子技術の最先端のものが子供の遊びに使われていて、大人が一生懸命そういうものをつくっていて、しかもそれが産業として成り立っている。そして、それが日本が世界に対して一種のグローバルスタンダードを提示するぐらいのレベルまでいっている。だから遊んでお金を儲けてというので、技術と遊ぶ日本のメンタリティーの特異さにあきれておられた。 
  たまたま私は京都に住んでいるから、せっかく京都という場所で開かれたのでそのことをちょっと例を挙げて申すと、ゲームソフトの会社である任天堂のように、花札の会社が一種の発想の転移の中でゲームソフトで世界のスタンダードになるということがあるし、それから傑作だったのは、京都に女性の下着メーカーのワコールがあるが、あそこがかつて形状記憶のブラジャーをつくって大儲けした時、何か私が仄聞したところでは、アメリカの空軍がジェット戦闘機のシートを、操従する人の体型を形状記憶するために膨大なお金を使って技術開発したのを、日本ではブラジャーに使ったといって、研究者の人があきれたという話もある。あるいは京セラだったら京都の清水焼の陶芸の技術がセラミックの方に転移するという、技術転移という遊び心のようなものが実際には一つの新しい技術領域を開いていくというような例もあって、だから、遊び心とか遊びというのはむしろ技術においては「虚」じゃなしに、「実」に結びついている。それが日本の特質かどうかわからないが、少なくとも外国の方には技術と遊び心の結びつきというのがすごく印象的に残るように伺った。 
   
・座長代理・  さっき先生も言われたが、江戸時代には確かに文字通り遊んで、例えばからくりもそうで、それから数学でさえ遊びだったわけである。一つ題を出して、解けると神社に絵馬として掲げて、こんな解ができましたよ、面白いでしょう、みんな見てくださいと。それを神社の絵馬に掲げたというのはちょっと面白いと思うが、そういうこともやったわけで、和算の大部分はほとんど実用とは無関係な遊びだったわけである。そういう意味では遊ぶというのは一つ大事な要素で、私がよく日米会議なんかで言うのは、井深さんがショックレーの半導体の原理ができたときに、あれを小さな家電、ラジオやテレビジョンの小型化に利用できるというふうに考えたのだって、これは別に厳粛な合理的理論詰めではなくて、むしろまさに今言われたような意味では遊び心だったと言ってもいいわけである。真剣ではあったに違いないが、少なくとも世の中を救うためとか何とかという話ではなかったわけである。でも、あのオリジナリティーは私はすばらしいオリジナリティーだと思う。 
  そういうオリジナリティーをアメリカ人に言うと、「それは君、セコンダリーオリジナリティーだよ。プライマリーオリジナリティがショックレーなんだ。ショックレーはプライマリーで、井深は確かに偉い。あの時代にああいうことをやったのはいなかったけれども、その意味では極めてユニークリー、クリエーティブだけれども、でも、あれはセコンダリーオリジナリティーとでも言うべきではないか」という反論をする。その部分をどうしようというのが多分ここでの多少の問題なのではないかと思うが、言われたことは全くその通りだと思う。 
   
・座長・  いまのゲームは日本が支配したけれども、しかし、ほかのソフト、もうちょっと理論的にやらなければいけないところは全部押えられている。だから、その辺に何か日本の問題点がないかどうかということだが。 
   
・政策委員・  座長の言われる点は非常に重要だと思うが、先生達が言われた遊びというのは私も同感である。今年の1月に日経新聞が社説で、「必要は発明の母という時代は終わった。これからは遊び心が発明の母になる。遊び心が新しい産業の母になる」という社説を書いていて、私はそれに大変同感だということが1点。 
  もう一つは、さっき先生が言われたが、欧米と日本という対比では必ずしも適当でない場合が幾つもあるので、このワーキンググループで今後議論して整理をする前に、ヨーロッパとアメリカと日本というような対比で、ヨーロッパも一括りでいけるかどうかわからないが、少なくともヨーロッパの伝統的アカデミズムとアメリカとは随分違う面があるので、そこを調べて整理してもらえると大変ありがたいと思う。 
   
・委員・  日本におけるサイエンスの受け取り方というか、そういうことが議論の中心になっているかと思うが、私も理学部で、およそ役に立たないことをずっとやらせていただいている。日高さんの御研究はよくわかりませんけれども、役に立たないものをやっている世界というのはすごく厳しい。 
  そこではどういう価値観で判断しているかということをちょっと申し上げると、何か基本的な原理とか、非常に影響力の大きなことをやる。それが役に立つかどうか。恐らく役に立つことは必ず出てくると思うが、とにかく影響の大きいことを見つけるということがいわゆる役に立たないことをやっている世界の研究者の基本にあると思う。 
  それで、サイエンスというのは恐らく何かそういう基本的な原理があるに違いないというような確信から多分出てきたのではないかと思う。日本の社会でなぜそういう基礎サイエンスが成長せず、明治になって輸入されたかということを考えると、いろいろ時代は複雑ですから、そう単純な話ではないかもしれないが、やはり日本人の性向として余り基本的なところをひたすら追い求めるという点は幾分弱いのではないか。最近は先生も指摘の通り、ひたすらニュートリノの質量を追いかけているような人も出てきている時代ですが、あれはかなり問題点としては世界中に認知されているわけである。ただ、それをいかに測るかというようなところで大いに活躍しているわけで、もっと根源的なものを追求するという態度が日本人には幾分薄いのかなと。そんなことまでやらなくても、もっとやることがたくさんというか、そういうふうなことで、日本では本当のサイエンスというのは、本当のサイエンスというのはよくわからないが、役に立たないものの極致というのか、そういうものを求める性向が幾分弱い、もっとほかのところで活躍する場がたくさんあるというか、気を引くところが多いからそういうふうになってしまうのかよくわからないが、少なくともこれまでのところは、明治以来、サイエンスを受け入れてから随分になるが、残念ながら日本では本当に根源的なもので世界をリードしたという研究成果は少ないと思う。昨今はますますそういうことがやりにくい環境になって行くようで心配しており、私は宇井さんとその点では全く逆さまなので、もっと基礎研究をやれるような、大勢でなくてもいいと思うが、そういうことをやっぱりやっていただくようなことをこれから、次の基本計画で大いに主張したいと思う。 
  しかし、どういう場をつくったらそれができるか必ずしも明らかでない。私は全然自信がないが、そういう本物の、最も根源的なことをやるような風潮をもうちょっと日本でも振興したい。そういう点では先生と全く同意見である。 
   
・委員・  私は非常に楽観的で、日本の若い人達の間で基礎科学を目指す人が特に減ったとは思わないし、レベルが低下したとも雰囲気が悪くなったとも思っていない。また、基礎に徹しても、国際的には同業者はむしろ増加していて、討論の相手も競争相手も充分存在する。先程、座長がいわれた、日本はゲームソフトは作ったがインターネットは作らなかった、というのは「国策」の有無ではないか。私の属するライフサイエンスの領域はいわばスモールサイエンスで、ビックサイエンスのような国全体で何かやって行くという経験に乏しい。その点は科学技術会議なので国のプロジェクトとして立ち上げて行くことを今後するべきだと思うが、日本人若手研究者個人の能力とか意欲に関して私はそれ程悲観的ではない。。 
   
・委員・  いえ、私は実績に基づいて申し上げている。 
   
・名誉教授・  いまの話で、ベルツの話も出たが、私は臨教審のときに、教育というのはいつでもその時代の必要性に応じてつくられてきたのが日本の歴史である。国と教育というものであるから。それで、そのときに政策から離れてどこまで不易なものというか、人間そのものに対しての必要性に注目して教育の焦点を置き得るかどうかということは、その国の文化のレベルによって決まるんだと。かつて明治から今日までの日本は、国をつくるということで教育というものを大きな政策にしてきたから、やはり科学技術というか、その方向に傾かざるを得なかったが、それでもやっぱり文化のレベルで本質的な人間の教育、不易なものに対して注目して、焦点をそっちに移すことができるのだというようなことを主張してきた。科学技術もやっぱり同じで、この国の文化的な発展に応じて、直接政策的に生きるものでなくても、どこまでそういうものを尊重していけるというのは一つの文化の指標だと思う。 
  それから、すぐ役に立たないといっても、いつでも科学の言い方は、そういう直接的に役に立つということはわからなくてもいつかというようなこと、どこに効果があるか、それもわからないものだから、そういうものを評価して自由にやれるという状況は文化のレベルの段階だと思う。 
  それなら日本が明治のときに科学技術を、西洋の近代の文明を採用したときに、本当に役に立たないものをもしっかり注目してそれを入れろと言っていたかどうかである。福沢さんの文明論というものがどこまで実用的な技術から離れて本質的なものを志向していたかということは問題があると思う。しかし、それをあの時代の日本人に説くときにはああいう説き方をされたということをしっかり理解していないと、しかも、それを肯定して、そして、その後の日本の発展のこの段階ではどうあるべきだという言い方をしないといけないと思って、この時代に総合的な科学技術会議というものをつくってひとつ21世紀にというときには、やはり明治のときと、あれから 100年たった今日、新たな出発として、その辺をしっかりどこまでやろうというところに焦点を合わせていくべきではないか。 
  その前に、基礎的な何の役にも立たないものをやるということは大変大事なことだが、世界が一体どこまでそういうものを評価するかということで、やはり国の存立ということになるとなかなか問題になる。それで、この辺をしっかり見ながら、調和というものを21世紀にはしっかり考えていかないといけないのじゃないかという気がしている。 
  というのは、現に私が痛感するのは、ヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラというもので、日本がお金を出して、そして今、基礎科学を世界にやっているわけだが、それのフェローシップを出すときに、 160人とろうとしたときに大部分は、 100人ほどはアメリカへ行ってしまう。そして、あとの60人近くはヨーロッパへ行き、日本へ来ないわけなのである。このことは来なくてもいいのだという意見もあるが、やはり世界が日本の基礎科学に対してどの程度興味を感じ評価をしているかということの証拠だから、これも無視できないと思う。だから、チョウの研究とか、本当に興味から出た研究を大切にし、それを評価すると同時に、やはり世界の現在のレベルにおいて評価されるものというものもしっかりやって、それで再度もとへ帰ると、科学技術という言葉の意味をしっかりつかまえて、評価のできるものというところへ持っていくということが大事だと思っている。 
   
・委員・  今日伺っている議論の中で、どうも一つ、ひょっとしたら視点が抜けているのではないかと思われるのは、やはり日本という国の国土の特性みたいなものが抜けてはいないかという気がするということである。 
  要するに江戸時代の鎖国時代、 3,000万人ぐらいの人口を支えてきたわけであるが、それから鎖国をやめることによって人口が伸びだしてくると、日本国民がどうやって生存をするのか、そのために食糧をどうやって供給し、そのエネルギーをどうやって供給していくかということを考えていくと、やはり日本という国はテクノロジーに依存しながらある種の食糧増産を図り、輸出をする何らかの産業、いろいろなことを興していかなければいけなかったのではないか。そういうような背景を考えると、やはり日本人は生存のために技術を重視しなければいけなかったという必然があるような気がしないでもないという気がする。それが最近になってやっと、製造業が裏で頑張っていると言うと変かもしれないが、非常に輸出産業というものが裏で頑張って、そのために為替レートが変動したりするが、余り表立って製造業は頑張れ、頑張れというふうに言わなくても生きられるような日本という状況になって初めて、さっきから話題になっておりますような無駄に対する寛容の態度が少し出てきたというような気もしないわけではない。 
  私自身も工学という実学の世界にいながら、やはり本当にそろそろ無駄をちゃんとやらないと次もないなと思う。ところが一方で日本という国が最低限生存していくためのテクノロジーというのはしっかり戦略的にキープしていかなければいけない。この両面のバランスをどうやってとるのかなという気がするわけであり、そのあたりの日本国の人口と、この国の生産能力であるが、太陽がくれている生産能力とそのバランス、その中で技術をどう考えるかという視点がちょっと抜けていたかなという気がする。 
   
・委員・  むしろ職業研究者だけが研究をする考え方を取り払ってみてはどうだろう。例えば最近出た「江戸の道楽」という本を読むと、ともかく学問研究に命をかける普通の人がいたことがわかる。例えば間宮林蔵は50歳になり、隠居してから、お金があるから、日本国じゅうを測量するということを始めます。「道」として自分の関心を追求する。そういう人生の余裕があった。考えてみると今の日本には少なくともそういう物理的な条件が存在していると思う。だから、科学研究に対するある意味のあこがれとかファンを一般の人たちに教育で啓蒙するというのじゃなくて、みんなが研究し始めることにする。その中で本物を見据えるのがプロの研究者になると。研究を支えるすそ野、研究の意義を認めるすそ野というのは科学者の外にあってもいい。そういう経済水準が整ってきているので、職業科学者だけが専門研究のことを必死になって考えるのではなくて、やっぱり国としてまるごと関わるような思考の水準にもって行くべきだと思う。無駄や役にも立たないということが非難ではなくて、褒め言葉のようになる水準にとっくに日本はなっていると思う。価値を科学者集団の外側と共有するという仕掛けを考えた方がいい。 
   
・座長・    この問題を今日提起したのは二つほど理由がある。その一つは、最近また基礎研究よりも早く役に立つ応用研究をやれというプレッシャーが非常に強くなっている。だから、これはさっき安井先生が言われたように日本の現状を考えるとやむを得ないところはあると思うが、ただ、またそれに押され過ぎて、プロジェクトオリエンテッドのリサーチにどんどんお金が行き過ぎて、肝心の基礎研究の方へ回らないような事態が起こってはいけないということを一つ考える。 
  それともう一つ、先程からいろいろ議論を伺っていて、日本の研究も捨てたものじゃないと。日本人も十分独創力がある。そういうことは確かにそのとおりだろうと思うが、しかし、やはり現在の世界のスタンダードから見ると、さっき廣田先生が言われたように、極めて根源的な問題を追求した研究というのはやっぱりまだ乏しい。これは井深さんとショックレーの対比みたいなものだが、それから、やはり科学的な批判的精神というか、クリティカルにものを見ていくということにまだ日本人は少し不足しているのではないだろうかとか、あるいは論理的な思考がやっぱり苦手じゃないかとか、鷲田先生のような哲学の方は別だが、一般的に言えばそういう傾向があるのじゃないだろうか。だから、そういうことをどうしたらいいかということを考えるときに、やっぱり明治以来の日本の科学の発展の歴史を一度振り返ってみる必要があるのじゃないだろうかというふうに考えたわけである。 
  だから、あの時点では、私はやっぱり実学を追求したというのはやむを得ないと思う。それはもたもたしていたら植民地にされるわけだから、早く富国強兵政策をとらないといけない、そうすると実学だというのはやむを得ないと思うし、それから、さっき先生が言われたように、近代化のときにはみんながそういうコースをとるだろう。ただ、それから 100年たったわけだから、ここで一遍振り返ってみて、果たしてこのままでいいのかどうなのかというのはやはり一応考えてみる必要があるのじゃないか。そうすると、やはり先生が言われたように、日本の科学に何か欠けたものがまだあるだろう。それを次の21世紀総合科学技術会議が発足するときにどういうふうに打ち出していくのがいいのかということが問題になるので、この点、今ちょっと明日の課題について先生が話をされたが、明日はもうちょっと次の総合科学技術会議がやるべきこと、どういうことをやったらいいのかということを少し議論をいただけたらというふうに思っている。 
   
   
   
[2日目 8月22日(日)]

・座長・  本日は、日本の特徴というか、例えば伝統的に日本は工芸にすぐれていると、そういったことが果たして日本の近代の科学技術にどういう影響をもたらしたかとか、教育がどうであったかとか、いろんな点があると思うが、その点を御議論いたければと思う。日本のネガティブな面が昨日はかなり中心で、ややペシミスティックに過ぎるのではないかという意見もあったが、ポジティブな面についても意見があればまた伺いたいと思う。 
  最初に、先生からお話をいただきたい。 
   
・会長・  私、戦後、京大の学生、ちょうど終戦を迎えたのが2回生から3回生になるときで、そのとき原子核物理の教室におり、そのまま研究者になりたかったが、米軍がやってきて、京大の中にあったサイクロトロンとその関連装置を全部つぶされてしまい、実験物理をやっていたため、全く手足をもぎ取られたということで、自分で何とか自立したいということで堀場無線研究所というのをつくり、自立的に研究開発型の企業を始めた。今でも商品の50%以上は京都大学がオリジナルで開発されたものを商品化しているということで、産学協同という意味では昔から相当やってきた。今、急に産学協同と言われているのは大変おかしいので、もうずっと昔から、特に京都大学は産学協同がすごかったと思う。 
  私の父もたまたま京大のプロフェッサーをしており、大学を卒業してすぐ今の住友金属に就職したが、程なく京都大学に戻り、京大の構内の中にすごい研究室をつくってもらった。昔、国立の土地にそんなすごいものを私企業がつくれるのかどうかよくわからないが、とにかくできて、そのかわり自分のところの卒業生はどんどん住友化学に送り込んで、産学協同というよりは何か共同経営みたいな感じで国立大学の先生がやっていた。 
  それと、もう一つ感じたが、私は物理専攻したが、父は純粋の化学の専門とはいえ、ずっと素粒子論をやって、一体物理か化学かさっぱりわからないが、「いや、京大はそんなものだ。化学と物理のボーダーはないんだ」とか言われて、そんなものかなと思っていた。何か最近感じるのは、非常に学問というのが細かく分かれてしまって、一番おもろいところはボーダーのところにあるのに、なぜあんな細かく、それで一方、学際という言葉をつくって、そのすき間をやれと言ってるが、もともと学問というのは、あんまり細かく分離するものでないと思う。それで、博士(ドクター・オブ・フィロソフィー)といったら、みんな哲学博士。哲学の中に主として電気をやるとか、主として医学をやるというのが本来の学問の姿であると思うのに、余りにも細分化されているのはおかしいと思う。 
  それから、科学技術とよく言うが、科学と技術は全く違うものだと思う。科学、技術の間のボーダー。それから今度、技術と生産というか、商品というか、実用品の間にも一つの大きな境があって、日本というのは大体、科学と技術の間とか、技術から産業のこのボーダーのところをうまくやるのが日本の今まで特徴で、そこにものすごく大きな付加価値があったと思う。大体、アングロサクソンの方は、その分野が下手だったと思う。それで、そこをしっかりした学問に成長させたら、科学と技術のボーダー、技術と生産という間のボーダー、ここが立派な学問として成立すると思うが、どうもその間のところは安物の人がして、何か科学が一番偉くて、技術がその次で、生産というのは三流だと。何かそういう社会的な士農工商みたいなのがあることがまず気に入らないと思う。 
  それともう一つ、大学に行くと、科学者なのか、学者なのか、教育者なのか、わけのわからない人がたくさんいる。天は二物を与えずといって、優秀な研究者・科学者が必ずしも、教授といったら教え授けるのだが、どうも教え授ける技術がない人が多い。偉い科学者は即教授になっている。これはおかしいと思う。ゴルフで言ったら最高のツアープロが最高のティーチングをやれない、つまり有名なゴルフプロに教えてもらったら上手になるかといったら、絶対だめなのである。ですから、大学もやっぱりティーチングプロとツアープロというか、研究者と、テイーチングとはやっぱり分けてもらわないと。 
  また、私は学生の頃、ある有名教授の素粒子論を聞いたのだが、全然わからない。それで、「先生わかりません」と言ったら「私の講義をわからない人は聞かなくてもよろしい」と言われたが、教授だったらやっぱりわかるように説明すべきで、そのために月給をもらっているのだからおかしいといって大分やった。今後の大学は学者と教育者のボーダーのところがうまく行く事が大切であり、私はそういうボーダー論で、そのボーダーのところをうまくやることが一番付加価値があって、大いに欧米とも対抗できる分野ではないかと常に思っている。     
・委員・  ボーダーの話には興味があるのだが、昨日触れたOHPについて話を移したい。 
  論点は2点で、創造性論の方にまた戻ってしまうが、これはいろんな国がどのぐらいノーベル賞を取ったかということを示すOHPである。 
  ちょっと誤解があるといけないが、表の最後のところは91年から97年。1901年から10年と10年ごとになっているが、最後はまだ7年分しかなく完結していない。例えばアメリカなどは、あるときから科学関係のノーベル賞が急に増えて、このあたり(90年)でちょうど停滞気味。ちょっと昨日計算したが、大体最終的には90年代で36ぐらいに、このままの数値でいけばなるであろう。それから、英国などは、ここ(80年)までは非常によかったが、急激に落ちている。ドイツはもうずうっと漸減傾向ということで、もしもノーベル賞がその国の創造性をあらわしているんだとすると、創造性というのはものすごく激しく変わる。つまり、創造性のある時期とない時期とがあるということである。 
  もう1点だけ言わせていただきたいが、アメリカでなぜ創造性が伸びたのかという話について。ある時急に、アメリカで一時期増えているが、科学史の世界でよく言われるのは、冷戦型科学技術システムというのがあって、それがもともとはあんまり科学で大したことのない国でなかったアメリカが伸びた。恐らくそれは30年ぐらいの間で起きたんだと思う。もちろん文化論も大事だと思うし、いまのボーダーの話は日本の特質として別に議論しなければいけないと思うが、一方で、ある社会的な仕掛けをすると、創造性は部分的にはつくることができるのではないかということを、昨日申し上げたかったということである。 
  いわゆるバーネバー・ブッシュの議論をもう一度整理して、彼のサイエンス・ザ・エンドレスフロンティア政策に着目すべきではないか。大体1945年ぐらいから、先程の表でもそのあたりから急激に増えているが、こういう国策はとるに値するものではないか、あるいは批判的に取り入れてはいかがであろうかということを申し上げたかったのである。 
   
・座長・  いま、お二人の方から少しお話をいただいたわけだが、何か御質問とか御意見があればお伺いしたいと思うが。先生からは、ボーダーをやれという話と、次の先生からは、創造性はある程度つくれるんじゃないかということかと思われる。 
  やっぱり、しかしアメリカが成功したのは、ヨーロッパからナチスに追われてたくさんのすぐれた学者がアメリカに移動したということと、アメリカの研究環境がヨーロッパよりももっと自由闊達でよかったということがノーベル賞が急に増えた理由じゃないのか。 
   
・委員・  もしも優れたユダヤ人の科学者をうまく受け入れることができたということが非常に大きな創造性のもとであるならば、日本はいかにしてそのクラスの人をこれから受け入れるかということが次の戦略になると思う。 
  それから、もう一つはアメリカの土壌だが、もともとアメリカでもすんなりと科学が花開いたわけではなくて、最初は石油化学から、そして物理学はマンハッタン計画のようなものをてこにしてということなのである。何か自動的にそのシステムができたのではなくて、創造性のシステムが意図して作られた。最初アメリカのMITなどは非常にレベルの低い技術学校だったが、そこの教育改革を、コンプトンの兄貴の方だと思うが、改革を始めた。それが実を結ぶような時期にちょうど欧州の科学者が亡命して、流れてきたと考えたいというか、考えるべきではないかと考えている。 
   
・座長代理・  ブッシュの名前が出たが、私たちも、時々、アメリカというのはもともと国家が科学ないしは科学技術に対して非常に理解があって、お金を投下して、国策として振興政策をずっととってきたというふうに思いがちだが、それはごく最近のことである。ごく最近というのは、結局、第二次大戦後だと言っていいと思う。 
  NSFができたのが1950年というのはこの表にも出ているが、さっきのエンドレスフロンティアのブッシュたちがNSFを、戦時中の科学動員の好景気に潤っていた彼らが、どうせ戦争は間もなく終わるに違いない、そのときにこの好景気を政府から引き出すためには何かキャナライジングをしなければならないはずなんだということで、最終的にはでき上がったものがNSFだと聞いているので、そういう意味では、今言われたようなある種の意図的な、これは科学者の側から持ちかけた政策実行だが、そういうことがあってアメリカの国策というものの中に科学振興政策が一部組み込まれていくという、そういう事態があったんだというふうに考えた方がいいのではないかと思う。 
   
・委員・  会長の御発言に関して‥‥。会長は研究のプロと教育のプロは別物であるといわれた。しかし、実験科学では優れた研究のプロが多数の優秀な研究者を育てるということが外国では多い。例えば、ライフサイエンスの世界では、今アメリカで活躍している多くの研究者の先生、そのまた先生と辿って行くと、第 1 次または第 2 次世界大戦の時ヨーロッパからアメリカに移住した優秀な研究者僅か数名に収斂するほどである。日本でも、優秀な研究者が多数の研究者を育てたという例はあるのだが、これはむしろ例外で日本の悪いところは実験科学の領域でも優秀な研究者が後継者を育てることにあまり関心を持たなかったことではないかと思う。日本では嘗て文系では碩学と呼ばれるような優秀な研究者を輩出したと思う。しかし、彼等はいわば個人プレーだから、研究に専念しただけでは後継者を育てることはできない。お話にあった有名教授のような理論的理学も同様だと思う。一方、実験科学では研究に徹しても、若干教育に目を向ければ、後進を育てることができる。しかし、優勢な当時の文系の雰囲気に染まって、教育すなわち後進の育成をやや怠ってきたことは反省すべきだろう。 
   
・名誉教授・  お話の有名教授が大変教育が下手だったというか、わかりにくかったという話は今日初めて伺った。私らは教えてもらえなかったし、ただ、ノーベル賞もらわれてから、親しくというか、つき合いがあっただけだから。ニルスボーアも下手だった。本当に講義がわからなかった。それで、偉大な学者が、必ず教育と両立しないということは、これはもう昔からあったことなんで。 
  それで、ベルリン大学が 100周年を迎えたときに、後のマックスプランク研究所だが、要するに大学と研究所を分けたというのは、あれはアルトホークだったか、事務官の偉い人がいて、アメリカと対抗するためには大学が教育と研究を両立させると、アレキサンダー・フンボルトの精神で、もうそういうことを言っていたらだめなんだと。これはもう分離しなければならないというので、カイザー・ウィルヘルム研究所をつくったんだと言われる。この点なんかもやっぱり今後日本の教育、研究を考えるときに、そろそろ一遍考えるべきことだと思う。 
  この間、京大が 100周年迎えたけど、あのときに私は絶えずベルリン大学のことを考えていて、 100周年のときに何か一つそういう画期的なことをというようなことを期待もしたが、これはやはり教育と研究というのは必ずしも個人的に両立しないので、今後の競争裡においては、研究所と大学とを分けるべきだというようなことも考えたらと思う。 
  やはり学生がいないと研究というものも進まないんだそうで。だから、あれは邪魔になっても教えると、それで月給をもらっているんだからといって堀場さんに言われると、あれは教えなければいけないし、邪魔になるんだろうが、やっぱり両立するというところにも意味があるんだということで、これも一遍議論して、日本の結論を出しておくべきことではないかというようなことを思っている。 
  それから創造性だが、日本人は創造性がないと言われてばかりきたが、創造性というものだけを大いに伸ばすというのは難しいと思う。これはやっぱり初中教育、高等学校、大学での、その前にいくと脳。今はもう勉強していないが、私は脳の専門家である。それで創造性というものを脳の発達と関係して考えたときに、一体どういうときにできるかということは割合定説というか、言われることがある。前頭前野というか、新皮質という一番前のあの総合野の発展するときに自我ができて反抗期になる。あのときに個性というものができるので、あの反抗期に、あれに逆らってやるというか、壁になってやるのがいいのか、言うことを聞いてやるのがいいのかというようなことから関係があって、あのときにしっかりした個性をつくっておいて、そしてそれをある時期に自由に放して、それから何かいい契機を見つけてやるというようなことが一つの創造性のメカニズムとして言われているから、だからこれはやっぱり教育の問題、その前の育児からである。育児、教育と行かなければならないと思う。 
  それから、やっぱり高等学校から大学に行ったときに考えるというトレーニングの時期が要ると思う。それを私は哲学という広い意味で主張するべきだと思う。高等学校のころ、それから育児、初中でも先生がそんな人を得られるわけがないと言うが、先生はやっぱり大学を出ているから、この人がどこまでものを考える訓練を受けているかということが影響するから、そんな先生は得られないんだということはそう簡単に言えないと思う。 
  それで、やはり大学教育で今、一般教育なくして、すぐ専門に入っている。これ日本独特だそうである。それで、独特だということを強調するために、「フィリピンでも」という言い方をする。アメリカやフランスはもちろんだが、フィリピンでも専門教育に入る前には一般教育というものを大変重要視している、それはやっぱり哲学なんだということを言うから、今度、近代化で 100年ということを大きくシンボライズして総合科学技術会議が立ち上がっていただくことを願うが、哲学をしっかり入れるということを。東北の方の西沢さんなんかの一文にも旧制高等学校のことを懐かしがっているが、もうなくなったものは仕方がないので。やはり鳥飼さんが教養部をつくるということを努力されたのは、旧制高校と同じようなものを残そうとして努力されたらしい。それがなくなってしまって、一般教育と専門とを一緒にして、専門の中で一般をと、理論的にはと言うか、口の方では大変いい言葉だったが、それで結局なくなった。だから、今、専門教育で一般教育のない教育をしているのは日本だけだと。これは私は全部知らないが、今道先生が最近講演される中で申している。それで、このことは大変大事なことで、教育と科学技術ということであれば、やっぱりこの問題はぜひ取り上げてほしい問題だと思っている。 
  それから創造性というもので、私は普通の大学にいたわけだが、芸術の大学がやっぱり創造性というものだけは真正面から取り組んで教えている。臨教審のときも芸術の大学をもっと増やせということは言ったはずだが、芸術、音楽というのは大変大事なもので、これも気がつかないが、今道さんの話によると、論語の3分の1か、3分の2とでは大分違うが、音楽のことばっかりあれは書いてあるそうである。私は論語がそこまで音楽のことを考えているとは思っていなかったが、そういうふうにやっぱり古典というものがなかなかそういうところまで注意しているということで、どうしても哲学というものをひとつ創造性に関連してもなにしてほしいと思う。 
   
・・座長・  議論が自然に21世紀の日本の科学技術を発展させる上にどうしたらいいのかという方へ向かいつつあるが、今日は主として今後の課題について議論をいただきたいと思う。 
  事務局が用意した手元の資料の1をごらんいただきたいと思うが、ここに論点メモがつくってある。この論点メモの3枚目に、これは事務局の方で考えて、三つほどやらないといけないということを取り上げてくれている。これ以外にいろいろまだあるだろうと思うので、これにとらわれないで、ひとつこれから日本が何をやったらいいのかということについて御議論をいただきたいと思う。 
  そこに書いてあるのは、順位がどれが上とか下ということではなくて、一つは科学技術の一般国民への啓発について。これは、昨日もっと科学ジャーナリストが必要だというような意見も出ていたと思う。それとも関係があると思うが、そういう科学技術の一般国民への啓発について。それから2番目が科学教育の充実について。これは今いろいろ御議論があった点であり、一つの大きな問題になるだろうと思う。それから3番目が研究体制。さっきアメリカがどうして成功したのかということはこれとも関係があると思うが、そういった点が書いてあるが、これ以外にもいろんな問題があるかと思うので、どうぞ御自由に御発言をいただきたいと思うが。 
   
・委員・  私は、日頃から考えていることを申し上げると、やっぱり一番最初は小・中学校の先生の養成。ここから出発しないといけない。要するに、その上全部を支えている問題なのではないかと。教員養成の問題というのは、いろんな歴史的ないきさつもあり、しがらみもあって、なかなか難しい問題だったと思うが、少なくとも戦前は、はっきり言って、あんまり経済的に恵まれない階層の中の優秀な人材というのが師範学校という、片方にもう一つ陸軍の学校があったが、無料で教育を受けられた。それが使命感を持って大変いい教育をする。その教育の内容あるいは教育の仕方そのものにいろいろな問題があっただろうということもいろいろ指摘はされているが、いずれにしても優秀な能力を持った人が経済的なハンディーがあるからそっちへ流れているということで、日本の教育というのは基本的にかなり質が高いものに戦前の場合はなったんだと思うが、現在の社会になると、そういうハンディーみたいなものはあんまり問題にならなくなってきたということで、どうも初等中等教育の教員の方に優秀な人材が流れにくくなっているという前提が一つあるだろう。それに、先程ちょっと申し上げた教育の仕方なり何なりについての問題性というものが比較的直らないまま、ずっと教員養成の教育現場に残ってきているんじゃないか。はっきり申すと、このごろますますそういう傾向が強いらしいけれども、要するにマニュアルに従って教えていくということ。それも必要だが、それだけでは到底だめなので、やっぱり子供たちが素朴な質問をする、疑問を持つものに対して自分も一緒になって考えてやると。 
  今の遺伝研の所長をやっている堀田さんという人は、小学校の入学試験というか面接のときに先生をぎゃふんと言わせたという逸話の持ち主だが、やっぱりそのぎゃふんを受け止める先生というものが欲しいような気がする。何かやっぱり一緒になって問題を考えてやるという。そうじゃなくて、一定の決まったカリキュラムを消化するためにマニュアル通り上から考えて与えていくという、これは体系教育なのか体験教育なのかということとは別の問題だと思う。同じ体系的な教育であったって一緒に考えてやる、質問をきっちり受け止めてやるということでないと、結局、子供たちの科学精神みたいなものを、仮に芽生えかけたとしても、つぶしてしまう可能性があるというふうに思うので、やっぱり一線級の研究をやっている現場の大学で育った人たちが学校の先生になるという、要するに科学精神というか研究精神みたいなものが身についてというか、そういうところで育った人が小学校にも行く、中学校にも行くという、そういう環境がもしできれば非常にいいんじゃないかと。教員養成というだけで型通りの教える技術を身につけただけでは、やっぱり足りない要素というものが何かあるような気がする。 
   
・委員・  いまの先生のに特に反対するわけではないが、やはりどうも相当オプチミスティックではないかと思う。 
  それはどういうことかと言うと、その問題以前に、今、理科を勉強しない。理科の必要単位がどんどん減っていて、問題なのは、理科をまともに習っていない先生がもう既に教育現場に立っている。つまり教育の自由化ということが、この前、立花さんが言われたが、恐るべき教育崩壊の原因をつくっているのではないか。創造性が議論できるというのはとてもすばらしいことだと思うが、その場合に理科をとにかくやらないでいくのはよくない。。 
  私、科学史を女子大なんかでも教えていて、科学をやると、全然習っていない。それで、仕方がないから世界史のトピックスから始めようと言って、「じゃあメディチ家」がと言ったら、「先生、メディチ家って何ですか」という。つまり世界史もやっていない。世界史はさすがに必修に戻ったが、教育の自由化というものはいかに恐るべき結末を今実際に大学に生み始めているかということをもう一度とらえないと、教え方云々の前に、教育の前提である理科を知らない先生がどんどん出てしまっているのではないか。 
  最近いつもいろんなところで大勢と逆のことを言っているが、もう一回詰め込み教育を再構築してほしい。野口悠紀雄先生の本を読んでいて思ったが、頭の中に何も入ってない人は振っても創造性は出てこないと。一応どこかで詰め込んでみる。アメリカがいいと思うのは、高校まで崩壊しているから大学で詰め込むわけだが、日本はアメリカのまねをして大学も高校も自由教育で、どこでも詰め込まないという非常に子供にとっては理想的な、夢のない国が、勉強しなくていいという国ができつつあるのではないか。リアルにその実態をとらえなければいけないんじゃないかと思う。 
  もう一つ、これはたまたま読んだのだが、最近子供が減っていて、ついでに教員も減らしているために教員の採用が非常に減って、したがって教員になっても仕方がないと。なれないので、まともな人がならないわけだが、同時に教員の高齢化がものすごく進んでいる。なぜ先生に元気がなくなってしまうかというと、若い人が来ないから、年輩の先生方もやる気がなくてやっぱり当然だと思うので、文部省にもぜひ、教員の数をもっと増やす、それから教員の給料を2倍ぐらいにしてインセンティブをつけてやらないと、小さい政府論のときに申しわけないが、国家百年の計なので、そこは例外的に考えていただかないといけないのではないかと思う。最近、憤懣やる方なく、創造性論を聞くたびに、「先生、それは20年前の夢でしょう。今はもっとひどいことになっているんです」と言っている。これをぜひわかっていただきたいと思う。 
       
・政策委員・  教育に対して二つの方向から常に批判もしくは注文が出る。一つは知識の詰め込み過ぎである。それを何とかしないとだめだと。そうすると、よく考える力とか、心の力、生きる力とか、そういうことが強調される。その反面、先生が言われたように、要するに基本的な学力、知識というものを身につけないとそういうことができない。そのいわばせめぎ合いの中で、最近の傾向としては、どんどん知識詰め込み型がけしからんという方向に行っている。しかし、知識詰め込みといっても、その知識の内容が結局問題である。 
  それともう一つは、今はもう9割以上が高校まで出るわけだから、小学校から高校までの12年間で、どういう形で教育システムを設計するかということが科学的にもっと考えられる必要があると思う。要するに学習指導要領というものを10年ごとにつくって変えてきた。最近はちょっとテンポが速いが。その結果がどうだったかという科学的検証がない。検証なしに、ちょうど今おっしゃったような議論、個別の先生方の経験なり感覚なりの議論で、また次のステップへ行く。だから、教育のデザインというのが、あんまり科学的にデザインされてこなかった。それが最大の問題だろう。最近、学力をちゃんと検証しようという動きも出ているようだから、それがぜひ実を結べばいいと思っている。 
  2番目に申し上げたいのは、中島先生のおっしゃるように基本的な知識は必要だと思う。これは学習指導要領を改訂する度に基礎基本、精選集約ということをみんなが言う。みんなが言うけれども、結果としてはそうならないというのは各教科のエゴがある。理科で言えば、物理も、化学も、生物も、地学も、それぞれこれだけ教えたい。ほかの教科も全体まとめて、みんなこれが望ましいということの集積が学習指導要領という形であらわれてくる。 
  そうすると結果としてどうなるかというと、今の中学校の学習指導要領を8割方こなせる生徒は天才的といってもいいんじゃないか。中学の学習指導要領を本当にこなせれば大学に入ってもいいぐらいのレベルにあると思う。それが現実にどこまで達成できるか、どうしたら達成するかというところはあんまりぎしぎしやらないで、建前と実態が乖離して進んできている。 
  だから、知識を詰め込み過ぎだということは確かなんで、詰め込みをやめろということは正しいと思う。ただ、詰め込まなきゃならない知識があると思う。それが基本学力で、じゃあその基本学力は何かというと、例えば小学校の段階で、本当に理科なんだろうか私はわからない。本当の基礎学力というのは昔からあるスリー・アールズで、教科で言えば英語、国語、数学というのがまずきっちりしていて、仮にそういうスリー・アールズをしっかり身につけた人が大学に入って初めて生物を習っても、それはかなりのところへ行くんじゃないか。高校で習わないと決定的にハンディーになるんだろうかというのが私はよくわからない。 
  だから、若干挑発的に極論を言っているが、むしろ理科離れという前に、基礎学力みたいなものが今や崩壊していることが深刻なので、分数の計算のできないような者が大学に入れる、しかもそれを大学に入れてから補習教育をやるなんていうようなことが美談になるようじゃおかしいんじゃないかというのが私の感想である。 
   
・委員・  教育に関して、私として日頃考えていることを申し上げたい。大学教育のことなのだが、大学で教育を受けた人が小学校の先生になるのだから、小学校教育にも関連すると思う。先程、私は会長の御発言に関連して、実験科学では研究と教育は両立するという趣旨のことを発言した。しかし、この場合の私の「教育」とは単なる「後継者の養成」に過ぎなかった。それならば、現状のままで可能である。しかし、会長の御指摘通り、現状では多くの研究者は真の意味の教育を放棄している。教育の期間を出来る限り短くして、早くから教授の研究の手伝いをやらせるというのが、大学および大学院教育の現状である。このような制度の下では、視野の狭い研究者しか育たない。視野が狭ければ創造的研究は出来ない。従って、教養課程、大学院修士課程で将来の専門だけでなくその周辺領域を広く学ぶような教育システムを是非作り上げて欲しい。国公私立を問わず、技術を生かした職に就くためには、修士課程を修了するという実質的な 6 年制が、理系ではかなり実現している。小中学校の先生になる人もその中から出るとすれば、小中学教育にも大いに貢献すると思う。アメリカではこのような教育が徹底していると聞いている。 
   
・座長・  大学以降の問題はちょっと後で議論したいと思う。 
   
・委員・  それがいずれは小学校とか、そういうところにつながるんじゃないかということを申し上げたい。 
   ・座長・  まず初中教育の問題で、ここからが非常に今深刻である。だから、そこから少しもうちょっと議論していただいて、その後、大学をどうしたらいいのかという問題にいきたいと思う。 
   
・委員・  一つだけ補足させていただきたいが、私が申し上げたかったのは、「何で勉強しなきゃならないの」という子供の疑問、「勉強しろ、勉強しろ」あるいは「学校に行け」というような。それに対して答えられる、そう簡単に答えられないと思うが、とにかく一緒になって考えてやる。そして本人が少なくとも何年かのうちには自分で納得できるような答えを見つけていけるような、そういう指導のできる先生というのが私の申し上げたイメージで、それは詰め込み授業をやるという主義に立ったら、なおさら必要なことなんだろうというふうに思う。 
  実は私、いとこの子供に「大学に進みたくない」というのが出てきたときに、その父親、つまり私のいとこだが、「おまえは大学の教師をやっているんだから説得してくれ」と言われたことがあって、一晩その息子と一緒に飲んだ。結局だめだったが。大学に入ったことは入ったけども、途中でほっぽり投げた。そのときに私は私なりにいろんなことは言ったつもりだが、だから私は多分失格なんだと思うが、やっぱりそういう底流というのか、疑問というのか、やりたくないものはやらない。それを正当化するために「何でやらなきゃならないんだ」と。それは大人は困るわけである。「勉強しないと大学へ入れないよ」、「じゃあ大学に何のために入るの」、「大学を出ないと偉くなれないよ」、「偉くなれなくてもいいよ」と。お天道様と米の飯はついて回っているというのが大体このごろの子供たちのというか、若い人たちの常識だから、そういうのに対してとにかく一緒になって考えてやる。あるいは「それだったらこれを読んでごらん」とか「こういうことを考えてごらん」とかいう、そういうことのできる人。これは理想論というか、難しいことだと思うが、そういうことである。 
   
・委員・  いまの話を伺っていて、やはり一つの問題点というのは、初等中等教育で教えているときに何をどういうつもりで教えているかということであるが、やっぱり今の母親、父親もそうかもしれないが、親が子供の教育に求めていることというのが受験に勝てる教育、要するに受験技術としての教育を求めているような気がして仕方がない。だから、勉強というものを技術の獲得としてやるとすると、要するに受験に役に立つようにとしてやることは技術の合目的なその性格からいって、ほかのものに役に立たないという、そういうことがあるように思う。だからもう少し、ものを考えることとはどういうことかというような教育をやってほしい。これが多分石井先生のおっしゃっていることじゃないかという気もするが、実を言うと、そんな話をあるところでやっていたら、「それはやはり今の場合にはおまえの大学の入試制度が悪い」と言われた。我々の大学は割合と試験問題はよくできているような気がするが、やはりもう少し勉強できないような入試問題をつくらないと、要するに技術だけじゃ受からないような入試問題をつくらないと社会が変わらないと言われて、確かにそうかななんていう気もしたが、とにかく少し受験技術でない勉強をさせるというような方向性を何とかと思っている。 
   
・座長・  国立大学協会でやっているときに、いつも高校の先生と議論をする機会があった。今の教育問題は非常に多方面にわたっていて、難しい。しかし、大学の教師ができることの一つは今言われた入試を改革することだと。これはやっぱり大学の先生だけでできるわけで、これが初中教育に相当大きなインパクトを及ぼすわけである。だから、考える教育が必要だとかいろいろあるが、高校の先生に聞くと、そういうことを高校の先生がやろうとすると親が必ず反対する。そんなことは入試と関係ないじゃないかといって反対するという。だから、そういうあたりに非常に大きな問題が一つあるので、これはやっぱり大学の教師が考えないけない。 
  それで、私も大学の中で入試改革委員会というのをつくってやってもらったが、日本ではすぐにフェアーネスということを、問題がフェアーネスを守れるかということで皆さんが躊躇してしまうというところがあって、なかなか進んでいない。しかし、ここは一つのポイントとして、比較的大学の先生だけでできることじゃないかと。 
  しかし、それ以外にも先程から議論があったように、いろいろの問題がやっぱりあると思う。それで、特に初中教育と大学教育とが文部省の中で分かれてしまっているので、今まで共通の場で話し合えない、ほとんど。多分、中教審以外では今までそういうことをやっていなかったんじゃないか。そうすると大学は大学で議論している、初中教育は初中教育で議論している、その両方の接点が極めて乏しかったということと、それから、先程先生が言われたこともよくわかる。それぞれ日本人は自分の専門が大事だと思って主張する。だからなかなか減らせられない。 
   
・委員  ・もしかすると言葉が足りなかったかもしれないんが、まず、ちょっと話を戻すと、私はもともと受験産業におり予備校教師をやっていたが、皆さんが創造性と知識教育を矛盾していると考えられるのは非常に理解できない。予備校教師時代、いろんな大学の入試問題を調べて解かなきゃいけないわけだが、やっぱり一流校と言われるところは非常によく考えさせる問題で、知識だけでは解けない。予備校教師として教えるときに一体何が大事かというと、考え方の基礎に戻って深く考えるということから教えるわけで、知識だけを詰め込んでいる子をたたき直すというのが予備校教師の仕事である。でも、これは進んだ予備校であればあるほど、上の方をねらっている予備校であればあるほどそうである。大学の方が何でそんなに自信がないのかよくわからないというのが一つである。 
  もう一つだが、私が申し上げたのは科目のエゴとかではなくて、既にもうとらなくてもいいということである。つまり医学部に行くのに生物学をとらなくてもいい。エゴで皆さん自分の学問の大切さを主張されるというような美しい状況が過去にあったが、今はそうではなくて、物化生地をとらなくて大学に入れる。単位が要求されていない。したがって、詰め込む以前に、勉強しなくていい。 
   
・座長・  それは、しかし、高校あたりの問題であって、小学校あたりになるとかなり違う。 
   
・委員・  今度、中学校も同じになる。 
   
・座長・  中学校も、もうかなり選択制になっているのか。 
   
・委員・  なる。それが今度の新しい指導要領なので、そこをただ訴えたかっただけで、もちろん科目のエゴとか、それはもちろんおっしゃる通りだと思う。 
   
・政策委員・  主題が理科だから理科に即して申すと、要するに国民として、国民の基本的な教養なり常識なりとしての理科教育と、今は実質的に高校まで行くから、高校まででどういうものを与えたらいいかという話と、それから大学に進む前提としての、準備教育としての理科教育というのは多分違うんだろうと思う。要するに大学に進む予備教育というのをどうするかということが一つ大きな問題であって、戦後の改革で旧制高校、大学予科を廃止した。廃止して、それを大学に持ち込んだということが、日本の大学に対して極めて破壊的な効果をもたらした。そういうことをやっているのは恐らくアメリカだけなので、アメリカは大学に入ってから一種の予備教育をやる。一般教育という名のもとで予備教育をやる。だけど、その予備教育というのは大学院の予備教育という色彩が非常に強い。だから、日本で新学制に切りかえるときの翻訳の仕方が仮に旧制高校なり大学予科というのが大学になって、旧制大学は大学院になるんだというふうに理解した方が本当はアメリカ的な大学システムにはより適合した理解だったけど、そういう理解は当時は不可能だから。どうなったかと言えば、結局、大学予備教育をはっきりやるところがなくなった。高等学校でもやらないし、一般教育は大学予備教育と思っていないからやらない。いま先生は大学は専門教育だといわれたが、現在はそうも言っていないので、要するに専門と一般とを区別しないでやりましょうということしか言っていない。 
  だから、大学の予備教育をどうするかということ、その意味での理科教育はどういうものかということと、それから要するに国民のパブリックアンダースタンディングの基盤をなすようなものはどんなものかということでやっぱり分けて議論しなければいけないけど、日本の教育界の風土というのはそれをなかなか分けて議論させない。そこら辺が常にごちゃごちゃになる。だけど、それはやっぱり分けて議論しないといけないんだろうと思う。 
   
・座長・  初中教育の問題、非常に難しい問題だが、いま委員の言われた点が一つのポイントであろうと思う。 
  それから、大学入試については、確かに考えさせるいい問題を一生懸命につくっているのは間違いがないと思う。しかし、やはり一発の試験だけで決めるというのは一つの問題じゃないだろうかという気がする。だから、高校3年間でその人がどういうふうに学んだかということは今評価されない。一発の試験だけであるという点に問題があるんじゃないかというのが私の考え方である。 
  ちょっとこの問題、いろいろ異論もあるだろうと思うが、大学の方に進んだので、大学の教育の問題に移りたいと思う。それで、先程先生が提起された教養教育あるいは哲学というのをどこでやるのかということ。それから、いま話が出た大学の教養教育と専門教育の関係である。これが戦後もう50年たつが、日本の大学が抱えてきた非常に大きな教育上の問題だろうと思う。これは決してうまくいっていない。国大協でも調査をしたが、大学の設置基準が大綱化されて大学の自由度がふえると、一斉に一般教育を減らしている。教養教育を減らしている。そして専門教育を増やしているということがあるわけである。大学の中で一般教育と専門教育が果たして両方両立できるんだろうかということが私は疑問だが、大学の問題、教養教育の問題につきまして、どんなことでも結構だから少し。特に科学技術という立場から見て科学教育で、それが非常に重要であると思うが、その辺の問題について何か御意見を伺いたい。 
   
・名誉教授・  私、今この問題に一番関心を持っているが、先程、政策委員がおっしゃったように、決して大学としては一般教育をやめて専門教育だけやってるわけではないんだということになっているわけだが。かつては教養部というものがあって、2年間取っていたが、あれが高等学校の教育の繰り返しのようで学生の興味を引かないで実効が上がらないということで、それなら専門教育の中でというか、両者を一緒にして一般教育も含めてやろうという、大変言葉としては立派だったが、いま議長もおっしゃったように、結局これが一般教育をなくしたというのが実情だろうと思う。それなら一般教育というものは何だということをよほど今度ははっきりしないと。当時、教養部ということでも、教養というのは何だということで議論をしたままで終わっている。 
  私は、今の学問を推進していく、専門教育の推進ということにも関係して、また最前申したように大学出身者が初等教育の教員にもなるということも関連したり、全般的に考えて、やっぱり端的に哲学だと思う。哲学というものを知らない解剖の先生が言うのは大変おこがましくて恥ずかしいが、あれはものを考えることのトレーニングだと思う。何もカントの専門家やヘーゲルやというような、そのなにを十分理解するということじゃなしに、このカントが、ヘーゲルが、デカルトがどれくらいものを考えるということに苦労したということをフォローしていくことによって本当に考えるということを、練りに練ったものを後づけすることができる。このトレーニングなしに、それで専門教育に入った後で日本の学問には基礎がなくて技術だけだとかいうことを言われるのは、結局、その考えるトレーニングが欠けているからだと思う。 
  それで、やはりこの問題は、初等教育というところの先生が、やはりそういう考えることの訓練を受けた人間が入ることが大事だと思うと同時に、高等学校の年齢というものが既にそういう考えるトレーニングには一番適した年齢になっているということも考えて、それで大崎さんがおっしゃいましたように、やはりずれて下へ行って、哲学というようなものはしっかりやらなければという気がしている。 
  それから共通一次というのは、私は教育のことをやってきたが、大変評判が悪いというか、諸悪の根源のように言われているあの共通一次を実はつくった男である。それで、今は悪い点ばかり指摘されているが、最初にちょっとおっしゃったような授業の科目があるが、あれをしっかりやっておれば、いつでも現在の教育というものが次の段階の準備ということでなしに、小学校は小学校でしっかりやっておれば中学に入れ、また中学で補足すれば高等学校に入れる、高等学校の科目をしっかりやれば大学へ入れるんだというようなことにしようという理想をもって、あそこで教える基本的なものをしっかり理解すればそれがやれるということで始めたのであって、理念としては立派だったけど、あのときから既にコンピューターを使うということに対する反発もあったり、それからやっぱり・×の問題にならざるを得ないというか、フェアーネスということに対してそういう欠点もあって、今、悪い面ばっかりが言われてきて今日に至っている。 
  いずれにしても、過去のなにというものは、それぞれその時点で改良を重ねながら来ているわけだから、今一番大事なことは考えるということに立って、それから、よその科目のことをよく知っているとか言っても、やはり基本は考えるということをしっかり教える。その段階がないということが大変日本の教育の基本的な欠点になっているんではないかと思う。だから、もし教育の何を抜本的にというなら、旧制高等学校の復活というのは申しませんけど、とにかく現在の段階でも、専門教育に入る前に徹底的に哲学をしっかりやるということが大事じゃないかということを思う。 
  それについては、やっぱりエリート教育と一般教育というものの相違もあるので、だれもかれもというわけにはいかないが、日本の現在問題になっている科学技術の問題というのは、単なる科学技術を推進するという方向ばっかりじゃないと思っている。21世紀が受ける科学技術と社会という問題は推進するという方向だけではないのであって、もう一つの問題は調和の問題だが、推進するという方向なら、やはりその問題にしっかり集中して論議すべきものじゃないかと、そういうふうに思っている。 
   
・座長・  ちょっと言葉の整理をしておきたいと思うが、私もまぜて使っているが、一般教育という言葉と教養教育という言葉と両方あり、ほとんど同義に使うことが多いが、狭義の教養教育というと少し違って、いわゆる本当の教養であって、一般教育の中には基礎教育があるわけである。これは一定のリテラシーを与える。日本語がちゃんといける、外国語がいける、それから科学の基礎がわかるとか、コンピューターが使えるとか、数学ができるとかいう専門教育のための基礎教育と、それから人間として知っておかねばならない教養と両方あるわけである。その教養教育が多分、戦後、戦前の旧制高校の時代には一つのパターンがあったわけだが、それがなくなってしまった。そのことが非常に難しい問題で、じゃあ教養とは何ぞやということになると、これなかなか議論しても簡単にはいかない問題になってしまうと思うが、そういう言葉の上で教養教育というのを狭い意味に使うとやっぱり一般教育をどうするかということになってくると思うが、哲学なんかはそうするとどちらに入るのか。ちょっと両方の可能性があると思うが。 
   
・政策委員・  言葉がおっしゃるように非常に混乱しているが、戦後の学制改革で一般教育を入れるときに、あれはジェネラルエデュケーションと。あるいはジェネラルカルチャーエデュケーションというようなことをCIEで言った。ジェネラルエデュケーションというのは一体何なんだというのは日本の大学人はわからなかった。それは無理がないので、ジェネラルエデュケーションというのは普通教育である。だから、それは小学校、中学校、高校の教育である。アメリカの大学ではリベラルアーツで来ていた。 
  当時、ハーバードで出した「自由社会における一般教育」というハーバードコミッティーの報告というのがあり、それが一種のバイブル視されていたわけだが、それを見ると、大学のジェネラルエデユケーションというのは一つの主張である。戦後のあの時期にアメリカで、どこの大学でもリベラルアーツカレッジをどうするかをコミッティーをつくって議論していた。その中でハーバードがジェネラルエデュケーションという概念を打ち出した。打ち出したのは一つの理想があって、何も大学だけじゃなくて、小学校、中学校、それから成人教育であるが、全体を通じて要するにアメリカの市民としての一般教育みたいなものがあるべきで、それの大学段階における教育はどうあるべきかという発想で、一般教育という概念を打ち出した。それがそのまま直輸入されたので、アメリカでも熟していないものを日本側が言われたってわけがわからない。しかも、そういう高邁な理想が片方であって、現実にやれと言われたのは人文、社会、自然の3系列で12単位ずつで科目をとらせなさいということで、ものすごいギャップがあったわけである。 
  だから、アメリカに大学のジェネラルエデュケーションというのが事実として存在したわけでも何でもない。むしろ存在したのはリベラルアーツだ。今でも多分、分解すれば普通教育なのか、つまり今の高校でやっているような普通教育なのか、あるいはリベラルアーツ的なものなのかという結局二つに分けられるだろうと思う。だから、一般教育という用語は、その意味では極めてミスリーディングだった。 
  そういうことを前提にすると、やっぱり大学でやるのは基礎教育だと思う。基礎というのは、専門科目に対する基礎科目というような狭い意味じゃないが、要するに専門に進む場合の基礎教育というのはどうあるべきかという発想で見ないと、教養という言い方をすると今度はまた、いまのお話のように、いろんなインプリケーションが入る。 
  ただ、何が基礎かというのは恐らく非常に重要な議論になって、旧制高校の場合にはカリキュラムで見ると、これは圧倒的に語学である。語学を徹底的にたたき込む。それにもちろん文科、理科の間に若干比重がかかって、それから当時のカルチャーで言えば、岡本先生のおっしゃるように文科系は哲学というのを非常に重視した。ただ、カリキュラムの構造からいけば、ともかく大学予科と旧制高校も、語学をたたき込んで、それで大学へ送ろうという、それがカリキュラム構造だったのではないかと思う。今の時点で考えるとすれば、結局、大学の学部段階の教育は、学部段階で終わる教育と大学院の予備教育をやるところとやっぱり2種類要る。大学院の予備教育をやるということであれば、やっぱりアメリカのリベラルアーツカレッジというのが一つのそのモデルになるのではないか。それが日本ではついにリベラルアーツカレッジというのがわからないし、今に至るまでできてないというのが非常に問題じゃないか。 
   
・会長・  私は、先生のおっしゃるように、哲学というものが不足しているということは全く同感だが、今、大学というのは非常に教育の一つの流れからいくと最大の被害者ではないかと思う。というのは、入ってくる材料が余りにも悪い。悪いという意味は混在しているということ。我々、物をつくっているときに、入ってくる材料が品質管理されて初めて品物というのが出るので、入ってくる材料が悪いのに、生産段階だけで何とかせよというのは、大学教育を論ずるのは、入ってくる材料の品質管理が最低条件ないといけない。 
  私、一番大学で怖いのは、入ってくる学生が、この大学のこの学部のこの先生に習いたいといって入ってくるような状態にはほとんどなっていないことである。旧制の場合は、何大学は関係ない、この先生の教室へ何とか行きたいと思って、たまたまそれが京大であったり阪大であったりといっただけの話。        
  私がなぜこれを信念を持って言えるかといったら、私のところにもちょうど今、孫が大学に入る年頃なんで、おじいさんが「うちの孫はどうしたらいいだろう」と相談に来る。それを聞いたら、「何とか大学の法学部と、何とか大学の工学部と、何とか大学の医学部と、どれがいいだろう」と。「何を言っているんだ。おまえは何になりたいんだ」と言ったら、「いや、卒業するころ、医学部もちょっと危ないのではないか」とか「法学部の方がいいのではないか」と。そういう人が大学へ入ってきて、それで先生が一生懸命教えようと思っても、もともと食欲があって入ってきたのと違って、腹は膨れているけど、まあ母親が飯食べておきなさいと言うから行ったんだと。そういうやつを教育するというのは本当にもう憤慨する。 
  それは何かと言ったら、やっぱり先生のおっしゃるように、小学校のときから考える。要するに、ジェネラルエデュケーションというのは子供にメニューを見せてあげる。「世の中というのはこういうもの、こういうもの」、本当に多くの面白い仕事がある事を知らしめる。中学、高校のときには少なくともイメージとして、「私はこういう分野においてこういうことをしたい」、「世の中の役に立ちたい」とか、せめてそういうおぼろげなるイメージがあって大学へ入ってきてくれたら、大学の先生も「よし、おまえはそうか。じゃあ、もう少し狭い範囲内で自分の将来の方向をしぼれ」というような相談に来る事が出来る。「ああ、先生、それを私はやりたい」というふうなことになっていったら、もっと活力も出る。それはやっぱり小学校からの教育だと思う。 
  私、たまたま師範学校の附属小学部に入学した。そしたら、一つの教室は35人なのに、インターンの先生が7人ぐらいいる。それが各専門を持って、子供の教育指導を自分で考えてしてくれる。理科の先生が、今から六十数年前に、電気機関車の無線操縦をやって見せてくれた。私はそれを見て「うわあ、すごい。これだ」と思って、それから科学少年になった。 
  中学校のときに、すばらしい数学の先生がいた。僕、数学は初めあんまり好きじゃなかったが、本当に数学ほど面白いものはない。それで数学が好きになって、それから高校のときの物理の先生は原子核物理専門だった。それで完全に虜になって、「私はもう原子核物理しかない」と心に決めた。やっぱりそれほど小さいときからの先生の影響力というのはすごいと思う。だから、やっぱり小学校、中学校にいい先生をもたらすということがその人の人生を左右するんではないかなと強く思った。 
   
・委員・  今のお話に大変感銘を受けた。私も先生のおっしゃる哲学の必要性に全く同感であるが、専門教育を先にやってその後で哲学を教えるのは如何か。専門教育を受けた学生には却って哲学を学ぶ意欲が湧くのではないか。既に述べたように、実質的に 6 年制になっている学部が多い。修士課程で広く教養をつけさせるその一環としての哲学教育という発想はどうだろうか。 
   
・名誉教授・  哲学ということを言葉として申すと、私が特に最近感銘して読んだのは、哲学というのは「知を愛する」と、フィロソフィアということだと言うわけである。ところが、今道さんが徹底して哲学をやれと勧められるときには、「魂の世話だ」と言われる。人間、肉体と精神があって、体というのは大変世話をしなければ、これは汚いものである。ニューデリーなんかへ行き、人間の尊厳なんか言っても、ニューデリーの町の中で人間と牛と犬なんかが並んでいると、人間というのは栄養が悪いと生殖機能ばっかり発達して、子供をどんどん産んで、1ダースぐらい並べている。それが垢のついた体で汚いものを着ていると、人間、到底、尊厳だの尊いなんていうものじゃない。横をつやつやした牛が、犬が、猿が歩いている。そうするとやっぱり教養である。体の世話ということと同時に心の世話が要る。それで、これはラテン語で、ギリシャ語かなんかで書いてあるが、哲学というのはそもそも心のお世話だそうである。だから私が初等教育にも哲学ということを申すのは、とにかくあのときに心の世話のできる教師が要るんだと。それは哲学という名前で呼んでいるけれども、そういうものなんだからという意味である。 
  それで、その次、専門課程をやってからというように言われるが、学問なんてのは習ってその次に生まれるというものじゃないので、やっぱり基礎といわれ、その予備的な精神的な活動というものを、科学的にしっかりものを考えるという素質を与えるのは高等学校を出たあのころから大学の初めにかけてという年齢が大変大事なときだと思う。そのときにしっかりしたものの考え方を、そのひな形を教えて、ものを考えるということはここまで考えるんだということを教えるというか、習うのがあの過去の偉大な哲学者なんで、自分はヘーゲルの専門家だ、カントだというときに、その先輩がいかに深く考えたかということを習うことによって考える訓練をする。それはやっぱり専門課程の前の方がいいんじゃないかと思う。 
  それで、最前、大崎先生のお話にも、私はちょっと大学院と学部教育のなにで、大学院に入るときの前というのも、実は専門課程に入る前にやっぱり考える訓練というのはしっかりしておいて、そして専門教育を聞き、それによってやる。最前、研究所と大学というものを比較したときに若者がというようなのも、やはり考える訓練をした学生を専門課程も入れ、それをさらに極めるというか、高度なものは大学院でやるという順序の方がいいんじゃないかとも思っているが。これは実際の経験が大事ですから専門教育の後がいいというお考えもあると思うが、自分はそんなことを思っている。 
  いずれにしても、哲学という言葉を大変堅く考えて「知を愛する」ということ以外に「魂の世話なんだ」というような意味で、これは大変大事な項目として、初等のときからそれを意識したものでないといけないと思う。 
   
・座長代理・  委員のおっしゃったことと、今たまたま先生もおっしゃいましたけれど、重ねて申し上げるが、今たまたま私はICUという、さっき大崎先生が日本では実現していないとおっしゃったリベラルアーツカレッジを標榜している大学に勤めていて、東大から移ったときに随分いろんなカルチャーショックがあったわけである。その一つは、さっきもちらっと意見がでかけたが、これは後の話に回したいとは思うが、東大の時代に「研究教育」という言い方に私は慣れており、何の気なく「研究教育」という言葉を使ったらたちまちおとがめを受けて、「ICUの中では絶対にその順序では言ってはいけない。教育研究でなければいけない」。私が今住んでいる研究室がある建物は教育研究棟と言っており、「これは絶対に逆転のできない順序なんだ」というふうに言われる。それはまたさっきの大学の教師の教育と研究のバランスの問題だからちょっと置いておくが。 
  実際に今起こっていることをリベラルアーツカレッジというところで体験してわかることは何かというと、堀場委員がおっしゃった、初等中等教育でやっておくべきで、大学ではもう少し品質管理された素材が入ってくるべきだと。いや、そうではなくて、今まさにリベラルアーツカレッジというところは、その素材の品質管理をしようとしているところだという感覚を非常に実感を強く持っている。 
  それで、結局、小中高でできてこなかった問題。特に高齢化しているから18歳までで十分な成熟、知的成熟、人間的成熟、いま岡本先生のおっしゃった魂の成熟も含めて、が、まだ極めて未熟な状態で、まさに何をやっていいかわからないという状態で大学へ入ってくる学生たちを徹頭徹尾、いわば幼稚園のようにしてケアをし、キュアをしている。私たちの大学では講義のほかに週3時間、絶対的に義務としてオフィスアワーというのがあって、そこは 100パーセントそのオフィスにいなければならない。そうすると学生はアポイントメントなしでも何でも言ってくる。その中には完璧に頭のおかしいのもいるし、それから恋愛で悩んでいるのもいる。 
  それから例えば、これも最近幾つかの大学でやられるようになったが、成績表も事務が渡すんじゃなくてチューターが渡す。すべての学生が必ずチューターを持っていて、そのチューターに成績表を渡される。チューターの方はその成績を見ながら、その学生の状態をいろいろ聞きながら、「今度随分下がったじゃない。どうしたんだ」とかいうようなことを繰り返し繰り返し問答する時間というのが必ずある。だから、我々は3学期制だから、そうすると1年間に少なくとも3回、それにレジストレーションを入れるとその倍あるわけだが、6回はチューターと出会わなければいけない。これが義務になっている。チューターの方にも義務だし学生の方にも義務なわけである。そういう形で教師と学生が最低は1年間に6回接触するような仕組みができていて、しかも、そればっかりじゃなくて、オフィスアワーでは繰り返し学生がいろんなことを言ってくるようになる。それは東大では絶対経験しなかったことだが、それをやることによって4年間の間に、それは確かに例えばどこかの大学院に送り込むことのできるだけのある程度のリテラシーを持った学生、学問的な意味でもだが。それから社会へ送り出して、それなりに、とにかく期待されたことに対してある程度の反応ができるような学生をつくり上げるということまでを私たちはやるべきだということが我々の今の責務になっている。これは非常にはっきりしている。その意味で言えば、恐らく今の大学の相当部分はそれをやらなきゃいけないんじゃないかというふうに感じている。 
   
・座長・  何人ぐらいの学生数か。 
   
・座長代理・   2,400である。 
   
・座長・  1学年 600名か。 
   ・座長代理・  そうである。 
   
・政策委員・  ICUを除いてはと申し上げねばならなかった。 
   
・委員・  国公私立の大学の学長が集まって議論する場をIBMが1年に1回つくってくれるのだが、そこで前のICUの学長さんからICUの状況の説明を受けて非常に感銘を受けたが、今の村上先生のお話で、またその感銘を新たにした。 
  今の日本の大学の状況をみると、現在のところは大学に入ってくる学生は大部分が高校から直接上がってくるらしいが、今後は恐らくリカレント教育というか、社会に一遍出てまた戻ってくるという学生の数が増えるでしょうし、主婦の方が戻ってくるということもあるでしょうし、堀場先生のお言葉を借りると、ますます品質管理が大変になるという、これは明らかだというふうに思っている。それで、一方、科学技術創造立国で、科学技術のしっかりした研究は推進しなきゃいかん。大学は両方の任務をしっかりと果たしていかなきゃいけないわけで、それを相当腹を据えてやらないと、そう簡単なことではできないと思う。 
  そこで私の案は、学部と大学院を切り離せというものである。これを固定的な意味で切り離すと、過去の新制大学の失敗の繰り返しになる。すなわち教養部と学部の間が固定化され、教養部の教官がものすごい不平不満を持ったという。したがって、大崎さんの話によると実体はそれほどエラボレートされていなかったみたいだが、せっかく教養教育というのを新制大学では一つの目玉に挙げてスタートしたわけだが、それは結局何もならなくて崩壊した。ICUだけで成功しているようだ。それで、その過ちを二度と繰り返してはならないわけで、私は、大学院と学部は制度的に切り離すが、その間の人事交流をやらなきゃいけないというふうに思っている。 
  それで、今、国の方針として、国立大学では先生方は皆、大学院の先生になるということになっているが、これは逆さまにすべきだと。大学の先生は本来学部の先生で、教育をやることが本務だと。その中の一部の先生がチャンスを求めて大学院に行って、一定期間、大学院学生と一緒に研究に集中して科学技術創造立国の中核となると。分野によりけりだと思うが、10年ぐらい 100パーセント研究に没頭すれば、かなりのアイデアはそこで実現できると思っている。これは人によりけりで、もっと長く大学院にいて研究三昧をしていただくことのほうがいい方もいるし、あるいはもっと短いほうがいい方もいるからあんまり固定的に考えない方がいいと思うが、そういうことで学部の先生の一部、私は大体5分の1ぐらいでいいんじゃないかと思っているが、5分の1ぐらいの方が平均10年間ぐらい大学院に出向して、そこで思う存分研究をすると、科研費その他のリソースをそこへ集中的に投下すると、多分8割ぐらい充足できると思う。だから、そこでは本当に研究は効率よく行われるし、それから大学院教育も行えるというふうに思う。 
  それで、学部の方は、先生方は9割以上のエネルギーを教育に使っていただきたい。ICUでやっているように、個々の学生の特質に応じた対応ができるような体制を組んでいただきたい。それぞれ物理学とか、化学とか、生物とか、あるいは文科系とか、いろいろな専門のデパートメントがあるが、いろいろなデパートメントから先生が出向して一つの集団をつくって、そこで学生を受け入れる。1人の先生が何人かの学生を受け持つといろいろと弊害が出ると思うが、集団的に一定の範囲の学生をきちっと、ICUでやっておられるように、隅から隅まで見て、この人は研究に将来進んだ方がいい、あるいはこの人はこういう方面に就職していった方がいい、そういうきめ細かい指導をするということをやっていただきたい。 
  このシステムはイギリスのオックスブリッジのカレッジとデパートメントの関係に似ているが、あれほどお金が多分出ないと思うから、本当はカレッジみたいなところをつくってやると一番いいが、やっぱりチュートリアルシステムを何とかもう少し徹底してやる。そういうふうに日本の大学は、ここでかなり根本的に改めないといけない。 
  こういう話をすると、東京大学とか京都大学のような代表的な大学の先生方は「いやいや、学部の学生と大学院を切り離してはだめだ、両方やらなきゃいけない」と必ずおっしゃるが、そこのところは、例えば東京大学の中の一部に大学院におつくりになって、すぐ隣でそういうことをやっていても一向に差し支えないわけで、ただ自分が学部にいる間は教育に9割のエネルギーを注ぐというつもりでやっていただく。そのかわり今度大学院に出向したときは 100%研究に没頭する。大学院教育を含めてだが、そういうふうに徹底的にやっていただかないとうまくいかない。 
  それから地方では、例えば四国に幾つ国立大学があるか知らないが、五つ六つあるとすると、その中で一つ大学院大学をおつくりになるというふうにして対応するのがいいんじゃないかと思っている。すべての先生が大学院に行って研究に没頭するチャンスはあると。それがうまく採択されるかどうかは、その人のクォリティーとかアビリティーとかによりけりで、少なくともあらゆる先生は研究に没頭しようと思えばその機会は平等に与えられる。しかし、そこで採択されるかどうかはその人のクォリティーによると。そういうふうな査定も含めて。それから大学院の方は厳しいチェックがあって、5年とか7年で、やっておられるグループの成果が上がっていなければ、もうそこで切るというふうなことにしていただく。それから、研究科とか学部とかいうのはもうやめてしまうというのが私の考えで、一定数の教授、助教授で集団をつくることは必要だと思うが、そうしないと学問の流れにうまく対応できない。流動性の欠如が日本の学術体制の最大の欠点だと思うので、そんなことをちょっと考えている。 
   
・委員・  最前から何度か哲学教育の問題が話題になっているので、ちょっと情報としてお知らせしたいと思うが。私はヨーロッパ、特にドイツとかフランスでの哲学教育のことしか知らないが、私たちが日本で今、哲学教育の必要性ということを考えるときに、ヨーロッパで実際に哲学教育が現在どうなっているかということを少し頭の隅っこに入れておいた方がいいと思う。 
  あまりよく知られていない二つのポイントがある。一つは、ヨーロッパの哲学教育というのは我々が考えているよりはるかに徹底したものだということ。それは初等教育から大学を卒業した大人の生活にまでしみ込んでいるし、カリキュラムも徹底している。それからもう一つは、そういう哲学教育、ヨーロッパ文化を支えてきた哲学というものが教育の中から今どんどん削減されつつあるという事実。この二つをどう見るかということがとても大事だと思う。 
  哲学教育が徹底しているというのは、例えばカリキュラムの問題で言ったら、フランスのリセなんかでは、最終学年、文系の生徒は週に8時間から10時間ぐらいの哲学の授業が課せられているし、理系に進む学生でも最低3限とか4限の哲学の授業がある。それからまた政治家になる人たちはまた大学院の方で、日本の大学の哲学科の学生の卒業論文よりもはるかにレベルの高い論文を書かないと卒業できない、政治家になれないというようなこともあるし、それからまた小学校時分から、例えばドイツなんかでザッハ・ウンターリヒトといって日本の国語と理科と算数と社会をまぜたような科目があり、例えば算数で、お母さんが買い物にデパートへ行って、これを買って、幾ら払って、幾らおつりがくるかという問題があるときに、それは問題の一つであって、なぜデパートは町の中心にあるのか、あるいはお母さんは車で行かれたわけだが、どうして駐車場が町の遠いところにあるのかというようなことも同じように問うという形になっている。それがまた同時に作文の問題にもなっているわけで、そういうふうに、ものを総合的に見ていくことが哲学というふうに考えられていて、ものの起源とは何であるかとか、歴史とは何であるかという、何々とは何か式の、そういう日本で考えるイメージよりもはるかに具体的である。 
  それは高校なんかでもそうで、例えばヨーロッパの人が英語を習うときの期末試験、私が見知っている一部だが、そういうのは例えば英語の文法の試験をやるのでもなければ翻訳をさせるのでもなくて、リセの一番最後だが、ワシントンポストと何かもう一つ、その日の朝の英語の新聞の1面のコピーを2枚渡して、二つの間の論調の違いというものを論評せよ、それを英語でしなさいというのがいわゆる日本で高校3年生に当たる英語の授業の期末テストである。そういうふうに、考えるということは別に哲学の授業だけでなされていることではなくて、各教科の中にそういう精神というのが浸透している。 
  ところが実際には、今、ヨーロッパでは、そういう哲学教育を削減するという政策がむしろ主流になっていて、フランスなんかでは哲学研究者あるいは大学の哲学関係の人が、こぞって抵抗して、その時間数の削減というものを阻止したわけだが、実際にはヨーロッパでそういう科目が、実は今、むしろコマ数としては削減されている傾向にあるという事実がある。 
  これは私はどうしてなのかよくわからなくて、先生なんかにも教えていただいた方がいいと思うが、何か一つ、フランスの場合なんかで、ある意味で哲学をそこまで高く要求するというのは一種のエリート教育というか、本当の意味での良質の教養人をつくる、そういう何か超エリートを育てるシステムの一環になっているということへの反省があるのかもしれないが、それほど哲学教育というのは初等教育から高等教育まで一貫してあるというのがヨーロッパの現状である。 
   
・座長・  ヨーロッパは一般に、いわゆる日本の教養教育的な一般教育は大学でやっていない、高校までが一般教育であって、大学は専門、もちろんその中に哲学があるというふうに理解してよろしいか。 
   
・委員・  はい。ちょっとつけ加えると、今まで議論になったこと、あるいは昨日議論になったことで、初等教育から大学までの今の教育を考えるときに、やはりポイントになるのは楽しさというか、面白さだと思う。先程堀場会長がおっしゃたように、小学校で先生に何か見せてもらったことに感動して震えてしまうというような体験が小学校から大学まで非常に少ないということと、それからもう一つは、面白さがなければ人間ってやっぱり勉強しない。 
  それともう一つは、先程から創造力ということが、クリアティビティーということが問題になっているが、私は哲学というのはむしろイマジネーションの問題だと考えていて、つまり、目の前にあるものを目の前にないものといかに想像的に、イマジナティブにつなげていくかという、それが哲学というか、考える作業だと思う。それはもちろん例えば物質は何からできているか、これを細分化していったらどうなっていくかという、そういう科学的な想像力もそうだし、それから社会はどんなふうにあったらいいかという構想力。イマジネーションというのは構想力とも訳すが、世の中のシステムをどんなふうに変えるともっと面白くなるか、よくなるかとか、あるいは単純に隣の人が御飯を食べているときにどんな味がするのかという、そういう思いやりという想像力でもいいと思うが、何かそういう想像力、思いやりから科学的な好奇心まで、そういうもの全体の想像力の働きというものを非常にうまく導いていくことが哲学教育だというような感じがする。そういう意味では想像力というのは何か空想的なことではなくて、一番現実的なことに想像力って必要なのである。 
  例えば一つだけ例を言うと、私の友人の子供が小学校で、理科の授業で、卵の新しさを見分けることを習った。先生が卵の黄身の盛り上がり方で新しい卵、古い卵を見分ける方法を教えたときに、試験で先生が「じゃあ、あなたはどちらから食べますか」というふうに、その新しさイコールどちらから食べますかという問いを立てたときに、その子供だけが低い方、古い方を指示した。ほかの子全員が卵の山の膨れている方をマルにした。先生はその子だけペケにして、その子はすごく傷ついた。でも私は、その子が本当の想像力がある、あるいは哲学的な子供だと思う。つまり、古いものと新しいものがあれば、古いものから順番に食べていくのが正しい食べ方、あるいは正しい物事とのかかわり方だと思う。そういう子がペケついて、傷ついて、不登校になっていく。そういうことを強いるものの考え方に問題があると思う。だから、そういうときに、その子は想像力が豊かだったから、古い新しい、じゃあ、どっちから食べないといけないかと考えたときに、例えば家の冷蔵庫のことを考えると、先に古いものからしないと捨てることになるからというふうに、今、目の前で習っていること以外のことまで、家庭生活まで考える。そういう想像力が働くということがむしろ本当の意味での哲学ではないかと思うが。 
   
・政策委員・  先生のお話に関連してだが、要するに大学院を独立的に考えようという考えが非常に強いが、そのことの意味をはっきりしておかないと非常に危ない面がある。一般論として申すと、つまり、日本の大学院が学部依存でずっと来たということについて、例えば専用の施設設備が要る、それから経費はうんとかける、それから大学院の教育研究指導に専念できるような教員配置をすべきである。そういう意味で大学院を教育機関として実体化する必要性については大賛成だが、それを学部と切断した形でやることがいいかどうかというのは、これは場合によると思う。 
  アメリカでも、やっぱりデパートメントとかファカルティーとかいうところに専門分野ごとに集結している教員集団が大学院の指導もやれば学部の指導もやる、両方にわたってカバーするということが恐らく一般的であろうし、それから、片やプロフェッショナルディグリーを出すようなプロフェッショナルスクールであれば、それはまたそれだけで独立してやっているということで、何か一般に大学院というのはそれに専任教員がいて、大学院の専任教員と学部の専任教員がいるんだという分け方が常に望ましい方向であるということは、やや疑いがある。 
  それからもう一つは、大学院重視論の中で気になるのは、学部教育を再構築しないと、幾ら大学院だけよくするといってもそれは不可能で、日本の場合にはやや大学院大学を気軽に作りすぎる。アメリカで大学院大学というのは、以前調べた時はロックフェラー大しかなかった。ロックフェラー大というのは研究所みたいなもので、研究所が学位を出しているという感じである。後は例外なくアンダーグラデュエートコースを持っている。日本の混迷している大学教育の救いを大学院に求めようという時、学部をほったらかして求めると、大学院も学部段階の二の舞になる。やっぱり学部をきっちりした上で大学院という発想に立たないといけないんじゃないかというのが感想である。 
   
・委員・  今の議論と多少関連したのを少し視点を変えて見させていただきたいと思うが、最近やはり、先ほどの村上先生のICUの教育等を考えると、学生の今の現状というものも、いまの議論にやっぱり絡めないといけないと思っている。 
  はっきり言って、今の大学生が、自分が何をやりたいとわかって入ってきて、先程の堀場会長のようなお話というのはほとんどなくて、今の現実に大学に入ってきているのは偏差値でもって輪切りにして、これはおれの大学だからここへ入ったみたいな感じで来て、それで東大の場合だと、私は成績がいいからなぜか地球物理に行くとかいうようなことで自分の将来が偏差値で決まっている。そういうようなことをいまのことで含めて考えると、廣田先生のおっしゃるように、やはりある程度大学の機能と大学院の機能を分けるというのが合理的だと思う。大学ということは、自分が本当に何をやりたいのか、自分が一体どういう人間なのかということを十分考えるような時間と場を与えるような機関として大学があり、その後の実現のために大学院を使うというような方が今の大学制度の中で大学生がとるべき戦略だと私は思っている。 
  というのは、大学院というのは今の状況でも幸いにして一応だれだれ先生という顔が見えるから、今の場合でも普通の大学院生は、大学の4年間で何をやりたいかを決めて、それで大学院で自分の人生を設計しろというのを私は勧めたい。実を言うと、それを阻害しているのがまた大学じゃないかと私は思っており、どちらかというと、東大、京大の批判がございましたけども、研究効率上を考えると、やはり同じ学生に卒論をやらせ、同じ修士課程に進ませた方が研究効率上よいという主張がどうもあるような気がする。 
  だから、むしろそのあたりを、マイナーな変革ではあるかもしれないが、少なくとも大学でやった専門と称するものと大学院でやるものは原則的に変えるようなことを大学が自主的にやっていかないことには恐らくどうしようもないんじゃないか。卒論生の抱え込みあたりをとにかく何とか抑えないことには恐らく全体的な、第一歩として、そのあたりから始めるのが妥当なんじゃないかというような気がする。 
   
・座長・  今いろいろご議論を伺っていて、大学の、少なくとも学部教育の再構築ということがどうしても必要だろうというふうに私も思うが、私が京都大学の総長をしている間に悪戦苦闘したのはいわゆる一般教育をどうするかということで、これが年々悪くなっていく。悪くなっていって、どうにもならないということで非常に困った。 
  それで、考えることは、やっぱりもう一度学制改革のときに戻って考え直した方がいいんじゃないか。そうすると、やはりアメリカのように学部はスクール・オブ・アーツ・アンド・サイエンスということで徹底して、そして大学院で専門教育をやるというふうにした方が、さっきの話のように現在の学生はインマチュアーになっているから、自分で何をやりたいかというのがわからないで来ているわけだから、その方がいいんではないかと。 
  それで、大学院重点化を旧帝大はほとんどした。重点化したところは、学部をもうアーツ・アンド・サイエンスにしてしまい、そして学部学生ももっと減らすと。学部学生が多過ぎる。東大なんかは 3,000以上で、京都大学でもおよそ 3,000である。この 3,000の学生に一般教育するというのはもう本当に難しい状況で、だからさっきICUに何人ですかと聞いたのは 600人と。私はその辺が一番教育として妥当な数ではないか。 600から 1,000ぐらいに学部を減らしたらどうかと。私は京大の総長をしているときに一度そういう案を出したが猛反発を食い、特に法学部が厳しかった。先生を見て言っているわけではないが、法学部は絶対受け入れられないと思う。 
   
・委員・  私は 600を 400に減らせと言った。 
   
・座長・  だから、やっぱり何かそういったことをこの際かなり思い切って提言していくと。そうすると大学も、ほかの大学からまた入れるわけであるし、大学がある程度選んでいい、それは。だから、少なくとも重点化したらやっぱり学部も変えないと、今のように学部から専門をぎりぎりやって、また大学院で非常に狭い専門ばっかりやらせて、本当に狭い人間をつくっていっているというのが大問題じゃないかなあという気がするが。 
   
・・委員・  アメリカの主な大学では、確かに学部と大学院とが一緒にあるが、アメリカに長い間大学院から滞在して、最後にノーベル賞をもらって、今、台湾に帰っているリーさんという人がいて、私と同じ分野なものだから話す機会があるが、彼はバークレーに一番長くおり、最後もバークレーの教授だったが、彼によるとカリフォルニアだけのことかもしれないが、アメリカの大学は四つぐらいの階層に分かれているそうである。そういう意味では堀場先生のおっしゃる、ある程度品質管理ができたのがバークレーに入ってくると。そういうふうになっているわけで、日本のように十把一からげではなく、少しはその選択があると思うが、選択ができれば、学部でも私のような極端な形態でなくてもよろしいかもしれない。 
  それから、大学院の教官を固定しないことが、私の案のエッセンスであり、したがって一定期間大学院に行き、そこで思う存分やった人が学部に戻ると、そのときの研究の余韻が必ずそこへ来るわけである。それを全部の先生はとても無理だが、私のような制度で10年間ぐらいの平均でやってもらうと8割ぐらいの先生は、そういう研究三昧をやって大いに成果を上げたという体験をしていただけると思う。そうすると、その余韻を残したまま今度学部教育に当たると、一般教育が何かというのを私はそれほどよく理解していないが、すぐれた一般教育が自動的にできるんじゃないかというふうに思っている。そのような思い切った対策を今とらないと、ずるずるべったりでやっていくともうどうにもならなくなるんじゃないかという、そういうことである。 
   ・委員・  先程、先生のおっしゃったことは多分私とほとんど全く同じ考え方なんじゃないかなと思って伺っていたが、いわゆる重点化というものをやったときに私自身はどういうふうに考えたかというと、いわゆる専門教育というのはもうこれからは大学院レベルへ上がるだろうと。ただ、それをどうどこから始めるかというところがなかなか難しいので、4年間、学部段階をリベラルアーツで完結的に本当にできるだけの体制というのか、あるいはそれだけの経験というか、理念というのがどうも東京大学にはまだないらしい。片方ではもう一つ教養学部という、村上先生が言い出した、まさにリベラルアーツを標榜する組織が一つ学部としてあるというところで、実際には相互くさび型みたいな形で、学部段階から始まって、それが一応完結するのが修士段階だろうと。博士はそれからさらに専門的な研究者に育っていくという、そういう考え方で始めて、じゃあ学部の教育というのは何なんだといったら、専門に裏づけられたリベラルアーツかなと。あるいは法や政治に傾いたというか、やや特化したリベラルアーツなのかなと。もはやそこで数学とか生物学とか、そういうことは多分やらないだろうけど、しかし、そこで行われるのは本当の意味での法学あるいは法曹養成教育ではないので、もうちょっと一般的なリベラルアーツという。 
  今思い出すと、新制大学に移ったときに当時の民法の大家であった我妻栄先生、「民法大意」という3冊の本を、民法の総則から親族相続法までの全部の領域をカバーする、厚さでたったこれだけである。片方で吾妻先生は「民法講義」という大きな教科書をずっと端から書いている。最後まで行かないうちに亡くなってしまったが、片方ではそういうきっちりした専門的な教育のための教科書を書いている。しかし、新しい新制大学の法学部で教える民法はこれでいいんだというので「民法大意」という教科書を書いていて、それで実際に自分でそういう講義をされた。ところが、だんだんもとへ先祖返りしていくというか、今の民法の講義なんかを見ていると微に入り細に入りとなって、学部段階でとにかくこれだけはやらなければいけないという何かすごいもので、学生の方はもう手を上げているという感じで、それをもうちょっと後ろへ持っていかなければ話にならないのではないかというのが私の発想である。 
   
・座長・  しかも、司法試験を受けようとすると、大学へ入ってすぐに塾へ通うと。 
   
・委員・  そう。あれは滅茶苦茶な話である。 
   
・座長・  そうすると人間のいわゆるヒューマニティーというのは何も勉強しないで、要するに司法試験用の勉強ばっかりやっていると。だからそれは非常に大きな問題である。 
   
・委員・  もうあれは大学教育の外である、法曹教育というのは、今。 
   ・座長・  だから、将来裁判官等になる、いわゆる法曹になる人は、やはり大学ではヒューマニティーをきっちりやるとか、これからだったら、ある程度サイエンスのことも理解しているとか、あるいは国際政治とかいろんなことの理解もしているとか、そういう上で初めて裁判官になるための勉強をした方がいいと。 
   
・座長代理・  医者もそうでしょう。 
   ・座長・  医者もそうである。医者は、この前、文部省の21世紀の医学医療懇談会で議論したら、医者はもう、そうしてもいいと言う。ただ、今の大学の学部教育が専門教育に傾き過ぎているので、それが改善されたらそうした方がいいと。今、医学部だけを大学院へ持っていくと、また工学部を出た人、薬学を出た人、理学を出た人が入ってくる。そこできちんとヒューマニティーまでやってくれたらいいけども、それはやっていない。それで専門ばっかりかじったのが来るのでは、それはやっぱりまずいだろうということで、学部教育が改革されたらメディカルスクールは大学院にするということで、多くの、少なくとも旧帝大系の学部の先生は全部賛成であった。 
   
・委員・  今、ロースクール構想というのがすごく。 
   
・座長・  だから、ロースクールができたらメディカルスクールも同時にいくだろうと。そうすると日本の大学がもう少し変わり得るんじゃないかなあという気がするが。 
   
・政策委員・  先生のおっしゃるアーツ・アンド・サイエンスの学部はつくらなきゃいけないと思う。ただ、それでは学部が全部アーツ・アンド・サイエンスだけでいいかというと、あるいはそうできるかというと、それは適当でもないし、現実的な問題として非常に難しい。だから第一歩としては、やっぱりアーツ・アンド・サイエンスの学部をつくる。そこから少しずつ変わっていくという感じで、やっぱりセミプロフェッショナルな学部というのが併存するけれども、セミプロフェッショナルな学部が、先生のおっしゃるように、一種のリベラルアーツ的な色彩を強めながらセミプロフェッショナルとして残るというのが現実的な選択ではないか。それから先生が御苦労された大学院重点化というのは、あれは便法であって、いずれどこか次の発展形態をとらざるを得ないだろうという感じがする。 
・座長・  確かにアメリカでも工学部は別である。先生、薬学は大学院か、アメリカは。スクール・オブ・ファーマシーというのは。 
・委員・  いや、違う。アンダーグラデュエートがある。 
・座長・  じゃあアメリカは両方が併存しているのか。しかし、ハーバードなんかは工学部を持っていないからアーツ・アンド・サイエンスである。ハーバードとか、イェールとか、プリンストンとか。 
  確かに今おっしゃったような点も考慮する必要があるだろうと思うが、しかし、少なくともかなり重点化した大学は、主力はやっぱりアーツ・アンド・サイエンスにした方がいいというのが私の考え方で、工学部なんかはどうであろうか、安井先生。やっぱり初めからとった方がいいのか。 
・委員・  なかなか難しいところだと思うが、別に工学という学問が特殊だと思ってはいなくて、特に我々は実を言うと化学屋であり、工学をやっているんだか理学をやっているんだかよくわからないような、そういう極めて中間的な専門なものもあり、我々のところなら多分、アーツ・アンド・サイエンスっぽい教育で、それで大学院で専門ということで十分やれるだろうと思っている。 
  ただ、本当にごりごりの工学はやはり機械系あたりになるが、機械系あたりの先生方はそういうことに対してどういう反応をされるか、余り議論したことがないのでわからないが、でも、最近の機械系の先生方も、昔みたいに製図を書くというよりは何かコンピューターを扱っているところを見ると、大して我々と変わらないような気がするが。 
・座長・  この辺で少し締めくくりをしたいと思うが、大学教育については、やっぱり次の世紀を見渡して学部教育の再構築をしなければいけない。だから、今のままでは恐らく破産状態に近いのじゃないかという点で多くの方の御意見が一致しているんじゃないかと思うが、工学教育のあり方について、熊谷先生、何か。さっき申し上げたように、思い切って学部は一般教育にして、全部大学院に持っていったらどうかということを私が申し上げたら、それはちょっと行き過ぎじゃないかという意見も出たわけだが、工学部なんかはどうお考えになるか。 
・政策委員・  私は今の段階では格別の申し上げるような意見がちょっとない。いろいろいっぱい絡むファクターがあるから。 
   
・委員・  私、これまでの御議論ほとんど賛成だが、教養教育などが、何か、あたかも教えられるべき知識があって、それが最も最適なメニューとして、講義されないといけないという感じが強い。私はショックを受けたことがある。90年代の初めに、ナルマダというインドで巨大なダムをつくるつくらないでもめている場所へ見に行った。そこでアメリカの女子学生が、エンバイアロメンタル・ディフェンス・ファンドというアメリカの環境保護団体のインターンとして、ともかく現地へ行って何とか暮らせるだけのお金だけもらって、名刺は使っていい立場ではりついていた。彼女はマスターコースの学生だと言っていた。彼女は最低限1週間ごとに、そのNGOの本部に、今何が起こっているかを逐一報告する。彼女は大学院生だが、世界史の現場で、インドの末端の農民と警察官が殴り合っているところを見ているわけである。 
  アメリカなんかは意識的に研究・教育と世の中の現実とを往復しながら、自分は何をやりたいか、あるいはそれで学問が世の中にどう役に立つのか立たないのか、自分は何を勉強したいのかを考えさせるために、現場に立たせるような制度として設計している。しかも、それをやることが何らかのプロブラムに乗っている。教育でもあり情報収集でもあり、そのプロセスでお互いにメリットを感じ合っている。日本に一番欠けているのはそういうことだと思う。 
  私は京都大学山岳部出だが、今一番深刻なのは、かつて探検大学と呼ばれていた京都大学で、大学院生でフィールドワークをやる人がいない。僕は本当はフィールドワークやりたかったが、最近京大入ってくる学生はみんな受験秀才で、理論ばかりやりたがる。コンピューター計算をやって、論文をたくさん書こうとする。何年間も例えばチベットへ行って、それで論文を書けるかどうかわからないような研究をする学生は京大生として学部から上がってこない。そうすると、京大には霊長研生態学センターとか、人文研とか、あるいは民博まで含めて、フィールドワーカーの次世代が育っていない。しょうがないのでほかの大学に人買いに行く。割と有能な学生は、男の常識から降りた男社会がばかばかしくなって、自分はこれでやりたいと主張するのはほとんど勘のいい女の子である。今、例えば屋久島のフィールドワークを支えているのはほとんどが女の子である。 
  これから、実験科学に加えて、地球環境問題とか、地域研究とか、人類学とかが重要だとすると大学の外に大学のプログラムとしてほっぽり出す。危険を承知でほっぽり出すようなことを組み込む必要がある。それで自分のやりたいことを無理やりでも考えさす。やりたくないことを確認することでもいい。頭を突っ込んだけども、これは合わないからこれだけはやめようと、それはそれで重要な自分の人生の選択になると思う。 
・座長・  非常に私も重要なポイントだと思う。私のアメリカの友人の息子がメディカルスクールに入ったが、やはり普通の大学を出てから2年間南米の奥地へ入って、そこは甲状腺腫の多いところで、そこで食べ物の改善をしないといけない。その実地教育をやってきた。それが評価されてメディカルスクールへ入れた。割といい大学へ入った。 
  だから、さっき入試改革のときにちょっと言わなかったことの一つとして、やっぱりそういう経験も評価してやらないといけないだろうという気がする。これは特に大学院の場合に重要かもしれない。大学を出てからしばらく、1年でもいいから実社会で働いてみるとか、あるいはいまのようにNGOかなんかで外国へ行ったという経験を評価してとる。今のような入試でやっていると極めて一様な学生になる。学生に多様性がなくなってしまう。だから、もうちょっと多様な人間が入ってきた方が大学というところはいいんじゃないかなあということを思うが、いまのポイントも大変重要なポイントだろうと思う。 
   
・座長代理・  今おっしゃったことは非常に大事だが、現地へ行かなくとも、クラスルームの中でさえ実はその経験が足りないんじゃないかというのが常日頃考えていることで、私はアメリカがいいということを言ったことは多分生涯の中で一度もないだろうと思うが、この点だけはアメリカの大学で見習うべきだと思って、日本に欠けているのはケーススタディである。 
  さっき工学教育の問題が出たが、今、APECPEなんかが問題になっているが、例えばエイベット・ツーサウザンドというアメリカの工学系の大学を認証する認証機関があって、そこで工学教育とは何であるかということの基本的なスタンダードをコンパイルしているが、その中にものすごく分厚くあるところは少なくとも倫理に関するケーススタディである。実際にあったことと、それから架空のこととをさまざまに組み合わせながら学生たちに、「あなたはこういう状況になったときにどういうふうに行動するか。こういうふうに行動したらこうなるよ。こういうふうに行動したらこうなるよ」というようなことを実際にクラスルームでケーススタディとして徹底的にやらせるというやり方を大学教育の中でかなり意識的に取り入れている。そして、それができたら、「じゃあ現場へ飛んでごらん。あなた、いま自分がクラスルームでやれると言ったことを現場で本当にやれるかどうか試してごらん」という形で現場へ飛び込ませるというのがステップである。 
  だから、その意味では大学教育の中に、そのケーススタディという問題点、小さなメソッドのようだが、非常に欠けているのが日本の大学教育の中でのケースだと思う。これは大学教育だけじゃないかもしれないが。 
   
・座長・  アメリカの医学教育が今ものすごく変わりつつあるが、ニューパスウェイという名前でハーバードが提案した。それがまさにいまのケーススタディである。だから、一般的な行動で教えることを極めて少なくして、ほとんどケーススタディにして、自分たちで勉強させる。チューターがついてチューターが指導する。そういう形に非常に大きく変わりつつある。ところが日本はまだなかなかそれができない状況だが、やはりそういった教育改革がいろんな面で必要だろうという気がしている。 
  それでは最後に、今日は初等中等教育で改めるべき点、それから高等教育で改めるべき点をいろいろ御議論いただいたわけだが、最後に、もうちょっとジェネラルに、例えば研究システムのあり方、さっき会長は、もっとボーダーのところをやれというふうなことをおっしゃいましたけれども、いろんな問題があり得るだろうと思うが、そういう点で御提案があったらお受けしたい。 
   
・名誉教授・  いま座長のおっしゃることで、ただいま大学教育とかそういうことは大学審議会も絶えず議論してやっていることだと思う。それで私は今日の会議に、冗談のようにしょっちゅう申していたのは、和魂洋才をやれというようなことを言ってきたわけである。要するに日本の近代化のときに、和魂洋才といって、和魂というものを大変重んじている。あのときの教育は本当に和魂をどう取り入れるか、教えるかということばっかり議論している。それで、西洋のものに関しては、技術を取り入れるということを政治的にやっていて、教育の問題にあんまりそれは入ってこない。それで、洋魂というものがあるとすれば、洋才は取り入れたけど洋魂を取り入れていないから基礎教育がいわゆる科学をやらないで技術が入ってくるというようなところもあるから、この 100年目に、あの和魂洋才というものをしっかり見極める。言いかえれば日本の近代の超克ということをしっかりやる。そういう意味では科学というものを、一番最初のときに申しましたように、もう少し広い意味の科学をとるというようなことが大事だと思って、大きく言えば、それが今度の問題の一つであると。 
  もう一つは、今後に関連して、生物の時代になってくると科学が大変人間に迫ってくるから、科学者のモラルとか責任問題というのをやはり大きく取り上げるべきだと思う。それと同時に、西洋が悪いから東洋だという安易な言い方じゃないが、これをやっぱり本格的に取り上げて、しっかりやるべき課題だと思う。それで、こういうことは過去の整理と一緒になって今後の教育の目標になると思う。今は教育の目標というものをはっきり立てないでこうして議論しているから、学生が、若者があんまり目標のない状態にいるということも問題である。 
  そんな意味では、この会議は、新しい総合科学技術会議の出発に当たっては、明治から 100年たった今日、和魂洋才というものをもう一遍しっかり見直そうということと同時に、科学技術と倫理の問題、道徳の問題とか責任の問題というもの、それから一般によく安易に言われることだが、東洋と西洋の文化のあり方とか、こういうものによって今後の目標を、若者が希望を持つように目標をつくるということに努力すると。そういう大きな二つの方向でもしっかりやっていただきたい。そういう希望を申し上げる。 
   
・委員・  科学技術会議で、重点項目というのをここ数カ月議論して、12年度の最重点項目とかいうのをつくっているが、分野的には生命科学であり、情報科学であり、あるいは環境科学で、こういう分野は、生命科学については異論の方もあるかと思うが、今、重点項目として挙げられているのは伝統的な学問分野をまたぐようなものである。生命科学についても、恐らく21世紀の生命科学は今想像されている生命科学と全然違う、もっと幅の広いものでなければいけないというふうに想像していて、そういうことから、なぜこういう三つの分野が重点項目に選ばれたかというと、日本ではそういう横断的な学問分野に対する対応が非常にしにくい、そのために非常におくれてしまっているということがあるんだと思う。 
  だから、今後、学術体制の問題としては、伝統的なものは非常に貴重だし、それはベースとして重要だと思うが、そういうものを尊重しながら、なお横断的な分野もやれる、対応できるという体制を取り入れないと今後やっていけないというふうに思っている。それにはどうしたらいいのかという点については私はあんまり確信がないが、さっき提案した大学院の制度、研究科とか学部とか廃止しろと言っているのはそれの一つのあらわれである。いろんなやり方があろうかと思うが、ここのところは、やはり日本として今後考えていかなければならないことではないかと思っている。 
   
・座長・  今の日本の学部というのは基本的に明治時代。昨日、村上先生から話を伺って、東京大学が明治10年にできたときの学部は基本的にはそのままである。だから学問がものすごく変化しているのについていけていない。もちろん経済とか、後で薬学とか出てきているけれども、基本的には明治時代の学部がそのままであって、学術会議も学士院もすべてそのままの縦割りでいまだに続いているという現状なので、これはやはり、多分、先生がおっしゃるように、大学院で打ち破るべきだろうというふうに考えている。だから、学部までは伝統的なものを残しておいて、大学院は10年に一遍ずつぐらい再編成してもいいんじゃないか。だから、そういうふうに思って京都大学では四つ独立研究科をつくった。それは全部、単一の学部ではだめだ、複数の学部が参加しろ。三つ以上ぐらいに参加してもらうというのを条件にしてつくったが、やはり大学院を改革していくというのが一つの方法だろうと思う。 
   
・委員・  生命科学、あるいは21世紀は生物学の世紀だとよく言う。私は生物学や先端医療と社会の中間領域の研究をやるポストに二十何年間おり、ついでに地球環境問題もやっている。よく文理融合ということが重要だとよく指摘されるが、大変不思議な感じがする。なぜか私がちょっとやるとすぐ専門家になってしまう。それは研究者がほとんどいないのかということだが、それは多分、政治的紛争項目も含んでいたり、どのみち価値観を整理しないといけない問題であり、多分日本のアカデミーの中には、もともと研究というのは価値自由であって、基礎原理をやる方が高級という価値観がぬり込められているからだと思う。しかし社会が合理的な判断をするためにも、一方で推進すると同時に、どこかでブレーキとは言わないが、その問題がどういう問題を社会に突きつけ、社会がそれに向かわざるを得ないかという部分について、制度的に研究をやるところを持っていないと先進国でないと思う。 
  それからよく研究で日欧米というふうに3極を比較するが、その場合に意外と抜けるのは、欧州というのは欧州は先進国のかたまりであって、アメリカ、カナダを含めて先進国グループを形成することになる。しかし、アジアの中で日本一国が超先進国であって、基本的に周りが途上国という難しさがある。韓国、台湾、香港、シンガポールは除いてだが。日本がアジアと向き合う場合に、日本一国が世界第2位の巨大経済大国で、あと基本的には途上国であるということの難しさについて日本の国内で意識が乏しい。途上国はいろんな資源がないわけで、その場合対策としてはアジア諸国が日本の研究資源を共有すると。 
例えばEUの研究資源に対して、ロシアが研究費申請を出していい。旧社会主義国は崩壊したので。そういう意味では、科研費に東アジアの人間が公募してもいい。科研費とか振興助成費のような巨大な研究費という資源を持っているのは日本だけなので、日本から見ても有用だ、国益上やってもらいたいような研究についてアジアの人に対して研究費を日本が拠出することを、戦略的にもやった方がいい。 
  なぜ戦略としてやった方がいいかというと、一つはアメリカは冷戦時代に巨大な研究費があって、それを正当化するために、ポスト冷戦時代には、国益ということを言い出した。パテントとか何とか言いだしているわけだから、逆に日本が、研究というのは人類共通の資源だということで、アメリカの国策に異議をとなえても良い。冷戦時代はアメリカは何か非常に高邁なことを言っていた。そこをアジアの研究者に研究資源を日本が提供するということを介して、アメリカの国益主義的な今の研究の動きに対して、そういうことを考えてもいい。 
   
・座長・  これについては学術振興会がある程度そういうことをやっておいでになるし、厚生省も去年からアジアに多い感染症に対して研究費を出すということをやり始めている。ただ、日本の研究費の中から出すわけだから、いろんな制約があって、まだまだ十分ではないが、そういう点が少しずつ始まっているということを申し上げておきたいと思う。 
   
・政策委員・  21世紀における科学技術教育について2点コメントさせていただきたいと思う。一つは21世紀における工学教育において、21世紀の科学技術のブレークスルーをつくるキーポイントの一つが生物に学ぶということではないかという点である。 
  御承知のように、MITでは数年前から全学科の学生に生物学を必修にして課しているということであり、電気工学科の学生であろうが、機械工学科の学生であろうが、MITの卒業生は、例えば免疫とかDNAというようなことについても新しい本物の知識を一応持っている。日本の場合も、究極の知的機械である人間を含めて、生物に学ぶという方向を工学教育においても考える必要があるのではないか。それを、再構築されるべき学部教育でやるのがいいのか大学院教育でやるのがいいのかちょっと私はまだわからないが、いずれにせよ、生物に学ぶという方向を教育の上でも考える必要があるのではないかというのが1点である。 
  それからもう一つは、人文社会科学系との連携である。20世紀は、考えてみると、あらゆる意味で機械中心の世紀であったと言えると思うが、21世紀は、いろんな意味で人間主体の世紀になるだろうと思うわけで、そういう意味では例えば私の専門分野である情報科学とか情報技術の分野で言っても、人間とか人間社会と先端的科学技術との間のインターフェースというのが現状では甚だ悪い。パソコンなどをだれでもすぐ使いこなせるというわけにいかないが、これは技術が成熟していない証拠なので、技術者というのは人間とか人間社会とのインターフェースをもっとちゃんと考える必要がある。そういうことも教育でよく考慮する必要があると思う。この2点を申し上げたい。 
   
・委員・  これからの大学とか大学院の講座、あるいは研究室の制度についてだが、現在は科学、まさにファッハヴィッセンシャフトとしての科学という学問別になっているが、一つ、それとは違う形というのが考えられまして。 
  それはコレージュ・ド・フランスというフランスの最高学院でやっていることだが、そこは新しい教授を迎えるときに必ずその人の学問の名前をつける。私が知っている範囲では、例えばミシェル・フーコーという思想家が出たときには「思考のシステムの歴史講座」という形で。それから最近では、私ぐらいの年齢の方で、顔の研究をなさっている人だが、それに対して、肖像画や精神医学における顔の診断から儀礼用の仮面まで、いろいろ顔というテーマで通学科的にやっていらっしゃる方には「視覚人類学」というような学問名をつける。つまり、一人の学者、極めてエクセレントな学者に対して、その人の学問の名前をつけてお迎えするという制度をやっている。 
  これは前に、第1回目の会合で井村先生が個の科学、これからは個、インディビジュアルの個の科学というものが、例えば医学なんかでも患者さん一人一人に対して最もふさわしいケア、キュアをし得るような個の科学というものが生まれてくるだろうとおっしゃって非常に感銘したが、それと同じように方法の個性というか、その人でなければ見えないような、そういう視点の個性というもの、そういう科学の個性というものも非常に重要だと思う。 
  そのときに、それが科学技術の問題とどう絡んでくるかというと、昨日熊谷先生がおっしゃいましたように、テクノロジーというのは単なるテクニックじゃなくて、学習できるという、そういう一つのシステムとしてやっていくということで、だからそれは一種の熟練の否定、テクニックにおける熟練したテクニックの否定としてあったと思うが、テクニックの場合、逆に、あの人でなければできない技とか、手腕とか、手管とか、そういう個性というものがあると思う。 
  だから、例えばF1レースの最高のテクノロジーの粋といわれるものが、ある職人さんのテクニックによって最後完成される、エンジンが完成されるとか、あるいは例えば情報学の人とか電気通信学の人たちが、顔情報というものを分析されてモナリザの泣き顔を再生したりとかなさっているが、それよりも例えば似顔絵師の一筆の方がはるかに情報が多いということもあり得ると思う。だから、そういう意味で、もう一度、学習可能なシステムとしてあるテクノロジーと、それから、あの人しかできないという個の方法としてのテクニックの交流ということを、それこそシステマティックに考える必要あるんじゃないかというふうに思っている。 
   
・座長・  まだまだ御意見を伺いたいが、時間が無くなってしまったので、これについてはもう一遍ぐらい東京で簡単な2時間ぐらいの会合をやって、まとめをしたいと思っている。 
  いろいろ貴重な御提言をいただき、例えば倫理の問題等についてはぜひ村上先生から発言をしていただきたかったが、時間が少し迫ってしまった。それから、いろいろ新しい研究体制のあり方について、あるいはその内容についても非常にいろんな御提言をいただいた。生物学はキャルテクも必修にして、キャルテクは学長がデイビッド・ボルチモアだったか。分子生物学者がキャルテクの学長になるとか、ハーバードはあらゆる学部の学生に全部必修にする。やはり次の世紀を見ると、生き物、生命というものへの理解を深めないけないというのは間違いがないところだろうと思うが、そういう点でアメリカの方はやっぱり一歩進んでいるところがあると思う。 
  いろんな点、いろいろ御提言をいただいたので、これは少し整理をして、できたらもう1回ぐらいこのワーキングを持ちたいというのが今の私の印象である。 
  皆さんまだまだ言いたいことをたくさんお持ちだろうと思うが、今日は一応この辺で二日にわたりましたワークショップを終わらせていただきたいと思う。 



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