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21世紀の社会と科学技術を考える懇談会
―  第12回会合 議事録  ―

1.日  時:平成12年1月26日(水)  10:00〜12:00

2.場  所:科学技術庁 第1、第2会議室

3.出席者:

  (委  員) 井村、石塚、廣田、石井、猪木、今井、宇井、クリスティーヌ、後藤、佐々木、中島、西垣、松尾、丸島、米本、鷲田の各委員
   熊谷議員、猪瀬政策委員、大崎政策委員、矢田部政策委員
  (事務局) 科学技術庁 青江科学技術政策局長  他
   文部省 工藤学術国際局長  他

4.議  事

・座長  本日は、中間報告についてこれからご議論いただきたいと考えている。前回の懇談会でいろいろご批判をいただき、それを受けて、事務局で検討を重ね、かなり基本的な姿勢を変えることにした。私も年末突っ込んで読み直してみた。タイトルにあらわれているように、「社会とともに歩む科学技術を目指して」ということを基本的姿勢にしたいと考えている。これは、科学技術というものが社会の中にあって、さちに突っ込んで言えば社会のためのものである、そういう姿勢を明確にしたいということで、中間報告のタイトルも変えさせていただいた。それを受けて、「はじめに」という序文も大幅に書きかえた。それからまた、「生活・文化と科学技術」という項目を加え、これをトップに据えて、重視するという姿勢を明確にした。それから、第3章あたりからもかなり変え、第3章は「21世紀の科学技術の在り方」、第4章は「新たな『知識社会』の構築を目指して」というふうに変えて、全体として社会というものを重視する形にしている。まだまだ細部にわたってご意見もあろうと思いますし、不十分な点もあろうと思いますので、今日はその点忌憚なくご批判をいただきたいと考えている。
  なお、こういう課題でまとめようとすると、すべての委員の方々の意見を完全に盛り込むことはできない。それは相反する意見が出てきて、それを全部書けば何を言っているかわからないということになるので、相当な取捨選択をさせていただいている。その点もご了解いただきたいと思う。
  それでは、これから率直なご意見を伺って、そして修正すべき点は修正していきたいと考えているので、何かご意見がありましたらお願いしたい。

・政策委員  前回のものよりは大変よくまとめられていると拝読したが、気になる点を3点ほど。
  1つは、7ページの「政治と科学技術」の最初のパラグラフに書いてあるのは科学技術の問題自体が政治のイッシューになり得るということですね、クローン技術などというのは。それから、最後の方は要するに科学技術の振興に対する政治の役割といったことですね。それで、その政治なり政策の決定に際しての科学技術の貢献という視点が、多分この真ん中に苦心して書いていらっしゃるのだろうとは思うが、必ずしもその視点がクリアではない。政治と科学技術とどういう関係にあるんだということを読み取るときに、若干そういう3つの側面が読み取りにくいような気がした。
  それから11ページであるが、「地域振興と科学技術」というところがあり、(4)の後の方に「いわゆる研究大学は全国に分散して存在するが」ということで、既に現状をある意味では是認しているような感じも受けるが、むしろ各地域の研究拠点として期待される大学は全国に分散して存在する。ただ、それが現状では研究大学と言い得るためにはさらに自立を要するという状況のものも少なくないわけだから、そこはむしろ研究大学と言い切らないで、地域における研究あるいは科学技術の拠点となる得る大学は全国に分散して存在するけれども、その拠点としての機能を十分発揮できるようにしろという角度から何か書いていただいた方がより前向きになるのではないかと思う。
  それと同時に、その下に、地域社会との関係も大変重要だと。その意味では大変重要ですが、「地域振興と科学技術」の項目の下から2行目で、「国立大学等と地域社会との一層緊密な協力関係の在り方に照らし」というよりは、むしろ「一層緊密な協力の発展の図る上でも」とか何とかという感じではないかという感じがする。
  3つ目は、教育にかかわることである。これは質問を兼ねて2、3ある。12ページの「学力の現状」というところで、中学生の理数は国際的には依然としてトップレベルにあるというのは、何かそうじゃないという話を僕は聞いた記憶があるので、この点はこう書いて間違いがないかどうかということと、これは文部省の考えもあるんだろうと思うが、学力は低下していないんだということを強く主張されるのか、そこがよくわからない。一般的には、少なくとも今は決定的に低下していないまでも、低下することへの対応という観点を打ち出す方がより適切ではないかという感じがして、ここがちょっとひっかかったところである。
  それから、13ページの高校卒業生のうち3人に1人以上が大学というのは、これは短大を入れない数字ですね。そこはコメントしなくても、大学と言えば四大だということなら、それでいいかと思う。
  14ページのインターンシップやボランティア体験というのを科学技術関係の文書であえてコメントする必要があるのかどうかというのが、若干気になっているところである。
  それから、そのボランティアのすぐ下だが、大学院について「研究に偏らない」という言い方があるのは、これも言いたいことはわかるが、表現としては余り適切ではないんで、むしろピンポイント的な研究態度を養わないようにしろということを言いたいためなんだろうと思うので、ワーディングを修士、博士に変えた方がいいのではないか。
  3つと申したが、勘定してみたらちょっと数え間違っていた。最後に20ページの「基礎研究の振興と重要分野への対応」であるが、特にその後段で分野の話も出ているので、基礎研究というのが、「その成果は人類の知的共有財産として、それ自体優れた文化的価値を有する」というので、これはもう全く異論がない、そのとおりだと思うけれども、同時に井村先生がお話になられた社会とともに歩む科学技術という観点からしても、要するに人間生活、社会生活のあらゆる面にわたっての基盤形成という点で基礎研究というのが非常に大事なので、それはそういうのを長期的視野にわたって養っていくということが、長短いずれも人間の社会経済活動の基盤になるんだということもあわせて強調しておいていただいた方がいいのではないか。
  
・座長  学力の問題は、答えはあるか。私もちょっと正確にはわからないので。

・審議官  学力の国際比較調査は、既にプレゼンテーションなどでも資料があったと思うが、3回国際比較調査があって、日本は、実は調査対象国が韓国とかシンガポールとかそういう国等に広がっていったこともあって、一番最初は大体1位で、2回目が2位で、最新のは3位だが、そういう意味では依然として世界のトップレベルというのは間違いない。ただ、その内容を分析すると、計算問題などのようなものはみんなの成績がよくて非常に高いけれども、少し考えさせて解くような問題、応用問題のところでは必ずしもそうでないというような面もあると思うので、その内容面において、ものを考える力だとか、応用的な問題解決へ取り組む力だとか、そういう点での問題が指摘されているとか、そういうことをどこまで言えるのか、ちょっと書き込めるのではないかという気がする。

・座長  これはあくまでも平均値であるか。

・審議官  はい、これは平均値である。

・座長  だから、分散がどのぐらいあるかはちょっとわからない。平均値で見るとやっぱり高いのは高いわけだが、多分アメリカなどは上の方は非常にいいのがいる。だから、そういう点がちょっと違うということもあるので、一概に言えない。だから、今日本で問題になっているのは、平均値よりもむしろ上の方が落ちているんじゃないか。そこが非常に大きな問題になっていると思われる。

・学術国際局長  多分、このようなことがいろいろ言われているが、学力というのは何を基準に言うかというのが必ずしもはっきりしていない。ご案内の通り、高校以下の指導要領については新しい学力観というのを前の改定のときに打ち出して、そもそもよって立つ評価基準が以前の我々あるいはもっとシニアな年代の人と今の子供たちとで違う価値尺度での学力というか、学校教育を進めているが、ただ一般に言われているというか、共通項で言えば、学力が落ちた、いや落ちていない、トップレベルだということを言っても余り意味がないので、むしろ本当に基礎基本をちゃんと理解しているかとか、あるいは例えば医学部なり理学部へ進むのに本当に必須な基礎知識としての生物とか物理の基礎学習はしているかとか、そういう将来の専門性へのマッチングした適切な学習の蓄積という点がなされているかどうかということの方がむしろ問題だと思う。基本的にはマスの教育でどんどん底辺が広がっている中で、旧制高校の世代からすればどんどん薄くなっていると憂えるのは仕方がないのであるが、トップレベルで比較すればどうかという話と、今の中身でご提言した方がむしろ、下がっている下がっていないという機械的なお話よりはいいのではないかと思うが。

・座長  だから、ここはちょっと書き方を変えて、「学力は依然としてトップレベルにある」と書くよりも、むしろ現在の今言われたような点、だから内容が一部においてそういう力が落ちているんじゃないかという危惧があるとか、むしろそういうふうに書いた方がいいのかもしれない。

・政策委員  それは局長の言われた通りだと思うが、要するに学力とは何ぞやという観念論争をやっても仕方がないので、今一番問題になるのは基本的・基礎的な学力・能力、考える力とか何とかというもの以前のところが問われているのだろうと思う。その点を問題意識としては持つ。

・座長  それから、次の研究拠点の問題だが、研究大学ということを書いてしまったので、いろいろ問題があるかもしれないが、これは一応アメリカのカーネギー分類という、リサーチユニバーシティーの分類があり、その分類に照らして、そのまま日本に持ってきた。それには問題がいろいろあるが、それを無視して一応アメリカの基準を日本に照らしてみると、日本にはリサーチユニバーシティーが16あるという結果になった。そのうち、リサーチユニバーシティー1と呼ばれる、よりレベルの高いのが9つと、2が7つ。それを見てみると、それは全国に散らばっている。問題は、国立研究所、それから特殊法人の研究所、財団法人の研究所は圧倒的に関東です。その他の地域にはほとんどない。だから、そういう偏在が地域社会の科学技術の振興に問題があるのではないかということが考えられるが、そこまで余り強く踏み込んでは書かなかった。だから文章だけで見るとそういうニュアンスがとれないんじゃないかと思うが、文部省は明治以来ずっと全国に大学をつくっていこうということで、全国を幾つかの学区に分けてスタートしているわけであるから、そういう形が現在も続いている。

・委員  9ページの「研究と知的所有権」に関するところであるが、7行目、「このため、何を特許の対象にするのかなど」と書いてあるのでこれは包含しているとは思うが、今一番問題になっているのは国境をまたがる実施である。法律が属地主義で、実施がボーダーレスになっている。そういう意味で、管轄権と事業、そういう問題が非常に重要になってきているんじゃないかと思うが、それを例に挙げていただいてありがたいなと思っている。保護の対象も非常に問題になっているが、その問題について。それから・・・。

・座長  特許の国境を越えた実施。

・委員  はい、ボーダーレスな実施である。インターネットビジネス、E−ビジネスが今後盛んになっていくと思うが、特許そのものは、日本の特許は日本の国内しか効力がない。ところが、実施は国境を越えてしまう。それをどうやって権力行使するのか、この取り決めが今はない。恐らくある国はそれを自分のところに管轄権があると言って自分の国の特許で裁くだろう。事実上世界特許というか、そんな機能まで果たすような時代になってしまうんじゃないかと思う。そういう意味で、国境を越える実施に対して国際間で本当にどうするのか、早急に取り決めないと、E−ビジネスができなくなってくるんじゃないかという感じがする。
  それから10ページだが、ここに書かれているように、21世紀の最後には知的所有権の問題がなくなる時代が来るのかもしれないが、今ここでこの問題として知識所有権制度そのものを検討すべきということを書くのが果たして適切なんだろうか。確かに現在は、何でも保護の対象にしよう、情報あるいはデータベース、とにかく何でも権利を与えよう、与えようという方向で動いているので、行き着くところはにっちもさっちもいかなくなって崩壊するだろうという感じもするが、今この中でフロンティアでやっていこうというときに、知的所有権制度そのものが問題だから検討するべき課題だと表現するのはちょっと行き過ぎじゃないかと。むしろこれは権利の行使の問題だろうと思う。例えばゲノムの問題もそうであろうが、標準化の問題もそうである。エッセンシャルファシリティーとよく言うが、これがないとできない、そういうものに対する権利行使をどう扱うかという問題を検討すべき時代に来ているんじゃないのかなと思う。だから、制度全体の見直しというよりは権利行使のあり方というところに、本来代替性のあるものなら、これは知的所有権は存在しないと、皆が汗水たらして投資して開発するということは阻害されてしまうが、だれもが必要なもの、これがないと何もできなくなるといったものに対する権利の行使、これについては何か見直さないと、行き過ぎた保護になるんじゃないか。ここで例に挙がっているような、これはインターネットのネットワーク上の標準化の活動の例だと思うが、確かに参加するのには特許は全部放出するというステートメントを出さないと参加できない。そういう標準化団体の一つの例をここで挙げているが、これも標準にするからそうするんだという前提があると思う。だから、そういう意味で全体の問題というのではなくて、何か権利行使のある、これがないと世の中が本当に困ってしまうというようなものについての権利行使の問題を検討すべきではないのか。標準の特許の問題で恐らく21世紀に相当な問題が起こると思うが、今はそれを扱う制度なり仕組みというのは何も決まっていない。だから、いろいろな問題がこれから起きてくるんじゃないかと思うが、その点を指摘しているのであれば、私は大賛成だが、全体の問題として検討すべき課題だと言われると、それこそ全体の報告書のトーンからして、ちょっと外れているんじゃないのかという感じがした。

・委員  今伺っていると、企業の方の立場は 100%よくわかるが、私はやはりここはぜひこのままにしていただきたいという意見である。それで、もっと大きい枠から言うと、この報告書のトーンと言われたが、今日は村上先生が不在なので弟子がかわりに言うみたいなことになるかもしれないが、やはり科学技術から社会を見ていて、社会から科学技術を見ているとはどうもなっていないような気がしてならない。非常にいろいろな意見を生かしているのは痛いほどよくわかるが、科学技術を推進して、そしてそれに対する負のところは何か対応しようというようなことがどうもいろいろなところから感じられてしまう。
  ちょっと個人的な話で申しわけないが、最近それを痛感するようなことがあって、実は女房が出産をしたが、ちょっとおもしろい形の出産を体験した。それで、そのお医者さんはもともと理学博士で、女性で、自分が出産を体験して、どうも産科学がおかしいような気がするというのでお医者さんになったという方だから、科学主義の方なのである。ただ、今の産科医療を見ると、帝王切開率が非常に何十%もあるとか、女性にとっては非常に屈辱的な分娩台の上で産むとか、非常につらいんだそうであるが、そういうのを一々見直したらどうなるんだろうということを調べると、どうも男のお医者さんに都合のいいように、扱いやすいようにできている。女性にとっては産むのに重力に反して足を上げているわけだから、重力で産むのが正しいのにできないとか、それから帝王切開があんなに多いのはおかしいと。つまり、医療で対応しようとするからであって、産む前に体重コントロールとかを科学的にすれば、そういう意味での医療介入をしないでも帝王切開をしなくて済むんじゃないかということでやり始められたそうである。開業されて約1年  100件の分娩があるそうだが、1例も帝王切開がない。それを伺い、これは最初はみんな半信半疑だったが、もうだんだん統計的に無視できなくなり、産科学のお医者さんたちが今騒ぎ出している。
  そこで感じたのは、科学技術が非常に無神経に人間社会に入り込んでいる部分もあるのではないか。僕は科学技術は好きで、もともと理科系なので、昔はそう言われると腹が立ったが、だんだん科学批判みたいなのを商売としてやるようになって、たまには言わなければいけないのでちょっと許していただきたいが、特に科学技術の方は大変怒られるかもしれないが、あえて職業上の私の倫理としてこれは言わなければいけないと思っているが、社会の方からもうちょっと考えていただきたいというのがこの委員会の趣旨だと思う。
  例えば、この中に余り出てこないのは、GMO(遺伝子組み換え食品)、論争的なものであるというのはわかるし、賛成の方もいるし反対の方もいるというのは僕もよくわかるし、どちらが正しいかよくわからないが、やはりこれに消費者が懸念を持つというのは、何で突然科学技術がここに出てくるんだ、食い物をほかにつくれるじゃないかというような健全な市民感覚みたいなのが一部分で出ているような気がする。そういうものが出ていない。
  具体例を挙げると、ジャーナリズムは科学技術に対する情報を正しく与えるべきであるというのは、いわゆる科学論で言うデキシットモデルという、一般の人は科学技術を知らないから教えてあげればちゃんと決定できると。ところが、専門家の方に見えなくなっていることも場合によってはある。専門家というのは特殊なトレーニングを受けるので、その中で見えなくなるものがあるから、専門家の言うことを一般人が納得しないんだという、こういうモデルもある。だから、ジャーナリズムの役割などを考えても、そういうところもちょっと入れていただかないと、やっぱり科学技術を推進すればいいんだと。知的所有権も。もちろん商売をやるときに知的所有権は大事なのはわかるが、例えば遺伝子の資源が独占されることによって、先ほど運用の問題と言われたが、そういう面もあるが、例えばターミネーター遺伝子を組み込んだ種を途上国に売る。これはもう倫理上の問題になってしまう。ターミネーター遺伝子は翌年はまいても死んでしまうわけであるから、こういうのを途上国に売るのはもう倫理の問題であって、商売としてそれがないと絶対困るという問題は、果たして運用の問題だけなのか、どうしても僕はそこが疑問になってしまう。これは申しわけないが、そういう異論もあるということはぜひご了解いただきたいと思う。特に遺伝子資源は、最近インドなどから持っていった資源をアメリカが実用化すると、インドで使えなくなってしまう。インドには文献的な特許の証拠がないので、神話か何かでこれは薬草として知られていたとかというので、仕方がなく……。これがハーモナイゼーションで全部の国の特許が同じになってしまうとインドでは飢えてしまうということも起こるわけなので、これは後でゆっくり対応すればいいが、その前に死んでしまうということになると大変なので、今グローバルスタンダードはアメリカのスタンダードで動いているので、そこに乗ってしまうのがいいのかどうか、常に考えなければいけないんじゃないかと。
  それから、別の点も言いたい。先ほど学力の低下の話があったが、新学力観にのっとる限りは学力は低下していないんだと思うが、知識低下は大学では明らかに起きていると思う。特に理科は習ってきていない。習っていないから知らない。つまり、考え方をどうやって教えるのか僕は知らないが、今は考え方を教えられないと思う。今からみんなで考えましょうとやるのかということだが、いろいろ工夫はされているが、そんなことはできない。知識があって考えるのであって、その基礎知識が、個人的な体験では、理科も習っていない、一部は世界史も習っていないから、私は科学史の教官なので、仕方がないのでレオナルド・ダビンチを教えようとして「メディチ家が」と言った途端に「メディチ家なんか知りません」というのが大学生のレベルなので、これは困る。もうちょっと言うと、大学院も大衆化していて、大学院の学力低下はひどいと思う。もちろん大学院が大衆化すればそれは当たり前のことだが、エリート校と言われる基礎的な研究をしなければいけないところまで、例えば具体的に言うと東大では、社会人などをたくさんとることによって教育が大変になっている。ここは何か対応を考えなければいけないと思う。
  最後に、もう1点だけ言わせていただきたい。最近アメリカで出た本を読んだ。それは中央研究所の時代の終焉ということだが、アメリカではTLOなどを通じて大学から知識が移転するということがトレンドになって、そうすると大学が応用的なことをやるようになったが、そこで問題になったのは、10年後の日本の問題だと思うが、基礎研究をやる機関がなくなってきてしまった。そこでアメリカは何をやったかというと、クリントン大統領がやったように、大学はものすごく基礎的なことをやる。ちょうど日本と逆の流れになっている。それは恐らく10年でいくので、これだと大学はどんどん産業界に向かっていく。それはもちろんそのとおりだと思うし、これから10年はやらなければいけない。私もTLOにかかわってやっているけれども、次の10年はもう逆の方向で、今度は国が基礎研究を振興する、科学技術の根のところにもう一回戻らなければいけないということは、アメリカは既にレポートで調査をしてやっているので、そこもぜひ視野に入れて。つまり、この報告書は極めてトレンドに乗っているが、トレンドに乗っているということは10年たつと古くなるということじゃないかという点を大変危惧している。

・委員  この国民とか社会からの視点の重要性ということは前回にも申し上げたし、ここでは、科学技術にはプラスの面もマイナスもあって、文理の融合が非常に大切だということが非常に注意深く書かれている。それは非常によろしいかと思う。例えば6ページの防災のところの問題だが、ここでもそういう観点から極めて注意深くよく書かれていると思う。
  しかし、一つ大切なことは、人間が犯すミスによって生ずる災害のリスクだけがあるのではなくて、今の科学技術の最大限に行使してその国々の国力とか経済力によって実際の構造物、物理的な面からだけ見ても、これには必ずリスクがある。これは悲しいことだが、そのリスクというものは国の経済力とかそういったことによって違ってくるが、自然災害に限っても、我が国なら我が国でそういうものに対するリスクがどのぐらいのレベルであれば国民的な合意が得られるかという、今まではそういう国民的な合意の形成というものを全然していなくて、私の分野などでも一方的に耐震基準はこれぐらいでと、国の力が上がってきますとそれを少し上げましょうということだが、やはり科学技術に一定の限界があって、こういう特に災害のような安全・安心に関する問題にはリスクがあって、そのためにどのあたりで国民的な合意が得られるかという方策を今後探っていく必要があるということを少し触れておかなければならないのではないかと思う。
  
・座長  確かにお金をかければかけるほど安全度は上がるが、そこに限界がある。それから、地震でも、実際にどのぐらい大きな地震が起こるのかというのはなかなか予測できないから、少しその辺のことも考えたいと思う。

・委員  別の委員もご指摘されたように、前回から比べてもう画期的によくなった。座長をはじめ、事務局の方々のご努力に敬意を表したいと思う。特に後半がすばらしいと思う。
  それで、こういう中間報告をいろいろな広い範囲の方に読んでいただくと、やっぱり「はじめに」というところを皆さん読まれると思う。その「はじめに」というのがどうも余りぴんとこないので、第3章ぐらいまでいくと本音が出てくるが、「はじめに」のところを見ると、科学技術のヒストリーと、それから明の部分、暗の部分とあって、「はじめに」の一番最後のところへ来て総合科学技術会議のことが出て、こういうことをやるんだというのが書いてあるが、「はじめに」の一番最初のところに、これは後の方にいっぱい材料はあると思うが、我が国が21世紀に向けて世界の中でどういう役割をする国になろうとしているのか、そういったところを少し大上段に振りかぶってやっていただいて、それについては科学技術の問題は避けて通れないわけだから、そういうところに話を引っ張っていくというふうに、パラグラフ1つか2つで結構だが、何とか書いていただけないだろうかというのがお願いである。
  もう1点は、第2章のところに「生活・文化と科学技術」というのを入れていただいて大変うれしく思っているが、私は前回の中間報告案のときに指摘させていただいたが、科学技術の中でも即物的なものというか、物質的なものというか、そういうものが非常に多い。テレビの成果だとかラジオの成果だとか、それから交通機関の発達、そういう例が山のように挙げてあって、さっき社会から見た科学技術ということをおっしゃったけれども、私は人間から見た科学技術というのか、そういう視点がどうも薄いという感じがしており、ぜひ「生活・文化と科学技術」のところに思想まで入れていただきたい。技術もそうかと思うが、特にサイエンスが人間のものの考え方に影響を与えたということはこれは非常に大きなものであり、例えば梅原さんなどもそういう点は非常に科学の問題を重要視しておられるわけで、哲学者では常識だと思うが、そういう視点がどうもこの「生活・文化と科学技術」のセクションもやはりさっき言ったような物の観点からの記述が多くて、そういう思想的な観点を少し入れていただくと先程の委員のご不満も幾分解消するのではないかと思うので、これもお願いしておきたいと思う。

・委員  前回私は、社会と科学技術を考える会なのに、社会のことが一つしか入っていないというような発言をしてしまって、それが原因で事務局が暮れにお忙しくなってしまったのではないだろうかと思うと申しわけないと思ったが、今回そういう意味では、皆さんもおっしゃっているように、社会とともに歩む科学技術を目指してということで、内容もかなり変わっているし、各論についてはやっぱり各専門分野の委員の方々はそれなりにまだまだご不満もあるんじゃないかなとは思うが、私は全体的には、いわゆる社会を意識した、しかも前回とは全く違った内容になっていると思う。ただ、でもやっぱり頭の奥のところに、科学技術と社会が分かれている、科学技術が社会を引っ張っているんだという感覚が書いている方々の中にあるんじゃないかと思う。というのは、社会とともに歩む科学技術を目指して、各論は別としても総論で最後に「結び」を見ると、「21世紀は、科学技術の進歩が益々社会を変革し」が先に入ってきて、科学技術がどんどん進んでしまうから、社会とともに歩むように科学技術が先にいってしまうのを抑えますよというような文章になっている。そうではなくて、「21世紀は、社会が科学技術に要求する内容も複雑で多様なものになり、科学技術の進歩が益々社会を変革すると考えられるが」と、これを逆転した考え方ならば、この内容もまたもっと社会と密着したものになったんじゃないかと思う。だから、内容の細かいところの取りかえに対する留意というのも必要だと思うが、ベーシックな考え方の中にある部分がやっぱり影響を及ぼしているんじゃないかと思うので、「結び」のところだけでもちょっと考えていただけたらと思う。

・委員  日本語の細かいニュアンスはよくわからないが、一番興味を持ったところでは学校の勉強と科学技術のところだった。先ほどの委員のお話の中で10年先を考えてということだったが、21世紀の教育を今アメリカではどう考えているかというと、25年先を考えたときに、2000年ミレニアムに生まれた子供たちがもう社会人になる年になるわけである。アメリカの学校のあり方は、もう小学校から、これからは子供たちを学校へ集めるのではなくて、21世紀の前半には恐らく供給側が消費者の方へ出迎えに行くという教育をする。だから、コンピューター教育がもっと盛んになり、今アメリカでは、これはアメリカ全部ではないが、中流階級という一つの層の中で70%の子供たちはもう自分のパーソナルコンピューターを持っている。一方、全日本青年研究所からお聞きした話では、日本の子供たちは30%しか持っていない。それもなおかつ自分の父親たちが家にコンピューターを持っていれば使わせてもらえるという。そういうことも含めて、コンピューターに対するリテラシーが日本はまだ非常に低い。
  それと、この科学技術省の21世紀ということを考えたときに、ではどんな日本をつくっていくのか。先ほどお話がありましたように、アメリカンスタンダードで動いているから日本のスタンダードはつくれないということではなくて、日本のスタンダードが世界に発表できないことでアメリカンスタンダードになっていると思う。というのは、世界のどこから聞いても、日本人は非常に頭がよい、そして日本の教育はすぐれている、日本から海外に行く子供たちは算数とか科学では非常にレベルが高くて、英語ができないからほかの学力は低いけれども、結局は追いつけるのは日本では算数に非常に力を入れているからだと言われている。この現状を考えるときに、私たちの親戚の中にも東大を出ている方が何人かいるけれども、私は恐らくこれは本当の日本人の気持ちでもあると思うが、「マリちゃん、もし僕が子供のときからあなたほど英語ができたならば、僕は日本で仕事をしていないで海外で活躍しているよ」とよく言われる。恐らく、日本人の中にはそういうことを考えている非常に優秀な人がたくさんいるが、非常に頭がよくて、なおかついろいろなことを考える力があるのに、英語力がないだけにそれが発表できないというのが現実である。私がとても残念だと思うのは、英語を勉強しなければいけないというと、もうアメリカ化するということだと錯覚してしまうこと。そうではなくて、英語というのはもうこの国際社会、グローバリズムの中で記号でありツールであるわけで、この前も小渕総理が英語をセカンドランゲージにする、日本の英語教育というのは今まではEFL、English as a Foreign Language だったが、今度はESLにすると言われたときに、日本人もこれはやっとわかったのかなと思った。それは総理大臣が考えたことではなくて周りの方々が考えたことを発表なさっただけで、それで大変お困りになっていらっしゃると聞いたけれども。ただ、私は21世紀の日本はやはりミレニアムにこれから生まれる日本の子供たちが英語力を身につけ、なおかつ日本の今までの基本教育を2つのピラーとして考えることによって次の日本の財産になっていくと思うので、ぜひこの発表の中で英語力というのは科学技術の中でどれだけ重要であるかということを強調していってもらわないと、ちゃんとした形での科学技術の発展というのは考えられないと思う。それが非常に妨げられている。例えば先ほどのパテント問題も含めてそうだが、あれは日本だけではなくて
同時に世界のほかの国々にちゃんと登録すれば、ちゃんと審査されてパテントペンディグという形で出るわけだから、それもできる。
  もう一つ重要だと思ったのは、ここにwisdomという言葉がたくさん出てくるけれども、wisdomという言葉に対して私はちょっと疑問がある。みんなが共通する価値観の中でのwisdomはwisdomとしてちゃんと通用するけれども、価値観が違う文化とか、価値観が違うもの同士でのwisdomのあらわれ方というのはやはり違う。例えばアフガニスタンに行くと、女性たちの病院と男性の病院が違う。まして、女性たちのお医者さんが少ない。女性たちがいるところへ男性は行かない、男性がいるところへ女性は行けない。その中でwisdomとしては、では女性も男性が診ればいいじゃないかと思うけれども、その人たちの中にはそういうwisdomは通用しない。だから、そういう意味でこのwisdomというものは、もしかしたら日本的な制度で理解されているから、日本人は私よりわかるかもしれないけれども、wisdomと言われてしまうと、ではこのwisdomというのは自分たちがアクセスできるいろいろな知識というものがとても重要で、この知識のアクセスのされ方というのが大変重要で、科学技術庁としてはインターネットということをもっときちんと強調していかないと、本当の意味での発表としては21世紀には通用しないと思う。
  もう一つ、学ぶということに関してだが、アメリカの学校機関の中で、ものを覚えるときの知識の研究がものすごくされている。これは、子供にものを教えるのではなくて、子供がどう学ぶかということの脳の科学的な現状をちゃんと調査している。だから、How the mind learns ということが今アメリカの先生たちのシンポジウムやゼミナールの中で一番勉強されている。一つのアプローチだけではなくて、どんなアプローチでこの子を教えればものがこの子には理解できるようになるか、例えばビデオゲームとか、そういうものを利用しながら、edutainment というeducation とentertainment と共同で使われているものがアメリカの学校ではコンピューターを通して使われている。コンピューターは子供たちの暇つぶしとして使われるものではなくて、その子が何回も何回も間違えても、コンピューターというのは非常に気が長いからその子がちゃんと答えに至るまでちゃんとかかわってくれる。だから、そういう意味でのコンピューターの教育利用というものをもっと強調していかないと21世紀には恐らく追いつかなくなってしまうのではないかと思うので、今アメリカはそういうコンピューターの教育、そして社会のシステムとしては日本を10年パスしているというふうに言われているので、早く追いついて追い抜いていただきたいと思うので、ぜひその点を含めて考えていただきたいと思う。

・座長  英語はどこかで少し触れているが、先ほど学力の問題があったけれども、英語のコミュニケーションの力というのは日本人は非常に悪いということは間違いないので、これはもう少し強調した方がいいだろうと思う。
  それから、wisdomという言葉を使ったのは、knowledge に対して、knowledge というのはどうしても情報の集積、体系化だけであるから、それだけでは科学技術は危ないだろう、だからそこでもうちょっと人間の文化とか伝統とか、そういうものをwisdomという言葉で使ったわけで、もっといい言葉があればぜひ教えていただきたい。

・委員  どこかに議論とかディベートを入れないと。結局議論をし合うことによっていい知恵とかいいwisdomが生まれるので。日本人は、議論しなさいと言われないとしないと思う。というのは、子供のときから学校でディベートしたりとか、そういう文化になれていないと議論しづらい部分があるので、もしディベートとか議論することが大事であることも、反対意見もちゃんと出し合ってということも強調していただけるとありがたい。

・委員  これまでの幾つかの議論をお聞きしていて、特に私たちの議論の一番中心のテーマである社会と科学技術という視点からちょっと簡単に意見を申し上げる。
  今も委員が教育という問題を取り上げられ、それからまた先ほどは、技術というものはいわば物の形で私たちの環境を豊かにしていくだけではなしに、私たちの考え方そのものをも変え新しい視野を開いていくということを言われたけれども、私も教育の問題について一つだけ申し上げたい。科学技術ということを考えるときに、随分新たに前回の意見を入れていただいたけれども、例えば6ページで日常生活と科学技術の関係を考えるときに、どうしても物質的な恩恵の方が中心になる。それともう一つは、今、知識と英知の問題というのが出たけれども、実際には教育の問題を考えるときもwisdomの形成というのは大学の教養以降の話になっており、初等教育、中等教育を考えるときにはknowledge、しかもscientific knowledgeという方向づけを持った視点ばかりが前面に出ているように思える。そうすることによって結局は教育の問題は学力の問題、学力をいかにさらに充実すべきかという問題になるし、それから最後の3分の1の議論というのは、wisdomと言いながら実際には学知に近いものをいかにさらに創造的に豊かにしていくか、あるいは創造性を獲得していくかという話がどうしても中心になると思う。私は、ここのテーマである科学技術と社会との関係についてのものの見方ということ自体を初等教育から、つまり学力の問題と並べて、一種の基本的な科学と社会をめぐるwisdomについての考え方というものを大学の教養以降ではなしに初等教育の中からそういうことを考えることが必要だということを、教育の一番最初の序文のあたりにむしろ書いていただければいいのではないかと思う。
  科学技術というのは決して生活の手段をより近代化するとか、あるいはより便利なものにするということだけではなしに、実際には私たちの世界についての考え方とか感じ方とか、あるいは勤労の形態であるとか、コミュニケーションの構造とか、そういうものを劇的に変えてきた。例えばコミュニケーションの構造をとっても、印刷術ができたということ、そして新聞ができたということとか、あるいは電信のシステムができたとか、現代の私的なコミュニケーションにまで深く入り込んでいく電子メディアができたとか、そういう歴史の中で技術というものが私たちのそういう経験のあり方自体を、あるいは行動のあり方自体を根本から変えてきた歴史というものがあると思う。そういう科学技術の歴史というものが社会をどう変えてきたか、あるいは人々の見方、感じ方、コミュニケーションのとり方をどう変えてきたかということ自体を初等教育から教えるあるいは子供に考えさせるということ、そういうことも計算能力であるとか理科の学力の向上ということと同じように並行してやらないことには、我々の懇談会の趣旨というのは徹底しないんじゃないかと思う。だから、ある意味ではこの懇談会でやっていること自体を小学校の教室で議論すればいいんじゃないか。そのためには科学技術の歴史と社会の関係、それが社会をどう変えてきたかということをきちんと知識として伝えるということが大事なのではないかと思う。

・座長  先生のところで、エコフィロソフィーという言葉を使ったが、これは構わないであろうか。環境、19ページだが。

・委員  言語的には、問題ないと思う。

・座長  問題ない。そういう言葉も実際に使われている。19ぺージの8行目からちょっと引っ張ったんだが。

・委員  日本のある世界的に有名な思想家の方でもエコエチカという言い方をなさったり、あるいは……。

・座長  そうですか。

・委員  ええ。だから、そういうラテン語とか、あるいはギリシャ語語源の言葉を使ってみたら、エコフィロソフィアとか、いろいろな言い方はあるかもしれないが、バイオテクノロジーと同じような形で、エコフィロソフィーという言葉は概念としては十分あり得ると思う。

・座長  それから、先生は多分ギリシャ語にお詳しいでしょうから、テクノポリスに対してソフィオポリスという言葉を使った、これは全く造語だが、これはどうか。テクネに対してソフィア、ソフィオポリス、言葉の上では可能だと思うが。

・委員  上智大学に間違えられる可能性があるかもしれない、上智大学ソフィアユニバーシティーと言われているから。

・政策委員  フランスでソフィアントアンデュポリスというのがあるから、使われてはいるようだが・・・。

・座長  フィロソフィアのソフィアだから・・・。

・政策委員  ソフィエントアンデュポリスというのがフランスにはあるから・・・。

・委員  だから、大丈夫であろう。

・座長  それでは、次のご意見にうつりたいと思う。

・委員  まず9ページだが、先ほどから出ている知的所有権の問題について、ここにはソフトウェアの著作権の問題が出ていないが、これは極めて大きい問題だと思う。提案としては、例えば真ん中の下のあたりに「・・・何を特許の対象にするのかなどにつき、ソフトウェアの著作権の扱い問題も含め、今後、国際会議などで検討し・・・」というのをちょっと提案したい。なぜかというと、今ソフトウェアというのはご承知のとおり著作権ということで保護されているが、これは非常に奇妙なものであり、本来作家などが盗作を防ぐためにということで、死んでから50年だとか、あるいはもっと今は75年、さらに、書いた途端にそれで保護されてしまうわけである。そういうものと本来工業的な特許、つまりちゃんと認められてから25年しかもたないものとは全く違うのに、性格としては工業特許のような性格を持つソフトウェアというのを著作権で保護してしまう。これはどうしても異常な話である。さっき丸島委員の方から代替ということがあったが、ソフトウェアというのは非常に変わったものであり、すなわち別に今、非常に広まっている世界的OSが技術的に特にものすごくすぐれていて代替不能ということでなくても、ご承知のとおり、一旦使われると、それに基づいて連携した形でどんどんいく。だからそういう意味で、それが著作権で守られてしまうというのは、非常にある利権というものを独占するということでもある。その辺についても一言ここで書いていただくというのは非常に大事だと、これが1点目である。
  もう1点。13ページであるが、そこに情報リテラシーの話が書いてあり、先ほどもコンピューターの教育が日本は大変おくれているという指摘があったが、これについて一つ提案がある。「単に利用技術にとどまらず、情報リテラシーを育てることが大切である」と、私には非常にわかるが、今、狭義では情報リテラシーイコール利用技術ととる人が世間ではいっぱいいる。だからここでは、これも私の提案だが、例えば
「利用技術にとどまらず、情報技術の本質を理解する情報リテラシーを育てる」とか、そういうワンフレーズをいかがかと思う。これについて説明すると、情報リテラシーという言葉は今非常に揺れている。例えば、ブール代数から教えるのが情報リテラシーだと。あるいは、そうではない、OSのようなものである。あるいはインターネットの技術なんだという意見も片方にある。もう一つには、むしろマスメディアも含めて、そういうメディアを批判的に見るのが情報リテラシーであるという意見もある。そういうわけで、情報リテラシーという言葉そのものが極めて揺れているわけだが、私は個人的にはパソコンを単に使えるということが大事だとは思っていない。したがって、そこのところで情報技術の本質を理解するなどという言葉は、ちょっとだます口調ではあるが、ここの懇談会では少なくともこういう部分があるのを情報リテラシーとして位置づけているんだということを強調したらいかがかと思う。

・委員  ソフトウェアの著作権の問題だが、これは確かに議論されて、今は著作権で保護しようと、国際的にもう納得というか、システムとして確立している。この文章からいうと、「制度が異なり、様々な問題を引き起こしている」となっているので、その問題に対しては今ソフトウェアを著作権で保護しようということ自体はほとんどもう共通化されている。今さらに新しく出ているのは、ソフトウェアそのものも特許で保護しましょうという動きである。だから、ダブルになっている。おっしゃるように産業的な色彩が強いので、日本は工業所有権で保護すべきと主張したが、最終的には著作権でということになってしまった。ソフトウェアを特許で保護しないといけない事態になったということで、ソフトウェアそのものも特許にしましょうということを今議論しているところである。だから、そちらの方に焦点を当てるならいいと思うが、著作権という問題はもう確立したサイドになっていると思うので、「問題を引き起こしている」と、むしろそれを言うのなら、21世紀の将来の問題として提起するならあると思うが、ここで言うのはどうかなという感じがする。
  私の先ほど申し上げたことに対しての反応を残せという意見で終わってしまったが、お話をお伺いしていても、私は報酬の問題で十分解決できると思うので、知的所有権制度そのものを見直せというのはちょっと言い過ぎのように思うが、いかがであろうか。

・座長  ここは非常に難しい問題であり、矛盾をある程度含んでいるんじゃないかと思うが。

・委員  私がアメリカなどはと言ったのがいけなかったのかもしれないが、これはアメリカのプロパテント政策によってつくられた現在の基準なわけで、いわゆるヤングレポートに基づいているので、根拠もなくアメリカと言ったのではなくて、しかも、アメリカのスタンダードで日本はスタンダードができないじゃないかというのはその通りだが、アメリカは日本が工業的な様々なもので強かったので、それを抑えるためにプロパテント政策をとった。それは意図的につくられたものであるということは、私はぜひそこだけは強調していただきたい。

・委員  ちょっと意見があるが、プロパテントというのはアメリカだけの問題じゃなくて、ヨーロッパもそうだと思う。だから、アメリカンスタンダードに追いつけと言っているのではなくて、世界の動向だと思う。知的所有権制度そのものをなくせと言うのなら、ではフロンティアと言わないでキャッチアップでただで使わせている技術をエンジョイしたらどうかと申し上げたいくらいである。そんなことで科学が進歩するのであろうか。歴史から見ても、特許制度があって進歩したと私は理解しているが、それを根本から否定するというのはちょっと早いんじゃないのかなと思う。

・委員  私も授業ではいつも知的所有権の解説しているが、それを無条件に認めていいかどうかは留保が必要であるとしている。つまり、95%ぐらいはもうそれは世界で確立していることで・・・。

・委員  それは保護の対象の問題だと思う。何を特許にすべきかという、それは議論すべき問題だと私は思う。最近は、先ほど申し上げたように、情報をすべて特許にしましょうと。今アメリカで盛んに話題になっているビジネスモデル特許というのもそうである。だから、情報化ということでソフトということに関連して、特許の対象がどんどん広がっている。それは議論すべき問題だが、ただ、特許制度を見直すべきだと言うのはちょっと言い過ぎじゃないのかなと私は思う。

・委員  私は立場上、具体的なことを2点だけ申し上げようと思う。その前に、8ページの「安全保障と科学技術」のところで、むしろ安全保障論をこういうもので日本の公的な文書として議論するということ自体がもう一歩踏み出したということだと思う。けれども、やっぱりまだちょっと意味不信な感じがあって、インターネットそのものが軍事の産物で、先ほどのブダペスト宣言そのものが軍事の科学から平和の科学という非常に明快な科学の動機を言っているので、もう少し素直に、確かにこれからは別の安全保障のコンセプトでいくんだけれども、これまではかなり軍事と科学技術というのは近かったということを正直に書いた方がむしろいいのではないかと思う。
  それから、立場上申し上げないといけないと思ったのは、ゲノムあるいはバイオの利用ということについてである。1点は、これに対する負の部分に全然触れていない。本当かどうかわからないような、まだそこまでいくかどうかわからないようなテーラーメイドの医療というキャッチフレーズだけ言って、これまでの批判で言うと、差別とか南北格差をかえって強調するという点に全然触れていないというのは、やっぱりちょっとバランスが欠けている。
  もう一つは、今の知的所有権の話である。今バイオでは、まさしく研究そのものが知的権利にものすごく接近しており、ヒトゲノムがもう予想外にというか、到底できないだろうと思っていたのがあっという間にできそうになっているのは、むしろゲノムを読むことそのものをサービスの資源として売る、要するにゲノム情報そのものを囲い込んで、ゲノムそのものは発明ではなくて発見で、人類共通の遺産だが、それを全部自由に利用して、利用の仕方によって薬の開発につなげるアイデアのためにヒトゲノムを私的に読むということで、それが一方で進んでいるために公的な部門がどんどん先にやって、ともかく公表してしまおうという。だから、そのために何を私的あるいは商業動機にするのか、公的な知的活動はどこをサポートするのかということが非常によくわかる例だと思う。それでいうと、やはりヒトゲノムはある意味で人類共通の遺産である。人類共通の遺産ということは、例えば深海底資源とか宇宙空間とか、あるいは南極大陸そのものとか、これまで全然利用できなくてだれも手をつけていない、しかし利用できるかもしれないものについては、人類共通で管理していこうという共通の理念がある。それは大体認められていて、ただゲノム周辺はもう既に特許が出ているので、基本的にはそれ自身は商業動機は認められないけれども、工夫なり発明のコンセプトがある場合には、もうそれは発明のコンセプトとして、ゲノムであるかどうかということとは別に、特許対象にする。その場合にアメリカと違うのは、アメリカはともかく基礎研究と商業動機というのは非常に接近して、それが切磋琢磨というか、お互いにどちらかというとプラスになってヒトゲノム研究が進んでいるけれども、生物技術と知的所有権に関するヨーロッパの案というのは、一部倫理的なものについては特許は解除するという、これはなかなか発動しないけれども、そういう意味ではヨーロッパの特許とは違うということなので、普通一般的に、私はこの表現に同意しているけれども、一部はネガティブな面もメンションしないとバランスを欠くということと、ゲノム研究あるいはバイオ研究そのものは、基礎研究と産業化の動機を認めながらも、全体としてはむしろ人類共通の福祉を第一義に置くというような表現をさらに加えていただきたいと思う。

・計画・評価課長  10ページの一番上の表現は、委員のご発言を聞いていますと、表現が拙かったために若干誤解されたのではないかと思って、原案作成の意図をちょっと説明すると、知的所有権制度自身を見直すべきだというところまで申し上げたのではなくて、前のページにあるように、今、先生からお話があったように、ゲノムの問題に象徴されるように、人類の知的財産として共有するという流れと、それから発明者にインセンティブを与えてそれでどんどん前に進めるということとの折り合いをどこでつけたらいいかという点でいろいろな難しい問題が出てきた。したがって、そういうものを今後十分検討していくべきではないかという趣旨で書いており、これは知的所有権制度を見直せというところまで言っているわけではなく、むしろゲノムのように国が民間に勝って先に権利を押さえて、それによって人類共通の財産にしていくというアプローチも局面によっては出てくるのではないか、そういう問題を今後検討していく必要があるという問題提起である。

・委員  でも、この文章は、20世紀はこうだった、だけどこういうことがあるからこの問題というのは、むしろ情報公開で権利を取るなということを検討すべきということではないか。

・計画・評価課長  いや、そこまでは。だから、表現がちょっと拙かったので今後修正するが、そういう意図はない。

・委員  ただ、今お話をお聞きしていて、おっしゃっていることはみんな保護の対象をどこまでにしようかという議論に尽きている。はっきり言うと、ソフトウェアをどこまで対象にするか、ビジネスモデルはどこまでいこうか、それから今のゲノムの問題も、どこまで特許の対象にしようかと、レベルの問題を議論しているんだと私は思う。だから、それは特許の対象にならないのではなくて、対象になるけれども、レベルを議論している。それともう一つは、公開したらいいじゃないかというのは、これは取った権利の行使の問題だと思う。それを何らかの形で制約するという方法を考えないといけないというのは私は理解している。そのために制度を取れないようにしろと言うのはおかしいと思う。

・計画・評価課長  例えば10ページをちょっと見ていただきたいが、「20世紀の知的所有権制度は発明者へのインセンティブを前提としており、そのこと自体は極めて重要である」ということで「。」で切ります。「重要である。ただし、LINUXのように」とずっと続いて、「望ましい結果も得られることがあり、このような権利行使にかかわる問題についても今後検討する必要がある」と直してもいいか。

・委員  いや、LINUXの問題はちょっとピントがずれているんじゃないかと私は思うが、標準化活動のパテントポリシーにしかすぎない、インターネット上の。ほかの標準化活動では、パテントポリシーはこうしますといういろいろな団体がある。それで無償でやりましょうという団体もある。その一つだと私は思っている。だから、それを例に挙げて、こういうことがあるから見直そうというのもちょっと大げさな表現だと私は思う。ほかの標準化団体の方では、無償でないとこの標準はつくれませんと初めから宣言している団体もある。だから、いろいろな団体がある。だからといって見直せというのはちょっとおかしいんじゃないのか。

・計画・評価課長  では、権利行使の問題であるということをある程度明確にしても……。

・委員  結局、例えばヒトゲノムもそうかもしれない、標準化もそうかもしれない、世の中で使わなければならない基礎をなすような権利そのものの行使については何か考えなければいけないでしょうというのは理解する。だけど、それだからそういう問題は全部オープンにしなさいと言うと、制度そのものを否定することになる。オープンにしろということは権利を取るなということだから。

・委員  一言だけ。おっしゃりたいことは私もわかるが、そうではなくて、今、課長がおっしゃったことと別の委員がおっしゃったことも同じで、こういう制度そのものは認めているわけである。全員がそうである。そうでなくて、この具体的な中身についていろいろ考えていくときに、著作権の問題もそうであり、今私は保険クラブだとかそういう方向にも関係しているが、例えば隣接権と人格権とか、いろいろな問題がいっぱいある。そういう細かい部分についてどういうふうに仕組みをつくっていけばよいかという話は今後も続くわけであり、だから私は、一般の人が読んだ場合、基本的にはLINUXも含めて、これはこのままの方向でもそれほどの問題はないと思う。

・委員  しつこいようだが、「この問題は十分検討していくべき課題である」という「この問題」というのは何であるか。

・審議官  それは、LINUXのように公開することがあるということにかかわって、権利を行使する場合、しない場合があって、どっちが本当に消費者にとってもいいのかとか、それにかかわるいろいろなことが問題になっている。そのことについて、元々書いた意図は、今後の知的所有権そのもののあり方というよりは、知的所有権のまさに権利の行使のあり方として考える必要があるということである。だから、それがわかるように文を切って、これがただし書きだというように直して、これは権利行使の問題だというふうに書き改めることは十分可能だと思う。

・計画・評価課長  今日お配りしてある議事録にも出ているが、先生から前回コメントがあり、ちょっとそこを繰り返すと、アメリカみたいにどんどん特許を取って競争力につなげろという話が全体的なトーンで、企業も取りなさいとか、大学も取りなさいということだけれども、21世紀を考えれば、もうちょっと大きな枠組みで考える必要があって、科学的な知見にどんどん特許を与えるのがいいか、ビジネスの方法にも特許を与えていくのがいいかどうかは検討した方がいいと。それから、標準の問題もそうだが、標準も特許を取りなさいと書いてあるが、例えばLINUXみたいな技術者のコミュニティーで標準をつくって、それをオープンにだれでも使わせましょうということもあるわけだから、そういった大きな流れの方をもう少し書くべきであって、企業に特許を取って産業競争力をつけろということは、今さら書く必要はないのではないか。こういうコメントがあったのを踏まえて書いているので、決して別にLINUXだけがどうのこうのというよりは、もうちょっと全体的にこの知的所有権の問題を今後勉強していく必要があるという指摘である。

・座長  それでは、この点は、誤解を生まないように十分注意しながら、もうちょっと書きかえることにしたい。

・委員  これは大分いろいろと直ったけれども、今度は全体的に見てみると、項目が小さくなったおかげで一つ一つの項目に入っている言葉が、文章は入っているけれども、ここでこんなふうなことでいいのかなというのが結構あり、例えば4ページの最後の「情報化社会と科学技術」というところと、その次の「国際化社会と科学技術」というのは、割合似たようなことがずっと書いてある。だから、項目を立てられたのだったら、そこで書かなければいけないことというのはやっぱり相当吟味した方がいいのかなと思った。その辺、もう一回読んでいただければおわかりになるかなと思う。
  それともう一つ、私の専門のところで5ページの(4)と(5)だが、「環境と科学技術」、その次に「食糧・水の確保と科学技術」と書いてあるけれども、我々の方から考えると、この辺はつながってくる。殊に水の確保などというのは、自然生態系とか、そういう問題の対処の仕方とか、これからの研究というのは非常に重要なんじゃないかなと思っており、ちょっとその辺を、環境破壊だけではなくて、自然生態系とかバイオダイバーシティーとか、そういう問題に目を触れるということを少し入れておいていただくと、その次の5番目にもつながっていくのかなと思う。

・委員  これは質問だが、象徴的には2ページの上から4行目にあるけれども、「2001年に発足する総合科学技術会議は、人文・社会科学と自然科学を総合し」云々と書いてあり、それを「参考として活用することを期待する」。もともと科学技術基本法か何かのときには人文科学を除いていたわけである。だから、この今の立場が余りにも自然科学が中心で書いているが、これはいわばもともとがそうだったからそういう立場で書くということなのであろうか。例えば具体的には、13ページに「高等教育の充実」というところがあり、それの2つ目のパラグラフだが、「その際、学部卒業生の大部分が就職する文科系と、学科によっては過半数が大学院へ進学する理科系とでは事情が大きく異なる」と、まさに今後も文科系は大学院に行かなくてもいいというように聞こえて、ただその後にやはり「分離融合型の学術分野の発展が求められる」から、今後も人文・社会科学はもちろんやれと書いてあるが、これもいかにも自然科学にとっても今後は倫理問題などで文系が必要だからついでにやってくれということで、およそ文系に対してかなり失礼な表現なんじゃないかと思う。哲学も難しい、自然科学も難しいという意味で、むしろ一般社会はそれほど自然科学と人文科学を僕ら研究者の世界ほど区別していないのではないか。そういうことで今後やっていこうというときに、もうちょっとこの辺は、人文科学と社会科学というのはやっぱり自然科学とは離れて独立して振興するべきであるという面を少し出していただくのか、ないしはこれは古い科学技術基本法の精神に基づいた立場から今後を目指して書いたのだからこういう立場になるというのか、どちらでもいいが、その点のご意見を聞きたい。

・座長  これは科学技術基本法に基づいているわけではない。だから、むしろもっと先を見て、あるいは科学技術基本法を受けて基本計画は10年と言われているから2005年までだが、そうでなくてもうちょっと長い視野で見ていかないといけない。だから、基本的には人文・社会科学も含んで、学術全体、それから技術、そういうもの全部を見渡そうというのが基本姿勢である。ただ、随所にそういう問題点はあるかもしれないが。

・委員  だから、例えば13ページのところ、これはむしろ別の先生がおっしゃるべきことかもしれないが、もうちょっと理科に付随する文科じゃなくて、独立した文系の振興ということをちょっと入れていただきたいと私は人ごとながら思うので。

・座長  これはもう振興しなくても十分発達しているんじゃないかという(笑)・・・・。

・委員  逆にここではっきり言っているのは、大学院にはほとんど進学しないということがある。だから、先ほど理科離れということを言われたけれども、優秀な方はみんな文科へ行って人文科学や社会科学が振興すればいいんじゃないかと思うが、実は現状では文科に行った方は皆さん科学を学ばないで就職してしまうということで困っている。理科離れイコール科学離れだと思う。ここにもちょっと理科離れということが出てくるけれども、だからそういうことを私はちょっと申し上げたいと思う。

・委員  実はそのことを申し上げようと思って手を挙げていた。何か全体に科学技術が世の中に役に立つと世の中の人も十分理解してほしいと、こっちも世の中の中に入っていくと、それがこの報告書の基本的なトーンである。ただ、いろいろ問題はあるから、人文科学・社会科学も頑張らなければだめだと、多分そういうふうに把握していいんだろうと思うが、私はもうちょっとその辺をこちらの立場から申し上げると、例えば今、高校教育、あるいは中学でもやっているのかもしれないが、政治とか経済とかという社会科の授業というものがあるわけだが、では政治経済というのは何をやっているのかといったら、例えば政治で言えば、憲法の条文でこうなっているとか、国会の仕組みはこうなっていると。それももちろん大事だが、私はここにSTSみたいな考え方、Science,  Technology, and Societyか、Science, Technology, and Studyか、両方あるらしいが、そういう観点みたいなものが社会科教育、あるいは人間教育と言ってもいいのだろうが、そういうところにもっと入っていかなければならない。つまり、それによって、先ほどおっしゃったようにディベートあるいは科学技術をめぐるディスカッションみたいなものが可能になってくる芽が育つだろう。理科と社会科は別の科目で、そして片方は理科離れだ、あるいは理科の学力が低下していると。それでは社会科で何をやっているんだ。社会科では国の政治制度、経済システムの話しかしていない。つまり、全く欠落しているのが社会と科学技術の問題なので、この辺をしっかり進めると、中等教育から押さえていく必要がある。多分、そういう必要性が認識されれば、人文科学・社会科学の人間も自分たちの使命がそこにあるんだということを自覚するだろうと思う。頑張れと言われなくても頑張ることになるだろう。私はそういうふうに感じているので、教育から人文・社会科学の振興というのか、あるいは発展支援ということを一貫した問題として何か考えられないか、そのことがどこかに入っているといいと思う。

・座長  どうも理系人間に偏った記載になっていると思うが、なかなか範囲が広いので、荷が重くてうまくいかないところがあるかと思う。

・政策委員  1つは、先ほど英語の話があり、大変重要な点だと思うが、それも含めて、「教育と科学技術」のところで人材養成、あるいは教育面における国際的な視点、国際交流ということをあわせて、それが抜けているんじゃないかという気がする。
  第2点は、さっきちょっと申し上げたが、ずっと教育のところで初中高等学校と記述していて、大学院が何か指導方法みたいなところだけに矮小化されているような気がするが、先生がおっしゃった、大学院が日本で今のっぺらぼうに大衆化しているというのはかなり深刻な問題ではないだろうかと。つまり、例えばアメリカに比べて量が少ないから増やせ増やせということだったけれども、もっとアメリカの大学院の構造を考えていくと、若干調べると、要するにご承知のようにアメリカは博士課程と修士課程は最初から別で、積み上げ式はほとんどとっていないから、修士課程は確かに日本の7倍ぐらいの学生数がいるけれども、これは全部職業教育である。その分野も教師養成がたしかトップだったと思うが、よく言われる business administrationとかpublic administration and public serviceとか、はっきり職業教育として位置づいたものが非常に大きい。それからドクターでも、教育とか、それからdoctor of engineering  、学位をはっきり分けた職業教育というものがあって、それとは別の系列としてアカデミックなPh.D. があるので、そこが日本は何かごちゃごちゃになったままで量だけどんどん増えていくというと、あぶはち取らずでどっちもだめになる。最近、文部省のご努力で専門大学院ということで、ようやくそっちの方向へ関心が向けられているが、基本的には要するに目的をむしろ明確にして、その目的に即したことをちゃんとやってくれということを、書くのであれば強調していただきたい。
  
・座長  非常にたくさんの宿題をいただき、これを受けて、できるだけの修正をしてみたいと思っている。  これからの方法だが、あとの修文は一応座長に一任していただきたい。結果としていろいろご不満も出るかもしれないが、それはお許しいただきたい。それで、修文したものを科学技術会議の政策委員会に報告して、プレス発表をする。一般に見ていただいて、また議論をいただく。その上で最終報告をいつごろまとめるか考えたいと思っている。その過程で、今後掘り下げて議論すべき問題がまだあるのではないかと思う。かなり総花的に、あれも大事だ、これも大事だとわーっとまとめたから、これだけ見てもわからない。それから、人文・社会科学が弱いということも、確かにそのとおりであり、これは先生あたりに頑張っていただいてもうちょっと議論を深めたい。そうなると、これから議論すべきことが幾つかあると思う。そのご提言も実は今日もうちょっと議論しようと思っていたが、前半の中間報告書で時間を使い果たしてしまったので、こちらから委員の皆様にアンケートをお送りするので、これを基礎にしてさらにやるべきこと、あるいはこれには抜けているけれども大事なことがあったら、ご指摘いただきたいと考えている。


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