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21世紀の社会と科学技術を考える懇談会
―  第11回会合 議事録  ―

1.日  時:平成11年12月15日(水)  10:00〜12:00

2.場  所:科学技術庁  第1・第2会議室

3.出席者:

  (委  員) 井村、石塚、廣田、村上、吉川、猪木、今井、宇井、小出、後藤、佐々木、中島、中村、西垣、松尾、安井、米本、鷲田の各委員
   猪瀬政策委員、大崎政策委員、太田政策委員
  (事務局) 科学技術庁 有本科学技術政策局政策課長  他
   文部省 工藤学術国際局長  他

4.議  事

・座長    本日は「科学技術政策と社会(その3)」と題して、委員からご意見を伺うことにしたいと思う。その後で前回も議論していただいた中間報告案について討論をお願いしたいと思う。それでは、「社会(非科学者集団)に対する科学者の責任」という題でご意見を伺いたい。
  
・委員  はじめに、科学技術に代って、科学という用語を使用する。また以下、科学者、研究者というとき、そこには私自身も含まれる。同じ自然科学の中でも、分野によって、物の考え方や理解の方式がかなり異なることを、最近痛感しているので、以下の議論は生命科学のそれに基づき勝ちになることを、自戒とともにまずお断りしたい。人文科学、社会科学を含めて科学一般に通用する話を進めるように努力するつもりではあるが。
科学の進歩は著しく、その専門化、細分化が進んだため、非科学者集団である一般社会が科学を理解することが非常に難しくなった、といわれる。しかし私見によれば、科学に対する社会の無理解の最大の原因は、科学者が自らの科学を平易な言葉で非科学者集団に語りかける努力を怠っている(語りかける能力がない)ことである。すなわち、非は挙げて科学者側にある。例えば、何処の世界にも専門語は必要である。非専門家にとって専門語の理解は難しい。しかし科学者は、「一見専門語で実はラボラトリー・スラング(隠語)」を無神経に多用し過ぎるのではないか。科学者は自らの科学を平易に語る、まさにそのために時間とエネルギーを割いて研鑽を積まねばならない。この「研鑽」のために、一流(といわれる)研究者は、今日得られた最新のデーターの発表が一ヶ月遅れ、外国の研究者との競争に敗れるかもしれない。しかしながら、自らの科学を平易に語るための研鑽とは、実は自らの科学の質を向上させ、真に独創的な研究へ向かうためにも必須のものなのである。競争に勝った、負けたというレベルのデーターとは重みが違うことを知るべきである。
  次に「国民の科学に対する無理解、無関心」の項目に移る。
非科学者集団である国民一般が現代の科学の理解に乏しいのは、日本だけではなく全世界に共通する問題といわれている。しかしながら、啓蒙的科学雑誌や科学系出版物などの市場は(文芸書などに比べれば)、アメリカの方が日本よりはるかに広い。日本では、「教養」とは文学、哲学、歴史、芸術など文系領域に関する理解力、知識を指し、自然科学は軽視されている。「国民」を幾つかのクラスに分けて考えると、まず第1に、「義務教育課程(高校を含む)の在籍者」。国際比較では、韓国、シンガポールとならんで数学(理科)の成績は非常に良い(第8回会合資料)。しかし、数学が嫌いな生徒が急増している。「ゆとりある教育」が学力低下に結びつくことを防ぐためには、優れた教師の育成が急務である。2つ目として「一般大衆」。この用語の「定義」は日本とアメリカでは異なるといわれる。日本では「家庭の主婦」を対象とする。その約半数(?)は高等教育を受けている。一般に日本では義務教育が行き届いており、このクラスの知的レベルは世界でもっとも高いものと思われる。しかし、これが科学の理解よりもむしろ「反科学」を助長する可能性は否定できない。また、特に女子学生の進路に親の教育レベルが影響するという説があり、女性研究者の育成を妨
げている一つの要因である。高等教育を受けた親の割合が今後増加することが予想されるので、プラスの方向に誘導するチャンスである。3つ目として「知識階級」。大学卒業生の80%を占める私立大学出身を中心に、文系出身者が非常に多い。これらの人々の志す「教養」が上述のようなものであることは当然であろう。一方、大学進学者の急増に時期的に一致して、大学など高等研究・  教育機関の中での理系・ 文系の比率は(研究費を中心に)完全に逆転した。この大学内外の間の乖離が一つの問題である。さらに大きな問題を指摘したい。理系大学(大学院)で学び、そこで得た専門知識を基にして技術者として社会に出た人々が、日常活用している技術のバックグラウンドであるべき科学に対する興味を急速に失うことである。心ある技術者は教養人であるべく努力する。驚くべきことに、その場合の教養は上述の「文系教養」である場合が多い。彼等は技術獲得の手段としての狭い科学を学んだだけだったのである。大学に残った研究者でさえも実情は同じである。自己の専門分野に関して深い学識(独自の哲学と見識)を有し、さらに広い視野を持つ理系人間の養成が強く望まれる。
  続いて「科学に対する社会の理解の必要性」ついて4点ある。1点目は、膨大な研究投資への理解、2点目は、新科学技術の成果の市民生活への導入の正しい評価/判断(例:原子力発電/放射能汚染、遺伝子改変農作物、臓器移植)、3点目は、科学者への信頼、理解(例:動物愛護/動物実験、放射性標識化合物の人体投与)、4点目は、個人の利益を正しく享受(インフォームドチョイス、遺伝子診断)が必要である。科学に対する社会の理解を深めるためには、次項に述べるように、まさに21世紀を見据えた数世代にわたる改革、努力が必要である。しかし、先ほどの1点目「研究投資への理解」だけは、早急に求める必要がある。第一に、「新産業の育成、経済における国際競争力の強化」などという応用的メリットを中心に
据えるべきではないことを強調したい。「知的存在感のある国」を目指す(第9回会合での委員発言:日本は世界のための科学を目指し、科学で世界に覇を唱えるべきではない{故福井謙一先生})。すべての研究・  教育機関が情報をインターネットで公開することによって説明責任を果たすことから直ちに始めるべきである。第三者評価機関または学術情報センターが全国立大学のホームページをリンクしてネットワークを構築し、誰でもこのネットワークに自由にアクセスして必要な情報が得られるならば、非研究者集団もかなりのメリットを享受できる。研究投資がこのネットワークの構築に直接役立っているのではないが、研究投資の必要性の理解に間接的に役立つ筈である。最初から全ての国立機関をネットワーク化するよりは、4〜5の代表的大学を結んでキーワードツリーとその検索ソフトを開発すれば、他大学は容易に参入して全ネットワークが完成する。
  次に「科学者、技術者、教育者の養成」の項目に移る。「深い学識と広い視野を持つ理系人間」の卵を得るためには、卵を産む鶏の「調教」が先決である。大学のシニア研究者(教授および助教授)に、「専門馬鹿」の程度を少しでも減らす努力を求める。(「専門馬鹿」を残すのは差し支えないが、人数は厳選し過大な評価を与えない。)「教育」を重視するのも、方策の一つである。未熟な学部学生に対する最高の講義とは、その教科の内容を材料に自らの科学を平易に語ることにほかならないからである。具体策は、種々考えられるが、例として、7点紹介する。1点目は、一年間のサバティカル・リーブを与える。その間、単著の教科書(範囲は狭くてもよい)を執筆することを義務づけ、内容の厳正な評価を行う。サバティカルを取るのが10人中2〜3人程度になるよう厳正に。原本(単著)の選択が適切なら、翻訳でもよい。ただし、必ず単独で原本全体を翻訳する。共著、共訳は「哲学」を育てない。2点目は、多くの学会が原報掲載誌以外に、総説、解説、集会案内などを掲載する学会誌を出版している。医学、生命科学系では、同種の商業誌も多い。これらのジャーナルの編集者が、最新の実験結果に関する総説に換えて「哲学的・思索的」論文を掲載する。すなわち、シニア研究者に自らの思索の発表の機会を与える。3点目は、数年に1度は学部学生に対する講義のシラバスだけでなく、全内容を公表させる。公表の対象は、他大学の同じ教科の担当教官である。4点目は、週に1〜2度、同じ学部の他の教官の講義を聴講させ、ノートを提出させる。一般に教官が他の教官の講義を聞くのを自由とし、また奨励する。現状では「教育」に関するかぎり、教官の間に「切磋琢磨」の機会がない。5点目は、学部、学科単位で他学部、学科に関連領域の講義を依頼し、教官も学生とともに聴講する。特に大学院修士課程で、この種の講義を増やす。後述の「卵」の教育のためにも、直ちに試行を開始する。6点目は、教育に専念する期間をシニア研究者に与える。期間の長短は自由でよい。教育に専念する教官が存在してよい。7点目は、教育の成果を評価する尺度の設定が急務である。教育が研究と同じ重みで評価されなければならない。研究評価の対象をイギリスのように、全発表論文でなく、代表的論文3〜4報に限定するのもよい。教育や思索に時間を割く余裕が生まれることを期待したい。一方、「鶏」と並行して、「卵」を育てることも始める必要がある。専門教育を始める前に広い教養を身につけさせるという意見が多いが、私見としては、専門分野を選択した後で、広い視野を持たせる教育を提案したい。その理由は、第1に、大学前期課程としての教養教育は、すべての大学で満足すべき成果を挙げたとは必ずしもいえない。第2に、専門課程へ進む前の教養教育の成功は旧制高校に見出されるという。しかし、彼等は少数のエリートで「背伸び」をしていたのである。また、社会に出るのも今より早かった。第3に、長寿社会を迎え、大学入学者も急増した今、その年齢層が「幼くなった」のは止むを得ない。その傾向は今後も続くであろう。幼い彼等には広い教養教育の必要性が理解できないと思われ、ただ漫然と時を過ごすだけになる。第4に、大学前期課程での教養教育を廃止することを主張するものではない。問題は時間的余裕だけである。具体的には、大学院修士課程の教育の大改革を提案したい。その理由は、第1に、外部評価委員としての経験では、何処の大学学部でも大学院教育の現状が満足すべきものではないと認めている。第2に、実験科学系の学科、講座では修士課程の学生に最初から研究テーマを与えオリジナルデーターを求めている。その結果として、視野の狭い研究者が育成されてしまう。修士論文に、あるレベルの研究成果を要求している以上、また教授が一研究グループのリーダーである以上、現状の改変を学部、学科単位で求めることはできない。第3に、学生は自らの専門を決定して修士課程に進学する。その最初の過程でこの専門領域では、この程度に広い知識が必要であると学生は納得して勉強するだろう。第4に、全国レベルでは、修士課程を修了した学生10人のうち、博士課程への進学希望者は僅か1〜2名である。残りの8、9名にとって、修士課程は学生生活の中でもっとも暇な時期である。勿体ない話である。第5に、博士課程に進学せずに就職する学生にとっても欠くべからざるものであるように、修士教育を充実するべきである。修士課程の改革案は、7点挙げられる。まず第1に、学生をその研究室の研究グループに入れない。講義の受講と実習に専念させる。第2に、実習は新しいデータを出すためのものではなく、最新の文献を理解するためのものである。実習の受講者は研究室単位でなく、広く集める。第3に、講義は他学部、他学科のものの受講を奨励し、単位として認める。受講科目の正しい選択が所属する研究室の担当教授の重要な仕事となる。第4に、講義はセミナー形式、レポートの提出を頻繁に求めるなど、学生の自発的な勉強が必須なものとする。第5に、講義には外部からの非常勤講師を多数動員する。ただし、講師はその研究科が責任をもって厳選する。第6に、修士論文は、上述の勉強の成果を集大成した大部のレポートである。第7に、修士課程修了者を採用する企業、公共団体は、修士論文のコピーの提出を求め、採否を決める面接の重要な資料とする。最後に、「高校以下の教育機関への人材供給」の項目について述べたい。中学、高校の教育を抜本的に変革しないかぎり、大学入学者の学力は低下の一途をたどると懸念される。また、科学の社会的理解にとっても初等/中等教育は極めて重要である。教師の育成の責任を教育学部のみに負わせず、すべての学部は優れた人材の教育界への供給に心しなければならない。大学が21世紀に相応しい新しい教育方法を模索し、それをマスターした教師を供給する。少子化によって教師の需要は見掛け上減少すると思われるが、新規採用数を減らすことなく、教師経験者の再教育の機会を増やすべきである。またアメリカではPhDの小学校/中学/高校への進出が既に真剣に考えられている。

・座長  先週、実は会議があってヨーロッパへ行ってきたが、今、先進諸国はドイツを除いて明年度の研究予算を全部増やしている。アメリカは8%台、NIHは15%、大変な増加である。それだけにどの国も説明責任をどうするのか非常に悩んでいる。今日の宇井先生のお話は非常に幅広かったが、特に重要なポイントは説明責任をどう果たすかということであったと思う。

・委員  先生と私は世代も近いし、分野もそう遠くないということで、先生の言われたことは私は非常に共感を持って聞かせていただいた。
視野の広さをいかに学生に植えつけるかということは、私どもの大学でもメーンテーマであるが、実際はなかなか難しいということが一つある。
もう1点は、私は 100%の自信がない点であるが、それは先生の表現だと専門馬鹿という、基本的に専門的に進んだことをやられた方が、ある時点で広い視野を獲得されたように思われるケースがある。視野の広さを身につけるにはいろいろあって、時間をかけてそういうことを達成するのが大部分だと思うが、あるタレントを持っている人はそうではなくて、専門を突き進んでいくことによって広い視点を得るというケースもかなりあるように見える。その辺が一つある。
  それから、私どもは博士の後期課程の教育しかこれまでしてこなかったが、前期課程を少し考えようということで、今14専攻をいろいろな研究所に分かれてやっているが、その中の文科系を除いて自然科学系の6〜7割のところが前期課程を入れたいと言って、今、検討している。前期課程をやるときに、2年間あるが、そのうちのどれぐらいになるか、まだ議論の最中でわからないが、私どもの葉山の本部のキャンパスには宿舎があり、前期課程をせいぜい50人を超えないぐらいにしたいと思っているが、合宿とか泊まり込みができるようになっており、そこにいろいろな研究所の先生に来ていただいて、私は二月を1年に2回ぐらいやりたいと思っている。集中講義的に寝食を共にしてやる。昔の旧制高校にはほど遠いが、どういう結果が出てくるかなということでぜひ実現したいと思っている。

・委員  確かに先生ご指摘のように、非常に専門のことだけをやっていた方がある時期になって広い視野を見事に示されるというケースはかなりあると思うが、その方を見ていると、やはり若いうちにそれなりに、ちゃんと勉強しておられたと思うので、ある程度強制した方がそういう方が増えるのではないかというのが私の考えである。

・委員  私は先生と少し分野が違うので、非常にいいお話をしていただいたけれども、あえて幾つか反論しようと思う。一つは、まず語りかける能力が必要だと、多くの方がそういう話をするけれども、それは語りかける能力というよりは、一般の人々が考えている科学という、あるいは明日がどうなるかということと、科学者が考えている明日がどうなるかという、行動の動機が乖離しているという基本問題があるわけで、それが一致すれば、表現能力とかはもちろん二次的に必要だが、そんなことに苦労しないでも幾らでも理解が可能だという面があるんだと思う。むしろ、そちらの方に科学者は反省はすべきだ。話せばわかってもらえるというのは完全な思い上がりで、それは許せない。
  2番目は、家庭の主婦の反科学という話だが、これは私はおかしいと思う。家庭の主婦が、あるいは女性が反科学的な感情を持つというのは、男性がつくってきた科学に対する基本的な異議申し立てであって、概して今の科学が正当だと思っているのは男だけである。だから、そのことは素直に受け入れなければいけない。簡単に言えば、現代の科学というのは明らかに開拓主義なんで、それが21世紀に向かって一種の維持主義というのに変わる。これはここで何度もご議論があったと思う。そういう大きな変換に対して、現在の科学者が感受性を持っていないということに対する問題提起だと思う。
  だから、これは非常に重要なことで、今、日本学術会議でも大問題にしているが、女性が入ってこない。これは入りたくないから入ってこないのは当然なんだという意見があるが、そうではなくて、男性が女性に謝罪して科学の世界に入っていただく、そういう時代が来たんだと思う。そういう意味で女性の問題を扱わなければいけない。
  もう一つは、先ほどGMOの話があったが、GMOで科学者というのは正当に判断してはいけないんだと思う。科学者というのは、何ができるかということを明らかにするだけであって、科学の結果が持っているリスクというのは常時あるわけである。そのリスクを判断するのは、それを適用する社会の側であって、科学者というのは正当な情報提供をするにとどめるべきなので、決して導師というか、導く人間に科学者はなってはいけない。これは先ほどと似ている感じがするが、やはり科学者というのは思い上がってはいけない。
  そういうことで、先ほど座長がご指摘になった説明責任問題ということに至るわけであるが、結局それは現在の社会が理解可能な研究をすること、これが一番大事なことであって、自らの好奇心に従って研究したことをどうやって説明し、納得してもらうかではないんだと思う。そういうように科学の選択肢というのは多様に増えた。これは19世紀から20世紀にかけての科学とは違う科学が今起こりかけていて、どういう研究をするかということが大事なんで、そのときに、どういう研究をするかという意思決定に一般の人が参加する構造をどうやってつくるかというのが、むしろ科学技術政策ではないかと思う。

・委員  家庭の主婦というのは、私は男女のことを言ったのではなくて、日本では一般大衆というと家庭の主婦ぐらいのレベルを考えるという話を聞いたので、それを申し上げた。私は、反科学が女性が中心になっているとは必ずしも思わない。
  先生の御意見はごもっともで、研究者は傲慢であってはいけないと思う。しかし、研究をしているのは研究者の方なので、社会に対して (自分の論理を押し付けたり、世論を誘導したりするのではなく)  理解を求めて説明する責任はある。一つ例を挙げると、最近私の関連する医学の領域では、各大学医学部や各病院単位で倫理委員会を結成して、新しい診断、治療が倫理面その他で問題なく行われるよう厳重にチェックはしている。しかし、このような小さな単位の委員会では先生の御意見のように、研究者側の論理が知らず知らず優先されるようになるかも知れない。フランスではこのような倫理委員会は国レベルで作られているそうである。日本でもこのフランス方式を採用して、非研究者の意見を充分反映させる努力は必要だと思う。

・座長  それでは、今日の2番目の議題に進みたい。中間報告の骨子案を事務局から説明してもらい、こういう骨子でまとめていいかどうかというあたりについてご意見を伺いたい。骨子以外に全文もできているので、お手元に配っていると思うが、まず骨子について議論をしていただく方がわかりやすいと思うので、その点を踏まえて議論していただきたい。

                  (事務局より中間報告骨子案について説明)

・座長  タイトルもまだ全くの案で、もうちょっといいタイトルがないものかと考えているので、またいろいろご示唆をいただきたいと思っている。
  内容については、ここでいろいろご意見をいただいたものをかなりまとめたものであるので、若干矛盾するところもあろうかと思いますし、少しリダンダンシーもあるのではないかと思っているので、その辺も整理しないといけないだろうと思う。
  本日お渡しした11−5が中間報告の案であるが、それについてはあとでお目通しいただいて、ぜひご意見を伺いたいと思うが、とりあえず骨子を中心として大きな点で間違っているところ、抜け落ちているところ等があったらご指摘をいただきたい。

・委員  ただいまいろいろとお聞きしたが、これは一応英語にもなるのか。

・座長  今、こちらですぐにそれは考えていないが、多分、すぐ英語になると思う。

・委員  そうすると、20ページの科学技術と国益というところだが、これを英語に直したら誤解を招くことがあり得るのではないかという気がして、この辺のところはフレージングをお変えになった方がよろしいのではないかと思った。
  もう一つ、それに関連するが、この中は非常に内向けのレポートという印象がする。それで、国際関係とか国際協力という問題が科学ではこのごろ盛んになっており、国際的なプロジェクトが相当起こっているが、国際協力に対する記載が全然ない。
  もう一つは、この前申し上げたが、科学者のボトムアップのグループというのが、多少それに近いことが書いてあったが、その辺を科学者の組織というものが、18ページの上のあたりに入るのかなと思うが、そういう言葉を入れていただければ私としては非常にうれしい。

・座長代理 自分自身も関与していながら、一つだけ加えていただきたいポイントが全体のご報告を伺っていてひしひしと感じられてきたので、申し上げさせていただきたい。
それは、結果的には最後の項目になると思うが、骨子案でいえば7ページの6で、本文で言えば22ページの6だが、全体が国民とか一般の人々、先ほどの先生のご報告によれば一般の人々というわけだが、一般社会とかいったときに、大衆とか民衆とか、言葉がなくて困るが、パブリックの側が常に受け身であって、何かしてもらったり、されたりする存在としてしか評価されていないということに対しては、やはり国民の側も、たとえ科学技術という専門に対しても一つのエージェントであって、そこからもいろいろな知的生産性というもの、あるいはオルタナティブに対する知的生産性というもの、必ずしもオルタナティブでなくてもいいのであるが、そういうものがあり得る可能性を秘めたパートナーとしての理解をしておくべきではないのか。
  例えば、産官学の連携といったときに、産は一般的に言えば民だが、産でない民というものの持つ可能性と、今後の社会をつくり上げていくときの意味合いをどこかで評価しておきたいと思う。

・委員  骨子案では4ページの(2)の一般国民の科学技術知識の向上と中間報告案の方では13ページのところについて、そこに絞って述べる。
  骨子案の方は、概略はまあ認められるが、そのもとになっている中間報告の13ページの記述には相当異論がある。
私も、先ほど先生が言われたように、科学技術の選択は基本的にパブリックにあると考えている。選択のもとには判断がある。そういう意味で読むと、例えば一般国民の科学技術知識の向上の上から2行目に「マスコミは国民にいたずらな不安や無用な誤解」、こういう言葉が出ているが、この「いたずら」であるとか「無用である」とかを判断する人は一体だれなのか。「正確に報道することが何より重要である」、これはまさしくその通りであるけれども、これも極めて価値観を含んだ表現である。
  この会議がいたずらと判断し、無用と判断すると読むのか、科学者や技術者がそうなのか、あるいは霞が関の皆様方なのか、これは大変重要なことだと思う。誰の判断か明確にすべきだし、この会議の判断なら、その是非について議論をすべきである。
  同じように「正しく」ということも、一体何によって正しいか正しくないかということを判断するのか。同じ意味で困った表現であると思う。
  それから、科学ジャーナリストの養成というところでも、一般的には全くその通りだが、では科学ジャーナリストの養成は一体どこが担うのか。テレビ局や新聞社なのか。またマスコミだけが今やジャーナリズムではない。インターネットを通じて個人的に発信している人たちもやはりジャーナリズムの一端を担っていると私は考えている。ますますそういう傾向が強まっているわけであり、今や記者クラブだけから事を取材するという時代ではなくなっているという時代の変化を取り込んでいない表現である。
  それから、2番目の報道の在り方というところであるが、下から4行目で例の所沢のダイオキシンの問題が採り上げられている。この例が果たして妥当なのかどうか。最近、風評というのが非常にはやっており、何かというとすぐ風評だという傾向がある。風評だという形であの所沢のダイオキシンの問題を処理して利益を受けたのは誰か。別に農民でもなく、テレビ局でもない。ダイオキシンの焼却炉が長い期間放置されてきた問題、あるいは既に調べられていたデータが公表されなかったような問題の責任者が利益を受けた。風評だという形で、あたかも所沢にそういうことがなかったかのように言うことの方が、日本国の科学技術にとってはより大きな問題だろうと思う。
  もちろん、私は、所沢のダイオキシンに関するテレビ朝日の報道のやり方が非常にずさんというか、私たちだったらああいうことはやらないと思う。だからといって、ダイオキシン汚染報道を、風評をもたらすようなことは悪なんだ、風評ということは実は根も葉もないことなんだという形で葬ってしまうような報道観は、これは社会に対する大きな誤りではないかと思う。
  先ほど申し上げたように、基本的にはどういう科学技術を選んでいくのかということは、パブリックというのは一番重要な要素だと思うので、後ほどこの点については紙に書いて出したいと思うが、大いに異論があるということだけ記録にとどめておいていただきたたいと思う。

・政策委員 本文は読んでないが、骨子案を見たら3点気になるところがある。
  1つは、2ページから3ページ、4ページにかけての部分であるが、「社会と科学技術との関係」ということで、政治、経済、教育と挙げているわけであるが、国民生活との関係という視点を追加する必要があるのではないか。これはあとの重要分野というところで挙げている情報科学技術、生命科学技術、環境問題との関連を考えれば、その面での言及がないと、一つ大きい分野が抜けるのではないかという感じがしている。
  それから、教育と科学技術に関する部分であるが、4ページのところに高等教育の方向についての記述がある。それで教養教育と専門教育の再構築で教養教育を重視しようという考えは、大学審議会が出された「21世紀の大学像」のご提言の線にほぼ沿ったもので、その意味では異論を唱えにくいが、教養教育と専門教育という二元的発想は、戦後、大学の学部教育に一般教育が持ち込まれて以後、さんざん議論を重ねた上、両方区分を廃止して4年一貫教育でやろうという合意が平成3年の時点で成立して、授業科目区分を撤廃したわけである。それが教養教育と専門教育という形であらわれると、また同じことを繰り返さなければならない。特に教養教育についての理解が個々ばらばらだから、この方面では多分実質的にはなかなか前に進まないだろうと思う。
  問題は学部教育の統合原理をどこに求めるかということで、これは専門教育を中心とした編成、つまり専門教育のすそ野をいかに広げていくかという方式と、それからリベラルアーツカレッジ的な編成で、広い教育をしながらメジャーを選びとるという、2つ方向があり得る。それを二元的に考える方向は、気になっているので申し上げたいと思う。
  それから、3番目に申し上げたいのは、科学技術者の社会的責任と倫理の問題で、ただいまも吉川先生からの非常に重大な問題提起を拝聴したが、まだこの問題の議論が詰まっていないのではないか。詰まっていないままで軽々にまとめない方がいいというのが率直な印象である。
  私個人としては、職業倫理の問題と科学者個人の倫理の問題と違うのではないかという気が一つするのと、職業倫理の問題として考えた場合に医師の倫理、弁護士の倫理のようなプロフェッショナルな倫理としての科学者倫理があるのかどうかというところがよくわからないので、もう少しご議論を詰めていただくことを希望する。

・委員  今のお話と関連するが、この中間報告案を拝見すると、皆さんがおっしゃるようにタイトルに合っていないというか、タイトルをまだ決めていらっしゃらないとおっしゃたが、タイトルの中に社会と科学技術の関係というか、社会というのが入っているけれども、中を開けると科学技術の必要性は書いてあるが、社会と科学技術の関係はそのうちの一部という形になっているので、この構成をするときに全体の考え方を変えられた方がいいと思う。
  例えば、人がもしくは社会が科学技術がなければ来世紀生きていけないみたいな視点で考えられると、科学技術がどういうふうに社会にとって必要なのかが見えてくるから、例えば循環型の社会に対する科学技術とか、国際社会の中で、もちろんこれは経済面も含めてだが、協調だけではなくてお互いに競う部分も含めて国際社会の中で科学技術がどう必要なのかとか、自然災害の関係などでどう必要なのか、そういうのが見えてくるのではないかと思う。これだと科学技術はいかに必要かは書いてあるけれども、中に一応「社会」とあるから、それは入れておかなければいけないという感じにしか、社会との関連のところが見えてこないという気がする。
  もう1点、これは一番最初の部分からそうだが、私は医学関係なので医学関係的なところが目についてしまうが、科学技術を少なくとも社会に浸透させようと思ったら「はじめに」の最初の文章でも、「たとえば、医学の分野では、抗生物質、ワクチン、レントゲン」ともう20年、抗生物質の場合はペニシリンの発見が1920何年だから、50年以上古いデータが最初にあるというのは、何となく「かびくさい」かなという気がして、例えば抗生物質、ワクチン、レントゲンから始まって今だとMRIだとか遺伝子診断治療みたいなところまでを書かれるか、それとも最先端の部分を入れられるかの方がいいと思う。それはほかの分野でも多分そうだと思う。
  なぜかというと、一般の人たちが抗生物質、ワクチン、レントゲンでなければわからないと思って書かれているのだとしたら失礼というか、一般人もその辺まではわかっているし、一方、日本では遺伝子組み換えなんかに関しては、農産物の遺伝子組み換えがものすごくアピールされたので、これに関してはすごくアレルギーがあるが、医学的な遺伝子治療の面では今のところデメリットよりメリットの方が大きいから、アメリカではむしろそちらの方が大きくアピールされているから、遺伝子をいじることに関してはプラスの思考をみんなが持っているところがある。だから、そういう面なども含めると、ここでは各分野、ほかの分野も多分あると思うが、もうちょっと新しいデータを各所で引用するときには入れていただけると良いと思う。
  最後の方だったと思うが、特に気をつけてほしいのは、負の遺産というところに、例えば生命科学だの云々みたいな形で書いてある部分が何ヶ所かあるが、社会としての負の遺産というのはエネルギーの膨大な消費と人口爆発だと思う。そのうちの人口爆発もある程度、科学技術が問題だったりしているし、エネルギー問題はまさにそうである。
  今、倫理問題的にちょっと目立っているというのを入れるのではなくて、総量的に問題になるものをきちっと書き込むことが必要なのではないかと思う。

・政策委員 委員会の名称が若干気になっていた。21世紀の社会と科学技術を考える会というと、社会のことも考えなけれけばいけないし、科学技術のことも考えるということで大変なことになってくる。日本語は表現が難しいが、「と」というのは恐らく英語でいうと「インターセクション」、集合論でいうと「論理積」の部分である。その部分を考えるのだということだと思うが、この表現だと21世紀の社会と科学技術というものを全部考える会になってしまって、とても大変だと思ったが、今回は社会と科学技術の関係の再構築ということで、そういう誤解は少なくなったと思う。
  しかし、先ほどお話があったように、これは科学技術の方向から社会との「インターセクション」を論じたものであって、社会の方向から科学技術との「インターセクション」を論じたものではないということは、どこかに書いておいた方がいいのではなかろうかという気がした。
  それから、例えば本文の17ページの目標、戦略の設定というところで、国際競争力という言葉がかなり出てくる。アメリカは昔のブッシュリポート、要するにサイエンスはエンドレスフロンティアであるというのから、今度はヤングリポートでサイエンス・アンド・テクノロジー・フォー・ナショナル・インタレスト的な、要するに国際競争力の強化ということに非常に傾斜してきている。それは確かに日本の80年代の産業技術政策の真似をしているなど、いろいろな理由があると思うが、最大の理由はアメリカにとっては日米間には膨大な貿易赤字が存在することである。日本は大変な黒字を持っている。黒字を持っている方は、何となく懐が豊かだから良いが、持っていない方は大変なことである。
というのは、返すことができないような巨額の借金を国際的に負っているわけだから、それを解消するためには国際競争力を強化する以外に道はない。だから、これは国家的な使命としてアメリカが掲げても、どこの国も文句は言えない。
  ところが、日本がヤングリポートの真似をして、国際競争力を大いに強化したいと言うと、国際的にみると膨大な貿易黒字を抱えている国が、また1970年代、80年代みたいに世界の市場を荒し回ろうとしているのかと、それが日本の国策かと言われると、これは日本の国際的なイメージ・ダウンの問題にもなってくるだけではなくて、実際に国際競争力を強化しなければならないと言っている、産業界の方々にとってもものすごくやりにくくなる、実際にはそう思う。私はそのことを非常に気にするから、その辺の表現をもう少し何とかできないものかと思う。
これは他人の顔色を伺ってということではなくて、私は、根本的にいうと、アメリカが右に行こうと言うと、日本もそれでは右に行こう、左へ行こうと言うと左へ行くということは戦後50年間ずっと続いている。あるいは戦前からも続いているかもしれない。そういうことを今後21世紀にわたっても日本はやっていていいのだろうか。それではいつも二番手を追いかけていくにすぎなくなってきて、しかも今のように物事がどんどん早く変わっていくときだと、フィードバック理論でよくご存じの通りに、フィードバックループに遅れがありますとハンチングが起こる。だから、ますますこの間のバブルのようなことになってしまうのではないか。
そういうものの考え方を21世紀の入り口に当たっては軌道修正すべきではなかろうかと私は思う。先ほど先生も言われたように、国益ということが後に出てくるが、何が本当の国益なのかということの定義をしっかりしておく必要があるのではないかと思う。
  それから、12ページあたりのところで、教養、哲学の重要性を入れたのは大変ありがたいと思う。それを受けて17ページの(1)目標、戦略の設定というところのセカンドパラグラフに「基本的な考え方を十分包括でき、しかもより高い観点からの哲学を入れた総合戦略にすべき」というところがあるが、私は哲学を入れるのではなくて、哲学に立脚していかなければならない、それをベーシスにしなければいけないのだと思う。それと同時に、ここで書いてある「十分包括でき、しかもより高い」というのは一体何ですかと聞かれたときに説明できないだろう。私は、十分包括できるということが高い観点からの哲学に立脚したことなんだと思う。そのところはもうちょっとわかりやすいというか、論理的な表現にしていただきたい。うるさいことを言う哲学者もいるようだから、彼らの意見も入れてという考え方になってしまったのでは、「インターセクション」の議論にならない。

・委員  文化とのかかわりということについて意見を申し上げたいと思う。1ページの「はじめに」というところの第3段落で、「21世紀の科学技術の在り方を考える上では、科学技術と文明・文化、政治、経済、教育等、科学技術を取り巻く人間や社会に係わる諸問題との関係を考究することが必要であり、それによって今後の科学技術の新たなパラダイムを構築することが可能となる。」とうたわれているが、実際に私たちのテーマの中心にある第3章「社会と科学技術との関係」、その中ではちょうど文化・文明のところだけが抜けており、政治、経済、教育ということだけが問題にされている。
  まず、ここに文化の問題を入れる必要があろうかと思うが、文化というのを広くとれば政治も経済も教育も全部入ってしまうから、どういうふうに文化の問題を入れるかは一考を要することだと思う。より積極的には、6ページに、これからの21世紀の科学技術の在り方の中でも、特に重要分野への対応ということで、情報、バイオ、環境、こういうテーマへの、あるいはこういう分野での科学技術の取り組みが重要であるということを書かれているが、ここの情報科学にしろ、生命科学技術にしろ、環境問題の絡みにしろ、ここに文化とか、今おっしゃられた社会とのインターセクションという視点が全然入っていないような気がする。
  例えば、1番の情報科学技術の振興ということをやったときに、ここでは産業の問題とか、あるいは法の問題もあるが、例えば情報科学技術が人間の感受性とか、感覚あるいはイマジネーションをどういうふうに変えてしまうのか、人間のコミュニケーションとか社会関係を、あるいは家族関係をどういうふうに変えてしまうのかという、そういう文化の問題という視点を入れないといけないと思う。
  2番目に、生命科学技術の振興のところもだが、ライフサイエンスというのはもちろん生命科学と訳されているけれども、あえて誤訳すると生活科学と訳してもいいわけで、こういう生命科学の問題を考えるときに、単に生命のいろいろな構造だけではなしに、他方私たちがそれぞれの文化で培ってきた看護文化とか介護文化とか、あるいは死の文化、そういうものとの「インターセクション」ということを同じぐらい重要視しないと、社会と科学技術の関係を考えようという、この会の趣旨にはまだ不十分ではないかと思う。
  3番目の環境問題との対応ということでは、これはここでうたわれていることでいいかと思うが、例えば省エネルギーをめぐる私たちのそれぞれの文化の節約の知恵とか思想とか、あるいはマナーであるが、物の取り扱いのマナーというものと、それから先端のサイエンスが例えば省エネをめぐって協力し合う、あるいは接触し合う、そういう局面も考えた方がいいのではないかと思う。

・委員  今、先生がおっしゃったこと、さっき別の委員がおっしゃったこととほぼ同じことになる。題が「社会と科学技術の関係」の再構築ということなので、今、社会の側で変わりつつあることがここにたくさん書いてある。そういう21世紀の新しい社会生活にとって、どのような科学技術が必要なのかという発想が必要。新しいパララダイムを構築するというが、科学技術の側から構築するというよりは、新しいタイプの科学技術がどうしても必要になってくるという状況だと思う。
  したがって、今後望まれる社会生活にとって、このような科学技術が必要であるというスタイルで報告を出したい。科学技術の側から出発しないというところで、今回は、今までの科学技術と違うということを明確にしたいと思う。
  そこで、2つ書かなければいけないことがある。1つは、どういう社会が望まれているか。これは科学者が決めるものでも何でもなくて、それこそ社会の人々がどういうことを求めているか。そういうものに対して、こんな科学技術が役立つということ。例えばここに書いてある情報。それから循環型社会をつくる、環境問題に対応するということがあるわけだから、そういうことを挙げて、それに対してこんな科学技術がある。具体的な技術、方策、国際協力などを書くことを第1にあげたい。
  2番目に、どうしても書いていただきたいのは人間。先ほど村上さんはパブリックが消えているとおっしゃったし、小出さんがおっしゃったのは、マスコミ人の考え方が入っていないということだと思う。私が読むと、科学者が消えてしまっている。人間が見えてこない。
  最初、先生が人間のお話をなさったけれど、これを読んでいると、人間のかかわり方が見えてこない。むしろ社会と科学技術というのは、具体的には社会の人々、それから科学者・技術者、それからマスコミの人、様々な人がどうかかわり合うかということだと思う。社会というのは抽象的なものではなく、そこに暮らす人間のことだと思うので。
  実は、先生のお話のときに申し上げようとしたのは、科学を社会に表現するときは、人間だと思っているので、サイエンティスト・ライブラリーというのをつくり、インターネットに入れているので、見ていただきたいということ。生物分野の人だけだが、若手の活躍している人を紹介している。紹介というより、本人が伝えたいことを書いてもらったライブラリーをつくっている。
  それに対する反応を見ると、一番関心が高いのは、成果はなかなか難しくてわからないけれども、その人が何を考えて、何でこういう分野に入ってきて、何をやろうとしているのかがわかって面白いというもの。一方、出した科学者側に質問しても、その部分を書けたのが一番よかったと言っている。細かい成果よりも、どんな人間がやっているのか、何を考えてやっているのかということがわかることが、人々にとっての理解であり、または安心なんだという気がして、そういう意味で社会のことを考えるのだったら、人間をもっと浮き彫りにしなければいけないのではないかというのが2番目である。
  最後に、これは今さら言っても仕方がないし、今さら書いていただきたいと言わないが、言い続けてきたことを確認のため。言葉はとても大事で、ここにある科学技術の定義はまったくの妥協の産物だし、これを使っている限り日本が新しい本当の意味のサイエンスをもち、知的存在感をつくるのはとても難しい。先生がおっしゃった、後ろ側というのは、やはり科学という言葉を使わないと出てこない。実は先生は、人間を語るとき全部科学でお話しになった。科学技術という言葉で全部を進めるのは、今後の社会づくりにとって問題だと思っている。今さらこれを変えていただきたいとは言わないが、日本の国の将来をこの言葉だけで語っていくのは、問題ではないかと思っている。
  もう一つ、バイオという言葉も同じ問題をもっている。今、先生がおっしゃった、6ページの情報、バイオ、環境であるが、バイオといった途端に、生きていることとか、生き物たちとか、生活とかいう言葉が消えて、生命科学技術分野で疾患を治療したり、食糧を生産したりということになる。そこで仕方がなく生命倫理も扱っておこうというわけだ。21世紀の生物学は生きているとか、生活にかかわることなどを明らかにしようとしている。周りの生き物たちのこともわかってくる。私はそれが我々の生活にとても大きな影響を与え、しかも社会をよい方向に持っていくと考えて、研究その他の活動をしている。ここでバイオと言ってしまった途端にそういうものが消えるので、ここはやはり生物、生命科学など、生き物という意味を持つ日本の言葉を使っていただきたい。

・委員  大学でも今新しい組織とか、いろいろな議論をする。そうすると、いつも教職員の側に立った形のものが出てくる。先ほどから皆さんがおっしゃったことのセコンドになるが、全体のトーンとして、どうしても国民という言葉が出て、社会という言葉が出たけれども、そういうトーンがなくて、我々、しかも今までの我々といったトーンで書かれている、それが非常に気になる。それが1点です。
  2点目は、これは先生がおっしゃったことのセコンドになるが、専門職業人としての倫理という問題と、個人が一人の人間として誠実に生きるということの相剋の問題である。それがこういう書き方では全く誤解を招いてしまうということで、ここは注意深くやっていただきたいと思う。

・委員  1点だけ、わざとラジカルなことを申し上げると、私もこれはこれで仕方がないかなと思ったが、例えば科学技術のシビリアンコントロールという言葉が既に言われている。場合によっては科学者と社会は利害が対立する関係がある。それをどういう重みづけをするか、これを行うのは一体だれかということを整理した方がいい。
  もう一つは、科学が描き出す自然観、地球観がむしろ我々の生活を律するような位置になってきている。この意味では、科学と価値は対立するのではなくて、科学研究が提出するものが我々の判断根拠の一つの基礎になるという、そういう回帰構造がでてきているのではないかと思う。
  もう1点は、これと似ているが、バイオというか、内的自然を応用していった場合その場になって初めて深層の価値観が出てきてしまうのだと思う。その典型が現在の組み換え食品で、アメリカは全く善意で科学技術を大動員して、大量生産型の農産物をつくったけれども、それがいざヨーロッパに輸入され出した途端、抵抗感がある。日本では知らない間に入っているのに、ヨーロッパでNOと言い出したために、日本のポジションがだんだん明確になってきている。アメリカはGM食品のラベル化は非科学的な非関税障壁だと言っていたのが、むしろ消費者の選択権だということになってきた。いわゆる製造工程の不問という自由貿易の理念が、消費者が製造工程に関心があるために、消費者の選択権ということでむしろアメリカは少し撤退しないといけないことになってきている。実際にGM食品を輸入することになって初めて農業観あるいは食糧をつくるプロセスに対する感受性がヨーロッパとアメリカでは変わっていたのだということが見えてきた。それが多分クローンとか、これから体内のさまざまな仕組みがわかってくると、わかるのはいいが、それを利用するのか利用しないのかというときに、はじめて深層部分の価値観が表に出てくる。そこをどう調整していくのか、こういう問題を専横的に委託されて集中的に考えるセクターが多分必要になってくると思う。

・委員  提案であるが、今までのお話にも出てきたように、社会と科学技術という表現の中には、誰が何を決めるのかという含意があるんだと思う。それを1章起こしていただきたいという気がする。
  例えば、政策立案者、これは政府が代表しており、科学者はアカデミーが代表しており、企業は多分市場が代表していて、パブリックは本当は議会あるいはマスコミが代表している。そういう仕組みをもう一回書いて、実はエンドレス・フロンティアということで日本もずっとやってきたけれども、しかし今度は維持型社会にするという、要するに社会と科学技術の関係が変わったことによって、意思決定の機構をどう変えるかというのがむしろ今度の報告書の主題になっているのかもしれない。

・委員  今のパブリックとも関係があるけれども、カウンターパートとして科学者と技術者だけでいいのだろうかと常に考えていて、私は工学系の大学にいるものだから、工学者と技術者、工学者と科学者でえらく考え方が違う。今、科学技術認定制度の話を大学でやっているが、どうしてもカリキュラムをどうするかという話になって、共通目標の技術者とか工学者の倫理みたいなものは全然入らない。工学者の数は実は大学の中では理学者よりも多くて、中村先生とはちょっと違うが、科学ではなくて工学というのはすごく大事な存在だと思うが、工学概論というのがないわけである。工学部の中で我々みたいのはハラスメントというか、理学者からよりもかなり明確にハラスされるので、工学者の一般教育はかえって大事だと思う。工学部に来る人は大学院でそれもやらなければいけないのではないか。その点では先生の言われた大学院教育、特に修士教育、工学部の修士教育というのはほとんど学部教育の延長なので、そこもやはり見直さなければいけないのではないかと思う。

・委員  最初の2の「我が国における受容」というところは、アメリカの技術導入で高度成長したとか、西欧の科学技術を改良したという話は今さら書く必要はないのではないかという気がする。むしろ、皆さんがおっしゃっているように、社会と科学技術の関係のところをもう少し充実させる。特に経済と教育の話がかなり書いてあるけれども、それ以外にもっと書くべきことがあるのではないかと思う。
  もう一つは、知的所有権のことはいろいろ書いてあるが、これは知的財産権という言葉の方がいいと思う。その取り扱われ方というのは、アメリカみたいにどんどん特許を取って競争力につなげろという話が全体的なトーンで、企業も取りなさいとか、大学も取りなさいということであるが、21世紀ということを考えたときには、もうちょっと大きな枠組みで考える必要があって、科学的な知見にどんどん特許を与えるのがいいのかどうかとか、ビジネスの方法にも特許を与えていくのがいいのかどうか。
  それから、標準の問題もそうですが、標準も特許を取りなさいと書いてあるが、例えばリナックスみたいな技術者のコミュニティで標準をつくって、それをオープンにだれでも使わせましょうということもあるわけだから、そういった大きな流れの方をもう少し書くべきであって、企業に特許を取って産業競争力をつけろということは、今さら書く必要はないのではないか。
  それから、目標、戦略の設定のところで、「国際競争力があり、雇用が確保される国」とあるが、国として国際競争力があるということはあり得ないので、これは間違いだと思うので、やめた方がいいと思う。

・委員  この報告書のスタンスというか、「人が大事だ」という主張のベースが弱いのではないか。先生がおっしゃった「生活」という意味ではなくて、私が申し上げているのは人材や、人的資源をこれからどういうふうにディベロップしていくかという議論の中身にちょっと不満を覚える。平均的なレベル、つまり分布の平均をレベルアップするような議論をしているのか、つまり育てるという話なのか、それとも分布の端の方の非常にイノベーティブな人材を見つける、選抜するという話なのか、この両方は表裏一体だとは思うが、区別する必要がある。先ほども専門家集団が一体社会の中でどういう役割を果たすべきなのか、市場に任せておけば、あるいはパブリックだけに任せておけばどのようなことが起こるのかということが問題になった。専門家集団がどういう力を持って物を決めていくのかということも含めて、人材開発に関してのターゲットが不明確な感じがする。そのあたりは論じるときに分けた方がいいのではないか。

・座長  いろいろご意見を伺って、ほとんどもっともだと思うご意見ばかりであるが、それをどのように書き込むかというのは、非常に難しい課題である。
  そこで、お願いがあるのだが、次回は1月26日で、できれば中間報告案をまとめたいと思う。そこで、実は私も夕べ、まだ全部読めていないような状況であって、もらって帰って、ほかの仕事があったものですから全部読んでいないが、確かにおっしゃったように国際的な視点が乏しいということとか、何といってもどうしても官主導型の今までの報告書のスタイルになっているとか、そういうことは私も夕べ読みながら感じました。
そこで、ちょうどお正月休みがありますからぜひ全部読んでいただいて、すべての委員の方が一言でも、1枚ぐらいでも結構ですから、事務局まで感想でもいいからファクスをお寄せいただけないかということを最後にお願いしておきたいと思う。
  締め切りは1月10日ぐらいまでに、さっき小出委員は書くとおっしゃいましたから期待しておりますが、ぜひ皆さんから書いていただいて、それを参考にしながら最後のまとめを事務局にしていただこうと思うので、よろしくお願いいたします。
それでは、本日はこれで終わらせていただきます。どうもありがとうございました。


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