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21世紀の社会と科学技術を考える懇談会
―  第10回会合議事録  ― 


1.日  時:平成11年11月16日(火)  14:00〜16:00 

2.場  所:法曹会館  高砂 

3.出席者:(委  員) 井村、石塚、廣田、村上、石井、クリスティーヌ、後藤、佐々木、玉井、中島、 
                              山崎の各委員 
                              大崎政策委員、平石政策委員 
                 (事務局)科学技術庁  青江科学技術政策局長  他 
                              文部省         工藤学術国際局長 

4.議  事: 

○座長  本日は、最初に委員から「ボトムアップの科学者の組織」ということでお話をいただく。 
   
○委員  実は自分たちの今やっていることに余り近いので、我田引水と思われるかもしれないが、これまでいろいろと出た意見をこの前もう1回見させていただいて、今までに出された意見には、余り組織論のような話がないということである。いろんな政策をつくっても、受け皿になる組織というものが結構大切なのではないかなと私たちは思っていて、その論議をしたいというのが1つある。 
  今度、この後にできる新しい総合科学技術会議、その形というのはトップダウンな方式だろうと私は思っている。というのは、総理がその座長を務められて、何人かの研究者または学者が入り、関連する省庁の大臣が入られるということであると、その組織というのは事務局におりていくだろうけれども、やっぱりトップからダウンにつながっていく一つの組織で科学政策を考えていこうということであろうと思う。 
  しかし、いろいろと考えてみると、現代の科学、我々日本学術会議において経験してるのは、科学技術に関するコンセプトがすごく変わりつつあるということである。21世紀になると生物を扱われるのがもっと大きくなるかもしれないというようなこと、それから環境についていろんなご意見があり、環境というのは学問になってないじゃないかという方もおられるんだけれども、これが環境科学として形ができてくるかもしれないというようなことがある。もう1つは、持続性というような話がいっぱい出てくる。しかし、持続性という言葉も、発展がなければならないという言い方、それから、経済的に見て本当にそういう持続的な可能な問題があるのかというようなこと、それと、今度は逆にゼロエミッションなんていう言葉が最近すごく出てきていて、こういう科学というのはどういうふうにしたらいいのかというようなことがある。 
  自然科学と人文社会科学が融合して新しい形をつくっていかなければいけないというようなことを、殊に環境絡みの仕事をしている先生方は痛切に感じておられるんだけれども、どういうところでそれが一緒になっていくのか。実際にやってみても、木をのりで接いだような感じの話ではなくて、もっと本当に融合しなければいけないというのはどういうことになるのか、非常に難しい。最近日本学術会議等で言われているのは、フィールド・サイエンスという新しいコンセプトを出そうじゃないかという話が出てきている。 
  これはどういうことかというと、今までは理論科学とか実験科学とかというカテゴリーがあってやってきたわけだけれども、ただ、その実験科学では制し切れないいろんな問題というのが現代の環境問題で起こっている。それは何かというと、均一性でない実験条件下でいろんなことをやっていかなければならない。不均一な条件でどういうアプローチができるのかというようなこと。それから、もう1つ人為が入ってくる。その人為が入ってきたときの影響をどういうふうにしていくかというようなことを考えていかなければいけない科学とは何か。 
  それから、もう1つは、コントロールとか対象区とか、それから処理区とかというふうなものが使えないような場合が多い。実験をして処理をしていくと、処理とコントロールが混在しているというか、処理歴として残ることもありうる。だから、今のフィールドの先生方の一番の問題点は、1つの場所で1つの成果を出すと、またその次の場所に行って同じことをやらなくちゃいけないという、その抽象化ができないというジレンマに陥っている先生方も非常におられるわけである。 
  そういう今ジレンマに陥っている科学の方法論も含めて、議論する場というのが欲しい、科学者同士が、要するに自然科学だけではなくて人文科学も含めた人たちが一つの場に集まって議論するという場所が欲しいというのが、今これからの科学の方向性を見つける意味で非常に大切だと思っている。 
  もう1つは、その科学技術研究の国際化ということが非常に行われてきていて、例えば先ほど申したゼロエミッションとか「環境保全を重視した持続的な社会の形成」なんていう言い方があると、それに対するいろんな国際的なフォーラムができると同時に実際の研究も国際的に行われている。 
  例えば、1つはICSUという組織があるが、これは80カ国のアカデミーが参加していて、それと同時に国際学会、例えば国際物理学会とか国際科学学会とか、科学学会が国際化した形で、国際学会をつくっているわけだが、さらにその上にICSUという組織ができて、国際学会の連合体と各国のアカデミーの連合体、これが一緒になったものをICSU(インターナショナル・カウシル・オブ・サイエンス)という組織がある。 
  今度ICSUの会長に吉川先生が選ばれたわけだけれども、そのICSUで行っている国際地球圏生物圏プログラムというのがある。IGBPと呼ばれているが、これは世界各国の研究者が総出で7つの大きな課題を研究して成果を出している。この前の京都会議のときにこのプログラムの研究者が出した成果が使われて、21世紀の炭酸ガス問題というところの基礎データになっている。このような国際的な学会連合体が行っている研究というのが非常に増えてきている。この他にもいろんな問題があって、例えば社会科学の方ではHIDと言ってヒューマン・ディメンションというプログラムが動いている。 
  日本として対応するときに、各学会が科学者を動員してそれに参加するということだけでは足りなくなってきていて、やっぱりナショナル・コミッティーというものをつくらなければいけない。現在は日本学術会議がそのナショナル・コミッティーをやってるけれども、そういう将来的に大きくなってくる国際的な対応、しかもそれは予算はどのようにするかなど、各省庁に働きかけて国際的なそういうネットワーク、研究に参加していくというようなことが非常に多く行われるようになってきた。 
  こういうことはこれからますます増えていって、明年の5月に、そのICSUを形成しているアカデミーが80カ国あるけれども、それの代表が東京に集まってインター・アカデミー・パネルというのを5月14日から東京フォーラムで行う。「持続性 ─ transition to sustainability」という大きな課題の中で、水、エネルギー、食糧、知識と情報、それから消費、人口と健康というような課題を一つ一つ取り上げて、4日間にわたって1課題について半日かけて議論する。最終的にはそれを取りまとめて、科学者の世界としてどういうことをこれからやるべきかというようなことを報告することになっている。こういうことを含めて国際間の研究者の仲間の集いというかネットワークというのが非常に大きくなってきて、その中心になる組織が日本には存在しないといけないというのが重要なことになってきた。 
  それともう1つ、その科学の進歩について、最近は先端科学が非常に進んできているわけだけれども、これが想像もしていなかった発展をしているのではないかなと。殊に生物関係の問題は大きくなってきていると思う。私が見ていて思うのは、何か小さな子供が、自分が思っている以上に恐ろしいというか、武器みたいなものをおもちゃにして遊んでいるというのが今の現状ではないかなと。これからどうするかというと、そういうものに対する規制もあるけれども、そのおもちゃで遊んでいる子供がもう少し大人になって、どういうふうにしてそれを扱っていったらいいかということを知らなければいけないような状態になっているのではないかなと思う。 
  殊にレジュメに書いたけれども、この前日本学術会議で生殖医療に関するシンポジウムを行ったのだが、そのときに我々聞いていて、本当に人間の家族構成とか遺伝的な隔離現象というのはこれまで自分達で行ってきたわけだけれども、それがなくなってきて、どういうふうになるのかなというすごい恐ろしさが私にはあった。新聞記者の中に事の重大性を指摘した人がいる。やはり生殖医療が進歩したときにはいろんなことが起こり得ると。現在起こってないわけだけれども起こり得る。 
  それから、例えば臓器の人工培養もかなり進んできている。臓器を人工培養したのをうまく人間の体の中に戻してやるということも起こるだろうと思うけれども、そのときに、では生命とか死とかというものはどんなものになるのかという議論はまだしていないわけである。 
  それから、動物のクローン化の現象、私も学生なんかにも教えているときいつも困るんだけれども、「先生はどう思いますか」と言われるんだけれども、若い人が今考えているのは、自然の流れの中で進化するというのはわかるけれども、人間がつくった進化、要するに生物を進化させていくのか退化させていくのか知らないけれども、変化させていく。そういうことがあっていいのかどうかということを学生に聞かれるんだけれども、そういうような問題が非常に多く起こっている。 
  それから、情報科学の部分でもプライバシーの保護だとかいろんな問題が起こっているわけだけれども、そういうものをやっている研究者同士が議論していかないと、まずはいけないのではないかと。例えば、科技庁さんから通達が来て、こういうことはやってはいけない。ああいうことは言ってはいけないとか、こういう自粛をしようというようなことはいいんだけれども、それだけではなくて、実際にやっている研究者がそういう立場にならないとというか、自分自身を高めていって、それだけの判断力を持たないといけないのでないかと。つい最近も、これもやはり人間の細胞と何かの細胞を融合させたという私立大学の問題が出てたけれども、そういうことがますます起こってくるんじゃないかなというふうに思う。そういう意味で、科学者同士が、一番知ってるわけだから、その知ってる科学者がこういうことを議論する場がやっぱりないといけないのではないかなというふうに思っている。 
  そういうことを考えていくと、今、先ほども申したけれども、トップダウンの科学組織としては総合科学技術会議がつくられるということはわかっているけれども、これは行政機関の一つであろうというふうに私は見ているわけである。そういう意味で、その科学者の意見を集約するところというのが1つ必要ではないかというふうに思う。 
  私、環境絡みの仕事で、最近いろんなところへ行くと、地域の住民を巻き込んだ決定をしないと、もう将来においてはすべての決定がむだになるという言い方をするが、その場では科学者が入った決定でなければ本当のちゃんとした決定にはならない。そういう意味で、オール・ステークホルダースと言うんだけれども、ステークホルダーが全部入った組織が必要だということになるとボトムアップ、トップダウンじゃない下からのボトムアップの組織というものが必要なのではないかなというふうに思っている。 
  現在、先進国においてはアカデミー活動というのがある。先ほどから申し上げたようなことについて活動しているが、大体の国ではNGOの機関になっている。ただ、NGOと言いながら、例えばUSアカデミーというのは同じ建物の中にUSカウンシルというのがあって、廊下を隔てて、先生方が名前をつけかえただけで、要するに政府の機関とNGOの機関が合体したような状態になっているわけである。そういうようなものが1つ我が国では必要なのではないか。 
  実際に学士院が英語で言うとナショナル・アカデミーという形になっているが、そういうアカデミー機能を発揮できる体制にはなっていないし、それから法律上も発揮してはいけないようなことに一応なっているんじゃないかなと私達は思ってる。一方、日本学術会議の方は、これまで内外に向けてアカデミーとしての活動を行ってきたわけだけれども、今回の行政改革においては明瞭な位置付けがされていないわけである。この新しい総合科学技術会議ができてから我々の立場を考えるということになっている。 
  その間何もしてはいけないということではないんだろうけれども、現在の状況を見てみると、非常にいろんなところで科学者が集まって論議をしなければいけない問題が、先ほどから申し上げているようにいろいろと山積しているし、実際に国際活動なんかも毎日毎日やっていかなくてはいけないというような状態でありながら、総合科学技術会議がつくられてから、実際のアカデミー的な機能を持つ団体が必要であるとすれば考えるというようなことでは、ちょっと大変なんじゃないかなということがあって、非常に危機感を持って私達はこの会議に臨んだわけである。 
  そういう意味で、科学者の総意を把握する機関、特にこれは総理大臣直属の機関が一番いいのではないかなと私たちは思ってるけれども、そういうものを何かつくる必要があるのではないかというのが私の意見である。 
   
○政策委員  ICSUの性格も完全に理解してないもので、基礎のところを最初に聞かせていただきたい。確か第一次大戦前、帝国学士院ができたときは、ドイツのアカデミーが音頭を取って、万国アカデミーというものをつくった。ドイツが第一次大戦で負けて、イギリスのロイヤル・ソサエティーが音頭を取って、リサーチ・カウンシルの連合体というのをつくったと物の本に書いてあったように記憶しているが、そのロイヤル・ソサイティー以外に今リサーチ・カウンシルができている。アカデミー的な機能はロイヤル・ソサエティーが果たしていると思うが、ICSUというのは、その第一次世界大戦後にできた組織をずっと受け継いでいるものなのかどうかということ。 
  それからもう1つは、リサーチ・カウンシル、ロイヤル・ソサイティーというのは自然科学に、自然科学に限定されているわけだから、自然科学に限定という制限がICSUにあるのかということと、その加盟団体は要するに学者の審議機関なのかファンディング機能を持っている団体も入っているのか、あるいはその両方入っているのかどうか。 
   
○委員  このICSUの機構というのは、昔はインターナショナル・コンファレンス・オブ・サイエンティフィク・ユニオンという、ICSUというのは「U」というのが今でもついてるけれども「union」の「U」だった。だから、要するに科学連合とかそういうものの集まりだった。 
   
○座長  カウンシルじゃなかったですかね。インターナショナル・カウンシル…… 
   
○委員  カウンシルですね。コンファレンスでなくカウンシル。 
  それで、それまではどっちかというとアカデミーも入ってたけれども、アカデミーは投票権が余りないというスタイルをとってきたんだけれども、去年から変わって、サイエンス・カウンシルという形になって、大体その80カ国入っているアカデミーが主体になって、そのほかに20の国際団体が入っているわけである。どちらかというと各国の主導権が非常に強くなった。というのは、それはドナーでもあるからであって、日本も学術会議を通してICSUの加盟金というかお金を出してるわけである。それで、そのほかのいろんなプロジェクト、先ほどのIGBPなんていうのがあるけれども、そういうプロジェクトは国に帰って各、文部省なんかにも相当出しているわけだけれども、こういうことがあるからということでアプローチをして出していただくというスタイルをとっていると思う。だから、どっちかというと国が主体になってきた、変わってきたということですね。 
  それで、ICSUはそうなんだけれども、もう1つはIAPという今度新しい、組織ではないんだけれども組織まがいのものをつくろうと言ってる。それは非常にルーズな形で、何か問題があったときに集まる。インター・アカデミー・パネルといいますが、これはアカデミーだけの連合体である。 
  任意に集まって任意に解散していこうと。だから、要するに組織体としてはつくらない。た 
だし、各国のアカデミーはそれなりにしっかりしたものという形をとろうとしている。 
  もう1つ今出てきているのは、それにISCというのをつくろうという動きがある。これは本当に世界銀行からファンドを出し、10人程度の人員をIAPの中から選んで、インター・サイエンス・カウンシルという形をとってつけていこうと。要するに重要な課題を決定しながら、そこでファンディングもやろうという考え方が1つアメリカから出てきている。それがどうもうまくいきそうな感じなんだが、そうなってくるとICSUとどこが違うのかという話になる。それからIAPとどこが違うのか、少しずつ違ってるわけだけれども、本当の、どっちかというとサイエンス・カウンシルのそういう大きい集合体をつくろうというのが1つある。 
   
○座長  ちょっと私、法律のことよく知らないんだが、日本学士院がありますね。普通あれが本来アカデミーだったわけだが、戦後、日本学術会議ができたわけですね。そこで何らかの分担が法律で決められているのだろうか。 
   
○委員  日本学術会議法というのがあって、それに従って我々は動いているわけだけれども、学士院法の方はちょっと見たことないんだが、間違ってるといけないけれども、学士院の方々はそういうアカデミックな活動をしてはならないというのが1つ何かあるという話は聞いたんだけれども、どうなんですか。 
   
○政策委員  戦後の学術体制の刷新というのがあった。戦前は、要するにさっき申し上げた万国学士院連合対応で帝国学士院があって、これがかなり実権を持っていた。ドイツが戦争に負けて、ロイヤル・ソサエティー主導のリサーチ・カウンシル連合みたいなものができた。それで日本は学術研究会議というものをつくった。帝国学士院がいわばその親元になって対応した。それからもう1つ日本学術振興会を加えて、学術団体の体制ができたわけですね。 
  ところが、戦争に負けて、学術会議一本にしようということで、日本学術会議ができた。ただし日本学術会議は審議機関で執行権は持たない。それで、日本学術会議が勧告したことは、スタックという科技庁の前身の各省連絡会議で話して各省に伝達するというようなことになった。 
  学士院は日本学術会議の附属機関ということで位置づけられた。ところが、学士院は栄誉ある学士院が附属機関とは何事であるかということで、独立をされたんだが、その改組のときにも日本学士院は純然たる栄誉機関である。学者の栄誉機関であるという性格づけをして、したがって、学士院の機能というのは優れた研究者の顕彰と学士院賞の授与、これは一番大きな事業であるが。ということにほぼ限定をされた。 
   
○座長  この前、国立大学の考課問題が出たときに学士院で非常に議論になり、なぜ学士院が政策に提言をしてはいけないのかと……(笑)いうことで非常に議論になった。それはやってはいけないということになってるんだという話だったけれども、だれも法律のことをはっきりはご存じなくてですね。どういういきさつでそうなってるのか、多分日本学術会議ができたときにそうなったんだろうと私も思う。 
  学士院はあともう1つ雑誌を出している。「PROCEEDINGS OF THE JAPAN ACADEMY」を出しているんだが、これがなかなかアメリカの「プロナス」みたいにならない。これをせっかくやるからにはもうちょっと何とかしないといかんのじゃないだろうかという気がするけれども。 
   
○委員  ですから、次の段階では学士院とか、ほかにもドナー団体みたいなもの、学術振興会なんかもそうなんだけれども、そういうあたりをまとめてどういうふうに考えていくのかというのが1つあるかと思うが、いずれにしてもボトムアップの研究者の意見が聞ける一つの組織がないと、これからの科学が非常に大変なことになるんじゃないかなというのが私たちの考え方である。 
   
○座長  ことしの4月、アメリカに行く機会があって、ナショナル・アカデミーに寄ってきた。あそこのボーライトさんという人に会って、いろいろ話を聞くと、アメリカのナショナル・アカデミーは法律で決められた組織であるが、国からダイレクトにはファンディングがないそうである。 
  それで70%ぐらいは契約でもらっている。だから年間に 200レポート出している。すごいんです。すごい能力ですね。それで70%の予算が国から来る。残りは雑誌とかいろんなほかの収入で30%、そういう形式でやっているんだという話だった。 
   
○委員  あそこはプリンティングオフィスを持っていて、所員がその印刷局だけで60名いる。 
   
○座長  Ph.Dが 400名いる。 
   
○委員  全体の組織は 6,000人位、そこまでならなくてもいいんだが。 
   
○座長  今は事務局は何人か。 
   
○委員  私のところは40名ほどである。 
   
○座長  40名位ですか。 
   
○委員  はい。 
   
○座長  それでは、ありがとうございました。 
  次の意見発表を伺いたいと思う。次の委員から「STSとその政策的含意」ということで、よろしくお願いします。 
   
○委員  私の発表は、こういう横長のA3の大きいレジュメを2枚使う。それから参考資料として、今先生が使われた資料の後に「週刊東洋経済」の10月4日号にインタビューという形で私の考えが載っている。非常に短時間でお話をするので、要点が把握しにくいかとは思うのだが、あとで「週刊東洋経済」の方を読んでいただければ、大体のことは書いてある。主にはこの横長のレジュメの1ページ目、2ページ目を使いながらお話をさせていただきたい。本日の私の話のポイントは1つであって、それはSTSという名前のものが近年盛んに興隆してきていて、その制度化が今求められて来ているのであるということだ。 
  STSというのはサイエンス・テクノロジー・アンド・ソサエティーという言葉の省略の場合と、サイエンス・アンド・テクノロジー・スタディというものの省略の場合がある。前者はアメリカで、後者は主にヨーロッパで使われている表現である。これが科学技術論の一種のパラダイム転換になっていること、この新しいパラダイムについて日本の政策意思決定システムの中で研究を支援する制度が必要ではないか。その必要性と可能性の両者が存在するのだということをお話しさせていただきたい。 
  最初に、1つお許し願いたいことがある。そういう話をするということは、おまえは自分のやっていることを我田引水的に宣伝しようとするのかと、そのような印象が持たれるかもしれない。正直に言ってしまうと確かにそうである。ただ、ここ10年ほど頑張ってやってきたことが、たまたま時代の要請と合っているようで、人生の中でこれ1回だけのつもりだが、自分のやっていることを世の中に押し出してみたいと思っているわけである。この中で、私が恐らく一番若手ぐらいで、一生懸命頑張っているので、ぜひ耳をかしていただきたいというのが、きょうのお話の趣旨である。 
  私の自己紹介については、先ほどの「週刊東洋経済」の2ページと書いてあるところに出ている。STSの自己宣伝をすることについての言いわけをすると、私は自分でこのことの研究をやるというつもりは全くないわけであって、私はもともと自然科学史が専門である。現在でも自分自身はSTSの研究者のつもりはないし、論文を書いたこともない。未来のことはわからないが、将来も当分、専門としないつもりである。つまり、ある意味で趣味でやっていることだ。 
  私の専門は17世紀のイギリスの科学史であって、ロバート・フックについて研究をして本を書いたりしている。私の一番最初の就職は東大先端研の助手であった。私はもともとどちらかというと理学マインドの人間であって、日本物理学会誌の編集員なども、3年間ほどやっていた。東大先端研に就職して大変に驚いたことは、理工系と一言ににまとめるのに無理があることだった。つまり理学と工学、恐らく医学はまた違うのかもしれないが、理学と工学は非常に違う方向を向いているんだということにとても驚いた。先生方の行動パターン、それから研究室の運営を見ても理学と工学は別物であるということに非常に強いショックを受けて、それを意識してロバート・フックの本を書いた。私は工学というものは何なのかという強い疑問を持った。これはSTSのTの部分に生きてくる分である。サイエンス・テクノロジー・アンド・ソサエティーのテクノロジーのところである。 
  私自身がどうしてそのSTSというものに関心を持つようになったのか。それには学問分野としての科学技術論のパラダイム転換というのが理論的背景としてある。その背景の中で、私自身の中で起こったことは何かということを説明したい。私、科学史家としてトレーニングを受けて、もう20何年ほど経っている。初めて勉強始めたころは村上先生は42歳ぐらいでいらっしゃって、若々しくて、今のちょうど私の年と同じぐらいでジーンズ姿で授業されていたのを思い出す(笑)。 
  科学史を学び始めて気づいたのは、学べば学ぶほど、(これは村上先生の授業じゃないというのはあらかじめお断りしておいた方がいいかもしれないが)科学が見えなくなることだった。科学技術史を専門としてやろうという人間は、科学技術と社会は一体どういうふうにあるべきかということを考えようと思って始める人間が多いんだが、科学史をやればやるほど現実がよくわからなくなるわけである。 
  例えば、ニュートンが万有引力の法則を見つけたのは何年か、これは5年ぐらい間違ったって科学技術と社会の関係の理解には関係ないはずである。しかし、研究をし出すと一週間の違いでも気になる。これは学問の魔性というか、今でもやはり資料を読んでいると、1週間日付が狂っているとどうも気分が落ち着かないということに必然的になるわけである。 
  科学史というのは元来始まったときからして現在の科学と社会の間の関係を何か考えようという衝動があったはずである。ところが、一たび始めてしまうと全然違う方向に行ってしまうということに不満を持った。そんなおり、当時東大におられた竹内敬人先生から、ジョン・ザイマンという人の「科学と社会を結ぶ教育」とはという本の翻訳を手伝わないかとお電話をいただいた。それで、翻訳を始めてから、どうもSTSという科学史とは違う分野があるらしいと気づいた。自分の不満とどうも関係があるのかなというようなことを思うようになったわけである。 
  STSに関心を持ちはじめたものの、当時はオーバードクター問題華やかなりし時代で、ドクターを卒業してもなかなか職がない私は予備校の物理の教師をしてるのが精いっぱいであった。当時我々学位取ることもできなかった。ドクター3年終わって世の中に出ても仕事がないということがつづいたんだが、幸い先端研の村上先生に拾っていただいた。先端研の科学技術倫理という分野だったんだが、私自身非常に混迷した部分もあって、科学技術史家に倫理が語れるんだろうかと悩んだ。当時は生命倫理が盛んだったんだが、どうも私は生き物というのは大変苦手であって、人間はいいけれども、ほかの生き物は触るのも嫌であるというのが正直なところで、生命倫理と言われた瞬間にもう嫌だった。それでも、やらなきゃいけないかというので多少おつき合いしたんだが面白くはなかった。 
  実は生命倫理の方も科学史と同じように専門化がすすんで、細かい問題に入っていきはじめていた。何かもうちょっと違う方向はないんだろうか、それから、問題は生命だけなんだろうかという疑問も持った。エンジニアの先生方がつくっている技術の成果が世の中にもちこまれると問題が起こることがあるが、生命倫理ほど世の中の方は深刻に受けとめられないわけである。そんな背景意識があって、STSというのを調べるようになった。 
  細かいことはどうでもいいんだが、STSの始めについては述べると、1971年にイギリスにSISCON(シスコン)というものが誕生した。これはサイエンス・イン・ア・ソシアル・コンテクストというプロジェクトだ。ご存じのようにアメリカと違ってイギリスの理工系大学には一般教養というものは存在しなかった。専門教育だけだったのだ。これは大変だということで、一般教育も入れるべきであるという議論が60年代ぐらいから出てきたわけだが、理工系で普通の人文社会科学教育をやってもしようがない。理工系の学生たちが将来社会に出たときに、自分たちの科学や技術がどのような意味を持っているのかということを教育すべきであるということになった。こういう理念のもとにリーズ大学の理工系のビル・ウィリアムズ先生という方がSISCONを構想された。具体的には、ナフィールド財団というローバー・オースチンの財団から5万ポンドという大金を取って、STSのテキスト開発をやられた。 
  これがサイエンス・イン・ア・ソシアル・コンテクストなんだが、テキストのテーマを見ると、レジュメに書いてあるが、「科学技術はニュートラル」、「ソシアル・リスポンシビリティー・オブ・サイエンス」、「成長の限界」、「女性と科学」、「原子爆弾」、一部分科学史の内容があって、「コペルニクスからガリレオへ」というようなものがあったわけである。 
  それで、はっと気がついた。要するに、多くの人々が科学と技術と社会の関係を考えるのには科学史と科学哲学こそが王道なのであるというふうにどうも考えてきたようである。科学史・科学哲学は、英語ではHPSなどと呼ばれている。HPSからSTSへ、ヒストリー・アンド・フィロソフィー・オブ・サイエンスからSTSへというようなことを、今イギリスにいるアメリカの有力なSTSの思想家であるスティーブ・フラーという人は言っている。私そのことに気がつくのに随分と時間がかかって、それを克服するのにここ10年ぐらい時間をかけてきたわけである。 
  ちょうどシスコンの時期に海外ではSTSを担う学科がさまざまなところに出てきた。1966年にはエジンバラ大学に、あるいは同じ年にはサセックス大学に科学技術と社会を考えるような学科が創設されている。それから、ほぼ同時代に、アメリカではサイエンス・テクノロジー・アンド・ソサエティー・プログラムという名前で、69年にコーネル大学、それから、ペンステイトンできていて、やや遅れてMITにもできた。有名なトーマス・クーンなども、どうもMITのこの部門にいたようである。 
アメリカでは、背景にベトナム戦争への科学者の関与、それから、一方でイノベーションが急速化しているというようなことがあったと思う。STSの特色は、科学、技術、社会に関係するものならば、あらゆる道具立てを動員して問題を考える点である。科学史や科学哲学に限らず何でも使う。そして科学と技術を平等に扱うという点もSTSの新しい部面である。科学技術論というと、武谷三男さんの「科学論」とかそういうのがイメージとしてあるわけだが、それとはかなり毛色の違う分野である。 
  いろいろ調べると、海外、特に欧米だが、STSの学会組織が非常に盛んに活動を始めていた。数年前ドイツで開かれたこの分野の国際会議に行ったところ、欧米合わせて大体 500名の人々が参加をしていた。年号で言うと年表の1976年にアメリカ系統の学会ができていて、82年にはヨーロッパのができている。どちらかというと私自身はアメリカの方に余りシンパセティックではなく、欧州の方にシンパセティックである。アメリカの方はSTS自体もまた学問化して、現実の科学から乖離をして余り意味のない科学批判をやった。これがいわゆる今のサインスウォーズというのを引き起こしてしまった。10日ほど前にアメリカに行ってこの学会に出たんだが、アメリカの科学論者たちが余りに真剣にこの問題をとらえていないということに非常に驚きを受けた。 
  日本も学会づくりに遅れてはならないと、STSのネットワークづくりをやることになった。1990年にSTSネットワーク・ジャパンというのをつくったわけだが、どういう理論枠組みでやるのかというようなことも提示するのが大変だった。最終的には、科学技術と諸学を結びつけて、科学技術歴史学、科学技術哲学、科学技術政策学、科学技術社会学、科学技術経済学、科学技術法学、科学技術政治学、科学技術倫理学と、山のように課題は出てきた。 
  もうほとんど時間がないが、もうちょっとお話をさせていただきたい。日本でのSTSのプレゼンスを海外にも示さなければいけないというので、昨年割と大きな国際会議を開かせていただいた。 
  最初はSTSのパラダイムをつくるのにえらい苦労したんだが、日本のSTSの議論として最初のヒットに所属するものといえるかと思うが、小林信一さんという電通大学の方を中心に我々で企画した、ここに持ってきて「現代社会と知の創造」という本があるが、いわゆるモード2である。リニアモデルに当てはまらないモード2というような研究システムをどう扱うか。特に地球環境のようなものはトランス・ディシプリナリーな扱いをするものだ。先ほど融合という言葉があったんだが、どうも融合ではよくないんじゃないかというのが我々の考えであって、諸学の協力、つまりトランス・ディシプリナリーでなければいけないというのがこの本の一つのモード2の特徴である。そのようなことを議論して、特に日本経済新聞とか産業界の方から強い反応をいただいている。 
  それから、最近議論になっていることとして「冷戦型科学とその崩壊」、つまり現在の科学システムで起きている変化は何なのかというものがある。冷戦型社会に対応してつくられてきた科学技術システムが崩壊しつつあるのではないか。スミソニアンのデボーキンさんという冷戦型科学の研究者がおられるが、その方によると、冷戦型科学の典型はロケット、原子力研究、ジェットエンジン、エレクトロニクスであるということである。いずれも巨大資金を導入し、かつ、そのおこぼれとして基礎科学が振興されるというような構図を持っていたわけだが、これが行き詰まりを見せている。ジョン・ザイマンなどは「縛られたプロメテウス」などという言い方をしているけれども、そのような状況が生じているわけである。 
  すなわちVannevar Bushが1945年7月に出した「Science−The Endless Frontier」が描いたイメージに従って、大規模資金を投入してマンハッタン計画型の研究をしてきたが、それをすることが難しくなった。それがSSCの破綻であると見てはどうか。 
  それから、アメリカは今、冷戦型科学の後始末をしているのではないか。ある委員の言葉をかりると、「科学技術の軍民転換」が今行われているのである。このような見方でインターネットの展開を見ると、インターネットというのは果たして新しいテクノロジーなのか、実は軍事技術の後始末にすぎないのかともいえる。これは見方としては重要なことになる。 
  それからもう1つ、これはぜひご紹介したいんだが、科学技術倫理教育の問題が最近ある今週の金曜日に「日本科学技術者教育認定制度」(略称JABEE)というのが発足することになっている。日曜日の日経によると「理工系学部の格付機関」となっているが、ちょっとこれはかなりミスリーディングな言い方である。これはアメリカのABETというものに対応する機関であって、アメリカの理工系大学はまともな大学と認められるためにはABETという認定機関によって認定を取らなければならない。日本は文部省の設置基準があるので、もともとこのようなことは必要ないはずなんだが、実はグローバル化によって、日本の大学もABETに相当するものを取らなければ国際的にまともな大学として認定されないのではないか。そうエンジニアの方々が心配されて、日本技術者教育認定制度を作られる。これは非常に有効に機能する確率が高いと思われる。 
  付け加えると、アメリカではABETの基準が改められて、クライテリア2000というのになった。非常に詳細な規制的なクライテリアから行動プログラムのようなものに変わる。ここでSTSにとって非常に重要なのは、技術者倫理教育をしない大学は大学として認定されないことだ。それがJABEEと言われる日本技術者教育認定制度にも取り入れられている。ただ、技術者倫理教育をだれができるのか、いつどこでやるのかという問題が生じている。 
  ABETでは、技術教育ではなくて技術者の生き方教育、技術者として、うそをつかないとか手抜き工事をしないとかといったことも扱う。アメリカではチャレンジャーの爆発、それからハイアット・リージェンシーの建物をつなぐ橋が落ちたということがあった。そこで技術倫理教育をしなければいかん、絶対やらなければいけないということになって、これがABETの条件となった。日本の大学で国立大学はABETは取れる、アメリカの認定基準は取れるようだが、私立大学は教官の教育義務が基準をひどく超えてしまってABETは取れないそうである。つまり、教官の教育義務、研究は疎かで教育し過ぎであるということのようである。 
  ほかにSTSの領域で最近話題になっているものとして、テクノ・デモクラシー、コンセンサス会議というようなものがある。日本のSTSの次の課題としては、日本には公的な学会組織も研究機関も存在しないということがある。 
  米本さんの指摘を再びかりてしまうと、その影響として、「科学技術論に関する議論、科学技術と社会に関する議論には特徴がある。それは場当たり的に同じ議論が繰り返される」。政府などで委員会が開かれるたびに、場当たり的に同じ議論、地球環境問題から知的所有権までと、10年前にも随分やったが、10年後も同じことが話されている。悪い意味での素人談義が繰り返される可能性があるわけだ。それから、一方で「小田原評定で戦略が出てこない」ということもある。これは11月5日の日経の経済教室に山下さんが書かれていることであるが、科学技術立国と言いながら国家戦略がないじゃないか、リーダーシップがないじゃないかと。 
  もう1つ言うと、オピニオンリーダーという人もどうも現実の流れにただ流されているだけではないかとおそれる。どこに行っても聞くのは情報とバイオを重視せよという声である。残念ながら、この山下先生も情報とバイオを強調されているが、アメリカが情報とバイオなら日本は物づくりで頑張るという発想も絶対あるはずで、なぜアメリカのとおりにしなければならないのか。アメリカはアメリカの事情があってすばらしいことをやっているんだから、日本は日本の事情ですばらしいことをやろうじゃないかという発想になぜならないのかというのは非常に不思議である。 
  これ以外にも、STSの課題としてはレギュラトリー・サイエンスというようなものがある。これは、化学物質の規制値などを示す会や政府機関などに指針として提示するものだ。STSの主張は、新しいパターナリズムであるという批判があるが、それでいいんだと思う。つまり、古いパターナリズムである行政による規制が崩壊した後にそれを無にしてはいけない。その役割を違う機関が新しいパターナリズム、NGOでもいいしSTSでもいいし総合科学技術会議でもいいけれども、多面的にリーダーシップを確立するような、そして、それが争うような構造をつくっていくというようなことをやらなければいけないのではないか。 
  最後は多少言い過ぎたなという部分もあったが、その点は若気の至りということでご勘弁いただければと思う。 
   
○委員  ただいまのお話、大変感銘を受けて伺った。前から私どもとしても科学技術に関する社会科学というものが必要だろうと。ただし、科学技術そのものに対する理解力がないものだから、なかなか自分ではできないなと思っていたところである。 
  ただ、最近法律学の中で非常に評判になっている1冊の本があって、「法とフィクション」という本であって、昨年亡くなった学士院会員だった来栖三郎先生の書物だが、この先生は定年になられてから後、高校の教科書を、物理学の教科書から勉強し直して、そして、科学あるいは物理学における法則、あるいはその「法とフィクション」ですね、それもちゃんときっちり論文としてまとめておられる。もちろん神ですね、神様、「フィクションとしての神」という論文も含まれているけれども、そういうことをやっておられて、私なんか到底その足元にも及ばないなと思ってたんだが、幸い割とこのごろ若い法律学の人たちがその本を読んでいるものだから、将来が多少明るく、法律学も明るくなるなというふうに思っているところである。 
  そういう意味で、実はついさっき人事官の市川惇信さんと昼に立ち話ぐらいでしゃべってたんだが、科学におけるフィクションと方法ないし法学におけるフィクションというものをきっちり突き合わせて議論する、そういうフォーラムみたいなものが必要だなというような話をしていたものだから、余計ただいまの中島さんのお話、興味深く伺ったわけである。 
  ただ、1つ私が申し上げたいのは、多分中島さんのお話の中に当然インプライされてるんだと思いうけれども、STSですか、その頭に「J」をつけた一つの分野というか、ジャパニーズ・サイエンス・アンド・テクノロジーですか。国によってやっぱり違うという、それを日本の場合特に気をつけてやらないと、それこそさっきおっしゃったように何度でも同じ議論が繰り返されて、それで一向に効果が上がらなくて、また審議会を開いてまた同じことをやるという、多分その繰り返しになるのではないかなということで、それだけつけ加えさせていただく。 
   
○政策委員  私、以前、お話に出た小林信一先生から先生の小論文のコピーをいただいて、拝見したことがあった。その中で、それに今おっしゃった科学技術と法律学、経済学など、それぞれの学問的分野で科学技術の研究が成立すると書いておられたような記憶がある。 
  STSをどう理解するかということと関連して、似たようなことが考えられる。他の政策から切り離れた科学技術政策というのは何なんだというところが考えてみると難しい。つまり環境政策をやろうと思ったら科学技術政策が必要、経済政策、産業政策、あらゆる政策に科学技術政策というのは内包されている。ただ、そういう特定目的を持った政策との関連における科学技術政策ではなくて、だから、STSに即して言うと、そういう個別の関心ではなくて、それを要するに包括・統合するものは何なのか、科学技術政策としてですね。それがはっきりしないとSTSというのもどうも何かつかみどころがない。何となくもやもやっとした感じが科学技術政策でも残るが、今のSTSの話でも残る。個人的な印象で恐縮だけれども。 
   
○委員  私どもも最初はそれは悩んだんだけれども、結局、STSをモード1的な学問と考えると確かにそういうことになる。ある目的のために一時的に集められたモード2的な学問であるとすべきではないか。すると、STSというのは歴史貫通的に存在するものではなくて、現代にその解くべき課題が存在したために存在する学問であると考えるべきではないかと思っている。 
  それからもう1つは、私、吉川先生の「人工物工学」が最初に出てきたときに非常に違和感を覚えたんだけれども、最近は逆であって、つまり、これだけ人工物に満たされた世界というものが出てくることによって、人工物のマネージメント、我々が未熟であるためにそれをどうするかということの必然性もあって人工物工学やSTSがモード2的に形成されたのではないかなというふうに最近考えている。 
   
○政策委員  モード2論というのは大変興味のあるお考えなんだが、つまりモード2というのは集まり散じるものですね。これはSTSだけじゃなくて、政策研究というものにどうも共通することだと思うんだけれども。ではそれの核は何かといったら、集まり散じることの方法論なりシステム論ということになっちゃうのかどうかと。そうだということであれば、それはそれで理解できる。 
   
○委員  当面はそう考えている。ただ、そこから出てくる重要な点は、基盤となるモード1がないとモード2は決してできないということだ。それから、モード2というのは、ある政策意図を持って意図的に集められたものであるために独自のパラダイムというのを形成しにくいので、何か外からの力で形成する以外にはできないということは多分あるんだと思う。それは弱点だが、同時に長所だというふうに考えたいと思っている。 
   
○委員  この科学と社会の問題は、私の前任者の先生が科学研究費創成的基礎研究費のフィージビリテイ・スタディでここ数年やってこられた。それの流れを受けて、私どもの大学にSTS 
研究の研究センターをつくってほしいという要請があり、大変悩み深い問題で苦慮しているわけだが、何とか実現したいと思っている。 
  私自身はSTSの問題に深い考えも何もないんだけれども、どうして総研大にそういう研究センターをおいて欲しいのかということは今のお話と関係あると思う。私どもの大学はいろんなタイプのサイエンスをやっている研究所と一緒に大学をやっているので、生きたサイエンスというか、材料には事欠かないという点があるんだというふうに私は自分で理解している。 
  先生もその悩みをちょっと漏らされたけれども、やっぱりこの問題は、本当のサイエンスともいうべき、そういう材料が常に供給される状況で考えないと死んだものになってしまうというふうに私は確信していて、それでは究極の目的は何かというと、人類がサイエンスというものを生み出したところの根源は何かということを明らかにすることではないか。これが私の願望である。 
   
○座長代理  ちょっとつけ加えさせていただくが、アメリカの大学でのSTSプログラムというのは、今やもうほとんどあらゆる大学の中でそういうプログラムが設けられている。多くの場合にそれはカレッジ・ワイド・プログラムとか、あるいはカレッジ・ワイド・メージャーと言われる。 
  つまり、例えば心理学科に学んでいる学生が最終的にカレッジ・ワイドのSTSメージャーで論文を書いて卒業してもよろしい、あるいは、倫理学科にいる学生が倫理学で卒業するのではなくてカレッジ・ワイドのSTSで論文を書いて卒業してもよい。もちろん倫理学科の学生が倫理学の論文を書いて卒業してもいい。つまり、その意味では工学部にいようが文学部にいようが理学部にいようが農学部にいようが、日本の学部とぴったり合うかどうかはともかく、あらゆる学問分野の人間がみずからの関心に従って自分の、ディシプリンの中から立ち上がりながら、STSへと進んでいくという人材養成が広げられていっているという状況があると思うし、それが先生が言われたトランス・ディシプリナリーというところの制度的な側面としてサポートしているという、日本でももしプログラムをつくっていくとすればそういった形になるのかなというのが実際上の運営になる。 
   
○委員  アメリカは特に恵まれているために、非常にひとりよがりな、STSのためのSTSのようなものが出てきて、サイエンス・ウォーズの根源になったのではないか。今回アメリカの学会で議論しても、自分たちの学問の内側ばかり見ていて、なぜSTSが社会から批判を受けているのかということに対する問題意識が非常に希薄である。私、コンセンサス会議についてのセッションを司会をしたんだが、アメリカの研究者の何人もの方が「コンセンサス会議って何ですか」という。これだけ世界に広がっているものについて認識がない。一方でEU圏の方は逆で、学問的にこれから独立しようというところである。EUでは政策担当者の方とSTSの方はそんなに敵対的ではないので、お互いに協力してうまくやっているなという印象を受けた。 
   
○座長  これはアメリカでは最初大学院のコースとしてできたんではないか。それからアンダーグラジェードの方に広がっていったというふうに聞いたんだが、これは間違いだろうか。 
   
○座長代理  大学院は今でもせいぜい1つか2つだと思う。 
   
○座長  余りありませんか。そうですか。 
   
○委員  学部の方が多いと思う。 
   
○座長  どちらかといえば、トランス・ディシプリナリーだから、むしろ大学院かなと思ったが。 
   
○委員  プログラムだから、学部ではなく、いろんな学科の方が協力しているようだ。 
   
○委員  専門的なことはよくわからなかったんだけれども、ちょっと不思議に思ったことで二、三あったので。 
  このEPCですか、エンジニアリング・クライテリア2000という中で、これはプログラムのクライテリアを書いてあるんだが、その中でAからKまでのアセスメントですか、卒業生がこういうアビリティーを持つことが重要であると書いてあるんだけれども、これを日本語に訳してまで大事なことを、日本の文化の中にもともとこういう基準てないのかなというふうに感じたんですね。 
  それで、こういうふうにアメリカではやってるということではなくて、先ほど「J」から始めた方がいいとおっしゃったジャパンのやり方というのは、私は非常に大事なことだと思うし、日本には神道とか昔だと仏教のそういう哲学があるわけだから、そういうところから発生した一つのクライテリアみたいなものが日本の文化から既に生まれていて、それが基準となっているような一つのこういう法則がないのかなということを1つ感じて、もしかしたらそこが一番今日本の科学技術の中での問題点、または、ここに当てはまるものはすべて普通の学問に全部当てはまる一つのクライテリアであるのではないかなという感じがした。 
  それと、もう1つは、今アメリカとヨーロッパのお話の中で、ヨーロッパの場合だとやはり宗教が、もちろんキリスト教文化というのが基準にあるんだけれども、ほかの宗教もいろいろあって、アメリカの場合はその宗教の自由を求めるために、信仰の自由を求めるためにアメリカに移民して始まった国であるだけに、こういうサイエンス・テクノロジーというものは社会にどう貢献すべきかということの認識を持った形で科学とテクノロジーというものは、技術というものは評価されているわけで、ヨーロッパの場合だと、今は非常に社会ということだけではなくて、ある意味ではビジネスライクに切りかわっている部分というのがあるので、その中で恐らくアメリカのソサエティーということでヨーロッパがスタディする、なっている一番大きな点ではないかなと思う。 
   
○座長代理  最初の点は、先生もコメントされるかもしれないけれども、もちろん日本には例えば土木学会というのは既に非常に古くから見事なこういうクライテリアを持っておられる。土木学会としてつくっておられて、それが果たしてどこまで今おっしゃった意味で日本的かどうかは別にして、ただABETの方、これが問題になっている理由は別にある。 
  これはPE(プロフェッショナル・エンジニア)というアメリカでの資格の問題に絡む。アメリカのABETの基準に基づくプロフェッショナル・エンジニアの資格(これを卒業して何年か実務経験を積んだ人に対して与えられる資格がPEなんだけれども)がさらに国際的に広がろうとしている。 
  だから、今後APECではアジアでのそういう国際基準をつくろうという方向に、今日本が言い出しっぺで、これから少しずつ動いていくという状況の中で出てきたのがこのJABEEですね。したがって、その何か国際的に標準化しなければならないという背景に現在私たちが直面しているという問題として別にあるということ、ちょっとつけ加えると。 
   
○委員  国際的協調、つまりWTOのようなハーモナイゼーションの一環に思える。特にアメリカはご存じのように多宗教多民族の国家なので、基準が明示されないと難しい。ABETの基準に合致した大学を出て4年間の実務経験を経るとPEの受験資格が出るわけだが、このPEに合格した方が規定数以上いないと政府の仕事など受注できない。日本のゼネコンなどが海外で仕事をやろうとすると、PEを取った人がいないと受注できないという構造になるというのは大変なことである。 
  それから、ヨーロッパと日本は事情が非常に似ていて、文化的な均一性がある。日本と同じで明示が大変苦手のようだ。ヨーロッパに住んだことがある方は、日本と欧州が大変似ていると思われたと思う。どうも明示化しないと最近のさまざまな事件から見て、日本ですらだめであるというようなことが起きてきているようである。 
   
○座長  現在の日本の工学部ではほとんどエシックスは教えていないということで、エンジニアのエシックスは教えていないわけですね、まだ。 
   
○委員  はい。それで東工大でも今先生方努力されている。とにかく工学部の先生を説得するのに学部長の先生とかもう大変苦労なさってて……(笑)。学部長の先生なんかも大変だということになっているんだが、現場の最前線のエンジニアというか、工学者の方は「えっ、何だそれ」という感じになっているそうである。 
   
○座長  医学部でもですね、実は医学部は非常に倫理が大事で、我々のころから講義はあったんだけれども、ほとんどみんな聞いていない(笑)。要するにサイエンスばかり教えることに一生懸命であって、そういうことをほとんど教えてこなかったんですよね。これは非常にやっぱり大きな問題であって、最近になってやっと国家試験に出るようになって、それでみんな勉強するようになった。(笑) 
  何かそういう強制力がないと、なかなか工学部の領域でエシックスというのは難しいだろうと思うのだが、しかし、最近JCOの事件を初めいろんなことを見ていると、やはりこれは非常に重要な課題であろうというふうに思うんだが。 
   
○委員  これはでも大学で教えるべきものなのか。(笑) 
  私はもっと小学校から、大学出て触れないとできない、大学出てから倫理的な人間になりなさいと言われても無理じゃないかと思うんですね。 
   
○座長  基本はそうですね。基本はそうだけれども、ただ、例えば医学の倫理なんかでいうと、次々と新しい問題が出てまいるので、そういった問題にどのように対処するかということが非常に重要になってくる。それから、単にもう倫理だけではなくて、もうちょっと広くバイオ・ソシオリティーというような学問の名前を言う人があるんだけれども、例えば生殖医学が変わってきたら、さっき先生が言われたように、家族から社会まで変わると。そういうことをもっと研究しないといかんのじゃないかというふうな動きは確かにあるんですね。 
   
○座長代理  ごく短いコメント。今おっしゃったこと、これは本当にもっともなんだけれども、ただ、倫理というのは対社会の倫理だけではなくて、ある職能者集団に入っていく、PEならPEという職能者集団に入っていく、あるいは研究者が研究者という職能者集団に入っていくという内部倫理、あるいは内部のノームでしょうか、といったようなところもやっぱりかなりな部分を占めている。 
  特に自然科学者あるいは医学部関係、さっきから出ているアメリカ・ナショナル・アカデミー・オブ・サイエンスから出しているOn Being a Scientistというパンフレットがあるんだが、これは理学研究者に対する倫理。14章ぐらいあるうちの13章までは内部倫理なんですね。お互いの研究業績をどういうふうに尊重したらいいかということだとか、実験をやっていくときにはどういうことが大事かというようなこととか、そういう意味だから、倫理という言葉の中に含まれている意味の二重性があるように、社会的と同時に職能者の倫理というのも考えなければ。 
   
○委員  先生が言われたように、この倫理とかエシックスというもの、今おっしゃったように内部的なところでコンセンサスというものがありますね。だけど、結局社会のコンセンサスをつくるときと、あと議論するために何か土俵がないとだめなんですよね。今、例えばアメリカの日本におけるインターナショナルスクールの中でも、小学校4年生の授業でモーラティセーション・ネーキングというクラスがある。このモーラティセーション・ネーキングというものに答えってないわけなんですね。いろんな場面を想定した上で、あなたならどう選ぶかと。だから、これは自分がどう選ぶかという能力が備わった上で、大人になったり、またはそういう特定の場に出たときに、自分の決めたディセションとかジャッジメントを裏づけてくれる土台づくりのために必要であるので、私はぜひ文部省の方には、そういう小学校のときから土台づくりをやってもらうことによって、それが大学につながっていくということを何かしていかないと無理なんじゃないかなという感じが、しつこいようだけれども思う。 
   
○政策委員  これは私の全く個人だけの感覚なのかもしれないんだが、そのバイオ・エシックスとか生命倫理とかというときの倫理という言葉の意味は、例えば「法律は最低限の道徳である」というような言葉に示されるように、人間の内面性なり良心に支えられた非常に高度な、高い精神性の裏づけがある規範意識というような感じがどうもするんですね。 
  ただ、どうも生命倫理のお話とか、今の技術者倫理のお話とか伺うと、それとは違って、一種の行動基準みたいなもので、これをやるのにはこういうことをやるのが当たり前だよという基礎・基本みたいな、行動ルールみたいなものなのかなという、どうもお話を伺ってるとそういう気がするんですね。 
  そうすると、その倫理という言葉でそれを表現すると、何か混乱する感じがする。 
   
○委員  ちょうどこの間の土曜日に、この件についてシンポジウムをしたところ、やはり同様の意見が出た。大体エンジニアリング・エシックスという言葉はいいんだろうかということになったんですが、逆にエシックスの関係者から、そここそSTSの人間が貢献すべきところと言われた。いわゆる人倫ではなくて、もうちょっと社会制度的な、あるいは何か歴史的なとか、さまざまなものを提示することができないだろうかというのが議論になった。 
   
○座長  バイオ・エシックスの分野でいけばですね、エシックスというのは、やはり基本的には今先生言われたように人間の内面から出てきたものであって、人間が人間であるために持たねばならない基本的な原理だと思うんだが、それだけで済まなくなってしまっているというところが非常に大きいと思う。 
  それは自分自身の一つの規範で行動したことによって、社会に非常に大きな影響が出るわけだから、そうするとやっぱり社会的なある種のルールづくりというか規範づくりが必要になってくる。特に最近は国際的なハーモナイゼーションをいたさないと、例えば日本の人が外国に行ってやったときにそこはどうなるのかという問題すら出てくるわけで、そういう意味で、バイオ・エシックスに関しては今国際的な組織がユネスコの下とかWHOの下とかにできているし、国際の生命倫理学会が議論をしている。 
  ただ、一方では倫理というのは、今のお話のようにその国民がずっと長い間の歴史の中で築き上げてきたモラルを基礎にしているので、非常に違った面があるわけですね。だから、一方ではそういった違った面があるのに、もう一方ではインターナショナルなハーモナイゼーションが求められるようになっているという、非常に難しいところに今あると言った方がいいんじゃないかと思う。 
   
○委員  今度のその日本の技術者教育認定機構、これは要するにきっかけは国際的に通用する能力を持つ技術者を育てるためにこういうものができて、2002年から作業が開始される。しかし、今のお話だと、日本の工学ケイヨウソことでの倫理というものを教えているところがないわけだから、これをきっかけにして大学がそういう倫理教育をどんどん取り入れる、少なくともカリキュラムにどんどん取り入れるということに、恐らく相当加速すると思うので、そういう意味では、きっかけは国際的なハーモナイゼーションということかもしれないが、国内問題としても非常に大事なことであると。 
  ただ、工学倫理というのはですね、例えば製造に携わる技術者の倫理を考えると、その会社、自分が属している会社の組織に対する利益を仮に損なうと思っても、社会的なものに対するインパクトの方をより重視しなくてはいけないというのが恐らく中身だと思うので、そうなると、工学者だけ倫理教育をしてもだめであって、企業の経営者であるとか、日本の社会全般的にそういうものを受け入れるような社会システムが生まれてこないとうまくないだろうなと…… 
   
○座長代理  警察の幹部が言いそうですね。(笑) 
   
○委員  アメリカなんかでも倫理教育の教科書は非常にすばらしい教科書ができてて、ケーススタディなんかをふんだんに盛り込んだ教科書があるそうだけれども、ぜひ日本でもそういう教育がどんどん加速されていただきたいと思う。 
   
○委員  おくれてまいりまして、せっかくの先生のお話を伺えませんでしたが、ただいまのご議論の中で感じた疑問を1つだけ申しあげたい。 
  いわゆる人倫と科学の関係は、今お話のような楽天主義で果たしていいのだろうか。かつて科学はそのときの倫理を破ることで進歩したという面もあるわけですね。ガリレオ・ガリレイが危うく火あぶりにされかけた時代には、地球は回らないで天が回っているというのは時代の倫理だったわけですね。だけど、科学がそれをあえて破ったからこそ今日があるのではないか。 
  現代の状況についていえば、アメリカの生命倫理に関する感覚というのはよくわからない。クローニングに対しては非常に厳しいですね。これはキリスト教の背景もあるだろう。ところが一方、サイボーグに対しては非常に寛大というか勇猛果敢である。その背後にあるのは現代のいわゆる個体生命を絶対視する考え方で、個人を治したいという願いは許される。原状回復ないしは現状維持の技術はどこまで行ってもよろしい。しかし、新しい生命をつくるようなことはもってのほかだという考え方で今進んでいる。 
  ところが、例えば腕を失った人にいい義手をつける。その義手が本来の肉体よりもすぐれた能力を持っていた場合に、当然これはその人の精神、人格に影響するはずなんですね。仄聞するところでは記憶を補強するチップなんていうのが考えられたそうである。人間が人間の記憶を自由に操作できるということになると、これは実はクローニングよりよほど恐ろしいことですね。しかし、現在の先入観では、サイボーグは要するに原状復活の技術の延長線の中にあるからよろしい、クローニングは全く新しいものだからいけない、こう言ってるわけですね。 
  純粋に理論的に考えると、クローニングの方がむしろ自然のプロセスにゆだねる部分が多いはずで、人工部分のかかわり方はむしろ少ないんですね。にもかかわらず、今こういう固定観念があるから科学をこの方向で規制しなければならないという力が働いている、果たしてそれでいいんだろうかというのが私の疑問なのです。 
   
○委員  STSは必ず規制なんだろうか、規制するのがSTSの仕事なんだろうかというのは重大な点である。これは私自身のかなり反省する面でもあって、つまり、逆にどういう部分は促進されなければならないのかということを何とかうまく取り込めないんだろうかというのが、今まさに悩み悩みというか、答えはないが……。 
   
○委員  答えがないのが多分現在の状態だと思うんですね。そのことをみんなでもっと認め合うべきではないだろうか。先ほど先生がおっしゃったように、ある研究者が自分の良心、内面的良心に対してこれをやりたい、その結果、思いがけない結果が起こった。そのことを罰する方向に導くのが科学の進歩のためにいいことなのか、やはり研究者というものは私は根底は冒険者だろうと思うんですね。かつて恐ろしいと思われたことをいろいろ科学者がやってきて今日があるわけで、先手を打って科学研究の行く手をふさぐというのはどういうものかということに私は引っかかるのです。 
   
○座長  大変難しいですね。 
   
○委員  アメリカの話とか言わないうちに出てくるものだから、何か変にアメリカの方がいいというふうに思ってるというふうに思われたくないので、それだけちょっと前もって言って言うと……(笑) 
  アメリカのよさは何かというと、こういうものが出るときに自分たちで選べるチョイスがあるということですね。例えば今おっしゃられたように、そういう科学の進歩によって人類にとって恐ろしいことになってしまうということが出たときに、そこの議論がちゃんとできる国であるかどうかということが重要だと思う。 
  この議論をする一番の根底にあることは、自分がそのチョイスをする能力を身につけさせられているかどうかということで、それはもちろん非常にすぐれた方だったらば、自分で一生懸命考えて、自分のエシックスとか自分のモラルというものはできると思うんだけれども、ある意味で、こういう考え方もある、ああいう考え方もあるというたくさんの考え方を教えられた中で、自分がだけどこう考えるということのチョイスができる能力を身につけることであって、例えばクローニングがいいのかサイボーグがいいのかと言われたときに、人によってはクローニングの方がいい場合もあるし、人によってはサイボーグの方がいい場合もあるわけで、そのときそのときに適切な判断ができるための材料を自分に身につけさせられてきているかどうか、または自分が身につけているかどうかということの中で科学があるわけである。 
  例えば原子力でも、本当だったら、何も原子力発電も私おかしいと思う。なぜかというと、これだけ大勢の方々が原子爆弾で亡くなっているのに、なぜ原子力発電所をつくるのかと、本当だったら原子力アレルギーじゃなきゃおかしいのに。ではこれが上手に、人間には落ち度はあるかもしれないけれども、科学的にこれは操作にミスさえない限りは非常に安全な、そしてなおかつ安い、いいエネルギー源であるということを日本の国は言ってるけれども、それはチョイスの問題だと思う。 
  けれども結局は、では、いいか悪いかといったときに、こういういいところもあるということも言えるわけですよね。それをどうコントロールするかとかという。だから、このチョイスというものを自分で選べる、そして議論ができる環境であることがとても大事で、先ほど話が出たように、クローニングで人間と何でしたっけ、牛でしたっけ、この間。あれは私は恐ろしいことだと思うんですね。それは私はキリスト教という背景がバックにあるわけだから、人間と動物って思うけれども、ギリシャ神話には、昔、羊の体をしていた人間もいたわけだから、その当時はもしかしたらおかしくない現象だったかもしれないけれども、それが出たときに、では人間は、今の社会はそれをどう判断するかということの土俵がちゃんと自由であるということが重要だと思って、やはり判断するだけの能力を身につけてなければいけないと私は思う。 
   
○座長  この問題、議論をするとまだまだ広がりがあると思うし、アメリカもそれほど国が一致した国ではなくて、日本よりはるかに幅が広くて、進化論を教えてはいけないという知事まで出ている国だから、いろんな揺れがあると思う。それで、この問題はまた機会があったら議論をしたいと思うが、きょうはもう1つ議題があるので、この辺で次の議題に進ませていただく。 
  大分この21世紀の社会と科学技術を考える懇談会で議論をしていただいたので、そろそろ中間報告をまとめて、そして、一度それを世に問うて、いろんなご意見を伺って、その上で最終的なまとめにしたいというふうに考えている。 
  そこで中間報告のそのままの案を出してもかなり長くなるので、とりあえずその骨子をまとめてもらった。きょうはそれについてご意見を伺って、そして今後のどういう方法で進めていくかということをお諮りしたいと、そのように思っている。 
  本日、細かい内容についてはまたいろいろとご意見を伺いたいと思うが、とりあえずはこういったフレームで中間報告をまとめていいかどうか、あるいは足りないところ、間違っているところがあったらご指摘をいただきたいというふうに思う。 
   
○委員  従来ずっとサボっていて、僣越なことを申し上げるのは恐縮なんだが、21世紀の科学技術のあり方、その1の2と3のところですね。まず「何をどこまで知るべきか」という価値を内包しなければならないというのは、どういうご議論の末出てきたんだろうか。 
  もう1つは、環境調和型循環社会というのは、現在の人類がとるべき一つのチョイスなのであって、科学という点から見ると、これを唯一のチョイスにすることが果たしていいかどうか。特に、現在、社会的に保守主義がはやっている。とりわけ日本のような、保守的気風の中でこういうことばかり強調するのはいかがなものか。「共創」というのは私はよく意味がわからないんだけれども、こういうことを余り強調すると全体の趣旨と相反することになるのではないか。 
  今こそ日本の場合、もっと先駆性あるいは個人の創意、冒険性といったものを強調しなければならない。実は総理の21世紀懇でそういう結論を我々の分科会は出そうとしてるので、なお心配なので伺いたい。 
   
○座長  ちょっと今、私もどういう文脈でこれが出てきたのかわからないんだが、何か覚えてますか。 
   
○計画・評価課長  これはたしかある委員からのご発言だったと思うが、やはり科学というものは目的をもちろん考えながらやらないといけないし、特に社会との関係においては、やっぱりその価値がないのにやるということはある意味ではお金のむだ遣いではないかというようなこともあってですね、「何を」、それから、知らない権利という問題との関連でこういうものがご議論としてあったというふうに記憶している。ちょっと間違ってるかもしれません。 
   
○委員  その委員は非常に親しい友人なので、今の発言ちょっと理解に苦しむんですね。 
  公共事業を起こす、その予算をどう配分するかというレベルの技術論ならともかく、科学を推進するときに、あらかじめ何を知るべきかということを決めるというのは、これは中世へ逆戻りするような話で、最も避けるべき事柄ではないだろうか。特に時流に乗った科学研究にどんどん予算が出て、現状においてマイナーに見える学問をいわば排除するというか抑制するというような姿勢にならない方が私はいいと思う。 
  これが特に政府の科学技術庁の報告だとすると、ちょっと恐ろしい話になる。 
   
○座長代理  これがどういう文脈で出てきたのか私も明確な記憶がないんだが、これに対する擁護の立場を言えるとすれば、こういうことじゃないかと思う。 
  組み換えDNAの領域。1975年のアシロマ会議で基本的に自分たちがどうやって、どういう形で研究していくかということについてのある種の路線を決めようと、科学者たちが自分で提案したわけですね。それで、現在それが行き過ぎているというところもあるけれども、科学者たちはその路線を、守っています。 
  そして、今の科学者は、その路線でやっていくことについてむしろ自由を感じる。つまり、この路線に乗ってさえいれば自分たちの研究に対する制限は感じないで済む。あるいは、あれをやってはいけないんだろうか、これはやってはいいんだろうかと案じながら右往左往する必要がなくなっているという状況がある。 
  それからもう1つには、組み換えDNAがそういう形になる直前、私の知っている限り、これはたまたま3人ともアメリカ人だったんだが、3人の組み換えDNAにかかわる研究者が研究から引退したわけですね。理由は、今この研究を野放図に続けていけば必ずや生物兵器に使われるだろう。自分はその生物兵器に使われるような研究というものはやめましょうとやめてしまったんですね。 
  そういう実例があったときに、やめさせないで済んだかもしれない。つまりアシロマ会議が先にあったら彼らはやめないで済んだかもしれないという側面がありますね。したがって、あらゆる制限、好奇心というのは 360度全面的に展開しておくべきだという状況というのは、恐らく現代社会の中では少し難しいなという認識がこういう議論になっているのではないかと思う。 
   
○座長  ちょっとこの点はですね、もう一度私も、こういうふうに書いてしまうと科学に一定の方向を与えるとか制約を与えることになるので非常に問題だろうと思うし、いろんな方の意見を少し入れてつくったところがあるので、どういう動きがあって出てきたか、もう一度検討したいというふうに思う。 
  今、委員がおっしゃったような、ある種のこれはやはり社会的責任というか、そういうことも考える必要がある場合があるわけですね。しかし、一方では、この一番最後に新たなフロンティアの開拓というのがあるわけだから、余りフロンティアというのは見えてたらフロンティアでないわけで、見えないところに新しいフロンティアがあるんだろうと思うが、ちょっとこの辺の書き方検討したいと思う。 
   
○計画・評価課長  ちょっと補足させていただきますが、資料10−2という今までに出された意見の概要というのをちょっとまとめてしまい過ぎたので、誤解があるといけないので、これの3ページの上から、ポツがある3つ目と4つ目の意見をまとめてこういうふうに短く書き過ぎたんだと思う。 
  1つは、科学技術について、人間は一体何をどこまで知り得るかという問いとともに、今何が一体知るに値するかという問いが重要になっており、両者を内在的に関係づけることが必要だと。それから、その「何をどこまで知り得るか」という可能性を問題にするだけではなく、「何をどこまで知るべきか」という倫理的な問題を科学は内包しなければならない。その際考慮しなければならない視点とは、何が真に知るに値するものなのかの社会的哲学的判断力、理解できることとできないことの境界を意識する感受性、それから、知らされない権利を持たなければならないということ。これも要約なので意を尽くしてないかもしれないが、ここの部分をまとめたものである。 
   
○委員  しつこく申し上げるようだが、この議論の中身に今私は立ち入って批判したいとは思わない。しかし、これがある学者の個人の内面的倫理であることと国の政策であること、これは全く別次元のことなので、国の政策として今のような問題が出てくることに私は疑問を感じた。 
   
○政策委員  先生の最後の言葉とも関連するが、中間報告の性格ですね、これはいろんな先生がいろんなことをおっしゃったのを事務局が非常に苦労しておまとめになられた。それを無理に整合性をとってやるのか、こういう意見があったということの紹介にとどめるのかということで、この報告に対する見方が随分違ってくると思う。 
  私もこれを拝見すると、全体構成はご苦労になっているんだけれども、ただ、一つ一つが関連性が余りない。例えば、科学技術をめぐる最近の状況ということが21世紀の科学技術のあり方あるいは科学技術政策、パラダイムとどう関連するのかというのが見えてこない。 
  それは課長さんの責任ではなくて、そういう議論をしてないので、アイテムごとに議論をすればこういうことになるのは当然だろうと思う。だから、これまでのご意見をできるだけ集約したものとして考えるのか、それをもとにしてですね、ある政策提言的なものまで煮詰めるのかというところが山崎先生の話のポイントじゃないだろうかという気がする。 
  それから、ついでで申しわけないが、私個人の感想を申し上げると、社会と科学技術と、せっかくそういう問題意識でこの段階でつくったのが、その次へ行くと、科学技術が先にきて、科学技術と政治、外交となるんですね。もちろんそういう角度、科学技術会議だから科学技術中心に議論する必要はあるんだけれども、この懇談会の、私が勝手に思い込んでいる特徴は、例えば今の社会、21世紀に対する非常に不安感というのはみんなあるわけですね。21世紀にできてくる社会というものを考えたときに、科学技術に何が期待されているかと、科学技術は何にどういう対処を求められているのかという観点が必要なのではないか。 
   
○政策委員  全体の構成として特に意見があるわけではないんだが、こういう会をやると、どちらかというと今までに足りないところというか、そういうところの議論が非常に多くなってしまって、やはりどんな時代であっても記憶しておかなければいけない側面というものもきちんと記述されていないとバランスを欠いたものになるのではないかということをいつも危惧している。 
  そういう意味でいくと、例えば5ページ目の体制、基盤の整備というところの表現、この辺のところだが、戦略的重要分野への対応とかそういうものがあるけれども、やはり21世紀の日本の社会を見たときに、きちんとしたサイテティックなバックグラウンドをつくり上げておくことの重要性というか、そういうところをもう少しきちんと表現して、1項目起こしてですね、ただ単なる基盤の整備ではなくて、そこのところを正当に記述されるような側面が必要ではないかというように思う。 
  それからもう1つ、欠けているのも1つ申し上げておきたいと思うが、3ページの学校教育のところだけれども、これはどうしても日本の場合にはあるべき姿というのがわかっている中で教育も考えられてきたので、どこまで内容を教えるかということがもうわかってて、それで小学校ではどこまで、 
中学校ではどこまで、高等学校ではどこまでこういうものを教えようという形になっていると思うが、しかし、この21世紀はそういうものが見えない中で自分たちのものをつくっていかなければいけない。そうすると、私は一番大事なのは、やはりさっきクリスティーヌさんがおっしゃった物事を考える力を養うことではないかというふうに思う。この学校教育のところで、知識の習得、それから科学的な能力・態度の涵養というもののほかに、やはり物事をそういう知識の応用として考えていく訓練というようなものが非常に重要になるのではないかというふうに考えるので、この2点だけ申し上げておきたい。 
   
○委員  これはお願いになるんだと思うわけだが、5ページの戦略の部分だが、できればこの部分はもうちょっと違う方向にぜひ議論を展開していただきたい。 
  戦略的重要分野への対応ということで、情報、生命、環境とあるが、先ほど私が申し上げたように、これはどこに行っても話題として出てくることで、そんなものは戦略ではない。情報の線ではアメリカを追っかけようという話で、この指摘を落とすことはできないということは私もよくわかるが、相手がやっていることに応じていくのが本当の意味の戦略になるというのはないと思う。むしろ戦略的な意思決定として次々といろんなものが21世紀に出てくるはずであって、これはオープンエンドになるというような形に個人的にはぜひしていただきたい。 
  小渕首相が出された「21世紀の科学技術−夢と希望を語ろう」、これは大変すばらしいことだと思う。皆さんから意見を持ち寄って、どういうふうに将来進んで行こうかと、これは子供に語りかけている。子供に自分の生きていく将来の夢、どういう社会をつくるのかという戦略を立ててくれということなんだろうと思う。21世紀、子供だけでなく私もまだ21世紀の2050年ぐらいまでは平均寿命からいくと生きるつもりなので、そうすると私にも一言言わせてほしい……(笑) 
  私は、2020年ぐらいまでは情報とバイオでもいいけれども、そこから先、情報とバイオで21世紀全部というのはぜひやめていただきたい。情報とバイオは20世紀のおじさんたちの夢だったよと僕は語ってみたい。21世紀に、実現してよかったね、でも次の夢も語ろうというふうにオープンエンドになって、STSというのはそういうのを語りかけるもののつもりで私は言っている。次々と変わる社会にどう対処するかというのはまた大きな議論になりそうだが、ぜひそこはご考慮いただきたい。お願いしたいと思う。 
   
○委員  これ全体拝見していて、私、研究者の端くれとして遠慮なく申し上げさせていただくと、研究者の倫理、それこそさっき議論あった倫理ということ、大分首をすくめたくなるような、大きな、あるいは高見に立った文章になっていると。さっき大崎委員がおっしゃったことと関係あるし、要するに、まだここまで我々議論が進んでないようなところを、全体としてですね、だれかが何かは発言されたかもしれないんだけれども、何か積極的に我々が打ち出すほどのものが議論されているのか。それから、大体そもそも研究者の倫理の方から見ると、それこそ先が見えないわけですね。だから、その辺がちょっと違和感があるようなところである。 
  それともう1つは、これは私がしょっちゅう一つ覚えみたいにして申し上げておることだけれども、国民に対して科学技術というのを啓蒙しようという態度がちょっと見えてまして、3ページ目の一番下の2の一般国民の科学的知識の向上というのは、これはまさに、これは私も申し上げたことなんですけれども、それは国民が科学技術なり科学技術政策のあり方について自己決定する能力を涵養する。アメリカだってイギリスだって、その自己決定の支援という観点から科学ジャーナリズムのかかわりだとか基準というのは大事だと、そういうことを言っているわけで、何か基本的に方向がちょっと気になるということであって、特に何ということではないんだが、全体的にまだ何か大きなことを言うことをこの懇談会は濁して進んだのかなと、そういうことである。 
   
○座長  非常にまだ練れていないものを出してしまっているわけだけれども、基本的には、やはり21世紀の初めと同時に総合科学技術会議が発足する。その総合科学技術会議は人文社会系も含むというふうになっているが、それに対してどのような姿勢で臨むのがいいのかということは実はまだ決まっていない。だから、そういうことはどうしてもまず議論しておかないといかんだろうということが、この会を立ち上げた一つの大きな理由である。したがって、報告としてまとめるときには、やはり一応現時点での科学技術会議が考えたことということをある程度まとめておいていかないといかんだろうと。それが少なくとも次の世紀の最初の5年なり10年ぐらいの総合科学技術会議の行動指針になるようなものがつくれれば非常にいいのではないだろうかということを考えているわけである。 
  ただ、非常に難しい問題がたくさんあって、意見の割れるところも随分あるので、そういうところをどういうふうにまとめるかというのは一つの問題になると思う。それから、これのまとめは多分かなり無味乾燥なものになってしまうので、それとは別個に、ここでいろいろご意見いただいたことをまとめて、それはもうお一人お一人の意見をですね、こういう意見もあった、こういう意見もあったということをある程度まとめて残した方がいいのではないだろうかと、印刷物でですね。 
  しかし、こちらの方は若干無味乾燥になるけれども、次の少なくとも5年間の行動指針ぐらいにはなるようなものをまとめたいというふうに考えているので、そういう方針でいきたいと思うが、今日いろいろご意見を伺ったので、事務局の方にももう一度考え直してもらう、それから、先生方にもご意見があればぜひ出していただく。そして、きょう欠席の方もあるので、そういう方からもご意見を伺うということにして、少し予定がおくれるけれども、しかし非常に重要な問題なので、この骨子案をもう一度次回にかけると。それまでの間にもう一度いろいろご意見を伺うということにしたいと思うが、それでよろしいでしょうか。 
  それでは、ありがとうございました。