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21世紀の社会と科学技術を考える懇談会
―  第9回会合議事録  ― 


1.日  時:平成11年10月28日(木)  10:00〜12:00 

2.場  所:科学技術庁  第1・第2会議室 

3.出席者:(委  員) 井村、石塚、村上、雨宮、石井、今井、宇井、後藤、立花、 
                             廣田、薬師寺、米本の各委員 
                             熊谷議員 
                (事務局)科学技術庁  青江科学技術政策局長  他 
                             文部省         井上学術国際局審議官 

4.議事 

・座長  本日は「科学技術政策と社会」と題して、三人の委員からご意見を伺いたいと考えているので、どうぞよろしくお願いいたします。 
   
・委員  私の専門は法律の歴史であるので、そちらの方から何かお話ができたらと思って考えてまいった次第である。お手元の資料9−4−1をごらんいただきながらお聞きいただきたいと思う。 
  日本の伝統的な知の営為、あるいは学問的な営みの成果については、ご専門の科学史、文化史の先生方にお任せしなければいけないわけだが、私の独断と偏見で明治維新直前で日本の学問的な蓄積というのはどんなものだったのかと思って、1のところに・、×、△をつけておいた。いちいち説明していると時間がないので、私はこんなようなイメージを持っているということでご理解いただきたいと思うが、法律学は私の分野であるので、これについてコメントを加えさせていただく。 
  日本における法律学の元祖と言えば「明法道」、法を明らかにする道であって、奈良時代から存在していた。中国から入った律とか令というものについての、非常に細かい注釈をつくるということが行われていて、そういう研究の成果、「令義解」とか「令集解」というようなものが残されている。 
  ただ、注意しなければいけないのは、「明法道」を事とする人々、法律家と言ってもいいと思うが、彼らは常に重要な裁判をするにあたって意見なり判断を求められるけれども、決してそれはそのまま、あるいはそれに従ってすんなりと判決がつくられるというわけではないのである。通常2人の法律家に意見が求められて、その時その時の権力者が気に入る方の意見が採用される。要するに競わせながら気に入ったものをとっていくわけである。 
  法律の条文の本来の意味や概念がどういうものであるかということをしっかり確定して、それに基づいた普遍的・統一的な解釈、あるいは、法律の運用のために論理構成をする、これが我々が考える法律学、あるいは、我々がやっている法律学であるけれども、そういうものではないのである。平安末の法実務の実態を示す書物として、『法曹至要抄』あるいは『裁判至要抄』といったものが残されている。これはほとんど律令の条文を忘れたかのごとき、知らないわけじゃないはずなんだが、ことが盛んに行われていたし、当時の明法家はこれを六法全書かわりに使って仕事をしていたという実態である。こうした法律学、明法道というのは、下級と言っちゃうとこの家柄に気の毒かもしれないが、中・下級クラスの貴族の家が代々受け継ぐ家業であった。そこには創造性とか権力からの自立性といったものが見られないわけである。 
  鎌倉時代になると、裁判はもっと身分の低い人々が当事者の代理人となって出ていくとか、「雑掌」と呼ばれるような人々が行うというものであった。南北朝期から室町初期にかけては、ある意味で法律学にとって大きなチャンスであった。それは「公家法」、つまり天皇方、京都方の法と武家の法が融合すると言うか、2つを対立関係にとらえない時代となった。 
  ご存じのように「貞永式目」を北条泰時がつくったときには、自分たちは京都の法とは違うものをつくるんだということを非常にはっきり宣言してつくっているわけだけれども、この時代になると、公武関係が一つとして観念される。そういたすと、この2つの法がどういう関係にあるのかというふうにつなげて説明しなければならない必要性が起きてきたわけである。内容は、今申し上げたように「貞永式目」以来非常に違っているわけであるが、これを一体のものとして説明しなければならない。 
  そういう学問を我々は通常「式目学」と言っているけれども、これは非常に簡単にその2つを結びつけてしまう。2つは一見違うように見えるけれども、「淵底において一なり」という大変単純な説明である。日本の政治の世界においてもいまだに通用する議論ではないかと、ときどき式目学を思い出しているわけであるが、あちらの党とこちらの党は違っているけれども、根本では決して矛盾しないというような言い方が日本ではしばしば使われる。 
  また、学界の議論でも、本当は反対しているんだけれども、「先生のお説には根本的には全く賛成である。ただ一つだけ申し上げさせていただくと」というふうな言い方がしばしばなされる。私もときどき乱用しているけれども。この式目学というのはそういう論理で2つを結びつける。これではせっかくのチャンスも無駄に逃してしまったなと思うのである。私が法律学に×をつけたと気持ちはそういうところにあるということである。 
  あと2つだけつけ加えると、津田真道、西周が幕末にライデン大学に留学したというのは有名な話である。彼らはそこで憲法学、国法学、政治学には非常に興味を示して、彼らがとったノートは、幕末維新期において日本のこの分野におけるバイブルのようなものとして通用していたわけである。しかし、その当時のライデンには全ヨーロッパ的に有名な民法学者が2人いたが、彼らは全くそれに関心を持っていないのであって、授業にも出ていない。オランダのライデン大学の教授が当時の2人の成績表を持ってやってまいって、「どうしてだろう」という質問をされて、私は今ここで申し上げているような答えをせざるを得なかったわけだが、そういうことである。 
  ところが、明治4年に既に江藤新平は民法を編さんする必要がある、編さんすべしという指示をいたしているが、ここに書いてあるように、「民をして所を得せしめんがため」という目的を言っているわけであって、念頭にあるのは、財産法、契約法とか、物権法ではなくて家族法なのである。日本の家、家族の法をつくって、国家の中で日本の国民はどのような位置にあるのか、戸籍との関係とか、さまざまなものをしっかり規定してやる、これが江藤新平が考えた民法というものである。 
  2番目にまいる。裁判は大きく2つのパターンに区別することができる。非常に単純に割り切ってしまうことになって危険なんだが、少なくとも完成形態に即して申すと、ギリシャ・ローマ型、その伝統を引くところの西欧型、特に現在英米の方に典型的に引き継がれているけれども、そういうパターンともう1つは中国的なパターンである。前者はシビルの型ということを書いてみた。 
   civilというのは日本語に大変訳しにくい言葉である。普通 civil Lawというと民法、あるいは民事法を言うけれども、 civilというのはpolisに相当するラテン語である“civitas”の形容詞形である。つまり、「都市国家の」あるいは「市民の」という意味であるし、場合によっては「国の」とか「政府の」と訳さなければ誤訳になる場合がある。ジョン・ロックが civilという言葉を使っているときにはほとんどこの意味である。 
  もう1つは、当事者主義と申すが、訴訟の主導権は当事者が握って進めていくというもの。原告が被告を訴え、かつ自分の主張を立証する。被告はそれに対する防御を主張し、その立証に努める。裁判官は行司役と言うか、審判である。元来、西洋中世の形を見ると、それは仲裁型である。仲裁というのは、裁定を下す人をだれに頼むかということを両当事者が合意した、この人ならばお互いに裁定に服そうといって、仲裁人を定める、これが仲裁である。英語の“アンパイヤー”とか、ドイツ語の“シーツリヒター”というのがそれであるけれども、現在のスポーツの審判というのはこの仲裁人という言葉を使っているのである。ドイツ語ではテニスの審判のことを“シーツリヒター”と申して、法律家が聞くとびくっとするんだが、仲裁裁判官が“サーティー・フィフティーン”なんて言っている、そういうものである。 
  先ほど civilは非常に訳しにくいと申したが、明治時代の自由民権運動の時代に、運動の志士たちはいろんな歌を歌って自分たちの主張を日本国中に広げていった。そのときに「よしや節」というのがつくられて、たとえ何々はこうだけれども、こうであればいいんだというような「よしや」で始まる歌で、この中に「よしやシビルは不自由でも、ポリティカルさえ自由なら」というのがある。これは民事的な、私的な権利は不自由であっても、参政権さえ得られればという意味であって、これを英語に直すと全然わからなくなるはずである。 
  それに対して中国は刑法型である。法律は基本的に刑法である。それから、訴訟の形式から申すと、糺問主義と我々は申しているけれども、裁判権を持っている者が主導権を持って逮捕、拘禁、取り調べ、拷問も含めて、最後に判決を下すという一方的な取り扱いと言うか、当事者が主導権を握るというのではないわけである。ヨーロッパにおいても中世後期から近世にかけて糺問主義が成立し、発達する。もともとは教会において成立し、それが都市、各王国、絶対王政の国々に広がっていくわけである。しかしながら、近代革命を経た後、当事者主義型、つまり、元のシビル型に戻る。 
  こういう基本的な対照が日本も含めた中国型の中に見られるわけである。今、裁判の形式について申し上げたわけであるが、実を言うと、これはもろもろの決定方式一般に共通するものであるということが言えようかと思う。皆さんご存じのように、イギリスの議会の議場の形をごらんになると与党と野党が向かい合っていて、それぞれの味方を背にして大臣と相手の議員が喧々諤々やりあっているが、これは当事者主義の裁判とそっくりである。議会、つまり政治的な決定も基本的にそうだろうと思われる。 
  日本では司法権の独立ということが大事と言われる。それは行政から司法権が独立的なものでなければならないというコンテクストで言われるけれども、ヨーロッパにおける三権分立、つまり行政と司法の分立というのは、行政が司法から独立化していくというプロセスである。日本とは逆のベクトルを得られているということをつけ加えさせていただきたいと思う。 
  例えばフランスの絶対王政の下で、国王が発した勅令というのはそのままでは法としての効力を持てない。パルルマン、高等法院と訳しているけれども、パーラメントと同じ言葉である。パルルマンの中に法の台帳というものがあって、勅令といえども、その台帳に登録されて初めて法としての効力を持つわけである。その認定権と言うか、これをパルルマンが握っている。それに対して国王もいろいろやり合うんであるけれども、原則はそういうことで、そういうところから出発しているわけであって、いかに司法権から行政が独立できるようになるかがヨーロッパの近代化のプロセスと申し上げて構わないと思う。 
  ところで、3番目の決定方式の型と知的営為の関係であるが、これは糺問主義のところでは知的営為を権力が都合の良い方向へコントロールしようという志向が強く、かつまたそうされやすい。ガリレオの裁判がまさに糺問主義の裁判の中で行われたということがはっきりした例である。中国では書物を焼いてしまうということが行われた等々、例を挙げればきりがない。そしてその故に、知の営為はしばしば政治からなるべく離れたところで行うとする傾向がある。それは上から権力者や権威がかぶってくるから、それを逃れようとするから脱政治的になる。 
  それからもう1つ、議論を決疑論的にやらない。例えばヨーロッパでは教皇と公会議の意見が割れたら、どっちをとるかというぎりぎりのケースを設定して議論をする。日本はなるべくそういうことを考えないようにする。これはおのずから一致するものだということをいう傾向がある。それから、さっき言ったように真っ向から反論しないとか、さまざまなことが言える。 
  「遊戯化」の問題はここでは飛ばしておきたいと思う。時間もないので、最後に結論めいたことを申すと、科学技術立国、あるいは、科学技術政策というものの議論も、日本の場合は中国型(刑法型・糺問主義型)の社会であるので、できるだけ努力してシビル型(当事者主義型)を意識すると言うか、取り入れていく必要があるのではないか。 
  資料9−3の8ページに「主要国の科学技術政策目標」ということで、4つの国について並べられているが、これの2番目のイギリスの下から2番目をごらんいただくと、「公衆」という言葉が使われている。これは“ザ  パブリック”だと思うけれども、この“ザ  パブリック”の中でのディスコースというものをできる限り我々は意識し、それを盛んに行う必要があるのではないかと思っている。 
  ちなみに、今ごらんいただいた資料9−3の8ページは、アメリカとイギリスにパブリックとか国民とか有権者との理解を深めることを強調する項目がつけられている。偶然かもしれないけれども、一度絶対主義を経過したドイツ、フランスにはあまりそういうことが書かれていない、アメリカとイギリスにはパブリックの問題が掲げられているというところが、私には何か気になると言うか、おもしろいなと思えるわけである。 
  それから、アメリカは非常にわかりやすい目標設定をするという特徴があるというご説明が先ほどあったけれども、これもそういうことと関係があるのかもしれない。わかりやすいように設定して、理解してもらってから、やるという。わかりやすいものをめぐって、それをやるのかやらないのかということが“ザ  パブリック”の中で議論されるということが必要だと私は考えている次第である。 
  最後に、先年お亡くなりになった福井謙一先生は、私も学術審議会で数年謦咳に接した先生であるけれども、科学技術立国について、私が気がついた限り2回ほど新聞に向かって発言していらした。1つは、「日本は世界のために研究をすべきだと。日本のための科学技術などと言っていると必ず孤立する。そもそも科学技術立国という言葉自体が不適切で、科学技術で世界に覇を唱えようなどと思っていたら、国を滅ぼします。」と。立国を唱える方が覇を唱えようとは必ずしも思ってないと思うけれども、福井先生はそういう言い方をしていらっしゃる。また、「ある偉い人と対談をしていたら、途中で居心地が悪くなった、どうしてそうなったのか後で気がつきましたが、その人の話には科学技術立国にいまだ至らざる国のことがまるで眼中にないのです。」と。これは両方とも新聞に載った記事から拾い出したものである。 
  こういう問題も含めて、我々は科学技術を“ザ  パブリック”あるいは“フォーラム”というものの場において、まさにシビルの問題として議論していきたい、いかなければならない。立派な科学ジャーナリズムが日本にどんどん育っていくという必要があろうかなと感じる次第である。 
   
・座長  それでは、少しご意見を伺いたいと思いますが。 
   
・委員  先生の先ほどからの論理の流れとは必ずしも一致しないかもしれないんだが、最後に強調されたことは逆に言えばパターナリズムを廃せというふうに承ってもよろしいか。 
   
・委員  はい、糺問主義はパターナリズムの一つだと思っている。糺問主義というのは非常に過酷な面と、逆に非常に寛大な面、つまり許してやるという。日本では起訴便宜主義というのがあるけれども、検察官は、ある事件が送致されてきたときに「これは犯罪を犯しているな」という心証を持っても、これを不起訴にして問題を終わらせてしまうという裁量権を持っているが、裁量権を持たない制度の国はたくさんあるわけである。そういう起訴便宜主義の実態を見てみると、かなりパターナリスティックな要素があるだろうと思う。 
  先ほどは話さなかったが、井原西鶴の『本朝桜陰比事』という本がある。本朝というのは日本のことであるが、裁判や刑事・検察の逸話を集めた、といっても創作が9割5分ぐらい入っていると思うけれども、その一番最後に出てくる話で、能役者が兄弟弟子同士でどっちがうまいかというけんかを始めて、お奉行さまのところへ行く話がある。それでお奉行さまにどっちがうまい能役者か決めてもらうという場面でこの本は終わる。これはまさにパターナリズムで、その裏返しとしての役者のビヘイビアというのは非常におもしろいと思う。 
   
・委員  今おっしゃった日本は、中国についてもちょっと書いていらっしゃるが、東洋的な発想法がベースにあるんだろうか。日本はよく自己批判ばかりするんであるけれども、どこからそういう発想法が出てくるのかと私はいつも思うんであるが。 
   
・委員  中国型と書いたけれども、中国が典型だろうと思う。しかし、逆に言うと、西洋型のシビル型というのが世界の中で例外なのかという気もしないではない。ギリシャという非常に特別な政治形態を持った社会で、ディスコースで政治を動かす。ローマはそれを法律学までもっていくわけである。そういう伝統が中世のさまざまな法学的な営みの中で受け継がれて、ヨーロッパにくるわけである。 
  逆に言うとそれはかなり特殊なのかもしれない。だからこそ西洋はという話にはあまりしたくないんであるけれども、糺問主義的あるいはパターナリスティック、権威主義が少なくとも中国にはある。日本は非常にプリミティブな歴史的な発展段階で中国の影響を受けてまいるので、律令制度で初めて中国の法を学んだわけではなくて、調べていけばいくほどかなり古い時期から中国法の影響、あるいは中国式なやり方の影響を受けている。それを使って大和朝廷はかなり早い時期から統一的な権力をつくり上げていく。だから、知らず知らずのうちに私たちは中国をまねている。 
  それともう1つ大事なことは、日本は中国よりももっと実質的な糺問主義をやってきている。中国は見かけ倒しというか建前だけで、あとはいいかげんにやっていたというところがあるわけであるが、日本は割と正直にやってきたし、発展させてきたというところがあるので、ある意味では中国よりもこの特徴が強いということが言えるのかもしれない。こういう話は1学期ぐらいかかる話なんで、こんな抽象的なお答えでお許し頂きたい。 
   
・委員  時間がなかったせいで省略なさった真ん中の部分の「遊びの心」というのが、メモだけ読んでて大変おもしろかっんだが、確かにこういう事実はあると思う。もう1つ、この「遊び心」に関して問題にしなきゃいけないと思うのは、本来サイエンスの歴史においてクリエイティビティーにつながった、遊び心の部分というのが西欧の科学の伝統の中にあるわけである。 
  ところが、日本の科学ではそのクリエイティビティーが欠けているというのが、まじめ一方で絶対遊んじゃいけないみたいな、すごい強固な心理的な束縛が明治以来の輸入の学問の中にあって、ここにお書きになっているような「遊び心」というのは学問とか科学の発達とかいう、全然別の世界ではずうっと進んで、それは今でも進んでいると思うわけである。それが例えば日本の電気産業の中でソニーがアイボをつくるとか、ああいうところまでつながって、ある意味で非常に特殊な日本の産業の牽引力の一つにはなっていると思うんであるが、もっとクリエイティブにつながってほしい日本の科学技術の発展に、この遊び心の世界がなぜ結びついていかなかったのか。江戸時代には技術的に遊んでいる連中は結構たくさんいたんですよね。 
   
・委員  日本は遊戯化の傾向がある。しかし、学問の発展に必要だと言われる遊び心とはちょっと違うんじゃないかということを申し上げたかったわけで、遊戯化と私が言っている現象はしばしば袋小路に入っていく。よく知らないけれども、和算なんていうのはそういう傾向があるんじゃないだろうかということである。それから、連歌の世界なんていうのはものすごい煩瑣なルールがあって、今ではほとんどだれもわからなくなっている。最近私の同僚、若い人なんだけれども、そのルールを読み解いている最中である。非常に狭い世界、秘密結社というと少し大げさだけれども、知的な集団。ピタゴラスがそうだったと言うが、日本のはもっと狭くて、しかも、なぞなぞ遊びみたいな形で展開する。そういうことを私は申し上げているわけである。 
  もう1つは、遊びの結果を、先ほど申した能役者の場合もそうなんだが、権力者がどっちが上手という判断をする、あるいはご褒美を与える、その伝統みたいなものがあるんじゃないだろうか。これが私の考え方である。ここに書いておいたが、後白河法皇は下々の者を集めるのが大好きだったことで有名な人で、いろいろな芸能を持った人々を御所に呼び集めて歌合戦をさせる。これを「歌合わせ」と申しているけれども、陰陽師と医師というのは当時好敵手と言うか、一番似たグループとして、お互いに歌を戦わせるという扱いを受けていた。陰陽師と医者が一緒というのもおかしなものだが、当時はそれに近かったんでしょうね、祈祷とか何とか、そういうものが絡んでいたからだと思う。法皇がこれを見て聞いて楽しみ、褒美を使わすという、権威として厳然としている。 
  マイスタージンガーは話をし出すと長くなるので、立入るのをやめときます。 
   
・座長  ありがとうございました。 
  まだいろいろお伺いしたいことはあるんですが、時間が少し押してきているので、続いて次の委員から「社会、(中でも女性の視点)に理解される科学技術政策について」ということで、ご意見を伺いたいと思う。 
   
・委員  「21世紀の社会と科学技術を考える懇談会」ということだったので、当初のころは発展する科学技術を21世紀社会にどううまく生かしていくかということについて話をするのかなと思って出席させていただいていたんだけれども、若齢者の科学技術離れその他、前回までの会議で21世紀の前に清算しておかなければならない問題点が多々あるように思ったので、今回は倫理面も含めなければならないような専門的な高レベルの科学技術に対する検討は置いといて、一般社会、中でも女性に理解されるような社会技術政策について考えてみようと思った。 
  使用したデータは主に前回いただいた「将来の科学技術に関する世論調査」の平成10年3月分であるが、図で説明したいので、図をまとめてあるので、これを見ていただければと思う。 
  図  I  だが、科学技術に関する情報についての関心は、男女別に見て女性の方があまり関心がないというのは想像がつくところだと思う。 
  図  II  の科学技術に関する情報についての関心を年齢別にしてみると、男性の場合は、当たり前かなという山型をしているんだが、女性の場合には、20代では10代よりちょっと上がっているにもかかわらず、30代でちょっと落ちている。そこで山型ができてしまって、40代以降が坂道になっているが、これは自分の興味というよりは社会的な状況からして、30代の人たちが科学技術などに目を向けている暇がないんじゃないかなという気がする。 
  次に図  III  の科学技術の発達による向上については、物の豊かさ、個人個人の楽しみというというところが科学技術離れになる傾向になる元じゃないかなと思うのは、労働条件とか健康状態が科学技術によって向上したという観点よりも、物の豊かさとか個人の楽しみというような感じで、生活感がないのかなという気がする。 
  それから、図  IV  の将来の科学技術が果たす役割については、安全性の向上から精神的な快適性の向上まで大して変わらないんだけれども、安全性の向上に関しては積極的に、関心度というか重要であると言った人は多い。ただ、それ以外のものが「どちらかというと重要である」になってくるので、安全性の向上というのは各方面に向かって重要なことじゃないかなと思う。 
  図  V  の科学技術の発達のプラス面とマイナス面に関しては、円のほとんど右側にきているので、「どっちかというとプラス面が多い」ということも含め、科学技術は皆認めているんだけれども、その認め方が男女によって違っていて、女性の場合の方がちょっと冷めているかな、しかしバランスはとれているかなと思う。 
  図  VI  の科学技術に関する知識の情報源については、前回小出委員が「テレビ、新聞が非常に多い」というお話と、「書籍などでとるべき」みたいなことも含めてお話があったんだが、女性高位順でとってみたら、テレビ、新聞の次が家族とか友だちの会話で、ラジオ、一般雑誌の次に科学館とか博物館というのが出てきて、しかも、仕事を通じてとか、分からない。次がシンポジウムとか講演会で、男性の場合は会話は8位になってしまったし、シンポジウムまでから下のインターネットとか専門誌の方が主なので、社会が男性的な考え方をしていると、科学技術のみならず、いろんなものは一人で学ぶものみたいな感覚があるんだろうが、女性というのは群れて、しかも行動しながら情報を得るとか学ぶとかいう、基本的に行動のパターンが違うんじゃないか。ここは目をつけておいた方がいいかなと思う。 
  次に、図  VII  の今後の科学技術についてだが、科学技術の発達が今後生かされるべき分野というのを右側に置いて、公的機関が中心となって研究を進めるのがよいと思う分野というのを左に置いているけれども、同じ質問が並んでいた。そうすると見えてくるのが、科学技術の発達が今後生かされるべきというのは、エネルギー問題とか自然環境問題とか、さっきの資料9−3「科学技術政策と社会」の説明の中にもある。ところが、これが公的機関がというと、地球環境や自然環境の保全と、資源の開発やリサイクル、廃棄物の処分・処理というのが御三家になっていて、エネルギーは男性でも5位、女性だと6位に落ちてしまう。 
  一方、科学技術が今後生かされるべき分野というところを男性高位順にとってみたら、男性では9位になってしまうのに、女性では6位になるのが、高齢者や身障者の生活の補助で、これは今後生かされるべきという中では女性も大して上には挙げていないんだが、公的な機関が中心となって研究を進めてくれた方がというところでは、御三家の間に割って入って3位になっている。男性の場合にはこの御三家の次にきているのが4位の防災とか安全対策である。こういうことで、公的機関に要望しているものは何かというのはここで十分見えていると思う。 
  社会というと男性、女性一般の人たちだけじゃないので、企業の部分はどういうふうに見ているかということを、参考資料として『助成団体要覧』を使って見た。図  IX  を先に見ていただくと、主務官庁別の財団数からいうと文部省が一番多くて厚生省が続いているが、図  VIII  の民間助成における事業分野別プログラム数を見てみると、科学技術支援に関する項目がダントツに多い。これはある意味では科学技術に対する、いわゆる官に対する応援なのかなとも思えるんだけれども、主務官庁が多くないということを考えた場合、応援というよりは公的な機関には任せ切れないから、頑張って民間でやらなくちゃみたいな、かなりきついデータなのではないかと私は見た。 
  図  X  の科学技術の発達に伴う課題についてであるが、科学技術がどんどん細分化し専門家でなければ分からなくなるということで、男女ともに大して変わらないデータを出している。今回のデータの中では「科学技術の発達に伴う課題」となっているんだけれども、前回の平成7年のときに「科学技術の発達に伴う不安」という同じような項目が出ていて、それを見ると、「誤って使われたり悪用されたりする危険性が増える」という不安が一番大きかった。これは一番最後の図XVに出ている。 
  ということで、科学技術に関しては、女性は男性に比べて関心は薄く、科学技術が社会に転進するみたいなものに対する期待感も低いんだけれども、バランスはとれている。女性と男性では科学技術に関する知識の情報源が異なる。女性と男性では科学技術に対する期待の分野が異なる。というようなことを踏まえた上で、科学技術及び科学技術庁は今後どうしたらいいかということに話を移したいんだが、私は省庁再編のときに科学技術庁は環境庁と双璧として省になるべきだと思っていた。しかし、国政の場で大臣クラスの人でも科学技術庁は宇宙開発で遊んでいるなどというような認識しかなかったのである。 
  それから、参考の資料のVを見ていただきたいんだが、これは1993年から'94年にかけての科学技術が人間の社会に及ぼす影響に関する調査委員会の資料です。主な論点の中で、このとき既に科学技術の一人歩きとかブラックボックス化ということが言われていたので、こういった不安に対する手当てが行き届かなかったということが、一般社会とかその他のところとのギャップになってしまったのではないかと思う。今回、文部科学省になるわけで、それはある意味ではチャンスなんじゃないかなと思うし、科学技術を司る省庁というのは21世紀、環境省、科学技術省という感じでないと、国際的にもレベル的に日本が先進国ではいられないんじゃないかと思うけれども、その前に科学技術に対する理解と、科学技術庁に対する理解を高めた方がいいと思う。 
  科学技術に対する理解を深めるには、文部省との共同で考えれば体験学習の場づくりみたいなこと。女性というのは群れて行動しながら学ぶのが好きというのもあったけれども、世の中の半数以上が女性で、なおかつ女性というのは広報能力があるので、1人が大体3人へものをしゃべる。男性は1人で学んでそのままで終わってしまうということも考えると、女性に合わせた教育とか学習の場づくりという方が効果はあると思う。理想的にはディズニーランド規模ぐらいの科学技術テーマパーク、本文の中に「館」と書いてしまったんだけれども、「館」というと室内のイメージがある。でも、テーマパーク的に野外を使わないと、そういうものというのはちょこちょこ小さいものでやると、科学技術そのものも小さいなものみたいな感じになっちゃうから、野外が必要だと思う。だから、科学技術テーマパークなどをつくると、ある意味では経済活動にも結びつくし、国際的にも輸出産業の創出にもなると思う。 
  科学技術というものをおもしろおかしく教えようとしている科学者というのは最近若い人たちの間にいるので、これは実現できるんじゃないかと思う。それが無理ならば、今もう既に体験館というような、雨の体験館とか強風の体験館、PVのパネルの家とか、そういうのが各企業とか公民含めた既存の施設もあるので、それらのネットワークで科学技術に対する理解を深めることはできると思う。また、景気の低迷にもかかわらず連休の交通渋滞というのはものすごく、最近はアウトドア志向になっていて自然界へ出かけていく人たちが非常に多いので汚染が絶悪である。 
  どうしてかなと思って、先進諸国とか国際的な観光がメーンになっている国との違いを考えてみたら、日本というのは全部ターミナルなんである。成田もターミナルだったというところがあるんだけれども、人間はみんなそこへ詰まっちゃうという状況になる。どこでもみんなフローというか循環というか、回している感じにできている。そういうための交通機関、特に山岳交通機関みたいなものが日本はほとんど見あたらないのである。 
  例えばフランスではモンブランの下にエギュードミデーのケーブルがある。交通機関をつくるとイコール環境破壊だと言われるけれども、現状の日本のように人と車の排気ガスが満々の環境を考えると、むしろ科学技術を駆使した、その場に一番合った交通機関をつくってやれば、自然環境は今よりずっと回復すると思う。フランスのシャモニーの場合は、 1,250メートルのロープだけで、間に支柱が全然ないケーブルが架かっているんだが、その間は完全に環境が保全されていて、行くのは私たち山屋ぐらいで、あとの人たちは中には入ってこないという状況である。フランスだけではなくてスイスもいろんなものを持っていて、そういうものがすべて、ある場所にどういう方法でつくられたというのがパネルで出ている。 
  また、コスタリカの場合は学者がつくったんだけれども、エアロトラムというのがあって、乗る前にこれはどういう科学技術でつくられたか、なぜこれをつくったか、それをつくるにあたってどのぐらい環境に留意したかということ。例えばニカラグアの軍のヘリを借りてきて、支柱は空中から下ろして、すなわち土壌は全く傷つけてないというような話も全部聞かないと乗れないようなシステムになっている。また、国が小学生を年に数回招待するということを義務づけていたりというようなことで、本当に身近で科学技術に接しられる部分がある。日本の場合は、宇宙開発とか、飛行機でも遠いかなと気がするんだが、そういうものではない交通手段を、例えば環境庁とコンセンサスをとった上で建設省とか運輸省と相談しながらつくっていくというようなことも、理解を深めるためにはいいかなと思う。 
  一方、科学技術庁に対する理解を深めるためにはといったら、さっき説明した図の中で、特に女性の期待の高かった高齢者や身障者向けの生活補助に関する科学技術の推進。先ほどのご説明の中にもあったけれども、特にこういう問題については、発達している北欧などと共同してやるのがいいのかなという気がしている。なぜかというと、あっちの国は、割に管理社会だというところまで含めて日本と体質が似ているところがあって、自然は大切にするとか云々もある。また、公的機関が関与することに関して、非常に不評だったのはエネルギーの開発や有効利用である。 
  例の一連の原発事故のイメージが非常に大きかったと思うんだけれども、事故は研究開発の分野で起こったわけではなくて、経済活動の作業分野で起こったということと、元動燃は核燃料サイクル開発機構としてスリム化したことなどを考えると、科学技術庁が特に原発には力を入れているというふうに国民に見られているところが、言われなきマイナス点じゃないかと思う。既に国のレベルでは完全に分けていて、今回のいろんな話に関しても通産省が前面に出て話を進めているけれども、その辺がまだ見えてない。 
  また、安全管理に関しても、主務官庁ということではなくて、科学技術庁としては安全を管理するため、もしくは事後の処理をするための科学技術を駆使したものを研究開発するところまでのことはするけれども、研究開発したものに関しては自分のところの研究分野は自分で管理しても、管理は通産省なりに任せちゃうというような形が必要なんじゃないかと思っている。そういったことで、科学技術庁及び科学技術に対する理解を深めるところは文部省とやるのが一番いいわけだから、今回の省庁再編にあたっては、当を得ているという感じはしないでもないんだけれども、それだけでは21世紀、国としては科学技術庁が弱すぎる、科学技術に関して弱いという形になっちゃうので、庁から省機能へという形でいかなければいけないんじゃないかと思う。 
  参考の  IX  を見ていただきたいんだが、現在、環境庁はいろんなことを一生懸命やっている。環境庁がやることというのは、基準、規制が経済活動に反しちゃう部分もいっぱいあるので産業界その他と軋轢があって、無理やりいろんな基準などをつくってはいるんだけれども、科技庁と環境庁が車の両輪というのはどういうことかというと、環境庁が調査研究をして、これはこうという基準をつくらなきゃならないようなことがあるときに、それに対して科学技術で代替というか、安全で環境負荷のないものを既につくっているとか、つくるだけのシステムづくりをしてあげるというようなことができるならば、産業界も自主規制に任せろといって反抗はしないんじゃないかという気がする。 
  それにつけてもいろんな面で研究開発というのが民にはいっぱいある。ただし、民にある研究開発というのは、そこの事情もあるので安全対策ということに対してはちょっと甘いかなという部分がある場合もあるし、科学技術に関してみんなが一生懸命やろうとしていく部分はかなりあるんだけれども、中には危ないものも結構ある。危ないという意味は、例えば環境にはよいんだけれども、人体にはよくないというものも結構ある。そういうことを考えると、科学技術に関する研究機構で、総合センターというようなものを国内に3カ所はほしいかなと思う。 
  そういうところでは、研究も進めるんだけれども、情報の収集とか国策的に必要な科学技術に関してはすべてそろえておくということと、科学技術的な研究をしたいという人たちは、企画が通れば、企業であろうが個人であろうがだれでも来て研究ができるということとか、お互いに専門化しすぎていて、よその分野を知らないまますぎているという人たちは結構多いから、研究機構みたいなところでは1カ月に1回ぐらいは必ずミーティングをして、全員で自分のところでやっていることを把握しておくというようなシステム。男性の方はインターネットで情報の収集はできるというけれども、個人で何かを学ぶとか個人で何かをするということに問題があるわけだから、こういった研究センターみたいなものをつくるということ。 
  あとは、地方自治体との連携で科学技術何でも相談室みたいなものを各所に設置する。例えプラスチックカップが、捨てるとごみになるからというので、電子レンジでチンしてペタンとなったらコースターというのを表彰しているところがある。そこで出てくる有害化学物質が揮発して自分にかかっているということをだれも気づかないで、平気でこういうことを表彰してしまう。個人が個人でやっているのは構わないんだけれども、例えばテレビでそういうことをすると問題になるので、自分たちが何かしようかと思ったときに身近な問題でも相談できるような場所をつくるというのは必要かなと思う。 
  最後に、安全とか循環型ということに関してだが、“plan do see ”ということは、今までの日本の経済活動の中で官とか第三セクターがやったものは全部だめになっている。だから、“do”ということに関しては、民間というか、経済観念のある人たちに任せるのがいいかなと思う。“see ”が必ず必要で、国民の期待は安全ということが大きな期待なので、そこのところは外さないことが大切だと思う。今回、意見発表のために、私はあえて主に政、官の資料を参考にしたんだけれども、科学技術に関心がないとか遠のいているとか言われている国民は、割合とバランスのとれた、しかも思慮深い、感じている不安に対しても正常だなという気さえした。この国は国政の場に科学者とか科学技術者的な発想があまり反映されていない国策が多いように思えたので、それが最大のネックではないかと感じた。 
   
・委員  今の話を伺って根本的に誤解なさっていることが、そもそも科学技術庁というのは何だということに関してあると思う。先ほど科学技術庁がゆえなく原子力に熱心云々という話があったけれども、科学技術庁をご存じの方はすべてご存じのように、科学技術庁の歴史をたどれば原子力をやるために生まれた行政組織であって、今もその行政組織の本体の一番大きな柱は原子力問題なわけである。だから、安全性が非常に強く出る問題のときに科学技術庁に任せといて大丈夫なのかという議論が起きて当然ということはある。先生のような見方をなさる人が一般の人には多い。 
  科学技術庁はこれから文部省と合体してやっていくという方向になっているんだけれども、一体になった関係の省がどうあるべきかという組織的な枠組みの設定に関して、僕はこのままでいいのかという議論はきちんとやるべきだと思う。つまり、これまでの科技庁の本体の相当部分を成していた原子力関係というのは、例えば大蔵省の金融庁みたいに外部にポンと出して。科技庁というのはいい面とおかしな面と両方を歴史的にずっとあると思う。前は反感を持っていたんだけれども、最近割といいことをやっているもので、結構ちゃんとした、いい省庁だと思っている。 
  そういうところをこれから表に出して、日本の未来、科学技術の面に関して託せるような組織になっていくためには、歴史的に非常に重い衣をまとっている部分を組織的に外に出して、むしろ未来の科学技術をもっと中立的な立場でやっていくんだと、そういう方向に科学技術庁そのもののあり方として考えた方がいいんじゃないかと思う。 
   
・委員  本文の方で「科学技術庁は原子力ありきで始まったものである」というのは明記している。 
   
・座長  引き続き、次の委員から「国際政治からみた科学技術の問題」というご意見を伺って、そのあとで全体として討論をお願いしたいと思う。 
   
・委員  最初の先生は法学者で有名であられて、法学者の立場からお話しなさって、次の先生はお医者さんなので、お医者さんの立場から、特に女性の意識の問題をお話になった。私は国際政治をやっているので、国際政治の立場からお話をするということをまずお断りしておきたいと思う。ただ、国際政治に至るまでに電気工学をやったり科学哲学をやったりとか、村上先生の後輩でもあるわけだけれども、そういうような国際政治に至るまでに科学技術の問題というのは自分なりにたどってきたということでご理解いただきたいと思う。 
  非常に単純なレジュメをつくらせていただいた。いろいろお話を伺っていて、科学技術に関してどうすればいいかという政策の問題の場合に、非常に幅が広い世界であるから、問題の設定をどういうふうにするかという設定論というものによって、話がいろんなところに発展し収拾がつかなくなるということで、私としてはこういう4つの問題の設定をさせていただいた。それぞれに参考の図が出ているので、お話したいと思う。 
  日本の科学技術政策を考えたときに、日本が中心になって科学技術政策をやっていくのかどうか。資料にもイギリスとかアメリカ、ドイツ、フランスの例があったけれども、それぞれの国が科学技術政策を考えるときに、一番最初に自分はいきたいという気持ちを単純にみんな持っていて、科学技術政策とか立国論というときには、そういうようなものが根っこにあって、それはしっかりとそうかどうかということをご議論する必要があろうかと思う。準周辺的に考えたのは、国際政治学でいう中心国と準周辺国というふうに分けるから、二番手でずうっといけばいいんだと。ただ、最近三番手にいきつつあるので、二番手のグループに入りたいとか、そういうようことである。 
  2ページにあるのは、有名なレイモンド・バロンという人の雁行形態論と言われていることであって、一橋の商船時代の赤松保先生の雁行形態論と全く同じ議論である。アメリカは常に1番でいって、OTHER ADVANCED COUNTRIESが二番手にきて、開発途上国も遅れて頑張る。こういう世界が実際にあるのかどうか。これはうそで、雁は飛び越えていくんだと思うんだけれども、1番は常にアメリカで、ほかの国は常に二番手にいくのか。我々はそういうふうに世界を見ているのかどうかという問題設定が重要であろうかと思う。私自身はどっちでもいいという感じを持っている。 
  2番目はサイクルで考えるのか絶対的危機で考えるのか。これは3ページの上の図であって、有名なコンドラチェフのカーブと、イギリスの産業革命以来今日までが非常に似ているということで、広岡先生という方が非常に克明に調べられたものを借用させていただいた。今、日本がもし何か科学技術の問題の危機があるのであれば、それは時代の流れであって、日本だけでの話ではなくて、サイクルの中で今落ち込んでいるのかどうか、こういう見方をするのかどうかということである。それから、今は次の芽が出ない、“底つき”、私は恩師の大森ショウゾウ先生の言葉を使わせていただいているんだが、あるところから雁行形態論のように普及をしていって、そこが底をついて普及が終わってしまう。そうすると、底つきのところからどうやって伸びていくかという実際の危機に日本は直面しているのかどうか。単純に全体的にサイクルの中で動いているのか、そういう見方が重要ではないかと思う。 
  それから、3番目、エリートでいくのか国民全体でいくのか。つまり、社会と科学技術の問題を考えたときに避けて通れない問題があって、我々は国民全体の科学技術のマインドを高める政策を今議論しているのか、突出型のエリートが前に出てこないようなのが今の日本の問題なのか。民主主義とか、今井先生がおっしゃったような女性の問題とか、そういうようなものを我々は腹にくくらなければいけないというふうに思うわけである。エリートでいくんだったらエリートを伸ばすような政策があって、一般の国民全体でいくならば国民全体で考える科学技術政策と、違う政策があるのではなかろうかと思っている。 
  3ページの下の図は、単純な図で恐縮なんだけれども、左に書いてある仏教的な感じのあれはお忘れいただきたいと思う。私がいろんなところで調査をやったときに、競争的模倣と独創性という問題を議論したんだが、独創性というのはなかなか定義できないわけだから、最初は模倣から始まって、模倣によって優良イミテーターというエリート集団ができ上がる。そのエリート集団をはじき出された人たちが、政治学でいう革命と同じだけれども、外の似たような技術を使って、エリート集団が秩序をつくって硬直的になったものを壊してしまう。 Diffusive Anomalyというのはそういうことである。そこからまたサイクルが始まってくる。そういうモデルを言っているわけであって、基本的にはエリートが前に出てきて、最初は非エリートから始まって、そのエリート集団にはじき出された人が絶対にそのエリート集団を壊そうと。そのときには中では壊せないで外から入ってくる、技術を使って壊していくという、政治学でいう革命論みたいな話を応用しているわけである。 
  それから、最後のシステムなのか「文化」なのかということであるが、4ページの図は、社会が持っている保守性が横軸で、社会が持っている、私も同じものを持ちたいとか、民主的にみんな同じだというユニフォーミティみたいなものが縦軸である。科学技術は第4象限からローカルに始まってきて、突然産業革命を行って第1象限に特異的に出てきて、そしてそれが国家の富をつくるということで、みんなそういうことができずに上がってきて、その中でアメリカが突出して国是として、アメリカが建国して以来科学技術で旧態依然のイギリス国教会を倒すという発想があるわけだが、そこから入ってきて第2象限にいく。第2象限に遅れて入ってきた日本が第3象限にいくと。これを見ただけではなかなかご理解いただいけないというか、時間的に十分にご説明できない。 
  ただ、最後に一つ申し上げたいのは、先ほど先生がおっしゃった「遊び」というもの、それから、別の委員がおっしゃった「遊び」、ドイツの技術の発展を調べると常にダブルトラックでいってて、ドイツは非常に保守的な技術を持っているんだけれども、ご存じのようにあらゆるところが非常に進んでいる技術を持っているわけである。保守的な技術というのはどこかで突き当たるわけだけれども、ドイツは社会が保守的で、テクニック・ファイントリッヒタイト、技術嫌いという言葉もまかり通っているのに、なぜ前衛的な新しい技術が出るかというと、常に後ろに見えない前衛的な、「遊び」というのは語弊があるが、そういうものが動いている。どこかでぶつかってしまうとその前衛技術がパッと出てくる。ヒットラーのロケットは戦争には全然役に立たなかったんだけれども、それが常に動いていって、例がよくないんだが、戦後はミサイルがアメリカを中心として非常に保守的な技術として出てくる。そういうような前衛的な技術がドイツには結構ある。 
  結論も何もないんだけれども、以上で終わらせていただく。 
   
・委員  これを考える枠組みとしては、科学技術の先端部分とボディ部分が根本的に違うというか、科学の先端部分にいる人たちはみんな二番手でいいとは全く思ってないわけで、中心でいこうと思っているわけですね。中心でいこうとする人たち、つまり、そのレベルの研究をやっている人たちは全部、日本という国が自分の背中にあるという意識は全くないわけですね。英語で論文を書いて、英語で学会で発表してという、完全に国際社会の中に入って、バイオ関係の場合には研究費そのものがNIHからくると、そういう国際性もあるし、共同研究というのは至るところで国際的にやっている。だから、国を背景にしてものを考えるときにそこは全然話が違ってくると思う。 
  国を背景にするというのは、それが産業の方にいったときにどうなるか、その辺から絡みあってくる。そのときに先端的な技術の部分が産業界に下りてくるところ、例えばバイオの最先端部分みたいなところが今度は否応なく法律なんかの関係で、国を背中に背負っているという意識が入ってくるけれども、それでも研究の現場にいる人たちは、自分の背景にあるのはせいぜい自分の研究室とか自分の大学とかいう程度で、国という意識はほとんどなくて、国を意識するというのは研究のレベルの低い人じゃないかと(笑)。先端の部分というのはエリートでいく以外にないわけですね。 
  そういうエリートが国内にいるということはまた別問題として非常に重要なことで、頭脳流出みたいになって、利根川さんみたいに海外にどんどんいっちゃうということになったら、日本のその領域研究全体が地盤沈下するということになるわけですね。そうすると、ここで提出すべき問題というのは、国際社会でちゃんと活躍できるエリートたちをいかに育成して、いかに国内にとどまって研究してもらうか、その研究体制を担ってやるか。しかも、彼らが国際的に活躍できる素地を国が整えてやる、そういう方向の話になってくると思う。だから、この一連のあれというのは、エリートか国民全体というのはそれぞれまた違う議論が必要になる。全部一緒くたに、これかこれかという議論にはならないという気がする。 
   
・委員  先生のおっしゃったとおりである。ただ、それにつけ加えるならば、アメリカは国策みたいなものを持っていて、外国人が集まってきて、科学者そのものは個々のあれで国際性というか、論文を書いている。私は大学でそういう担当をしているけれども、まさにそのとおりである。だけども、どこに集まるか。日本に集まってもらいたいという政策をやってもいいんじゃないかということだと思う。 
   
・委員  僕はそれで大問題だと思っているのは、海外から日本に来る留学生の質がものすごく落ちたというか、水準が高い留学生はアメリカへいっちゃうわけで、おのずから日本に相当ひどいのが来て、答案を見て仰天するような、大学生に仰天するようなのがいるのも事実なんだけれども、それ以上に留学生の水準が低くなっている。アメリカの科学技術を支えている相当部分というのは、アメリカ以外の国からアメリカへ来て研究している留学生であり研究者である。 
  そういう誘因が日本の国にはほとんどない。非常に特殊な分野、日本が牽引車となって引っ張っている特定の領域はそういう人たちが来てるけれども、そこをどうするかというのは日本の科学技術の未来で一番大きな問題の一つだろうと思う。 
   
・座長  本来、科学には国境というものはないから、今おっしゃったようにエリートというのは最も研究のしやすい条件のところへいってしまうということで、アメリカの条件がいいわけですね、研究費も多いし環境もいいしということでどんどんと集まっていく。非常に心配なのは企業すら、大企業だと製造は途上国でやる、研究はアメリカとかヨーロッパでやって、単に産業が空洞化するだけじゃなくて、頭脳の方も空洞化するんじゃないかという恐れがあるわけである。それをどうしたらいいのかというのは大変難しい問題だと思う。 
   
・委員  つい最近アメリカでNECがプリンストンにつくった企業の研究所を見たんだけれども、これがなかなか優秀な連中を集めて、研究自体も非常にすぐれている。あそこのヘッドはアメリカの電子工学会の会長がやっている。あれを見ていて、それが必ずしもNECに利益をもたらしているわけではないけれども、もうそういうレベルでものを考えなくてもいいというか、余裕があるところはどんどん海外にいって、ああいうふうに科学技術全体の発展に資するような研究所をどんどんつくるのは、それはそれでいい生き方なんじゃないかという気もした。 
   
・委員  今のご議論はすべてもっともであって、さっき先生がおっしゃった前置きをしたようなことになるけれども、先生にお伺いしたいと思うんだが、例えば事務局で用意してくださった資料集の13ページにジャズノフのレギュラトリー・サイエンスとリサーチ・サイエンスの区別が出てくる。彼女はハーバードの法律学者で、まさにこういうことをやっている人なんだが、このレギュラトリー・サイエンスとリサーチ・サイエンスは別に目新しい区別ではなくて、既にドロンとか、そこにも出てくるミッション・オリエンテッドとキュアリオシテイドリグンというような分け方にほぼ匹敵するわけである。 
  今のご議論だとエリートは科学技術の先端的な研究を国籍を無視して担うというのは、確かにそのとおりで、もう一方でさっきのパブリックじゃないけれども、  “パブリックサイエンス  オブ  テクノロジー”というような概念の中で国民全体の科学技術に対するリテラシーをどう高めていくかという議論があるというのはよくわかる。ただ、レギュラトリー・サイエンスというのは何かというと、文字通りアメリカの政策論にも出てくる。 
  もっとさかのぼれば、事務局でご研究になったルーズベルト大統領とバーネバー・ブッシュとのやりとりの中から生まれた「Science−The Endless Frontier」というのは、科学研究を行うことによって国家の繁栄と国民の安全と健康、それから生活程度の引き上げを目指すというために、決定的に科学の成果をエクスプロイットしましょうという提案であって、そこのところが国籍があとへついて回っているわけですね。ここで言うレギュラトリー・サイエンスというのは、文字通りエリートがやる無国籍な研究でありながら、なおかつそれは国家にエクスプロイトされることを前提とした、その枠組みの中での研究であらざるを得ないという側面がもう一つあるんではないか、象限としては。 
  さっきの4象限の話とはちょっと違うんだけれども、そこのところはどんなふうに整理をしたらいいとお考えか。 
   
・委員  4象限の2象限にいたアメリカの根というのは、先生がおっしゃったようなレギュラトリー・サイエンスというか、バーネバー・ブッシュ的なえも言われぬエンドレス・フロンティアというキャッチワードですね。この軸にないのはイデオロギーと言うか、アメリカの国是の中に科学技術というのは非常に重要であると。それは政策論というよりも立国の思想の中に常に流れている。我々はそういう国ではないので、それはもうちょっと形而下に下ろしてやっていくのか。アメリカと全く同じことはできないというのが私の考えである。 
  アメリカに来てからまた移民ができないということをハーシマンという人が言っているんだけれども、最後の土壇場でアメリカに残った連中は、ここを守らなきゃいけないということになると思うんで、フロンティアという言葉が科学技術と一緒に常に使われている。そこに日本という国かぴったりとくっつくのは難しいんじゃないかというのが僕の考えである。 
   
・座長  アメリカは大変うまく使い分けているわけですね。 
   
・委員  そうです。 
   
・座長  一方では、国籍のない最先端の科学というものは、人類共通の財産だという考え方で、どんどんと自分のところへ情報も集めてくる。何といっても情報の一番中心であるから。しかし、他方ではそれを巧みに国益につなげるということをやっているわけである。そういう中で、日本がどういう道を選択していくのかというのは大変難しい問題だろうと思う。 
   
・委員  今のお話にも多少関係があると思うし、二番手戦略というお話がさっきあって、それとも多少かかわると思うんだけれども、アメリカが先頭を切っている知的財産権の強化の戦略というのは、そういう問題に対して非常に大きな意味があるんじゃないかと思う。ご存じのように生き物も特許になるとか、ソフトウエアが特許になって、遺伝子の断片が最近特許になった。それから、最近急速に増えているのはビジネスモデルの特許で、金融工学関係の特許とか、プライスラインの特許というのが出てきて、それはリバースオークションのシステムが特許になっている。そういうサイエンスのレベルのところとかビジネスモデルというのが特許で押さえられることになると、二番手戦略の優位性というのは非常に難しくなってくるということも考えられると思う。 
  私はアメリカの人と一緒に特許とイノベーションの関係を研究しているんだが、アメリカの中にもそういう動きに危惧を持つ人が非常に多くて、私も同じような危惧を持っている。日本の特許制度も、アメリカがそうやると、こっちも対抗上やらざるを得ないというというところもあって、プロパテント政策の方へ最近動いているところがあるけれども、その動きというのは今のお話とかかわりのある大事な問題ではないかと思っている。 
   
・座長  今はこうした特許の違いが国際的になかなか解決できないところですね。それが非常に大きな問題を生み出しつつあると思うんだが……。 
   
・委員  特許のハーモナイゼーションの話し合いはウルグアイ・ラウンドでやっているんだけれども、アメリカの特許制度は非常に特異な制度で、アメリカ政府はハーモナイゼーションをやると言うんだが、議会は常に反対して政府の約束が実現されないという格好で、それがある意味でアメリカにとって都合がいいんだけれども、そのままきているのが現状である。 
   
・座長  あと少し残された時間があるので、先ほどの委員の発言の討論も十分できませんでしたし、全体を通じて何かあったら、伺いたいと思うが、いかがだろうか。 
   
・委員  今、先生がおっしゃったことの続きみたいなことだが、知的財産権に関する研究者の層というのは日本は決定的に薄いと私は見ている。立派な学者は確かにおられるわけだけれども、もうちょっとシステマティックに考えていかなきゃならないんじゃないか。 
  ドイツのミュンヘンにマックスプランク・インスティテュートの1つとして知的財産権のための研究所がある。アメリカは先進国だから、放っておいても、知的財産権そのものがあらゆる法律学者にとって非常に関心の大きい、あるいはそれをにらみながらみんな議論している。何をやっていても、そういう問題というか、議論を必ず念頭に置いているというところがある。大学共同利用機関の中に法律系が一つもないということ自体、ドイツだと、比較法とかたくさんあるんだが、法律学者がたるんでいるのかよくわからないけれども、これは考えてもいいんじゃないかなという感じがする。 
   
・座長  法律学者に現実の問題をもっとやってほしいという気がするんだが。日本の法学部は大学院学生が少なくて、将来の研究者志望の人しか従来いかなかったようである。だから、層の薄さというのがかなり決定的じゃないか。それから、法曹人口が非常に少なくて、それを増やすことをずっと抑制してきたから、今改革をしないと困るんじゃないかなという気がする。 
  さっき先生がおっしゃったことで、歴史的にみて法律というのは国によって違うというのはよくわかったんだが、一方で次の世紀はグローバリゼーションが進んでいくだろうと。その中で法律のハーモナイゼーションということも進んでいくかもしれないと思うんだが、次の世紀の世界各国の法律のあり方について先生はどういうふうに見ておられるのか、あわせてお聞きいただきたいと思う。 
   
・委員  歴史家は未来を語らずと言うので、よくわからないんだが。いずれにしても、先ほど法律に×をつけておきましたけれども、いまだに・にはなってないという感じは拭えないと思う。実際に法律の大学院を出たらどうなるかと言うと、大学の先生になるといっても就職口がないというのが基本的な構造である。そうするとどうしても大学院進学者は限定されてしまうということで、法律家あるいは法律を勉強してドクターをとった人が、世の中で司法界あるいは法律学会のほかにどれだけ活躍できるか、これも一つの大きな問題だと思う。 
  例えばフンボルト財団の事務局は相当そういう人たちがいる。それがうらやましいとかそうなりたいとかいうことで言っているんじゃないんだけれども、社会的に法律学あるいは法律家というものをどう評価するか、受け取るか、それが大きな問題で。しかし、いずれすべての問題が最後は法的問題になるわけで、今のレギュラトリー・サイエンスも法廷で問題になるということが表に書いてある。 
  そういうことだから、その辺は日本としてしっかり考えておかないといけない。少なくとも知的財産権については、日文研ぐらいのサイズの研究所があってもおかしくはないなという感じはする。 
   
・委員  東大の先端研の中に知財研ができて、そういうことを一生懸命やっているところなんだが、この間そこの人からバイオ関係の特許に関していろいろレクチャーを受けて、後藤委員がおっしゃったような現状をいろいろ伺った。半年ぐらい前に知財研が正式発足したのを記念して、アメリカとECのそういう方面の政府の当局者を呼んで国際シンポジウムをやったんだが、そのシンポジウムの現場で、それを担当するそれぞれの政府当局者に近い人たちが話し合って、いわば三局合意というような形で違う方向づけをしたという話を聞いた。 
  確かに今のバイオ特許のあり方について、委員がご指摘になったような問題がたくさんあるわけで、アメリカの方針をヨーロッパも「あれはいいのか」という感じで見ているわけである。細かくは知らないんだけれども、あの問題は非常に重要な問題でありながら、一体どういう場でそれを決めるのかという決定の場と、どういう意見を持ってどういう決定権を持っていってやるかというところが今はきちんとないというのが現状だと思う。 
  この科学技術会議というのは、政府の最高政策を科学技術に関して検索する場であるわけだから、この問題は日本が積極的に例えばサミットに議題として持ち出す。サミットでたちどころに解決がつかないじゃなくて、ガヤガヤがものすごくあって、また持ち越しということになると思うんだけれども、そういうことを一回やらないと、アメリカの腕力のごり押しだけで、どんどん流れていくという状況を変えられないと思う。そういうことを日本の政府がヘゲモニーをとって国際政治の場に出すというようなことを一回やってみるといいという感じがする。 
   
・委員  先端研と競争するわけではないんだけれども、私どもの大学もそういうようなTLOをつくらせていただいて、先生など日本の優秀な知財法の先生方をお呼びして国際会議を開いたんだが、結論は学部の分野を問わずパテント・マインドというような、法律の先生だけの問題ではなくて、基礎講座みたいなのをつくって、専門家をお招きしたオムニバスみたいな教育を若いうちからやらないと、企業の法務部にいくと窓際みたいに見られているというような発言が結構あった。 
  だから、そういうものを根底から変える、先ほどの議論から言うと、国民全体の中にパテント・マインドを。その意味で大学で一方ではTLOをつくってやってるけれども、一方で教育という問題をやっていく必要があるんじゃないかと思う。 
   
・座長  この懇談会のまとめをいずれしていかなければならないが、その中で提案できることがあったら提案していきたいと思う。そういうことの一つとして、今、知的財産権の問題が出たけれども、従来の学部の枠を超えた総合的な研究を展開していかないといけないし、そういう現実の課題は、教育の問題もあるしいろんな問題が出てきている。そういうものに対してこれからどういうふうな研究の推進方策をとっていくかということを提案していきたいと考えていて、今の問題もこれから取り上げていく必要があるだろうと思う。 
   
・委員  今回は科学技術庁としての第一段階として文部科学省を頭に置いてお話ししたので、今回の意見発表には入れてなかったんだが、科学技術の先端部分だけじゃなくて、国際機関の誘致ということはかなり効果的な手段だと思う。私はWHOの研究機関を神戸に移したときにかかわったんだけれども、そういうことに関して国が、一番動きが鈍いというよりは、冷たかったというところもあった。そこまでは今回は書き込まなかったけれども、やりたいというところがあるならば、実際に民間が民意でやろうとしていることがあるんだから、そっちの方にも目を向けた方がいいんじゃないかなと思った。 
   
・委員  きょうは「科学技術政策と社会」というテーマを設けていただいて大変ありがたかったと言うか、話やすいんだが、自然科学あるいは理工学系だけじゃなくて、人文科学、社会科学もやらないとバランスがとれないとか、バランスのとれた各分野の発展というものが大事だと言われる、まさにそういう見方も十分成り立つし、必要である。 
  それと同時に大事なのはきょういろいろご議論があったように、科学技術そのものが社会の中にあるわけだから、科学技術を人文科学的に研究する、その囲んでいる環境なり、私はきょう「環境」という言葉を使ったけれども、場というものをしっかり研究しておかないと、科学技術そのものがやせ細っていくとか、問題を抱えたままでいくだろうということで、こっちもこっちもというんじゃなくて、科学技術のために人文社会科学というのが必要なのかなと。我田引水になるけれども、そんなようなことを私はふだんから感じている。 
  そういう観点でいろんな施策がこれから考えられるんじゃないかなと。具体的なものは持っていないけれども、ちょっとそれだけを。 
   
・委員  私の立場から申し上げると、私は文字通り専門でないまま自然科学と、全く独学で法律とか国際政治の研究論文を横につなげて読むということをやっているので、そういう意味では今の日本のこの領域の問題の研究体制について危機と言うか、大変不満を持っている。 
  はっきり申し上げると、いずれ国立大学がガラガラポンみたいになると思うんだけれども、制度よりは学界が非常に閉鎖的になっていて、子弟関係と研究費、それから、学問の自由あるいは学問の独立という内向きの視点がそれによって正当化されてしまっている。一番きついのが日本の法学界であって、優秀な方が例えばバイオとか生命倫理の問題をおやりになると大体引き戻されてしまって、「君、そんなことやっていたら大学の教授になれないよ」というので刑法、民法という、いわゆる法学界の自立性から見た正当化の方に優秀な方は引き上げられてしまって、結局専門家として学界の中で育てようというマインドがない。 
  だから、今まで日本の学問をよくするために大学を批判しようと思ったんだが、むしろ学界のこれまでのあり方を、社会の側がその芽を育てないと、文理融合なんて掛け声をわざわざかけないといけないという先進国は日本だけだと思う。そういう意味では日本におけるアカデミーの文科系の固定化というのは、アカデミーのためにも意識的に批判されてもいいんではないかと思っている。 
   
・座長  おっしゃるとおりである。ただ、若い人は冒険をしたがらないということもある、そういう分野で。伝統的な六法というところでとまっちゃう。 
   
・委員  そうですね。私は遮二無二に研究しているんではなくて、海外の一番おもしろいものを読んでいると、文理融合のこれからというところで特にアメリカはおもしろい論文が出てるので、それを読んでいるだけなんだけれども、日本の場合はそこに新しい人が恣意的に入ってこない。それをよくよく聞いてみると、自分のポジションとして、短期的にやっているのはいいんだけれども、長期的にそれをやるということは物理的に無理になっちゃう、ちょっと優秀だと学会事務をやらされたり。そういう意味では日本としては結果的にマンパワーが学会の論理によって不適切に配分されてしまっているというところがあるんではないかと思う。 
   
・委員  私もばかの一つ覚えで何度もこういう席で言わせていただいているんだけれども、今の米本さんのお話も関連があって。日本の学会で一番問題なのは流動性の欠如だと思う。口で言うのは簡単なんだが、これをいかにして破るかというのを21世紀の目的にぜひ入れていただきたい。 
  一つの明らかな方策はいい留学生をできるだけ呼ぶということなんだが、いい留学生を呼ぶにはインフラストラクチャーが余りにもお粗末で、こういう方面もしっかりやっていかないと、アメリカと比べたら歴然とした差があるわけで、普通の人だって来ない、奨学金から始まって。奨学金はインフラとは言わないかもしれないが。建物、施設の問題にしても、ものすごく差があるわけで、一つひとつ解決していかなきゃいけない。一番根幹は、米本さんと同じで、日本の学界の流動性の欠如、これは学界だけじゃなくて企業との間もそうだと思う。もっと人が動けるような素地をつくっていかなければいけない。 
   
・座長  日本の社会全体が流動性が欠如しているというところが非常に難しい問題で、大学の研究者はかなり動くようになってきたんだが、限界があるのはアカデミアの中で動いているから、それ以外のところに行けない。さっき先生が言われたようにね。例えば法学部でドクターをとった、その人が企業にいったり官庁に入ったりということはなかなかできない日本の社会の閉鎖性というのが一つあると思う。 
  2カ月ほど前にセントルイスのワシントン大学の理事長、学長、学部長がワンセットで日本に来て、私は朝食会に呼ばれていったんだが、そのときに学長が各学部長を紹介して、自分の学部のプライオリティエリアを言えといった。そうしたら、法学部長は知的財産権、特に国際紛争ということを言う。日本の法学部長でそんなことおっしゃる方はまずないだろうと。そんなことを言ったら大学に帰って猛烈に攻撃されるだろうと思うんだが、アメリカというのは現実の問題に取り組んでいる。また、そうでないとお金がこないと、日本に寄付集めに来たわけだから、そういうところが非常にあるわけである。 
  そういったところをこれからどういうふうにして変えていくのかというのは、一つの大きな課題だろうと思うんだけれども、それも含めて何か具体的な提案ができればしていきたいし、それをお考えいただければ非常にありがたいと思っている。 
   
・事務局  次回は同じテーマで、2人の委員に意見発表をしていただいて、また議論を続けたいと考えている。 
  それから、先ほど座長からお話のあった中間報告案を、この会議を始めた当初の予定では年末にまとめたいということで、事務局で作業して、今までのご議論を踏まえて、次回の会議には中間報告のドラフトを提出して、またご議論いただきたいと考えている。