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21世紀の社会と科学技術を考える懇談会
―  第8回会合議事録  ―

1.日  時:平成11年10月7日(木)  10:00〜12:00 

2.場  所:虎ノ門パストラル  「藤」 

3.出席者:
  (委  員) 井村、石塚、廣田、村上、雨宮、石井、猪木、今井、宇井、小出、河野、中島、丸島、薬師寺、安井、米本、鷲田の各委員
大崎政策委員、貝沼政策委員、矢田部政策委員
  (事務局) 科学技術庁  青江科学技術政策局長  他
文部省 佐々木学術課長

4.議  事

・座長  今回の課題は、科学技術と「人」ということであるけれども、もう少しブレークダウンして言えば、科学技術と教育、あるいは一般の人々の理解増進、それから男女共同参画と科学技術ということである。この1週間は臨界事故という大変な事故が起こって、改めて科学技術と「人」の問題、あるいは理解増進の問題といったことが重要な課題になってきていると思う。本日は、3人の方から意見のご発表をいただいて、その上でご討論いただくことにしたいと思っている。そのお一人である先生には、この懇談会の委員ではございませんが、お願いしておいでいただいた。委員が本を持ってこられて、「分数ができない大学生」ということでいろいろ議論されたけれども、その著者のお一人であって、最近調査された結果を本にまとめられたわけだが、きょうはそのお話も含めてお聞きできるのではなかろうかと考えている。それでは早速議事に入りたいと思うが、その前に、ここの委員にご就任いただいたのだが、外国に行っておいでになってずっとご出席できなかったのだけれども、きょうおいでいただいたので、自己紹介を兼ねて、科学技術と社会に関する先生のお考えを10分以内でお願いしたいと思う。 
   
・委員  皆さんの議論が煮詰まりかけたころにあらわれて、どうかご容赦願いたい。 
  自己紹介を兼ねて簡単にお話しする。私は、経済学の中で経済政策、特にヒューマンリソースデイベロプメントと呼ばれる分野を主にこれまで取り上げてきた。簡単に申すと、組織の中、あるいは社会全体で仕事がどのように分かれていて、その仕事にどういう人が、配分されていくか、そしてその仕事の成果に対してどういう報酬が与えられるかという、人的資源の動き方あるいは成長の仕方のメカニズムみたいなものを研究するということになるかと思う。簡単に例を挙げると、数値制御の工作機械が金属加工の現場に導入されるとすると、これは社会全体、あるいは企業という小さな組織の中で、分業の形態がどう変わるか、あるいは教育訓練の姿がどういう変容を受けるか、あるいは所得等にどういう影響を及ぼすかというようなことを考えるというような問題がひとつケースかなとも思う。 
  今日はあと大事なお話があるので、この委員会に関係した私の関心みたいなものを3点ぐらい簡単に。1つは、今申し上げたように、技術の導入自体が経済社会の中、あるいは組織の中での所得分配をどのように変えていくかということである。通説ではよく言われるように、高度な技術が生産現場ないしはホワイトカラーの職場に導入されると、知識で武装した勤労者が豊かになり、それに追いつけなくなったグループが窮乏化するという、一種の両極分解説みたいなものがあると信じられている。こういう問題も、先ほど数値制御の工作機械の例を挙げたけれども、日本とヨーロッパの諸国を15年ぐらい前に調査したことがあるが、必ずしもそういう単純な形では事態は進行していない。たから、知識がどういう形で社会の中に散らばっているか、あるいはだれがどういう知識を独占しているか、それが経済構造にどういう影響を及ぼすかということが、私の関心の第1点である。 
  第2点は、これは先ほど井村先生がおふれになった例の東海村の大変な事故とも関係する。私は新聞報道でしか知識がないが、私の第一印象は、従来の日本の強みみたいなもの、日本が強さを誇ってきたようなやり方というか、システムのところで大変な錯誤と失敗が発生した。どういうことかというと、従来は現場の工夫とか、現場の意思決定をなるべく分権化して、仕事の内容を一番よく知っているフロントの人にいろいろな意思決定を移譲していくシステムが、外国と比較して相対的に日本の強みだと考えられてきた。現場の人たちはマニュアル以上のことができる。今度もマニュアル以上ないしは裏マニュアル以上のことをやった、ということが原因ではないかと推測している。だから、そういうマネジメントの問題だけではなくて、一種のガバナンスの問題、どういうふうに監視するか、どういう監視のシステムを築くか、あるいは監視するシステムをまた外部からどういう形で監視するか、モニターする人をどういう形でまたモニターするか、というような構造をこれから考える必要があるのではないかと感じた。安全性の問題はさらに重要になるであろうと感じた。 
  3番目は、これは非常に古い問題なんだが、いまだに答えのない問題である。教育システムがイノベーティブな活動とどういう関係があるのか。これは、プラスの関係、マイナスの関係、無相関など、いろいろな説があるが、恐らく私が関係し得る分野でこれが一番難しい問題だと思うのだが、それに対しての私の答えはまだない。 
  以上3点を私の問題意識というか、意見発表ということにさせていただく。 
   
・座長  きょうの問題とも非常に関係が深いので、またできるだけご討議いただきたいと思う。それでは、先ほどご紹介申し上げた先生にお願いする。 
  先生は、東京大学理学部の数学科のご出身であって、現在、埼玉大学経済学部の教授である。先ほどちょっとご紹介いたした「分数ができない大学生」とか、きょうお手元にいただいた「数学はこんなに面白い」、こんな本がもっと早く出ていたら、私ももっと数学をやっていたんじゃないかと思うのだが、そういうご本の著者であって、きょうは学力低下問題について、今非常にホットな議論になっているが、それについてお話をいただくことになっている。それでは、よろしくお願いします。 
   
・教授  本日はお招きにあずかり、大変ありがとうございました。 
  先ほど先生の方から臨界事故のことが出て、私が言おうと思っていたことと全く同じことを言われてしまった。私と同じ大学の政策科学科の橋本先生の『町工場の底力』という本がある。つまり、日本の産業の中の科学技術の特色の一つとして、「現場の底力」という形でいろいろ工夫を重ねてきて、高品質な製品を生み出してきた部分もある。そのへんの現場の力が非常に弱まっているのではないか。私自身の経験を申し上げると、例えば数学の本を出すときに、昔は植字工という人がいて、その人たちは、ほとんど中卒なんだけれども、私の本の誤植やページの入れ間違えなどを見つけてくれた。彼らがそれを上の人に言って、「ここは間違っていませんか」というふうに私のところに連絡が来た。臨界事故の場合は、「上の人に言う」というところがちょっと足りなかったとは思うが、今まで、そういう現場でいろいろなミスを見つける、あるいは工夫をしてくれるということがあったが、これが全体的にものすごく弱くなっている。我々が『分数ができない大学生』(東洋経済新報社、以後本書を[分]で示す)を出した理由の一つに、このことがある。 
  我々は大学生の教育の現場にいる。この現場で前々からちょっと問題があると言われてきたが、どういうことが起こっているかということを、実際に確かめ、どうしたらよいかを考えようということで研究を始めた。まず手初めに、いろいろな問題を大学生にやってもらった。この問題に関しては[分]の251〜252ページにあるが、基本的には21問中、17問は中学校の問題である。後半の4問については、1985年までの課程であればこのほとんどが中学校の課程だったが、今は高校まで上がってきている。それ自体がちょっと問題である。 
  そのことはおいておくとする。さて、この問題だったら大体どのぐらいできるだろうか、ケアレスミスもあるだろうから、満点とは言わない、23〜24点ぐらいであろうと、私たちは想定していた。しかし、見事に期待を裏切られた。高いレベルの大学で数学があるところではある程度の得点をあげているが、受験で数学を選択しなかった学生は惨憺たるものである。私立の最難問のK大学ですら、小学校レベルの問題がもう既に、非常に低い点になっている。 
  例えば、[分]の9ページの表を見ていただきたい。K大学の経済系学部の1年生の小学校レベルの分数の問題5題の全問正解率がある。全問正解率だから、このうちの1つでも間違えれば間違いになるが、K大学の学生なら100%に近いと予想するだろう。しかし、受験で数学を選択しなかった学生の正解率は78.3%。およそ20%の学生がこれを全部正しく答えることができないという驚くべき結果が判明した。経済学部においては、受験で数学を選択しなかった学生というのは非常に多いわけで、K大学全体でも約20%の学生が小学校レベルの分数の問題すら間違えるという非常にゆゆしき事態になっているということをまず皆様に訴えておきたい。 
  この問題の原因はどこにあるかということだが、専門家の間では、次に述べる三つが有力視されている。 
  まず第一に挙げられるのは、先進国中で一番少ない算数・数学・理科の授業時間数ということである。このことは、[分]の4ページの表をご覧いただけばよい。ここには、中学1年生の数学の授業時間の国際比較が載っている。日本だけ年間授業時間が 100時間を割っており、他は一番少ないイギリスでも、117時間である。中学校2年、3年は現行課程では105時間で、やっぱり最少であるけれども、それよりはちょっとましである。 
  しかし、今度の新しい教育課程の改定ではさらに削られて、中学校1年並みに99時間になるのである。他国からは「Crazy!」と言われている。これでいいのかということをお考えいただきたいのだが、現在のターゲットは大学生であるから、この点は余り深く詮索しないことにする。 
  2番目の点は何かというと、「勉強などしても、高級官僚になって悪いことをするだけだ」という学歴に対するいわれなき過剰な攻撃がある。もちろん高学歴の人の中にも悪い人はいるかもしれないが、低学歴の人の中にももちろんいるわけで、勉強したから悪くなったわけではない。このような攻撃が余りにも行き過ぎて、学生が学問をすることを後ろめたく感じたり忌避する傾向に陥ってしまったのではないかということである。 
  3番目には、大学生に関してはこれが最も大きいのだが、大学が少数科目入試で多くの受験生を集めようとしたことである。私立大学は、なるべく多くの受験生を集めないとその経営を圧迫するわけで、それはしようがないところもある。さらに、その風潮に国立も乗せられて、相乗効果が生まれた。大学入試センターが国立大学の学部長にアンケートをとった結果によると、「学力低下の時期はいつであるか」という質問に対して、56%の学部長が「センター試験の導入時」と回答したという興味深い結果がある。センター試験と共通一次はどこが違うかというと、共通一次は5教科7科目を必修で全員にやらせていたが、センター試験になってから虫食い的な状態になっている。例えば、今では東大ですら、文系(後期)では数学を全くやらなくてもいいのである。このセンター導入時から学力低下がはっきり見られるという認識が学部長の間ではかなり多数を占めている。これは、少数科目入試が問題なのではないかという我々の意見と一致するわけである。先ほどのK大学の例を見ても、入試で数学を勉強した学生とそうでない学生の間にははっきりとした差異が見られる。このように少数科目入試の問題点はかなり大きいと言わざるを得ない。 
  数学の素養がなければどういう問題が起こるかということも、我々数学者としてははっきりさせておきたい。そのために、数学の有用性ということを一つ強調しておきたい。 
  数学者の側の説明も少し足りないのだが、数学は「論理性を養う」という言葉で語られ、これが誤解されがちである。数学者にとって論理性というのは、一般の人の三段論法だけではない。それに直観的に物事を見て、それでいろいろなものの中から本質を抽象して、別なところにそれを当てはめるという作業が加わるわけである。 
  たとえば、「二次方程式が解けなくてもいい」という話が随分マスコミをにぎわせたけれども、私たちが生徒に学習させようとしているのは、二次方程式の解を得ることだけではない。それから、分数についても、その計算結果だけが問題ではない。分数の概念がわかっているかどうか、そこが問題なのである。また、二次方程式の解の公式をただ暗記することが数学の学習の目的ではなくて、それを解く過程でさまざまの抽象的な操作をやることに大きな意味がある。例えば、移項をしてみたり、それからマイナスの数の場合はどうなるかとか、そういういろいろな操作や抽象化の作業するなかで、この問題を解く本質はどこにあるのか。一次式の2乗という形になれば良いんだな、というところに気づいてもらう。そういう作業をやることが数学の重要な役割である。 
  経済学で数学が使われるのも、数学のそういう抽象性をうまく利用しているのである。 
  たとえば、経済学でよく使われる「限界**」などという言葉も、数学の「微分」の概念をきちんと理解していれば、きわめて容易に意味がわかる。ここでは、形式的な計算よりも微分の抽象的な概念を良く理解することが大切なのである。これからさまざまの新しい事態を切り開いていくときにこそ、抽象的な概念の理解が必要であろう。 
  数学というのは、見た目には役に立たないように感ずることがある。例えば、「非ユークリッド幾何学」について述べる。直線とその外側の点が与えられたとき、その点を通り、その直線に平行な直線を1本しか引けないというのが、それまでの幾何学だった。 
  それに対して、「その点を通る平行線が幾らでも引ける」とか、「全然引けない」という幾何学が十九世紀に出てきた。これは直観と著しく反するし、「そんなもの何の役に立つんだ」とずっと言われていた。しかし、アインシュタインの相対性理論が二十世紀に出てきたとき、この幾何学が相対性理論の数学的裏づけになった。100年近く過ぎてその効用がわかるのはなぜかというと、抽象的な概念で空間の本質を突き詰めておいたということにその秘密がある。 
  今、問題になっているデリバティブにおいても、実は日本の京都大学の伊藤清先生が確率微分方程式というものを50年ほど前に提案している。その確率微分方程式を使って、ブラックショールズの方程式などでノーベル賞を取ったのは、アメリカの学者である。 
  日本で、それをなぜ使えなかったのか、そこを考える必要があるのではないか。 
  一つは、この確率微分方程式にしても、50年たって有用性がわかったわけである。アメリカでは、一見役に立ちそうにもないことでも、研究を続けられたのである。 
  また、この難しい分野に立ち向かっていく経済系の研究者、もちろんこれには企業内の研究者も含めてだが、その層が厚いということも言える。そういう意味から、最難関の大学の経済系の2割の学生が分数ができないという事態は、日本のこれからの産業に非常に大きな瑕疵になっているのではないか。 
  この件に関して、下の方はできなくても上がよければいいじゃないかという意見もある。しかし、下の方ができなければ、昔は普通だった子が今ではトップになって、何で東大に入ったんだという話がよく出てくるのである。実際、京都大学や名古屋大学の例が[分]の中にもあるが、東大でもその種のデータがあることがわかっている。このように高いレベルの大学でも学力低下が問題になっている。これは全体ができなくなったら上もできなくなるということで、極めて深刻な事態と理解すべきである。 
  さらに、日本は外国と違って、全体で上がってきて、「横並び」というのが良いところでもあった。先ほども「町工場の底力」と言ったが、それができたのは、日本では全体としてレベルを上げてきた特質からきたものである。しかし、これが裏目に出て、下がだめだったら上もだめになるということも起こってきている。私としては両方とも上げてほしい。このことを解決するために、少人数クラスにするなどの対策も提言しておきたい。 
  また、短期的な見方で、今役に立つ、役に立たないということで基礎学問を切り捨てていくことは非常に危険である。今、大学の独立法人化の問題が起こっているが、短的な経営効率だけから考えると、数学とか哲学などは真っ先に切り捨てられるだろう。しかし、それで本当に良いのかは、デリバティブの例なども頭に置いて、皆様によく考えていただきたい。 
  先ほど少し触れたが、日本とアメリカの違いをちょっと申し上げる。というのは、国際競争力について考えるとき、諸外国でどうなっているかということも意識する必要があるからである。 
  アメリカにはSATというものがある。それは数学が必ず入っている。アメリカは、入試がなくてどこでも入れるんだというとんでもない話がよく流されているが、あれは全く嘘で、どこの大学でも、入試で数学を見ないなどということはない。東大とか慶応レベルの大学で数学が全く課せられずに入試を通過できる道があるのは、日本だけである。また、[分]の220-221に詳しく書いてあるが、フランスあたりでは、数学を3年生までずっとやる系列の学生が4分の3以上を占めている。首都圏の高校生のほとんどが「私立文系」で、数学を全くやらなくなっているという状態は、日本だけである。 
  それから、アメリカ等では、レベルの高い大学に入るためには大変難しい入試がある。 
ここにはロンドンの大学機構の問題を見ていただきたい。この中にある微分方程式の問題はすべて今の日本では大学2年生が学習する問題である。ロンドンのオクスフォードとかケンブリッジなどを目指す多くの高校生が、この程度のことを勉強しているのである。私の教え子で、埼玉大学の社会環境設計学科−これは法学部に対応する完全な文系と見られているが−の学生があちらの高校の二年のときのノートを見せてもらったことがあるが。このノートには、今の微分方程式や3X3の行列式などがあって驚いたことがある。日本の高校生だけが大学入試ではスポイルされているというのが実感である。 
  本日皆さんにお配りした『数学はこんなに面白い』(日本経済新聞社、以後[数]と略す)という本は、数学が誤解されている面があるので、その誤解を解いていただくためである。この本のpp1-21、pp100-101、pp214-215の箇所に、今述べた数学の特殊な性格が書いてある。ここでとくに言いたかったのは、決して数学は自然科学の奴隷ではない。哲学をやるときにも、経済をやるときにも、日常生活でも、いろいろなときに数学の思考法は使われているということである。この点をぜひ皆さんにご理解いただきたい。 
   
・座長  ありがとうございました。それでは、先生のご意見に対して、質問とか、あるいは討論をお願いしたいと思うが、いかがでしょうか。 
   
・委員  最初に簡単な質問なんだけれども、文科系の学生さんが大学生になったときに分数ができないというのは、忘れちゃったんですかね。それとも、小学生、中学生ぐらいか、分数を習ったときの時点でもう追いつけなかったんであろうか。 
   
・教授  例えばK大学に来る学生が、中学生ぐらいのときにできなかったということは、まずほとんど考えられない。実を言うと。これは、今、首都圏の高校では私立文系ということで、数Iは必修だから、形の上では数Iをやっている。ところが、形の上ではやっているということしか言えないのであって、実態はかなり不明瞭なところがある。例えば、これとは逆のケースだが、有名進学私立高校の某高校などでは、家庭科が必修になったら、家庭科という名目で数学や理科をやったりしている。それほどまでではなくても、高校の私立文系のコースでは、入試科目に特化するということで、ほとんど3年間身を入れてやっていないのではないかと思われる。例えば私が私立のS大学(文系)で教えた学生の中には、「4年間数学から離れていた」ということをはっきり言う学生もいる。その4年間あるいは3年間のブランクというのは結構大きいものがある。つまり、理科と数学をやらなければ分数は全く必要ないということは確かである。そういうことが原因ではないかと思われる。 
   
・委員  それは忘れたということであるか。 
   
・教授  はい、忘れたということである。 
   
・委員  ありがとうございました。 
   
・委員  一つは、学力って一体何だという問題がやっぱりあると思う。数学はその学力の一つであろうということは、それはもう別に問題ないと思うんだが、一体どの時点で全体のレベルが下がった上がったという議論をする学力というものを定義するかという、それが一つある。 
  それから、私は経済学部ではないけれども、経済学部で数学ができない、これは大変な大問題であろうと思う。それは、大学の入試で数学がなくても経済学部に入れるという構造自体がおかしいんで、入試をしっかりやればというか、入試というハードルを設定すれば、それで短期的にはいいんじゃないかと思う。それが第2点である。 
  3つ目に、先生が最後におっしゃった、みんながわかるようにするというか、今、授業に落ちこぼれてしまっている人がものすごく多いわけで、みんながわかるようにするということと、かなりハイレベルなことを勉強するということは、結構トレードオフみたいなところがありますね。あちらを立てればこちらが立たずみたいなところがある。今の日本の社会でどっちをとるかという選択の問題なのではないだろうか。ただ、その中で、やっぱりよくできる人たちというのは重要なので、全員が低レベルで足並みをそろえるということではなくて、やりたい人はやれるという環境をつくっていくということが実は一番重要なんじゃないかなと思うんだが、いかがであろうか。 
   
・教授  まず学力の問題だが、さっきも申し上げたように、分数ができないというのは、ただ計算力がないというだけであったら、それほど問題ではない。実は、私は数学者ではあるが、小学校のとき算数は2だったので、計算力はものすごくないことを自分自身で自覚している。「分数ができない数学者」と言われてもいいと思っている。ただ、問題は、「分数ができないこと」が、「分数の概念がわかっていないこと」から来ることである。例えば、3分の1足す2分の1が5分の2になってしまったりしているわけだから、単なる計算間違いとはちょっと違う。そういうところである。 
  それから、本当の学力という意味では、思考力が一番重要だと私は思う。ただ、思考力をどうやって測るのかと言われると、かなり難しい点がある。とりあえず、わかるところで測っていこうということで、まず分数などの問題でやっているだけである。本当は我々が一番知りたいのは思考力がどうかということで、実際にそれが落ちているのではないかというのが我々の実感である。実際、今3割ぐらいの大学で補修クラスを設けているというのも、そういうところにちょっと問題があるということを認識しているからである。 
  たまたま私の知り合いから聞いたのだが、K大学とかS大学などでも、来年から補修クラスを作る動きがある。これも計算や知識だけの問題ではないと伺っている。 
  2番目の質問は入試の問題である。欲しい学生をとるのが原則であるから、まさしくさっき先生がおっしゃったとおりである。しかし、「入試の多様化」ということを、中教審から国立大学にはかなり強く言われている。つまり、「学力だけでなく、いろいろな形の入試をしなければだめだ」とはっきり言われる。国立大学ではそういうことがある。それから、私立大学は、先ほど申し上げたように経営の問題がある。例えばK大学は、実を言うとずっと数学を課していたのだが、課せなくなった。その理由は、そのライバルのW大学が数学を課しておらず、受験料収入がどんどん減っていく。また、本来母集団が違うので比較できないはずの「偏差値」で比較すると、K大学の方がW大学より下になる。この圧力に負けてしまったというところも実はある。これに対する対策として、例えばセンター試験を大学受験の資格試験みたいな形に易しくして、全部の科目を受けさせるという案もある。入試に関しての妙案は出にくいが、このようなことも考えるべきである。 
  3番目の質問として、「みんながわかるようにする」のと、「できる層を上に上げる」のがトレードオフではないかという問題である。確かに、そういう面もありうる問題ではあるが、今回の明らかになったのは、全部下がっているということである。ここに私たちは危機感を持っているのであって、これに関してはトレードオフとは、到底言えない。この要因としては、さきほど挙げなかった家庭の教育の問題もあるかもしれない。「嫌なことはするな」とか、そういうこともあるのではないかと考えられる。ともかく、基本的には全体として落ちていることが重大な問題である。 
   
・委員  先ほど先生から、数学の効用をご説明いただいて、私はわかったつもりなんだが、小学生とか中学生に「何で分数をやらなきゃならないの」と聞かれたら、何と答えたらいいのか。なぜ私がこういう質問をするかというと、今、先生が最後におっしゃったことが一番大事だと思って。何も文部省だって、学校だって、あるいは大学の入試だって、レベルを下げたくて下げているわけではないのであり、つまり、事実としてどんどん下がってくる。数学をやる気がない、あるいはやろうともしない。そういう雰囲気がどんどん蔓延してくれば、システムというのはそれに合わせた形で下げていかなければならない。その結果ここまで来ているんだろうと思うんです。結局根源的には、親の教育なのか、学校の先生が悪いのか、文部省が悪いのか、さまざまな原因は考えられるとしても、最後に、「どうして分数をやらなきゃならないの。理解しなきゃならないの」と子供に聞かれたときに、先生だったら何とお答えになるか。 
   
・教授  この本([数])を持ってきた理由はその点に尽きる。小学生に対しては、分数を学ぶことによっていろいろなことがわかるということを言うよりしようがないと私は思う。小学生段階で我々が理解させられることというのは範囲があるわけで、小学生にどこまでわかりやすく教えるかという問題はある。実は2日前に藤岡市で関孝和の記念で小学生に教えたが、小学生への教育ほど難しいものはないと再確認した。分数がなぜ必要なのかということを小学生に教えることは、かなり難しいと思う。分数の割り算でなぜ逆数を掛けるのかなどというのは教えない方がむしろいいと思っている。「その計算をやっていくと、その計算の中からいろいろなことが見つかってくるんだよ」ということぐらいしか言えないと思う。小学生レベルではそれでいいのではないだろうか。 
  中学生レベルになると、少し難しい話もできる。文字式が出てくるし、抽象的な考え方もできるようになる。高校レベルになるともうはっきりわかるように教えられる。2分のπとか3分のπのかわりに3.14を2で割ったものを数値で与えたらかえってわからなくなる。円周率を小数で表さない方がラクになる。そういうことから分数は非常に便利な記号ということが出てくる。 
  レベルに応じて教えることは違う。小学生の段階では、「やっていくと、そのうちわかるようになるんだよ」という話をせざるを得ない。それはもうしようがない。確かに、小学校でそこが教えられると一番いいんだけれども、難しい部分がある。そこは私自身も大変悩んでいるところである。 
   
・座長  大学入試の科目数が減ったということが非常に大きな要因だということだが、資料8−5の18ページをご覧いただくと、そもそも現在日本の国公立大学がどのぐらいの科目の試験をしているのかというまとめがある。私もこれを見てかなり驚いたんだが、センター試験はまだ5教科を課すというところが多い。しかし、個別学力試験になると、国公立でももうどんどん減っていっており、課さないというところも随分あるというのが現状である。 
  私は国大協の役員をしているころイギリスを訪問して、ご承知のように、イギリスは、オクスフォードとケンブリッジは少し違った試験をしているが、あとはAレベルという3教科の試験をするんです。これはもう絶対だめだとイギリスの学長が口をそろえて言った。そのこともあって、教科は減らしてくれるな、減らしてくれるなということをいつも国立大学協会の総会では恨まれながら言っていたんだけれども、やはり世の中の流れというか、それから私学がどんどん減らしていくということで、国立大学の中には危機感を持って、少ない方がいいんじゃないか、来てくれなくなると困るということで減らしていっているというのが現状であろうと思うが、ちょっとご覧いただくと現在の状況がおわかりになると思う。 
   
・委員  ちょうどきのう、「分数ができない大学生」の仕掛け人の浪川先生に私の大学でご講演いただいて、いろいろおもしろかったんだが、幾つか印象的なことがあって、その中で、今の議論と多少関係するかと思うんだが、学生が「先生、落ちこぼれなんて議論をしているんですか。今は浮きこぼれって言うんですよ」と発言した。つまり、勉強ができることはよくないので、隠すことが格好いいんだということを学生が言いまして、非常に驚いた。それで、今、岡部先生は触れられなかったんだが、ここをちょっと伺いたいんだが、あの本の中では最初の方で、実はこれは数学に特徴的にあらわれているだけであって、本当は知識教育全体の衰退のようなものをあらわしていると。例えばブルームとかハーシの本、「アメリカンマインドの終焉」とか「教養が国をつくる」が引用されていたが、この点は非常に大事じゃないかと思う。 
  私自身の体験を簡単に述べさせていただくと、私は科学史の教師なので、科学と歴史を教える。それで、ある女子大で科学史を始めたところ、あるときから突然授業が全然成り立たなくなった。なぜかというと、理科の実習では、非常に科目が少ないために知らないと言う。それで私は困って、それでは科学文化史にしようと思って、では「レオナルド・ダ・ヴィンチでメディチ家の関係が」と言ったら、学生が「メディチ家って何ですか」と聞いたんです。「なぜそんなことを聞くのか」と言ったら、「世界史を習ったことがない」と言った。世界史は、今は幸い必修に戻ったけれども、かなり長い間、高校では必修ではなくて、そのためにメディチ家も知らない。それで分数も知らない、科学も知らないとなると、これは知識全体に何か大きな問題があるのではないか。 
  それで、「アメリカンマインドの終焉」を読ませていただいて、10年前のアメリカでは、知識なんか意味がないということで、後で必要なときに学べばいいんだという非常に楽観論があると思うので、そのあたりの知識観という点で先生はどういうふうにお考えかというのをちょっと伺いたいと思う。 
   
・教授  先ほどの質問ともちょっと関連すると思うんだが、例えば分数の割り算は、その理由がわからないと教えてはいけないという考え方は私は反対で、それを知識として修得する中で分数そのものの構造がだんだんわかってくるということもあるわけである。先生が今おっしゃられたことはまさしくそのとおりであって、小学校レベルではある程度、「これはこういうふうに覚えなさい」と言ってもいい部分があるのではないか。確かに、なぜこれをやるのかということを説明することは非常に大切で、できればそういうふうにしたいんだけれども、できない部分もあるということは我々教育する側としてはちゃんとのみ込んでおく必要がある。ある程度の知識ができたところで、その知識同士の連携とか、それからその知識がなぜ成り立っているかということを考えることができる。だから、高校ぐらいになると、今まで知識に過ぎなかったいろいろなことがつながりを持って、いろいろな発想がひらめいてくるということもあるわけである。 
  先ほど全体的な知的離れという話があったけれども、まさしくそのとおりで、これは数学だけではない。特に数学と国語、要するに考えていろいろ表現するというところに大きくあらわれている。すべてが暗記だけで済むという傾向がある。ある程度は暗記は必要である。例えば九九などは覚えた方がいいと思うし、小学校まではそれでやらざるを得ない部分もある。しかし、だんだんその知識を使ってその中に潜んでいるいろいろな構造を理解していくということをやらなければいけない。基礎学力のもとにこそ思考が成立するといくという観点が今までの議論で欠けていた部分がある。それで、現在の「論文入試」は基礎学力のない者に論文を書かせるから、単なる感想文になっている。それで論文入試が良いなどという議論もあるが、それはもう「論文」と言うのがおかしい。やはり我々は「基礎学力をきちんとつけた上で、論理を展開するのだ」という発想をしなければいけないんじゃないかと思っている。 
   
・委員  分数のことで言うと、先ほど分数は忘れちゃったという結論になったんだけれども、理化学研究所の松本元先生が、脳をコンピューターとして考えたときに、脳というのは出力依存型で、一度インプットしたメモリーは消去しない。ですから、非常に緊迫した状況だったり、似たような状況のときには、必ず出てくる。そうすると、試験というのは緊迫した状況に入るので、例えば小学校中学年レベルまでの間に知識として分数の計算の仕方とかがわかっていれば、必ず出てくるはず、それが出てこないということは、私が思うには、きちんとインプットされていなかったんじゃないかなと思うんです。今、委員の方々と先生といろいろご議論なさっているところを伺っていると、結局は先生がおっしゃるように全体的な知的レベルが落ちていて、それが知識というものから離れていくという言葉を使われましたね。これは、知識だけではなくて、物事に対する好奇心とか、向学心とか、探求心とか、いわゆる動物が持っているようなセンスの問題がもう既に子供たちにないんじゃないかなと思うんです。 
  その理由は、動物の場合には、必ずある時期、人間で言うと大体5歳で瞬発力ができるのだから6歳から10歳までの間に、大人になるために、えさを探すために、どれが食べられて、どれが食べられないかの見分けをつける。それが人間で言う好奇心、向学心、探求心、冒険心につながっていくものなんだけれども、そういうものがもう子供のころから備わっていない。だから、一つのものを見たときに、例えば分数なら、ただ単に計算式を覚えるというだけで、概念を探求しようとか、追求しようとか、そういう心が全くないんだと思う。おっしゃるように、小学生にはそれはまだ無理なんですね。それは、人体としても生理学的にそういう志向を持つという時期ではないから。これは、千葉大の坂本先生たちが児童心理学で結構分析していらっしゃるけれども、やっぱり6歳から7歳、8歳ぐらいまでの間というのはちょっと無理で、10歳から15歳ぐらいまでの間になるとそういったものが芽生えてくるから、その時期には理由から説明してあげていいものだと思うので、おっしゃっていることはすごくよくわかる。 
  ただ、根本的な問題を教育者が知識として教え方をどうしたらいいかという問題にするのではなくて、それよりもっと前に、それを受けとめる子供の能力がないんだということも検討された方がいいと思う。 
   
・教授  今の問題はまさしくそのとおりだと思うが、先ほど申し上げたように、高校のときに分数を理解させることができる。その分数の意味をきちんと教えられる高校の時期がスッポリ抜けているということが、分数がだめになっている理由の一番大きなところだと私は思っている。このことが一番の問題なのである。 
   
・座長  子供の育て方の基本というか、家庭教育、それから初期の学校教育、そういうもののあり方自体にも非常に絡む問題が多いと思うけれども、後でご議論いただければ大変ありがたいと思う。 
  続いて、委員から、「科学技術の理解と納得」ということで、生涯学習というか、社会学習というか、そういう立場からお話がいただけるのではないだろうかと思っている。 
   
・委員  今、先生がお話になったことは世の中の大変関心の高いところで、私も実は週1回ぐらいだが、某大学で授業をやっているものだから、現場的実感としてはものすごくよくわかる。しかし、一般の人々の理解力、判断力というのはそんなに低いところではないという実感も同時に持っており、ちょっとその辺に焦点を当ててお話ししたいと思う。 
  8−6−2というのは、大体キーワードだけを書き連ねたレジュメだが、科学技術の知識の情報源、科学技術の知識の情報は一体どこから得ているかということで言うと、テレビ、新聞が圧倒的に多い。これは、先ほどご紹介いただいた資料8−5の中にも24ページにグラフとして載っている。これは複数回答ということなんだが、テレビ87%、新聞56%と、圧倒的に多い。その次になると、一般の雑誌以下ということになると10%内外ということで、世の中の普通の人が自分はここから情報を得ていると考える対象は何かということになると、やはりテレビ、新聞というあたりが多い。中でもテレビが大変多いと思う。特に、事故などがあると、体験したばかりだが、別に東海村に限らず、情報に対する要望が強くなる。これは、事にはタイミング、きっかけというのが大変重要である。緊迫した状況というのが大変重要である。そういうときに知識というのは、あるいは理解というのは増すものだということを一つあらわしていることかと思う。 
  私どもの番組で解説委員が夜10分間しゃべる「明日を読む」という番組があるんだけれども、ふだんは大体、視聴率で言うと2〜3%くらいしかないんだが、この日に限っては何と 7.5%で、 900万人ぐらいの人が見た。しかもいつもより放送時間がちょっと押して深夜だったんだけれども、ちなみに担当したのは私である。そういうことで、いささか我田引水的議論をこれから展開してしまうことになるが、どうしてテレビの情報にみんながアクセスするのかなということで考えてみると、2番目にテレビの特徴ということで挙げたが、人間の認識プロセスとテレビのニュースの提供の仕方というのは実は大変合っているんじゃないかという気がしている。その一つは、同時性というか、起きていることを次々と出していく。何やら起きたらしいぞ。次に、臨界事故という言葉が出てくる。臨界って何だ。かなりの人が放射線を浴びたらしい。その浴びた量はどのぐらいか。それはどのぐらい影響するものかということが次々出てくるわけである。これが、最初は何が起きたというところから始まって、次から次へと報道されていくわけである。これは、私たちが日常ものを認識するプロセスと大変よく似ているわけである。しかも、一回世の中に出たことがまたフィードバックされてくるので、それによって修正もされていく。だから、ただ流していくだけではなくて、その反応を見ながら認識していく。また集まったところでまた報道していく。そういうプロセスが認識プロセスに大変合っているのではないか。特に、最近は幾つもの取材ポイントがある。記者クラブもあるけれども、現場ももちろんあるし、インターネットもあるし、海外からのものもある。専門家にいろいろ聞いてくるということもある。たくさんのポイントからの取材が同時にあって、それをまとめて提供していく。それが非常にわかりやすい形に、皆さんに受け入れやすい形になっているのだろう。さらにニュース以外に、私どもの番組で具体的に言うと「クローズアップ現代」という番組があるけれども、これはある時点で整理して、教訓は何かということを引き出していくタイプの番組である。これもやっぱり人間そういうところがあるわけで、初めは大混乱で情報をいっぱい仕入れるわけだが、その後で、一体あれは何であったのかということを考える。そして、一体何を教訓としたらいいのだろうかと考えるわけである。そういう人間のふだんの活動というものに非常に合った形で情報を流せるということが、テレビが受け入れられている理由の一つではないかと思う。 
  それを担っているのがジャーナリストということになるわけである。ちょっと横道にそれるが、科学ジャーナリストが足りないということがよく言われるわけである。この一つの理由として、科学技術者のスポークスマンではないかと取材される側が誤解しているという事情があって、取材される側の意図どおりに科学ジャーナリストがしゃべらないと、あるいは新聞に書かないと、理解が足りないんじゃないかという言い方をすることがあるわけだが、それは全然違うわけで、ジャーナリストと科学者とは役割が違う。だから、よく科学者と一般人をつなぐ橋みたいなものだという言い方をするが、これはちょっと違うのではないかと私は思う。むしろ、非常に違うスタンスに生きる世界の種類のものだと。 
  そしてもう一つ、今、さっきの話からちょっとわき道にそれているけれども、フリーランスが生きにくいということがある。ジャーナリスト、科学技術者ということに限らず、組織に属さないと活動しにくいということがある。例えば、私どもが取材に行くにしても、電話をかけるときには「NHKの・・です」とまず組織を先に名乗るわけで、そうすると大体受け入れてくれるので、だからまた多用するという悪循環なんだが、逆にものを聞かれる側も、「私は小出という者ですが」と言ったら、「一体おまえさんは何者だ」ということで、まず簡単には取材を受け入れてくれないという事情がある。だから、組織によってみんな動いているというところがある。しかも、取材ポイントがものすごくたくさんあるということで、組織的に動かざるを得ないという面がある。そういう組織の中で動いているからテレビなり新聞なりの報道ができるわけだけれども、同時に、組織に属しているということは、転勤もあり、あるいは昇進などもありということになると、一つのポジションにとどまらず次から次へとかわっていってしまうというところがあって、専門ジャーナリストがなかなか育てにくいという問題がある。これは、科学技術に限らず、経済にしろ、政治にしろ、全く共通の問題なんだが、特に科学技術についてはそういうことが言える。むしろ、ジャーナリストの基本というのはクールな批判者というところがあるわけで、そういった基本的な能力においていささか問題がある場合が結構あって、その辺がちょっと日本の問題かと。これは、科学技術を学んだジャーナリストが少ないということもあるし、同時に、サイエンティストでありジャーナリトだ、ジャーナリストでありサイエンティストだというような、異業種交流というんであろうか、違う世界でそれぞれ仕事をするという風土がない。そういう状況をぜひつくりたいわけだが、これは本当に一般論であって、別に科学技術に限った問題ではないんだけれども、それぞれ職業も分解してしまって、ほかとの交流がなかなか持てないということが、いろいろなものを伝える上での障害になっている。しかし、そういう中でもテレビなり何なりというものをみんなが情報源として頼っているということは、現実の問題としてあるわけである。ただ、そういうときに基本的な重要な問題ということだが、ジャーナリストの能力の問題とか、今言ったような問題点もあるわけだが、科学技術の世界がなかなか伝わっていかないということがある。これは私どもは日ごろ非常に苦労している点である。 
  4番目になるが、科学技術者の話ということである。さっきと同じ調査、資料8−5の中には載っていないけれども、将来の科学技術に関する世論調査という、去年の10月に行われたものの中にあるわけだが、科学者というのは世の中の人が大変尊敬する対象なんだけれども、話を聞いてみたいかという質問をすると、「聞いてみたい」という人が57%、これは結構なんだが、「聞いてみたいと思わない」という人が40%以上いるという現実がある。テーマとしては聞いてみたいという話は結構あって、環境とか、生命・医療科学とか、エネルギー問題とか、宇宙についてもいろいろ聞いてみたいということなんだが、40%の人が何で聞いてみたくないかということで、その理由を尋ねると、「専門的過ぎてわからない」50%、「関心がない」というのが22%もあるという事情であって、要するに科学技術の世界というのはもともとわからないものだと思われているという現実がある。 
  それはいろいろな理由があるが、今日は特に人間の問題がテーマなのでその辺を考えてみると、情報を発信する側に結構大きな問題があるんじゃないかと思う。科学技術者のスモールワールド−−−「その常識は一般人の非常識」と5番目に書いてしまったが、どうもそういうところがある。その大きな理由の一つは、理系・文系の分類学。理科が好きで数学ができて、国語・社会ができないと理系だと。逆に、国語ができて社会ができて、理科や数学が嫌いだと文系だというような分類学がかなり早くから行われてしまう。お互いに違う人間だと思っている人が結構多い。私事になるが、息子がお見合いをしたときに、息子は理系だったんだが、写真を交換しただけで断られたことが1回あって、理由を後で聞いてみたら、「理系の人はつまらないから」と。お見合いに至らず断られた経緯があって、こんなのあるかと思って大変印象に残ったけれども、事程左様に理系・文系は異人種であると思っている節がある。学生などに聞いてみると、本当にある。NHKなどは文系が圧倒的社会であって、理科がわからないということを誇りにしている人もいるというくらいで、そういうことがかなり小さい頃から行われてしまっている。それが大学入試の中で、アラカルト方式と書いたが、さっきの問題だが、非常に少数の勉強しかしないということにつながり、だんだん拡大されていくわけだが、さらに大学に入り、科学技術の研究の世界に入ると、大変閉鎖的な世界、狭い人間関係の中で24時間研究に拘束されていき、教授の敷いたレールの上を走る。将来についても、あるいは社会人になってからも教授任せということが現実に決して少なくない。そういう小さい世界の中で暮らしていかざるを得ないということがある。科学技術者というのは極めて特殊な人になってしまっているのではないか。だから、情報の発信がどうもおかしいことになっているのではないかということが一つの問題であろうと私は考えている。 
  しからば、魅力ある科学技術者とは何か。これは、科学技術者のみならず、日本は全部分かれていて、政治家にしろ、経済学者にしろ、官僚にしろ、宗教家にしろ、みんなばらばらな世界に生きているようなところがあるわけだけれども、文化の衝突、文化のカオス状態をつくるということをしないと、なかなか人の魅力というのは生まれてこない。尽きるところ人の魅力ではないかと思う。エリオットの詩の一節に、「情報はあふれているけれども、知識のある人がいなくなった。知識はあふれているけれども、知恵を持つ人がいなくなった」とある。生命科学なら生命科学を研究して情報がいっぱい得られる。その中のエッセンスが知識ということだと思うんだけれども、それからさらに普遍的な思想まで導き出していかないといけない。これは、生命科学だけではなく、いろいろな面で言えると思う。例えば多田富雄先生が書かれたような本、これは文科系の人も含めてベストセラーと言ってもいいくらいの本になったと思うけれども、生命科学の成果をああいった思想にまで高めたという意味で僕は大変おもしろい本だと思ったが、そういったことがあって初めて共通語が生まれてくると思う。領域を超えた異分野との交流、ディベートがあり、同じ言葉でものを語れるということがあり、さらにそういった科学技術者のみならず、社会と対応するというシステムをつくっていくことが、魅力ある人間をつくっていくことなのではないだろうか。そういう努力をすることが、実は科学技術全体のレベルアップにつながっていくのではないだろうかと私は思う。 
  それと多少関連していくわけだが、最後に「一つの提案」と書いた。提案はいろいろあるけれども、そのうちの一つである。テレビの仕事などをしておって、人々の理解力というのはそんなに低いものでは決してないし、好奇心というのは人間基本的に持っているわけで、科学技術がそれにこたえることが実は一番重要なのではないだろうか。それは何かというと、一つは教科書だと思う。文部省の学習指導要領というのがあるが、あれはもうナンセンスもいいところであって、みんな一律にするという意味では大変意味があるわけだが、独学できる教科書というのが実は重要なんだろう。例えば遺伝学の教科書などでも、「隣の人を見てみよう。同じ顔であろう。だけど、よく似ているところもあれば、違うところもあるだろう」というようなところから始まる大学生向けの教科書がアメリカにはあるが、そのような普通の人の言葉で語れる教科書というものがぜひ出てきてほしい。それは、そういうことによって自分で興味があればどんどん果てしなく読んでいく。小学生のレベル、中学生のレベル、いろいろあると思うけれども、いろいろなレベルでそういうテキストブックをつくるということをやってみると、科学全体のレベルはおのずから上がっていくのではないか。メンデルの法則から始まってはいけないのではないかと思う。ただ、そういう教科書を書くということが日本の学会では評価されていないということも伺うので、それは困ったことであって、むしろそういう教科書をつくった人は、お金ももうかるし、褒められるという仕掛けが絶対必要であろうと思う。そういうものを具体的に実現していく中で、全体のレベルを上げていくということを今考えてもいいのではないかなと、テレビの体験を通してお話しいたした。 
   
・座長  確かに、科学者が普通の言葉で語りかけるというのも非常に必要なことで、それを今までは日本の科学者は怠ってきたと思う。もう一つは、科学ジャーナリストがもっともっと育ってほしいという気持ちもあるんだけれども、この前科学ジャーナリストの会で講演を頼まれて講演をした後でそういう話をしたら、「いや、科学ジャーナリストは社長になれないんですよ」とある新聞社の人が、そういう話もあって……。 
   
・委員  それは、官僚の世界で技官がなかなか偉くなれないというのと同じ。 
   
・座長  科学ジャーナリストを表彰するような賞というのは、日本には今のところはないのか。 
   
・委員  いや、私どもで、日本科学ジャーナリスト協会であったか、正式名称までは覚えていないんだが、ジャストジェイと言うんだけれども、そういうものをつくって、これは各社、全くフリーランスの人も含めてですけれども、細々と活動しているけれども、それで表彰したりいろいろやったりしているんだが、なかなか報道の中に載らないものだから、宣伝が行き届かない。 
   
・委員  ご存じの通り、アメリカでは、ザ・サード・カルチャーというムーブメントがブロックマンという編集者によって始められた。このザ・サード・カルチャーというのは、言うまでもなくC.P.Snowが1950年代に出した、イギリスの文化というものが理系文化と文系文化にすっぱり分かれてしまっていることを、二つの文化という言い方をしたときに、そのザ・サード・カルチャーというのは、まさに二つのカルチャーの分離というものを乗り越えた第三番目のカルチャーとしてという主張であって、ブロックマンはザ・サード・カルチャーという一つのアンソロジーを編集したと同時に、彼が編集権を握って、今まさにおっしゃったような専門家に普通の人たちがわかるような言葉で本を書けと。それは、さっきから出てきているように、学会では決して認められない仕事なんだけれども、にもかかわらずかなり名の通った、例えばスティーブン・J・グルードだとか、さまざまな第一線級の科学者に自分たちのジャーゴンを使わないで書かせるというシリーズをつくらせた。今はもう10何冊で、それをそっくり草思社が買ったわけである。アメリカでは、1冊について大体5万部というエスティメイションで、そのエスティメイションに大体合っているそうである。日本では、人口比から言うとちょうど半分なので、2万 5,000は期待できるのではないかというわけだけれども、今、草思社は猛烈に苦戦していて、でこぼこはあるだろうけれども、恐らく 5,000を超えていないんじゃないかと思う。そういう状況というのは一体何なのだろうと思う。 
   
・座長  確かに、サイエンスジャーナルはアメリカと日本では出る数が全然違うんですね、一般的に。 
   
・委員  今のお話だと、テレビの特徴というのが人間の認識プロセスに合っているということであったが、確かにそれはそうだと思うけれども、最後のリコメンデーションが要するに「独学のできる教科書を」というところが、極めておもしろいと私は思った。というのは、私も先ほどの岡部先生のお話を伺っていて、学力の低下、これは大変なことだと思っているんだけれども、私なりに学力というのは3つあるんじゃないかと思っている。その1つは、問題を解く能力である。要するに、そういう解く技術を持っているかどうか。それから、先ほど先生がおっしゃっていた、概念を理解する能力である。それだけだとまだだめで、3番目に、自分で問題を発見する能力というのも多分学力のうちだろうと思っている。この能力がバランスよくあるのが一番いいんだけれども、例えば町工場のところでおっしゃった話というのは、場合によると問題を発見する能力に優れた町工場のオーナーがいたのかなという気もしないでもない。そういう知的レベルを幾つかに分けて、それを獲得していくようなことを考えると、知的レベルというのはある種の人間のセンシティビティーの高さだ。最近、センシティビティーの低い人間がどんどん増えているような気がしていて、要するに無神経で、何となく無意識に支配されている時間が長いような人間が増えてしまった。これはひょっとすると、テレビというものが害をなしたんじゃないか。受動的なメディアというものから情報を得ることになれ過ぎると、それでもう何となくわかった気になる。ところが、本を読んで、その情報を自分の頭の中で自分なりにネットワーク化していくような能力を要求されると、ちょっと違ったある種の緊張感がないと情報が理解できない。緊張感がなくても情報がわかった気になってしまうテレビメディアの害が今あらわれているような気がする。 
   
・委員  おっしゃることも大変よくわかる。それで、私も最後に「独学のできる教科書を」と書いて、大変矛盾していると言われたが、本人も意識しているんだが、テレビというのはそのときが勝負である。むしろ、そこから先をもっと知りたい人は読んでくれということより仕方がない。これは役割の違いが相当あると思うので、テレビの先はやっぱり本だろうと私は思っている。アメリカにサイエンティフィック・アメリカンというものがある。あれは、後ろに記事があって、大変ビジュアルでいい面白い本だが、後ろにいくと、こんな本を読んだらいいでしょうというのが沢山挙がっている。ああいうものを本当に興味がある人は次から次へ読んでいくということになるんでしょうけれども、テレビ、ラジオ、新聞というのはまず最初の情報だと。そこから先を考えるということはやっぱり本ではないだろうかと私も思っている。 
   
・委員  先ほど科学ジャーナリズムのことで、昨日やはり同じような議論があったが、日経サイエンスがなぜ売れないのだろうかという話である。逆に日経エレクトロニクスの編集長さんが言われた大変面白いことがあり、日経エレクトロニクスは、アメリカと日本との人口比通りだと。もう一つは、アメリカには数学の勉強雑誌というのはないけれども、日本にもある。これが売れるのはなぜだろうか。だから、日本には文化がないというのではなくて、形がちょっと違うのではないかと考えた方がいいんじゃないかと思う。 
   
・政策委員  先ほど問題提起のあった、テレビというメディアを通じての知識の吸収が、人間の思考力と関係があるのではないかという点である。そこで先生に伺いたいが、1日のうちでテレビを見る時間の国際比較と、学力とを比較したような統計はないのか。 
   
・教授  勉強時間の国際比較みたいなものはある。勉強時間と、それからテレビもあったような気がするが、それは早急に提出します。(「第3回国際数学・理科教育調査の国際比較結果の概要」にありました。) 
   
・政策委員  そこには相関関係は見られるのか。 
   
・教授  ええ、やはり相関関係は、結構ある。テレビの時間が長いと学習時間に響いてくるので、子供がテレビを見る時間が長くなると学力は低下ということは、はっきりあらわれているように思う。(総じて、全く見ない生徒より、1−3時間見る生徒の方が上で、それからは単調に下がっている。ただし、「全く見ない生徒」は特殊な[家が貧しい、教育方針などの]生徒が含まれているので除外したほうが良いかもしれない) 
   
・政策委員  それもNHKのような放送ばっかりならいいんだろうけれども、必ずしもそうでない。 
   
・委員  テレビといっても、最近はテレビの受像機に向かっていてもゲームをやっているときもあるし、ビデオを見ているときもあるしとか。それから中身である、何を見るかという。今日は科学技術とか、そういうことに限ってのお話で、少し我田引水的であるが……。 
   
・座長  次に進みたいと思う。 
  次は、「次世代技術を生み出せない日本の構造的課題−メガコンペティションに打ち勝つ技術系人材の育成−」という大変重要な問題であるけれども、委員からご意見を伺いたいと思う。 
   
・委員  当社はいろいろな出版物を出しているから、どうもタイトルがやや大上段、立派になり過ぎて、中身が少し稚拙かもしれませんが、また科学技術に関して、私自身は素人ですが、外野から日頃感じていることをお話しさせていただきたいと思う。 
  それでは、お手元にある資料の3ページ目にある横長の資料1を見ながらお話を聞いていただければと思う。 
  この資料は、技術者のキャリア動線において、有望な技術者を生み出せない日本の構造を一応まとめてみたものである。今までもお話が出ていたように、個人の志向と連動しない文理コース選択であったり、志向と関係なく偏差値・学内成績で決まる学科専攻であったり、能力評価のない一律な初任給であったり、個人の希望が反映されない配属・異動、あるいは個人の技術・能力の評価システムがないということがずっと続いて、要はこれは技術系に限らないんですが、日本の場合、多くの人材が歩んでいくキャリアにおいて自己責任による選択が、多少大袈裟ですが全くと言っていいほど、行われていないというのが実情ではないかと思っている。 
  こうしたキャリアの推移から感じるのは、教育のプロセスの中でも、企業の中でも、個人差をつけない、あるいは個人の顔が見えないことが最大の課題ではないのかと考える。偏差値至上主義とか、これは先程からいろいろ問題点を指摘されているが、学科試験の結果のみを偏重している大学受験はその好例だし、一部の大学では改編の動きがあるようだが、世に言う上位校が変えようとしていると言う話は余り聞こえてこない。欧米では、スクリーニングのためのテストがあるものの、最終的には面接とか、個人の考え方や適性を見て合否を判定すると聞いている。 
  就職の際の教授推薦制度も同様で、過去に比べて推薦の効力も相当落ち込んできているけれども、受験同様、上位校ではまだまだ企業に入るのに、推薦の力というのは大変大きなものがある。詳しくは後でお話しをする。 
  一方、小学校や中学校の教育課程においては、実社会との接点が大変希薄になっていて、工場見学というものがあるけれども、どちらかと言えばまさに施設、箱の見学にとどまっていて、そこで働いている人、技術者であったり、ホワイトカラーであったりという人が実際にどういう仕事をしているのかということは子供には余り見えないような形になっている。このような実状である為、ぜひ実社会との接点をもっと増やしていったらいいと感じている。 
  活力ある技術者の輩出に向けた提言というほど大げさなものでなくて、案というレベルですが、これは最初のレジュメの2ページにタイトルをまとめてある。キーワードは、横長の表にもあるように、「市場原理」、「自己責任」、「多様化」の3つではないかと思っている。大局的には、個人が責任ある選択ができる年齢は高等教育以降だと思うけれども、今までのやり方を大幅に変えて、市場原理の中で競争する方向を今後は考えていかなければいけないのではないかと思っている。大学間の垣根を取り払ったり、大学と企業の間をガラス張りにして、個人がもっと自由に選択できる仕組みに変える必要があるのではないか。具体的には、4つの観点をこれから少し説明したいと思う。 
  観点1の自立的な就職・転職意識醸成についてですが、先ほど少し申し上げたように、初期教育課程からの産業社会との接点が必要である。小学校から大学までの中で産業社会を観察、経験する機会をつくること、接点をつくることが大変必要で、個人のイメージに偏らない職業選択につながることだと思う、今後の日本の牽引車になると言われているベンチャー企業や成長産業に人材を送り込むのにも効果を発揮するのではないか。体験学習という言葉がキーワードになると思う、その好例がインターンシップではないだろうか。 
  具体策の一つとして、インターンシップの自主規制撤廃がある。日本においても、大学の就職協定が撤廃となったことによって、ここ数年浸透してきたインターンシップだけれども、今のインターンシップというのは、一応採用とは直結しないということをルールにしているため、アメリカとはかなり違う。アメリカでは、資料2をご覧いただければわかるように、インターンシップを通して採用した企業は3割を超えており、このことがある意味でのミスマッチの解消につながっている。企業によっては、インターンシップの経験者しかとらないということもあるそうである。そういう意味では、インターンシップは、単に経験であって採用とは直結しないということでなくて、自主規制を廃止し就職との直結を容認することが必要なのではないかと考えている。 
  具体策の2で、体験学習的な授業とか、体験学習主導スクールの考案・普及。これは、最近の私立の小学校や塾においてもそういうカリキュラムを導入して話題を呼んでいるということを見聞きするが、これは大変喜ばしことだと思っている。 
  日本版「National Take Your Child to Work Day」の設立、要するに企業参観日というものをつくっていったらいいのではないか。なかなか実態を知ることができないので、これを補う手段としては大変有効ではないかと考えている。 
  次に、多様な教育システムの是認ということである。現在の教育改革というのは、いろいろな問題があると思うけれども、概ね一律・均質性を意識し過ぎて、全体のレベルを下げる傾向にあると考えている。より高いものや新たなものを学ぶ機会を摘み取るのではないかということにも危惧を覚えていて、最近のゆとり教育の功罪をめぐる議論もこの点に問題があるのではないかと思っている。多様な人材を生み出すためにはやはり教育のあり方も多様にすべきで、先ほどからお話が出ているような文系・理系という区分けは、画一的な一つのパターンを促している過去のシステムであって、今までのやり方だと思う。もちろん、風穴があきかかっているケースもあると思う。 
  具体策の中で、文・理という区分けの見直しというのは、先ほどもお話があったけれども、世界の中でここまで明確に区分しているのは、日本がかなり際立っており、世界の中ではここまで極端には区別していない。昨今の金融工学を考えると、数学的に株価動向の予測が必要で、要するに経済学と数学とを組み合わせて新しいビジネスが生まれているわけであって、このような事実を考えると、文理の垣根を外すことが必要だと考えている。先ほど話があったように、高校生で文・理の選択を機械的に迫られる現状も考え物である。話が多少ずれるが、このごろ進学とか就職を決めるのに、世の男子学生のほとんどは女性に聞く。彼女がいれば、「おれはこことここに受かったけど、どこがいいと思う」とか、1番目に聞くのはまず彼女である。彼女のいない人はお母さん。これは一橋の先生がおっしゃっていたこと。そのような選び方をして、例えば偏差値の高いところ、あるいはかっこいいとこを世の中で現在認識されている大学・学部・学科に行くという行動が続いている限りは、多様な選択というのは難しいのではないかと思っている。 
  先ほどの文・理の垣根を取り除くという事例では、資料3に、立命館大学で経済・経営学部と理工学部を融合した「インスティテュート制度」を導入しましたがチャレンジしているということをつけ加える。 
  今まで話してきたように、職業選択をサポートする仕組みの構築というのも大変大切である。アメリカでは、大学のキャリアカウンセラーやキャリアセンターというものがあって、個人の適性を見極めた上で職業選択をサポートする仕組みがたくさんある。日本ではまだ教授推薦ということがあると申し上げたが、個人の適性を見極めた上でサポートができている状態ではない。 
  その意味では、推薦制度の改革とオープン化ということを一応提案しているけれども、現実は、技術者に限らず、一般のホワイトカラー、サラリーマンも自立的になれないマッチングシステムが、まだ今までの社会システムということになっているだろうと思う。 
  資料4を見ると、推薦制度を活用する学生ほど研究志向が強く、キャリア意識が多少偏っているような気がする。研究志向が強くて、その技術を社会へ送り出したり、その成果が個人あるいは企業に報酬をもたらすというビジネス的志向に欠けていると思われる。このようなことから、大学時代同様にずっと研究していたいというモラトリアム的な意識ともいえるのだろう。先ほどアメリカの大学との比較で、東大、東工大とMITの比較が別の資料に出ていたけれども、もっと多様なキャリアイメージを日本の学生にも持っていくようになれば、大変明るいのではないかと考えている。ただ、推薦制度の利用率は上位校ほど高くて、表現が適当ではないかもしれないが、大企業と上位校とのアンダーグラウンドなパイプが存在しているということはあるだろう。それは、例えばスタンフォードとシリコンバレーの企業の関係とか、あるいはコロンビア大学のビジネススクールとウォールストリートとの密接なつながりとは意味合いが大きく違っており、推薦制度の中にはアメリカのように「専門性」とか「学んだ内容」とのリンクはなくて、「入学時の偏差値」という要因を色濃く残している。そういう意味で、推薦制度を廃止してみたならば、また一つ新しい道が開けるか、もっと混沌としてしまうか、わからないけれども、今までかなり機能してきた推薦制度というものを見直す時期に来ているのではないかと考えている。 
  もう一つ、これは観点の2になるけれども、企業と個人の対等な関係を形成する。これは、理系に限らず、日本的な課題だとも思うが、要は企業従属的雇用からの脱却。今までの日本の雇用というのは、正社員として一律一括に採用して、長期勤続を前提に、企業が働く個人を拘束して、企業側の意思による配置を行って、選抜を非常に長期に時間をかけて行っている。 
  これは、資料5をご覧いただくと、図表2の昇進プロセスにのっているように、日本は一番左で、真ん中がアメリカ、右端がドイツで、初めて昇進に差がつく時期も、個人に差をつけるの時期も、日本は非常に遅らせている。昇進の見込みのない人が5割に達する時期は、日本では22年である。昨今そういうことが言われ出したけれども、この雇用システムの結果として高コスト構造を生んでいる、今後変革されていくのであろうけれども、今では、ある意味で個人と企業が自立したり、対等な関係で契約できるシステムではなかった。個人の価値観を転換させると同時に、新しいシステムの方へ移行していくことが必要なのではないかと思っている。個人差、格差の容認ということを今まではしてこなかったし、できづらかった、従業員を大切にするという建前の中で、昇給・昇格などにおいて格差をつけることを極めて避けてきたわけであるが、この事が能力の高い人材の成長を抑圧し、適性の低い人材を社内に滞留させるということになってきたのではないか。今後は、能力主義、成果主義という言葉だけではなくて、格差を是認する、あるいはそれを奨励するという施策をもっと出さないとまずいと思う。 
  具体策の1だけれども、これは初任給格差の是認ということで、今までの一括一律の採用と同賃金ということを少しでも変えていったらどうか。先ほど言ったように、入学時の偏差値でほとんど一生が決まってしまうということではなくて、まさに大学で何を学んで、どのスキル、知識を得たかによって格差がつく方向を目指すべきではないか。 
  資料6に、初任給に格差をつけ始めた企業の例が新聞に載っていたので、後でご覧いただければと思う、まだこれは成功をしていると言うよりは、そういうチャレンジを始めた企業が出始めたということで、まだ事例は極めて少ないと思う。ただ、初任給に格差をつけるということは、逆に言うと、企業の給与制度を全部変えるということだから、これは大手術になるので「言うは易く行うは難し」だろう、しかしこういったところも変わっていかないと、今後21世紀型の技術者を生むということは難しいのではないかと思っている。 
  具体策の2として、成果に見合った報酬システムの確立について、今まで、これは理系・文系に限らず、社長賞で金一封とか表彰状だけで大変モラルが上がるとか、モチベーションを維持できるということがあったが、これは終身雇用としての忠誠心の中で成立してきたものであって、今後は、新製品開発だったり有望な特許取得などの高い成果を上げた人材には、それに見合った報酬を支払うシステムがもっと整備されるべきだ。昨今、いろいろ法律も変わって、特許取得の個人へのペイバックのルールも変わってきているが、それもアメリカに比べればまだ大変な開きがあると認識している。こういうことができる企業こそが実は人を大切にしていることだと思っているけれども、まだ日本全体の社会的な認識からすると、これからと言うところもある、逆に言うとアメリカではそういう状態になっているわけである。 
  資料7に、日本における幾つかの事例を挙げている。新たな価値を評価するインセンティブ制度などソニー以下何社か発表されている範囲で挙げている、これは発表されたりチャレンジを始められたということでまだ、緒についたばかりである。 
  観点3は、社会的技能形成の仕組みを構築することについてで、企業内技能形成から社会的技能形成へシフトすべき。長期雇用を前提とした、企業内の技能育成の仕組みは、先ほど申し上げましたように、年功序列賃金などと組み合わさって、高コスト構造で、今後維持することは大変難しいだろうと思う。一社の中に限られた技能ではなくて、社会性を持った技能にしていくことで、技術者のスキルや能力の標準化や人材の流動化がそこからまた促進していくのではないかと考えている。 
  具体策として、日本版PE。これも資料8に新聞記事がつけてある。アメリカのPE制度、資格制度は参考になるもので、プロのエンジニアを認定するもので、工学系の技術分野を広くカバーすると聞いている。この技術取得には4つの条件があって、工学分野に関する教育を受けていること、定められた基礎的技術試験をパスしていること、その工学分野で4年間の実務経験があること、そして資格試験をパスすること。また、その資格を取得しても、毎年トレーニングを受けないと、継続されない。技術の進歩を常に把握していることが必要になっている。日本にはたくさんの資格があるが、日本の企業は今までは資格よりは自社に通用する経験ということで、いわゆる世の中の資格を必要としない傾向があって、これが資格とキャリア、能力、スキルが連動しないことにつながっている。どちらが先かという問題はあるけれども、そういう意味ではこのPE制度で実務経験と組み合わさって与えられる資格制度を参考に、大学の教育の水準をそろえるという施策も検討されている。 
  具体策の2として、日本版コミュニティカレッジ構想の推進について。IT分野を中心としたハイテク分野における労働力不足というのはアメリカも日本も大変深刻であって、既存の職業訓練校における技能教育はこうした面には全く貢献できていないと思う。日本では、専門学校とか工業高等学校などがこの部分を支えているけれども、量的にも質的にも間に合っていない。アメリカのコミュニティカレッジは、国家主導で大変安い費用で、すべての人間に対してオープンな仕組みになっていて、今いい仕組みで回っているという。以前はマイノリティーの救済として始められていましたが、現在はブルーカラーからテクノロジストの育成にシフトしている。日本版コミュニティカレッジ構想は経済戦略会議の中でも提唱されているけれども、是非これを実現していければと思っている。 
  もう一つは、技術者の社会的ステイタスの向上ということである。日本の技術者の多くは、起業とか独立という野心に乏しく、企業内に閉じこもった人材、組織に属している人材が多い。それと社会的な評価も決して高くない地味な存在のように考えられている。 
  これは、資料9をご覧いただくとわかる。日米の給与水準、賃金比較をしている表であるが、日本の年収を見ると、確かに研究開発以下、要するに技術者と言われる方の年収は、購買力平価に換算してアメリカを 100としたときに、日本の技術者の賃金はアメリカの賃金よりも下回っている。一般的な職種においてアメリカの2倍ないし3倍を払っているという高コストの日本の現状で、技術者だけがアメリカの水準を大きく下回っていると言える。やはり企業の、日本的な年功序列賃金の中で差をつけないということに起因することだと思う。今後は高いレベルの技術者の認定をする仕組みをもっと機能させていかないと、ますます悪いスパイラルに入っていくのではないかと思っている。そういう意味では、先ほど科学ジャーナリストの表彰という話もあったが、表彰制度を含めて、社会的にもっと有能な技術者のスターをつくる、取り上げていくという仕掛けが必要なのではないかと考えている。 
  最後に、労働市場の機能の活性化ということで終わりたいと思う。労働市場があるかないかという議論をこういうところでしなくてはいけないような不完全な状態である。今までの新卒一括大量採用と雇用維持だけでやってきたわけだから、ある種の労働市場がないと言われればそのとおりで、ここに来てやっと政府の方も雇用の流動化を促進するという方向に向かい始めたので、これは個人の価値観の変化も大変必要だけれども、活性化した労働市場がないことは、その中でよりよい技術ができていかないということとも密接に絡んでいる。転職意向を持ちながら具体的なアクションを起こせない技術者というのは数多く存在していて、これは市場がないということにもよる。だから、自分の市場価値が幾らなのか、自分のキャリアは他社で、あるいは社会でどのように発揮できて、幾らで買ってもらえるかということがわからないわけであって、職業別の給与相場を形成したり、あるいは企業の求める能力・スキルをもう少し普遍的に的確に翻訳する技術を開発して、これも一社だけのものではなくて、キャリア・能力・スキルが共通の言葉で語られ評価されていくようなことにならないと、単に労働市場をつくろうと言っても、それもまた途中でとまってしまうということだと思う。最初に言ったように、自己責任による多様な選択というシステムが機能していないことが一番大きな問題で、21世紀に通用するということで言えば、やはり市場原理と自己責任と多様性という観点から、教育界も、あるいは企業も、大きな変化が大変必要ではないかと思っている。 
   
・委員  今のお話を伺っていて、例えば推薦制度の廃止とか、資格と能力が連動していない日本に比べてアメリカのようにより資格試験的なものを繰り返し行っていく制度をつくるとか、再度の転職のチャンスをつくるとかというお話は、まさに非常に多角的に、しかもかなりの改革が必要なのだと思います。科学技術者を育てる意味でいいことだなと思うのですが、一つだけちょっと、その前にというか、科学技術者になり得る、そういうことに耐えていけるというか、こういう改革ができたときにこのことで人々が奮起してやれるようになるのかなという部分で心配がある。 
  実は、もう10年ぐらい前になると思うんだけれども、総務庁の青少年問題審議会で、普通はいわゆる事件を起こす子供たちとかということが問題になるんだけれども、引きこもり現象、青少年アパシーが問題になって、要するに突拍子のないことをする人間が出てしまうのではなくて、何もしないで下へ沈んでいく人間が増えてきた話があった。この人たちの傾向というのは、非常に如才なくて成績も優秀なんだけれども、例えば留年を繰り返してみたり、大学院へ行ってみたり、そしてまさに推薦で企業の中に入って研究者志向を持つ。これは実は、能力的にそれがあるからとか、研究志向が強くて何かを開発したいという傾向があるのではなくて、要は世間の荒波にもまれたくなくて、自分が持っていることをぬくぬくとやれる水槽の中の金魚のような生活の場をずっと維持したいがために、そういう方向にいってしまうという、そういう結論というか、見解が出たんです。推薦を希望する人たちが実は研究者志向が非常に強いというデータ又は、推薦ではなくて会社に入った人と、推薦で会社に入った人とで、これは評価は難しいと思うんだけれども、どっちの方が最終的には使い勝手がよかったのかというか、成功したのかというようなデータがもしおありであったら、教えていただきたいんだけれども。 
   
・委員  そういうデータはないと思う。 
   
・委員  企業のトップの方たちが何かおっしゃっているようなことはないか。推薦して採ったんだけれども、推薦しないで来た人の方がいろいろなことをよく研究してくれたとかという話はないか。 
   
・委員  データとしてはないが、当社の事例で話すと、当社は技術系の会社ではないが、技術者の採用を行っている。その一人は、自分が専攻の選択ミスをしまったが、その事は4年あるいは研究課程に行くまでわからなかった。そして合わなくなった理由は、その子の場合は酸性雨の研究をしていて、専門行った途端に山に登って雨水をくみに行くことを延々とさせられたことで、嫌になってしまったと言っていた。多少ずれているのかもしれないが、自分が本当に何をしたいかということがわからない学生が多い中で、自分で判断すると言った意味からすると、推薦でない人たちの方が、多少柔軟でチャレンジ精神があるということが言えるかもしれない。しかし、企業が本当に高度な専門を求めたとした場合には、このよう人たちはいずれにしろ外れてしまうことが多い。 
   
・委員  科学技術を考える懇談会なので技術という言葉がいっぱい出てくるんであろうけれども、資料1で「有望な技術者を生み出せない日本の社会構造とその改善策」という分析があるが、ここに書いてあることはおっしゃられる通りで、これから導入しなければならない考え方として、市場原理、自己責任、多様性だというのはよくわかるんだが、有望な技術者を生み出せないということに余りに狭義というか、狭い話ではなくて、日本が抱えているある種の問題、どういう言葉が適切なのかはちょっとわからないが、例えばオリジナリティーというか、極めて独創的なというふうな広義の文章にしていただきたいと、お話を聞きながら思った。 
   
・委員  今日は、先生のお話は学力の問題であったんだが、私は大学の学部の教育から大分離れていてピント外れかもしれないが、今、大学の現状を見ていて、特に学部の段階で、学生の勉学というのか、知的なものに対するインセンティブが非常に下がっているということに対して大変危機感を持っている。そこのところを何とかしたい。それで、今、河野先生のお話をいろいろ拝聴して、インターンシップというのは大学のレベルに行ってからの話であるか。 
   
・委員  そうである。 
   
・委員  私は、日本の場合には、インターンシップももちろん結構なんだが、その下が問題じゃないかと。すなわち、大学に進学するときにずるずるっと入ってしまうというところが一番問題で、そこのところを中学から高校レベルでもう少し何か目覚めさせる工夫ができないだろうかと思っている。これもまた初中等教育には全くの素人なんで少しピント外れかもしれないが、どうも中学3年、高校3年の6年間というのが非常に無駄なような感じがしておって、ここのところを4年ぐらいで勉学の方をやって、2年ぐらいは何か社会体験というようなことを少しさせる方が、大学の立場からすると、ある程度自分でインセンティブを持って大学へ入ってくるようになるのではないかと思っているわけである。私は旧制の最後の学年なんだが、昔の旧制高校で非常にやかましく言われたのは、一生涯に何をやるかを3年間で考えろ、授業なんか一切出るなということをよく先輩あたりから盛んにたたき込まれたんだけれども、今はゆっくり自分がどういうことをやろうかということを考える時間が全然ないんですね。昔のようなタイプでのんびり3年間も時間をかけてやるというのはとてもできない相談だと思うんだが、中学3年、高校3年ぐらいのところをもう少し効率よくやって、それで余った時間をどういう形でやるのがいいのか、私は余りよくわからないんだが、例えば体験学習というものをうまく取り入れられないだろうかとよく思っている。 
   
・委員  ヨーロッパでは、大学に入る前に多少実務経験みたいなことをやっている国がもあるようである。今、大学生の数というのはすごい数で、30年ぐらい前と比べると、1965年の大学生の数は全18歳人口に占める割合は10%ぐらいだったんだけれども、今は短大を入れるともう50%を超えて60%に近づいている、そういう意味では18歳人口の10%の人の教育なのか、60%の人の教育なのかということが、いろいろな問題を考える時に複雑にしているのではないかと思う。 
   
・座長  大学教育は確かにそこが非常に大きな問題で、多分廣田先生の頃は大学進学者は7〜8%、10%以下じゃなかったか。 
   
・委員  我々の世代だと、中学と今の大学と大体同じぐらい。 
   
・座長  4年制大学が15%を超えたのが、たしか大学紛争の始まった年、1969年か。そのときに4年制に来る人が15%を超えて、エリート教育からマス教育へ移った。だから、大学紛争というのはある意味では象徴的な出来事かもしれない。大学生が増えたことによって、自分の将来が極めて不確かなものになってきたということがあったんじゃないかという気もするんだが、この問題は非常に難しい問題である。 
  次回は、科学技術政策と社会ということをテーマにして、意見発表をしていただく予定である。 



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