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21世紀の社会と科学技術を考える懇談会
―  第7回会合議事録  ―

1.日  時:平成11年9月3日(金)  10:00〜12:00 

2.場  所:東海大学校友会館望星の間 

3.出席者:
  (委  員) 井村、石塚、吉川、村上、雨宮、石井、今井、宇井、クリスティーヌ、佐々木、立花、中島、中村、廣田、松尾、薬師寺、安井、米本、鷲田の各委員
熊谷議員、大崎政策委員、貝沼政策委員
  (事務局) 科学技術庁  青江科学技術政策局長  他
文部省 工藤学術国際局長

4.議  事

・座長  本日は、「21世紀の科学技術の展開方向」その2といたして科学者・技術者の社会的責任と倫理、研究開発のあり方を中心にご議論をいただきたいと考えている。 
  討論に入る前に、ワーキンググループの結果について簡単にご報告したいと思う。 
資料7―2をごらんいただきたいが、去る8月21日、22日に京都の国際日本文化研究センターでワーキンググループを行った。このワーキンググループでは、まず座長代理から、欧米における科学と技術の発展過程と対比して我が国における明治の近代化以降の科学技術の受容についての基調報告をしていただいた。資料の一番最後のページ、5のところに先生のご報告のレジュメがあるので、後でお目通しをいただきたいと思う。 
  引き続き、科学技術とは何かということについて議論した。いろんな意見が出たが、科学技術というのは、科学に裏づけられた技術のみを指すのではなく、科学及び技術の総体というふうに定義すべきであろう、そのように結論した。ただ、非常に細かいところを議論するといろいろ問題も出てくるので、余り用語の意味を厳密に考える必要はないのではないかというご意見があった。 
  引き続き、日本の科学技術の受容について議論を行った。急速な近代化が求められていた明治初年には、科学よりもむしろ科学の生み出す果実、技術を追い求めるということはやむを得なかったのではないか。しかも、日本はそれに成功して急速に近代化ができたのではないかというようなご意見もあった。しかし、やはり科学の本質についての理解というものがまだ不十分ではないか、あるいは何か我々はまだそういう点で足りないものがあるのではないか、ということが二、三の方からご発言があった。この点については、さらに引き続き考えていく必要があるであろうというような結論である。 
  それから、今後の課題ということで、教育について議論を行った。これは、この懇談会でもいずれもう少し議論をしていただくことになると思うけれども、初等、中等教育、大学の教育、あるいは大学院のあり方等について非常に活発な意見の交換をしていただいたが、配布資料にその要約が載っている。結論を得るというところまではもちろん至っていないけれども、これについては後でお目通しいただいて、また教育のことを議論するときにいろいろとご意見をいただければ幸いであると思う。 
  それでは、本日の主題に入らせていただく。 
   
・委員  昨年の12月ごろだったかと思うが、ちょうど休みの日にたまたまテレビを見ていたら、国際日本文化研究センターの所長をしておられる河合隼雄先生が、白洲正子さんという方をご存知の方は多いと思うが、その自宅に訪ねてインタビューされている、そういう場面が出てきた。このイタンビューは秋、恐らく晩秋だったような感じがするが、ご承知のとおり、白洲さんは昨年の暮れに亡くなってしまわれたわけで、このインタビューはほんとに亡くなられる1カ月ぐらい前だったんじゃないかというふうに思う。そういうこともあったんであろうか、私、白洲さんを余りよく存じ上げないものだからわからないが、白洲さんは余りお話になりませんで、もっぱら河合さんが話をされるというようなインタビューであった。 
前後の脈絡をよく覚えていないんだが、河合さんがちょっと言われたことの中で次のような発言を非常によく記憶している。それは、最近、天下国家を論ずる人が大変多くて困っている、自分のことも十分できていないのに天下国家ばかり論じたがる人がいる、ということをおっしゃったわけである。河合さんは、ユング心理学の第一人者であって、ご自宅でカウンセリングをやっておられる。あるいは学術審議会、その他でも大変ご活躍であって、恐らくこの発言はこういったご経験を踏まえた上の発言であったかと思うが、私、ちょうど科学技術会議の政策委員会に参加させていただいたころであって、それ以来、この河合さんの発言が何かにつけてひっかかっておって、肝に銘じなければいけないというふうに思っている。 
  今回の懇談会は、先ほど座長がおっしゃったように科学者・技術者の社会的倫理云々ということだが、以上の河合先生の発言等を考えて、こういった課題を討議するには、本物の科学というか、本物の技術、生きた科学あるいは生きた技術、そういうことに直接携わってきた研究者あるいは技術者の経験が基本的な題材であるべきだというふうに私は確信している。それをいろんな分野の方々にじっくり聞いていただいて議論を進める、というのが最上の策であるというふうに思っている。私が本物の科学をやったかどうかというのは皆様方のご批判に任せたいと思うが、そういうことで社会的責任一般というのを論ずる資格も能力も私にはとてもないので、今日は自分の取り組みについてお話しさせていただいて、責めを果たしたいと思っている。きれいごとをできるだけ話さないように、一切さらけ出してお話しさせていただきたいと思う。いろんなご批判は十分甘受するつもりでおるので、どうぞよろしくお願い申し上げる。 
  お手元の配付資料7‐5‐1に5つばかり項目を掲げてあるが、その順に従ってお話しさせていただく。右側の枠の中は、私の行ってきた研究活動の一端であり、左側の項目の説明になるかと思い、自分のことを題材にするという方針に沿ってやらせていただく。 
  私の研究は、いわゆる基礎研究という範疇に入るかと思うので、そのことをあらかじめお断りさせていただきたいと思う。 
  最初に、研究を遂行する責任であるが、研究所に勤務している場合は問題が比較的少ない。当然、研究することが任務であるから問題は少ないかと思うが、大部分の日本の科学者は、これは世界的にもそうかと思うが、大学に勤めているわけである。そこでは、当然のことだが、教育と研究の兼ね合いが問題になってくる。大学院のような高等教育の場合には、教育と研究とは一体であるという主張をよく聞くし、私もその意見に肯定的である。しかし、それですべてよろしいというわけではもちろんないわけである。現在、既にそういう傾向になってきているが、これから少子化がどんどん進む、リカレント教育に対する需要がふえてくるということであって、大学院でも一部そういうことが当てはまると思うけれども、特に現在の学部教育は根本的に改める必要がある。教育の問題はワーキンググループでも少しお話しいたしたが、そういうことである。 
  2番目の研究課題の設定であるが、基礎研究の場合には研究者の興味というのが一切の源であるということを強調したいと思う。ただし、研究者といえども社会的な存在であるから、その興味というのは周辺の状況が複雑に影響してきており単純な事柄ではないが、根本は研究者の興味に尽きるというふうに思う。しかし、その興味から出発して研究をやり遂げる場合にそれなりのステップが必要不可欠だというふうに思う。こういうステップをちゃんと踏まないのは責任のある研究者の態度ではないというふうに思っている。 
  用いる方法の検討に始まって、場合によっては予備実験をすることは必要不可欠である。さらに大切なのは、学術的に一体どういうインパクトが期待できるかということを考えること。応用面につきましては、ケース・バイ・ケースであるけれども、やはり配慮することが必要である。さらに、社会的にどういう制約があるのか、ないのかといったこと、こういうことは研究を始める前にすべて見通してしまうことはもちろん不可能であるけれども、こういうことに意を用いるのと用いないのでは雲泥の差があることであって、ここに責任の一端があろうと思う。 
  私は、比較的簡単な分子の構造を研究するということをずっとやってきた。構造というと静的なもののように聞こえるが、もちろん分子は熱運動をしているし、決して静止した堅い物体ではない。さらに、私は化学の本質は物質の変換にあると思っており、そういうことから化学反応の過程で出てくる中間体の分子構造をやろうということで、研究をその点に集中してやってきた。 
  ご存知のように、化学結合というのは一対の電子で形成されているわけであって、化学反応は化学結合のつけかえであるから、いろいろな反応のタイプはあるけれども、大抵の場合、反応の過程では対が壊れて、対をつくってない電子が出てくるわけである。対をつくってない電子、不対電子といっているが、こういう不対電子を持つ分子をフリーラジカルと化学では呼んでいる。したがって、反応中間体の大部分はフリーラジカルである。 
  そこに例としてCH3  、SiH3  という2つの例を挙げてあるが、メチルラジカル、シリルラジカルと呼んでいる。これと関連ある安定な分子はよくご存知のメタン、これは炭素にHが4つついたCH4  、シリルに関係あるものはシラン、SiH4  、両方とも正四面体構造を持った分子であるが、そういうものからそれぞれ水素を1個取り去るとメチルラジカル、シリルラジカルが出てくるわけである。 
  お手元に、ちょっと余計だったかもしれないが、「アニュアル・レビュー・オブ・フィジカル・ケミストリー」というものに書かせていただいた私の研究のレビューをお配りしてある。きょうは時間がないのでディテールはちょっとお話しできないが、ついでに、アニュアル・レビューというのは、アニュアル・レビューズ・インコーポレーションというノンプロフィットの機関でカリフォルニアにあり、現在、30ぐらいの分野についてこういうアニュアル・レビューを年1冊発行している。私の場合はもちろんフィジカルケミストリーだが、50年くらい続いており、各巻の最初にプリファトリーチャプター、巻頭論文が著者の写真入りで掲載されることになっている。50巻のうち日本からのプリファトリーチャプターには、水島三一郎先生が1954年ごろに日本の物理化学のレビューを書かれたものがあり、私のは2番目である。ちょっと専門的になるかと思うが、お暇なときにお目通しいただければと思う。 
  3番目の研究遂行についてだが、研究を始めるといろいろ改善しなければならないことが出てくるが、順調にいくと成果が次々出てくる、非常に気分のいい研究ができるというわけである。そういうときに、研究にも区切りがあるということが大変大切だというふうに私は思っており、研究自体はもちろん終わりがないわけであるけれども、個々の研究課題に対してはどこかでけじめをつけるということをいつでも心がけてきた。 
  それから、研究の真髄といってよいか思うが、それは、いろんなことを考えてスタートしたにもかかわらず、全く予期しない展開が出てくるということである。新しい展開を見つける能力ということもよく言われており、セレンディピティーという外国語で呼ばれている。そういう局面が出ているにもかかわらず見過ごしてしまうというようなこともあるが、この能力があると、そこから全くこれまで予期されなかったような新しい方向が出てくるということがある。これがまさに研究の醍醐味であるが、昨今言われているような3年とか5年の中期目標、そういう期限を限ったようなものではこういう展開は全く期待できないわけであって、その辺、一研究者として強く主張しておきたいと思う。 
  予想しないことの中には、もちろんいいことばかりではなく、悪いことも出てくるわけで、十分準備したつもりが予期せぬ困難さのために挫折するということがしばしばある。こういう場合に、どうも日本人は自分も含めて粘り強さが足らないわけであって、あっさりあきらめて、後でしまったということになることがある。そういう非常に厳しい場面でも十分検討して、断念するか転進するかという決断を適切に下すことが大変大切である。昨今ではいろいろな社会的な問題も出てくると思うので、こういうことに真正面から対応するということは言うまでもない。 
  それから、結果が出てまいると、よく評価ということが問題になる。昨今、いろいろ議論されているけれども、学問の世界では学会での評価が一番恐ろしいものであって、日本の学会などは遊び半分にやっているように見えるかもしれないが、実は、私ども、学会で発表するということ、評価にさらされるということを十分経験してきている。こういう評価は、すぐにあらわれなくても、例えば科学研究費の配分とか人事とかというところにはね返ってくるわけである。ただ、日本の学会の評価のプロセスというのは、ややはっきりしてないところがあって、今後は合理性と申すか、透明性、そういったことを入れていく必要があろうかと思う。 
  研究成果の発表には、国内的な学会、国外的な学会がある。国内の場合には、何のかんのいっても、お互いによく知っているわけで、なれ合い的になりがちであり、その点、反省しないといけないと思うが、自分の経験では、分野の違う方に向かって発表するというのは非常に有意義であったと思う。それから、もっと一般の社会の方々に成果を話させていただく、という機会がなかなかないのであるが、昨今は積極的にそういう場を求めて、そういうところでいろいろと聞いていただくのは大変大切だと思う。外国の学会、国際会議というのは、私などは緊張の連続であって、全く想像もつかない質問がよく飛び出してくる。 
  成果に対する評価の尺度というのは、これもよく言われることであるが、ちゃんとした国際会議での招待講演の数などがその一つの尺度である。 
  賞はノーベル賞がトップかと思うが、これも権威のあるもの、権威のないもの、いろいろだけれども、これも尺度として割合目に見えるものである。 
  それから、日本には余り多くないようであるが、外国にはレクチャーシップというようなものがあって、これも評価の一つに挙げることができるかと思う。 
  学会というのは、呼ばれてただ出席するというだけではなくて、主催するということが必要である。そういうものを主催して、すぐれた業績を上げた方に招待講演をしていただく、そういう機会を提供する、あるいは賞やレクチャーシップの場合も、適切な方を賞に推薦するということは重要な責務である。私、ノーベル化学賞候補者の推薦をここ十年ぐらい毎年依頼されており、これは大変な仕事である。 
  発表の次の場は論文であって、これに対しては引用回数とかインパクトパラメーターとかというのが定量的に求められており、よく知られていることである。 
  それから、研究費がどれぐらい獲得できたかということも一種の業績評価になるかと思う。 
  2ページ目に参って、研究の意義、研究のアカウンタビリティーということも言われております。研究の意義というのは、なかなかデリケートな問題であって、特に基礎研究の場合は大変難しい、慎重にやらないといけないというふうに思う。よくご承知だと思うが、何十年もたたないとその意義が明らかにされなかったという例も決して少なくないわけである。しかし、大抵の場合、学術的にインパクトがあったかどうかということはすぐわかると思う。しかし、ほんとの意義をちゃんと査定するには十分慎重にやらないといけないと思う。社会的な意義とか、あるいは実用面での意義はもう少しわかりやすいのではないかと思う。 
  私どもが測定した先ほどのメチルラジカル、シリルラジカルの赤外スペクトルであるが、この赤外スペクトルからこれらの分子についての情報あるいはこれらの分子、中間体が関与した化学反応機構について非常に重要で興味ある情報が幾つも得られた。しかし、それだけではなく、こういう基本的で簡単な分子の場合には、我々の測ったスペクトルを手がかりにしていろいろなことがやられてきている。最近、ネプチューン(海王星)の大気にメチルラジカルが存在するということがフランスの天文学者によって確かめられたわけであるが、そのとき使ったスペクトルは私たちの測定したものである。 
  それから、プラズマ科学にも利用され、太陽電池に使われているアモルファスシリコンをご存知だと思うが、これは先ほどのシランという分子を放電で分解してつくるわけであるが、SiH4  からアモルファスシリコンにいく過程は、十数年前には全く水かけ論ばかりではっきりしなかった。そこで、我々の赤外分光法を適用したところ、SiH3  、シリルラジカルが非常に重要な中間体で、しかもラッキーだったことに、SiH3  がたくさんある状態でつくったアモルファスシリコンが良質であるということがわかり、思わぬところで役に立ったわけである。 
  それから、よくご存知だが、最近、いろんな物質の表面をダイヤモンドの膜でコートして、耐腐食性を向上するということがなされているが、その際にもメチルラジカルが非常に重要な中間体ということで、こちらの方はスペクトルが必ずしも有効ではなかった面もあるが、実際に使われたケースもある。 
  最後に、社会的責任というのを5番目に書いた。一研究者として私のやってきたことはお話ししたとおりであって、社会的責任がどれぐらい果たせたかというのは大方のご批判に任せるよりしようがないわけである。 
  この後、松尾先生から詳しいお話があるかと聞いているが、最近、行政改革が進められ、その一環として日本の高等教育研究の最も重要な担い手である国立大学が行政法人になるように迫られている。私、10年ぐらい前に今の大学へ、第一線の研究を退いて、研究は続けているけれども、大部分の時間を管理的なことに費やしているので、こういうことに対しては、一大学の学長としてだけでなくて、一大学人として対応したいというふうに思っている。 
  大学、特に国立大学というのは、戦前は学問の砦であって、時の為政者や社会に対して警鐘を鳴らす、そういう役割を果たしたわけである。中には官憲によって捕らえられて投獄されるというような先生方もたくさんおられたわけである。しかし、戦後、経済復興というか、高度経済成長、バブルという時代になって、よろず右肩上がりで、大変社会が甘くなってしまったというふうに思わざるを得ない。そういうことで、こういった警鐘を鳴らすというような場面がほとんど出てこなかったわけである。大学人自身も、本来の大学の責務ということに対する認識が非常に薄くなっていると私は思う。今、大学人が気にしているのは、研究費だとか、施設だとか、そういった物的条件ばかりであるというふうにさえ見えるけれども、本来の目的がきちんと把握されていた上での研究でないと全く意味がないわけである。この後、松尾先生のお話のときにまた発言させていただく。 
   
・座長  委員からは、一科学者、一研究者の立場から社会的責任についてお話をいただいたわけだが、少しご議論いただきたいと思う。 
   
・委員  一番最後の点に関してだが、研究大学院大学の今後というので、いろんな方向性が既に出ていますね。学部大学をつくるとか、いろんな方向があると思うけれども、そのことが日本の大学の科学技術の方向づけに非常に大きな意味を持ってくるというか、要するに、研究大学院大学がどの方向へ、今、動こうとしているのか、そのこと自体がものすごい大きな意味を持っていて、私的意見をとりあえず差し挟むけれども、まずその方向性をどういうふうに当局の方々は考えているのか、そこを聞かせていただきたいと思う。 
   
・委員  私は、日本のいろいろなリソースを考えると、適切な役割分担というのが必要不可欠だというふうに思っている。今は、例えば国立大学だと99もあって、日本の横並び方策と申すか、そういうのでほどほどの研究がたくさんある。これは立花さんも前回あるいは前々回ご指摘のとおりで、ほどほどのペーパーはたくさん出ている。一研究者当たりの発表論文数というのはアメリカと全然遜色がない。しかし、先ほどのインパクトパラメーターとか、いろいろやると、順位はがた落ちになる。これは、日本のやり方、ある意味ではいい面もあると思う。全く否定するわけではないけれども、私は、これでは今後は――どこまで日本の科学技術を推進するか。皆さんがそれほどやらなくてもいいよとおっしゃるならば、今のままでみんな仲よくやっていけばいいわけだけれども、トップランナーになろうと思うならば、やり方を根本的に改めないと絶対できないというふうに思う。99大学も横並びではよろしくないというふうに思っている。 
   
・委員  科学技術の社会的責任あるいは社会的貢献というのは、最近よく言われており、当然のことだと思うのだが、それと産学協同とをすぐ直結させる傾向がある。日本では、基礎的な研究というのは、すぐ論文等にして、どんどんオープンに出していった。これは本質的には良いことの筈だ。それに対して前回言われたように、アメリカの戦略としては、基礎的研究からがっちり押さえて産学協同で特許へ持っていく。こういう状況があるわけである。だから、社会的貢献とか世界人類への責任と産学協同というのは、その辺の根幹の問題としてどういうように調整していくかということが今後非常に重要な問題だと考える。 
   
・座長  その辺の問題は大変難しい問題で、他方では、国のお金をもらって研究をするわけであるから、その研究は公開して、すべての人が利用できるようにしないといけないという考え方があるわけである。だから、アメリカも、今、その両方のはざまで悩んだり闘ったりしているところがあるというふうに思うわけだが、日本でもこれから産学協同を進めていって日本の産業技術を進めるということが必要だけれども、同時に、そういった科学の普遍性というか、また社会貢献といったものも考えていかないといけない、その辺が大変難しい課題になるだろうという気がしている。 
   
・委員  最初から2番目の研究課題の設定のところの研究者の興味というところだが、実際にされていて、または指導もされていて、実感としてでいいのだけれども、最近、いろいろな研究に興味を持ってしようとしている人がいるのか、それがすごい疑問である。それこそ例のオウムの人たちみたいな指示待ち症候群で、指示されればいいも悪いも関係なく何でもやってしまう技術はいっぱい持っているけれども、みずからが発想して研究しよう、これに興味を持とうとか、そういうようなことを考える人間がどれぐらいいるのか。 
  これは、実際に私たち医学、しかも臨床という最も必要があるゆえにこういうことをつくった方がいいんじゃないか、やった方がいいんじゃないかと簡単に思いつくような場面でも、昨今は、その興味を何かに持っているとか、それを実際に口に出して言う人が少なくて、見えにくくなっているので、その辺のことが1つ。 
  では、そういう研究者を育てるということになると、先ほど、学校教育も含めてのことだと思うが、教育の問題は非常に難しいとおっしゃったし、ほかの場面でも検討はされているみたいなんだが、どういうことが資質として必要なんだろうみたいなところをお教えいただきたいと思う。 
   
・委員  これも私がお答えできるようなことではないのだが、日本の社会は、私のように戦争中、物のないときに育った者から見ると、物質的に恵まれ過ぎているわけである。今の若い人たちは、やりたいと思っても何をやっていいかわからない。おっしゃるように指示待ちというのはそういうところから来ているんだと思う。私は、生活をよくするとか、そういうことは二の次、三の次にした方がいい、むしろハングリー精神がないとこれからはやっていけないと思う。 
  それを解消する手軽な一つの方法としては、留学生をできるだけ入れるということ、それで競争させる。日本の国内というのはアイソレートしていると思うので、低開発国か何かわからないけれども、それに限らないが、ともかく外からハングリー精神、意欲のある留学生をできるだけ入れて、競争させる、刺激を与える、ぼやぼやしていると自分のポストがなくなるというぐらいに尻をたたかないとだめなのではないか。 
  これは一つの案だが、そういうことをいろいろ考えてやっていかないと、マチュワーの世界というのはどうしても活力が鈍る。これは人間の歴史を見るといっぱいそういう例があると思うが、ある程度は時間がたたないと解決しないことだと思うけれども、歴史に学んでそういうことを積極的にやっていくということは大切ではないかと思っている。余りお答えになっていないけれども……。 
   
・委員  先ほど先生がご指摘になった問題に戻らせていただきたいんだが、最近、学術雑誌というか、学会誌をどうするかという問題を検討する会議でいろいろ議論しながら感じたことだけれども、まず学術研究とそれをネタにして発展させてお金をもうけようという動きの関係が一つありますし、もう一つは、科学者というか、学者同士の間でも一種のプライオリティー争い、これは名誉欲とか、まさに社会的責任と関係することなんだけれども、純粋に学問を一生懸命やるということよりも、学者の世界で、あるいは科学の世界で名を上げていくという功名心みたいなものが自己増殖している国もあるというか、そういうところもありそうだと。 
  例えば、雑誌のレフェリーなんかが投稿されてきた論文の中からアイデアをちょうだいして、こっそり自分の業績に仕立て上げて、ノーベル賞をもらった人がいるんだというような話も伺ったことがあるわけだけれども、そういうのを科学者の社会的責任、倫理の問題、要するにみんなが気をつけようというだけで対処し切れない世の中というか、これはこれから別の委員がいろいろお話になると思うけれども、そういう時代であり、社会になってきつつあるというような気もするわけで、それに対応するのにいかなる制度が現在あるかというと、特許制度が片一方にある。片一方、学問の世界というのは、科学者の良心に基づいて純粋に研究し、みんなのために自分の研究の成果を発表する。科学というか、学術の成果は私物化しない、みんなのものにする。それに対して、技術の方は特許を取り、あるいは製品化して、それで自分の財産がふえてくる、そういう仕組みの中に生きているわけである。 
  その二元主義の境目がはっきりしなくなってきている、あるいはもう一つ別の世界のものが科学、学術の世界を圧迫し始めているというか、危険にさせているというような状況が進行しているんじゃないか、そういうときにどういう制度的な仕組みを考えたらいいのか。 
  例えば、私の全く素人考えだが、論文の供託制度あるいは登録制度である。レフェリーの審査を通って初めて日の目を見るのだけれども、その前に、ある雑誌にこういう論文を投稿したということが、ある意味で公証人みたいなところで証明してもらえるということになると、さっきのようなレフェリートラブルみたいなものは減ってくるだろうし、科学技術との関係においても、自分のプライオリティーがそういう形でもしかすると保護されるのかもしれない。 
  全く素人の思いつきだけれども、今までの特許ともう一つ学術論文という二元主義だけでは済まなくなってきている世の中ではないのか、それが一つ大きな問題ではないだろうか。素人の勝手なことである。 
   
・座長  大変大きな問題だろうと思うが、時間の都合もあるので、ここで委員からご発言いただいて、またその中でいろいろご意見をいただければありがたいと思う。 
   
・委員  それでは、「科学技術と倫理」というテーマでお話しさせていただく。最初に2つのエピソードから切り出したい。「科学者はもはや賢者ではない」というふうにちょっときつい言葉を書いたが、知るということと賢くなることとがもはやイコールではなくなっているという時代状況があるんじゃないかということから始めたいと思う。 
  科学研究は、今も少し話に出たが、競争心でなくて知的好奇心を本当に満足させ得るものになっているかという問題がある。このことを考えるのは、私の大学の大学院では、数年前からの傾向として、ほんとにできる学生というのは、大学での基礎研究を求めないで、むしろ社会、大学から外へ出ていくような道を求めて、大学院に行く学生は、不況ということもあろうが、フリータータイプの子が非常に多くなっているという事実がある。 
  それがどうしてなんだろうかと考えると、阪神大震災のときにもよく感じたのだが、震災のときに、ボランティアということで多くの若者が神戸に行った。そのときに多くの若者、特に会社員の人たちは、会社では嫌な3K――汚い、危険、きついという仕事をボランティアの場では積極的に求めたという事実がある。つまり、ボランティアのほうが他人のために体を動かして働くという仕事の原型というか、喜びというものが感じられるということである。 
  これは本来おかしなことで、何かをするために社会的に設定されてあるその場所がそのことを最もしにくい場所になってしまっている、そういう状況があると思う。つまり、システムが不全になる時代というのは、今、申し上げたように、何かするために社会的に設定されているその場所がそれを最もしにくい場所になっている。それが例えば仕事においては会社であろう。例えば遊び人の場合だったら、遊び人は昔から遊興施設とかレジャーランドでは遊ばないのは当たり前のことなんだけれども、最近、芸大の先生にお伺いしたところでは、アーチストになるためには、芸大に行って、さらに大学院へ行ってという道は遠回りになっているという。同じことが学生の立場からは大学の研究についてもいえるかもしれない。つまり、決められた段階を順番に踏んで、重箱をほじくるような研究であるとか、知りたいときに知りたいことを学べない、あるいは手続があってしたいことをすぐにはできない、そういう好奇心をうまく満たせない、わくわくさせないというような問題が一つあると思う。 
  次にきょうのテーマに関係するわけだが、もう一つ別のエピソードをお話ししたいと思う。先日合宿でもご紹介したんだけれども、私の友人の子供が小学生で、理科の時間に卵の新しさというものを判別する方法を習った。私が子供のときには水に浮かぶか沈むかとか、そういうことを習ったような記憶があるが、黄身が盛り上がっているか薄いかで新しい古いを見分ければいいんだということを教わって、その後、試験で、「図のような2つの卵がある。あなたならどちらを食べますか」という問題が出た。その子は薄い方、平べったい方を答えたんですね。彼以外、クラスメート全員は分厚い方を丸にして、彼だけがペケになってしまった。そして彼はひどく傷ついた。なぜなら、彼の常識からすると、賞味期限に差があれば古い方から食べるというのが当たり前で、ご両親は共稼ぎだったから、彼は自分で朝ご飯をつくったりすることがあって、そのことを身にしみていたわけです。 
  今言ったような試験の設問というのは、設問として孤立していて、何のために古い新しいを調べるのかとか、それがわかったら、ではどうしたらいいのかとか、そういう日常の生活のうちに位置づけられていない問いである。だから、こういう知識は身につくこともないし、使用されもしない。人は何のために知るのかとか、何が知るに値することなのかとか、それを知ることが生きるということにとってどういう意味を持っているのか、この設問はそういうものから切り離して、単純に新しさを問うているというところがあるわけだ。そういう意味では、今言った現代の科学や学校での教科がえてして切り離している、孤立させている問いを、この子はきちんと生活の文脈まで視野に入れてとらえていたわけで、そういう意味で、だじゃれではないけれども、彼こそ賢者の卵であったと言えなくもない。 
  こういうエピソードを聞くと、結局、現代の科学技術と倫理を考えるときの一つの問題として、専門的な研究者というのは特殊な素人なのではないか、あるいはオルテガ・イ・ガセットが言っていたような言葉でいうと、専門的な研究者こそ一人の大衆ではないのかということがいえるかと思う。もちろん、専門的な知識、技術は、現在、高度に専門化しているから、非専門家、アマチュアには評価しがたいものなんだけれども、同じことが実は専門家にもいえないだろうか。 
  つまり、専門家というのは、専門領域では極めて高度な知識や技能を持つが、専門以外の事柄については、ごく隣接した領域であっても非研究者と同じく素人といってよい。ということは、専門家の方も、非専門家と同じように科学研究が持つ社会的影響についてあらかじめ明確な判断を下すことが非常に難しくなっているということがある。だから、専門家も非専門家も、いずれも科学技術、科学研究の全体のあり方というものを構造的にも、何のためにという価値の視点からも見渡せないというところに、高度化した現代の科学技術の問題の一つがあるのではないかと思う。 
  しかし、知者がもはや賢者でないということには、もう一つ大きな歴史的な経緯というものもある。科学、特に近代の科学の理念というのは、知識というものが客観的で普遍的な妥当性を持たなければいけない、そういう真理基準を信奉してきたわけである。客観的というのは、具体的にはさまざまな利害関係であるとか、どういうユーティリティーがあるかとか、あるいはどういう政治的な意味づけがあるかとか、どういう歴史的なコンテキストから生まれてきているとか、そういうさまざまな価値の関係というものから、あくまで中立的な立場から研究することだと、長く考えてきた。 
  そうすると、学問は純粋でなければならない。つまり、何かに役に立つとか、どういう価値、社会的な意味があるかということを一たんに括弧に入れて研究を行うことになり、したがって研究の場である大学を初めとする機関には自治が認められなければならない。つまり、外部の非専門的な批判にさらされない一種の科学者共同体とでもいうべき専門集団、閉鎖集団を形成するということになり、そして何よりも純粋な基礎研究が科学理論の粋であるというふうに考えられることになるわけである。 
  私が専攻している哲学というのは、まさに基礎研究中の基礎研究というようなもので、近代哲学では基盤とか基礎とか根拠ということが特に集中して論じられた。日本における代表的な人物である西田幾多郎氏が京都大学を退官するときに講演なさったけれども、その中に純粋な学問という理念を典型的にあらわす言葉がある。ご紹介すると、「回顧すれば、私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後ろにして立った。黒板に向かって一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである」。当時、この言葉はすばらしい言葉として受けとめられて、我々教師は学校という社会しか知らない特殊な人であるということが特異であるというふうには意識していなかった、それほど近代の学問の理念というのは徹底していたと思われる。 
  古代ギリシャ以来の学問の歴史の中でこのことを位置づけると、非常に古典的な概念だけれども、ヨーロッパには真・善・美という3つの価値がある。要するに、知識における真理、行為における善、芸術における美、真・善・美という3つの大きな価値があったわけである。これらは3つとも価値の視点から問われるべきものである。これはそれぞれギリシャ人が言った「テオリア・プラクシス・ポイエシス」、つまり知ることと行うこととつくるという人間の3つの基本的な活動に対応して3つの価値として言われてきたわけである。 
  この3つは、それぞれ入れ子状態のようになっている。例えば、理論とか知識という視点からは、行為における知識、これは倫理ということである。それから、物をつくる場合の知識というふうに、テオリア・プラクシス・ポイエシス、どれも知識という観点から問えるし、同じようにそれがどういう価値を持っているのかという視点では、テオリア・プラクシス・ポイエシス、3つとも行為の善という視点から問えるし、どういうふうに物を生み出していったらいいか、社会関係を生み出していったらいいかという点では、ポイエシスの制作という視点から考えることができる。つまり入れ子になった相互関係の密な3つの行為なのだが、3つの行為を理論化したものが、テオリアの知るということだったら理論であり、行うということであればそのよさを問う倫理学ということであり、制作においては美学であるとか技術、テクノロジーということであったわけである。 
  ところが、近代社会では、そういう純粋な理論と物を制作する知としての技術、テクノロジー、この2つが直接的に結びついて、そこから真中にあった行為としてのよさへの問い、あるいは価値への問いというものがすっぽ抜けるという事態が起こってきたわけである。 
  言いかえると、何かを知ることも、何かを制作することも、それ自体が目的ではなくて、何かのために知り、何かのために制作されるのだけれども、その善し悪しを人間の幸福あるいは価値というような視点から考察する、そういう倫理的な問い、ギリシャ人はプロネシスと呼んだんだが、そういうものがぬけ落ちて、最初のテオリアと最後のポイエシス、つまり理論と技術というものを媒介に結びつく。要は、価値への問いから外れたところで結びつく、そういう事態が近代では起こってきて、それが科学のイデオロギー化とテクノロジー化という2つの形で、言い換えると倫理的な問いかけをすりぬける形でひとり歩き出したという事態があると思う。 
  けれども、科学もまたある集団が行う社会的な行為として社会の中にあるはずである。その限りで社会的な位置づけとか、社会的な価値が問われなければならないはずである。それは、国家や社会からある予算を配分され,公的に支援されているという面からもちろんいえるけれども、それ以上に現代では科学技術が社会生活の隅々にまでさまざまな利益や恩恵をもたらしていると同時に、また広い範囲に大きなリスクとか危険を及ぼすものでもある。それほど専門知識や特殊な技術が社会生活に大きな影響を及ぼしている、そういう事態が現在ある。しかも、先ほど申し上げたように、専門研究者もある意味では特殊な素人だから、科学のあり方というものについて専門家、非専門家を合わせた社会的な議論というものが必要になってくるだろうと思う。これについては、新しい技術を導入するときに開かれるコンセンサス会議というようなものが現在あって、これについては村上先生が私よりはるかによくご存知なので、もし時間があったら教えていただければと思う。 
  こうして今、私たちに必要なのは、環境問題でも生命技術の問題でもそうなのだろうが、科学技術の問題が倫理やモラルの問題を副次的な問題としてではなくて、理論に内在する問題として考えられなければならないということである。言いかえると、何をどこまで知り得るかという形で科学の可能性を問題にするだけではなくて、科学は何をどこまで知るべきか、そういう倫理的な問いをみずからに内包しなければならなくなっているということである。それは具体的には知の社会学とか知の政治学というような形で社会科学の方で取り組まれつつある問題だと思う。 
  最後に、知というものを考えるときに、あるいは科学は何をどこまで知るべきかという問いを考えるときに考えなければならない視点を思いつくままに挙げてみたい。 
  つまり、知というものを社会的に位置づけるときに考慮しておかなければならない点として3つ挙げておきたい。ドイツの医学哲学者であるヴォルフガンク・ヴィーラントという方が70年代に指摘したことだが、科学というのは真に値するものへの問いを持たねばならない。何が本当に知るに値することなのか、そういう社会的判断力あるいは哲学的判断力を持たねばならないということが1点である。 
  何かが本当に知るに値するかどうかというのは、しかし実際にやってみなければわからない。一見むだであるようなことが、むしろ何世紀か後に物すごい大きな知見を生み出すこともあり得るわけである。そのために2番目に、知り得ないものへの感受性、あるいは理解し得ないものへの感受性というものを持たねばならないだろうと思う。 
  わかりやすい例を挙げると、受験と正反対の思考法である。受験というのは、試験問題が配られたときに、どれがわかるか、どれが自分に解けるかということをまず選択して、わからないものはオミットする、わかるところでだけ勝負する。連想がちょっと飛ぶが、都市計画というのも多くの場合、そういう側面があって、人間の生き方、生活の仕方について計画者が理解できるところで都市の構造をつくっていくということがある。したがって、多くの都市計画というのは、必ずそれになじまないような、収容できないような自然発生的な生活形態を外部に、あるいはすき間に生み出さざるを得ない、そして頓挫せざるを得ないという面があると思う。 
  したがって、重要なことは、理解できるところで勝負するのではなくて、わかることとわからないこととの境界を明確に意識すること、あるいは何が真の問題であるかを知ること、そして何がわからないことかを探るということ、そういう意識を持ってこそ研究の方向とか課題が具体的に見えてくるのだろうと思う。そのためには、1とちょっと矛盾するようだが、一見むだと思えるような研究が自由にできるような環境が必要になってくるだろう。 
  それから、3番目に、今度は知らされない権利という問題もあるだろう。 
  最後に、科学への批評ということについて考えたいのだけれども、これは科学に限らず、芸術でもそうであろうし、スポーツでもそうであろうと思うが、批評(クリティシズム)のないところに文化というものはあり得ないということである。そういう意味では、今、必要とされているのは科学技術へのクリティシズムではないかと思う。科学技術が現在置かれている状況あるいはあり方についての社会的な議論というものがレベルアップするためには、そしてその中で学問が社会を批判し、社会が学問を批判する、そういう相互批判が起こるためには、その媒介役としての科学社会学者とか医療社会学者、医療哲学者なんかももちろんそうなんだろうが、特に専門家と非専門家をつなぐ科学ジャーナリストの養成ということが非常に強く求められているように思う。そういう知見を取り入れて、あるいはそういう社会的な判断力というものを取り入れて、私たちは研究の経営ということにまで視点を向けていかなければならないように思っている。 
  最後の技術と熟練に関しては、話が少しずれるので、時間もないから省略させていただく。 
   
・座長  それでは、議論をお願いしたいと思う。先生、もし何かあればお願いしたい。 
   
・委員  クイックレスポンスとしては、先ほどコンセンサス会議を言及なさったが、これは国際的にも少しずつ試みられ、日本でも若松さんという方がチーフになって幾つか実験的な試みが行われて、ヨーロッパの幾つかの国では、それはかなり社会的な制度として確立しかけている。 
  市民という定義が非常に難しいんだが、一般の市民、選ばれた市民というか、ほとんど無作為に抽出した市民でもいいし、ボランタリーに手を挙げた市民でもいいわけだけれども、何人かが比較的小さなグループで集まって、徹底的に専門家のその領域、イシューについて専門家の意見を聞く、聞いた上で今度は自分たちで討議をする、再び問題が起これば専門家を呼ぶ。そういう専門家と非専門家との間の非常にホットな相互の開き合いを通じて、市民たちのグループがそのイシューに関して一つの結論を出していく。それが政策に反映されるような制度をつくり上げようとしている、あるいは一部実験的につくり上げた国々もヨーロッパの中にはある、というようなことが起こっているということである。 
  それから,もう一つ、無知であることの権利ということをおっしゃったんだが、ちょうど20年前、ストックホルムで私がその権利が必要であるということを主張したら、国際会議の中で猛烈にたたかれて、「おまえは民主主義の敵である。今や情報を求めるということが民主主義社会の基本であって、情報を求めないでよいという権利を認めることはナンセンスである」と言われたことを思い返して、井村先生がどういうおつもりで私に振ってくださったのかよくわからないが、そのことは私にとってはいまだに考えなければいけない問題であり、今まさに情報開示だとか情報公開だとかといったようなことが社会的イシューになっている状況の中で改めてもう一回社会的にも検討してみるべき問題だというふうに考えている。 
   
・座長  どんな問題でも結構だが、ご発言ありますか。 
   
・委員  今のお話、大変おもしろかったが、今おっしゃられたことの中で、テオリアとポイエシスの問題というのは非常に大事で、このことが一国の科学技術のこれからという問題を考えたときにどこに結びついてくるかというと、高等教育機関、要するに大学教授の選び方というところに問題があると思う。ここにいらっしゃる先生方の相当部分が大学の先生方だから、大学教員の選び方の手順というか、現場に立ち会われたことがあるからご存知だと思うんだけれども、何をもって次の大学教授が評価されるかといえば、結局、テオリアというか、先ほど学会の話が出たが、学会でいかなるクオリティーが高い学術雑誌に論文をどれだけ出したか、そういう点だけで評価されるんですね。つまり、その人が実際のプラクシスの面、アクティビティーの面でどういうことをやってきたか、そういうことは評価の対象にほとんどならない。 
  特に大学の場合には、ある意味で研究機関であるとともに教育機関であるから、当然教育の業績、どれだけいい教育を学生に対して与えたかということが本来は評価の対象になるべきであるのに、それはほとんど評価されない。この点が今の大学教員の選び方で大きな欠陥になっていると思うわけである。そこを何とか変えるということを考えないと、このまま行くと日本の学術の未来に相当のマイナスが出てくるのではないか。ポイエシスの面というか、その人のアクティビティーの面をきちんと評価して、例えば大学なら大学がその人を受け入れるということがないと、ますます社会から退行するような機関になってしまうのではないかという気がする。 
   
・委員  先ほど専門家と非専門家のお話が出た。両方で科学技術の問題を考えていかなくてはならないということはおっしゃるとおりかと思う。ただ、結果がどういう影響を社会に与えるかということを一番よく理解し、分析できるのは、それに携わっている専門家ではないかと思うわけである。しかし、往々にして何を進めるか、何をつくるかといった場合には、非専門家である企業の責任者あるいは組織の責任者が決めていかなくてはならないという部分もあると思う。 
  そういう場合に、それに携わっている専門家が身内、企業の利益に優越して社会あるいは公益に対する責任を果たす、そういう倫理責任というか、そういうことを専門家あるいは科学技術者がきちっと自覚するということは非常に重要なことであり、米国では技術者の倫理教育が非常に盛んに行われている。日本ではまだ見るべきものがないということも聞いているけれども、教育問題はまた後日出てくるかと思うが、教育問題が非常に大きいだろう。科学技術者がそういうはざまでいろいろ悩むという場面を軽減するためには、科学者のそういった倫理責任というものが遂行できやすいような、それを支持するような社会システムが実現しないとよくない、こういったことも結局は教育問題が非常に重要であろうという感じがする。 
   
・委員  先ほどのお話も含めていろいろ話を聞いているので、私自身、余り頭がまとまってないので、あっちこっちに飛び散ると思うが、今の話、例えば倫理観という言葉の中で、きょうもいろいろ参考資料を見させていただいて、中にはヒポクラテス・オースというお医者様たちが誓う言葉も含めて英語で書いてあったんだが、結局、科学というものの裏づけにあるのは、神というものがとても重要だと思うんですね。ヒポクラテス・オースの中に神に対する誓いというものがあるわけなんですね。 
  今、日本の科学技術を見ていても、世界もそっちの傾向に走りつつあると思うんだが、倫理の原点はどこにあるのかということは、ルールをつくって人間たちがこうしようということだけで片づくものではなくて、その裏にある宇宙の神秘というものがあると思うんですね。最終的に科学者は必ず神を信じるようになるというふうなことがアメリカでよく言われるのは、人間の能力だけでは解けないものがたくさんあって、それを幾ら科学で証明しようと思っていてもできないということが現状であるわけだから、それをどのようにして私たちが受けとめるかということが課題だと思う。 
  日本の科学技術に対する倫理観ということの話の中で、その倫理というものはある意味で社会が生み出すものであって、社会の中には倫理観がないかというと、倫理とかルールとかはあると思うんです。では、なぜそれをするかということのほんとの意味での人間の命の尊さとか、例えばついこの間、慶応の医学生たちのことが書かれていたけれども、なぜ医学生かということで、日本のエリートの大学であり、エリートの子供たちがそういうレイプ事件を起こすかということですごく騒がれたが、慶応だからということではなくて、私は思うんだけれども、どこの社会のだれがしてもいけないことであるという原点からスタートするべき議論が、なぜエリート大学のという話になるのか、すぐそっちの方へ飛んでいくわけなんですね。 
  私たちの社会の中で、高等教育とかではなく、生まれたときから家庭の教育、幼稚園、小学校、中学校、高校までにそういう倫理観というものをきちっと教えていけば、科学の中にはそれが必ず反映されるべきものなんですね。それを問わないで、もうでき上がっている大人の大学生とか大学院生にどうやって倫理を教えていくかとか、志をどうやって教育の中に埋め込んでいくかということは私はとってもおかしな議論だと思うので、科学というものをどのようにしてコントロールしていくかとか、社会の中では、例えばアメリカでもクローニングが始まったときに、すぐに「これはアメリカでは研究はしません」とか、「これ以上のことはさせていかない」とか、そういうことを国が言い出すということは、底辺のところの社会の一つの哲学というか、考え方があるから出てくるのであって、そうでなければ科学的にはクローニングというのはおもしろいことだと思うんですよね。一つの現象だけを見れば、自分と同じような人間がもう一人できるならばうれしいわと思えるけれども、ヒトラーみたいな人が何百人も出てきちゃったら困るということを考えると、やっぱりクローニングってよくないんじゃないかしらというふうに思えるわけである。 
そういうことを考えることは、原点にいいとか悪いという人間に対してやっていいこととかやってはいけないこと、そういう一つの哲学があるからこそだと思う。 
今議論していることは、日本という社会の中で科学技術に対するアプローチと、欧米の昔からギリシャ神話に出てくるような神々というものの哲学からのアプローチとはすごくギャップがあると思う。東洋思想の中には、ある意味で自分たちは生まれ変わるものだから、この世は本当の世ではなくて、また次の世があるとか、そういう視点からアプローチして始めている文化と、そうではなくて偉大な神がいて、その神のもとに私たちの魂が戻っていくんだというふうに思っている思想とはすごく違うアプローチなので、日本の社会の中で今ある日本の材料をどう調理していきながら思想をつくっていくかということも含めて考えていかない限り、日本という土俵の上で定着してくれるような倫理観というものは何なのかということまで突き詰めていかない限り、本当の意味での日本の哲学とか日本のあり方はできてこないような気がする。 
  今の形とか今の状況を、システムとか仕組みを変えて、ルールも変えればこうなるかということではないので、もう少し原点のところでの考え方というものが大変重要ではないかという感じがする。 
   
・委員  現代の難しさというのは、神が複数ある、神々がいるという問題だと思うんですね。近代の科学というのは絶対に確実な知識というものを求めた。だからこそ知識の一番基礎にあるのは何なんだろうと考えてきたんだけれども、今の科学というのは絶対でないところで勝負しなければならない。 
1つは相対主義、いろんな神々がいて、それが複数存在する中でどういうふうに知識をマネージしていったらいいか。もう一つは、プロバビリティー、蓋然性といいますか、絶対確実な知識ではなくて蓋然的な知識――知識というのは、そういう意味では絶えず変容の可能性があって、蓋然的なものとしてしかあり得ない、そういう蓋然性というものの中で知恵をどういうふうにマネージしていくか。今言ったリラティヴィティーとプロバビリティー、そういうところで知というものを考えなければならないところに来ていると思う。 
比喩で言うと、一回船が故障すれば絶対安心なドックに帰ることはできなくて、船が動き出しているわけだから、自分で修理しながらしか前に進めない。だから、進みながら修理していく、そういうような操縦の難しさというのがあるんじゃないかというふうに思っている。 
   
・委員  倫理ということなんだが、日本の科学者は結構倫理的であるということを申し上げたいんですね。日本学術会議は倫理的である。と申すのは、科学者が集まると、科学のあり方ということについて反省の議論をやるわけですよね。それはどういう形でされているかというと、先ほど来ご議論が出ていて、確かに科学的知識を獲得することによって豊かになるという一つの大きなプリンシプルが20世紀では主流を占めて、そのためにいろんなことが認められてしまったということがあるんですね。 
  状況的な問題でいうと、文科と理科が非常に分かれてしまっていること、学問が細分化したこと、領域内の興味で行動することが許されてしまうこと、発見競争というような形が一つの社会的装置になっていること、科学者がいい成果を上げれば人格はどうでもいいというようなこと、そういったいろんなことが一種の社会的ルールとして容認されてしまっている。 
  これは知的生産のモーターなんですね。これがいろんなことを効率化した。それが豊かさにつながっていったからよかったんだけれども、そういうことに対して、少なくても若者というのは余り関心を持たなくなった、何か不満が出てきた。 
  例えば、若者が科学者にならないというのは、そういう科学の世界に入ることに恐れを持っている状況が既に起こっているということを年寄りの科学者も気がついているわけなんですね。そこで何をするのか。すなわち、現代の社会にとって問題であるといわれているものを解決するために、今言ったような知識生産の装置はむしろ陳腐化してしまったということだと思う。 
  それはいろんなところで既に言われているんですね。1945年に出たバネバー・ブッシュの「サイエンス・エンドレスフロンティア」、これが一つの精神的な支柱で、戦後の科学を支えてきたんだと思うんですよね。とにかく探せばいいことがあるんだと。それに対する反省はアメリカでも大幅に起こってきてしまっているわけで、ここで書きかえなきゃいけないということを最近盛んに言っているわけである。 
  私たちはそれをどういうふうに言っているかというと、例えば環境は人間が悪くしたという問題ですね。その問題と物質の構成を発見していくという2つの態度が科学の中にあるわけだけれども、知的興奮、物質の究極を発見するというのは、バネバー・ブッシュ風の興奮であって、それが括弧つきになり始めているはずである。そして、人間が環境を悪くしたということについての一つの事実を究明するというのは違う方法でやらなきゃいけない、先ほどのオーソリートした装置ではもうできないんですね。 
  それは何かというと、ちょっとうまく言えないんだけれども、みずからの行動原理を内観するということでしかあり得ないので、これは集団的内観というか、社会的内観ということが必要になる。これは哲学的方法の社会的適用、哲学というのは多分個人のものだろうが、そういうことが必要になりつつあるということを科学者たちは気がつき始めているわけである。 
  そこで具体的にはどうするか。先ほどお話のあったクリティックということを社会的にどういうふうに定着させていくのか。科学に対するクリティックがないというこの不思議が解消されなければいけないわけだが、そういうことで非常に具体的に今、日本学術会議というのは俯瞰的研究プロジェクトといっているんですね。それは、先ほど言った装置を使って科学的知識を生産する人とそれの影響を受ける人が研究動機を共有することで研究する、そういう定義なんですね。 
  要するに、素人にはわからない、わからないというんだけれども、動機については同じ視野に立って持てるわけで、こういうのが欲しい、そういうことについては科学者も非科学者も、あるいは非専門家も共有できるはずなんですね。動機というものを前面に出し、動機を共有していろんな専門家、あるいはユーザー、一般市民が入ったような研究プロジェクトをどういうふうにオーガナイズできるかというプラクティカルな問題提起が出てきているわけで、それを実験的にやろうということをやっているんですね。だから、決して日本の科学者もばかにしたものではない、こういうことである。 
   
・座長  いろいろご議論いただきたいと思うが、時間が迫ってきたので、次の委員からお話しいただいて、その討論の中で足りなかったところをご発言いただければありがたいと思う。 
   
・委員  科学者と社会とか倫理に関する先生方のいろんなご意見に深く共感しつつ、本日の主題にややなじまないかもしれないが、非常に深い関係もあるし、緊急な問題でもあるので、ご無理を申し上げて時間をいただいたことを大変ありがたく思っている。 
  というのも、私は、国立大学という教育研究機関の現場の長として、この問題の真っただ中にいるし、非常に強い危機感を抱いている。そういうことで科学技術会議とか、あるいはその関連のこの会議とか、その他のところで議論していただきたいというお願いをこめ、できるだけ簡単に申し上げたい、このように思っている。 
  レジュメにはちょっと書き過ぎているところがあるが、主張したい中心は(3)のところである。前段で簡単に申し上げると、(1)はよいとして、(2)は、国立大学とか、大学共同利用機関も含めてだが、独法化問題が非常なスピードで進んでいることは新聞紙上でよくご存知のところである。国大協並びに文部省の正式な立場というのはそこにごく簡単に書いておいたが、法人化が先にありきということではなくて、大学審議会の答申、これは去年の10月26日に出たけれども、これを受けて、まず大学が自己改革を早急に進めて、その結果を見て設置形態を考えてもらいたい、だから法人化には反対だというのが正式の立場である。大学審の答申内容の実行に向けて、各大学においては自己改革の議論が急速に進展中である。もちろん、大学にはいろんな反省もあるし、批判も承っているが、これまでの実績に対する自負も持って自己改革の議論が非常に進んでいる、こういう状況をまず申し上げておく。 
  独法化は企画立案機能と実施機能を分離して効率を上げようということがねらいであるが、国立大学というのは、国のほかの一般の行政機関と比べると、そこに書いたように、任務とか業務様態が非常に特殊である。企画立案、実施機能を教育研究というものの中で分離していくというのはなじまない、非常に難しい問題がある。そんなことで設置形態の変更というのは少なくとも改善でなければならないし、できれば改革でなければならないわけであって、これが破壊であっては日本の将来に致命傷になるという危機感を持っているわけである。 
  といって、もちろん破壊もよろしいんだが、破壊であるならば創造的に現状を破壊して、よりよい状況をつくり出すということでなければ致命傷になってくる。そういうことで、もし法人化ということが実現されてくるとすれば、私は、ここにも書いているけれども、明治の学制施行とか戦後の新制大学の改変にも匹敵する重大問題であるという認識が必要ではないか、このように思っている。 
  それが前段であって、申し上げたいことは(3)である。「こんなことはもうやっているよ」とおしかりを受けるかもしれないが、ともかく国際社会の中で、50年では短いのであるが、 100年先、 200年先の日本をいかなる国にするのかということである。科学技術創造立国を標榜しながら、国としてのコンセプトというか、明確な、具体的な目標がなかなか見えにくい。責任ある政策決定者とか機関が、私の申し上げている長期展望の中での政策として見えてこない。 
  蓮見先生はよくウィンブルドンの例を出されるが、将来、ベスト8ぐらいの国を目指すのか、ベスト4でいくのか、1.5流でいいよというのか、2〜3流でいくのか、こういうことによって高等教育研究はいかにあるべきかということは当然議論されるべきであるし、それを実現するためには大学あるいは研究機関がどの程度必要かということが議論されて、そしていかなる人材がどの程度養成されなければならないかということが具体的に出てくる。そうすると、そのためには国の費用として、例えばGNPの何%が投入されるべきかということが問題になってくるはずである。 
  要するに、高等教育研究に関する戦略性、私が使っている用語としての戦略性は下へ書いておいたが、広域性とか長期性とか統合性、こういう戦略性を持った国策としての理念とか計画、こういうものが必要ではないか。それから、それを保障する法律。これはこの間、私も学術会議の会員だが、吉川先生と雑談している中で、吉川先生がこういうように言われたと思うんだが、科学技術基本法に相当するような高等教育研究基本法、そういう法律の制定も含めた、国としてきちんとした大所高所から将来をにらんだ議論が必要ではないか、そういうことをこの科学技術会議や日本学術会議でもやろうという話を吉川先生としているわけである。こういう実効性のある議論をしてほしいというか、やっていかなければならない、このように思っている。 
  もちろん、行政機関は行政機関で非常に苦しみながらおやりになっているということはよくわかるが、いずれにしても、行政の関係の人たちとお話ししていると、こういう理念的なものはとりあえず横に置いていて、行革の視点から法人化のスキームをともかく先行させていかざるを得ない、行政にはそういう節々が非常に見られる。 
そういうことから、直接的に行政機関から離れたところで、しかし権威のあるところでこういう議論がなされるべきではないか、そういうふうに思っているわけである。権威と権力とは違うが,そういうようにやらねばいけないし、こういうところでも議論をしていただきたい、このように申し上げたい。 
  (4)のところは、やや我田引水的なつけ足しにもなるけれども、大学の改革は遅々として進んでいないではないかというご批判はあちこちから聞くし、行革の視点というものの重要性も十分認識しており、こういう改革は不断の努力でやっていかなければいけないということはよくわかっている。しかし、国立大学はかなりやってきているし、これまでにもかなりの実績を上げてきているということも事実である。 
  もちろん競争というのは必要だけれども、この会合の第1回目に、申し上げたが、競争的でない学術活動の必要性、こういうものも非常に大切かと思う。 
それから、いろんなところで創造的人材とか、独創的人材をつくれということを申され 
るわけであるが、これだけについてお話ししても1時間も2時間もかかるのでお話しいたさないけれども、独創的な人間だけで社会とか国が成り立つわけではないので、次に書いておいたが、多様化とか個性化、弾力化というものが本当の意味で必要になってくる。これは中曽根内閣の臨教審のとき、あれは昭和59年か、そのときに多様化・個性化・弾力化というキーワードが出てきて、その後の審議会答申等で重立ったキーワードになっている。それに対して大学側が、自分で個性を失って画一化してきたではないかというような批判等があろうかと思う。 
  ご承知のように、入学定員と進学者の数がほぼイコールになるということはもう目の前に迫っているし、好むと好まざるとにかかわらず多様化・個性化、こういったものを自分の手で進めていかなければならんという認識は大学の方にも十分ある。 
  それから、新しい学術分野の創造が必要であるということも大学の方では相当浸透してきているし、日本学術会議では吉川先生のリーダーシップで非常に進んでいるが、前期16期から、20世紀を支配してきたディシプリン、法学とか、経済学とか、理学とか工学――工学の中でも土木とか、機械とか電気、そういったディシプリンを見直していかなければいけない、そう言う観点から議論が進んでいる。これはこの会議でも前から何度もお話が出ている。 
  差はあるけれども、そういうことが大学でもかなり具体的な議論となってあちこちで進んできている。例を挙げれば、生命科学技術とか、環境とか、いろいろお話が出ているが、そういう問題である。これは学際領域をつくろうとしているわけではない。学際領域は吉川先生もよくおっしゃっているが、バウンダリーをたくさんつくっていくようなもので、これをつくろうとしているわけではない。 
  そういうことで、20世紀につくられて、動かしがたいと思っているような領域分野、それはそれで非常に重要な分野を抱えているわけだが、それに加えて新しいディシプリンのためには、今の言葉でいうと、文系とか理系の連携とか融合、吉川さんの言葉でいえば俯瞰型学術研究ということになろうかと思うが、そういうことが非常に重要になって、こういうことを今、各大学とも一生懸命進めている。 
  そういう状況の中で、当初申したように独法化が現実性を帯びて迫ってきている、そういう状況であるので、是非とも大所高所からの議論というものを私自身もやっていかなければならないけれども、権威あるところでやっていく努力をともにお願い申し上げたい、こういうことである。 
   
・座長  ありがとうございました。委員の立場というのは非常によくわかるし、私も共感するところは多いのだが、ただ、この委員会は21世紀の社会と科学技術のあり方というのを主として議論しているので、独法化の是非そのものにダイレクトではなくて、むしろ日本の高等教育がどうあるべきかということを中心にご議論いただければありがたい、そのように思っている。 
  先ほどちょっと委員からも出たが、4番目のところで教育への回帰というか、大学が余りにも研究に走ってしまって、少し教育をおろそかにしてきているという反省を私も学長時代に常々していたのだが、なかなかそれが皆さんに理解してもらえないという悩みがあったが、その辺はどうお考えか。 
   
・委員  これはおっしゃるとおりであって、今度だけではないのだけれども、評価ということはここ10年ほど各大学でやってきたわけだが、それに対して自己満足に陥り過ぎているとか、いろんな批判もあって、評価をもっときちっと外部評価に切りかえてやっていくという議論は相当進んできている。 
  そういう中で、教育の評価というのを短期的、画一的にやるということは非常に問題がある。これは研究と同等あるいはそれ以上に重い問題であるので、この評価をどうするかということは非常に大きい問題になっており、議論はしている。結論はなかなか出て来ないが、定量的な尺度でポンポンといくような問題ではない。 
   
・委員  教育の問題、私も数年前まで実際に学部で教えていた。今、大学院教育を廣田先生の大学の一環としてやらせていただいているが、大学とか人によって、あるいは学部、分野によって違いがあるのかもしれないけれども、日本の大学あるいは大学人が教育に対しておろそかな態度をとっていたとは必ずしも思わないのでして、私なんかは、学部の学生に対する講義が大学人の一番大事な仕事であるということを教えられてきたし、どんなに暑くてもネクタイと上着はとらないで講義をする。これは形の上のことだけれども、マナーとしてたたき込まれてきたわけである。 
  ただ、考えてみると、その中身あるいは教育の仕方についてどこまで自分で工夫してきたのか。場合によると、学生と自分との間のギャップみたいなものを余り感じないで、自分の興味に引き寄せたような講義をし過ぎてきたということはあるのかもしれないんだが、教育そのものを一生懸命やらなければいけないということは、現場の人たちは心得ているはずだから、どうやって今申し上げたような反省点をしっかり改善していくのかということが問題だろうと思う。 
  そのときに、先生が、独法化とかいろいろ問題点をおっしゃってくださって、私もほとんど同感なんだが、日本の場合、先ほどから責任という言葉を使われているが、2種類の責任概念が交錯しているというか、混在して使われているのではないだろうか。 
  1つは、英語でいうとリスポンスビリティーみたいなものである。つまり、社会がこう考えている、あるいは社会がこういうニーズを持っている、社会がこういう問題点を大学に対して感じているということに対してリスポンスするというか、対応していくその対応の仕方について責任という言葉が問われる。独法化について言われることは、しばしば透明性とか効率性を高めること、国民の税金によって賄われている国立大学の透明性,効率性を高める、こういうことを言われる。これはリスポンスビリティーの方の問題だろうと思う。どういうふうに社会的な意味での責任、リスポンスビリティーを確保するのかということは、どういう仕組みがいいのかとか、どういう評価がいいのか、慎重なクエスチョンを立てていかなければならない。 
日本は、問題というときプロブレムとクエスチョンの区別をしないで、大学問題というときに、どっちかというとプロブレムとして扱うという傾向がありはしないだろうか。きっちりどうしたらいいのか、どうしなきゃいけないのかというクエスチョンを立てて議論するということをしないで、いきなり透明性、効率性がないのは問題だ、問題というのはプロブレムなんですね。だから、議論の次元というか、土壌をもうちょっと整理していかないと、とんでもない結果になってしまうのではないだろうかという気がする。  ドイツ語でも英語でももう一種類の責任という言葉があるわけであって、罪があるというか、罪つくりをしてきたというか、もっと俗なことをいうと借りがあるというのか、そういう責任という概念があって、この方は大学の責任としてもっと重い問題、それこそクエスチョンではないだろうかというふうに思っている。それが最初に廣田先生がおっしゃったことであり、大学自身が本当に考えなければならないのは、今までの研究教育について我々は罪つくりをしてきたのではないだろうかという問題の設定を大学人みずからがしないといけないのではないか。それは社会的なリスポンスビリティーとはちょっと次元が違う。深く関係しているけれども、違うような感じがする。 
   
・座長  私の言葉が足りなかったかもしれない。個々の先生が教育をおろそかにしてきたとか、そういうことを言おうとしているのではない。ただ、大学全体の教育を見るときに、改革しなければならない点は非常にたくさんある。例えば、一般教育と専門教育のあり方とか、あるいは専門教育でも単に知識を与えるだけでいいのかどうなのか、もっと新しい教育方法が必要ではないか、そういうことを提案すると大学の中では猛烈な抵抗がある。それはなかなかできない。そういうあたりを問題にしたかったわけである。 
   
・委員  私は、それを罪つくりの方の問題として申し上げたかったわけである。 
   
・委員  今の教育問題なんだけれども、私、私立の大学に移って考えているのは、学生の数も多くて、教育というのは非常に重要な場面だが、大学というのはどうしても研究が中心になってきて、研究に対する評価の仕方というのは、今、完全にできているとは言えないけれども、それなりにいろんなことが行われてきて、比較的客観的な状態でその先生をプロモーションするとか、いろんなことが行われているわけである。 
  一方、教育の方になると、まさに無手勝流というか、学部長がこの先生、好きだからと上げてしまうということが起こるとそれに対する反発がすごく出てくる、私立大学あたりではそういうことが非常に起こりやすい。これをどうするかというと、教育より研究を中心にして上げていかなければないけないということになると、これは非常に大きな問題であって、今、我々のところでは、教育をどういうふうにして評価すべきかという委員会をつくろうと思っているけれども、なかなかそれができないというのが一つあって、こういうことも少し考えていただければと思う。 
  もう一つ、先ほど卵のお話があって、あれで触発されたんだけれども、初等、中等教育における科学に関するコンセプトというか、そういうものが欠けているんじゃないかという気がした。というのは、大分前だけれども、出てこいということなので私の娘が夏休みに小学校に行ったんだが、かんかん照りのときにみんな校庭に立って、「陰のところと陰でないところに手をつけなさい。どちらが暑いか」と聞かれたんです。うちの子供は「同じだ」と答えちゃったんですね。そうしたら、それは間違いだと言われたんだけれども、論理的にいうと、確かに陰のところが冷たくなるのは当たり前なんだが、具体的な問題になってくると、そういうことではないというのがあって、こういうあたりが日本の教育というのは定型化し過ぎているというか、マニュアル化しているというか、形式化しているというか、その辺から直していかないと、なかなか高等教育までつながっていかないんじゃないかという気がした。 
   
・委員  ちょっとお聞きしたいことがあったのは、大学は研究に走り過ぎているという話が出ているんだが、大学は研究しに行く場所ではないんだろうか。最初の2年で自分の専門を見つけるために応用を学ぶんだけれども、最後の2年で自分の専門分野を見つけて、研究することによって大学を卒業するという認識がアメリカではある。だから、研究に走り過ぎているということを言うのならば、うっと思うところがある。むしろ初等教育から中・高で自分が欲しい専門分野を見つけて、それに見合った大学を自分で見つけていくというのがアメリカ的な発想か、イギリスもそうだし、欧米全部そうだと思う。 
  日本の場合、私が一番疑問に思っていたのは、日本に来たころ、「何学部ですか」と聞くと「法学部です」と言われて、「じゃ弁護士になるんですね」と言うと「いいえ、違います。会社員になります」「じゃ何で法学部に行くの?」というふうに聞きたくなるんだが、自分がやろうとしているライフワークと全く違う勉強をして社会に出ていくというこの仕組みの中にすごくおかしなポイントがあるんじゃないかと思う。だから、大学一つを取り上げて、研究に走り過ぎているということは、議論としてはちょっとおかしいような感じもする。 
  というのは、大学の中での仕組みとかポリティックスとか、いろいろあると思うわけで、そういう意味での争い事とか、または解決していかなければいけない大学内の問題であって、社会としてかかわったときにどのような形で大学と社会が結びついているかというと、企業、大学、そして自分たちのふだんの生活、興味というものの中に、自分が何をライフワークとしていきたいのかということをまず前提として自分の職業を探していこうというふうな大学のつくり、社会の中での仕組みと、日本みたいに一生食べていくためにいい会社に入って、そこにいられれば自分は安泰である、そのための逆算というものとはアプローチが違うと思うので、それをこれからの日本はどうしていくのかということも含めて考えなければ議論ができないんじゃないかという感じがした。 
   
・座長  大学というのは、かつては教育と研究を一体化してやるところだということで発展してきたわけだが、研究の第一線が非常に進んだということから、現在では教育と研究の一体化というのは大学院以降に求められていて、大学は主として教育を中心にやるところだと変わりつつある。これは全世界的にそうだろうと思う。 
   
・委員  MITに「キス・オブ・デス」という言い伝えがある。これは何かというと、1〜2年の学生がザ・ベスト・ティーチャー・オブ・ザ・イヤーというのを選ぶわけで、これがキス・オブ・デスだといわれているんですね。なぜそうなるかというと、そういうふうにして選ばれた先生は教育に非常に力を入れざるを得なくなる、ということは研究がおろそかになる、したがってテニュアが取れない、彼はMITに長く居続けることができない、そういう因果関係なんです。これはかなり象徴的なことだと思う。 
  もちろん、アメリカの場合、ご存知のように 3,000以上大学と名のつくものがあって、その中でほぼ5%ぐらい、150ぐらいは研究大学だから、大学と名がついていてもほとんど研究と無縁で教育だけをきちんとやっている大学がたくさんあるわけである。だから、その意味では日本と一律には議論できないようなところがあると思う。 
   
・委員  私の話は余り格調の高い話ではないんだが、今お話を伺っていて、文科系と理科系の場合、かなり違うなというふうに思っている。文科系の場合には、研究と教育がほとんど一体に行われるということを私自身、体験してきたんだが、東大から東工大という理工系の大学に移って、非常にショックを受けた。理工系の大学では教育が非常に位置が低いということをいろいろ見て、総合大学ではわからないようなこと、つまり科学者や技術者が持っている本音のセンチメントというのはこういうのかと非常に驚いた。 
  外部評価で私の大学で一番問題になったのは、工業大学といっていながら学生にインターネットのアカウントを全然与えていない、そのための情報教育はない。先生方、初めて東工大には情報教育がないのだということに気がつかれて、あわてて学長さんがリーダーシップをとって、いろんな方を説得してようやく学生一人一人にアカウントを持たせるようになったのが去年というふうな状況である。 
  私、一般教養を担当しており、東京工業大学だからビデオや液晶プロジェクターがあって当然と思ったら、「何でそんなものが要るのか」と。つまり、専門教育にはOHPだけあればいいのではないかという批判を受けて、一般教養の主張が通らない。一般教養の人が言っていることがわからない。これで大学の改革ができるのか、私、理工系の大学へ行って、理工系の改革は非常に暗いと思っている。どう騒いでも液晶プロジェクターは買ってもらえないんですね。一般教育で科学技術と社会みたいな教育をしているんだが、専門の先生方は学科で教育するから、1学科30人とか40人しかいないんですね。そうすると適当にできるわけだが、300人とか教育するようになると、AV無しではうまくできない。学生の方も、専門のことだけ興味があって、科学者の社会的責任は余り興味がなくて、適当にレポートだけ書いて出そうというのがいて、そういう意味では非常に絶望しているというところである。 
  だから、これは個々の先生の努力ではなくて、制度的な保障が必要なのではないか。例えば、正直思っているのは、科学者の社会的責任を学んでいない学生は企業で採らないとか、そういうアメリカ的なシステムにしていただかないともうだめなんじゃないかと思う。理工系のことに特化して申し上げるんだが、ではそのシステムをだれが考えるのか、学内でできるのかというと、本当に絶望している。 
  先ほど先生がコンセンサス会議のことをおっしゃっていただいたんだが、たまたま明日、日本のコンセンサス会議の第2回の最終発表があるわけだけれども、コンセンサス会議では、専門家ではなくて、専門家の意見も聞きながら素人の人が行くべき道を決めるということになっているわけだが、大学についてはだれが行くべき道を決めればいいのか。大学改革を大学人がやるのか、大学改革もコンセンサス会議みたいなものが要るのかどうか。 
  ここでコンセンサス会議の意義について問題になったんだが、コンセンサス会議の場合には、専門家ができないならば行政官がやればいいじゃないかという議論もあったわけである。これ、パターナリズムの問題になって、意思決定をやる主体はだれなのかをもう一度考え直さなければいけない。 
   
・委員  一点だけ申し上げたいと思う。私がやっているのは、専門論文を苦労して読む。専門論文というのは専門家しか読めないという前提のような議論をされておられるけれども、もともと学術論文というのは学術用語をたどっていけばだれでも読み遂げられるはずで、専門情報が公開されてないというのはうそで、これほど公開されているものはない。それを読み込んで批判しない方が悪いわけであって、私がやっていることは、アカデミーの外にあって、あまり日本語を信用しないで、原著を読んで、その上で見えている限りのことを言っている、そういうことをやっている。 
  私、自己紹介したように卒論も書かないで大学を出た人間で、だんだん昔のことを思い出す。例えば松尾先生は大学をつくりかえるんだったら創造的破壊をとか、先生は科学技術へのクリティシズムということをおっしゃった。専門家同士批判しているはずなんだけれども、それは今のところ研究者集団の中でのピアレビューでしかない。その産物は、社会に開かれているはずだから、社会の側がこういうものを読み込む能力を持てばいいわけで、そういう作業がなぜ先進国の日本の中にないのか。専門のことは全部専門家に聞くという構造化されたパターナリズムがなぜ崩されないのか、私はよくわからない。 
  そういう意味では文科系、理科系という区分そのものが私にとっては奇異である。健全なピアレビュー以外の社会的に厳格なレビューが実行されるためにも、外側の読み込むセクターをもっと鼓舞する、それによって問題の本当の形を社会が共有する。 
  お聞きしていると、教育というのは専門家集団側の人間をたくさんふやすような感じがして、科学研究の敵あるいは健全な批判者も育てるというような教育をしていただきたいというふうに思う。 
   
・座長  今日は3人の方から意見の発表をしていただいて、いろいろご議論いただいて、大変重要な問題がたくさん出てきている。例えば、研究によって生まれる新しい知識にパテントをかけて産業に応用していく、そういった産学協同が重要であって、それによって新産業を生み出そうという試みが今、日本でも非常に活発になされている。しかし、同時に、研究者の得たデータというのは公開すべきであるという考え方もあるわけであって、今日、事務局が準備した資料の26と27ページで現在アメリカで議論されている問題が書かれている。これは大変重要な問題で、また時間があれば是非議論をしたいと思っている。 
  それから、科学者の社会的責任、特に倫理の問題、これも避けて通れない非常に大きな問題であろうと思う。 
  また、日本の科学技術における大学の役割は、次の機会にでも議論できればしたいと思っているが、大学がよくならなくて日本の科学技術がよくなるということはあり得ないわけであるから、それに対して何がなされるべきなのかということを是非考えていただきたいと思う。 
  先生が提起された問題は、次の21世紀の学術のあり方というか、科学のあり方というものに対しての非常に大きな問いかけであって、真に知るに値するものは何かということと、知り得ないことに対して、これからどのようにアプローチしていったらいいのか。 
今までの科学が切り捨ててしまった問題にどのようにしてアプローチしていったらいいのかというのは、これから問うていかないといけない問題ではないだろうかという気がしている。 
  とても今日の広範な議論をまとめることはできなかったが、次回は「科学技術と人」という課題で、科学技術と教育、一般の人々の科学への理解の増進、男女共同参画社会と科学技術、そのような問題で議論をしたいと思っている。 



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