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21世紀の社会と科学技術を考える懇談会
―  第6回会合 議事録  ―

1.日  時:平成11年7月21日(水)  10:00〜12:00   

2.場  所:東海大学校友会館 望星の間

3.出席者:

  (委  員) 井村、石塚、廣田、村上、石井、今井、宇井、河野、佐々木、立花、中島、中村、西垣、松尾、丸島、安井、米本、鷲田の各委員
   熊谷政策委員、大崎政策委員
  (事務局) 科学技術庁 青江科学技術政策局長  他
   文部省 工藤学術国際局長  他

4.議  事

○座長  先日来た、雑誌の「サイエンス」を見ていたら、ブタペストにおける科学者会議の問題が載っており、そこでの大きな課題として、1つは科学者の倫理が取り上げられている。もう1つは、科学と社会という問題がかなり議論になっているということで、今のこの会合でやっていることが、現在世界の多くの科学者の関心事になっているということを示すのではないかというふうに考えている。
  本日は、3人の方から、21世紀の重要な分野を取り上げてお話しをいただくということにしたいと考えている。

○座長  本日は、最初に「環境科学から見た21世紀の展開」と題して意見発表をしていただく。

○委員  資料6−5−1を使って、15分ほど時間をいただいて意見を述べたいと思う。
まず、私自身は実はもともとは材料科学をやっている人間だが、十数年前から実は環境研究にコミットを始め、文部省の科学研究費の最後の大型環境研究と呼ばれている、「人間地球系」と呼ばれるものの総括代表を務めさせていただいた。現在の環境の専門は、環境総合評価、環境面から見てどうやってウエイトを考えて環境問題を考えるべきかというようなことを専門にしている。
  本日は、環境科学から見た21世紀の展開ということで、現時点で私が何が問題であると考えているかと、また、解決はなかなか難しいが、こんな方向ではないかと考えているといったことを発表させていただきたいと思う。
  まず、21世紀の展開を考える上で、過去から現時点までの環境負荷のトレンドといったものをやはり理解しておくことが重要だろうと考えている。図1に示したのがそれであるが、便宜的に環境負荷を、今、3種類に分けて考えており、赤で示しているのが一番一般的な公害型の環境汚染と呼ばれるようなものである。そのほかに、ブルーの消費型環境負荷というものと、あと実態は余りよくわからないがバックグラウンドと称するようなもの、大体この3種類を考えておくべきではないかというふうに考えている。
  公害型の環境汚染を始めとして3種類の環境負荷、いずれも横軸は経済スケールで書いている。経済スケール、すなわち人間活動が大きくなるにしたがって、徐々にほぼ直線的に上昇を示すというのが通例である。日本の場合、1970年ごろに不幸な公害病等の発生も起きて、それ以後規制の強化及び技術的な改善ということで、エネルギー等資源を大量に投入しつつということではあるが、公害型の環境汚染というのは、それ以後順調に下がっているというのが、今現在の形ではないかと思う。ただし、中には減っていないものというのがあり、それは1つはNOxみたいなものは、ほとんど減っていないということである。
  最近、話題の中心のダイオキシン等であるが、実はそのダイオキシン等も最近の研究例、図2に出しているが、これは横浜国立大学の益永先生と中西先生たちのグループがおやりになっている研究からであるが、実はダイオキシン類の放出に関しても、80年ごろになるとかなり落ちており、70年代までが非常に環境汚染としては激しかったこと、その理由はPCP、あるいはCNPと呼ばれる水田除草剤というものの大量使用にあったということが、今、一般的な理解になっていると思う。
  ところが、このデータを掲載した新聞というのは、私の知る限り朝日以外はないというような状況である。したがって、これがまだ一般市民レベルで普通の常識となっている状況ではないかと思っているが、いずれにしてもそういうことがどうも正しいのではないかと考えている次第である。
  また、図1に戻り、残り2種類の環境負荷である消費型の環境負荷であるが、これはエネルギーあるいは資源の消費、それに伴う固形廃棄物量の増大、それからさらにエネルギー消費とほぼ同義のCO2の排出といったものが、ここに含まれるものではないかと思っている。そちらの環境負荷に関しては、その図で、一旦水平に近くなっているのが、一応2回にわたる石油ショックというものを示したつもりだが、たしかにエネルギー効率等は良くはなってはいるものの、トータルに見たところまだ増大の一途であるという状況かと思う。
  残りの1つ、バックグラウンドであるが、バックグラウンドというのは実際には余りよくわかっていない。例えばダイオキシンも今は公害型の環境汚染という認識でよいかと思うが、しばらく前までは、やはりバックグラウンドの中に含まれていたと考えるべきではないかと思う。と言うのは、要するに知らないわけである。環境ホルモン等に関しても、おそらくバックグラウンドの中に含まれていたものが、未知の汚染として上に出てくると、こんな感じで考えていればよいのかと思う。そのバックグラウンドの負荷そのものの量は、おそらく消費型の環境負荷とほぼ並行した形で、それと似たような動向でもって増減をするのではないかというふうに考えている。
  次のページに移る。こんな状況であるが、とにかく消費型の環境負荷というものを、ある程度下げざるを得ないのではないかというのが1つの認識である。それには、何か目標というものをつくらなきゃいけないというふうに考えている。その目標として、1つ重要なキーワードはやはり持続可能性といった言葉ではないかと思う。1万年といった時間を考慮して、人間活動というものを維持しようとすると、使えるエネルギー、資源というものは非常に限界があるが、太陽は多分使えるだろうと、核融合ができてしまえば、持続可能性はおそらく解消するというのは、問題が解消するのであり、妙なことが書いてあるが、エネルギー的には無限に得られるかもしれない。全く別な環境問題が出るかもしれないが、いずれにしても、現時点は確実である太陽というものを考え、太陽だけのエネルギーですべての人間活動を行うということを考えれば、これは持続可能なスキームではないかと思う次第である。
  ところが、現時点、我々が行っている人間活動というのは、実は太陽をエネルギー源とし、資源の源としているということは極めて細い矢印で書かれており、大部分は地球そのものを資源、エネルギー源として、また地球の環境容量をシンクとして使っているという状況である。
  この地球というものを、どれぐらい使っていいかというのは、したがって環境科学における一番基本的な概念になるわけである。最低限核融合ができるまで何年かかるかわからないが、 500年程度かかるとして、それまでは化石燃料等、エネルギーがあるとすると、そういう長い時代にわたって人類がこの地球はどうやって使うかというのが環境科学の一番大きな枠組みであろう。
  そう考えると、地球というのは現世代だけではなくて、未来世代と共有しているある種の公共財であるというふうに考えられる。地球の持っている能力、資源供給能力、環境処理能力等々すべてについて、公共財であるという考え方をせざるを得ないのではないかと思うわけである。後述するように、現在の経済学では、どうも公共財というのはコストゼロだから使いたいだけ使おうというような考え方になっているようであり、それが余りよろしくないのではないかということである。
  もう少し具体的な項目に戻り、21世紀において非持続可能な事象としてどんなものがあるだろうかというものを考えると、日本に限れば、実を言うと日本の環境というのはマスコミがいうように、もう極限、限界値を超えたようなというような状況ではなくて、多分世界的に見てもいい方から数えて何番目じゃないかと思うぐらいである。日本に限れば、非持続可能な事象というのは、おそらく最終処分地、これも絶対量がないというわけではないという意見もあるが、それから焼却施設とか、最終処分地といったようなものに対する不公平感、どうして近所にそういうものがなきゃいかんのだというような問題、かなり精神的な部分であるが、それが最大の環境問題のような気がする。ただし、それには世界的な状況で、次に掲げているような幾つもの非持続可能な事象があるため、それを日本という国がいかにクリアーするかという、すなわち食糧、エネルギー、資源を購入できる経済力の維持というのが多分条件になるだろうということである。
  世界的に見ると、どういうことになるのかと言うと、まず1つは水資源の限界、気候変動による食糧生産の減少、温暖化等はここに含めて私は考えている。それから、石油系エネルギーの消耗、それから一部天然資源の消耗、それから、3番目として途上国等における公害型環境汚染の継続、それから、4番目に熱帯林の喪失とか、あるいはこれはクエスチョンがついているが遺伝子組換作物の環境影響なんていうのは、よくわからないがあるかもしれない。そのほか、資源使用、環境容量使用に対する南北問題という政治問題が、非常に大きな非持続可能な問題になり得るかと思っている。3ページ目に移り、それじゃこれから先どうするのかということであるが、今話したことを考えると、やはり公害型環境汚染は下げる。これまで継続して下がってきており、これも継続をしてさらに下げていき、不公平性の問題の解決を目指す。
  それから、消費型環境負荷については、やはり下げるしかなかろう。下げるとなると、あとで言うが価値の創出というものが重要になってくるかもしれない。バックグラウンド汚染は、消費型環境負荷を下げていけば、自然に下がるだろうということだと思う。
  消費型環境負荷を下げることは何が問題かと言うと、結局先ほど言ったように、公共財はコストがゼロであるという理解であるので、何らかの形でやはり環境を経済の中に組み込んでいく、「環境の経済化」が必須ではないかと、すなわち環境税の導入等が必須ではないかと考えるわけである。
  そうやって消費型環境負荷、すなわち流している物質の量、エネルギーの量を下げながら、何らかの経済的な新しい価値を創出して、それで経済的なアクティビティを維持していく。これを称していろいろなことを皆さん言うが、例えば循環型経済社会とか、あるいは非物質化経済とか、何らかの格好で価値の創造がないことには、やはり持続可能という社会は築けないだろうということである。
  こういうことを社会的に決めていくということが重要になってくるわけであり、だれがその環境政策を決めるのかということを考えると、実はおそらく現状だと市民社会がそれを何らかの格好で決めていくしかないのであり、先ほど言ったように、ダイオキシンの毒性1つとっても、マスコミ経由で市民社会が得ている情報というのは環境科学の専門家のものとは大幅に異なる。このギャップをとにかく何とか埋めないことには、とにかく環境問題における民主主義の危機なんて大袈裟なことを言っているが、要するに市民レベルでこうだということが、実はかなり的外れということもある。
  もう1つ、環境問題と自由主義も、実はついでに書いてあるが、1つの危機である。自由主義というのはおそらく人間1人1人の能力が、地球全体の能力に比べて小さいときには完全に保証されるけれども。先日起きたベルギーのダイオキシン騒動というのがあり、農作物が 1,900億円ぐらいの被害が出たようであるが、あれもだれかが数リットルのPCPを食用油のリサイクルシステムに流し込んだということが原因であるというふうにされている。
  そうなると、そういうふうなのはルール違反だと言ってしまえばそれきりだが、とにかく人間1人の能力というのも、そう馬鹿にできない以上、自由というのも無限に保証されるものではなくて、先ほど言ったように有限な地球を公共財として将来世代と共有していると考えると、その現代の我々1人1人に対する割当量の範囲内でしかその自由は存在しないのかもしれないという気がしないでもない。
  この考え方がどういうところにつながるかと言うと、今の環境ポリシーというのは、大部分はリスクを完全にゼロにしなさい、しかも被害が出る前に予防的にそれをゼロにしなさいというのが、今現在、我々と言うか、一般に認められている環境ポリシーなのである。そのリスクゼロということ自身、完全なゼロは非常に難しいということをまずわかってもらうしかないと思う。非常にリスクが高いとき、それを下げることは比較的容易に行えるが、上の絵に書いてあるが、自然レベルのリスクというのは、実はゼロではない。その自然レベルに非常に近くなってきた人工的なリスクをゼロにしようと思うと、大量のエネルギー、大量の物資を必要とする場合も多いだろうということは言えるかと思う。
  いずれにしても、少しガイディングプリンスプルそのものをリスクゼロ予防原則から、私はトータルリスクミニマムという言葉で表現をしているが、各種のトレードオフを考えた上で、トータルに持続可能性を最大にするようなことを考えていかなきゃいけないのではないかと思う次第である。
  そういった方向を、一体どうやって解決するんだろうかということであるが、実を言うと環境問題というのは余りにも多様であり、人間1人の記憶理解能力をはるかに超えているのではないかと思う。したがって、やはり各分野の専門家と一般市民を含めた合議というものが重要であって、その合議を公開で行うことによって、それを見ながら、この人の言っていることはよさそうだというような形で、環境政策の方向性を決めていくしかないのではないかと思っている次第である。それを公開合議制と称しており、本日配付した拙著「市民のための環境学入門」と、ウェブページを実は持っており「市民のための環境学ガイド」といったようなもので、URLはその拙著の裏カバー(http://plaza13.mbn.or.jp/〜 yasui_it/)  であるが、それも1つの合議制みたいなものの実験をやらせてもらっているということである。
  最後に一言であるが、日本の環境問題、先ほどちょっと言ったように、本当に純粋な環境問題としてシビアなのは、おそらく最終処分地とか不公平感であって、しかしながら日本という国の持っている極めて脆弱な構造、すなわち食糧の自給率が40%、エネルギーの自給率も10%とか十数パーセント、資源も10%程度しか自給できないというような国が、どうやって環境を維持していくかというマクロな状況をやはりしっかり考えなくてはいけないというのが、間もなく21世紀を迎える我々の責任ではないかと思う次第である。

○委員  基本的なところでちょっとご意見を伺いたい。グラフの公害型の環境汚染というものが1990年以降下がっているが、一応例えばダイオキシンに関しては、母乳中のダイオキシン量が1970年から20年間下がっており、今、だからダイオキシンについては一般のレベルでの問題点と、そうでなくて例えば医者であったりするのとでは問題点が違い、現在、二十歳ぐらいになった方々がどういう汚染の影響を受けているのか。例えばがあるのかないのか。特に少子問題が社会化している中で、ちょうどそういう年代に入っている方たちで、次の世代にどういうDNAの影響を受けているのかみたいなことが問題であったりしますし。
  その辺のことを踏まえた上でと言うか、一応知っての上での話だが、例えばそれ以外にもDDTその他、もっと前の話だが、DDTなんかに関しても要するに1960年代にDDTの使用が禁止されて以降、しかしまだいまだに男子の出生率がいわゆる警戒ゾーンではないんだけれども要観察ゾーンぐらい多いとか、そういうことは知っての上でだが、いわゆるダイオキシンとかDDTとかPCBとか、ここにあるようなPCPとかといったものは、既にわかっているもの、禁止されたものは少なくなっているよという意味なのか、それともわかっているものは少なくなっているんだよという意味なのか。実はわかっているものは少なくなっているという、この線がいわゆる公害型環境汚染というふうに大きくとらえてしまうと、私はこういうふうに低くなっているとは思えない。
  それはどういうことかと言うと、例えば今、ヨーロッパあたりではもう大分問題になっているダイオキシンと同じような扱いをスウェーデンあたりはしているが、フタル酸エステルみたいなものはプラスチックの可塑剤としてかなり生産されている。その生産量が年々増えていますね。それが日本は45万トンぐらいで、ヨーロッパ全土合わせても37万トンぐらいで、むこうはもう減らそうとしているんですが、日本の場合には減らそうとしている兆候が見られないと言うか、私は環境庁の大気部会にもいるが、まだフタル酸エステルについて基準値も規制値もつくられていない。いわゆる公害としての毒性の強さが少ないと言われれば、たしかにダイオキシンほど次世代に影響を及ぼすかどうかというところはまだわかっていない。私、泌尿器科であるが、泌尿器科的に言うと停留睾丸を起こすとか、精子数が減るとか、その辺の文献はもう出ているわけである。それでもフタル酸エステル類に関してはまだチェックはされていないとか。
  それから、公害型環境汚染というのを、単にいわゆる有害化学物質みたいなもので見るのか、そうじゃなくて、発ガン性があるものを挙げてしまうと電磁波から紫外線から云々かんぬんっていっぱいありますよね。そういうふうに人体に影響を与えるような環境汚染というのを公害型とした場合には、その辺の問題もある。少なくとも放射線みたいなものは、そんなにすぐには減らないわけだし、このグラフが下へさがってくるということが私としては納得できないんですが。

○委員  おそらく、今、おっしゃったことはかなり事実で、それを含めて我々が知っていて確実に有害であると言ったものが、ここに含まれていると思っている。したがって、環境ホルモンの疑いを持たれているある種の物質は入っていないことも事実である。だから、それはまだむしろバックグラウンドの中にいるなと私自身は認識している。
  それで、例えばフタル酸エステルの件であるが、塩化ビニールの可塑剤として使われるわけであるが、たしかに、今、塩化ビニールの生産量は増えているから、フタル酸エステルも増えてはいる。それは本当にどのぐらいのものなのかということが、バックグラウンドから上にあがりつつある。要するに公害型に分類される方が増えてきたのではないか。多分、国としてはまだそこまで分類していないんじゃないかという感じがする。
  ですから、私はバックグラウンドの中に、まだ含まれているものではないかという理解である。
  あと、電磁波の話等も、たしかに電磁波というのは、ある特定の有害な電磁波が有るに決まっているからあれなんですが、同様にしかし商用周波数の影響等もやはりまだバックグラウンドと言うか、それよりももう少し、もやもやしたものかもしれないが、確実な影響があるかどうかもまだわかっていない。発ガンがあるという方がいれば、一方ないと言う方もいるから、そんなレベルかなと思っている。
  ダイオキシンの点に関してもご指摘のとおりで、ただダイオキシンは、最近は遺伝子損傷そのものよりも環境ホルモン効果があって奇形が出る。すなわちDNAレベルでは正常であるけれども奇形が出るということではないかと私自身は理解しているので。ですから、ちゃんとした調査をきっちりやればよろしいんじゃないかと思っている。

○委員  電磁波じゃなくて、電磁波も含めて放射線とか紫外線とか、既にもう確立されているものについても含めると、ということで。

○委員  紫外線は、実を言うとこの中に、考え方として余り入っていない。消費型の環境負荷の一部であったかもしれないと言うか、あるいは公害型の環境負荷だったかもしれないが、かなり遅れて出る時定数が大きい環境変化である。要するにフロン類は放出したということが止まっているにもかかわらず、これからだんだん強くなってくるということであるから、ちょっとそういう意味ではこれはそういう時定数の長いものは考えに入っていないかもしれない。その放出時点ですぐ害が出るという考え方のものが、公害型の環境汚染ということで考えている。

○委員  理解が間違っていたら、ご訂正いただきたい。先生がおっしゃった地球が公共財であるということは、まことにそのとおりだと思う。一般の人はそれで公共財はただという、実はただでないものをただと考えがちであるから、そういう認識を改めなければいけないという考えであると思う。
  公共財というのは、不特定多数の負担によって、不特定多数の利益をはかるということであるから、地球の環境は自分らも負担していかなければならないのは当然である。それを、ただと考えがちだから、そういう認識を改めろというご主張ですね。

○委員  そうです。

○委員  この図1と図2の縦軸の方について伺いたい。図2の方には、毒性換算値であると記してあるが、その毒性換算値が一体どういう毒性の換算値なのかということを伺いたいという質問が1つある。そして、図1の方は、この縦軸の方をどういうふうにとったのかということだが。
  その質問の意味は、つまり特に環境ホルモンの問題で、その毒性を議論するときに、すぐこの毒性換算値のみで議論する人たちがいる。それでその場合に、一般的に使われる毒性換算値は、いろいろなカテゴリーがあるが、割と一般的にいろいろな物質の毒性について議論する場合に、発ガン性とか遺伝の異変を起こす変異性とか、そういうことが問題になる。そういうことだけ問題にすると、環境ホルモンの相当の部分は、まさにおっしゃるとおりバックグラウンドの中に埋没しちゃうレベルである。だから、そういう問題の専門家の1人である中西準子さんはもっぱらその立場に立って、環境ホルモンの非常に大きな重大性というのは、やはり世代を超えて非常に深刻な影響をもたらす生殖毒性の問題だと思う。
  その毒性をどういうふうに考えるかという、その視点を抜いちゃうと、これはもう全くバックグラウンドで、それを大騒ぎするのはおかしいみたいな、中西準子さん的な発想になっちゃうと思う。その辺、どうお考えなのかちょっと伺いたいと思う。

○委員  最初の質問だが、これ益永さんのはちょっと覚えてないが、多分I−TEQだったと思う。TEQは現在何種類かあり、いろいろある。だから、一番猛毒の2、3、7、8を基準にしてのTEQだったと思う。したがって、ご指摘のとおり環境ホルモン性に対する毒性ではないかもしれないということに関してはおっしゃるとおりだと思う。
  それから、あと1番であるが、図1の縦軸であるが、これはきわめて概念図であるので、縦軸すら書いてないが、それぞれの量を何となく書いてあるというようなことであり、特に深い意味はない。
  それから、あと環境ホルモン問題に関しては、私自身は危険であるということと、対策をとることというのは、やはり多分かなり違うレベルなんではないかと今考えている。だから、どのくらいのリスクがあるのかということを完全にゼロにして、それを予防的に対処するのが不可能な問題ではないかと考えているので、当面やはりやることは、順番があるのではないか。例えばダイオキシンであるとかDDTのような問題は、やはり十分な対策をとるということだが。フタル酸エステル等は、私は塩ビ自身の生産を、むしろ包装材としての塩ビのようなものをやめてもいいのじゃないかと思っており、むしろ消費型環境負荷を下げていく一環として、ある種の利便性だけを追求し、コストが安いことによって使われているプラスチック類はやめてもいいのかなというような気がする。
  環境ホルモンということを、一言でくくるわけにはいかないぐらい非常に多様な物質群であるので、なかなか難しいが。とにかくすべてを予防原則では対応できないだろうという気はしている。

○委員  この一番最初の図と最後の図があるが、これを見せてもらうと人為的な環境負荷ということは非常によくわかる。私たちがやっている自然環境の問題を少し考えてみると、これを逆さまにしてみて残りのところがバイオスフェアと言うか、生物が生存し得ることになるのかどうかわからない。
  そうすると、2ページ目のところで太陽から製品がつくられて、あとは廃熱にして地球に出ていくという感じのところ、ここのところが減ってくる。人間が負荷をかけることによって。その辺のところをどういうふうに考えているのかということなんだが。
  例えば2ページ目で、太陽から製品の製造と利用と、これは有機物の生産だと思うが、そうすると、そこのところが、図1が進行すると少なくなってくると言うか、バイオスフェアそれ自体が狭くなっていきますよね。

○委員  バイオスフェアに関してはおっしゃるとおりだが、その図3に関しては、実はこれはエネルギーフローを考えており、我々人類が1年間で使う全使用エネルギーを、太陽は1時間で我々にくれていると思っている。
  したがって、もうほとんど変わらないのではないかと。

○委員  それはそうなんだが。エネルギーバランスとしてはそうだが、環境が悪くなってくると、その生物の生産量が落ちてくる。そこのところが非常に環境としては大きな問題なのではないかなということで。そうすると、図1自体が変わってくるのではないかという感じがする。

○委員  そうですね。今回、割合とどちらかと言うとバイオスフェアよりも、人間側を見ており、ちょっとバイオスフェア側の記述が足らないのも事実である。それをどう書くかというのは実は余り深く考えたことがないので、ちょっとのちほど課題とさせていただく。

○座長  それでは、次に「21世紀の情報科学技術」と題してお話をいただきたい。

○委員  私はもともとはコンピュータソフトを研究していたが、今は情報社会論とかメディア論あたりを多少勉強している。
  情報科学ということに関しては、先程ご説明が最初にあったように、アメリカ等を比べてかなりの立ち遅れというものが指摘されている。しかし、例えば99年の通信白書によれば、日本のインターネット利用人口も  1,694万人という数字が報告され、前年度よりは47%増ということで、世帯普及率も10%を超えた。そういう意味ではかなり顕著に増加している。
  そうは言っても、アメリカに比べてまだ日本がなぜ遅れているのかという疑問が当然出てくる。それに関しては、通信事業の規制緩和の遅れがよく言われるが、それだけでなくやはり言語の問題が大きいと思われる。何と言ってもアメリカではアルファベットのキーボードというものをとにかく打てばいいわけで、もともとタイプを打っていた文化なので、そこに障壁がないわけである。
  一方、日本の場合には、かな漢字変換というシステムを開発しなければならなかった。あるいは変換にもいろいろな方式があって、打ち方等についても統一されてこなかったとかいろいろな問題がある。現場で教えるということになると、まずそういった問題を解決しなくてはならない。リテラシー教育1つにしても日本が遅れたことの1つの理由であったと思われる。
  例えばデータベースにしても、アメリカの英語文献であれば、昔の本も今のOCR技術をもってすれば、かなり効率よく電子化することができるが、日本の古い書物などだと、これを電子化するのは容易ではない。そういった理由もあり、多少の立ち遅れがあるわけである。だがこれに関しては、次第に日本も追いついていくのではないかというふうに考えてよろしいと思っている。
  余り大きな話ばかりしていても仕方がないので、では我々は一体どちらに向かって進んでいけばいいのかということに関して、今日は少しお話しさせていただく。
  お配りした資料の6−5−2をご覧になっていただきたいと思う。まず、日本が取り組むべき具体的テーマということで、第1番目として、インターネットや衛星通信を通じて普及するマルチメディア技術の振興が大切だと主張したい。逆に言うと、OSをはじめ基本ハードソフトのシェアを日本がとるのは残念ながら難しいということである。
私自身はもともとはOSなどを研究していた人間なので、そう簡単に手を上げるのかという反論もあると思う。しかし、これに関してはディファクトスタンダードを決める社会的ないろいろな要因があり、単に技術だけではない。よく言われるコンテンツ、アニメとかゲームというところではなかなか健闘しているわけであり、これに関するノウハウはかなり日本も強い。
  それから、インターフェース用のハード・ソフトだが、普通の人たちがマルチメディア技術を使う場合には、必ず人間と機械とのインターフェースが問題になる。あるいは高速大容量、安価なメモリー媒体というものが必要になる。このメモリーは今、DVDとかいろいろなものが出ているが、こういうあたりに関しての日本の技術というのは信用できる。これは国際的にもそういう評価が確立している。
  例えば液晶大画面ディスプレイは医療情報システムなどには絶対に必要である。精細度の低いディスプレイだと、医療用画像データなど送ってもほとんど役に立たない。そういう意味でも非常に高い技術が必要とされる。こういうことに関しての日本の技術は信用できる。あるいは音声入力、これは先ほど言ったキーボード入力に、もしかしたら代わる部分があるかもしれない。
  要するに端的に言うと、基本的なシステムの部分と言うよりは、むしろ家電品、あるいは単体製品というような部分に注目すると、日本も勝ち目はあるという気がする。
  2番目に、にもかかわらずアジアにおいては、基本的な部分においてもシェアをとれる可能性があると考えられる。どういう意味かと言うと、端的には先程の言葉の問題がある。漢字というのは非常に敷居が高いわけで、中国10億のマーケットをアメリカはもちろん視野に収めているが、これはなかなか西洋人には簡単に入れる領域ではないわけである。
  一体、漢字というものをどう見るのか。日本のコミュニケーションシステムの一部として見るというのが従来の近代の考え方であるが、そうではなくてもう少し昔からの漢字文化圏の中の1つのコミュニケーションツールとして見る考え方もできる。私はむしろ後者の立場に立っている。現在、通産省の下部団体である国際情報化協力センター、CICCというところで、アジアの諸国がその言語をインターネット上で使えるようにするという努力をしている。私も委員の一員をしているわけだが、欧米が弱いアジアの言語コミュニケーションを我々が応援するというのは、大変国際的にも意味があることであると考えている。
  ちょっとそれにつけ加えると、今までは国際的なコミュニケーションというのは、英語で行われていたわけだが、ここ1、2年非常に変わって来た。ユニコードというものが実際にメールソフト、ブラウザ、ワープロ等で使えるようになりつつある。例えば、ドイツ語、フランス語にはウムラウトとかアクサンであるとか、いろいろな文字があるが、そういう特殊文字を打ったり、あるいは画面に出したりできる。あるいは中国語の簡体字、あるいは韓国語のハングルといったようなものも、標準的なワープロ、あるいはブラウザを使ってかなり自由に入出力することができるようになって来た。これはユニコードという国際共通コードの普及、あるいはソフトへの実装ということが、ここ1、2年で可能になってきたということとも関係している。
  したがって、こういう部分で我々が貢献をしていく必要がある。ユニコードというのは、もともとはアメリカが発案した国際文字コードシステムであるが、そういう文字コードシステムの設計に積極的に参加して、アジアでのコミュニケーションのレベルを高めていくということは大変意味がある。さらに、翻訳支援も大切だ。単に文字だけが表示されても中身がわからなければ意味がないわけだが、意味理解に関しての支援システムというのを開発するのは非常に大切だと思われる。
  それから、3番目として、情報技術の盲点をちょっと指摘したいと思う。コンピュータと言うと、皆、インターネット、あるいはマルチメディアといったようなことばかり考える。しかし、実はそうではない。銀行とか電力、運輸、流通、メーカー等においては、表向きのパソコンと別に裏でワークステーション、あるいは古いメインフレームなどが動いているわけである。その中には10年前以上昔のプログラム等がたくさんある。以前はコンピュータというのは全部そういうものだったが、今はそういう縁の下の力持ちのコンピュータにはみんなの目が向いていない。
  ところが、そこで大問題が出てきたのは、いわゆる2000年問題である。これはごく簡単なバグだが、もしかしたらことしの末から来年にかけて大変な混乱が起きるかもしれないと言われている。大企業は何とか対処できるとしても、中小企業が問題になる。中小企業と大企業とはネットワークで結ばれているので、それがどういう波及効果を及ぼすかわからない。機械に組み込みのマイクロチップなどはもう調べることもできないという状況である。
  こういう結果に、なぜなったのかと言うと、コンピュータ業界というものは新しい製品の開発で手一杯だったからである。あるいは、人間のようなコンピュータをつくるとか、そういう前向きなことを一生懸命やってきた。新製品開発の重要性は認めるが、果たしてそれだけでいいのであろうか。昔のシステムの保守、整備、何かがあったときに、昔のソフトウェアをどう管理するかということに関しての制度等が、余りはっきり確立されていないわけである。2000年問題というのは、私の意見では単なる氷山の一角である。コンピュータが使われるようになってせいぜい30年ぐらいだが、これから21世紀になったときに大変な問題が起きるだろうと思う。PL責任が問題になってくるかもしれない。昔のプログラムにはドキュメントもないものもある。つくった人もいないというような状況で、訳のわからないコンピュータシステムが我々の生活を脅かすということになりかねない。これは何とかしなければいけないのである。
  最後にまとめると、今、話したような具体的なテーマというのは、決して技術だけの問題ではない。むしろ社会制度とか我々のものの考え方とも非常に深く関わっているわけである。
  例えばインターネットにおけるウイルスの問題、あるいはモラルの問題というのは常に議論されるわけだが、これに関しても非常に混乱した状況にある。例えばモラルというのは、単に悪いことをするのを防げばいいということではない。例えばアメリカには、キリスト教のモラルに基づいて、ウェブ上で妊娠中絶を攻撃するサイトというものがあった。中絶する女医さんたちを攻撃するウェブ、血だらけの何かグロテスクな絵を貼りつけたウェブページである。脅迫された女医さんたちが訴えて、裁判所がそれをやめさせたという事件があった。あれは2つのモラルのぶつかり合いである。そういう問題についてきちっと考えていくことも必要である。そうなると、やはり文理にまたがる情報学というものがどうしても必要ではないか。
  ところが、現状を言うと、そういう人たちを教育する組織や設備、あるいはそういう問題を研究する設備や組織といったようなものはほとんど見当たらないわけである。文科系で言うと、例えばメディア論、あるいは記号学、認知科学、その他情報経済、情報法、その他いろいろある。一方、理科系で言うと情報科学、あるいは脳科学といった分野も入る。情報というのは本来は生命情報であるので、生命科学もはいってくるかもしれない。おのおのの分野ではそれなりの研究がされているが、それを総合的にとらえながら、情報化社会のプラスマイナスというものを正しく分析していく人たちはどこにいるのか。どこにもいないということになってしまうわけである。やはり1つの横断的な情報学というようなものを確立することが必要ではないか。私の書きました本(『こころの情報学』  ちくま新書)は、そういうための第一歩であると思っている。
  今、東大もそうであるが、あちこちでそういう必要性が少しずつ認められてきている。こういうあたりについても、もう少し本腰を入れて考えていくことが必要ではないだろうか。

○委員  今、日本では非常にインターネット、メールを出している人たちって増えているというお話だが、1番のインターネットや衛星通信を通じて普及するマルチメディア技術の振興に関して、インターフェース用のハードは日本は非常に進んでいるとおっしゃったんですよね。ソフトはだめということですよね。
  と申しますのは、実はこのインターネットや何かというのは、趣味とは言えないが、やりたい人たちだけが一生懸命やっている分には日本はすごく一所懸命やっていると思うのだが、社会システムの中に取り込もうとすると、非常に無理な部分というのがまだまだあるんだと思う。
  それはどういうことかと言うと、例えば今ちょっと揉めている介護法案みたいなのあるが、介護で一番大変なのは田舎の方に点在して住んでいる単独のお年寄りみたいなところに、どうコミットメントしていくかみたいなときに、アメリカだとかなり1人住まいの高齢者がいても、その人はもう既にメールで、例えば医者や自分の心の頼りになる人にメールでお話しすることができるんですよね。それはもう前々からやっている。だけどそれって例えば音声入力とかできるようになったり、ボタン1つ押せばいいようになれば、高齢者でも当然日本でもできると思う。それと言うのは、要するにハードの面が発達すればと思いがちなんだけれども、日本では今からもう15年ぐらい前だが、例えば無医村みたいなところから、症状を自分が知らせて来たら医者がそれに対して何らかのコメントを出せるようなシステムをつくりたいというようなことで、ソフトの部分で、じゃどういう質問をしたらいいのかというのをつくったときに、質問に答えてきたものを使うと、全然症状と出てくる診断が合わない。だけどアメリカではそれが随分前から使われていて、どうしてそれができるようになっているかと言うと、ことしは何年何月何日ですか、何代の大統領はだれですかとか、全く医療関係とは関係ない、例えばどこが痛いんですかということじゃないところから、まず質問書ができていて、そしてまず質問書ができると、その質問書でその人間が、どれくらいの知識レベルとか、物事の表現能力があるかというのを先にそこで読み取っちゃって、この表現能力、この知識レベルの人が答えていることだからというのを、今度は専門の質問のところで加味した上で、だからこういうことを言っているというふうにしてあるから。そうすると、この人の痛みの具合でも、痛いという一言しか言えない人と、鈍痛なのか疝痛なのか、その細かいところまで言える人とでは別ですよね。そういうのがこの人の表現だとここまでだから、でもここからここまでの範囲の診断はしておかなきゃならないというようなところが、何かすごくうまくできているんですね。
  そういう点で、私は、やはりソフトがうまくできない理由というのが何なのかがちょっと知りたいんですけど。

○委員  ソフトの方が弱いというのは事実である。比較的ベーシックなソフトの場合には、基本的にはアメリカの製品を日本語化して使うものが世界標準になっている。そういう事情がまずある。つまり、メールソフトとか、ブラウザだとか、そういうレベルのものだと日本で何かつくると言っても、OSがソース公開されていないので、うまくつくれない。インターフェースは一部見えているが、それに合ったものをつくるというのはなかなか難しかった。
  しかし、今、今井先生がおっしゃったのは、ちょっと違う話で、もう少しアプリケーションレベルの話である。アプリケーションレベルについては、日本の製品も成功する余地はあると思う。
  今おっしゃった例について言うと、少し前までは日本では遠隔医療は認められなかった。インターネットで診断することは基本的にはできなかった。つまり本当の意味でのニーズはあるんだけれども、まだ社会のシステムがそれにちゃんとフィットしてなかった。これからはそれが変わって、遠くの無医村とか離れ小島などに、東京のお医者さんが情報を与えるというようなことが認められる時代になっているので、改善の可能性はある。
  医療の情報化というのは、私自身もちょっと検討しているが、大事な問題だと思う。
  先生のおっしゃった、いろいろな人たちに応じたシステムについてだが、アメリカはもともと多文化多言語の国だということを、かえって逆にメリットに変えた。それできちっと対応しようとやっていると思う。逆に言えば、日本は近似的とはいえ一言語一文化だとすれば、つくりやすいはずだ。私としては好い方に変わってくる可能性はあると思っている。

○委員  今日いただいた資料、まだ見ている暇がないから全部が関係するものはどうもぱらぱら見るとあるようなんだが、必ずしもそれを踏まえた意見にはならないと思うが。
  今、非常に情報化に関して大事なのは、やはりバイオと情報というのが日本の技術の面で21世紀の日本を考えたときに、一番日本という国の国力に関係しながら、同時に日本が非常に遅れている。これをやはり何とか体制的に立て直すという基本的なものの考え方が必要だと思う。
  きょう1つ参考としてお配りしてもらったバイオの方の生命科学の世紀に向けての資料の中で、ここで生命科学の目次にある参考2の4、5の戦略的推進とか、生命科学の戦略的な推進の仕方とか、それの非常に重要な戦略的推進法の1つとして、新世代型先導研究機関という提案をしていて、これはこの前のときにちょっと申し上げたのだが、読んでいて、ああなるほどと思うところが相当ある。まさに情報科学の方においても、こういうもの、つまり戦略的な新世代型の先導的研究機関というものを国として考えるということが必要じゃないかと思う。
  今のお話にありましたように、結構日本は家電とか単体とか、要するに民間がそれなりに商売のために研究している部門においては、それなりのものをやっているわけである。しかし、ちょっと商売を離れた本格的な基礎的な研究ということになると、情報科学においてもそれがやはり相当不足しているわけである。最近いろいろなところで、そういう情報科学の研究所を設けるべきであるというような意見が出て、たしかこの前、この会をやっていたときに、向こうの方でやっていた会の看板だけを見たが、そういうところの話し合いをしていたようで、そういうことが進みつつあるとは思うが。やはり民間に任せておいただけではどうしてもいかない。国権、あるいは大学というような商売系を離れて本当の基礎的なものを先導的に研究するというものを、やはり国として考えるということが、この生命科学の方を参考にして、やはり今、提言されるべき事項として1つあるのではないかということである。
  それから、もう1つは、先ほど配っていただいた6−3の21世紀の科学技術の展開方向の中に、一連の情報関連の資料があるが、これの情報リテラシーのところで、郵政省の通信に関する現状報告の中にあるデータ、これをたしか僕はほかのもので見たことがあるが、これを僕は見たときからおかしいと思っているが、日米の情報リテラシーの格差というのは、これはいろいろな現場を知る人間としてこんなものじゃないと。もう本当にものすごい情報リテラシーの格差がついてしまっている。ここを何とかしない限り、とても情報科学の面でアメリカにキャッチアップしていくということはできないと思う。
  それで、僕は、大学でそういう情報教育の面を実践的にやった人間として、学生たちに一体大学でどの程度の情報教育を受けたのかということを相当綿密に調査したら、これがもう本当に、東大は先進的な情報教育をやっているという話だが、事実上ほどんと実体がない。
  どこが一番いけないかと言うと、要するに自動車学校で言えば運転の技術だけ、要するにここを押せば何が出てきてどうなるという、本当にもうその場だけのことしか教えてなくて、自動車教習所でもやはり構造というのをちゃんと教えるわけですね。コンピュータってそもそも何なのか、どうなっているのかという、そういう構造の基本みたいなものを全く教えてないわけですね。これは当座の運転技術みたいなものは、自動車をずっと何十年も同じような運転技術でいきますけれども、情報の方はどんどん中身が変わっているわけですね。そういう本当に小手先のワザを教えただけでは、全くこの情報化社会に対応する人材というのは育てていないわけで。
  先ほどお配りいただいたこの資料の中でも、情報リテラシーのうしろに大学における情報専門学科等の推移なんていうのを見ると、何かいかにもぐんぐん伸びているようにも見えるが、その中身は本当にお寒いものであるということを踏まえて、やはり情報リテラシーというようなことを、もうちょっとちゃんとするためにどうすればいいのか。それは研究機関、教育機関両方の問題として、やはりこういう科学技術会議みたいなところで考えていくことが今、一番重要な問題の1つであると思う。

○委員  私が本来申し上げなければならないことを、いろいろとわかりやすく説明してくださいましてありがとうございました。

○委員  非常に簡単な質問だが、先ほどユニコードについて言及されたが。情報単位は例えばタイ語とか日本の漢字、しかも中国の簡体字に対して十分なだけのものが、余裕を持った形で決まったのでしょうか。

○委員  ユニコードというのは、実はユニコード1、2、3というバージョンがあり、今は2だがもうすぐ3が出る。それで結論から申すと、ユニコードと言うよりは、正式にはユニコードを採用したISOのコードだが、ISOのコードで言うと、近々に世界中のすべての公用語がおそらく包含されるだろうと言われている。
  漢字というのは今、ユニコード2では2万 902字入っているが、それでは足りないという意見がもちろんある。だが今年中に新たに 6,000字か 7,000字ぐらい加わるし、さらに将来はこれに加えて、約6万  5,000字だから、大体合計すると9万字ぐらい入るはずである。
  いろいろな辞書があるが、諸橋さんの大漢和辞典も5万字ぐらいであり、9万字あれば、我々が日常使っているのが 5,000字ぐらいなので、まず、いいんじゃないかと思われる。今のISOコードというのは2バイトコードであるが、4バイトコードにすればキャパシティとしてはもう大丈夫である。

○座長  情報の問題は大変大きな問題だと思うが、これについては、今、委員からいろいろお話しいただいたこと、それから委員の方から出た疑問、質問等踏まえて、科学技術会議の中に情報部会があるので、そこで現在検討してもらっている。その中から、ともかく早急に日本がやらねばならない課題をできるだけ早くまとめていただいて、実現していくということにしたいと考えている。やはり教育面でも研究面でもやらないといけないことは非常に多いし、確かにここのデータを見ると、例えば情報の学生が増えていると言っても、それは大学の学部・学科の名称に情報がついているだけであって、内容が本当にこれからの情報学にふさわしいかどうかということは、必ずしもわからんわけですね。だから、その辺の問題も含めていろいろ考えていかないといけないだろうと思う。
  それでは、時間の都合もあるので、今度は「生命研究から見た21世紀の科学技術」と題して意見を伺うことにしたいと思う。

○委員  今までにもこの会の中で、21世紀は生命科学が大事だというようなお話は何度も出ていますし、今日いただいた資料でも、参考1は「バイオテクノロジー産業の創造に向けた基本戦略」、参考2は「生命科学の世紀に向けて」という懇談会の資料であり、6−3の資料にもたくさんのデータが示されている。
  当面、これらが大事だということは、そのとおりだと思うが、これに加えて同じようなことを申し上げるのは避け、私が大事だと思っていることを、違う側面から加えさせていただきたいと思う。
  この会のテーマは、「21世紀の社会と科学技術」であるので、科学技術だけを狭く考えるのでなく、社会との関わりに注目してお話しさせていただきたい。
  資料6−5−3にあげた項目に沿ってお話しする。1番は社会の展開方向で、別紙0を見ていただきたい。現代は、機械論的世界観の中にあると思う。人間と自然の間に人工を入れて…人工は科学技術だけでなく制度や都市なども含むが…そういうものを間に入れて自然をコントロールしたり、自然を利用したり、自然の脅威から逃れたりする。そうやって人間生活を豊かに暮らしやすくしようというのが、20世紀型だったと思う。
  けれども、安井先生のお話にもあったように、ここに多くの問題点が出てきている。そこで生命科学が大事だというのは、狭い意味の生命科学を進めていくと言うのではなく、生命という切り口でものを考えていくように21世紀には変わるという意味があると思う。人間はヒトという生物で、それは自然の一部である。しかし、人工的世界を豊かにつくる才能を持っており、文化・文明を有する人間でもある。その人間が間に入って、自然と人工との間を上手につないでいく。そういう生命を基本にした、生命論的世界へと21世紀は変化していく。科学技術もこの中で動かしていくようになるのではないかと思う。
  その中で、日本に注目すると、日本の従来の文化の中では、ヒトは自然の一部という考え方だったと思う。ところが、明治維新で近代国家になろうというときに、ヨーロッパに学んで自然をコントロールしていくという考え方に近づいた。次いで、第2次大戦後には、主に米国に学び、なるべく自然離れして、都市化し、物質的に豊かな生活をつくっていこうという流れができた。
  けれども1970年代、安井先生の資料にあったように、この方向に破綻がきた。私はこれからの科学技術を考えるには、生命を基本にするのがよく、日本の自然を基本にした文化は、それをつくるのに向いているという利点を活かしていくべきだと思う。そしてどんどん世界に提案していく。ただ、もちろん他から学ぶものがないということはないのであって、これからも学ぶべきことはある。それから、競争もどんどんしていき、協調もしていくという時代に今あると認識している。
  2番目は時間軸の設定。事務局が毎回まとめてくれる、委員の意見を拝見すると、どれもその通りだと思うが、全部をどうやってまとめるのかと思う。そこで、生命という切り口でまとめると、これに一貫性を持たせることができる。そうしないと、今すぐ特許が大事で、それで競争しなければならないというのと、大きな環境問題を解決していくというのとは両立せず、当面の対応が必要な競争のところだけで話は終わってしまうということになりがちだと思う。
  まず生命という切り口で、一貫性を持たせ、そのあとでいくつかの時間軸を決める必要がある。当面はここにあるような競争的な機関をつくる。20年先、50年先を考えたらこれが必要だということもきちんと対応した考えを出す。こうして、それぞれに対応した認識と方策をつくっていく。それが不可欠だと思う。
  それではそれができるかと言うと、別紙1を見ていただきたいが、私は今、できるように生命科学は準備していると思っている。その1例として、ゲノムを中心にまとめた。生命を見ていく学問がばらばらになっているのは、生命に階層性があって、物質から生態系までそれぞれ別の学問がある。それらは方法論も違うし、考え方も違うというようなことだった。ところが、ゲノムは分子から生態系までどこにもあてはまってこれをつなぐことができる。しかも、同時に普遍と多様、ミクロとマクロ、学問と日常のようにこれまで乖離していたものもつなぐ。つまりゲノムという切り口で、生物界全体を総合的に見渡せるわけだ。今、生物学はこういうところにきているので、一貫性を持って考える素材はあると思う。
  それを具体的に進める方法が2番で、学問を連関・統合したり、学問と社会を連関・統合したりするのである。ゲノムを基本に置き、真ん中は生命科学の重要分野であり、細かいことは申し上げない。先程いただいた参考2の生命科学の世紀に向けてや、文部省の学術審議会のバイオサイエンス部会で議論されている内容を基にして、今、大事と言われている分野を書いた。もちろん落ちているものもあると思うが。
  今、大事なのは外側で、右下に情報科学・工学など他分野とある。ゲノム、ゲノムと言っても、ゲノム情報科学と書いたように、単に塩基配列を分析しただけでは何もわからないわけで、そこにどんな情報が書かれていて、いつ、どうやってタンパク質になって、どこで働くかというようなことを解くには、どうしても情報科学・工学からの考え方や技術が必要だ。
  左上の環境は、脳の場合などはっきりする。生命体、生命現象はゲノムで決まっている部分だけではなく、環境からの情報がゲノムに反映されるなど環境との関わりがある。それから、研究を進めていけば右上の医療や農業などの科学技術につながっていく。それから大事なのは、左下のゲノムに書き込まれた歴史性や関係性が、今、どんどん読まれ、そこから進化や生態系についてわかってきているので、それを基にして文科系の方たちが、文化や人間観、自然観の問題を現代に合わせて考える。こういう形での連関・統合は全てできると思う。
  ここに参照と書いたのは、科学はやはり機械論的なイメージがあるので、こうなると宇宙研究や地球研究も、宇宙誌、地球誌となり、私は生命誌と言っているように、誌というような考え方で見ていく方がいいのかもしれないと思っている。これは私の個人的考えである。
  次いで、4番目。学問は今述べたように連関をつくっていくことができると私は思っているが、社会と科学技術であるから、それが社会にきちんと入り込んでいかなければいけない。先程価値観や制度が大事だとおっしゃったが、社会がそれを受け止める価値観や制度を持っていないとうまく入っていけない。
  20世紀型の社会を、15分の中でお話ししなければならないので単純にまとめると、別紙2になる。人工・自然という軸と、効率・ゆとりという軸をつくった。今の科学技術、それから今の文明は第1象限で進んでいる。本来人間は、自然とゆとりのところにあるわけで、例えば農業などは余り第1象限にいってはまずいと言って、第3象限に引っ張ろうと思うが、そこへ戻るというのは無理。ここできしみが起こってしまうわけである。これが20世紀の現状。
  そこで、私は、上の奴さんの形にしたらどうかと思っている。つまり、2象限と4象限を考えることだ。農業を例にすると、横に筋が入った矢羽のところが農業のテリトリーと考えてほしい。基本的には、効率はもちろん考えなければいけないが、自然や地域性をきちっと考える。
  しかし、この矢羽の右の第1象限に入っている小さな三角のところは、例えば遺伝子組換作物の研究開発などは、人工・効率という形でどんどん進めていかなければならないと思う。それを実際に使うときは、この象限で使うと危ないので、ちゃんと第2象限へ持ってくる。
  それから、第3象限に小さな三角があるが、例えばこれは定年後にゆったりと農業をやりたいとか、自然農業を楽しみたいという農業もあってもよかろう。そうすると、この矢羽になる。時間がないので省略するが、医療は下の方の矢羽になるだろう。
  今、制度や価値観、組織を斜線を入れた部分に入れることによって、別紙1で行なった成果を社会に定着させられるのではないかと思っている。
  そのためには、たくさんのシステムづくりが必要だが、今日は細かいことは省略させていただく。そういう中で、科学技術の社会的評価をしていかなければならないと思う。先程、ブタペストのお話があったが、私もたまたまIUBS(バイオサイエンスのインターナショナルユニオン)の会があったので、そこに参加した。多分私は初めてのような気がするが、そこではサイエンス・アンド・ソサエティではなくて、サイエンス・イン・ソサエティという言葉が使われていた。私は以前からそうであって欲しいと思っていたので、これはよいと思った。そこで社会の中での評価だが、別紙3に1例を書いた。事務局の説明にも、クローンの問題があるという話があった。けれども、日本ではそれは問題だと言い、倫理だと言うが、ただ倫理だと言っていても、何を議論して、どこに答えを求めるのかということは明確になってこない。
  これはたまたまアメリカで出された議論をまとめた本だが、面白い議論がされていたので、翻訳をして、来月ぐらいに出る。題は是か非かとしたが、実は是も非も答えは出ていない。考えれば、考えるほど、なぜヒトクローンをつくっていけないのかという答えは全然出てこない。けれども、いろいろな立場の議論があるという例だ。
  例えば宗教からの展望という書には、さまざま宗教の考えが書いてある。カトリックはもちろんノーと明快に言っているが、ユダヤ教のラビの中には、今、存在している人の命を救うのがとても大事なので、その人のためにクローンをつくって、命を救うのがなぜ悪いのかという議論をする人もいる。
  それから、ホモセクシャルの人たちからは、ホモセクシャルの夫婦が認められているのに、その人が自分の遺伝的なつながりを持った子供を持ちたいという気持ちを、どうして抑えなければいけないんだ、そのためにはクローンニングしかないではないかという議論も出ている。
  実はこれだけ議論しても、どうしたらいいかという答えは出てこないので、第5部は小説と詩の事で、こういう問題はイマジネーションをフルに活用して考えていくしかないというメッセージなのかもしれない。
  私は、今、答えがあるかないかということより、これだけの議論をするという作業が、日本ではなされていないというところに問題点を指摘したい。これはやはり大事な点ではないかと思う。
  最後に6、これはちょっと余計なことだが、今までの皆様の発表や今日いただいた資料の中で、日本の科学をのばすために重要なことは何かが指摘された。教育が問題だとか、研究者の層が薄いとか、予算をもっとつけなければいけないとか、新しいタイプの研究所が必要だとか、社会の中に理解が足りないから科学館をもっとつくって人々の理解を求めなければいけないなど、いろいろなご意見が出ている。どれもみなもっともだと思うが、それをやっても決定的に欠けているものが1つある。
  それは、具体的に言うと、イギリスの「ネイチャー」という雑誌である。私は、日本がそういうものを持たなければ、リーダーシップをとった科学技術創造立国にはなれないと思っている。「ネイチャー」という雑誌はご承知のように週刊誌で、普通の会社がつくって出している雑誌である。それはしかし、世界中の研究者がそこに載せたい、そこに載ったら非常にそれがステータスになるという面がある。けれども、それは学会誌ではなく、そのときのさまざまな国の状況とか政策とか、いろいろなことが載っているし、評価が載ったりしている。
  もう1つ、アメリカに「サイエンス」という雑誌がある。これはAAASというところが出しているので、ちょっと「ネイチャー」とは母体が違うが、やはりそのスタイルは同じである。私は、「ネイチャー」や「サイエンス」を持っていることが決定的な差になっていると思っている。今、すぐとは言わないが、10年、30年、50年先を考えたら、最も大事なのは世界的な発信と評価の道具を持つことではないか。最初は、国が予算を出してでもつくっていくことが望まれる。私は、今、一番大事なことは何かと言われたら、それだと思っている。そういう雑誌を出すときに、基本理念は何かと考え、それを雑誌の名前にしたら何になるかなと思ったら、「ネイチャー&サイエンス」がいいんじゃないか。

○座長  この委員会のまとめまで念頭に置きながらお話をいただきましたし、最後はちょっと落語のおちみたいな感じもありましたけれども、どうもありがとうございました。
  
○委員  これは議論と言うより基本的な考え方の違いなのかもしれないが。私は、医者というのは自然科学だからかもしれないが、科学というのは自然の子だと思っている。そういうふうに考えると、今おっしゃられたいわゆる自然を利用するとか、自然をコントロールするとか、人間がやってきたことは自然の脅威から防御するとかという、自然を向こう側に置いて、それを人間が使うにしろ使わないにしろ、どういうふうにするかということではなくて、まずもう絶対的な自然の中に、自然の持っている摂理とか法則に対して、自然の理法をチョイスしてくるというのが人間の仕事だと思う。
  そういう面で、やはりもともとのベースのところが科学として違っていると、やはり話が全く違うんじゃないかなと。要するに、どんな形でどういうエネルギーを地球が持っていようがいまいが、中にある分子もしくは原子レベルでは、どういうふうに形が変わろうが何しようが変わらないわけだから、その辺を基本的に持っていないと。自然から学ぶというような部分が、何も入ってなかったような気がしたので。

○委員  私はまさに同じ事を申し上げたつもりで、もし皆様に違って理解されていたとすると、私の話し方が悪かったと思う。私が提案しているのは別紙0の下のスキームであり、ここではヒトは自然の中にすっぽり入っている。そこから多くを学んで、人工の世界はそれに対応するように上手につくっていかなければいけないと書いているつもりである。

○委員  生命科学の最新の成果とそれに基づく将来像について、大変見事にまとめていただいて、心から敬服した。
  ゲノムを中心にするというアイデイアには私も大賛成である。ヒトゲノムプロジェクトが大詰めを迎えた今強調されるべきことは、ヒトの「個性」なり「個人の尊厳」ともいうべきものがゲノムレベルで(遺伝子多型の存在を通じて)明瞭に示されたことではないだろうか。先生が別紙1に美しくまとめられたスキームのどこかにこの重要な視点をはっきりと組み入れていただけないだろうか。

○委員  個体というふうには書いてあるが、今、先生がおっしゃったのは単に動物の個体という意味ではなく、心とかそういうことも含めた個という意味だと思うが。

○委員  ええ。それがいわばゲノムで明らかになったと言えますよね。

○委員  そうですね。それは人文科学の方に参加していただく文化観の中に、当然活かされると思うし、医療の中にも活かされるという気持ちは私の中にあるが、そういうことをうまく入れ込めてないかもしれないので、ちょっと考えさせてほしい。

○委員  本当、私はこういうところに出てきたくなくて、地味な研究者でいたいが。と言うのは、実は私は長い間、委員の下で地味なリサーチをやっておりまして。むしろ現時点で委員の直感をお聞きしたい。先程から、最初の委員のところには、公開合議制、要するに科学と社会のある種の歪んでいる情報のフィードバックをかけながら、何らかの合意に達するためには公開合議制ということがあって、私もこれは原則的にはそうだと思うが。
  それから、もう1点、別の委員から、結局環境ホルモンの問題というのは生殖毒の話だというふうにありましたけど。これは室長の下でずっとやっていた私は、優生学史の最も基本的なテーマだったわけで、そういう意味では、私は大分以前に環境ホルモンの議論をすると、結局全く善意でありながら、優生学の議論に極めて接近するというコメントをつけたことがあるのだが。
  何が言いたいかと言うと、私、実は委員が設計した研究室をそっくりそのまま受け継いだあと、地味な研究をしているが。ともかく、生命倫理とかそういうものについて、まともに研究をしているところが全然ないと。それは、倫理問題、あるいは価値の問題というのは個人が悩んで決断するもので、社会が議論をしないといけないのは何らかの技術規制なり、どういう共通の了解で、どの程度の技術規制をしていくのかということについての、ある種の合意形成であり、その部分のきついものについてどうしても政策立案をしないといけない。その部分について、なるべくいい科学情報が社会の方に流れた方がいいと思うが。
  私、つい最近、日本生命倫理学会から原稿依頼を受けて、日本の生命倫理研究批判というのをやり、それで日本の生命倫理研究にもう金を流すなと。要するに現場に全然流れてこなくて、変な諸外国の文献だけをサマリーして、シンポジウムをやって、それでいいお話が終わったと言って、結局世の中の合意形成は何も進んでないと。こういうしょうもない研究というのは、人を騙すだけだからやめちまえというようなことを書いたのだが。
  何が言いたいかと言うと、要するに目先の問題が、アジェンダセッティングがともかくかなりはっきり言っていい加減で、ともかくそれがある種のニュースとして目の前に消費されるために、科学の問題も議論されて、実際の腰の据わった研究ということをやるセクターというのが何もなくて、委員が出られたあとも、我が研究室がまず何をやるかと言うと、まずマスコミとの喧嘩である。要するに我が研究室に割と慎重論のコメント依頼があるが、そもそもそのアジェンダセッティングが間違っている。うちはそういうアジェンダセッティングにコメントをつける気はないと言うんだけれども、結局そのコメントにさせられる。とりあえずそういう紙面ができるだけで、世の中どんどん過ぎてしまい、また来年は別のアジェンダで、いかにも疑似科学的な議論がされるということが多分、委員が上にいらしたときと事態は全く変わってないと言うか。
  それを考えると、先程一番最初に委員が言われた公開合議制の具体的なイメージが、日本ではどういう形で現時点で直感的に可能だろうかということを、ちょっとサイエンス・イン・ソサエティというアジェンダセッティングをされ、多分、私もそうだと思うが、ある意味で社会に埋め込まれると言うのではなくて、ある種の社会との緊張関係を持ちながら、サイエンスというのは、なるべく社会が合理的な判断をしながらも、なおかつサイエンスはある種のインディペンデントを確保しないといけないと思うのであるが。そのあたり、日本では一体どこがそういうセクターになり得るのかということ、もし何かイメージでもいいんですけども、お考えがあったら。

○委員  私が20年ほど前に生命倫理と訣別した理由は、今、縷々おっしゃったことを提案してもまったく反応がなかったからなので、全然それは今も変わってないというのは事実だと思う。私はやはり改めて科学技術会議にそれを期待する。

○座長  倫理の問題は非常に難しい問題でありまして。

○委員  と言うのは、1つ言うと、要するに過去の問題整理がちゃんとできてな
いのが一番大問題で。私、アメリカの優生学というのは非常にたくさんやったが、ワトソンは97年か何かのゴールド・スプリングハーバーの年報で、少なくともアメリカの過去の優生学がどういうことをやってきたかということは、彼が非常にバランスのいいレビューをやっていまして。過去のアメリカが、DNA問題に研究を突っ込むことについて、今までいろいろ倫理問題その他やってきたが、少なくとも一番気にしている問題について、一番のキーパーソンがちゃんと非常に長文の長いレビューをしているわけである。
  こういう研究セクターが、掛け声だけは滅茶苦茶あるが、なぜなくて、何か部分的には地味な私どもの研究室に、滅茶苦茶にコメント依頼が来るというのはよくわからない。

○座長  たしかにこういう科学の倫理とか、医療倫理の研究者が極めて少ないというのは非常に大きな問題だろうと思う。
  ただ、この問題は次回のこの会合で、科学者、技術者の社会的責任ということで議論をしていただこうと思う。その中で倫理の問題も議論をしていただこうと思うので、今日はちょっとこの辺で打ち切らせていただきたい。

○委員  貴重な時間ですから発言するのやめようかと思ったが、ちょっと一言、言わせていただく。
  本日、取り上げてもらった環境、それから情報、生命、これらはいずれも日本が非常に立ち遅れている領域であろうかと思う。私、あえて競争と言わなくて、つき合っていくとか、あるいは寄与していくという言葉を使いたいが、世界的に日本がちゃんとやっていくためには、これらを大いに充実しなきゃいけないということ。例えば生命科学と言えば、この参考2のような線で非常に充実していただくということは大賛成である。やはりちょっと言われたように、ロングレンジで日本はどうしてこういうことに対して遅れをとったかということを、もう少し深刻に反省する必要があるのではないかと思っている。私はやはり、日本の学術体制に相当大きな原因があるのではないかと。かなり縦割りが強くて、日本はフレキシビリティに欠ける学術体制、社会もそうかもしれないが、そういう体制をとっており、これを何とかしなきゃいけないと。例えば情報科学について言えば、情報科学は大事だということになると、何とか情報研究科というのをつくったり、情報学をつくったり、そういうことで誤魔化してしまうわけである。内容は、どなたかおっしゃったとおり何もちゃんとした学問教育をやっていないということである。ここのところをどういうふうに、これまで縦割りの学問がすべて悪いと言っているわけではなくて、私はこれはしっかりしていないといけないと思っているが。
  生命、情報などはそれらといわば縦糸・横糸の関係にあるような領域であり、そういうものを日本の学術体制にこれからどういうふうに有機的に、あるいはダイナミックに取り入れていけるかということが、やはりこれは高等教育の問題であるが、そこのところは日本に課せられた、50年、 100年の問題であろうかと思い、そういうことに対して提案をしていきたいと思っている。
  次回、何か座長から話しをするように言われているので、少しそういうことも議論させていただきたいと思う。

○座長    今、ちょっと出たことと関係があるので、少しここで。最後に申し上げるつもりだったが。実はこの社会と科学技術の委員会で、科学技術か科学・技術かということを議論をされまして、それについては一応の結論を出したつもりであるが。しかし、考えてみると、日本は明治時代に西欧から科学及び技術を受け入れてきたわけだが、その受容の仕方にかなり大きな問題があったんじゃないかと。だからどちらかと言えば、その科学の生み出す果実を手にすることに熱心であって、その科学自身の木を育てるということを余りしてこなかったと。そういうことが 100年以上経っても、いまだに尾を引いているのではないだろうかということが考えられるわけである。
  だから、今、言われた学部のいろいろな壁の問題以上に、その科学というものに対する基本的な姿勢というところに問題があって、日本の産業が行き詰まると科学技術、科学技術と非常に大きな声が出るが、お金が有り余っているときにだれも科学に金を出そうと言ってくれないという状況が、今までの日本にあったわけである。
  だからこの問題は、8月21日と22日、土日に京都の日文研で少し泊まり込んで議論をしようかと。その中で、今の大学の制度とか、あるいは教育の問題も含めて、これから21世紀、日本がどういう方向に行くかというその基本として、一度日本の科学受容の歴史をき
ちっと整理して評価しておくことが必要ではないだろうかというふうに考え、ワーキンググループでやりたいと考えている。
  それで、一部の委員の方々にお願いをしているが、この委員会の方々、それから科学技術会議の政策委員の方々で、都合がついて出ていただける方がありましたら、今週中に事務局まで連絡をいただければ幸いである。だから、テーマは、今、申し上げたように、日本における科学及び技術の受容の歴史と問題点というふうなことで議論をさせていただいて、それをこの委員会のまとめの最初に1つ取り上げて、今後どうすべきかということを提言したいというふうに考えている。
  21日土曜日の午後、一応2時ぐらいからの予定をしているが、それから始めまして、1泊していただいて22日日曜日の午前中に終わるというスケジュールでやりたいと思っているので、ご出席いただける方はぜひ事務局まで、ご連絡をいただければ幸いである。
  ちょっと総合的な討論を十分する時間がとれなかったが、先に他の問題を少し事務局から報告してもらい、最後にまだ時間があれば少し議論をしていただくということにしたいと思う。

(事務局より資料6ー4について説明)

○座長  さっきからパブリックオピニオンの問題、あるいは新しい、いろいろな技術に対するパブリックアクセプタンスというようなことを、どのようにして知っていくのかというのは、非常に難しい問題でありますけれども、その1つとしてこういう形でインターネットで意見を求めてみようと思う。
  ただ、この2つの課題が適切かどうかというのは、ちょっと問題がありますので、何かご意見があればお伺いしたいと思う。1つは、21世紀の日本のあるべき姿と科学技術の果たすべき役割。もう1つは、21世紀の予測、その辺を取り上げているわけだが、それよりももっと重要な問題があるよということであれば、お伺いをしたい。

○委員  1つは、こういう一般国民を対象とする意見募集だけではなくて、今の日本にとって非常で喫緊に重要なことは、特にこの科学技術に関して、それは科学技術の研究現場、あるいは教育現場にいる人たちの意見を集めることだと思う。それは、今まさに明治 100年以来の日本の科学技術、あるいは高等教育の体制が問題になっているというお話が座長の方からありましたけれども、まさにそのとおりで。今これからここ数年の我々の社会が、明治 100年を経て、今、我々は非常に大きな規模の科学技術に関するソーシャルな、あるいはポリティカルな制度設計そのものの変更を今、我々は迫られているという状況にあると思う。
  それがまず迫られている状況というのは、1つは科技庁と文部省が一体になって、その調整が一体どうなって、どういうことを、どう受け持つのかという、これはもうとにかく両行政機関が、これから相当揉みに揉むところで、その結果がこれからの科学技術の日本のあり方について非常に大きな影響を持ってくるだろうと。
  これが同時に非常に大きな関係を持ってくることですけれども、大学と国研の独立行政法人化という問題が今、出ている。この前、何か独立行政法人化に関する通則法というのが出たというお話を伺っているので、それに関する資料をあとで事務局でいただきたいと思っているが。それがここ数年以内に、これも一体どうするのかの具体的な内容というのはまるで決まってない。しかし、それはもう本当にここ数年以内に、一挙にその具体的内容を決めていかなければならないわけである。
  そのときに、じゃこの科学技術会議が、その新しいそういう制度設計の中で、どういう役割を担うべきかという、その制度設計の一番の中心というのは、この科学技術会議の主体的なあり方の決定というのが、僕は非常に大きな意味を持ってくると思うわけである。  今、大学とか国研の人たちは、特に独立行政法人化の問題について、非常に心配と言うか、いろいろな議論をしているところで、そこにものすごくいろいろな意見があるに違いないと思うわけである。それを、積極的に今、拾い上げて、日本の科学技術のこれからのあり方を、本当にこういう形でも意見を広く集めて、広い議論をした上で、その制度設計をやっていかないと、これからのおそらく半世紀は、ここ数年の要するに我々の社会という意味ですけれども、その決定でものすごく多く左右される。つまりそういう時期であると思うので。1つはそのことをこの一連の会合の中で、アジェンダに1つ取り上げていただきたいということと、それを議論するために必要な資料というものを事務局の方でお配りいただきたいということと。
  それから、そういう資料の1つとして、実はここに石井先生と廣田先生、宇宙研の評議員でご一緒にしてますので、そこでこのことが相当話題になりまして、そのとき資料として配られました、東北大学の藤田先生がお書きになりましたジュリストの論文というのは、これを読んで実に参考になりましたので、それに石井先生のご意見がプラスしたものは、非常に重要な意見を含んでいると思いますので、もしできれば少なくとも藤田先生の方は石井先生がOKであればそれも加えて、ここの委員の方々に配って。やはり独立行政法人化というものを、どういうふうにこれから考えて、そのあり方をどう決めていくのかということを、今、議論し、その新しい体制における科学技術会議のあり方、これは僕は本当に非常に重要と言うか、独立行政法人で一番問題になっているのは、この年度計画とか中期計画とかという計画を出すというような話を、一体どうやって実践していくのかという判断。あるいは評価の問題とかいろいろあるわけである。
  その辺のところに対する指針、そういうものを出せる機関というのは、まさにここ、ここというのは科学技術会議という意味だが、ないと思うわけである。だから、これをやはり今、一所懸命衆知を集めて議論する必要があると思う。

○委員  21世紀の予測というのを、何のためにやるのかが、よく判らない。未来予測は、科学技術庁で既にデルファイ法で積み重ねてこられているわけですね。インターネットでそれをまたやることによって、何を期待するのか、その結果を何に活かすのかというのがよく見えてこない。イギリスでご承知のようにテクノロジーフォーサイトというのをやっていて、ある意味では一番組織的な重点領域の設定作業だと思うんですけれども。
  イギリスの人の話では、ヒントは科学技術庁がやっておられるデルファイ法の調査から得たと言うんですね。日本が本家ですよと言われた。ただ、その後の展開の仕方なり、その結果の活用の仕方で大きな差ができた。
  ですから、おやりになるのであれば、何のためにやって、その結果をどう活かすのかということを十分お考えになる必要がある。

○座長  私もきょうはここに来て初めてこのインターネットの話を聞いたので、まだ実は内部でも十分議論をしてなかったことですので、今いただいたご意見を参考にしながら考え直してみたいと思う。
  
○委員  ちょっと今のご意見と同じようなものなんですけれども、結局インターネットで応募してくる人たちのものの考え方というのがわかってないと、この質問2つで、いかにもこれができているのか、できないのかという、何か今まで教育方針みたいな感じになってしまうような気がする。
  結局、先程の話で、私、実はあとでゆっくりお伺いしようと思うんですが、やはりここで私がおいておかなきゃいけないのは、科学技術をもともと人間が自然の子であるかどうかということを問うた上じゃないと、いけないんじゃないかなと思う。その場合、だから私は勘違いしたんですけれども、まだどうしても疑問に残るのは、例えば中村委員の別紙には、要するに医療というのがどっちかと言うと人工とゆとりの方に入っているが、私に言わせれば農業と同じ自然と効率で、しかも地域性の方向に入ってしまう。
  だから、その辺のことを考えると、やはり自然の子かどうかということがきちっとわかっていないと、例えば脳死からの臓器移植と、それからいわゆるネズミの背中に耳をつくらせるような話との違いみたいなところは出てこないと思う。

○座長  いろいろご意見をいただきましてありがとうございました。ちょっとこの問題は、もう一度事務局の方で考えさせていただき、最終的には私の判断で行かせていただくということにしたいと思う。
  と言いますのは、次回の会合が9月になりますので、それまでに少し国民からの意見を聞きたいと思いますが。いろいろ重要な問題を提起していただきましたので、考えさせていただくということにしようと思う。
  最後に次回でありますが、まだ日程を決めていませんので、今日お手元にスケジュール表をお配りしていますから、それに従って、ご出席の方の多い日を選びたいというふうに考えている。次回は、21世紀の科学技術の展開方向の2回目として、科学者、技術者の社会的責任と倫理、研究開発のあり方等について議論をしていただこうと思っている。


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