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21世紀の社会と科学技術を考える懇談会
―  第2回会合 議事録  ―

1.日  時:平成11年4月20日(水)  14:00〜16:00

2.場  所:科学技術庁 第1、第2会議室

3.出席者:

  (委  員) 井村、石塚、廣田、村上、雨宮、石井、今井、宇井、クリスティーヌ、河野、後藤、佐々木、玉井、中島、中村、丸島、薬師寺、安井、米本、山崎、鷲田の各委員
   猪瀬政策委員、矢田部政策委員
  (事務局) 科学技術庁 加藤科学技術政策局長  他
   文部省 工藤学術国際局長  他

4.議  事

・座長  前回第1回の会合では、まず、自己紹介を兼ねて各委員の方から一言ずつ科学技術に関して重要と思うことについてお話をしていただいた。今回も、同じ方法で、今日初めて出席していただいた方からご意見を伺うということから始めさせていただきたい。

・委員  私は、主として研究開発等の統括を行っているが、入社以来、三十数年間、ガラスと化学の分野での基礎的な素材を提供しているメーカーの生産技術について携わってきた。
  実は昨年経団連に産業問題委員会という委員会が発足し、当社の会長がその委員長を努めている関係から、私自身もこの検討チームのメンバーに入って、約1年近く携わってきたが、そういう関係でこの懇談会に出席させていただくことになったと私自身は理解をしている。
  過去に、学術的な意味での研究には余り携わってこなかったのだが、民間の、特に製造業に籍を置く人間として、この懇談会の場でいろいろ勉強もさせていただき、あるいは意見を言わせていただければと思っている。
  ご承知のように、産業問題委員会の検討が、国としても産業競争力会議という形となり、国レベルでのいろいろな検討が始まって、昨今新聞等にもレポートされているので、中身については既に十分ご承知かと思う。一言申し上げると、我々特に製造メーカーとして、日本の国籍を持った企業が日本という国境の中でこれから21世紀に向かって企業活動をしていくのに、いろいろな危機意識を持っているということ。端的に言えば、国際競争力を本当に維持できるのだろうか、維持していくためには何が必要なのかということを主要な課題として取り組んでいる。
  いわゆる欧米に追いつき、追い越せという、キャッチアップから始まったというふうに多くは認識をされているわけだが、これから日本という企業がフロントランナーとして本当に走っていくには何をしなければならないのか。今発展しつつある国々がいろいろな意味での基幹産業等に取り組んできている中で、日本の企業が果たすべきものは何なのかというようなことについても話をしている。中でも、新しい事業であるとか、そういうことに、やはり日本としてやらなければならない課題が多々あろうかと思っている。
  これらは、必ずしも経団連の委員会だけではなく、私の会社も属しているいわゆる化学産業の中でも、2020年あるいは2025年という時代にケミカルの産業がどうあるべきかというようなビジョンづくりもやっているが、その中でも、何がフロントランナーとして必要なのかという議論がいろいろされており、なかなか難しい問題で答えが出ていないというところが現状である。
  そういう中で常に言われることが、産と学との連携というようなことで表現されているわけだが、この辺が、私の知っている狭い世界だけのことかも知れないが、必ずしも今議論されているようなレベルで、日本として本当に効果的なアウトプットの出る形になっているのだろうかという見直しが必要ではないかと思っている。この様な視点から、皆さんとの意見交換の場に加えさせていただければと考えている。

・委員  1回目のときのプリントをいただいたので、それを拝見して、1回目にご出席の方のお考えを何となく把握したつもりではあるし、また21世紀の社会と科学技術を考える上では多分私もほかの方とはそんなに変わらない考え方ではないかと思いながら読ませていただいたので、何も申し上げることもないかとは思うのだが、私自身は医者でもあり、特に強調しておきたいところは3点ぐらいある。
  私が21世紀の社会と科学技術を考えるとしたら、まず重要視したいのは、その1は、いわゆる生物学的に片仮名でヒトと書くが、その生命体としてのヒトの持っている能力、つまり生態学的なことや生理学的なことなど、そうしたものを頭の中に入れた上での科学技術の開発ということと、あとは、日本では余り重要視されていないのだが、科学者の中でも、特にフィールドワーカーの持っている知識、経験、その他もろもろを今後は重要視していかないと、21世紀は日本の科学もしくは日本の科学技術は難しい局面になるのではないだろうかということ。
  もう1つは、20世紀の後半に入ってからいろいろな意味で女性が活躍し始めて、例えば向井さんみたいに科学技術の面でもかなり活躍し始めていると思うのだが、もともと性別による差によって男女には差があるので、そうした物の考え方そのものが違う部分、やはり男女差を踏まえた上で、女性の持っている物の見方、いわゆる女性の視点というものも取り入れた形の科学技術というか、そういうものが必要ではないか。
  ややもすると、人間社会の持っている経済活動に翻弄されてしまって、いわゆる純粋科学が科学として認められない場合というのが多かったり、それから私自身の基本的考え方として、科学者は何をやってもいいと思っているのだが、ただそれを使う側の人間たちがやはり倫理観をしっかりとしておかないとならない。というのは、例えば軍事物資ででき上がったものでも、その後平和利用されているものはたくさんあるわけだし、そういう点では科学者が倫理観を持って何かをつくり出すときに、つくり出しではいけないということはない。発見や発明の部分では科学者は何を発想してもいいとは思うが、その後の人間社会の使い勝手みたいなものに関しては、経済活動優先ではないというような部分では、倫理面でかなりしっかりしたコンセンサスをとっておかないとならないのではないだろうかと思う。「ヒト」が快適に暮らせるような21世紀を考えれば、それはひいては地球上のすべての生命体もしくは自然のものに関して多分コンディションのいい形がとれるのではないかと思っている。

・委員  私は生物系、殊に森林の研究をずっとしてきて、今日の資料の中にも熱帯林の話が出ているが、熱帯林の修復等を最近始め出している。
  「科学技術」とよく言うが、科学と技術の2つが一緒にならない思っている。基本的には矛盾のないものが「科学」ではないかというふうに思っており、「技術」は、今世紀ずっと見てみると、場合によっては非常にうまくいっているけれども、場合によっては失敗することもあるという、どちらかというと、科学から技術化したときに問題点を生ずることが結構あるのではないか。科学的な知見に対して人間のインタープレテーションが進んできて技術化していくと、問題点を起こすことがあるのではないかと思っている。
  もう1つは、科学から技術体系ができてしまうとシステム化し、そのシステムが機能しだすと、新しい技術ができてきたときに古いシステムにそれを組み込むには非常に抵抗感を感じるときがあるのではないか。要するにシステム化してしまっているところに新しい技術が入り込むという余地が本当にすべての場合にあるのかというとそうでもないということ。例えば自動車などではレシプロの自動車が  100年越しに走っているわけだけれども、ほかのエンジンが入ってくることは非常に難しいような状況になる。要するにシステム化したときにそれに対する抵抗感が非常に大きくなる。私自身がバイオマスという研究をずっと30年ほど続けたときに、いろいろな有用なものが出てきたのだが、それを経済社会の中に入れていこうとすると非常に難しい。例えば木材から糖が取れるのだが、糖を木材から取るとなると糖は非常な量になる。木材中には、キシロースという糖があるので、このキシロースはどちらかというと人間では消化できない、ダイエット食品等に使えるものだったのだが、それができてくると砂糖工業とかその他の糖工業に影響を与えることになる。最近ではそれでもキシリトールという形で子供たちのチューインガムになって初めて出てきたのだが、そういうふうにして少しずつ遅れてくるというようなことがあるのではないかと思う。
  そういうことで科学と技術は違うと言ったが、私が環境絡みの研究をやっているせいか、これまでの20世紀のこの非常に進歩した科学の形態を考えることがあるのだが、考えてみると、物理も化学もそうだし、それに倣って生物学、例えば遺伝学なんかでもそうだが、どうも線形近似というか、直線的な思考で物事が来たような気がする。例えば私たちの例では、遺伝子の発現で形質が発現するときに、遺伝子の作用と環境の作用、それと遺伝子と環境のクロスした作用というか、相互作用とがあるわけだが、我々フィールドでやっている科学者は、条件を一定にしないまでも、いっぱいサンプルをとると、いわゆる環境の作用というのはプラス・マイナスで消えてしまう。そうすると残ったところは遺伝子の作用であるからということになる。本当に問題となるのは遺伝子と環境の相互作用である。しかし、現実の研究では、どちらかというと遺伝子がそのまま発現形として与えられるというような、非常に乱暴な言い方をするとそういう形の近似をしてくるわけである。
  ところが遺伝子と環境の作用というのは非常に大きい。こういうことはあらゆるところで言えるのではないか。物理のところでも化学の場所でも、かなり言えるのではないか。要するに1次項以外のところは全部切ってしまってきたところに大きな問題点があるのではないかと思っている。
  殊に最近の環境ホルモン等の問題点というのはそういうところにあったのかなと、これは先生方ご意見の違う方もおられるかも知れないが、何となくそんなことを考えて、それで無視してきた誤差の部分が非常に大きな形であらわれてきているのが今の技術ではないかというふうに思っている。
  環境問題はまさに新しい科学の方法を考えていかなくではならないのではないかと思っいる。先ほど委員がおっしゃったように、フィールドで研究している科学というのはどちらかというと認められないことが多い。なぜかというと条件が一定化できない、それからコントロールがうまくとれないというようなことで、非常にその点があいまいな研究にしかならないということが多かった。しかし、フィールドの研究では、環境問題などの研究に非常に必要であり、明確なコントロールのできない条件の下で、しかも場合によってはコントロールという対象区というものがとれないようなところで行う研究はどういうものがあるのかということを考えている。こうした新しい科学がないと環境問題など解決しない。さらにそこに人為が加わってくるとさらに問題が複雑になってくる。
  こうしたものを考えると、フィールドサイエンスということを我々は、今提唱しようと思っている。しかし、未だに、それではどういうものがフィールドサイエンスかと言われると非常に困るのだが、新しい理念として議論していったらいいと思っている。
  こんなことを考えていくと、今まで客観的だったという科学に主観的な部分が入ってくる。主観と客観をどういうふうに仕分けて考えていくのかというのが科学の中にも入ってきていいのではないかということを今考えているところだ。
  学術会議の第1部におられる吉田先生が、プログラム科学ということを提唱されている。先生がおっしゃっているのは、例えばDNAができるところまでは物理化学法則でできてくるけれども、一旦できたDNAには、4つの塩基があり、それが3つずつの組合せで変わっていくことによって信号ができてきて、そこで新しい物質が生まれてくる。これは物質とかエネルギーとかに帰結しない1つの形ではないかというご提案がある。
  遺伝子情報や情報科学とか、言語というのはまさにそういうような場面で使われてくる新しい1つの伝達方法というか、物事と物事をつなぐ1つの変化させる手段ではないかと思ったりしているわけだが、そういうところになってくると、新しい科学の展開として、人文科学と自然科学が融合するためには、こうした認識が必要かも知れない。要するにエネルギーとか物質には昇華し得ない部分の科学というのがどこかに出てくるのではないかと考えており、これが何か新しい時代の科学になるのではないかというような期待をしている。こういうことを議論する場が欲しいと思っている。
  もう少し言わせていただくと、そういうことが私たちが今考えていることなのだが、さらに日本の科学の発展のために、やはりシステムの問題として相当考えていかなければならないのではないかなと思っている。先ほども科学者の倫理の問題が多少取り上げられたが、最近学術会議等では、生殖倫理の問題など、いろいろと議論しており、やはり科学者の中から倫理の問題を考える場所というのが欲しいし、いわゆる上からの下達でそういうことを考えるのではなくて、科学者自身の発想の中から倫理問題など先ほどから話しているようなことをもう少し議論しないといけないのではないかと思っている。
  それともう1つは、科学が非常にグローバル化してきている。いろいろなところで巨大な国際会議が行われるし、それから巨大な国際プロジェクトが行われているときに、日本としてどうやって対処していくのか、1つの学会で対応していいのかどうかということがあり、この辺もその中核になるものがもっと強くならないといけないのではないかと思っている。
  それからもう1つ最後に、この前科学技術会議で申し上げたことなのだが、最近はポスト・ドクトラル・フェローがかなり多くなってきているのだが、科学者の養成のためにはどうしてもその後の始末というか、ポスト・ドクトラル・フェロー以後はどうするのかというところに大きな問題点があるのではないかと思っており、システムの問題と科学自体の問題の両方を考えていけたらいいと思っている。

・委員  専門を問われたら、最初は生化学から出発し、次いで分子生物学、その後生命科学になり、今は、生命誌です。このように言うと、専門が変わってきたように見えるのだが、私の興味は終始一貫非常に青くさく、生きているってどういうことだろう、人間とはどういう存在なのだろうということを、抽象的でなく実体を伴う科学という方法で知りたいという、ただそれだけでずっとやってきた。ところが、分野の名前が変わった。それは、単に名前が変わっただけではなくて、生物研究ののありようが私がかかわり合っている間に非常に大きく変わってきたということだ。
  恐らく21世紀にも、この延長上でどんどん動いて行くのだと思っている。生化学から生命誌へというのは、一言で言えば、まず分子で小さな生命現象が語れるというところから、それがDNAに行き、細胞になり個体になり、人間まで含めて、または様々なものの関係まで含めて語れるように科学が動いてきた。今非常におもしろい時だと思うので、この先で21世紀というものをきちっと考えたいと思っている。
  ただ、21世紀の科学技術を考えるに当たっては、20世紀が前提になるのかも知れないが、配布資料を見てもわかるように、20世紀という世紀は人類の歴史の中ではかなり特殊な世紀だったのではないか。人口のふえ方やエネルギーの使い方、化石燃料を掘り出してどんどん使うというような形で行われた活動は人類の歴史の中では特殊なときだったと言ってよいという気がしている。もちろん20世紀をきちんと見ることも大事だが、もう少し長い時間の中で人間の活動を見て21世紀を考えるということも大事なのではないか。それは科学にとっても大事だろうと思う。
  これは科学技術会議の1つの懇談会だから仕方がないのかも知れないが、すべてが科学技術で語られてしまうことにはちょっと抵抗があり、やはりこの懇談会の中でも、科学そのもののありようもぜひ議論していただきたいと思っている。
  ところで、科学は一般的には自然、私の興味では人間も含めてはいるが、いわゆる自然現象を知りたい知的活動だと一般的に言われているが、現代科学はそうはなっていないように思う。ある特別なわかりやすいところだけを取り出してモデル化して見ているので、本当に自然を見るということはまだできてないように思う。
  委員のお話の中にもあったが、自然を見るというときには、やはり人間はその中に入っているわけで、外から客観的に見るだけではなく、その自然の中に入ったものとして見るという知のつくり方がある。しかも、自然の中に入っているとは言っても人間の場合は特殊で、科学技術を含む人工の世界をつくるわけなので、この、つまり人工と人間と自然の関係をきちんと見ていく、そういう学問がどうしても必要になる。そういう形の科学が必要だと思う。21世紀は人工、人間、自然の関係がどうあるのがよいだろうということもぜひ議論していただきたいと思っている。
  それから社会と科学技術という、この「と」にも私は疑問を持つ。これまで言ってきたことと同じことなのだが、科学者の行為も、科学技術も、「社会」と“and”で結びつけられるものではなくて、むしろその中にすっぽり入った、“in”で考えられるものになる。常にきしみがあって、何かそこを調整するというものではなくて、社会の中の1つの活動としてきちっと位置づけられているというふうになるのが望ましいと思っているし、恐らくそうなっていくだろうと思っているので、そういう形での科学のありよう、科学技術のありようを考えていきたい。

・委員   私は根は技術屋だが、入社以来ほとんどの時間を知的財産の関係の仕事をしてきた。多くの先生方と違って学術的な研究をするというよりは、実践でほとんど過ごしてきており、企業の立場での知的財産ということでずっと仕事をしてきた。短い期間、研究開発担当あるいは新規事業担当という時期もあったが、ほとんど知的財産の関係でずっとやってきた。
  今、経団連の知的財産問題部会長を仰せつかっているが、経団連の事務局から、「21世紀の社会と科学技術を考える懇談会」というのがあるので出ないかと言われ、最初は経団連の中に設ける懇談会かと思い、簡単にいいですよと申し上げてしまったが、どうも出席して見るとちょっと場違いかなも思っている次第だ。
  前回の議事録を拝見させていただいたのだが、多くの先生方がおっしゃっているのはもっともだというのは感じているが、表現方法その他がやはり学術的に表現されているところが多いので、私どもはそういうのを見ると、言葉そのものもなじみが薄いなという点も感じる。
  ただ、産業の中にいて感じていることをちょっと申し上げると、21世紀の科学技術を考えるということなので、基本的には人類のためにという大きな目標があるのだろう。これは人間根本というか、生活する根本の問題、今よく言われている食糧の問題とかエネルギーの問題とか、あるいは地球環境の問題ということが当然テーマとして挙げられるのだと思うのだが、それとはまた別に、今の資本主義がずっと続く限りにおいては競争の社会というのが当然その裏には存在するわけなので、日本自身が産業で競争力を持たなければならない。そのために何をするかというテーマがあるのではなかろうかと思う。
  最近特に日米間の技術格差が開いたと実感を持って感ずるのが情報通信分野、特にソフトウエア関係、それと生命工学というか、バイオというのか、そういう部分については相当開いているなという。これは知的財産の立場から見ての結果なので、実態は間違っているかも知れないが。
  申し上げたいことは、日本が競争力を得るために何か重点テーマを国家的に設けて、そこに多くの科学者が取り組んでいただけるような、そういうシステムをつくられることを望みたいなと思っている。
  それともう1つ、これは先生方は恐らく余り好きなことではないのかも知れないが、科学技術の成果というのはやはり知的財産との関連性というのは非常に強いと思う。ただ情報の発信地ということで終わるのでは、国家予算を使って人類のためにというだけでもったいない。やはり国益のことも考えなければならないのではなかろうか。そのためには科学政策と表裏一体をなしている知的財産政策というものもやはり総合的にセットで考えていくべきではなかろうかという気持ちを持っている。
  あとはいろいろテーマ別に勉強させていただいて、私どもの立場で何か申し上げることがあれば発言させていただきたいと思う。

・委員  私は長年科学技術政策とか国際政治と科学技術の問題を扱ってきたが、最近3つぐらいの点が自分ではなかなか解けないので、こういう懇談会でお教えをいただきたいと思う。
  1つは、社会科学、まあ文化とも言ってもいいし、人文科学を入れてもいいのだが、例えば経済の中における技術のとらえ方、生産関数やトータル・ファクター・プロダクティビティーなど、いろいろな人が技術の問題を扱っているのにどうしていつまでもマイナーでいるのか。それから国際政治の中でも随分頑張ったのだが、非常にマイナーでいて、ときどき本は売れたりするが、何でマイナーなのだろうか。科学社会学の話が今日出るかも知れないが、科学社会学と言っても、社会学の中でもマイナーである。そのかわり、科学技術の問題というのはやはり科学者が非常にメジャーであって、なぜマイナーとメジャーというのがあるのだろう、永遠にこういうのがずっと続くのかどうか。やはりこういう場で考えるのは社会との関係であるから、マイナーの話をしているわけで、そういうのは一体どういうふうにメジャーになっていくのだろうかと、そういうことが第1の点である。
  それからもう1点は、何でいつも外国人のものをまねをしてばかりで、学問の上でも、科学技術の問題点でも、日本人が独創的にある科学技術論とか科学技術政策とか、そういうものを立てるということはなかなかなく、何で日本人は自分たちの科学技術に関する考え方を世に広めていくようなプログラムというか、そういうようなことができないのだろうか、そういう疑問がある。
  それからもう1つは、政策で科学技術というようなものが本当に高揚することができるのかどうか。私は私立大学の科学技術学事担当の副学長をやっているが、うちの大学で何か政策で、いろいろなプログラムをつくることによって、何か国立のメジャーなところに負けないような仕事ができる仕組みが本当にできるのかどうかという問題意識を持っている。
  大体それが3つの問題である。要は言語というのがどうも違うのではないか。人間が考えるのでロジックはそんなに違わないと思うのだが、科学技術を語るときの言語と、それから社会を語る、社会科学が語るいわゆる言語が違うのかどうか。そうすると幾ら政策とかいろいろやっていても、あるいは科学技術と国際政治をやっていても、言語が違うのでずっとマイナーになってうまく政策ができない。そうするとどっちからかいわゆるにじり寄っていかなければ、恐らく両方の共通言語というのはできないわけなので、政策というようなものをつくるときの言語と、それから科学技術者のプロパーの方々が語る言語というのがもう少し整合性があるような形にしない限り、政策とか方針とか、そういう形で科学技術を伸ばすことはどうもできないのではなかろうか。
  そんなことを最近つらつら考えており、よくわからないのだが、今後いろいろ教えていただきたいと思う。

・委員  21世紀の科学技術あるいは科学と技術を語るということは、科学技術の再生産、すなわち現在における教育を問題にすることだとろうと思う。最近やや憂慮すべき状況がはっきりしてきたような気がする。
  現在の高校生、中学生でうちで勉強する、要するに予習、復習ということをおよそ1時間でもやる生徒は全体の30%しかいない。したがって高校生レベルで、720円の買い物をして千円札を出してお釣りが幾ら来るかということを即座に答えられない子供がふえている。さらに別の調査によると、今の小学生が理解する内容は15秒で説明できることである。15秒以上かかるようなことは幾らそれ以上説明してもだめである。子供の平均的な注意の集中時間というのが90秒である。象徴的だが15秒というのはご存じのようにテレビコマーシャルの最短時間であり、90秒というのは大体今の日本のテレビドラマの1シーケンスの長さ(シーケンスというのは物語の基礎単位)。そういう状況になっている。
  それで、そういう人たちがだんだん大学へ来るわけだが、今ご存じのように大学は就学人口の減少に悩んでいるので、当然ながら大学が生き延びようとすれば敷居を低くするほかはない。そこで使われている魔術のような言葉が「多様化」という言葉であり、多様な学生を受け入れるが、しかし、幾ら何でも大学たるもの、多様な学生をそのままに卒業させるわけにはいかないので、教育の充実を図る。充実とはどういうことかというと、およそ大学へ入る前に学ぶべきことを大学教師が手取り足取り教える。教師の数がふえない以上教育にかかわる時間がふえるわけだから、そこで研究にかかわる時間は当然減る。どうも日本の科学技術以前の基礎的な知あるいは知識の用意、蓄積というのはかなり憂慮すべき段階に来ている。
  これはやはり多様化という言葉のもたらす誤解であろうと思う。多様化というのは決して多様なるものの1つひとつの単位の中に、1つのカテゴリーの中に上下がないということではない。あるいは多様化を目指すということは、文化の基礎になるある核の部分が統一的に存在しないということではない。このことをどうやらわれわれすべてが忘れてきたような気がしている。これは科学技術庁の問題ではないかも知れないが、将来の文部科学省の問題であることは間違いない。
  もう1つ、やはり科学技術というものが広い国民的な支持を受けるためには、科学技術を愛する人々がふえなければならない。それは最終的には税金をどういうふうに科学技術に分けるかという問題につながる。しかし、現在科学技術が愛される根拠はだんだんと乏しくなってきている。という意味は、1つには科学が急速に高度化して普通の人間にとってはほとんどブラックボックスになってしまった。かつて私たちが中学生あるいは小学生の段階で愛読したファラデーやファーブルを幾ら読んだところで、今の科学を理解することには何の役にも立たない。少なくともそういう意識は広がっている。
  さらに、19世紀から20世紀の前半まで、科学というものは正義の味方「月光仮面」だった。向こう側には暗黒の迷信というものが広がっていて、これを合理的、普遍的な思考法で退治していくというのは大変勇ましかった。少年にとっても血沸き肉踊るお話であり、科学にはロマンがあり、その立場から書かれたたくさんの啓蒙書があった。発明・発見物語であったわけだが、現代ではそういうイメージは急速にしぼみつつある。科学は決して未知のインディアンを退治する騎兵隊ではない。このことは科学の本質から見れば健全で結構なことなのだが、庶民を感奮させることができなくなる。これは政治的に難しい問題だ。
  さらに、科学は普遍性を目指し、合理的な思考法に基づいているが、それでは絶対に解決できない個別の問題、非合理な私というものがいるという認識が、これは単に哲学者の実存主義的思考というようなものではなくて、もう庶民の段階に広がってしまっている。それが端的にあらわれているのが医療・医学の分野である。医学がどんどん進歩するのは結構なことだけれども、しかしこの私を何とか安楽に死なせて欲しいと国民は思っている。そういう意味で科学技術が騎兵隊でもロマンの主人公でもなくなった現在、どういうふうにして科学技術というものを再び正しい場所に置いて愛されるようにしていくか。
  この問題は前半申し上げた教育問題と決して無関係ではない。1,000円から 720 円引く計算もできないような人間が物理の初歩を愛するはずがないのであって、これはかなり国家的な大問題だなと、答えはなしに私自身悩んでいる。

・政策委員  1949年にゲーテの生誕 200年祭というのが行われて、大戦直後の非常な混乱の時期に1つの灯をこれがともしたというふうによく言われている。その席でロバート・ハッチンスというシカゴ大学の学長、これは30歳代で学長になった大変な名学長だった、その方が一場のキーノート・スピーチをしている。
  その中で彼はいろいろなことを言っているが、主なことは、現代においての最大の脅威は無教養な専門家の増殖であるというふうに言っている。その端的な例として、大学のファカルティークラブに集まった先生たちが共通の話題について取り上げることができるのはたった1つ、お天気のことであると書いてある。
  私自身も東京大学に長く奉職しており、そこに実は山上御殿というバラックがあるのだが、そこへ安いお昼ご飯を食べに行って、他学部の先生にお話するときに非常に話題に苦労して、やはりお天気に落ち着いたということを覚えているので、非常に的確なことを言っているなと思ったわけである。
  これはつまり、学問というものは、自然科学が中心かも知れないが、人文社会科学も程度の差こそあれ、どんどん専門化と称する、いわゆるフラグメンテーション、細分化がどんどん進んでいく。特に自然科学の分野ではその方の業績がオリジナルなペーパーの数によって評価されるようになると、広い範囲で書くとぼろが出るので、狭いことを自分の専門とし、その範囲をますます針のごとく鋭く狭くして、次から次へとそれを積み重ねていくと誰も追随を許さない専門家になる。但し、その結果として周りのことは何もわからなくなってしまう。  200年前からこういうことは続いていると言われている。例えばニーチェのツァラトゥストラを読むと、あの中に、ツァラトゥストラは非常に奇妙な人物に出会うわけだが、それは沼の中をはい回っている人である。その人が何をしているのかと見ると、ヒルが体じゅうについているので、あなたはヒルの研究者ですねというふうにツァラトゥストラが言うと、その先生は、「とんでもない、私はそんな大それたことはしておりません。私がやっておりますのはヒルの脳の研究です。ヒルの脳の研究については私はだれの追随も許さないけれども、それ以外のことについては私は全く関心がない、したがって私の深い知識の周りには茫漠たる無意識が存在しているのだ。」ということを言う。
  これは、ニーチェの時代にはそういう人は非常に奇特な人だったので、したがってツァラトゥストラでは、これはニーチェはいわゆる超人、“Uber Mensch”ではないのだが、それに達する可能性のある“Hoch  Mensch”の1人としてこの人を数えているわけだが、今はそういう“Hoch Mensch”が非常にふえてしまって、永遠に“Uber Mensch”になれない“Hoch Mensch”がこの世界に充満している。そのことによってお互いに共通の基盤というのを失ってしまっているということがある。
  これは確かにこれからの科学技術にとっても最大の脅威ではないかと私は思っている。つまり21世紀に入ろうとする前に、私たちは20世紀の科学技術の正の遺産もああるが、負の遺産を大量に背負ってこれから21世紀人として生きなければいけない。それは核兵器の問題もあるし、環境問題もあるし、エネルギーや資源問題もあるし、いろいろな問題がああるが、これはやはりある意味では、我々科学技術関連の者は盛んに深掘りをして、周りのことは全然見えなくなってしまった結果であるかも知れない。
  そうであるならば、21世紀においてはどうしたらいいか、これに対しては非常に難しいとは思うが、私からみると、1つは、自然科学をやる人々も自分の周辺の他の科学技術の分野のことを理解する能力を持つ、さらには人文社会系の基本的な事項についても努力すれば理解できるという能力は少なくとも持つ必要がある。また人文社会系の方々にとっても科学技術は非常に重要なツールなのだから、そのツールを適切に使うということはできる程度の基礎知識というものを持つ必要があるのではないかと思う。
  それは結局は一般教養というか、基本的教養の問題に帰結すると私は思うわけだが、教える暇がないということをよく皆さんに言われる。しかし、特に日本人の場合には戦後の努力によって世界最長寿命を獲得したわけであるから、人生60年時代の学習の形態と、人生80年あるいは90年時代の学習の形態を比較してみると、私たちは少なくとも20年ないし30年余裕を持っていることになる。その中の一部を基本的な教養を高める上で使っても、まだ20年ぐらいは残っている。定年を例えば70歳なり75歳までに延長することをやれば容易に達成できるゴールではなかろうかと私は実は思っている。
  ただそれは、理屈の上では容易だろうけれども、社会の意識の変革とか、そういうことがいろいろあり、やはりそのためには21世紀に向かって私たちが、20世紀に非常に多くの問題を積み残したまま、その大きな重荷を背負って21世紀に入るのだという認識が必要ではなかろうかと思っている。

・座長  今日、新たにご出席いただいた委員の方からそれぞれの立場で非常に説得力のあるお話をいただいてありがとうございました。
  ただ余りにも話がブロードになっているので、果たしてこれを私の力でまとめ得るかどうか、いささか不安だけれど、委員は科学技術あるいは科学哲学の専門家でもあるので、先生のお力にいろいろ頼ってこれから議事を進めたいと思っている。
  今日は委員から、キーノート・スピーチというような形になるかも知れないが、「STS研究の現状と問題点」ということでこれからお話をいただくことになっている。

・委員  一応30分いただけるものと思っていたのだが、時間的に大分押しており、多分半分ぐらいで切り詰めなければならないと思うので、すべてをリファーできるかどうか、ちょっとその点だけ最初にお断りをしておく。
  この懇談会のタイトルが「21世紀の社会と科学技術を考える」というわけだが、読みようが2つあるように思う。多分これは、このタイトルが決まったときにどちらにでも読めるようにということだったのではないかと思う。
  1つの読みようは「21世紀の社会」と「科学技術」を考える、つまり我々が迎えようとしている21世紀の社会の中で科学技術というのがどうあるべきかということ、それからもう1つの読みようは21世紀の「社会と科学技術」を考える、これは同じだといえば同じなのだが、違うと言えば多少違うところがある。
  社会と科学技術という1つのくくり方をすると、それは現在、先ほど委員がマイナーだとおっしゃったのだが、まさに現代の日本の中ではマイナーであって、大学の中でもほとんど認められていない1つの研究領域を構成することにもあるという点を今日の私の話の中では多少知っていただこう、この中にはその専門家の方々も何人かはいらっしゃるわけで、その方々にとっては非常にリダンダントなお話になることをお許しいただきたいと思う。委員がおっしゃったように、この領域というのは極めてまだマイナーである。日本では少なくともマイナーで、そういうものがあるということさえ必ずしも知られていない。しかし、社会と科学技術、あるいは科学技術と社会を考えるという研究領域が国際的に見れば育っているということをとりあえずちょっと概括してみたいというのが私の今日の主意であり、そのこと自身は、私も多少ともそのプロセスにかかわってきた人間としては、私自身の自己紹介の一部を兼ねるかも知れないということになる。
  それで、主として「STS研究の現状と問題点」という資料に従って話をさせていただくが、このSTSというのは、“Science, Technology and Sciety”、まさに科学技術と社会の英語のいわゆるアクロニムであって、頭文字をつないだ言葉である。場合によっては“Science,  Technoligy Studies”という言い方もあり得るかと思う。この最後のSは場合によっては“Studies”であるかも知れない。後にちょっと外国の実例をご紹介するが、そこでも言い方は様々になっており、少しずつバリエーションというかバージョンがある。それを総体的にSTSと呼ぶことにさせていただきたいと思う。
  まずプレヒストリー、前史とでもいうべきものがある。これも後でご紹介することによってわかっていただけると思うが、自然科学というもの、あるいは科学と技術というものを外から眺める、特に歴史的なアプローチと哲学的なアプローチというものを試みようとする、そういう知的な営みというのが19世紀の末ぐらいから明確な形で少しずつあらわれてきた。
  当初は、科学というのが大変いいものだ、先ほど委員から「月光仮面」という比喩があったが、まさにそういう意味では科学に対する護教論的な姿勢を持って、科学というのはすばらしいものだということを説明するための歴史的な説明と、それから哲学的な分析というものをやろうというのが当初の目論見だったように私は思っている。
  しかし、1920年代ぐらいから少しずつ「専門家」と称する者があらわれて、なぜ「専門家」と言ったのかというと、当初の歴史的、哲学的に科学や技術を考えようとする人たちは大体科学者であったり技術者の、当の、みずから科学や技術に携わっている人たちがそういう試みをしたということになるわけだが、そうではなくて、20年代ぐらいからはそれ自身を専門とするような人たちが少しずつあらわれてきて、科学や技術に対する護教論的な視点というものから少しずつ離れ始めた。
  そして、それと同時に制度化というものが少しずつ実現してきて、大学では科学史や科学哲学の講義が置かれたり、一部の大学ではコースやプログラムも実現していく。Ph.Dコースなども少しずつ生まれてくる。
  それから、それに追いかけて、ちょうど半ばぐらいに、これが一番STSと直接的に関係があると思うが、科学を外から研究する学問のもう1つとして、科学社会学というものが、先ほど委員がおっしゃったが、誕生した。この科学社会学というのも非常に概括的に言ってしまえばどういう学問かというと、これは技術はちょっと置いておいて、科学だけについて言えば、科学者がつくり上げている社会というものが、これも1つの社会である。そういう社会がもう20世紀の半ばには非常に大きく存在として社会の中に目立ってくるわけだが、その科学者のつくり上げている社会の社会学的な特徴を分析していこうとか記述していこうとか、説明しようとする、そういう姿勢。それからもう1つは、そういう科学者のつくり上げている社会というのが下位社会、サブソサエティーであるとすれば、それを取り巻く外の社会とその科学者の社会との間の社会的関係を社会学的に記述したり説明しようとするわけであって、例えばこの最初の方からは特にシカゴなどの計量学的な姿勢の強いところでは、例えばサイエントメトリックスとか、それから、これはご存じの現在猛威を振るっているサイテーション・インデックスのような試みも、これは一種のプライベートな企業から発したものではあるが、出てきたり、つまり科学の業績だとかいったようなものを計量的に取り上げていこうとするような、そういう1つの流派というものも生まれてきた。
  もう1つは、先ほど委員から、科学というのは主観性というふうにとらえる可能性もあるのではないかというお話があったが、まさにある意味では知識論的な立場から科学を問題にしていくときに、科学にもやはり主観的な要素があるとか社会的な要素があるとか、単に客観的な絶対的真理だけを追いかけているとは言えない側面があるというような、そういう科学の社会性に強調点を置く発想も生まれてきた。
  それから、外部社会との関係を論ずるような側面では、まさにここで論じているような政治とのかかわり合い、行政とのかかわり合いである政策論、あるいは外部社会が科学者の社会をどうやって支援していくかという支援システム論、あるいは科学者の社会から生産された知識をどうやって技術的に応用していくか、あるいは科学者をどうやって養成していくか、あるいは軍事とのかかわり、医療とのかかわり、環境問題とのかかわりなどの外部社会との関連についての分析というものを生み出したということになる。
  そして、もう1つだけ忘れてはならないと思われるのが、一部の科学者に非常に強く戦後育まれてきた科学者の社会的責任あるいは倫理的責任という意識であり、ご承知のとおり核兵器以来、その問題というのは各国の、あるいは国際的ないろいろな運動になっており、その中で科学研究や技術的応用と社会との間の関係を問題にしていこうとする視点というのが育まれてきたというふうに考えることができると思う。
  例えばそこにご紹介した物理学者の社会的責任ということを問題にするグループ、日本の物理学者の一部の人たちが物理学会の中でそういうグループをつくっているが、そのサーキュラーである「科学・社会・人間」というのはもうかなり古くからこういう問題で多くの議論を重ねてきた。
  それが前史みたいなものであり、STSというのが現在ではどんな姿を持っているかということであるが、第2ページ2のところに現況の大ざっぱなアウトラインを描いてみた。これも前史に相当するかも知れないが、イギリスのP・ウイリアムスという人が構想しましたSISCON(Science  In Social Context)、ここでは先ほどの倫理的な問題なども含めて科学と社会との間の関係を議論した様々な視点からの非常に実験的な教科書が彼らの手でつくられて、一部の大学ではそれが教えられたり、あるいは高等学校へおろされて、高等学校教育などにもそういう試みがなされたりした。これはいろいろ財政的な支援その他の問題もあって途中でなし崩しになくなっていくのだが、この影響はかなり大きくその後の展開に残った。
  制度的な面ではアメリカのPen-Stateが60年代の終わりにSTSの講義を置き、その後、Pen-Stateはアメリカにおける1つのSTS研究の中心的活動として、ネットワークなどの形成にも働きかけをしたり、オーガナイゼーションをやったりしている。
  そこには、70年代半ばからは国際的なボランタリー組織が、“Sociology of the Sciences Yearbook”というのを、特集号タイプで毎年出しており、これはかなりアカデミックだが、学術的な基礎を支えていると言えると思う。
  それから、この分野はSが大変多いのだが、アメリカでは70年代に、SSSS(“Four S"(Society for Social Studies of Science))というのが基本的にはこの分野の学会として誕生した。
  それからヨーロッパでは、80年代、ちょっと遅れてEASST(European Association for the Studies of Science and Technology)というのが誕生し、それからまたアメリカでは、また少したってNASTS(National  Association for Science, Technology and Society)というのもできており、こういうのは出自をいろいろ探っていくといろいろ申し上げることができるのだが、細かい話は今は一切省略する。ただそういう学会組織ないしは研究組織が既に組織化されているということがわかっていただければありがたいと思う。
  それから、日本ではどうかと申いうと、向坊、岸田両先生の「科学技術と社会」というタイトルの書物が69年というかなり早い時期に出ており、これはこういう問題意識のきっかけになっていると思われるし、そこで岸田さんはともかくとしても、山田圭一先生のような、まさにその分野の専門家の方もコントリビュートしているわけである。
  それから日本では、90年代にここにもおられる中島秀人さんを中心として、非常に緩やかな、学会組織ではないが、ネットワーク・ジャパンというのが組織化され、これは今でも若手を中心に活動を繰り広げている。それが発展的にどうなるか、ちょっと剣呑な時期に差しかかっているが、それはともかく、98年の3月に、こういった組織を大体糾合したワールド・コンファレンスを日本で開催した。それが現状というか、組織化されているような状況である。
  では、現実にどういうことをやっているのかということになるわけだが、それが資料の3のところ。欧米の大学では、講義はもちろんのこと、先ほどマイナーという言葉が出たが、これは言葉の遊びだが、メジャー、つまり専攻のための学科とかPh.Dプログラムもかなりたくさん広がっている。
  例としてはイギリスの例とアメリカの例をそこに資料として束ねているので、ごらんいただければ幸いである。最初の方はUCL、ユニバーシティー・カレッジ論文のデパートメントで、“Science  and Technology Studies”というもののデパートメントの内容である。おわかりのとおり科学史とか科学哲学とか科学社会学というものが中心になりながら、なお例えば“Science  of War and Peace”とか、“The New Genetics and Society”というような、非常に現代的なトピックスや、ミュージアム、博物館問題などの、これは科学技術のポピュラリーゼーション、一般の人々の理解を深めるためにどうすればいいかというような問題の1つとして博物館が非常に大きな存在になるわけでだが、例えばそういうものが挙がっている。
  それからもう1つアメリカの例としてそこにジョージアテックの、これは工科大学なのだが、工科大学でもこういうプログラムが掲げられている例として束ねておいた。BS(Bachelor  of Science)、理学士のためのプログラムであるとか、それからマイナープログラム、これはマイナーというのは先ほどの委員のマイナーではなくて、ご存じのとおりアメリカではメジャーに対してマイナーという言葉が使われるが、主専攻に対して別専攻といったようなものだろうか。つまり、ある専攻がある学生たちが、しかしそれだけでは満足できなくて、こういうコースをとってみたらどうなるかというようなプログラムとしてもある。これをごらんになると、先ほどの政策委員のお話にもあったが、科学技術を人文社会科学的な見地から検討するという意味では考えられるほとんどすべてのものを網羅しているということになるのはおわかりいただけると思う。
  つまり理工系、人文社会系と言われているが、それを全部ひっくるめて、しかも理工系から科学技術を考えるのではなく、人文社会系の立場から科学技術を考えようとする、そういう姿勢のすべてがほとんどここに網羅されている。先ほどから出ている教育の問題、政治の問題、倫理の問題、あるいは法律の問題、法律も何もITRばかりではなく、現代社会における法体系と科学技術のあり方の中に起こってくる様々な問題というのがあるし、環境の問題、あるいは経済、産業、雇用の問題、あるいは生活そのもの、我々の現実の生活そのものの中からあらわれてくるような問題のどこかで必ず科学技術とぶつかってくる、そういう立場で考えようとするプログラムがここに見られるということを1つごらんいただければ幸いである。
  それから、科学技術をでき上がったものとして、私はよくこういう比喩を使うのだが、展翅板の上に蝶を展翅すると、きれいに標本ができる。そういう科学技術ではなくて、まさに今進行中の研究なり研究開発、あるいは技術的応用といったようなものをどろどろしながら社会の中でまさに動いている状態としてとらえようとする視点、これがこういうところで見られるもう1つの特徴だと思う。かつての科学史や科学哲学、場合によっては科学社会学でさえそうだったと思うが、先ほどの展翅板に展翅されたような標本を扱う、科学というのはこういうものだ、技術とはこういうものだというふうに標本化されたものを扱うところから、現在進行中のものとして扱うというようなものへの視点の転換というものが見られるということ。
  これはつけたりだが、しばしば先ほどの男女共同社会だろうか、雇用法の施行されたところだが、例えばジェンダー論なんかとの関係というのも非常に大きなトピックスとしてしばしばこの中に登場している。
  日本では残念ながら大学における制度化というのは、ほとんどこのSTSというのは現在のところまだ制度的には着手されていない(資料の3ページ)。たまたま私が勤めているICUでは、文字どおりいろいろなディビジョンを超えたカレッジワイド・プログラムという形で講義を始めたところだが、これは学生たちは大変たくさん来ているが、残念ながらメジャーではないし、マイナーでさえない。1つの講義しか置かれていない。
  それからもう1つは、この専攻者が、メジャーとしてとった人たちが科学技術の行政や研究運営、マネージメントに当たる専門的な人材として一部で注目され、リクルートされつつあるという状況が、これは制度化の一面として申し上げることができると思う。ただし、こういうことが少しのさばり過ぎているというので理系の方からはかなり強い反発もあるということもつけ加えておかなければならないかも知れない。
  特にこれはアメリカの場合だが、例としてソーカル事件というのがあって、このソーカル事件というのは何かということはここでは説明しないが、最後につけ加えた「現代思想」の昨年の11月号で「サイエンス・ウオーズ」という特集を組んでいるが、この「サイエンス・ウオーズ」というのが実はこのソーカル事件を中心とした理工系の、特に理系からの反発とこういうSTS研究というものの間にある非常に強い緊張関係を示すものとして、こういう事柄も起こっているということはちょっとお耳に入れておけばと思った。
  最後に、レジュメの中に書いてない点を1つだけ、私の提案として申し上げさせていただきたいのだが、これはおわかりのとおり、先ほどからもいろいろな方がいろいろな視角からおっしゃっているのだが、理工系というものが孤立して存在しているわけではない。これは社会の中で存在していることでもあり、しかも同時に人文社会的な知識や経験、あるいはそういう学問体系とも無縁のところでただ何か囲いの中に囲い込まれたようにして存在しているものではないという視点に立つ限り、私はこういう問題を恒常的に議論していき、議論を積み重ね、資料を蓄積していくための組織が要るのではないか。
  それは倫理の問題でもそうだし、日本語にない言葉なので片仮名を使わせていただくが、インテグレーションという言葉がある。この議論と資料のインテグレーションを制度的にきちんとやって、そこから我々の判断や行動を組み上げていこうというそういう制度があれば、恒常的にそういうことができる制度があれば、これは今後の総合科学技術会議を支えるインスティチューションとしても機能してくれるのではないかというふうに思っている。そういう組織づくりが、これはそのまま行政の中にそっくりできるべきなのか、それとも民間の中にできるべきなのか、あるいは第三セクターとしてできるべきなのか、これは議論の余地があると思うが、とにかくそういうことが必要なのではないかということを最後につけ加えさせていただいて、とりあえず私の提題とさせていただく。
  どうも雑駁で失礼いたしました。

・座長  ありがとうございました。“Science, Technology and Society”という国際的な流れについてお話をいただいて、最後に具体的な提案もしていただいたわけだが、ただ今の委員のお話に関係してもいいし、それ以外の問題でも結構なので、できるだけ自由にご意見をいただきたいと思っている。

・委員  ただ今の委員のスピーチを伺って、先ほど私発言した中でちょっと訂正というか、気づいたことがあって、先にそれを申し上げておきたいと思う。今のお話の中で、要するに科学、科学技術ができたとともに、もう既にそれに対するほかの視点からの見方があるというお話で、それの集大成みたいなものは科学や科学技術に対して、それを人文社会科学的な見地から検討するという立場の中で考えられるすべてのものが含まれているというお話だったのだが、一方で科学の側の方が、要するにヒトを含む地球上のすべての生態系がどうすると、もしくは何をすると壊れてしまうのかというようなことを系統的に把握するような、そういった学問というのが存在してない。だから要するに科学者の倫理観や哲学が必要とか、それから私は科学者とは言わなかったのだが、技術を使用する側の哲学とか倫理観というのが必要ではないかと先ほどお話ししたが、そうではなくて、要するにもっと生態学的な部分で、科学的にどうすれば壊れてしまうのかということを知る学問がないと、要するに倫理的に言っても哲学的に言っても、それで人々がそのときのコンセンサスがとれたとしても、それはばらつきがあるというか、というようなもっとロジックなものが必要だったのではないだろうかと思ったので、この流れを説明していただいて、そうなると医者だとか自然科学者が怠慢だったのかなという感想を持った。

・委員  今、委員のおっしゃった話というのは、科学の側からいわば人文学や社会科学に対して協調の手を差し伸べようということになる場面が1つあると思う。そしてそれは現在の環境科学の中では一部では既に意識的に実現しているようにも思う。
  それで、東大の駒場にも広域科学というのがあるが、それは1つの意識は、今おっしゃったように人間の社会の中に、例えばそれこそごく単純な言い方をすれば炭素の循環がどうなっていて、その人間の社会はそこにどういうふうに絡んでいて、人間の行動、これは社会科学的にアプローチしなければはっきりわからないわけだが、そういう人間の行動と自然科学的な分析とがそれこそインテグレートできるというような場面というのは、一部では既に進んでいるのではないかと思うが。

・座長  今、委員のおっしゃった話はまだこれからの大きな課題ではないか。だから今までから例えば生物多様性という問題が主としてエコロジカルな立場からいろいろ議論されていたけれども、もっと多方面からアプローチをしないといけない。
  だからそういう形の新しい学問が始まりつつある状況ではないかなという気がするのだが、この問題はここでもまた少し議論をしていって、日本でもどういう形でそういう問題をこれから立ち上げていくかというのは1つの大きな課題になるのではないか。だから今までのような生態学だけではなくて、今人間行動の話も出ましたし、あるいはもっと遺伝子とかそういうレベルまで突っ込んで地球上の生物の全体像、あるいはその相互関係というものを見ていく必要があるのではないだろうかという気がする。

・委員  今の村上委員のお話を聞いていて、納得というか、自分自身が受けた教育、私のバックグラウンドにある教育の中でのお話なので、ごもっともという感じであるが、ただし、これをバックアップしているのは今度小学校から高校にかけての教育、これがいきなり大学に入ってあるわけではなくて、やはりプライマリースクールからの教育がバックにあるからこそこういうものが存在しているわけである。
  日本の学校教育を見ていると、非常に詰め込み教育ということは皆さんもご存じで、それがよくないという話があると思うが、このヒューマニティーズなスタディーというのは、やはり学問として受けるのは大学になってから受けることになる。子供のときからこのヒューマニティーズのスタディーというのは大体どういう先生に小学校、中学校、高校でつくかによって決まってしまう。
  プライマリースクールで子供たちを受け持つ先生方が非常にそういう人道的なというか、非常にヒューメーンな方々が物事を教えてくれると、子供たちも非常に科学とか、そういうほかのサイエンスに対して興味を持ってくれるし、あとそういうものの勉強の場として、アメリカやヨーロッパのの教育というのは、地域のリソースというか、地域にあるストックを利用しながら学校教育を行われている。
  学校のアンケート用紙もアメリカでも受けたことがあるが、その中で、学校についてのアンケートを親御さんに出すときに、アンケート用紙の中に自分の地域にはそういうコミュニティーリソースをフルに活用しているかどうかということを親側に聞く。
  コミュニティーにあるリソースというのは、もちろん物だけではなくて、人間でもあり、もし地域に宇宙飛行士が住んでいたらば、その宇宙飛行士に学校に来てもらって子供たちとかかわってもらって、そういうロールモデルとしての利用の仕方とか、または有名な科学者がいたりとか、ハンツビル・アルバマに出かけていったときは、やはりファーナーボーン・ブラウンだけではなく、そういうV−2ロケットを発明した方々が地域に住んでいるわけだから、そういう方々が積極的に学校に出かけていって、この方はこういう人だと、子供たちに質問させたり、またはスミソニアン博物館に出かけていったり、オンタリオ・サイエンスセンターに出かけていっても、そういうサイエンスセンターの中で子供たちが実体験できる科学館、博物館というのがあるのだが、日本でもすごいすばらしいものがあるわけである。
  ただし、そこの展示のそばにいる方々は、ガードマンであったり、または展示物を守る人たちであって、それを子供たちに教えて差し上げるとか、子供の質問にちゃんと対応できる人々がそこにいないということが、そういうものが死んでいる一番大きなポイントだと思う。
  最近アメリカで行ったNEWSEUMという、ワシントンDCのすぐ外にあるロツリンのところに、ニュース博物館というのができて、一番最先端のニュースと世界の新聞がすべてそこに入っており、その日のデーリーのものが協力に基づいてやっている。
  子供たちのフィールドトリップという言い方をするのだが、日本で言う社会見学のことで、そういうところに出かけていくと、ただ出かけていくのではなくて、そこで授業を行う。だから自分たちの先生方のプレパレーションも非常に重要なのは、どういう授業をそこの場を利用して使うかによって、先生方の事前のそういう研究、またはそのカリキュラムをつくるときのプランニングがまた重要である。
  そういうことをするための時間が日本の学校の先生方がないというのと、あともう1つは非常に怠慢な部分もあると思う。だからそういう意味で、学校教育と先ほど委員もお話しされたが、学校教育というのは非常に重要なものであって、それが若ければ若いほどに始めることがとても重要で、そこで私たちの子供たちを教えてくれている先生方が人間的にもやはり、ただ学者であるわけではなくて、人間としてそういうものに対するヒューメーンな感覚を持っているかどうか、子供たちに対しての愛情と、次の世代をどう育てていこうかという教育をその先生方が受けていないと、結局次の世代に伝達していけないような気がする。
  だから、そういう意味でも私は、小学校の教育というものをもっと充実させるべきであると思うし、例えば中学、高校になってやる勉強というのは私はすばらしいと思う。詰め込み教育というのは、世界でも日本がとても尊敬されていたのがそこだったと思うのだが、私の子供も小学校4年生のときにアメリカに行って、1カ月アメリカの学校に入って、1週間たって電話がかかってきて、「僕はもう日本に帰りたくない」「なぜ帰りたくないのだ」と聞いたら、「おれは日本では普通の子だけど、アメリカに来れば天才なんだ」と言った。小学校4年で子供たちがやっている算数は息子の方が全然すぐれていて、先生が子供がつまらないからということで5年生、6年生の算数を渡したらできるというわけ。
  そういうところで日本では普通だが、アメリカの学校教育はそういうことができる子をどんどん進めさせて、4年生なのに5年生にも6年生にも出るような、そういうペーパを出してやらせて、そしてできる子を褒めて、周りの子供たちもこの子は天才だ、天才だと言ってくれることによってまた子供が誇りを持ってもっと勉強していきたいという。そういう人間を育てようとする教育が一番欠けているのではないかなと思うので、今の村上委員のお話にもつながると思うし、先ほどの委員のお話にもつながると思うが、どの視点からそういう教育を始めるかというと、やはり社会の中でスタートしないと、学校に入ったときにはもう興味を失っている人々ばかりになってしまっているのではないかなという感じがする。

・座長  教育の問題はやはり大変大きな課題になると思う。現在の科学技術会議では科学技術教育のことは余り取り上げていないが、この委員会の中ではぜひ議論をしていく必要があると思う。

・委員  私が今日申し上げたことは、1つには21世紀というスパンで考える。もう1つはここが文部省の具体的な教育問題を論ずる場所ではないということを前提にして申し上げた。短期的、あるいは狭義の教育ということになれば当然それは所轄官庁の問題だが、実を言うともう少し深刻な問題につながるのではないかなと思う。
  それは例えば日本のいわゆる非常に平べったい平等主義。アメリカをいつも引き合いに出して、日本は詰め込み主義、アメリカは自由だというが、アメリカにはご存じだと思うが、民営の刑務所がある。これは、事実上は高等学校である。教師は全部看守で、少年犯罪を起こした子供をそこへ放り込む。それでそこに雲を突くような黒人の元サージャントがいて、殴る蹴るはないそうだが、体罰の連続でたたき込む。そういうことをもし日本で、これは想像でもするととんでもない非難を受けるだろう。一方でアメリカにはそういう下支えがあって片方で自由な、それこそヒューメーンな教育がある。
  日本の場合はとにかく学級崩壊するまで、非行少年も、その予備軍も全部同じ教室にいる。先ほど申し上げたように30%以外の生徒は、70%の生徒はおよそうちで一度も勉強しない、それでも学校を分けるわけにいかない。アメリカももちろん人種差別問題を超えるために「バス登校」をやったが、それ以前は明らかに、白人のエリートの学校と黒人の学校とは差別されている。「バス登校」が起こったというのは実にここ20〜30年の話である。やはり私はアメリカの初中等教育というのは、未だにはっきりと差別というか、区別があると思う。
  日本の場合は、それをしないで、しかも詰め込みをしないで、しかも科学技術の将来を支えるに足る人材をつくるかというのは、ほとんど曲芸のような話である。この辺を考えるのは、文部省だけではなくて、本当に社会の全体が考えなければならないことだろうと思っている。

・座長  既に国立大学でも、新しく入ってくる学生の学力低下がかなり目立つということが問題になっている。だからこれからさらにそれが深刻化する可能性があると思う。

・委員  今教育の話が出たが、例えば教育を直すにしても、要するに何のために勉強しているのかというのが今の子供たちはわからないのではないか。
  前回の繰り返しになるが、現在起きている問題にどう対処するかということについては非常に議論されるのだが、例えばどういう夢を持てば先ほど委員の言われたような科学技術が愛されるようなになるか。例えば愛されるような科学技術をつくるという1つの夢があって政策を立てない限りは、何か対症療法に終わってしまうのではないかという危惧を持つ。
  それで、私は詰め込み教育が悪いと実は余り思っていない。詰め込むだけはよくないと思うが、詰め込み教育でも教育されていた子たちは大学で教育ができたわけで、今は詰め込まれていないために教育すること自体が難しい大学が非常にふえているというような重大な問題があると思う。
  それが1つ言いたいことで、もう1つは、村上委員にSTSのお話を大変詳しくしていただいたので、STS自体を私も一生懸命立ち上げたいと思ってやってきたのだが、自己反省も込めて言うと、STSというのはやはりどちらかというと負の問題に対する対処であったということはかなり長い間そういう側面があったのではないかと思う。
  もちろん、日本で言うと研究技術計画学会にどうやって研究活動、イノベーションを活発にやるかというような議論をされていなかったわけではないが、そこに何か国として科学技術をどう生かすかとかいう戦略目標があってSTSをやってきたかというと、自分なりに反省してみると、やはりそれはどちらかというと20世紀の負の遺産の処理、地球環境問題であるとか、そういうところに力点があったような反省を持つ。
  だから、このような懇談会では、例えばSTSを、私もぜひ村上委員がおっしゃっていたそういう組織が必要だと思うのだが、その組織を仮に、例えばそういうものができるとすれば、正の側面をどうやって伸ばすのかということについても、同時に正と負ということを視野に入れていかないといけない。
  それから先ほど委員が言われたが、いつも外国の話なのだが、私は必ずアメリカが対象で出てくるのはちょっと腑に落ちないところがあって、やはりヨーロッパ系の教養教育のようなものもあるし、アメリカは僕は自由と差別の国である、基本的にその領界から抜けることができなくて、競争に勝てばいいけれども、負ければ悲惨であるという社会、その社会における自由を日本に持ち込むというのはどうもちょっと違うのではないかという気もして、そういうことを含めて、海外のこともわかるような、そしてその中で夢を持って日本の科学技術の21世紀を語るような、何らかのプログラムができればいいのではないかというふうに思う。

・座長  具体的にどんな夢を持つことができるかというのは非常に難しいわけだが、どうしても21世紀を考えても、負の面の方が先攻してしまう傾向がある。

・委員  実はそれで、あるときに企業の方は非常に現実的だと思ったのだが、ソニーの加藤さんというエンジニアで、 3.5インチのフロッピーディスクをつくられ、トリニトロンの開発をされた方なのだが、やはり非常にわかりやすいスローガンのようなものがなければいけないというふうに考えている。確かにその通りで、工場ではどういうスローガンがあってどうやって人々の気持ちを喚起するのかということがあったのだが、そのときに日経の鳥居さんとお話をして、鳥居さんが、「21世紀の日本の目標は科学技術で尊敬される国をつくるという1つのプログラムを立てたらどうか。」とおっしゃった。
  尊敬されるというのはどういうことか、例えば知的所有権の面でも非常に強い、しかし知的所有権の面で富を独占しないで、例えばそれを遅れた第三世界にも分けるというシステムを持っている知的所有権、あるいは、科学はやはりアメリカの方は進んでいて、それを他国の人に知的なストックとして分け与えることができる国になってはどうか。それから環境問題などでも非常にすぐれた人材を輩出できて、イノベーションの力もある、そういうのが例えば夢のある目標ではないかということを言われた。「科学技術で尊敬される国日本」というのはなかなかいいスローガンだと思った。

・委員  教育の問題については最初に委員がおっしゃったように、例えば医学部の場合、医師国家試験が始まったときから比べると 300倍の知識がないと医師国家試験に受からない。
  というのは、国家試験が始まったころにはまだDNAのDの字もわかっていなかったころの知識で、そういうことを考えると、科学というのは、技術も含めて、非常に速いスピードでどんどん膨大に膨らんでいっている。それに対して教育の面で、年限を長くすればまた話は別だが、自由さとかそういうものを認めるがゆえに、教育のレベルを落としてしまって詰め込みをなくしてしまうと追いついていけないという状況ができ上がってしまうと思う。
  ただ、教育の仕方と時期というものがあって、やはり人がまだヒトであるうちの教育の仕方と、教育というよりこれは養育、ヒトの持つ能力を伸ばす時期と、それから人間社会の中での知識教育の時期とは全く違う流れがある。それから特に日本の場合には、これは昨年の8月ぐらいに理化学研究所の松本元先生が出された論文なのだが、コンピューターとしての、つまり私たちみたいに医者として生理学的に脳を考えるのではなくて、システムとして脳を考えたときに、それをコンピューターと考えた場合に、自己完結型でいわゆるメモリーを上書きするのは、自分自身の経験で上書きしていく、そういうインプットの仕方をしているのが人間の脳だそうである。
  それで、そのためには自分自身の体験、経験というものが必要であり、難しいことを設定すればするだけ、それに向かってのいろいろなことを考えていって、自己完結的にメモリーを上書きしていくという、それがもともと本来持っている人間の脳のコンピューター的システムだそうで、そうなるとやはり小さなときに生物体としてのヒトがそういう脳を持っているわけだから、そのヒトであるときに与えるべき教育みたいなものが、知識ではなくて要するに洞察力や好奇心、何か物を発見する喜びという、脳に見合っているものをもっといっぱい入れておかなければならなかったのではないか。
  そういう面での教育の仕方みたいなものが、後々に大学になったらもう本当に記憶を詰め込む知識教育でいいかも知れないが、その前の小学校とか中学の段階では、そういうヒトの持っている能力を生かすつくり方をしていく。その辺もやはり先ほどの話と関連するのだが、要は「ヒト」というものがどういうものであり、何によって賦活するのか、何によって壊れるのか、そういったところをもっときちっとした科学として取り押さえておかないと、こういった問題を考える基本の部分のところでわからないので、右往左往というか、あれだこれだと事例的なことばかりが話されるような状況になってきてしまうのではないかと思う。
  だから、今、日本の子供たちが科学もしくは科学技術からどんどん離れていっている現状というのが、先ほどテレビの15秒コマーシャルのお話もあったが、社会全体の問題として非常に多様なファクターを持っていると思う。その多様なファクターをも乗り越えられるような基本的な基準みたいなもののところは文部省ではなくても、科学を志す心を育てるという意味で、こちらできちっと検討しておくのもいいのではないかなと思う。

・政策委員  ただいまの15秒以内で説明しないとものを理解する能力がないという子供の話だが、どうしてこういう子供が生まれたかというと、それはテレビという科学技術の産物が生んだわけである。それから恐らくはコマーシャルという市場経済のシステムが生んだ産物であると思うが、そういう子供たちをどうやって教育するかということは、まさに教育問題そのものであると思う。しかし、この場が文部省の懇談会ではなくて、科学技術会議の懇談会であるということを考えると、そういう子供たちを生んだ科学技術が21世紀においてどうあるべきかということを私どもとしては考えなければいけないのではないかという気がする。
  それで、テレビがそういう子供を生んだ、その流れは21世紀に向かってもずっと続いているのだろうと思う。テレビからパソコンに行き、バーチャルの世界といったような流れというものは21世紀に恐らく続いている。これをとめるということは恐らくできないのだろうと思う。そうすると、そういうことを前提とした上で、そういう人間が生まれては困るのであれば、そうでないような科学技術というものをどういうふうに考えていくか。
  私には当然それに対する答えを出す能力はないが、恐らくは科学技術のあり方として、人間的に、人間の本性としてこうあるべきであるという形と両立するような姿というものもあり得るのだろうと思うので、そういうものの探究ということが課題ではないかという印象である。

・委員  今お話を伺って、実は若干離れた話になるかも知れないが、教育問題を含めて今後の科学技術をどのように発展させるかという話だが、例えば先ほど来委員がおっしゃっているような科学技術に何か夢のようなものを与える、ノーベル賞が夢かどうかわからないが、そういったいわゆる夢ドリブン(駆動)型の科学技術を推進していく方策というのが1つあるように思っている。本日何名かの委員のご発言を伺って、もう1つどうも別の要素があるということに気がつき、どうも私はそちらに近いかなと思い始めたのは、危機ドリブン型というもので、本日産業界の方がそのような発言がどうも統計的には多かったようだ。やはり日本のように資源もエネルギーも食糧も自給できないこの国が、21世紀地球環境問題で限界が見えてきたこの地球の中でどうやって、何で食うのかというような危機感をかなりお持ちの発言もあったように思う。
  先ほどの委員のご意見が何かそれに類するのかも知れないというつもりで聞いていたが、私自身、環境を専門としている部分があり、それで環境研究をやるときに、やはり環境も21世紀の環境危機というようなものを予測するということを基本に置いて、それに対して現時点でのどういう対策というものがあり得るだろうかというような、危機ドリブン型の環境科学というのもあるのではないか。そのような立場で少し本を書いてみたり研究グループを走らせたりしたことがあるが、21世紀の科学技術も夢取り分型ち同時に、危機ドリブン型、21世紀に日本という国が本当にどうやって食うのか、余りこれをやり過ぎるとちょっと貧乏くさくて好みではないのだが、そういった検討の仕方もあってよろしいのかなというのが本日の感想である。

・委員  先ほどの委員のご意見に戻らせていただきたいのだが、科学と技術は違うのではないかとおっしゃった。この辺はやはりここでもきっちり議論するべき課題の1つではないだろうか。先ほどの村上委員のお話の素材にあったジョージアテックのホームページを見ても、“Science  in Technology”という結びつけ方がしてあるわけで、日本の場合には幸か不幸か科学技術庁というお役所があるので、科学と技術というのは自然にひっついているように見えてしまうのだが、これはやはりかなりしっかり議論をしておかなければならない問題ではないだろうか。
  実は数年前に私は、主催者の1人としてドイツ語をベースとする国際シンポジウム、これは「科学技術の進歩と伝統文化」というテーマで、いかにも日本語流の科学技術を念頭に置いて課題を決めた。そしてこれをドイツ語に直して各国の人に勧誘する手紙を書こうと思ったとたんに何て訳していいかわからなくなってしまった。苦肉の策が“ウイッセンシャフトリッヒ−テクノロギッシュ”という新語で、そういう訳語をつくって、やっとこちらの意図するところを表現したつもりだった。しかし、各国からの参加者は必ずしもその辺を、こっちが考えていたようには理解しないでいらしたというところもあった。“Science  and Technology”という英語でも、これはやはり“Science”と“Technology”を別のものとして“and”で結びついているというのが本来の姿だろうと思っている。日本だけで科学技術という造語というか、定着した言葉で一括して考えて議論していると、どうも国際性を失ってしまう恐れもないではないだろうというような気もする。
  しかも、それが幸か不幸か制度の枠と結びついているということがこれまた日本の特徴であり、科学技術は科学技術庁で、それは人文科学のみは除くと法律に書いてある。それでは人文科学の方は何かと言ったら、文部省が学術という概念で総括しているという制度的な枠組みと結びついている。先ほど問題になった教育でも文部省の特定の部局が担当している。博物館の問題は生涯学習局が管轄している。それぞれの立場で一生懸命案配してやってくださっているのだが、その間のコーディネーションというものは十分にできてないだろう。我々が使っているタームと制度のひっつき具合や様々な条件が、日本の場合には独特の風土を形成している。そこまで言うと少し大げさかも知れないが、全体としてこの問題をしっかり、殊に2つの省庁が一緒になるそうなので安心していいとは必ずしもいえないと思っているので、ぜひ議論の対象として据えていただきたいと思っている。

・座長  科学技術基本計画の策定のときに、最初の委員会でそのことが問題になり、科学・技術か、サイエンス・アンド・テクノロジーか、それとも科学技術かということでいろいろ議論があって、結局余り結論が出ないままに科学技術基本計画はできてしまったように思うが、この問題はちょっと一言で簡単に議論できないところもある。

・座長代理  とても短い時間では語り切れないと思うが、私が最近書いた「科学技術と社会」という本は「科学・技術と社会」とした。それで私の立場はご推測いただけると思う。(笑)

・座長  予定の時間が来てしまった。今日は割と教育に力が入ったが、もちろんこれもまた引き続きまとめていかなければならないが、次回、もう一度「科学・技術」か「科学技術」かというあたりを少し議論した上で重要な問題を少し整理していきたい。できたら本年じゅうに中間まとめぐらいまでいきたいと思っている。


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