第4 人文学の振興方策

(1)研究者養成

要旨

  • 研究が細分化が進行する状況の中で、総合の学としての人文学を担いうる人材の養成が課題である。
  • 日本における研究者養成の課題としては、基礎訓練期間が短い、原典を重視しない、専門化する時期が早く広く勉強をする機会が少ないといったことを挙げることができる。

総合の学としての人文学を担う人材の不足

  • 研究主題の細分化という研究現場の現状に照らし、総合学としての人文学を担いうる人材の養成には大いに課題がある。
  • かつて人文学の世界には「巨人」がいた。ただ、そのような「巨人」は、何か特定のカリキュラムがあったから養成できたというものではない。
     しかし、歴史家であれば歴史学の歴史を、文学研究者であれば文学研究の歴史を学ぶことにより、人文学がこれまで果たしてきた役割や、あるいは欠陥も含めて学んでいくことができる。このことは、優れた研究者養成の一つの方策かもしれない。
  • 基礎的訓練の不足、専門化する時期の早期化、原典の軽視といったことから、例えば、通史を書ける研究者、哲学史をレクチャーして、その随所随所で原典を読ませる授業を展開できる教員というのが決定的にいなくなったしまったのではないかと思う。したがって、教養課程のカリキュラムなどをいくら議論し、提起しても、そのカリキュラムを実施できる人材が育成されていない。
  • 日本の伝統的な学問である国文学研究の世界も細分化が進んでおり、オールラウンダーが育たなくなっている。現在、人文学のインフラである和古書全体像を見渡すことができるような研究者は、いわゆる国文・国史の領域にしかおそらくいない状況である。このようなオールラウンダーの養成が今後非常に大事なことになる。
     また、現代の日本の学問が、西洋学を基礎にした学問になってしまっているため、西洋の言葉は十分にできるが、日本の変体仮名や草書体の漢字は読まなくてもいいというような状況になっている。政治学、経済学、社会学などの研究分野であっても、日本の文化や社会に関わる研究を行うような場合には、和古書等を直接読めるような研究者を育てていくことが必要である。

基礎的訓練の期間の確保

  • 基礎的訓練が必要な分野、例えば、西洋の古典や漢文を読み込める能力を育成するには、1年や2年では難しい。若手が落ち着いて基礎的訓練に集中できるような時間を確保することが重要である。このような意味で、短期的な研究成果を求めすぎる最近の研究環境は、このような分野の将来に問題を残す可能性が高い。
  • このような意味で、最近の若手研究者に対する雇用期間の短縮傾向に伴う短期の成果主義の適用は、基礎的訓練の機会の喪失や、研究テーマの選択に対する制約を意味しており、骨太の学問研究を生むという観点からは問題がある。

専門化する時期の問題

  • 統計があるということではないが、経済学を例にして日米比較をすると、アメリカでは、大学院において経済学を専攻する前に、自然科学を含め他の分野を幅広く学んでいる。専門を決定するタイミングは日本に比較して2年遅いと思う。この2年の意味は、将来における研究の展開に大きな意味を持っていると考える。一般的な訓練の期間が長いと、研究課題の設定自体が広い土台の上に行われており、その研究課題の持つ重要性や解決可能性についての判断力が培われており、その後の研究の展開が拓けてくる。
     これに対して、日本では、専門化するタイミングが早いので、大学院生の段階でジャーナルに掲載されるような論文を執筆する場合もあるが、その後が続かないというケースを多く見るように思う。

原典軽視

  • 人文学、社会科学の研究者養成において課題と考えられることは、教育のプロセスにおいて原典が必ずしも重視されていないということである。原典を重視しないと、何がその分野において本質的な問題であるのかを判断する能力が育成されない。このことは、輸入学問であるという問題とも密接に関わる問題である。
     なお、我々日本人が、問題の大小とか軽重を判断する能力に弱点があるのではないかと言われるのも、このような輸入学問の中で身に付いてしまった原典軽視の発想を引きずっていることに原因の一端があるのかもしれない。

博士号の問題

  • 人文・社会科学分野においては博士号の取得が容易ではないという現状は、やはり国際的な視点からみて課題があるのではないか。世界から優れた人材を大学院に受け入れていく観点からも、取り組みが必要である。
  • 博士号については、国際的には保有していることが前提となっている。いわば研究者の「運転免許」のようなものになっている。研究者が国際的な場で活躍する場合に、保有していないことによる不利益を考えれば、一定水準を確保した上で原則出していくということがよいのではないか。

(2)学協会の役割

  • 人文学研究や教養教育の振興について、学会が果たす役割というのがもっとあるのではないか。

(3)教養層(「読者」)の育成

要旨

  • 人文学の振興のためには、研究成果としての著作の読者を獲得していくという取組を戦略的に進めていく必要がある。
  • きわめて個人的な営みである「文学」がどれだけ普遍的な意味を持ちうるかについては、どれだけ「読者」を獲得するかということが価値基準として見られているようなところがある。
     その際、「読者」とは、いわば「教養教育」を受けた人間の数ということであり、いかに「読者」を獲得するかということが、言ってみれば、「人文学」のあるいは「文学」の最終的な目的となる。しかも、ただ「読者」を集めればよいというのではなく、できるだけ高い水準における読者を集めるということ、これが最大の問題になる。
  • 文学を全く必要としていない人間がいるのも事実である。ただし、文学を必要としている人間も確実に何パーセントかはおり、この人々に何らかのきっかけを与える道筋をつくること、これが教養大国をつくる一つの細い道ではないかと思う。
  • 「教養」の社会的拡がりを確保するためには、メディア関係者の理解を得ることが重要である。メディア関係者の理解を得られることで、効果は何倍にも拡がっていく可能性を有している。
  • このような社会的な機能を有している『教養教育』の充実のためには、教養知と最先端研究の結合という観点から、『共通規範』である古典研究への集中的な知の投資が、そして、文学の国民への還元という観点から翻訳や出版に対する支援策が求められる。

(4)大学等における教養教育の充実

要旨

  • 大学等における教養教育の振興に果たす人文学の役割はきわめて大きい。
  • 学問の研究の細分化が進めば進むほど、自分の研究が社会の中で、あるいは、時代の中でどういう位置にあるのか、社会に対してどういう影響力を持っているのか等々についての広い視野、正しい判断力を持つ必要がある。
     この意味で、大学、現在の細分化された学問の中では、大学院でこそ、上級学年に進めば進むほど、教養教育が必要であり、このことが大学で哲学を教えることの一番目の意味である。
     また、このように、哲学が広い意味での教養を意味する、本当に何が大事なものは何かについての正しい判断力を持つことであると考えるならば、哲学教育は高校できれば中学から始めるべきである。その際、将来的に哲学の授業を担い得るような将来の教員を養成する教育が大学の哲学教育の中で必要となる。
  • 大学教育の場面においても、やはり本物の授業をしている教員、本物の研究をしている研究者が、やはり学生の支持を得ている。したがって、本当に学生を感動させる教育や研究を創造していくことが重要である。
  • 学生が知的なものに対して興味が薄れているというようなことが言われているが、必ずしもそういうことではない。大学の教育の中で少し刺激してやれば、多くの学生がそれに反応することは間違いないと考える。したがって、教養教育は、教育組織や教育に携わる教員や研究者の集団というものが適切に機能すれば、成り立つと考えている。
  • 「教養」は個人に関する事柄であり、本来は個人のモチベーションと個人のアクティビティよって獲得されるべきものという考え方もあるが、学校教育や生涯学習といった側面で、行政の支援というものがあってもってもよいのではないか。
  • 学問全体の発展のためには、大学の中に異分野の人間同士でディスカッションできる場を確保することが重要である。
  • 哲学者、思想家の著作に対する文献学的な関心しかない人材の養成ではなく、哲学科においてこそ真の教養教育を施し、高校の倫理の授業を担いうるような人材を輩出しなければならない。
  • 哲学科の学生が哲学科で教育を受ける際に必要なことは2点あると思う。第1は、古今東西の哲学、思想の歴史の勉強をすることであり、第2は、具体的なテーマを必ず1つ持つことである。現場での一種のフィールドワークを積むことが哲学をはじめとする人文学では重要と考える。つまり、自分の全身の感受性をオープンにして、現場に身を置くということが、知の通った学問となるためには、人文学には必要と考えられる。
  • 大阪大学における哲学の教育は3種類ある。第1は、全学の学生に対して行われる教養教育としての哲学教育、第2は、哲学科の研究者養成としての哲学教育、第3は、コミュニケーションデザイン教育という名で、哲学教育と銘打っていない哲学教育がある。
     コミュニケーションデザイン教育とは、異なる発想や思考の持ち主との対話(ダイアローグ)のための教育である。ここでダイアローグとは、議論の前後で自分が何も変わらなかったら意味がないという立場に立つものであり、議論の始まる前と後で、立場が変われば負けであるディベートとは異なるものである。すなわち、自分の専門とは異なる専門の人間と対話ができる、アカデミズムの外部の人と対話ができる、そのような人材を養成することを目指して哲学教育を行っている。
  • 哲学教育を中等教育段階から実施するという考え方もあるが、教科内容の量や時間の制約などを考えると、実現にはなかなか困難な面がある。高等教育段階を中心に行うことが現実的ではないか。
  • 日本の哲学教育は、哲学の思想史研究としての専門家を養成することに偏重されており、社会の中の哲学的思考を育くむ関心が日本の哲学教育においては非常に少ない。
     コミュニケーションの対話のメディエーターとしてしっかりと司会役をできる、あるいは、議論が脇にそれないようにファシリテートをきちっとできるコミュニケーションの作法を身につけたファシリテーターとして、哲学家がそういう人たちを育成していくことに力を入れることが日本の哲学教育に必要ではないか。
  • 哲学教育は、中等教育の段階から行われるべきであると考える。哲学はものの考え方のトレーニングであり、ものを精密に考えるとはどういうことか、ものを広い視野で多元的に見るとはどういうことか、そのようなトレーニングを行ってあれば、大学に入って専門分化した分野の学問を学ぶにあたっても、それを相対化できるようなものの考え方、あるいはセンスといったものを身につけることができると考えられる。
  • 基礎的訓練の不足、専門化する時期の早期化、原典の軽視といったことから、例えば、通史を書ける研究者、哲学史をレクチャーして、その随所随所で原典を読ませる授業を展開できる教員というのが決定的にいなくなったしまったのではないかと思う。したがって、教養課程のカリキュラムなどをいくら議論し、提起しても、そのカリキュラムを実施できる人材が育成されていない。【再掲】

(5)日本由来の文化資源に関する研究

  • 人的にも、情報ネットワーク的にもグローバル化が進んでいる中で、人文学研究がこのような状況を研究の起爆力としていくことができるかを検討することが必要である。
     例えば、近年、かつて海外に流出した美術品等が世界各地で発見されているという現状を踏まえ、外国に存在する文化資源を通じて、日本文化を今一度理解し直す方法があるのではないか。このような試みが、グローバル化の進行の中で現実となってきている。

在外和古書の海外調査

  • 外国には和古書が十分に存在する。とにかくあらゆる領域の本がある。
     例えば、韓国、台湾には、間違いなく日本の旧帝国大学の書庫がそのまま存在する。
     また、中国では、中国館蔵和刻本漢籍書目という和刻本の漢籍に関する大体の目録ができているが、これ以外の純粋な和本、日本人の著作で日本で出版された江戸時代までに日本でつくられた書物に関しては、それほどの調査は進んでいない。
     ドイツにおいては、エヴァ・クラフト女史作成目録があり、ドイツのほとんどの現存する和古書の大半がここに著録されているが、ベルリン国立図書館やドレスデン美術館のものなど、この目録に入っていないものがかなりあることが想定される。
     また、絵本類では、大英博物館のケースでは江戸時代のものについて2,000点、ボストン美術館のケースでは、大体8,000冊はあるだろうとも言われている。大英博物館やボストン美術館の例をみると、日本国内では全く太刀打ちができないくらい、集め方が網羅的かつ学術的に非常に丁寧な集め方をしている。このため、日本国内で我々がこれから30年かけてやっと見ることができるぐらいのものが、おそらくこの大英博物館とボストン美術館に行けば、多分1年で全部見ることができるぐらいの差が存在する。
     この他、オランダのライデンの民族博物館においても江戸時代のすばらしい本が存在する。
  • 海外に存在する膨大な資料、例えば、ボストン美術館にあるモースが持ち帰った大量の日本のものや、有名な屏風や浮世絵など、膨大な量が書庫におさめられている。また、明治期の日本の写真が大量に存在する。まさにこういったものを発掘し、整理していくことは、日本人の責務であると考える。
     また、教育・文化行政という観点から、在外和古書の調査ができるライブラリアンの養成は重要ではないか。
     これらは日本の文化や日本理解というものを深めていく基礎づくりとして位置付けられる。海外の方では、ドナルド・キーン氏は非常に高齢であり、サイデンステッカー氏は昨年お亡くなりになっている。こういった方々がいかに日本理解というものをその国で深めていったか。この方々が日本について、文学や歴史、美術をお調べになって勉強なさったために、随分と日本理解が進んだ。こういった観点からも、我々は次の世代の日本理解のために、文化交流のために尽くすべきではないか。この一環の中に在外和古書の調査というものがあると位置づけることができれば、これはまさに文化教育行政にもつながっていく。
  • 在外和古書の海外調査では、オールラウンダーが絶対に必要である。自分の専門のところだけがわかるという方ではなくて、できれば書物のあらゆる領域に何がしかの知識がある方が1人だけでもキャップとしているということが、非常に大事なことである。在外和古書には、理学書、物理学書、美術書、漢詩文、和文、俳諧、戯作というようにあらゆるものが存在している。このため、どうしてもあらゆる領域に何がしかの知識をちゃんと蓄えた方が1人いるかいないかということは、調査に随分影響がでてくることになる。

(6)学術外交の観点からの「日本研究」の推進

外交の基盤としての日本研究:学術外交

  • 文化のレベルでの交流も重要であるが、研究のレベルでの交流、即ち、「日本」をトータルに、ある種の専門性を持って理解する人々を、自国の外に持ち得るかどうかが、これからの日本が諸外国と関わる重要なポイントとなる。
     欧米諸国は、このような「学術外交」にかなりの資金を長期にわたり投じている。効果がすぐに現れるというものではないが、陰徳を積むことではじめて「日本」に対する敬意というのが生まれるのではないだろうか。このような意味で、海外における「日本研究者」を可能な限り大事にするとともに、彼らが日本において研究を行いうる場として「国際日本文化研究センター」のような装置を絶えず確保しておくことが重要である。
  • 「学術外交」の観点に立った場合、人文・社会科学系の研究に対する支援をより柔軟に行うことが重要である。例えば、中国人学生がアメリカで日米関係を研究する、あるいはアメリカの対日外交を研究する場合でも、グラントやスカラシップを出すなど、研究者の交流の枠組みを広げるということも考えられないか。

「日本研究」の地盤沈下

  • 近年、諸外国において、研究分野としての「日本研究」の地盤沈下が著しい。
     例えば、ハーバード大学における非常に優れた研究者が、「A+scalar B-field」という理由でテニュアを否定されたという事例がある。研究者としての業績は優れていても、研究分野としての「日本研究」が評価されていないことの典型例である。
     また、他の国でも日本研究所を東アジア研究所に改編したり、中国、中東、インド研究と一緒に扱うということが起こっている。

諸外国における質の高い日本研究者の確保

  • 「日本研究」における最大の問題は、思想、歴史、文学といった質の高いレベルで「日本」を理解するのに不可欠な研究分野について、諸外国で長期的に「日本研究」に投資してくれる「日本研究者」が育っているかということである。「日本」を学問的なレベルでかなり正確に理解してくれる外国人がいるかいないかということは、国際社会の中で「日本」が「諸外国」との関係を構築していく上できわめて重要である。
  • 日本研究を活性化させるには、常に新しい人材、特に若い人材を見つけ、日本研究者のネットワークの中に取り込んでいくことである。特定の知っている者同士の集まりというのは極力避けることが重要である。

「日本研究」の歴史

  • 20世紀の後半を見ると「日本研究」には3つのステージがあったと考えられる。
     第1は、ジャパノロジー、ヤパノロギーと言われたような、主に文献を中心に取り扱い、エキゾティシズムも含めた魅力ある研究対象として日本をリサーチする世代が「日本研究」を推進したステージである。ライシャワーなど、この時代の研究者は非常に幅の広い人が多い。この世代の研究者は中国語なども身に付け、朝鮮半島、中国大陸の歴史も勉強した上で日本を研究の対象としている。彼らは独立した資産を持った裕福な家庭の人が多く、学問的競争に勝っていいポストを得るために短い論文を量産するというようなことをしなくてもよい世代である。
     第2は、いわゆる「ジャパニーズ・スタディーズ」と言われている分野で、例えば、日本経済の研究をするとき、経済学のメソッドを使う。大体ある分野のディシプリンのメソッドで研究する。彼らは第1世代よりも話すのが上手だが、難しい文献を読むというタイプではない。
     第3は、この20年ぐらい盛んになった、例えば社会保障制度とか初等中等教育のシステムなど、ある限定されたテーマに関して、日本とアメリカを比較するというようなタイプの研究で、日本人研究者がカウンターパートとしていて、お互いに日本社会あるいは日本のある断面に関して突っ込んだ細かい研究をするというタイプである。

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