第2 人文学の機能

(1)総論

要旨

  • 人文学とは、「(精神的価値、歴史時間及び言語表現に関する)世界の知的領有」と「知識についてのメタ知識」である。
  • 人文学は、「教養教育」、「社会的貢献」、「理論的統合」という3つの機能に立脚した学問である。
  • 人文学は、「価値合理性」を判断する学問である。
  • 人文学は、個別の研究領域に背後にあって知識を生み出している「人間」についての学である。

定義

  • 人文学とは、「(精神的価値、歴史時間及び言語表現に関する)世界の知的領有」と「知識についてのメタ知識」である。

教養教育、社会的貢献、理論的統合

  • 人文学は、「教養教育」、「社会的貢献」、「理論的統合」という3つの機能に立脚した学問であり、どれか一つの機能が欠けても人文学は成立しない。

「ヒューマニティー」との関係、社会との関係、国際社会との関係

  • 人文学、社会科学研究を社会に対する役割という観点から大きく分類すると、1.「ヒューマニティー」を探求するタイプの研究、2.社会との関わりの中で行われるタイプの研究、3.国際社会との関わりの中で行われるタイプの研究があると思う。
     1は人文学、社会科学研究の中核を成す非常に重要な研究である。2は、政策や応用といったプラクティカルな性格を期待されるようなタイプの研究であり、社会からの支援を受けやすいタイプの研究である。3は、諸外国との学術交流を通じて、例えば国際社会の中で日本が他国と共存していくためのいわば手段としての性格を期待されるようなタイプの研究である。
     1と3については、社会の理解や支援といったものを得にくいということが、現在の人文学や社会科学研究の振興に関する課題となっていると考えられる。

「価値合理性」の判断

  • 人文学の仕事は、「価値の尺度」について判断することにあると考える。即ち、一定の「価値の尺度」を前提にして、その尺度に基づいて優劣を判断していくのではなく、「価値の尺度」そのものが本当に正しいのかどうかの論議を行い、判断をしていくこと、これが人文学、とりわけ哲学の仕事であると考える。
     このような役割を人文学が果たすために、人文学の研究者は、社会や過去の古今東西の様々な考え方や色々な価値観の在り方を学び、自分の価値観、自分の帰属する社会の価値観を相対化している。また、異なる文化や過去の中に、自分たちと異なる価値観を発見し、学び、自分にフィードバックして自分の価値観、自分の帰属する社会の価値観を練り直していくのである。
  • 人文学、社会科学の研究は、既存の価値や通説に対する「懐疑」から出発する場合が多い。このような意味で、研究者が自由な発想に基づき研究を行っていくことが重要なのである。

「人間」の学

  • 「哲史文」という研究領域の背後に、より高次のあるいはより根底に関わる「人間研究」という研究領域がありうるが、現実には、「人間」を全体として考えるための様々な手段を構築しつつ、個別の研究を支えるための仕組みを考えていかざるを得ないという難しい課題がある。
  • 「文学研究」とは、「研究者個人の精緻な読解力」、「イマジネーション」そして「人間そのものへの洞察力」を通じて、重層的かつ派生的な複合体として存在するテクストから、新たな読みの可能性を引き出すことであり、当該テクストのうちに隠された文脈と世界のモデルを発見し、それを限りなく更新していく営みことであって、これを一言で言えば、「人間の多様性の解明」である。
     研究者は、このような人間と人間間、及び人間社会の隠された多様性、多元性の発見を通じて、それぞれが与えられた存在のあり方と運命への認識を深めることになる。

(2)理論的統合(諸学の基礎)

要旨

  • 人文学は、知識そのものを取り扱う「メタ知識」についての学であり、個別科学を理論的に統合する可能性をもった位置を占めている。
  • 人文学、特に哲学は「価値合理性」を判断する学問であり、学の学たる位置を占めている。
  • 個別科学の問題を突き詰めていけば、必ず哲学的な問題に行き着くのであり、このような意味で、哲学はあらゆる学問の基礎を考究する学問と言える。

「メタ知識」の学

  • 人文学には、「精神的価値」、「歴史時間」、「言語表現」といった個別の研究対象に加え、自然科学的知識や社会科学的知識、技術的知識も含め、それらの知識が人間、社会及び文化に対して、どのような意味を持っているのかについての知識いわゆる「メタ知識」を取り扱うという機能がある。
     このような観点から、人文学は、個別の研究領域や研究主題を超えて、社会科学、自然科学及び技術に至るまで、これらのものを学問的に統合し、もしくは連携させるための重要な位置を占めていると考えなければならない。
  • 「知の体系化」、「知の構造化」については、「メタ知識」を取り扱ってきた人文学には、自然科学的知識、芸術的知識等々を統合することができる可能性があるということができる。
     その可能性は、かつてのアリストテレスの知の体系や、ディドロ、ダランベールの「百科全書」といった形で、その時代においては成功をおさめていることからも分かる。ただし、現在の知の蓄積は、かつてと比較にならないほど膨大であるので、情報集積、情報処理のための技術的な手段の開発という課題がある。
  • 人文学は、「精神的価値」、「歴史時間」、「言語表現」を研究対象としている。
     即ち、人間の社会・文化が成立するに当たって人間の「精神的価値」はどこにあるのか、また、「精神的価値」は単に現存するだけのものではなく、「歴史時間」の中で形成されてきたものであり、その歴史的な脈絡はどのようにして理解できるのか、さらに、「言語表現」を理解する在り方はどのように説明できるのか、といった問題を人文学は伝統的に取り扱ってきた。これらの問題は、古典的な問題であると同時に、現在でも決して十分に説明できていない重要な問題である。

諸学の基礎としての哲学

  • 哲学は、私たちが、普段これは当たり前のことだ、自明のことだと考えているものの考え方とか、価値というものを揺るがしていく、あるいは疑ってかかるというものであり、常にものの考え方のルールを、あるいは、土俵を絶えず更新していくような性格のものである。
  • 哲学とは、あらゆる学問の基礎を考究する学問である。知識(ナレッジ)が単なるオピニオンではなくサイエンスでありうるための根拠を探索するのが哲学であり、いわば諸学が科学として成立する条件といった学問の根本に関わる学問であると言うことができる。
     このような考え方に立てば、あらゆる科学者は同時に哲学者でなければならないということになる。つまり、自分の学問の根拠を考究していけば、必ず哲学の問題にぶつかるのである。
     例えば、物理学であれば「物質」、「運動」あるいは「1」という概念、医学であれば「病」、「異常」という概念について考究すること、また、歴史学であれば、「現存していないもの、即ち不在のものについて科学的に探究するとは何か」といった問題について考究することは、まさに哲学と言いうるものである。
  • 哲学を「虚学」とする見方がある。この場合の「虚学」とは、社会が直面している現実の課題に取り組む「実学」に対する概念であり、机上の学問というほどの意味である。近年、環境の問題、老いの問題、教育の問題、家族の問題、性の問題、障害の問題といった問題が重要視されている。これらの諸問題に対しては、制度の改革や技術的な解決といった「実学」のレベルでの対応ではなく、我々の考え方そのもの、つまりフィロソフィーを根本から検討しなおすことが求められていると言ってよい。これはいわば、「実学」の反対概念としての「虚学」である哲学が今まさに求められていることを示すものではないか。
  • 哲学には、諸学を基礎付ける「基礎学(Grundwissenshaft)」としての役割と、「教養(Bildung)」としての役割がある。
     「基礎学」としての側面を考えた場合に、「知識(Wissenshaft)」は純粋な「知識」として成立するのではなく、歴史的、社会的な制約を受けつつ、ある歴史的、社会的枠組みの中で歴史的、社会的な制約を受けて生まれてくるものであることに留意する必要がある。これは自然科学においても例外ではない。
  • 哲学が諸学を基礎付ける「基礎学」であるならば、哲学科が文学部にあるのは非常におかしなことである。自然科学の哲学、歴史の哲学、医療の哲学、宗教の哲学、芸術の哲学等々、あらゆる学問の基礎に哲学が存在しているのであるから、あらゆる学問分野の研究と教育の基礎に哲学がなければならない。

「価値合理性」の判断

  • 人文学の仕事は、「価値の尺度」について判断することにあると考える。即ち、一定の「価値の尺度」を前提にして、その尺度に基づいて優劣を判断していくのではなく、「価値の尺度」そのもののが本当に正しいのかどうかの論議を行い、判断をしていくこと、これが人文学、とりわけ哲学の仕事であると考える。
  • 人文学、社会科学の研究は、既存の価値や通説に対する「懐疑」から出発する場合が多い。このような意味で、研究者が自由な発想に基づき研究を行っていくことが重要なのである。【再掲】

「人間」の学としての文学

  • 「文学研究とは、『人間』を研究することである」という考え方がある。これは、「文学研究」が、根本のところで諸学の上位に立っているという信念の表現とも言える。

自然科学と人文学

  • 日本で、「科学哲学」と言う場合には、「哲学」の一分野としての「自然科学に関する哲学」という意味で使用されている。本来、「哲学」は学問論というような意味で「科学哲学」そのものであるはずである。

(3)教養教育

要旨

  • 「教養」とは、異なる価値を有する人々の間のコミュニケーションの共通規範であり、それは一般に「古典」の共有により担保されている。
  • 「教養」は、広い視野と深い配慮を背景にして、様々な価値の尺度について判断する人文学の営みであると定義することもできる。
  • 「教養」は、文化的多様性、地域的多様性を前提に構築されるべきものである。

「教養」の意義

  • 「教養」とは、世の中の様々な価値に関して、何が大事かなのか、本当に大事なものは何かについての正しい判断力を持っていること、価値の遠近法をわきまえていること、という形にも定義することができる。
  • 哲学は、価値の尺度を判断するものという意味での「教養」とする考え方がある。
  • 教養教育には、大衆教育という面もあるが、才能を発掘する一つの方法という側面もある。
  • 教養教育には、人生哲学的意義とともに、社会における自分の適性を知る上で有用な側面があると考えられる。
  • 教養教育とは、人生のきっかけづくりである、多様な個性的存在が出会うということに最大の意味があると考える。

共通規範としての教養:古典

  • 「教養」とは、世代間のコミュニケーション及び共時的なコミュニケーションという2つの観点から、ある種の共通のコミュニケーションの道具、即ち「共通規範」と言ってよい。
  • グローバリゼーションの時代の中で、相手とネゴシエーションをして問題解決を図ることができるかは、「教養」に幅広く立脚しているかにかかっている。
  • 世界や人間を考えるための教養や理念は「古典」を読むことを通じて修得できるという考え方が、ヨーロッパや中国において受け継がれてきたと考えられる。このような歴史的背景を踏まえると、現代においても、高等教育とか、生涯学習といった場面で、「古典」を読むことが推奨されることは容易に理解できる。
  • 古典を学ぶことを通じて、人間の在り方、社会のダイナミズムを知ることができる。このような意味で、古典を学ぶことには社会的有用性があると言えるのではないか。
  • 我々日本人が、問題の大小とか軽重を判断する能力に弱点があるのではないかと言われるのも、このような輸入学問の中で身に付いてしまった原典軽視の発想を引きずっていることに原因の一端があるのかもしれない。

「価値」間の評価

  • 哲学には、諸学を基礎付ける「基礎学(Grundwissenshaft)」としての役割と、「教養(Bildung)」としての役割がある。
     「教養」としての側面を考えた場合には、哲学は、広い視野と深い配慮を背景にして、様々な価値の尺度について判断する(「価値の遠近法」)ことになる。例えば、様々な価値に関して、「なくてはならないもの」、「あってもよいが、なくてもよいもの」、「端的になくともよいもの」、「あってはならないもの」を判断することが「教養」としての哲学ということになるのではないか。
  • 自然科学の本は、読んで100パーセント分からないと分かったことにならないと言ってよいが、哲学の本というのは、読んで20パーセント分かればぜいたくといった性質のものである。しかし、仮に10パーセントしか分からなかったとしても、その10パーセントの中に何かものすごい衝撃があり、そして、何度も何度も人生の中で繰り返し読む。哲学の本とはそういうものである。
  • 「教養」とは、世の中の様々な価値に関して、何が大事かなのか、本当に大事なものは何かについての正しい判断力を持っていること、価値の遠近法をわきまえていること、という形にも定義することができる。

教養の文化的多様性

  • 人文学は、基本的に「教養教育」としての機能を有している。
     例えば、ヨーロッパにおけるリベラル・アーツが、ヨーロッパにおける学問研究、学問教育の基礎をなしてきたことは言うまでもない。また、中国では、四書五経の読解が世界や人間を考えるための教養や理念を提供したものと言うことができる。さらに、これらリベラル・アーツや四書五経は、物事を考える上での思考のパターンや、学術上の概念の使用方法といった方法的な基礎を与えるものでもあり、これらが、法律学や医学といった専門の学問を学ぶ上での前提にもなっていた。
     これらは現在で言えば、人文学の基礎教育とか、基礎教養と言われているものにほぼ相当している。
  • ただし、「教養」については、それぞれの地域に固有の「教養」が存在しうるものであり、さらに、それぞれの地域の固有の伝統に基づいたリベラル・アーツを前提とし、その教養の上に立った学問を作ることが重要である。世界中どこでも同じ学問ということでは必ずしもない。

(4)社会的貢献

要旨

  • 人文学の社会的貢献は、(研究成果がソフトであることから)教育を通じて行われる場合が多い。
  • 現代社会において、人文学に求められている研究内容としては、1.文明社会における人間の位置づけや、2.グローバルリゼーションの時代における文化の多様性に関する研究である。
  • 社会的貢献に関し、人文学に求められている機能としては、1.政策形成支援、2.専門家と市民とのコミュニケーション支援である。
  • 哲学には、個別科学の「専門性」に対して、一種の「アマチュア性」を特色である。この一種の「アマチュア性」こそが、一般市民と専門家とを架橋する役割を哲学者に与えていると言える。

教育を通じた貢献

  • 人文学の社会的実効性については、様々な議論があるが、やはり、公共物としての学問や、公共物としての大学あるいは高等教育という観点から、何らかの社会的実効性があることを証明しなければならない。
  • 21世紀のリーダーを育てるためには、哲学と数学を学修させることが重要と考える。哲学は構想力を、数学は解析力を育成するものであり、これらを通じて高度な価値判断に基づき速やかに意思決定できる人材を育てることができる。

文明社会における人間の位置づけの確認

  • 人文学は、文明社会の根底にある人間観を基礎付けている。現在、情報技術やバイオテクノロジーの進展に伴い文明社会の在り方が変容しているが、そのような中で人間がどうあるべきかを人文学が提示していくことが求められている。また、その際には、人文学と自然科学とのコラボレーションが課題となる。

グローバリゼーションの時代における文化の多様性の確認

  • 現代社会においてあらゆる領域を覆っているグローバリゼーションの流れの中で、文化の多様性や個性との調和の観点から、人文学が果たす役割は大きい。
  • グローバリゼーションが進行する中で、固有の文化がどのようにして成立するかということに人文学者は大きな責任を持っていると考えられる。固有の文化を創り上げるためには、多様なチャネルを通じた多様な知識の蓄積が必要である。
  • グローバリゼーションの時代を迎え、古典的な人文学的教養が通用しなくなる時代が来るのかもしれないが、古いけれどもやはりそのような教養のあり方、教養のイメージというものが、今後も長く残っていくのではないかとも考えている。
  • 画一性の論理を前提とし、個性を剥奪していくというグローバリゼーションの流れの中で、個性を前提とした「教養」というものが具体的にどうあるべきなのか、困難な問題に直面している。
  • 学問の効用には、1.個人の確立や個人の解放、2.生活上の利便性の増大とともに、3.コミュニケーションとか異文化共存、社会システムの在り方への貢献があり、人文・社会科学は、3のような問題への対応が求められるのではないか。

政策形成支援

  • 人文学の知見が、政策形成や、制度・機構等の形成に当たって、サポート要因となることが重要である。
     例えば、文学やその他の言語表現が人々のコミュニティー形成にどのような役割を果たすことができるか、博物館・美術館等の施設や機構がどのようにして利用者に対してメッセージを発することができるのか、再生医療や終末期医療等のいわゆる生命倫理の問題について、価値や倫理の問題から人文学としてどのような考え方を提示できるのか、このような試みを通じて、人文学の知見が社会や政策に対して何らかの貢献ができるものと考えられる。

専門家と市民との架橋

  • 大学における研究活動を見ると、専門家共同体内での知識のための知識の競争といういわゆる学術研究活動と、技術的な知識については、いわゆる産学連携というような形で、研究成果の社会還元活動が行われている。
     実は、このような専門家同士の競争と産業社会への貢献のどちらからも取り残されているのは一般市民である。哲学をはじめとする人文学は、市民社会的な自由の確保という観点から、その学術的成果を活用することができると考えている。例えば、科学技術の社会への適用の場面において発生する市民と専門家とのコンフリクトの調整、コンセンサス形成といった問題に対して、諸学の基礎付けの学であると同時に、アマチュア的な教養でもるという「哲学」の二義性を活かすことで、哲学者が市民と専門家との間のコンセンサス形成を上手く果たすことができる可能性がある。また、このような市民社会的な自由の確保に関する哲学的な訓練を通じて、公共的な事柄に関して自ら責任を負うような市民を育成することにも資すると考えている。
  • 古今東西の様々な考え方、価値観について議論をする。そのような議論の作法を中等教育段階から教育していくことが重要である。このため、哲学研究者はそのようなコミュニケーションの作法を身に付けたファシリテーターとして、哲学教育を行っていくことが求められている。
  • 人文学、特に哲学には、社会のニーズへの対応という点について、学術の専門性を市民社会的な自由へとつないでいくという貢献ができる。
     事例として、科学技術の在り方への市民のかかわりに関して、市民参加型のテクノロジーアセスメント、都市づくりにおけるシナリオワークショップ、コンセサンス会議などがある。
  • 意見が異なる人々が、一つの事柄について論理的に議論ができる、そういう場を設定してファシリテートしていく能力を育成するのも哲学の大きな仕事である。
  • 市民社会との関わりといいうことで考えれば、個別科学の細かい知識からのアプローチというよりも、物事の考え方をどうするのか、どのように価値判断を行っていくのがよいのかという哲学によるアプローチが有効であると考えられる。

社会との関係が希薄な原因

  • 哲学が、日本の社会において受け入れられにくいのは、第1に翻訳語特有の難しさに原因があると考えられる。例えば、「存在」、「無」、「生成」という哲学用語は、英語では「ビーング」、「ナッシング」、「ビカミング」という日常用語である。これを正確にとらえるため、造語により翻訳したのではあるが、結果として、言葉の難しさが哲学への日常的な接近を妨げてしまったことは否めない。
     第2に、哲学が取り扱うテーマ自体が浮世離れしているという社会の側の理解、ある意味で誤解があるからと考えられる。特に、日本においては、西洋哲学のテーマの中で、認識の問題とか、存在の問題といった一部のきわめて抽象的なテーマを非常に拡大視して取り扱ってきたとところに社会との乖離の原因があるのではないか。本来、西洋の哲学者の問題関心は、そのような抽象的なテーマにとどまらず、歴史、政治、法、教育といった具体的な問題にも十分向けられていたはずである。
  • 哲学は、本来、社会的なディスクール、言説が生成するその場所に関わるものである。
     西洋近代の哲学者であれば、「自由」、「法」、「権利」といった概念が形成される社会の現場において発言し続けてきたと言ってよいと思う。また、現代の西洋の哲学者も、社会的なオピニオンの形成の場であるジャーナリズムであるとか、社会の担い手を育成する初等中等教育に対しても、哲学者が深く関わっているといってよいと思う。
     このような観点からみると、日本の哲学研究は、ある哲学者の思想の文献学的研究に始まり、それを思想史の文脈の中でどう位置づけていくのか、そして、研究対象とした哲学者の著作の解釈を更新していくことにすべてのエネルギーを注ぎ込んでおり、哲学教育にしても、哲学の思想史研究としての哲学研究の専門家を養成するということに著しく偏っており、社会の中の哲学的思考を育んでいこうという関心が非常に少ないということが言える。【再掲】

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