序 視点

 人文学の振興について検討を行うに当たり、まず、「知」や「学問」そのものについて大局的な見地から二つの視点を確立しておきたい。

(1)「知」の自足性と道具性

 まず、「知」を「科学」という側面と「技術」という側面に分け、その特質を明らかにしておくこととしたい。
 「科学」と「技術」は、歴史的にも、また本来的にも性質を異にしている。
 「技術」とは、「知」の世界の外部に存在するクライアント(現代であれば政府や産業界)が設定した社会的、経済的目的の達成のための手段、道具として活用される「知」の在り方であり、このような在り方は文明の発祥とともに存在している。いわば、外部から与えられたミッションを達成するための「知」という意味で、「技術」とは道具性を特質とした「使命達成型の知」ということができる。
 これに対して、「科学」とは、「知」の世界の外部に存在するクライアントが設定した目的のための手段、道具としての「知」の在り方ではなく、「知」のための「知」という、いわば自己充足的な「知」の営みである。このような意味で、「科学」は、外部の目的のための手段、道具としての「技術」とは全く独立のいわば純粋な「知」の体系であると言ってよい。歴史的な淵源としての古代ギリシャの「哲学」について考えれば分かるとおり、「哲学」の特性は、自由な市民による知的探求活動を「知を愛すること」、即ち「フィロソフィア」ととらえたところにあった。
 このような歴史的な経緯をふまえ、「知的好奇心」を動機付けとして、「真理の探究」を目的とした「科学」が成立する。このような意味で、「科学」とは自足性を特質とする「好奇心駆動型の知」ということができる。即ち、「科学」とは、純粋な知識体系であり、「科学」の成果を道具として活用するクライアントが外部に存在せず、また、他の目的を達成するための手段ではないという意味で、まさに古代ギリシャ以来の「フィロソフィア」の特性を備えている。
 しかし、20世紀後半には、「科学」の成果を利用した「技術開発」が活発となった結果、技術開発の前提となる「科学研究」にも産業などのクライアントが存在するようになった。そして、この結果、科学者の知的好奇心に基づいて研究が行われる伝統的な「好奇心駆動型の科学」に対して、「使命達成型の科学」と呼びうるような「技術」的な振る舞いをする「科学」が誕生したのである。
 そして、今日、学術の振興を審議するに当たり、この「使命達成型の科学」の登場が、大きな意味を持つことになるということをここでは指摘しておきたい。具体的には、おそらく「科学」を巡る最近の問題は、「使命達成型の科学」の基準で、「好奇心駆動型の科学」が評価されてしまっているところにあると考えられるのである。
 この報告は、第一にこのような視点を背景にして構想されている。

(2)我が国が受容した「西洋近代科学」の特性

 人文学を含め、我が国における学術の在り方を考えるに当たって重要な視点として、我が国が西洋近代科学を受容した時期が、西洋において「科学」が専門分化した直後の19世紀後半であったということを指摘できる。即ち、我が国が受容した西洋近代科学とは、総合の学問としての「科学」ではなく、既に専門分化を遂げた後の「個別科学」であり、そのことが我が国の学問の在り様を規定しているのではないかという問題認識を持つことが重要なのである。このことは、「サイエンス」の訳語として、専門分化を前提とした「科の学」としての「科学」という日本語が当てられたということにも現れていると言ってよい。
 第1章で述べるように、「個別科学」としての「科学」を受容したことが、「輸入学問」という性格と相まって、我が国の人文学や社会科学において、人間や社会を俯瞰した総合的な視点を確立することを結果的に阻害する要因として作用した可能性を考えることができる。この問題は、一種の歴史の宿命であり、いかんともしがたいものではあるが、我が国の学術の在り方を考えるに当たり、踏まえておくことが必要な視点と考えられる。

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