資料2‐2 日本の展望―学術からの提言2010(素案) おわりに

 日本学術会議は、我が国の科学者コミュニティの代表機関として、昨年60周年の節目を迎えた。この機を捉えて我々は、日本学術会議が従来様々な形で対外的に発信してきた見解や助言を踏まえながら、「学術」の現状分析とその長期的な展望および学術の推進のための政策措置に関する見解を、6年ごとに「日本の展望―学術からの提言」という報告書に取りまとめることとし、その初めての作業を行った。昨年はまた、1999年にブダペストで開催されたユネスコ主催の世界科学会議で採択された『科学と科学的知識の利用に関する世界宣言』(ブダペスト宣言)が、現代世界における科学の役割に関する画期的な合意を公表してから、10年目の節目の年でもあった。こうした背景の下に作成した『日本の展望―学術からの提言2010』は、三つの基本的なメッセージを提出している。
 第1のメッセージは、「学術」という概念が持つ基本的な重要性である。専門的な「科」に分岐した学問である「科学」は、真理を追求して新たな知を創造することを本質として、自由な発想に基づいて推進される学問という特徴を共有している。これらの諸科学を人文・社会科学、生命科学、理・工学の全領域にわたって包括する概念こそ、「学術」に他ならない。日本学術会議は、このように諸科学を総合する「学術」の理念を制度的に具現する活動体であり、ブダペスト宣言に凝縮された「科学」の四側面―「知識のための科学、進歩のための知識」、「平和のための科学」、「開発のための科学」および「社会における科学、社会のための科学」―のいずれとも、正面から取り組む資格を備えた科学者コミュニティの代表機関なのである。
 これに対して、科学技術基本法における「科学技術」の概念は、固有の意味の人文・社会科学を法の対象から明示的に排除している。それのみならず、理系科学の内部においてさえ、「科学を基礎にする技術(science based technology)」に関心を絞り込んで、国際的に標準的な「科学・技術(science and technology)」概念との看過できない非整合性をもたらしている。「科学を基礎にする技術」に戦略的に関心を絞り込む政策的な選択が、過去において的確であり、有効性を発揮できていたにせよ、現在、我が国の学術・科学・技術の現状と将来を考える上で、日本の科学技術政策のこのような方向づけが根本的な見直しの必要に直面していることは、否定すべくもない事実であるように思われる。
 第2のメッセージは、学術の研究対象である自然と社会に対して、人間の活動が引き起こしつつある不可逆的で大規模な変化が持つインパクトである。この変化の一つの側面は、地球規模の地域間格差の拡大である。地球上のある地域では急激に人口が増加しつつ、他方で少子高齢化によって人口の純減に直面する地域が並存している。また、所得と富の分配のみならず、水と食料の分配にも顕著な地域間格差が拡大した。その結果、全世界を平均的に眺めれば決して壊滅的な不足が存在しない場合でさえ、悲惨な窮乏の境遇に長く放置される地域と過剰なまでの豊穣さを継続的に享受する地域が並存し、人間の「福祉」の観点に立って評価するとき、経済・社会システムのグローバルな機能障害が露呈している。学術の知を傾注して、この機能障害に対処する措置の設計と実装に寄与することは、「社会における科学、社会のための科学」が担うべき重要な任務の一つである。
 同じ変化のもう一つの側面は、時間軸に沿って懸隔する世代間の利害対立の深刻化である。その顕著な一例は地球温暖化問題に他ならない。すでに歴史の彼方に姿を消した過去世代が累積的に排出した温暖化ガスは、遠い将来に登場する世代が継承する地球環境に対して、極めて深刻な悪影響を及ぼすことが懸念されている。この悪影響を緩和する政策措置に関する社会的な選択のレバーを握る現在世代は、温暖化ガスの蓄積に対して責任の大きな部分を負うべき過去世代がもはや存在せず、温暖化の深刻な影響に曝される遠い将来の世代がいまだ存在しない現在において、自世代の「福祉」を遠い将来世代の「福祉」のために犠牲にする政策的な選択を行うというユニークな立場に置かれている。この決定を理性的に行う社会的メカニズムの設計と実装に寄与することは、現代の学術と科学が「社会における科学、社会のための科学」として機能する能力を顕示するもう一つの重要な「場」である。
 上に述べた第1の変化は、時間軸を現在時点で切断して、地球上の地域間で衡平な処遇―「地域間衡平性(interregional equity)」―の達成を要請している。これに対して第2の変化は、時間軸に沿って懸隔する世代間で衡平な処遇―「世代間衡平性(intergenerational equity)」―の達成を要請している。これら二重の衡平性を達成することは、第18期以来の日本学術会議が繰り返してコミットしてきた「持続可能社会(sustainable society)」の実現という目標を達成するために、不可欠なステップであることに留意すべきである。
 第3のメッセージは、過去世代から学術的な知の蓄積を継承して、将来世代に対して充実した学術的な知の蓄積を引き渡すべき現在世代が、三つの重要な責務を負うことである。第1の責務は、学術に関する公共政策の形成に対して、日本の学術の歴史的な生成過程と現状の問題点を踏まえ、将来の学術の発展方向を的確に展望して、理性的な批判と提言を粘り強く発信することである。特に、学術の環境整備に関して、学術研究の内包的かつ外延的拡充に主として関心を持つ研究者が自律的に設計・実装できる範囲は、非常に限られている。学術の知的成果が、社会的「福祉」の改善に寄与するプロセスは深く静かに進行して、日常的な政策決定機関の目につきにくいだけに、日本の学術の将来を枯渇させないために公共政策の決定に自覚的に影響をおよぼす努力は、学術の現在世代が背負う公共的義務である。第2の責務は、学術情報の整備方法の精密な点検を怠らず、さもなければ散逸の危険に曝される学術情報の収集・整理・維持を確保するために、継続的に努力を傾注することである。第3の責務は、学術の次世代を担うべき研究者を着実に養成すること、様々な障壁によって研究者としてのポテンシャルの十全な発揮を妨げられている研究者に対して、飛躍のための跳躍台を公平に提供すること、また学術の知の意義を正しく認識できる学術リテラシーを国民の間に広く深く定着させることである。いずれの責務も、『日本学術会議憲章』で謳った社会に対する我々の誓約の一部であり、歴史の一環を形成する現在世代が担うべき責任として、広く認識される必要がある。
 今回公表する『日本の展望―学術からの提言2010』は、日本学術会議が学術の現状と課題を冷静かつ率直に評価する継続的な作業の出発点である。この小さな一歩が、将来の作業の蓄積によって、「社会における科学、社会のための科学」として日本の学術が一層成熟するプロセスの最初の一歩とみなされる日が早急に到来することを、日本学術会議の歴史の一環を形成する我々は切望してやまない。

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