第3章 21世紀の学術研究のダイナミズム(動向)と展望

(1)科学者コミュニティは学術の展望をどのように語るか

 第2章では、社会が直面している問題に対して学術がどのように対応し、人類社会に学術がどのように貢献できるかについて論じた。本章では、人文・社会科学、生命科学、理学・工学の諸科学が、それぞれの研究領域に関わる社会的・学術的課題をどのように見据え、対処していくのか、学術研究と社会との関係のあるべき姿、そして社会的な課題解決のために学術はどのような方向に発展するべきかについて、その展望を論じる。
 日本学術会議は、創設以来、第1部(文学、哲学、教育学・心理学、社会学、史学)、第2部(法律学、政治学)、第3部(経済学、商学・経営学)、第4部(理学)、第5部(工学)、第6部(農学)、第7部(医学、歯学、薬学)の7部から構成されていたが、学術および社会の問題をより俯瞰的、総合的に捉えるため、学術会議法の改正により2005年(20期)から、第一部(人文・社会科学)、第二部(生命科学)、第三部(理学・工学)の三つの部に再編された。
 三つの部に所属する会員および連携会員が実際に活動する場は、それぞれの学術分野を代表する合計30の分野別委員会である。分野別委員会は社会および学術における喫緊の問題、あるいは深い検討が必要な問題を取り上げ、分科会を設けてそれぞれの分野の学術的視点から審議を行い、提言あるいは報告の原案を作成する。これらは、所属する委員会、部での審査を経て幹事会の了承の下に日本学術会議の総意として社会や政治・行政に表出される。また30の委員会は、学術の各分野を代表しながらも、地球規模の問題や、分野横断的・文理統合型の対応を必要とする社会的課題に呼応して、その姿を柔軟に変化させる。例えば、環境問題には環境破壊、温暖化、種の多様性維持など様々なレベルと広がりが存在する。そのため、環境学委員会は理学・工学を本体にしながらも、その構成員は人文・社会科学、生命科学、理学・工学の全ての部から参加しており、また課題によっては他の委員会と合同で、自然環境保全から環境教育、環境政策、国際協力に至るまで、幅広い課題に対し様々な角度より俯瞰的に検討を行っている。
 このように人文・社会科学、生命科学、理学・工学の三つの部は、社会と密接かつ動的な関係を持ちつつ「社会のための科学」および「科学のための科学」を推進してきた。本章で描く展望は、30の分野別委員会が学術分野ごとにそれぞれの分科会の審議を踏まえて取りまとめた報告を基礎に、第21期までの報告・提言をも参照しつつ、各部によって総括され、紡ぎ出されたものである。

(2)各学術分野での学術研究のダイナミズム(動向)と展望

1.人文・社会科学

 人文・社会科学は、人間の生の営みを捉え、それを通じて人間と社会(諸地域・諸国家・世界)および人間と自然との関わりを対象として実証的に考察し、その基礎の上に、人間のあり方、社会のあり方を構想し、またそのために実践する学術的営為である。その学術研究の基底には、人間を尊厳ある存在として承認し、具体的な多様性を差別の理由とすることなく、人間の平等の発展可能性を追求する価値的な態度が貫かれる。この価値的な態度は、科学・技術がその発展の中で自らのあり方を定位することにおいて重要な役割を果たすべきものである。20世紀の科学・技術の目覚ましい発展は、人類社会に大きな成果と繁栄をもたらし、人間は自然の制約から自由になったように見えた。他方で、二度にわたる世界大戦を経てなお続く戦争の危機と核兵器の脅威、人間の活動による不可逆的な自然環境の劣化は、現在、人類社会の生存条件そのものを脅かしている。また21世紀を特徴づけるグローバル化は、資本主義経済を地球の全域に押し広げ諸地域の発展を促し、人権の観念を普遍化しているが、それと同時に世界の社会的経済的格差を拡大し、現実の不平等を強め、加えてグローバルな経済危機をもたらした。人文・社会科学は、諸科学の総合としての学術が人類社会の持続可能性の課題に立ち向かう中で、人類の歴史的経験を自省し、人間主体のあり方を求めつつ、法・政治・経済のよりよきシステムの構築、よりよき社会の構造の探究、21世紀の人類的課題に対応した新しい価値・思想・文化・教育の創造、公共的コミュニケーションのための言語の強化などに力を尽している。
 人文・社会科学が、21世紀という時代の人々のためにその実現を目指す、より具体的な課題を我々は、次のようにまとめてみた。第1に、人々の信頼と連帯に支えられた効率的かつ公正な社会を構築することである。国家の政策と経済社会における市場原理と自由競争の一面的な強調は、制度改革を通じて、社会に多くのひずみをもたらし、「社会の質」を大きく低下させた。公正で効率的な制度を形成するとともに、信頼と連帯を育てて、社会的なつながりを広げ、安全で安心できる社会を作ることが必須である。この社会はまた、多元性・多様性を尊重する社会でなければならない。世界において、とりわけ日本社会において、異なる出自(国籍・民族・地域)と文化を持つ人々が相互に多元性と多様性を尊重し、平和的に共生する社会を形成するためには、適切な制度を用意するとともに、それを支える社会意識の変革を図らなければならない。
 第2に、現在の世界では、国民を単位として国家が形成されているが、この国家の運営のために「機能する民主主義」を実現することが不可欠である。民主主義の諸制度が用意されていても、人々が政治への有効性感覚(自分の行動が政治に影響を与える感覚)を欠き、政治の傍観者となることによって民主主義の機能不全が生じる。それは、いわゆる「民意」と実際の政治の距離、政党活動のあり方、社会において政治を論じる文化のあり方など、様々な理由によるであろう。人々の政治をめぐる討議や政治参加を促進するために、文化や社会行動の分析、制度の構築、実践の検証に至るまで人文・社会科学研究の協働が必要である。その場合、国民国家の民主主義のあり方は、国民に限定されない市民社会(外国人市民を含む)の民主主義、および国家を超えるグローバルな民主主義の意義との関連も視野に置くべきである。
 第3に、グローバル化する世界における問題である。ここでは、平和を創り出すこと、そしてグローバルな社会政策の可能性を追求して格差のない世界を目指すことが課題となる。20世紀は戦争の世紀であった。21世紀では、核の拡散、独裁国家の核保有、テロの組織化などによって「新しい戦争」の脅威がある。国際社会において核兵器の廃絶を目指すとともに、国際NGOの活動の拡大、紛争の構造的要因を除去する「人間の安全保障」政策の強化など、具体的に戦争防止の国際的システムや条件を作り出していくことが必要である。また、経済のグローバル化は、国際的および国内的に格差の拡大につながっている。この中で個別国家の政策的力能は大きく減退しており、それゆえ社会の持続可能性を確保するために、様々な国際的組織やシステムを通じて「グローバル社会政策」を展開する方途を追求し、同時にグローバル経済を安定させることが喫緊の課題である。
 第4に、人間主体に関わる問題である。21世紀の人類社会の課題に立ち向かうためには、個別国家を超えたグローバルな世界史的視野を持ち、人間の尊厳と主体的自由を追究する「地球市民」(それは同時に様々な出自による多層的なアイデンティティを伴う。)の育成を目標とすることが重要である。また、主体と主体とのコミュニケーションの手段としての言語は、そのようなものにとどまるのではなく、人間が自らを深く把握するための「内面の媒体」である。他者が交流し合う公共的な空間において相互の交流と理解のために用いられる「公共的言語」(書き言葉と話し言葉)の力の衰えが憂慮される今日、これを再確立することは、自他の理解を深めるとともに、発信力・受信力を高め、社会の構想力を豊かにすることに通じる。さらに、現代社会が構造的に産み出す人々の「心の空洞化」を乗り越えるためには、「ともに生きる価値」の再認識に向けて人文知の貢献が必須である。
 人文・社会科学は、総体としての学術研究の一翼を担い、その固有の機能を存分に展開するとともに学術の総合力を発揮すべく、人間と社会への視野によって、舵取りの役割を果たさなければならない。解決すべき課題を抱える近未来社会のシナリオを設計し、諸科学の連携・協働を要として推進し、解決の手段として制度を考案し、実際化のための社会技術を創出することは、人文・社会科学の本質的な役割の一つである。このような諸科学の連携・協働の取組みは、例えば高齢社会の制度設計、ジェンダー研究の推進、現代の市民的教養の形成などの課題において早急に具体化されるべきである。
 人文・社会科学は、以上に述べた課題を遂行し、その展望を拓くために、自らの不断の革新を進めるとともに、科学技術(science based technology)を本位とする国の施策を転換し、21世紀の人類的課題に応えるべく人文・社会科学の役割を適切に位置づける、より総合的な学術政策を確立する努力をしなければならない。人文・社会科学は、人間の営みと社会の仕組みをより良きものにするために社会の課題に応え、さらに一層学術研究を発展させる責務を負っている。[27]

2.生命科学

 20世紀後半から高まった生命科学の重要性への認識は21世紀に入ってさらに増大し、21世紀は生命科学の時代といわれるまでになった。生命科学インフルエンザ、HIVなどの感染症、先天性疾患や認知症などの老年期疾患、心臓病に代表される生活習慣病などへの医療を通して、私達の生活そのものに直結している。一方で生命科学は、地球上の多様な生物の今後のあり方や生物間の関わり合い、自然との共生、食料問題、創薬研究など、幅広いテーマと膨大な情報を扱っている。さらに、20世紀後半からのヒトES細胞の樹立やクローン生物の誕生、そして近年のヒトゲノムの解読の完了などにより、生命科学は大きな転換期に立ち至っている。すなわち、人のあり方や倫理問題、生殖医療の問題などを含めて、単に生命科学の分野だけではなく、人文・社会科学や理学・工学とも協働しつつ、学術全体から総合的かつ俯瞰的に考えざるを得ない時代となり、生命科学は人間の尊厳やあり方そのものに大きく関わるようになった。どのような方向で生命を捉えていくかという原理的問題において、生命科学はまさに新たな時期を迎えていると言えよう。
 生命科学における第1の課題として、生物の多様性の尊重を挙げる。急速な技術革新と開発による自然環境の悪化、地球温暖化、人口増加は、生物多様性の衰退を招き、地球規模で生態系の不健全化をもたらしつつある。自然生態系が失われることにより、水資源の維持、大気構成の維持と浄化、土壌の形成など多くの生態系サービスが損なわれ、人間自身の存続基盤を脆弱化させる可能性がある。多様性と他の生物との共存という原理を再度確認し、環境データや生物データを長期にわたって観測するネットワーク体制の構築および、それに基づくデータの統合・分析・評価が必要である。
 第2の課題は、食の安全である。日本が将来的にどのような方法で食料を安定的に確保するのか、自給率も含めた総合的・長期的な政策を考える時期にきている。その際、例えば遺伝子組換え作物をどのように取り扱うのかなどの問題について国民の合意を得ることが重要であり、そのために、日本学術会議は科学的根拠に基づいて、食の安全について、専門家だけではなく国民とも対話を重ねていく責任と義務がある。
 第3の課題は、医療のあり方の改善である。医療制度は現在多くの問題を抱えており、今後社会保障制度全体を見据えた医療または医療費負担のあり方の議論は避けられない。長期的に持続可能で質の高い医療制度を維持するために学術が果たすべき役割は大きい。中でも、早急に取り組むべき課題の一つが医療と医療制度のあり方であり、医療における国民の信頼の確立が重要である。医療を公共財とみなす立場からの医療に対する過度の要求は、医療費システムを疲弊させ、かえって国民の損失につながりかねない。こうした事態が招来されることについて、国民の理解を拡げることも必要である。また同時に、医師のみならず歯科医師、薬剤師、看護師あるいは関連する分野の研究者は、医療に対する信頼の確立に責任を負うことを忘れてはならない。人の生涯を通しての健康で安全かつ安寧な生活に寄与する生命科学の推進は、必須である。さらに、生命科学の発達と生命倫理の関係も看過できない問題である。生殖補助医療のあり方や高度医療はどこまで行うべきであるかという生命科学の喫緊の課題について、生命科学者は人間の尊厳に対する最大の配慮の上に対応するべきである。
 第4の課題は、生命科学における基礎科学の発展である。生命科学においても応用科学を重視する傾向があり、基礎科学への投資が縮小し、基盤が崩れる傾向にあることは憂慮すべき事態である。基礎科学の発展なくしては応用科学としての農学や医学の展望も限られたものになってしまう。基礎科学に根をおろした科学の発展こそが、健全な生命科学の発展であることを認識するべきである。
 第5の課題は、生命科学における次世代の人材育成である。国立大学・国立研究機関の法人化に伴う人員削減、正規職員から契約職員への転換など、研究・教育者の雇用が大幅に狭められ、正規の職に就けない研究者が急増しているなど、人材の育成問題は深刻である。世界における生命科学の興隆にもかかわらず、我が国においては、若手研究者が夢を持って持続的に研究ができ、安心して働けるような場の提供が十分とは言えない。ポストの削減とともに、研究費さえ確保しにくい不安定な身分に若手研究者がおかれていることは、日本の生命科学の将来にとっても大きな問題である。
 第6の課題は、生命科学における研究の多様性の確保である。将来の生命科学の発展を支えるためには、大型研究設備や研究支援体制の整備が極めて重要であり、研究の基盤となるバイオリソースやデータベースを恒久的にサポートする組織的財政的支援体制の整備が急務である。またそれと同時に、生命科学では、数億から数千万円程度の資金がそれぞれの研究者に渡るようなシステムによって発展していく研究も多く、それゆえ生命科学の研究の多様性を確保しておくことが重要である。生命科学では現在、ゲノム科学の発展を基盤とした新しい生命科学領域として、数理科学のみならず情報科学やゲノム科学からの理論や技法を発展させ、複雑で動的な対象を分析するための手法や理論の開発が急速に進みつつある。ゲノム・個体から地球生態系にいたる生物的階層で生物自体および生物と環境に関する分析・統合が進み、基礎から応用にわたる統合的科学として発展することが期待される。生命科学の全ての分野において研究の活性化と維持のための支援業務に対する設備費・人件費を国が責任を持って助成し、効率的に配分していくシステムが必要となる。
 生命科学の成果が生命現象を解明し、人類の福祉に貢献することは社会に広く認識されている。この生命科学の「科学のための科学」と「社会のための科学」の両面を融合させることが、今後の生命科学における大きな課題であろう。日本学術会議は今後、生命科学の展望を明示し、広く公表すると同時に、生命科学系の学協会とも連携を図り、ボトムアップ型の意見交換による学協会との相互協力の下に生命科学を発展させていくべきである。[28]

3.理学・工学

ア 理学・工学分野展望の背景

 真理の探究を目指す「科学」および人類が必要とする人工物を作り出す「技術」は、長年相互に影響を与えながら融合的に発展し、社会全体を活性化し、人間生活を豊かにして、人類の幸福および社会の発展に大きな貢献をしてきた。例えば、20世紀前半の量子力学や相対性理論に代表される新しい基礎科学分野の発展は、20世紀後半の半導体素子、レーザー、コンピュータ等に代表される革新的技術の飛躍的発展をもたらした。一方で、科学・技術の急速な発展は、社会構造、地球環境、生態系等を大きく変化させ、地球規模の気候変動、エネルギー・資源の不足・枯渇等の様々な問題を引き起こしている。21世紀は、地球自体やエネルギー・資源等の有限性という制約を認識した上で持続可能な社会を目指さなければならない状況にある。また、人類が過去に経験したことのない様々な問題が起こるであろうことも予測される。これらの課題を解決、克服するには、やはり科学・技術の力が必要不可欠である。新しい科学・技術の創成によって初めて人類の存続・発展が可能になり、精神的・物資的に調和のとれた幸福な人間社会を実現することができるであろう。そのためには、人材の育成とその仕組み作りが重要である。科学者・技術者は、このような地球環境と人類社会の調和ある平和的な発展に貢献することを社会から負託されている。理学・工学は、これらの課題全体を俯瞰的に見渡し、リードしていく役割を担っている。

イ 理学・工学分野の学術研究のダイナミズムと課題

 過去数世紀の科学・技術の目覚ましい発展は、人間生活を豊かにし、社会の発展に大きく貢献してきたが、同時に負の側面として環境破壊やエネルギー・資源の不足・枯渇等の問題を引き起こしている。また、科学・技術が発展し、人間生活に浸透するにしたがって、我々が関わる社会システム全体が極めて複雑化・巨大化し、その制御は困難になってきた。代表的な例がインターネットシステムであり、利便さの一方で我々の生活を脅かす面も持っている。それゆえ今後は、人間が豊かで安全・安心な生活を保っていくために、例えば巨大複雑系社会システム、自然共生流域圏、サスティナブル資源・物質戦略などにおいて、持続可能な社会に向けた新たな科学・技術を創成していくことが理学・工学における第1の課題である。
 第2の課題は、知の統合の推進である。国際科学会議(ICSU)は、ブタペスト宣言で「社会のための科学」の重要性を謳い、科学の目標は「固定価値の解明」から「変化過程の解明・問題解決」へシフトしたと述べている。従来の「固定価値の解明」の時代は、科学・技術分野を細分化し、それを深く探求することによって多くの成果が得られてきた。しかし、その手法では、現在の社会が抱える環境等の地球的・複合的課題に対応することは困難になっている。そこで、近年は、従来の領域型分野を横につなぎ、あるいは縦に編成し、新しい価値観や科学・技術を生み出す「知の統合」とそのための新しい研究方法論(例えば、E‐サイエンス)の開拓や新しい研究推進体制(例えば、バーチャル研究所)の構築が必要となっている。
 第3の課題は、研究基盤の充実である。大型施設・設備計画や大規模研究の推進は、基礎科学の発展に大きな貢献をしてきたが、省庁再編や国立大学の法人化以降、計画策定や施設・設備整備が難しい状況が生じてきた。研究大学を少数に重点化する政策も中長期的に見れば深刻な問題を投げかける。大学や研究機関の研究の芽を摘み取ることなく、また国際的視野を持った人材育成と流動化を妨げずに、長期的・国際的視野の下で、大型・大規模研究計画と基盤的研究との適切な調和の仕組みを構築すること、中小規模の基盤的設備の設置・整備を計画的に進めることが求められる。
 第4の課題は、大学・大学院の教育改革と人材育成を図るための教育投資である。第2期および第3期の科学技術基本計画において人材育成は重要な課題として推進されてきたが、OECD報告書によれば、2005年の我が国の人材育成のための政府予算はGDP比で見ても依然として少なく、高等教育では0.5%という低い値となっている。逆に、我が国では高等教育への私的負担が多くなっている。理学・工学分野に関して言えば、次代の自然科学や技術を担う若年層の理科離れや大学院教育と企業の要求とのミスマッチ等の問題があり、大学・大学院における専門教育の改革が緊急の課題である。また、若年人口の減少に伴い、科学・技術の担い手をさらに広げていくことも重要な課題である。
 第5の課題は、市民が持つべき科学・技術リテラシーの涵養と新しいリベラルアーツ教育の構築である。長中期的には高度な科学・技術リテラシーを有する教員の育成と現職教員の研修の実施、学生および教員に幅広い科学的教養を持たせるための科学・技術リベラルアーツ教育を、短期的には科学・技術の成果を社会に発信するためのマスコミとの連携、研究者側の情報発信意識とスキルの向上等を促進すべきである。
 理学・工学は、これらの課題全体を俯瞰的に見渡し、社会の課題に応え、さらに一層学術研究を発展させる使命を果たすことが求められている。また、大学における研究と教育の大学自体による継続的改革に加え、初等から高等教育における一貫した科学・技術教育の推進が重要である。さらに、今後は、理学・工学それ自身の深化に加え、関連の生命科学、人文・社会科学との連携・協働を進め、持続可能な社会を構築するための具体的な方策を呈示し、価値を創造するための基盤的な知の体系を築く学術的な役割と、21世紀の地球社会をそのふさわしい姿に先導する社会的な役割を果たすことが求められる。[29]

(3)学術研究の近未来

 学術研究の近未来を論じるとき、これまでの学術研究のあり方を踏まえながら、新たな挑戦の展望をどのように切り拓くかがその核心である。その際、課題は大きく二つに分かれる。一つは、学術研究そのものの発展について、もう一つは、学術研究を担い支える人的基盤についてである。

1.学術研究の発展

 学術研究の発展のなによりもの基盤として、第1に、全ての学術を支える基礎科学の推進が重要である。基礎科学は自然・人間・社会に対する人間の素朴な疑問に答える学問であり、その成果は実際的な有用性如何によらず、知ることそのものが人々に感動や畏敬を与えるものである。基礎科学は、例えば気候変動の解明のために長年にわたって大気中の炭酸ガスや海水面の変動を調べる地道な努力を続けなくてはならない。短時間では研究成果を得られず、成果が目に見える形になるまではその研究に対する社会的評価が低くなりがちである。加えて、最近では特に特許の取得や新たな治療法の発見など経済の活性化にすぐに役立つ科学・技術を重視する傾向がある。
 基礎科学に対するこうした社会の消極的な評価は、この分野への研究投資を減少させ、優秀な研究者を確保することを困難にする。この事態を改善し、全ての研究分野の基盤としての基礎科学の意義を確立し、継続的に活性化することを目指さなければならない。
 第2に、人類社会の持続的な発展を支えるための科学・技術をこれまでのあり方を自省しつつ、さらに発展させなければならない。科学・技術は健康と福祉の増進、食料の安定供給と安全性の確保、日常の生活を衣食住の全ての面で豊かで便利なものにすること、また社会のより良いシステム構築に大きく貢献してきた。これからもそのような役割を果たすことは間違いない。他方、科学・技術の急速な発展は、世界人口の急激な増加と化石燃料の大量消費をもたらし、地球環境や生態系だけでなく社会構造も大きく変化させるなど、地球規模の問題を引き起こした。これらの問題を解決し、持続可能な人類社会の発展を目指すためには、より一層、環境、資源、安全などへの配慮を重視した新たな科学・技術の発展が不可欠である。
 ここにおいて、とりわけ重要なことは、その発展の基礎に人間の尊厳を承認し、人間存在の具体的な多様性と同時に発展の平等の可能性を追求する価値的な態度を据えることである。このような文脈において、人文・社会科学が科学・技術の展開について、それをコントロールする役割を担うべきこと、あるいは、生命科学が「人間の福祉に貢献するための人間の科学」を目指すことが位置づけられる。
 第3に、具体的な研究領域における諸科学(文理)の連携、協働を進め、蓄積しつつある地球規模の問題を解決するための統合的な研究、また、それを体系化する「統合の科学」[25]を発展させることである。これまでの科学・技術は分野細分化の方向に進み、それぞれの分野を深く探求することによって多くの成果を産んできた。しかし、このような研究方法は、現在の人類社会が抱える人口、環境、食料と水、エネルギー、安全保障、様々なリスクの管理など、21世紀の諸課題を解決するためには不十分であるばかりか、必ずしも適切でない。このためには、従来の領域型研究分野をつなぎ、新しい価値観を基礎づけ、創造的な科学・技術を生み出す「知の統合」とそのための新しい研究方法論を開拓することが必要である。ここで「統合」の概念は、「融ける」という語感を持つ「融合」を避け、諸科学の生み出したそれぞれの知が、融け合うのではなく、協働する中で発展的に変化し、より創造的な力としてさらに協働の成果を獲得していくものであるという考え方に基づいて利用する。
 統合的研究、統合の科学の核心は、基礎科学と科学・技術の連携、また、自然科学と人文・社会科学の密接な協力関係の構築を人類社会の課題解決に向けて、意識的・計画的に進めることである。特に、人文・社会科学は自然科学とその技術自らが導き出すことのできない価値的な視点を追究し、統合のための鍵を提供する役割を担わなければならない。このような文理統合型の新しい科学の創成によって初めて人類の存続・発展が可能になり、精神的・物質的に調和のとれた幸福な人間社会を実現することができるであろう。
 このような新しい研究方法論に基づく「統合の科学」の一つの具体例が「安全の科学」である。社会の多くの問題はリスクとして捉えることができるが、適切なリスク管理策によりこれを低減することが求められている。リスク管理策の設定は、例えば温暖化ガスの排出基準のように、政治的、経済的、社会的影響を考慮することなしには有効でない。このような多次元の諸要素を処理すべき複雑な課題は、自然科学と人文・社会科学の創造的な連携・協働によってのみ解決可能であり、「安全の科学」とも言うべき新しい科学の支援が必須である。また、我々は、21世紀に求められる学術研究として、「持続可能な社会構築の科学(Science for Sustainable Society)」を追究したい。これは、将来世代の福祉を原理的な視点として捉え、資源・物質・エネルギー、人類の健康・安全・安心の問題を探究し、人為的気候変動に対する緩和策・適応策の探究など、その解決のためのサスティナビリティ・テクノロジーの開発までを含むまさに統合の科学である。
 このように我々は、学術の近未来を以上の三つの学術研究のバランスのとれた発展の中に見出している。

2.学術研究の人的基盤

 ここでは、二つの課題がある。一つは、学術研究を担う次世代の育成であり、もう一つは、科学者コミュニティを学術研究のコミュニティとして組織する物的基盤の確保である。
 現在の学術の体系は、教育、研究、学協会組織、科学研究費補助金制度など、全ての面において縦割りであり、細分化されている。この中で、次世代を担う研究者は、二つの一見矛盾する課題を追求しなければならない。すなわち、その一つは、縦割り的教育・研究体制下において、自分が属する特定の研究分野についての知識と経験を十分に蓄積しながら、そこで研究課題に取り組むことである。もう一つは、学術全体を俯瞰し、学術と社会の関係について深い考察ができるような能力を養うことである。近未来の学術研究の発展のためには、このような二つの課題を十分に統一的に追求できる次世代の研究者を育成しなければならない。このような研究者は、学術の全ての分野で必要とされるだけでなく、21世紀的諸課題に立ち向かう政治、行政、経済など社会の多くの分野でも必要とされる。
 こうした観点から、深い専門性とともに幅広い見識を持つ次世代研究者の育成を目的として動き出しているのが、ドイツ、オランダ、そしてヨーロッパ連合(EUにおいて実施されている若手アカデミー(Young Academy)のシステムである。それは、若手研究者が自ら俯瞰的視点から学術の社会に対する課題に取り組むことを支援するシステムを準備し、上記の二つの課題に応える能力を育成しようとするものである。
 日本学術会議は、このような新たな動きにも着目し、さらに諸外国の経験を調査した上で、次世代を担う若手研究者のためのシステムを検討すべきである。それは、若手研究者が分野を超えた交流の機会を獲得し、俯瞰的な視野を持って社会の課題に対する学際的な研究への途を開き、同時に若手研究者を取り巻く困難な事態を打開するために政策提言を行うという活動を積極的に推進するものであり、学術の近未来を担う人材の育成を図ることを目的とする。
 日本学術会議が代表する日本の科学者コミュニティは、全ての分野にまたがって多様で多数の学術研究団体(学協会)によって組織されている。日本の学術研究の総合力を発揮し、統合的研究・統合の科学を推進しようとすれば、これらの学協会の交流と連携がその下支えを形成する。学術を推進する国の政策のあり方についても、学協会のボトムアップの意見が極めて重要である。学協会の力を活かすためには、国の学術政策において、これらの学術活動を支援する政策の展開が求められる。学協会の学術活動は、広い意味での社会の福利を増進する公共的な性格を有しており、社会の側も、学協会の側もそのことを確認することが重要である。また、具体的な課題の一つは、学協会を基礎にした電子ジャーナルの国際的発信を国の施策としても強力に推進することである。この領域について、日本の学術研究の基盤は脆弱であり早急にてこ入れする必要があり、同時にこの強化策は、日本の学術研究の国際的発信度を高めるべき国際的責務と言わなければならない。具体的には、例えば共通情報発信基盤の構築や電子版リソースナショナルセンターの整備が検討されてよい。
 以上のように、学術研究の展望とともに、その人的基盤について語られた学術の近未来をどのように実現するかは、日本の科学者コミュニティとその代表機関である日本学術会議の活動にかかっている。

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科学技術・学術政策局計画官付課

(科学技術・学術政策局計画官付課)