第2章 21世紀の世界において学術研究が立ち向かう課題

(1)人類社会に対して学術はどのように貢献できるか

 日本学術会議は、2002年に『日本の計画 Japan Perspective』(以下『日本の計画』という。)を発表した。「はじめに」でも述べたように、『日本の計画』では、人類史的課題として「行き詰まり問題」(地球の物質的有限性と人間活動の拡大によって生じた問題)を掲げ、この「行き詰まり問題」を解決するための方法論なくして、「持続可能な開発」は実現しがたいとした[8]。
 その後この7年間に我々人類は、地球規模の気候変動に関する新しい事実を突きつけられ[9]、世界各地で新たに、津波や地震、洪水などの災害の惨禍を経験した。自然環境の汚染も引き続き報告されている。水やレアメタルなど様々な資源の欠乏の脅威にも曝されている。多くの戦乱はその原因を異にしながら、戦乱そのものは止まらない。原油価格や農作物の価格が乱高下し、さらに、新しい金融工学理論と投資家の倫理欠如を原因としながら金融危機が世界の経済市場を混乱と危機に陥れた。その一方、情報技術の進展はその速度を速め、地球規模での情報伝達の効率の拡大はとどまるところがない。再生医療技術には新しい発見があり、交通分野ではハイブリッド車が普及した。
 しかし、社会の本質的な問題の所在は変わっていない。個人と国家の関係、日本とアジア・世界の関係、貧困と経済成長の関係などが、その姿を変えつつ問われるべき問題として存在する。そのような関係をめぐる問題とともに、生活の安心とリスク管理の課題、教育の役割とあるべき姿を求める課題なども引き続き存在している。
 人類社会は、その発展の長い歴史の中で、社会が持つ構造に、それぞれの時代ごとに新しい知識と技術(すなわち学術の成果)を加えてきた。幾層もの地層で構成される大地のように、前の時代の上に新しい知の地層が形成され、これからも形成され続ける。社会の構造に新しい知が変化を与え、その新しい知は、社会から時代ごとの位置づけを与えられる。社会と知は、動的な相互干渉の中で変化していく。これら複雑な社会と知の関係の総体を、我々は現在の学術のあらゆる分野を総動員して理解しなければならない。その上にのみ、次の時代の「展望」を得ることができる。
 これからの21世紀の日本の展望を考えるとき、学術からの視点そのものは、7年前と大きくは異ならない。しかし、人類は7年の歴史を加え、また学術の知は大きく進展し、深みを増した。学術の視点から見える景色は、大きく異なるものとなっている。『日本の計画』では、上述した「行き詰まり問題」解決の方法として、人類社会と物質循環の関係、および人類社会における情報循環の関係に関して、四つの「再構築」を行う必要性を示した。すなわち、「人類の生存基盤の再構築」、「人間と人間の関係の再構築」、「人間と科学技術の関係の再構築」、および「知の再構築」である。今回の『提言2010』では、この四つの再構築の枠組みを活かしながら、この7年間の人類の経験を踏まえ、将来に向けて、新しい内容の「再構築」を考察した。以下、21世紀の世界において学術研究が立ち向かう課題として、四つの「再構築」を示す。

(2)人類の生存基盤の再構築

1.持続可能な世界とは何か

 「持続可能な発展」という概念は、1987年に「環境と開発に関する世界委員会」により提唱されたもので、1992年の国連地球サミットを通じて世界に広まった考え方である。有限な地球資源と人間の生活が両立する発展を追求することを基本とし、環境と人間活動の調和を重視するとともに、現在地球上で生を営む世代と将来の世代とが公平に発展の恩恵を享受することを目的とする。地球の物質的有限性は、無限の成長を不可能とし、将来世代の発展を保障するためには、地球の生命維持システムによってもたらされる恩恵を未来の全人類が享受できるような持続可能な世界を展望しなければならない。
 持続可能な世界は、世代間の公平を追求するのと同時に地球規模での地域間の公平の確保を課題とする。世界における発展に付随する不平等と格差、また競争の暴力的解決を回避し、地球規模の公平な発展を推進しなければならない。現在のグローバル化の下ではそれぞれの国家が一国単位で発展を追求しても、地域間の公平な発展を実現することができない。また、国際社会における紛争は、地球資源を損ね、持続可能な発展の大きな阻害要因となる。地球規模において、文化や価値観を異にする人々が共生し、人々が全体として平和と安全を享受しうる社会を実現して初めて、世界の持続可能な発展を確保することができる。
 『日本の科学技術政策の要諦』[10]は、21世紀の地球規模の主要課題を人口増加、地球環境劣化、南北格差の拡大の三つに整理し、いずれの問題も、人類社会の持続可能性にとって極めて大きな脅威であると指摘している。これら三つの課題は、水、エネルギー、資源、環境、リスク、人間の安全保障の問題にさらに分けられている。ここでは、持続可能な世界を構築する上での必須の課題として「人間の安全保障 」の実現、および地球環境問題の克服について検討する。

2.持続可能な世界と「人間の安全保障」

 「人間の安全保障」は、従来の「国家の安全保障」と異なり、地球規模において個人を中心にいかにしてその安全を保障するかを考えるものであり、国際社会において様々な主体が政策や活動指針の中で優先的に取り組んでいる現代的課題である。
 持続可能な世界における「人間の安全保障」という大目的は、人間の生命維持と基本的生活の営みのために不可欠な資源・環境の持続的確保、および自然界と人類社会の調和的発展のために地球規模でのシステム構築を必要とする。このような課題を果たすためには、環境問題のグローバルな取組みを進め、生命維持を脅かす様々なリスクの回避を追求し、また個人の安全を第一義的に考えるヒューマン・セキュリティのためのシステムを構築しなければならない。
 「人間の安全保障」を具体的に実現するためには、飢饉や貧困、環境の劣化などの「欠乏からの脅威」、また災害、紛争や人権侵害などの「恐怖からの脅威」に対して人々の自由を確保し、総合的に人々の生命、身体、安全、財産を守るシステムを用意し、措置を講じなければならない。人間の安全保障に対する取組みは、学術の知を総合して行われるべき最重要課題であり、欠乏からの脅威に対しても、恐怖からの脅威に対しても、学際的、包括的、実践的なものとして文字通り学術の総合力を活かすことが必要である。同時に、これらの学術的取組みは、国際機関、政府、非政府組織(NGO)、市民団体などの政策・実践機関の活動と密接な関連を持ち、具体的な行動に結びつけられなければならない。


4 「人間の安全保障」の概念の中心は、ノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・セン博士の開発理論である[11]。

3.持続可能な世界と地球環境問題

 「人間の安全保障」実現のためには、上述のように、人間の生命維持と基本的生活の営みのために不可欠な資源、すなわち、水資源、食料資源、エネルギー資源、鉱物資源、森林資源などの持続的確保が必須である。しかし、これらの資源は地球環境とも複雑に関連し合い、持続可能な発展のための問題解決を極めて困難にする。
 社会におけるこれらの資源利用のあり方に関して、経済学者のハーマン・デリーは(1.)再生可能な資源(土壌、水、森林、魚など)の消費ペースは、その再生ペースを上回ってはならない、(2.)再生不可能な資源(化石燃料、良質鉱石、化石水など)の消費ペースは、それに代わりうる持続可能な再生可能資源が開発されるペースを上回ってはならない、(3.)汚染の排出量は、環境の吸収能力を上回ってはならない、と提唱した[12]が、このことは、持続可能な世界を構築するためには、地球環境の恒常性を志向する(ホメオスタティックな)生命維持システムを壊さないことを念頭におくべきことを示している。間違いなく、地球環境問題は、持続可能な世界のために我々が取り組むべき喫緊の課題である。[13]

4.地球環境問題の発生

 環境とは、自然およびそこに生きている動植物が共同して構成するものであり、人間の生活が環境に対して何らかの影響を与えることは当然である。しかし、人類が地球上に出現してからの数百万年のほぼ全期間にわたって、人間の活動が自然環境に与える影響は無視できる程度のものであり、環境とは人間にとって、外から与えられるものであった。
 こうした状況が決定的に変化したのは、18世紀の産業革命以来人類がそれまでに比べてけた違いに多量の資源やエネルギーを用いるようになったためである。それ以来、現在に至るまでに築き上げられてきた生産・消費システムはさらに多くの人口を支えることを可能とし、その結果特に20世紀には世界の人口は爆発的に増え、人間の活動量も飛躍的に増大した。
 拡大を続ける人間活動は、様々な形で周囲の環境に悪影響を及ぼすようになった。初期にはこうした影響の及ぶ範囲が狭く限られていたが、現在、人類の活動は環境に対して深刻な影響を地球規模で及ぼすほどに大きくなっている。人類は、20世紀末から21世紀に入る時期に極めて深刻な地球環境問題に直面することになった。

5.深刻な地球環境の危機

 現在世界が直面している主要な地球環境問題は、大きく分けて以下のような原因から発生している。
 第1は、先進国型の生活様式自体の問題である。現在の人類の活動は、工業や農業などの生産活動と家庭生活のいずれにおいても、大量のエネルギー消費に依存している。エネルギー源として主に用いられている石炭、石油などの化石燃料は、比較的安価であり、また熱効率の優れた資源である。しかし、その大量の燃焼は、大気中での二酸化炭素量を大幅に増大させ、地球全体の気候の温暖化という、予期せぬ結果を招いたと考えられている。気候の温暖化に伴って、台風などの気象災害が激甚化の傾向を見せているのではないかという推測もある。
 第2は、人間の活動から作り出される生産物や、活動の結果として排出される廃棄物等の量が、自然環境によって無害に吸収または排除される限度を超えたことである。過去においても、水銀やヒ素といった少量でも毒性の強い物質の環境中への排出が、限られた地域の中で深刻な公害を引き起こした。現在では、石炭燃焼から発生する亜硫酸ガスなどに原因がある酸性雨や、森林燃焼によって大量に発生するエアロゾルなど、大陸以上のスケールの広がりを持つ汚染現象が問題となっている。
 第3は、以上のような要因で人間の活動が環境に過大な負荷をかけた結果、その環境の中で生きている動植物などに深刻な影響が及んでいることである。環境の劣化は、動植物の絶滅などに示されるように生物多様性を危機に陥れ、生態系から人類が受けているサービス(農業や漁業など)の低下を招く。動植物も環境を構成する要素であり、生態系の危機はさらなる環境の劣化を導くことになる。

6.地球環境問題の克服を目指して

 学術研究は、地球環境問題の発生する仕組みの検討、問題の科学的評価、そして今後の進展の予測を行い、その解決のための政策、方策を提示することによって地球環境問題解決に貢献することができる。問題の原因を解明する基礎的な科学研究、問題の解決方策を提供する技術研究、問題の解決を社会で実現するための政策研究のより一層の連携が必要である。
 地球環境問題は極めて複雑な現象であり、真の解決のためには広い学問分野にわたる統合的なアプローチが欠かせない。また多くの問題は地球規模で広がっており、解決のためには国際的な協力が不可欠である。特にアジアは様々な環境問題が集中的に現われている地域であり、我が国の科学者の問題解決に向けた積極的な努力が求められている。
 現代の資源やエネルギーを潤沢に消費する生活は、それ自体が環境に大きな負荷を与えている。したがって地球環境問題の解決に向けて一般市民の参加を促すことが重要であり、そのためには社会全体の中で、地球環境についての理解を深めていかなければならない。地球環境問題の真の解決のためには、上記の対策に加えて、大量消費型の人間の生き方自体を自省することが避けて通れない。その場合、環境に対する負荷が小さくなるような人間の新しい生き方の可能性を世界に提示するのは、学術の重要な役割の一つである。
 人類社会の持続可能性の追求と地球環境問題の解決に向けて、そこに示された課題を以上のように概観するならば、人類社会は科学技術だけで解決できない多くの困難な問題に直面していることが理解できる。我々は、学術の全ての分野の連携・協働さらに融合による知の結集を図ることにより、学術の総合力を発揮して、これらの困難を乗り越えて持続可能な世界を構築していかなければならない。[14]

(3)人間と人間の関係の再構築

1.世界とアジアの中の日本

 ここでは、世界とアジアの諸国が直面している問題を整理し、「互恵・互啓・協働の原則」に則して課題を設定し、解決の方向を明らかにする。
 世界で最も動態的な地域はアジアである。2008年現在、アジアの人口40億7500万人は世界の人口67億5000万人の60%を占め、経済活動をみても、世界の名目GDP(国内総生産)の合計額の30%、世界の輸出合計額の40%、世界の自動車生産の50%、半導体生産の65%をそれぞれ占めるまでになっている。また、アジアはASEAN(東南アジア諸国連合)憲章の採択、東アジア共同体構想の進展など、地域内での対話と協力が、EU(ヨーロッパ連合)と並んで進んでいる点でも、世界の関心を集めている地域である。
 その一方、アジア諸国が直面している課題は、工業化の進展に伴って悪化する環境問題に限らない。紛争の多発、人権の侵害、少子高齢化社会の到来、家族制度のゆらぎ、食料と水の問題やエネルギー問題の発生など、世界各国が直面する様々な問題を集約的に、そしてより圧縮した形で示している地域がアジアである。こうした状況の下で、アジア諸国が「互恵・互啓・協働の原則」に基づいて協力することは、地域だけではなく世界にとっても不可欠の要請である。アジアが貧困の解決だけではなく、「不戦の誓い」を守り、平和の維持と紛争の解決に積極的に取り組めば、世界がアジアの巨大な発展のモメンタムをさらに生かし、その恩恵を受けることが容易になるからだ。逆に、アジアが平和の維持や紛争の解決に消極的であればあるほど、アジアのみならず、世界全体の自律的発展の契機を大きく損ねることになる。ここで言う協力とは、国家と国家の間の関係だけではなく、人間と人間の間の交流と協働を考えている。「世界とアジア」の中の日本を考えるときに、戦略的、地政学的、地域的な視点に加えて、グローバル化が深まる中で、人間と人間の次元を強調しすぎることはない。
 アジアは、お互いに恵み合う習慣を実行できるようにその器量を大きくしなければならない。2004年、東北インド洋の津波の発生後、アチェ州は、主要大国(米国・日本など)の支援、国際機関(国連など)の援助を大量に受け入れる過程で、インドネシア国家との和解へと進んだのに対して、スリランカではタミール反乱軍が逆にスリランカ政府に攻撃的になり、結局は政府軍に殲滅されてしまった。外部者は被災者に対して緊急援助を迅速に大量に行ったが、結果はインドネシアとスリランカでは大違いであった。互恵の精神の欠如のせいであろうか。
 アジアは、お互いに啓発する習慣を実行できるようにその器量を大きくしなければならない。2009年、中国では、広東省における事件をめぐって新彊ウィグル自治区でも民族間の大規模な衝突が発生した。互啓の習慣が十分ではなかったのだろうか。結果はどちらにとっても不本意なことだったのではなかろうか。
 アジアは、お互いに協働することの習慣を身につけなければならない。アジアは、国際的に合意を制度化する度合いが世界の地域に比べても非常に低い。それは一方で地域の経済発展のテンポが速く、巨大な勢いを持つためとも言えるが、他方、国家中心の考え方がこのグローバル化時代にはいささか時代錯誤的な強さになっているせいとも言えるのではなかろうか。世界とアジアの中で日本が果たすべき役割は、このようなルール作りと制度作りに力を発揮することであろう。
 アジアはダイナミックである。それは、同時に変化に適応する時にややもすれば国家中心になりがちであることを意味する。これから世界をリードするであろうアジアの将来にとっては、互恵、互啓、協働の精神を常に心の底に置いていくことがプラスになる。日本の役割は、自らが互恵、互啓、協働の精神を実践し、「人間中心のアジア、世界に活躍するアジア」を目指して、アジアの進歩のために微力ながらも尽くすことである。その中で、日本の学術は、アジア諸国の研究者のネットワークを強化して認識の交換と対話の場を構築しつつ、具体的に「現代アジア学」に関する共同研究を推進して「アジアの地域的公共知」を創出することを追求し、また、日本の経験・知識等を踏まえ「ハードな技術とソフトな制度・組織」の体系的な知をより積極的に発信しなければならない。日本の学術、とりわけ人文・社会科学は、世界とアジアについて、世界のトップレベルと協働して、概念化、理論化、実証分析を強力に進め、これまでの教育・研究水準を格段に引き上げる努力が必要である。[15]

2.個人と国家、私と公の関係の再構築

 次に、個人と国家の関係を考えてみる。20世紀は国家の世紀であった。個人は、その生存と権利の保障を国家に求め、国家の役割はたえず増大してきた。国家を中心とする考え方においては、「私」に対する「公」は「国家」と同一視された。世紀末葉から国家の役割の見直しが進み、市場の機能が全面的に押し出されたが、21世紀の今日、金融市場の破綻がきっかけとなり、「国家」の役割の新たな位置づけが模索されている。この状況の下に、「個人」と「国家」の関係の再構築について、四つの論点を提示する。
 第1は、国民国家の現代的変容である。近代の個人と国家の関係においては、個人の国家への帰属意識(国民観念)に基づいて、国民国家(「国民」の存在を不可欠な要素とする近代国家のあり方)が公共性を独占的に担ってきた。現代では、国民国家的公共性は、限界にぶつかり、国民国家の内外に対して拡延していること、つまり一方で国家の内側でのマイノリティの平等保障の徹底化と他方で国家の外側でのグローバル空間における公共性の成立を認識すべきである。ただし、グローバルな公共性の成立は、権力のグローバル化、つまり世界国家の創設に結びつけられるものではなく、近代の国家において主権と人権が表裏一体として成立したことの洞察を踏まえて、主権国家(他の存在によって制約されない至高の権力を要素とする近代国家のあり方)の存在を前提に世界の主権国家システムの改善を図るべきである。
 第2に、近代において、公共性の形成権限は国家に独占されてきたが、現代社会においては、市民社会による公共性の形成が目指されるべきである。その際には、様々な社会的活動主体の協議と調整を経て公共性を形成するという手続き重視・プロセス志向の民主主義モデルが必要であるが、この民主主義モデルに対しては、人権等の価値による統御(歯止め)が備えられなければならない。このような市民社会による公共性の実現を支援するために、例えば、都市と農村の適切な生活秩序・自然環境を確保するための市民的コントロール・システムの構築など、それに応じた実定法制度のあり方の転換が要請される。
 第3に、個人と国家の関係については、「二項対立」から「三項図式」への変容を確認し、個人に対する国家の役割を相対化する構造を展望するべきである。この場合には、二つの方向性がある。一つは、個人と国家の中間領域に諸個人(市民)が横につながる場として「新たな公共」を基礎づける公共圏または市民社会の形成を認めるものである。もう一つは、個人の生存様式を条件づける要因として「国家」に加えて「市場」および「共同体」の三項を「秩序のトリアーデ(三つ組)」として位置づけ、これが個人に対する「専制のトリアーデ」となることを防止し、適切なバランスのよい関係を構想するものである。
 第4に、個人と国家の関係の再編については、個人を「決して自足しえない存在」として捉え直す視点の重要性を考えるべきである。近代は、「自立した個人」の概念を生み出し、それを社会の原点に置いたが、その一方で、そのような「自立した個人」の他者(自立した諸個人を生み出し、ケアする存在)への依存性は覆い隠されることになった。現代における社会福祉は、「新たな公共」を形成するプロセスにおいて、個人の他者への根源的依存性を人間の根源的な特質の一つとして顧慮しなければならない。
 我々は、以上の四つの論点を踏まえて国家と個人の関係の再構築を展望することができるが、その場合の考察においてもう一つ重要なことは、未来社会の構成員をその対象である「個人」として位置づけなければならないということである。[16]

3.誰もが参加する持続可能な社会の構築

 ここでは、人々の生活と社会の関係を構造的に考察する。日本の合計特殊出生率は世界最低クラスであり、自殺死亡率は世界トップクラスである。所得格差は、先進国の中でトップクラスにあると懸念され、特に母子世帯の相対的貧困率は最高である。また、税・社会保障による移転の前後で子どもの相対的貧困率を比べると、経済協力開発機構(OECD)諸国の中で日本でのみ、移転後のほうが高い。
 これらの指標は、性差別から解放されるなど個人の尊厳が保障され、誰にでも参加の機会が確保された社会を持続させる上で、日本では課題が多いことを示している。貧困や格差の広がりは、子どもたちの学ぶ機会と教育達成にも影を投げかけ、「国民皆保険」と謳われた社会保険制度の空洞化をも招いている。雇用の不安定化などにより、保険料の滞納や非加入が広がっているからである。しかも、折からの経済危機によって問題が深刻化していると懸念される。
 同時に、これらの指標が表す事情の特徴や背景を、国際比較を交えて検討すれば、出生率や自殺率に対しても、雇用状況や所得格差といった経済社会的要因の影響が大きいことが分かる。相対的貧困率については、子どもに限らず、税・社会保障制度の効果が重要であろう。雇用の面でも、有業でも貧困となるリスクが高く、共稼ぎしても貧困から脱出しにくいという特徴があり、女性の稼得力が弱いというジェンダー関係がそこに如実に反映している。また、いわゆる「構造改革」が社会保障費用の抑制に力を傾注してきたために、制度の綻びや信頼の毀損がもたらされたことは否定できない。これらは社会的政治的な対応が果たしうる(また果たすべき)役割の大きいことを示しているのである。
 雇用の非正規化に歯止めをかけつつ、最低賃金の保障と併せて正規・非正規の待遇格差を解消すれば、少子化、教育格差、自殺などの問題の改善にも貢献しうる。また、最新のデータを駆使して国際的・時系列的な比較の観点から、税・社会保障制度を分析し、その貧困削減効果を引き上げる改革につなげることは急務である。さらに、中長期的視野に立って社会保障・医療を再構築することも必要である。
 これらの課題の達成にとって、税制・社会保障・雇用政策・医療等を継続的かつ包括的に調査審議し、改革のグランドデザインを描くべく新たに恒常的な調査審議機関を設置することは、喫緊の必要性を持つ[17]。グランドデザインを探る上での留意点は、第1に、多様な生き方を前提とした「組み合わせ型」の対応を基本とすることである(最低生活費保障および住宅保障を土台とし、その上に必要に応じて雇用保障・就業支援や教育支援、保健医療・介護サービス、福祉サービスなどを積み上げる)。第2に、参加型医療と一元的な国営救急体制等を検討し、生涯を通じて誰にもいつでも対応しうる健康保障を実現することである。第3に、経済力、人口力、都市力などが縮退していく中で、ソフト・ハードを有機的に結合し複数課題に参加型で取り組むこと(例えば、自然体験の充実による子どもの発達保障と中山間地の地域再生の結合)である。[18]

(4)人間と科学技術の関係の再構築

1.リスクに対応できる社会を目指して

 リスクとは、「人が何かを行った場合、その行為に伴って(あるいは行為しないことによって)将来被る損害の可能性すなわち確率」を意味するが、地震・風水害などの自然現象によって起こる天災、思わぬ事故のように自己が責任を負いきれない損害をあらわす危険および人間の力では避けることのできないハザードなど、人の意思決定のあるなしを超えたリスクの扱いも普及しつつある。人類は、自然環境に由来する様々なリスクへの対応とともに、便利で快適な生活をもたらした産業社会の陰の部分とも言えるリスクへの対応も行ってきた。21世紀に入って情報革命、グローバル化などが進行し、科学・技術のさらに急速な発展とともに、新たなリスクの出現は不可避である。そのようなリスクの適切な管理のために、以下の3点を推進する必要がある。

1)「リスク指標」の構築

 リスクに対して応答的かつ頑強になるには、現実社会の存在するリスクを把握する必要がある。そのために、従来整備が進められてきた「豊かさ指標(新国民生活指標)」と同様の「リスク指標」の構築が急務である。またこうした指標化をベースにして、リスク評価を試みることが必要となる。

2)「安全の科学」の確立と振興

 リスクには発生予測が困難で原因や今後の展開が不明なものもあり、そのようなリスクに対しても、その時点での最善の科学を駆使して不確実性を縮減しつつ、早急に対策を立てる必要がある。さらに、リスク評価、対策の効果と実施にかかる予算的人的コストの事前評価、政策の事後評価や、これらの過程に関係者の意見を取り入れ、理解を得るためのリスクコミュニケーションにも、科学的理論による基礎づけと手法の開発が求められる。このような安全政策を総合的に支えるための「安全の科学(リスク管理科学:レギュラトリーサイエンス)」は、自然科学と人文・社会科学の緊密な連携が必要である。この新たな科学の意義と必要性について認知と普及を図り、研究者の育成を図る必要がある。

3)「先進技術の社会影響評価」の制度化

 従来の研究開発・イノベーションシステムや法制度に準拠することが困難な先進技術に対し、その技術発展の早い段階で将来の様々な社会的影響を予期し、技術や社会のあり方についての問題提起や意思決定を支援するための先進技術の社会影響評価(テクノロジーアセスメント)の制度化が必要である。欧米ではすでに実践され、我が国でも断片的に行われているものの、問題の俯瞰的な把握や不確実性や価値の多様性の考慮といった点で、政策決定者の要求や社会からの信頼に十分に応えているとは言いがたい。この制度は、長期的・戦略的視点から先進技術の社会導入や普及に貢献し、既存の政策決定システムに対する補完的な役割を担うことが期待される。日本の政治的社会的環境に合った新たな専門機関の設立や活動の制度化などを含め、政府は安定的な支援を行うべきである。[19]

2.個人・社会と情報技術のあり方

 情報技術は現代社会の基盤として我々の豊かで便利な社会を支えている。今後もなお、情報技術は社会にとって欠くことのできないものとして重要性が高まると考えられるが、それゆえに情報技術の社会への影響の大きさには一層の注意を払わなくてはならない。昨今の情報社会には、これまでには見られないほどに多様な課題が生まれてきている。個人・社会と情報技術のあり方として、安全で安心できる持続的な情報社会の実現に向けて、以下の三点を重点的に推進すべきである。
 第1に、情報に関わる活動の将来のあり方を明らかにし、それを実現するための情報技術の研究開発の拡充と法・社会制度の整備を進めるべきである。情報技術は社会の効率化を促進し、信頼性を高めるための重要な基盤であるが、それを真に社会基盤として活かすためには、その技術自体を生活者が取り入れやすい形に成熟させる必要がある。また、情報技術は社会に溶け込むことによってさらに発展し、社会に貢献することができるようになる側面があるので、そのための制度や組織の整備も必要である。これまでは、社会における「情報技術の活用」と捉えることが多かったが、今後は「社会が求める情報技術」という面に重点を移すべきである。
 第2に、科学情報の社会資産の形成、そして、重要な情報の永続的保存と更新のための具体的な方策を検討すべきである。近年の国民の生活を脅かす問題の多くは、その対応に高度に科学的な検討を必要とする。個人や組織に信頼される政策判断のためには、客観的な判断の基準となる科学情報・データの収集・蓄積を推進するとともに、データの所有権の保護とのバランスの上で公開性を確保し、社会資産としての共有化と活用を図ることが必須である。また、情報技術は情報の質を高め、量的蓄積を増加させてきたが、情報の変化と蓄積速度をかんがみれば、現時点の情報を社会資産として将来に伝えるには、それを適切な時間単位で更新し保存する必要がある。情報の質と量、時間的変遷を包合した処理技術の開発と制度設計が重要である。学術の成果や科学情報はもちろんのこと、文化・芸術活動の証しとしての様々な情報資産について、その収集・蓄積、保存・保管等、取扱いの方策を検討することは、情報社会にとって極めて重要な課題である。
 第3に、国際的な情報社会の成熟に向けて、個別の研究分野や領域を越えた、グローバル化対応のための総合的かつ実践的な方策を推進していくことが求められる。インターネット技術の普及に伴って、我々は場所、時間、経路の制約から解放され、それまでの、国家や地域共同体のような地理的要素に依拠した社会の制度や文化に大きな変化が及ぶこととなった。一方、情報のセキュリティ、自由と規制に関する課題が国際的に認識され、それらの課題は我が国だけで解決するものでないことは明らかである。さらに、科学データの所在とそれに基づく行動基準は、当然のことながら国際的なものでなくてはならない。情報社会は、必然的にグローバル化への対応を求めている。国際社会において、我が国が責任を果たし学術を通して貢献して行くためには、国際標準に対応しつつ、個別の分野や領域を越えて、情報に関わる研究と実践の協力体制を速やかに整備すべきである。[20]

(5)知の再構築

 ここでの課題は、知の再構築の視点から、1.現代市民にとっての教養のあり方と大学における教養教育のあり方を検討し、現代のリベラルアーツ教育の役割を明らかにすること、および2.学術の拠点である大学について、その役割と大学における人材養成のあり方を明らかにすることにある。
 グローバル化の進む21世紀初頭の現在、地球環境・生態系破壊の危険性や、地域紛争・テロ、新型感染症、金融危機といった問題など、予測のつかない困難が人間・国家・人類社会を襲っている。他方、世界各国は、グローバルな経済競争の中で自国の豊かさの確保・向上を図り、それぞれの社会内における種々の対立や貧困・差別などを平和的に解決しつつ、多文化共生・多民族共生と国家レベルを含むローカルな文化・社会の活性化を持続的に確保・促進するという課題に直面している。それと同時に、経済のグローバル化に伴い、アメリカ発の金融危機が世界経済を混乱に陥れたように、現代はローカルな問題がグローバルな問題となる時代であり、その一方で、グローバル・スタンダードが拡大するとは言え、それによってナショナル・スタンダードを画一的に再編することも適切とは言えない時代にある。それゆえに、ローカルな諸課題にもグローバルな諸課題にも対応しうるトランス・ナショナルな教養知・実践知が求められている。
 それぞれの国家と人類社会が共通に抱えているこうした現代の諸課題は、異質なもの(個人・民族・国家や宗教・文化)の間での相互信頼・協力・協働を促進し、国家および世界的規模の課題の性質・構造を見極め、合理的かつ適切な解決方法を構想し実行していく基盤となる知識・叡智・教養の向上を切実に求めている。しかるに今日、「知識基盤社会」といわれるものの中核となるべき知識・叡智・教養は、大きく揺らぎ、その再構築が重大な課題となっている。

1.現代市民にとっての教養と教養教育の課題

 大学における教養教育は、特に大学設置基準の大綱化(1991年)以降、形骸化・軽視の傾向が強まった。そのことへの危機感の表明として例えば、中央教育審議会は、大綱化後約10年を経た2002年に、『新しい時代における教養教育の在り方について』を答申し[21]、大学における人材育成のために教養教育の再構築が喫緊の課題だとして、「新たに構築される教養教育は、学生に、グローバル化や科学技術の進展など社会の激しい変化に対応し得る統合された知の基盤を与えるもの」でなければならないが、そのためには「従来の縦割りの学問分野による知識伝達型の教育や、専門教育への単なる入門教育ではなく、専門分野の枠を超えて共通に求められる知識や思考法などの知的な技法の獲得や、人間としての在り方や生き方に関する深い洞察」が重要であると提言した。
 この提言は、2005年の中教審答申『我が国の高等教育の将来像』[22]における総合的教養教育の提言(「21世紀型市民」の育成を目指す、新しい教養教育の構築)、さらに2008年の中教審答申『学士課程教育の構築に向けて』(「学士力」という考え方を提起し、その内実を教養教育の観点から捉え直す)[23]に結びついている。
 現代社会において重視されるべき教養とはどういうものか、そのための教養教育はどうあるべきなのかを同定することは容易ではなく、一義的に定義・構想できるものではない。大学における教養教育の長い伝統を持つアメリカにおいても、教養の理念や教養教育のあり方に関する見解は、その時々の時代状況や社会的課題を反映して振り子のように揺れ、変遷しており、その変遷過程で提起され、重視された種々の考え方は現在も併存し、せめぎ合っている。とは言え、主要な傾向としては、古典的な教養・教養教育の理念・あり方に、現代の知的・文化的状況や社会の諸課題に対応しうる「現代的レリバンス(連関性・適合性)」のある諸要素が追加され重視されるようになってきた。こうしたアメリカにおける変遷と基本的な関心等をも参照しつつ、現代社会の状況と課題を踏まえ、以下に、「教養」と「教養教育」の概念・あり方の再構築に資すべき基本的な考え方と指針を提示する。
 その際、前提として次の2点を確認しておきたい。一つは教養の捉え方についてであり、これが識者の間でも多様であり、かつ歴史的に揺れ動いてきた事実を踏まえて、普遍的、一義的な定義や捉え方があるとの考え方や、要素主義的にその構成要素を列挙するというアプローチを採らないことである。
 もう一つは教養教育のあり方についてであり、大学教育の大衆化と多様化を踏まえ、専門教育に対置される幅広い一般教育という理解にとどまらず、大学が生涯学習社会における幅広い市民のための教育機関という役割を担っている事実を前提に、多様な教養教育のあり方を探求するという観点から考えることである。例えば、グローバル化の進展に伴う異質な文化や他者への理解において求められる国際的・人類的視野での教養、あるいは生命科学等の飛躍的な発展と人間存在をどのように理解するかという科学と価値観とをつなぐ教養など、具体的な例は枚挙にいとまがないだろう。
 ここでは、教養として具体的に重視されるものや教養教育に求められる多様性を一つ一つ列挙するのでなく、その様々な教養の捉え方(内包・外延)と教養教育の具体的展開を横串として貫く三つの視点、すなわち、現代的な文脈において、人間として、市民として、職業人として、人類社会の一員として身につけるべき倫理観・価値観・世界観とそれを実践につなげることのできる教養(基本的な知的素養と智恵)と、その形成を目的とする教養教育のあり方に関わる三つの視点を次の通り示す。
 1)個々人が自由に思考し実践する、その主体性と自律性を尊重することと、その主体性・自律性に基づく教養教育の豊かなあり方を構想し実現すること。
 2)個々人の尊厳・個性とその多様性を尊重し、同時に、多様な他者や社会に依存しつつ共生・協働する存在であることを認め、そして、その依存性・共生性・協働性を前提としつつ、多様化する学生の様々なニーズや課題に対応しうる教養教育のあり方を構想し実現すること。
 3)知の公共性(言語の公共的使用を含む。)を前提とし、専門分化し高度化する科学・学問知を越境し融合する知性、市民社会の諸活動に参加し、その活性化と課題解決に取り組み協働する実践的知性としての教養、およびその形成に資する教養教育のあり方を構想し実現すること。
 この三つの視点は、21世紀の日本社会・人類社会が直面する諸課題に対応しうる豊かな市民社会の展開と知の再生産・創造の基盤となる教養を特徴づけるものであり、また、そのような教養の形成を課題とする大学教育、とりわけ教養教育(リベラルアーツ)をデザインし充実していくことに資するであろう。[24]

2.知の再構築と大学における人材育成の課題

 科学・技術の発展に伴って人類社会は豊かな生活を手に入れたが、同時に地球規模の困難な課題に直面している。このような21世紀の課題解決のために、『日本の計画』では、新たな俯瞰的研究や新しい学術体系の構築などの「知の再構築」を求め、また教育体系においても人類社会の課題解決に資する人材育成の必要性を指摘した[8]。この基本的な視点に変わりはない。
 知の再構築の方法として、そして「社会のための科学」の実現のために、『提言:知の統合‐社会のための科学に向けて』[25]では重要な提言が示されている。それは、知の細分化という、人文・社会・自然科学に共通する抗いがたい流れに対するアンチテーゼであり、ディシプリンの深化とともに、学際的・統合的・俯瞰的な学術大系の構築のために「知の統合」を進めることを主張するものである。そこでは、「あるもの」や「存在」を探究する認識科学と、「あるべきもの」や「当為」を探究する設計科学の間の連携の促進が重要とされる。それは、認識科学によって得られた知が、設計科学による人工物や制度・方策等の案出を通じて社会へ還元され、このような連携が新たな知の再生産につながるからである。
 こうした作業を教育の場に具現化していくことは容易ではなく、科学者コミュニティ全体の主要課題と位置づけられる。すなわち、専門知識の急速な拡大と拡散により、また経営と効率追求に追われる大学環境において後退した教養教育を回復し、そこに21世紀にふさわしい知の体系を組み込まねばならない。教養と専門基礎の学部教育、専門教育の完成を目指す修士課程、専門分野の最先端研究を目指す博士課程の役割を再確認し、その上で教養教育の位置づけを総合的観点から再確認する必要がある。また、そうした教育課程を可能ならしめるために、俯瞰的な知識の教育方法の検討や、人員や施設などの基盤整備が必要である。そのようにして初めて、専門知識の実践が社会にとって受け入れられるものになる。
 科学と社会の関係の変化は、21世紀の課題解決が科学者だけで達成できるものではないこと、広く市民が科学・技術の意義と役割を理解し、科学者とともに広い視野から合意形成を築き、具体的な行動を起こしていく必要があることを示唆する。そのためには、市民の主体的な知的研鑽の機会を幅広く提供し、様々な能力に秀でた多様な人材を育む教育体制を整備し、同時にそうした研鑽をきめ細かい公的支援で支えていく必要がある。人について、人類社会について、そしてよりよく生きることについて探求する機会を与え、より成熟した世界観・社会観を持って、主体的で能動的な知の獲得と社会への参加を続ける人材の育成が求められる。
 世代の約半数が大学に進学する時代を迎えたが、さらに市民の大半が年齢を問わずアクセスできるような高等教育を実現することが重要である。市民の誰もが、自らの学習と就業を随時選択できる、モビリティの高い活力ある知識基盤社会を築くことが必要である。市民が自らの人生設計の中で、多様な機能を備えた大学で多様な生涯学習が果たせるように、入学年齢、入学時期、就学年数などにおいて飛躍的に柔軟な大学制度を設計し、高等教育の機会の多彩な拡充を図る必要がある。
 一方、次世代の若者にとっては、一連の教育課程の中で、様々な職業とそれらによって成立する社会の仕組みを学び、また職業選択を的確に行う自らの力を獲得することが重要である。それは、全ての学術分野において共通の課題であり、その達成のためにも、新しい教養教育の構築が必要である。前項で指摘したように、教養教育は多様に構想されるべきものであり、人文・社会科学、自然科学の分野に応じて、各々にふさわしい教養教育の内容構成を構築するという考え方も提案されている。それらも含めて教育課程の設計とその実践についての検討が急務である。以上の視点から研究と教育の関係を見直すとともに、大学と他の研究機関や社会との連携のあり方も整備していく必要がある。[26]

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