第1章 『日本の展望―学術からの提言2010』の背景

(1)日本学術会議と科学者コミュニティ

 日本の科学者(人文・社会科学および自然科学の全ての領域を含む研究者)は、おおよそ83万人(専従換算値では71万人。2008年)を数える(※1)。「科学者コミュニティ」とは、これらの科学者の総体を捉えようとする考え方である。83万人もの人々を一つのコミュニティ、一つのまとまりとして現す仕組みは、「我が国の科学者の内外に対する代表機関」として存在する日本学術会議である。日本学術会議は、戦後改革の中で、日本学術会議法に基づき「独立して職務を行う」国の機関として1949年に創設され、61年を迎えた。日本学術会議の職務は、「科学の向上発達を図り、行政、産業および国民生活に科学を反映浸透させることを目的」として、科学に関する重要事項を審議し、政府および社会に対して助言・提言を行うことである。
 日本学術会議は、2004年の改革によって、現在では、210名の会員および約2,000名の連携会員をメンバーとし、人文・社会科学、生命科学および理学・工学の三つの部、30の専門分野別委員会、ならびに各分野別委員会の下に200を大きく超える領域別、課題別の分科会が組織され、さらに特別のテーマを審議するために臨時の課題別委員会を設置するなど、その活動を展開している。また、約1,760の学協会が協力学術研究団体として、日本学術会議の活動を支援している。
 日本の科学者コミュニティは、日本学術会議の活動を通じて、その存在を「代表」される。日本学術会議の活動は、「代表」にふさわしく、社会に対して、科学者コミュニティの共同性を形成し、社会に対する責任を自覚し、履行するものでなければならない。日本学術会議は、2008年4月に声明『日本学術会議憲章』[1]を採択し、会員および連携会員が日本学術会議に負託された使命を果たすべくその義務と責任を自律的に担うことを社会に対して誓約している。日本学術会議は、2006年10月に『科学者の行動規範について』と題する声明[2]を採択し、いわゆる科学者の不正行為の防止について科学者自らに強い自覚と倫理を求めるとともに、社会に対して、科学者としての責任の所在を明確にした。これも、社会への誓約の一つの実行と言える。
 科学者コミュニティは、国を単位に存在し、活動するだけではなく、世界的にも組織され、グローバルな活動を展開している。1999年6‐7月にハンガリーのブダペストにおいて、日本学術会議もそのメンバーである国際科学会議(ICSU)(※2)およびユネスコ(国連教育科学文化機関)が共催して「21世紀のための科学:新たなコミットメント」をテーマに「ユネスコ世界科学会議」が開催され、『科学と科学的知識の利用に関する世界宣言』(ブダペスト宣言)が採択された(同年10月に発表)。宣言は、科学が人類全体に奉仕すべきものであり、その創出と利用について十分な情報を基に民主的な議論が必要であるとし、科学の意味づけを四つの部分に整理した。第1に「知識のための科学;進歩のための知識」、第2に「平和のための科学」、第3に「開発のための科学」、そして第4に「社会における科学、社会のための科学」である。この宣言の意義にかんがみ、日本学術会議は、2009年9月に「ブダペスト宣言から10年:過去・現在・未来」と題するシンポジウムを開催した。
 世界の科学者コミュニティの最も重要で具体的な提言活動の一つは、G8アカデミーの共同提案である。これは先進諸国の首脳会議(G8サミット)に際して、日本学術会議をその一員とするG8各国アカデミーによって開催され(他の諸国アカデミーが招請されることもある)、G8会議に対して共同声明を発して具体的な提案を行うものである。世界の科学者コミュニティにとっての最大の課題は「人類社会の持続可能性問題」に立ち向かうことである。2009年は『気候変動と低炭素社会に向けたエネルギー技術への転換」の共同声明[3]が採択された。
 日本学術会議は、諸外国の多くのアカデミーが文理の別に組織されるのと異なって、文理の全ての領域の科学者によって組織され、日本の科学者コミュニティを代表しつつ、数多くの国際的科学者組織とその活動に参加し、世界の科学者コミュニティの一翼を形成し、世界に対して日本の科学者コミュニティが果たすべき役割を担っている。


1 「研究者」の統計上の定義は、「大学(短期大学を除く)の課程を修了した者(又はこれと同等以上の専門的と知識を有する者)で、特定の研究テーマを持って研究を行っている者」を言う(総務省統計局『科学技術研究調査報告』)。国際比較の場合には、統計上の定義に注意が必要である。

2 国際科学会議(International Council for Science: ICSU)は1931年に非政府、非営利の国際学術組織として創設され、現在117の国を代表する学術組織および30の国際的学術団体などによって構成される。文字通り世界の科学者コミュニティの要である。

(2)学術とは何か

 日本学術会議の英語名称は、Science Council of Japanである。science の訳語としての科学は、「科に岐れた学問」、「諸科の学」の原意を持ち、19世紀後半のヨーロッパにおいて学問が分岐、独立して大いに発展していく状況を映し出した訳語であり、幕末にすでに見られ、明治の初頭に、井上毅、福沢諭吉や西周などによって今日的な意味において用いられ始めた(※3)[4]。
 これに対して学術は、科学と同様に幕末から明治初頭にかけて今日につながる用例が見られ始めるが、西周がそれをscience and artに応ずるものと解説したように、自然科学を念頭に置く科学よりも広く、人文・社会の諸学問の領域に及ぶ知的・文化的営みを含むものとして意味づけられた[5]。日本の大学制度を創始した帝国大学令(1886=明治19年)において、「学術」という用語が用いられたのも同じ趣旨によるものと考えられる[6]。
 現行の法律上の用語として、学術は「あらゆる学問の分野における知識体系とそれを実際に応用するための研究活動」を総称するものであり、「諸科学の全体」、「それらの領域における幅広い知的創造の活動」を意味するものである。また、「学術」研究は、「真理を追求するという人間の基本的な知的要求に根ざす」ことを本質とし、それゆえ、「研究者の自由闊達な発想を源泉として展開されることによって優れた成果を期待できる」ものであり、近代の大学制度を支える学問の自由の原理は、まさに「学術」の論理と相照応するものにほかならない[7]。
 日本学術会議の英語名称がscienceという単数で表示されているのは、諸科学に分化しているものを「一つ」のものとして総称することを意味し、そのゆえに「科学」ではなく、「学術」として表現されている。日本の科学者コミュニティの代表機関が「学術」という名称を冠することについて、科学者コミュニティの社会に対する責任の観点から、ここで改めて思いをいたすならば、「学術」には、「科学」の用語に含まれる「知の多元化」(専門分化)への傾向性に対して、人間の知的、創造的営みを大きく一つのものとして包括的に捉え、諸科学のあり方を総合的に追究するという課題が託されていると見ることができる。このように、 学術は、分化する諸科学を総合し一体的に捉えるコンセプトである。それゆえ、日本学術会議の三つの部を編成する人文・社会科学、生命科学および理学・工学のそれぞれは、科学として分化して営まれているにしても、学術のコンセプトの下に、他の分野との関連を自覚し、連携と協働の関係を構築しながら、全体としての学術のあり方と課題を追求すべきものとして位置づけられる。
 学術のコンセプトはまた、21世紀の人類の知的活動が直面する諸課題に照らして、極めて重要な意味を持っている。人類社会の生存基盤である地球環境・生態系の保全という課題は、諸科学が対象とする自然、人間そして社会が歴史的な経緯の中で相互に循環的な関係にあることを明らかにしている。自然は、法則性を持って独立に存在し、人間が活動し、社会を形成する歴史的前提である。しかし、同時に自然は、人間の活動と社会秩序のあり方によって影響され、規定される一つの歴史的形成物であることが、いま示されている。この歴史的形成物としての自然に、人間の活動と社会の秩序は、さらに依存し、その中で、人類と地球のこれからのありようを模索せざるをえない。21世紀の人類社会の課題は、このような自然、人間および社会の関係の中から産み出され地球環境と生態系の破壊に導く負の歴史的循環の軌道を転轍することにある。
 負の歴史的循環性にこれまでとは異なった軌道を設定するためには、人間の活動において転轍に向けての主体的、自覚的な価値選択が入力されなければならない。自然は、所与の条件を自ら変えることができない。人間の活動における選択が社会秩序の変革をもたらし、自然に対する新たな条件を創り出すのである。それを通じて、人間の活動と社会の秩序が新たな自然の条件を獲得する。新たな循環を可能にするためには、学術のコンセプトの下で、人文・社会科学、生命科学、そして理学・工学にわたる諸科学の連携と協働が必須である。


3 「科学」という漢語自体は、中国で12世紀ごろ「科挙之学」の略語として用いられていたようである。

(3)政策における学術と科学技術

 日本では1995年(平成7年)に科学技術基本法が制定され、同法は、「科学技術(人文科学のみに関わるものを除く。以下同じ。)の振興に関する施策の基本」を定め、「科学技術の振興に関する施策を総合的かつ計画的に推進すること」を目的としている(第1条)。同法が明示しているように、「科学技術」の概念は、「人文科学」(法律用語では「人文科学」は人文・社会科学の意味である。)を排除している。同法は、なるほど、「科学技術の振興に当たっては」「自然科学と人文科学との相互のかかわり合いが科学技術の進歩にとって重要であることにかんがみ、両者の調和のとれた発展について留意」する必要性に言及している(第2条第2項後段)。しかし、その「調和」は、あくまで「科学技術の振興」という目的に向けてのものである。
 科学技術は、二つの点において、学術のコンセプトを狭隘にするものである。一つは、科学技術基本法が示しているように、人文・社会科学の知的営みを含まないこと、そしてもう一つは、自然科学の中でも、技術化に進む科学、科学を基礎とした技術(science based technology)に主要な関心を示していることである。「科学技術」という用語は、「科学・技術(science and technology)」という国際的な一般的用語と異なることも注意しなければならない。
 科学技術基本法が述べるように、「科学技術が我が国および人類社会の将来の発展のための基盤」(第2条第1項)であることは、言うまでもない。同法は、その振興策を講じるために「科学技術基本計画」を策定することとし、また、その策定のために総合科学技術会議が設置されている。問題があるとすれば、「科学技術」が、総合的な学術のコンセプトの中では相対的な位置を持つものであるにもかかわらず、政府の学術研究に関わる施策において、科学技術基本法によってあたかも絶対的な位置を持つもののように取り扱われることである。
 日本社会のみならず人類社会の将来を見据えて、科学技術の進歩を語るためには、上でみたように、科学技術の営みを学術の総合的な関連性の中に置くことが必要である。言い換えれば、学術の全体としての振興の中に、科学技術のあり方と振興策を位置づけることが要請される。日本学術会議は、日本の科学技術政策を進めるために、総合科学技術会議とともに車の両輪としての役割を果たすことが求められるが、そのことの意義は、学術と科学技術のこのような関係を明確にし、学術の全体的発展を追求する中で、科学技術の振興を推進することにあると考えられる。

(4)社会と学術の関わりとつなぎ方

 学術は、社会に対して大きく分けると二つの異なった関わり方を持っている。一つは、社会的に承認されている価値や目的から独立に、自然や社会現象などの「あるもの」について認識し、理解を深めること、すなわち「学術のための学術」としての関わりである。もう一つは、人間社会における利益を促進し、あるいは問題解決のための実用を目的とし、制度や技術を開発すること、すなわち「社会のための学術」としての関わりである。「学術のための学術」は、社会の知識基盤を形成するという基礎的な役割を果たし、人々の知る喜びに応えて社会の文化を豊かにすることにおいてすでに「社会のための学術」と言うことができ、また、例えば量子力学の知見が半導体の技術開発につながったように、長期的スパンにおいてみれば「社会のための学術」の基盤を作り出す。このように、「学術のための学術」と「社会のための学術」は、相携えて社会において重要な役割を果たすのである。
 産業革命以降、ことに20世紀に入って学術と社会のつながりは一層密接なものとなり、学術は産業・経済、医療・福祉、政治制度等の領域において、人々の暮らしと社会の基盤を支えることに貢献してきた。学術の成果は人々に豊かな生活と長寿をもたらし、人間のあり方の多様性と共通性についての理解を助け、政策の立案に資してきた。情報革命はグローバルなレベルでの人々の交流を促進し、脳科学やDNA研究は心身への理解と治療に飛躍的な発展をもたらした。また、学術により蓄積された知識・技術は学校教育により次世代に継承され、人間自身と世界への理解を促し、平和で持続可能な社会構築の礎となっている。
 このように今日、人々の生活は学術の成果なくしては成り立たず、他方、学術は社会からの多様な要請に応答して発展してきている。同時にいま、学術と社会は、21世紀の困難な課題に直面している。そこには、学術の発展それ自体がもたらしたものも少なくない。核兵器の蓄積とその分散・使用の危険、地球温暖化、生態系の危機、地球人口の急激な増加、貧富の格差の増大、水と食料の分配の不均衡、発展途上国から先進国への頭脳流出などが、地球規模の問題として存在している。さらに、生殖・再生医療などの最先端の学術は、人類の未来に新たな可能性を開く半面、生命に対する深い洞察力と倫理性を必要とする問題を生み出している。
 学術は、これまでのそのあり方を自省しながら、改めて21世紀の問題群の解決に立ち向かわなければならない。学術がその役割を全うするには、社会と学術の関わりについて、双方に明確な理解が必要である。社会は、諸問題の解決に学術が果たす意義の大きさを理解し、学術を育てる態度が求められる。また、社会は、学術が提供する知識・評価に基づいて様々な角度から取るべき行動を検討・決定する力、すなわち学術リテラシーを獲得し、普及しなければならない。他方、学術は、社会における自らの役割を再認識するとともに、学術がその成果によって社会にもたらすメリット(便益)とデメリット(危険性)の両面について、評価し、それを社会に伝え、学術のあるべき姿について社会と学術が対話し、了解し合い、学術の成果の社会的コントロールを行うことが重要である。学術と社会のより一層の協働こそは、平和で持続可能な社会を世界と日本において実現する展望を拓く要諦である。

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科学技術・学術政策局計画官付課

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