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いままでの議論を事務局でまとめていただいたが、まだまだ論点としては不十分であろうと思う。問題が大きいと思われる臨床系大学院の在り方、これから日本で必要となるであろう公衆衛生大学院の在り方について、本日専門の先生からご意見をいただいた。しかし、それ以外にも医療系大学院で問題があると思われる。できるだけ問題点を指摘していただいて、次以降に議論をしてまとめていきたい。例えば、看護学の大学院では、専門ナースの養成と看護学という学問をこれからどのように発展させ、大学院がそれに対しどのように係わっていくのか、また、本当に4年制を出てすぐに大学院に入って良いのかという問題がある。医学は2年間臨床を行う。そこでいろいろな問題を見つける場合もあるし、問題点に遭遇し悩む場合がある。看護学でいきなり大学院に入るという形がよいものか。こういった問題が薬学や歯学にもあると思う。まずこういうものを議論した方が良いという事柄についてまず伺い、それを少しづつ整理したいと思うがどうか。
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医療系で共通の問題は何かというものを挙げないといけないと思う。そうなると、専門職の養成ということと大学院としての教育というものの関係をどう考えるのかという問題になるのでないか。また、研究者の育成をどうするかという問題。この二つに絞られると思う。
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2年制の修士課程は専門職育成型、後期課程になるとむしろ研究職育成型といった形が、工学をはじめとする実学では非常に多い。薬学は、6年制になってしまうと、最初の専門職の部分がなくなると思うがどのようになるか。
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薬学の抱える問題として、学部の6年制が平成18年度から始動することや、新設の薬科大学が増加していくという問題があるが、基本的に大学院の問題については、研究者養成コースをどうするか、また、専門職の大学院をどうするかという医学系の問題とあまり変わらないと思う。専門職養成を行うにしても、薬科系大学は必ずしも病院を持っておらず、定員400〜500人がきちんと研修ができるのか、研修するにしても研修指導するきちんとした薬剤師がいるかというような問題がある。そのような問題をまず解決していかなければならないということがあり、大学院においてどのような専門職養成の在り方が適当かというのはその後にくる問題ということなる。また、研究者養成の部分は、薬学でも非常に重要な問題であるが、専門職者養成に比重が置かれると、その部分が非常に圧縮されてしまうのでないかという心配もある。
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薬学の問題はさらに複雑な面があり、法律上薬学というのは4(年)と6(年)両方あり、基礎研究の部分は今まで通り4 2 3で行くということが決まっており、多くの研究指向の大学は4年制の薬学部をそのまま存続させると思う。学部6年制の臨床薬学コースの更にその上に4年制の博士課程を設置する場合、さらにその中で機能をどのように細分化すべきかという問題もあり、更に複雑さを生んでいる状況である。
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その辺の課題は、今の時点で決めてしまうのは難しく、6年制が動き出してから学生が何を求めるのかということを見ないといけないのだろう。2本立てといえば、医学も昔は医科大学と医専、工学部でも高等工業と大学工学部があった。2本立てが一概に悪いとも言えない。多様性という意味ではよいかも知れない。
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医療系大学院を議論する上での論点としては、医療系大学院の研究者育成コースには何を求めるのかということ。その場合、コースワークは必要なのか。今は形としてはあるが大部分が形骸化していると思う。それを求めるのなら実際どういうものを求めるのか。これは医療系全ての分野で共通の課題であると思う。
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今はコースワークが必要だという意識がだんだん強まり、共通の授業科目を開設するなど、コースワークを課している大学が増えているのではないかと思う。
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必要に迫られてコースワークが増えているという状況になっている。例えば放射線を扱う資格を取るために講義を受けないといけなくなったということがある。また、研究者倫理のためにこのコースを取らないと患者全体を扱えないという資格ができている。これに加え、遺伝子を扱う技術、細胞を培養する技術など極めて実技的なものは博士課程の1年制の段階で授業を行っている。2年以上になるとそういったコースワークはなくなってしまう。
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看護の分野は、研究者養成分野は後進であり、いかに他分野に追いつくかが課題となっていたため、現在ではコースワークを相当課している。本学では、研究方法のコースワークとして10単位程度課し、それで初めて研究計画書を出させ、その計画書の審査に通ってから研究を開始できるというシステムになっている。
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アメリカの大学院の例では、研究者として独り立ちできるようにするという目的がはっきりしており、そのためのコースワークを課している。毎週のように、様々な問題を解決するための実験デザインを作ることをテーマとして課し、学生はそれを1週間かけてデザイン作りを勉強し、そのテーマに対する答えを出すということを1年間通して行っている。そうなると学生はどんな問題でも対応できる気になるという。そういう気にさせるというところが良いところらしい。数多くコースワークをやればいいというものではないと思うが、その分野の研究者として独立するためには、最低限学んでおかないといけないというものはこれだというもの、そういう基本的なものは博士課程の初期の段階で学ばせるべきだと思う。
また、もう一つの問題は、論文を公表させるべきかということ。研究者を養成するのであるから、実験ができ、論文が書けて、その論文の審査に通ったものに学位を与えるということは当然であり、必要なことであるが、全てに雑誌の掲載を要求すべきかどうか。日本の論文は数が多いが、そのうち一度も引用されていないものが40%ぐらいあると聞く。論文の氾濫を防ぐという意味でもこのことについて検討すべきであると思う。
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発表するのは各大学の判断だと思うが、医学は公表させているという面が多いと思う。
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アメリカのパブリッシュという意味は、公表するという意味であり、雑誌に掲載するということと違うのでないか。そうなると新たな審査を受ける必要があり、そうしないと大学が学位を与えられないというのは合理的でないと思う。特に日本の文科系では雑誌に掲載することが一般的であるが、アメリカのパブリッシュは、誰にもその論文を読めるようにするという意味だと思う。学位規則上は「印刷公表する」ということになっているが、この意味は必ずしも雑誌に掲載しないといけないというものではなく、やはり誰でも読めるようにするという意味である。
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論文を雑誌に掲載することについては弊害もある。日本では一つの英文のペーパーが出れば博士課程が終わったということになるが、アメリカではペーパーとしてパブリッシュしなくても、前提に対しこういうことをしたというストーリーを重視する。それが日本の学会での4〜5本文にも相当するものである。日本において博士号を授与する場合も、最初に建てたものがきちんと達成しているかどうかをきちんと評価すべきであると思う。
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現在の仕組みとしては、大学が3か月以内に学位の授与にはこういった論文があったということの要旨と、その論文の審査の結果はこうだったということを、審査の状況とあわせて、要旨を公表するということになっており、それをもらった本人は、1年以内にその分を印刷公表する。これは雑誌などではなくて、例えば白い紙に普通に印刷して公表しても良く、要は誰でも読める状態にするということである。ただし、やむを得ないような場合は、大学が正当な理由であるということを認めれば、その要約したもので構わないとなっている。その場合は大学が求められた時は全文を公表できるようにしておくという体制になっている。
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論文数はイギリスを抜いたが、引用件数はまだまだ及ばない。一番大事なのは、論文を雑誌掲載まで要求するのか、それともきちんと論文が書けるとか、実験ができるとか、自分の研究したこと以外のことにも関心を持っており、それに対するある程度の知識を持っているのかどうかを評価する方が、博士号にはあっていると思う。
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研究指向の大学院の場合、コースワークにより全体のレベルを上げるということと、最先端の少数の部分を吸い上げるということを分離しないといけないのでないかと思う。アメリカ方式ではコースワークの充実により学生が一流のところまで上がると思うが、その先の深い洞察力を持った超一流を育てるというヨーロッパ式も必要であると思う。重点化した大学院ではそこは意識的に分離しないといけないのでないか。
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大学院重点化した大学は、その面はとても重要である。単にステータスを上げるために大学院化した大学が多いのでないか。何をやろうとしているのか明確にしないまま大学院化するというのはおかしい。広く医療界からも意見を聞く機会を設けて良いのでないか。どういうニーズがあるのかを聞いても良いと思う。
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適材があれば推薦願いたい。
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各大学の大学院で何をやるのかという特徴を出す必要がある。ある大学は最先端のことをする、ある大学は地域の医療に貢献できる専門職を育てる、ある大学は地域医療に密着した研究、例えば自分の県に多い痴呆病の研究をするとか、そういう理念を出さないとだめだと思う。全ての大学院が世界に伍した研究をするというのも資源の無駄遣いだと思う。
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非常に重要なポイントではあるが、その前に大学の理念を出すことも必要。日本の総合大学はどこも同じような学部を有している。アメリカのプリンストン大学のように、医学も工学も持たないけれども一流の大学であるというようなものが必要であると思う。日本では学部も大学院も同じ教員であり、大学全体でどのような個性を出すかが重要であり、その点を評価しないといけないと思う。
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もう一つ非常に大きな問題は、論文博士をどう考えるかということである。論博があることによって博士号のイメージが変わってしまう。立派な論文を書かないと博士になれないということ。逆に言えば、他の知識がなくても立派な論文が一つあれば博士になれることになるということになり、このことが課程博士の授与の仕方にも影響を与えている。論博を残すべきかということは他分野を含めた全体の問題であるが、医療関係としてどう考えるかということになる。 |