第4 日本の障害者施策の経緯

1.戦前・戦中

 日本の国家による本格的な障害者施策は戦後から始まった。戦前においては一般的な窮民対策としての「恤救規則」(1874)や「救護法」(1929)の中で障害者が救貧の対象とされるか、あるいは精神障害者に対しては「路上の狂癲人の取扱いに関する行政警察規則」(1875)等に表れているように治安・取締りの対象でしかなかった。
 個別の障害者施策による保護も存在はしたが、大前提は現在も続く「家族依存」であり、それ以外の障害者に対する保護はもっぱら民間の篤志家、宗教家、社会事業者の手に委ねられていたと言っても過言ではない。国家の施策の対象は軍事扶助法(1917年制定、1937年改定)などにより、ほぼ傷痍軍人に限られた状態だった。

2.戦後直後

 ところが、敗戦を機に日本は、GHQの指示の下で社会福祉に対する施策を打ち出すとともに、日本国憲法に福祉が位置付けられた。
 その結果、生活保護法(1946)、児童福祉法(1947)、身体障害者福祉法(1949)のいわゆる福祉三法が、さらに、福祉事業を民間が行う受け皿として社会福祉事業法(1951)が制定された。

 これにより、福祉サービスは、1.行政の措置として提供され、2.その事務は、国の責任を前提として国から委任を受けた地方公共団体の長により国の機関として処理され、3.その費用は応能負担とするという戦後長く続いた社会福祉の基礎構造が形成され、また、本来国家がなすべき福祉事業を民間の社会福祉法人に措置委託という形式で行わせるための基盤が整えられた。
 また学校教育法(1947)が制定され、従来は教育の対象とされていなかった障害児に対し、特殊教育という分離別学の形で教育の機会が与えられるようになった。

 ただし、国が予算の範囲でこうした施策を展開するために、医学モデルなどによる障害等級などを設け制限を行ったこと、さらに福祉法の目的を「経済的自立可能性」を前提として、対象を制限してきたことは無視できない点である。戦後の歴史は、1960年代の対象拡大の一方で、訓練主義的要素を重視し、かつ保護主義的(コロニー化・「愛される障害者像」)な問題も複合的に内在していた点を見逃せない。

3.1960年代

 1960年代に入ると高度経済成長を背景に、国民年金法に基づく無拠出制の福祉年金の支給が開始され(1960)、また、一般就労への促進を図る身体障害者雇用促進法(1960)が制定された。

 しかし、その反面、援護施設を中心にした精神薄弱者福祉法(1960)が制定され、障害種別ごとの施策が展開されるとともに、以後、特に知的障害者等の入所施設の増加を見るなど、終生保護に対して起きたノーマライゼーションの思想や脱施設化へ向かう世界的動向とは相反する施策がとられた。
 また障害児教育も障害のない子との分離別学のままであり、文部省が1961年に出版した「わが国の特殊教育」においても「普通の学級の中に、強度の弱視や難聴や、さらに精神薄弱や肢体不自由の児童・生徒が交じり合って編入されているとしたら、・・・(中略)・・・学級内で大多数を占める心身に異常のない児童・生徒の教育そのものが、大きな障害を受けずにはいられません。」と当時の考え方が率直に記されている。
 精神障害については、医療金融公庫法が施行(1960)され、既に始まっていた私立精神科病院設立の動きを助長した。改正刑法準備法案(1961)が出され、精神衛生法改正により措置入院国庫負担率が引き上げられた(1961)。精神衛生法(1950)がライシャワー事件を契機に改定(1965)され、以後、精神病床も世界に類をみないほどに増加の一途を辿ることになった。WHOはクラーク勧告により日本の閉鎖的収容主義的な精神医療の在り方を非難した(1968)。

4.1970年代

 1970年代に入ると、1960年代に展開された諸施策について施策の基本を示す心身障害者対策基本法(1970)が制定された。しかし、その目的は発生の予防や施設収容等の保護に力点を置くものであり、しかも、精神障害者は除外されたままであった。
 また、以前より大きな社会問題となっていたスモン薬害病についての研究体制整備が契機となって、1972年には、1.原因不明、治療方法未確立であり、かつ後遺症を残す恐れの少なくない疾患、2.経過が慢性にわたり、単に経済的な問題のみならず、介護等に著しく人手を要するため家族の負担が重く、また精神的にも負担の大きい疾患に関して、難病対策要綱が示され、調査研究の推進、医療施設の整備、医療費の自己負担解消を三本柱とする対策が始まった。

 ところで、高度経済成長に支えられた1960年代の障害者施策の展開は、オイルショック(1973)の影響を受けることになるが、それに抗して、身体障害者雇用促進法は大改正され(1976)、それまで努力義務でしかなかった法定雇用率制度が義務化されるとともに納付金制度が導入された。
 さらに、この時期、盲・ろう学校については既に1948年から学年進行の形で義務制が実施されていたが、養護学校については、1973年に義務制の実施を予告する政令が公布され、1979年には実施に移された。これにより、これまで就学猶予・免除の扱いとされてきた障害児の全員就学体制が整えられることにはなったが、その反面、世界的には同時期に開始されていた統合教育、さらにはその後のインクルーシブ教育とは異なる原則分離の教育形態が障害児教育の基盤となった。

5.1980年代から1990年代前半

 1980年代に入って日本の障害者施策に影響を与えたのは「完全参加と平等」をテーマとした国際障害者年(1981)、障害者に関する世界行動計画(1982)及び国連・障害者の十年(1983~1992)であった。この時期、ノーマライゼーションの理念が普及し、施設入所中心の施策に地域福祉を加味する形で関連法や施策が変更されるに至った。

 特に、国民年金法の改正(1985)による基礎年金制度の創設に合わせて障害年金の充実が図られ、身体障害者雇用促進法が知的障害者も対象とする障害者雇用促進法(1987)に改定されるなど所得保障などに関して重要な変更がもたらされた。しかし、在日外国人障害者を含む、無年金者の問題など、更に取り組むべき課題も残されている。

 精神障害分野では宇都宮病院事件(1984)が発覚し多数の不審死が疑われ、他にも類似、同様な事件が続発した。国連人権小委員会でも取り上げられ、日本における精神障害者の人権と処遇に関する国際法律家委員会及び国際医療従事者委員会合同調査団の結論と勧告(1985)が発表された。こうした国際社会の圧力等を契機に、精神保健法(1987)が成立した。

 いわゆる福祉八法改正(1990)においては、身体障害者福祉法や知的障害者福祉法に在宅福祉サービスが法定化されるとともに、地方分権化が図られ、従来の機関委任事務が団体事務に改められた。心身障害者対策基本法も障害者基本法(1993)に改定され、定義の上では三障害の統一が図られるとともに、前述の精神保健法がこの基本法改正の流れを受け、目的に自立と社会参加促進を取り入れた精神保健及び精神障害者の福祉に関する法律(1995)に改定された。加えて、難病に関しては正面から障害者としての位置付けのないままであったが、難病患者等居宅生活支援事業(1997)の開始により、地域における難病患者等の自立と社会参加の促進が図られるようになった。

 さらに、地域生活の基盤整備にも法的整備が図られた。従来、地方自治体で進められていたまちづくり条例の普及を踏まえ、高齢者や身体障害者等が円滑に利用できる建築物の建築の促進を図ることを目的として、高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律(ハートビル法、1994)が制定された。

 このように、この時期は地域福祉に向けた一定の施策が進んだ重要な時期であったと言える。
 しかし、国際的な人権条約である児童の権利に関する条約については、不十分な国内実施にとどまった。1994年、障害を理由とする差別の禁止と障害のある児童の権利を明記した同条約を日本は締結した。この条約は児童の一般的権利としても意見表明権や、独立した監視機関の必要性を規定しているが、これを明文化する国内法の整備はされなかった。また条約は可能な限り統合された環境での教育が保障されるべきであると明記していながら、原則分離の教育形態は維持された。1998年と2004年に、日本政府は国連児童の権利委員会から、児童の一般的権利の確保とともに、障害のある児童のデータ収集のシステムの発展と、更なる統合の促進を勧告されている。

6.1990年代後半から現在まで

 1990年代後半からは、地域生活の基盤整備の流れを受けて、高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律(交通バリアフリー法、2000)、補助犬を使う身体障害者の自立と社会参加を促進する身体障害者補助犬法(2002)が制定され、さらにはハートビル法と交通バリアフリー法を統合化した高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律(2006)が制定されるなど、建物の利用や交通移動の面での施策に前進があった。

 医療分野では、1996年に強制的隔離収容医療の典型であったらい予防法がようやく廃止された。また、予防を重視するあまり感染者を監視し取締的であり差別と偏見をあおるとして、1989年の制定時から強い反対のあったエイズ予防法(後天性免疫不全症候群の予防に関する法律)も、1998年、他の感染症とまとめてひとつの法律として感染症予防法(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律)に抜本的に改定された。これによって、従来感染症に対する医療が患者の人権よりも社会防衛的であったことに反省が加えられ、強制的隔離医療は限られた短期間、厳格な要件のもとでしか認められなくなった。

 なお、日本の障害者に対する介護は家族中心であり、福祉・教育・医療を含む生活全般を家族に依存している。この深刻な家族依存は、家族に重い負担を課し、障害者に対する重大な人権侵害となり、あるいは社会的入院・入所の要因となっている。精神保健福祉法が改定(1999)されるまでは、精神障害者の保護者は、日々の生活の介護だけではなく、治療を受けさせ、他人に害を与えないよう監督する義務を負わされていた。1998年、仙台地方裁判所は親がこの監督責任を果たさなかったことを理由に1億円もの損害賠償を命じ、ようやくその理不尽さが広く理解され、自傷他害防止の監督義務だけは法文から削除された。しかし、依然として家族の責任は軽減されていない。

 労働面の課題については、2007年に全国福祉保育労働組合が、日本障害者協議会(JD)などの支援を受け、日本政府の障害者雇用施策は、国際労働機関(ILO)の「職業リハビリテーション及び雇用(障害者)に関する条約(第159号)」及び関連の勧告に違反するとして、「ILO提訴」を行った。この提訴に対してILOから出された報告書(2009年3月)では、同条約などに違反しているとまでは認定しなかったものの、特に福祉的就労について、同労組の主張をほぼ容認している。

 国際協力の分野では、「国連障害者の十年(1983‐1992)」を継ぐものとして、日本は、中国等との共同提案によるESCAP総会での「アジア太平洋障害者の十年(1993‐2002)」の提案(1992)、その期間の10年間の延長(2003‐2012。いわゆる第2次アジア太平洋障害者の十年)の主唱(2002)、滋賀県大津市におけるハイレベル政府間会合の開催(2002)、同会合における第2次アジア太平洋障害者の十年の地域行動計画である「アジア太平洋障害者のための、インクルーシブで、バリアフリーかつ権利に基づく社会に向けた行動のためのびわこミレニアム・フレームワーク」(BMF)の採択(2002)等、積極的な貢献をなす姿勢を示した。

 しかしながら、いわゆるバブル経済がはじけた後に待ち受けていたものは、社会福祉の基礎構造の改革の論議であった。国の財政問題を背景として議論が重ねられ、1.措置から契約への変更による利用者本位のサービス、2.営利団体を含めた多様な経営主体の導入、3.市場原理を生かした質の向上、4.透明性の確保と公平かつ公正な負担、などが強調された。
 その結果、2003年には従来の措置制度から契約制度への転換を目的に支援費制度が施行されたが、財政破綻を理由に2005年に障害者自立支援法が制定され2006年から施行された。

 しかし、同法については、審議の段階から障害程度区分、サービスメニュー、利用者負担、介護保険との統合などを巡って多くの問題点が指摘され、全国的な反対運動が起こる中で、応益負担を違憲とする全国的な訴訟や支給決定の取り消しなどを求める訴訟が提起されるなど、日本の社会福祉の歴史上、類を見ない事態となった。

 以上に加え、この時期には障害者に対する施策の上で重大な枠組みの変更がいくつかなされた。
 まず、2001年に池田小学校事件を契機として提案された、心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律(医療観察法)が2003年に成立し、2005年に施行されたが、これについても反対運動が続いている。なお、2010年度は精神保健福祉法の定時見直しとあいまって、施行5年後の報告と見直しの年度である。

 また、従来、必ずしも知的障害の定義に入っていなかった自閉症、アスペルガー症候群、その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害等の発達障害を有する者に対する援助等を定めた発達障害者支援法(2004)が成立したが、障害者としての位置付けと支援は不十分な状態であった。

 さらに、2006年には学校教育法が改正され、従前の盲学校、ろう学校及び養護学校が特別支援学校に一本化される等、特別支援教育の推進が謳われるようになったが、原則分離の教育形態に変更は加えられていない。

 なお、高次脳機能障害にようやく社会的関心が寄せられるようになってきた。高次脳機能障害とは交通事故、脳血管障害、脳炎等による後天性脳損傷により生じる記憶力・注意力の低下、失語症、失認症等の総称であるが、若年者に多い脳外傷者の社会的行動障害はしばしば家族を疲弊させるにもかかわらず、支援が不十分である。2001年から5年間にわたり、高次脳機能障害支援モデル事業が実施され、2006年から高次脳機能障害支援事業が行われている。

 障害者自身、そして家族や関係者を含む多くの先人による、様々な運動や取組の積み重ねの上に、現在の日本の障害者施策がある。この推進会議によって象徴される “Nothing about us without us”という言葉で示される障害者自身の参画を活かすためには、社会全般との連帯と協力が欠かせないことは明らかである。

(注)障害の「医学モデル」とは、心身の機能・構造上の「損傷」(インペアメント)と社会生活における不利や困難としての「障害」(ディスアビリティ)とを同一視したり、損傷が必然的に障害をもたらすものだととらえる考え方であり、障害の原因を除去したり、障害への対処において個人への医学的な働きかけ(治療、訓練等)を常に優先する考え方である。また、医学モデルは、障害を個人に内在する属性としてとらえ、同時に障害の克服のための取組は、もっぱら個人の適応努力によるものととらえる考え方であり、障害の「個人モデル」とも呼ばれる。
 障害の「社会モデル」とは、損傷(インペアメント)と障害(ディスアビリティ)とを明確に区別し、障害を個人の外部に存在する種々の社会的障壁によって構築されたものとしてとらえる考え方である。それは、障害を損傷と同一視する「医学モデル」を転換させ、社会的な障壁の除去・改変によって障害の解消を目指すことが可能だと認識するものであり、障壁の解消にむけての取組の責任を障害者個人にではなく社会の側に見いだす考え方である。ここでいう社会的障壁には道路・建物等の物理的なものだけではなく、情報や文化、法律や制度、さらには市民の意識上の障壁等も含まれている。
 なお、ここで示した両モデルは、あくまでも「障害」に対する基本的な考え方の枠組みと方向性を表すものであり、医療や福祉、リハビリテーション等での実際の個別の取組においては、両モデルは混在している。したがって、認識論としての医学モデルと、実践行為としての医療やリハビリテーションは区別してとらえるべきであり、その意味では、社会モデルに立脚した医療やリハビリテーションの実践が今後求められていると言えるだろう。

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