資料1 中央教育審議会初等中等教育分科会 教員養成部会 教員免許制度ワーキンググループ(第3回) 議事要旨

1.日時

 平成17年4月8日(金曜日) 13時~15時

2.場所

 東京會舘 12階 「カトレアルーム」

3.出席者

 野村主査、角田副主査、天笠委員、門川委員、甲田委員、佐々木委員、渡久山委員、藤崎委員、八尾坂委員、山極委員、横山委員

文部科学省関係者

 樋口審議官、徳永審議官、戸渡教職員課長、杉野専門教育課長、勝野視学官 他

4.議事

(1)教員免許制度の改革、とりわけ教員免許更新制の導入について

 事務局からの配付資料の説明の後、資料5、6の論点ごとに自由討議が行われた。主な発言は以下のとおり。(○:委員、●:事務局)

委員
 現代社会において、自ら課題を見出し、総合的に探求し、どのように改革するかを決定・実行することが、あらゆる場面で必要になっている。同時に、それらを解決するために、自分の専門分野のみならず他分野の力も統合して事に当たる力が必要になっている。これらは、従来から課題探求能力といわれるが、教育活動を行っていく上で必要不可欠であり、教員には強く求められるということを明確にする必要があるのではないか。

委員
 資料5(2)に「家庭や地域社会の教育力の低下」とあり、現実にそのような状況があるが、社会教育や家庭教育は、教育委員会の所管事項である。家庭や地域社会の教育力の低下が、教員に対する過度の期待となっているが、これを当然の前提としては、学校教育が成り立たなくなる。家庭や地域社会の教育力をいかに高めていくかが、現在、地方で行われている教育改革の核心である。

委員
 教育基本法の中にも、教員は全体の奉仕者であると書かれており、このため、自己の使命を自覚し、職責の遂行に努めなければならないとされている。同時に、尊敬され、待遇についても適正になされなければならない。教員を取り巻く現状を考えると、適正な待遇が一定程度確立されることが必要。これはセットで考えなければならず、資質のみを論ずるのは問題である。

委員
 資料5(2)の「社会構造が大きく変化している」の部分について、現代の特色は変化のスピードが速いという点である。この早い変化に対して、教員が対応しきれておらず、教員現場が常に振り回される状況にあった。このような変化の早い時代であることを認識するとともに、それに、十分に対処できなかったことを認識しなければならない。

委員
 教職は、父母や一般社会から多大な信頼を寄せられ、尊敬される仕事であるという自覚を持つとともに、それに安住せず、常に向上する気持ちを持たなければならないということを入れておく必要がある。また、儒教文化圏で、教員という仕事が大事にされてきたことを踏まえて、教員の待遇等に常に配慮することも入れた方が良い。

委員
 資料5(2)で触れていることは間違いないが、現状では、特に小学校において、社会の変化が教育なり子どもという言葉の基に振り回されている。このため、本来学校で行わなければならないことが希薄になっている。「子どものしつけは家庭、地域で行われるべき」の部分については、そのとおりだが、学校集団の中でのしつけというものも重要。優れた教員は、授業を通してしつけをしている。しつけは全て家庭や地域の問題というわけではない。

委員
 教員を取り巻く状況として、現在、高齢化や年齢構成のアンバランスがあるが、それにもかかわらず、教職のキャリアの中で、学びのスピリットが必要という捉え方は重要。特に子ども理解は、年配の教員でもますます必要になってくる。また、学校組織の中では、全ての教員がハイレベルな資質能力を持っているわけではなく、それぞれの教員が得意分野を生かして、自己啓発していく姿勢も必要。

委員
 教員の処遇の問題について、個々の業績に応じた給与体系とは別に、ベースとして、処遇に配慮するというのは時代に逆行する。平成17年度から、各自治体が給与体系を策定することになったが、そのような状況で、ベースの問題として処遇すべきという提言は行うべきではない。また現実に、人確法で5パーセントという優位性は生きており、地方公共団体の給与体系上は拘束されているので、あえて触れる必要はない。

委員
 教員を大事にするという社会的合意がない限り、学校教育はカリキュラムや制度を変えてもうまく機能しない。教育という行為は、教員に対する信頼と尊敬がなければできないし、教員に対する社会の見えない期待があるからできる。言葉として表現しがたい風土というものを制度設計の土台にしなければならない。それを踏まえ、処遇を具体的に縛るということではなく、信頼と尊敬に値する職としてふさわしい処遇をしなければいけないという原則論は取り上げても良いのではないか。

委員
 家庭・地域の教育力が低下している中で、多くの教員の懸命な努力に支えられているが、国民全体としての理解がない。国際的にフィンランドの教育が注目されているが、同国では、初等教育に携わる教員の給与等が尊重されている。国民から最も尊敬されているのが初等教育の教員であり、このことが学力の向上にもつながっている。したがって、処遇を一律に上げていくのか、実績主義にしていくのかは論議があるが、ますます教育が困難になっていく時代に、多くの若者が教職を目指している中で、更新制や免許の授与の段階で、様々な縛りをかけていくのは、懸念されることなので、多くの頑張っている教員の給与・待遇は全体的に向上させていくべきである。

委員
 教員は子どもに寄り添いながら、子どもの事実に立って、教育をしなければならない。子どもの中にある資質能力を開くことにより、子どもの素晴らしさを学び、教員としての専門性が高まっていくという面がある。教員に求められる資質能力の中に、「子ども」の視点を入れることが必要。また、現在、子どもや教育についての研究が非常に進歩しており、特に障害児などについての新しい知見が次々と発表されている。そのような状況では、研修により、資質能力の向上を図らなければ誤った教育を行ってしまうおそれがある。軽度の発達障害児や学習障害児、注意欠陥/多動性障害児、高機能自閉症児などの新しい知見を学ぶことは、障害児専門の教員ばかりでなく、一般の教員としても不可欠なことである。

委員
 教職課程において、教員としての適格性を判断することを目的とした教育は行われておらず、免許授与において適格性は要件とされていない。今後の教員養成を考えた場合、適格性をどのように育てていくかは極めて重要。したがって、教職課程において、例えば、教員としての使命感、子どもに対する愛情や高い倫理性など、教職に求められる資質や適格性を授業科目として構成し、必修化していくことが必要。本来であれば、教育実習等においてその観点を見ながら、単位を与えることが必要であるが、現状が十分でないとすれば、考えていく必要がある。仮にそれが可能であれば、更新制において適格性を一つの判断材料にすることも可能ではないか。また、更新制をどのような形で設計するのかにより意義が変わってくる。例えば、一定期間経過後に、特段の理由がなければ更新を認めるという制度にするのか、何らかの基準を設けて、それに合致しなければ更新を認めないという制度にするのかにより、違ってくる。現実的には、前者を採るのが妥当なのではないか。意義や必要性を論ずる際に、どのような制度として考えるのかを論じる方が早い。

委員
 適格性を養成段階で認定するのは現実には不可能。案2が妥当であるが、勤務実績を条件附採用期間と連動させるとスムーズに行く。教員の条件附採用期間を2年くらいにして、2年後に本免許を授与することとしてはどうか。案1では、現実に適格性は判断できない。

委員
 教員には適格性と専門性、信頼性が必要であるが、教職課程の中で、適格性や使命感を養成しているのか。適格性をどのように見るかが課題であるが、教員は現場で育つため、実習の中で適格性を見ることとセットで考える必要がある。一方、大学での適格性の養成が十分でないとすれば、現場で実践を行う中で適格性を判断することになるのか。ただし、実際に適格性を見る際には、教科の専門性や指導方法、使命感や教育に対する熱意も見なければならない。適格性の内容は多岐に渡っており、それらが互いに関連しながら適格性が規定される。このため、経験や実践を大切にするということが適格性の判断の一つに入ってくる。免許授与時に適格性を判断できるのかどうか。

委員
 適格性の判断については、参考として10ほどの視点を示してはどうか。例えば、小学校では、子どもと一緒に遊べるか、騒いでいる子どもを叱るだけでなく上手に授業に集中させることができるかなど、いくつかの視点があるのではないか。米国では、いくつかの州で適格性の判断を行っており、たたき台にしても良いのではないか。また、適格性の判断を実習時に行うという案があるが、500以上の大学が教員養成を行っており、実習前に学生を事前にセレクトするなどして、細かく指導している大学がある一方、自由放任の大学もあり、差が大きい。実習で適格性を見るとしても、誰がどのような基準で見るのか。判断が甘いところでは全て良好ということにもなる。外部の評価者によるチェックができれば良いが、内部の者が判断するのであれば難しい。案2についても、勤務実績は何を見るのか。子どもからの評価を入れることができれば良いが、影響が大きい。案1は難しいが、案2だとしても、具体的内容を詰めなければならない。

委員
 案2が妥当である。学生にとっては教育実習は勉強になる。実際に授業を行ったり、生徒指導や部活動を行ったりするが、なかなか思うように行かないのが学校である。そのようなことを体験するのは非常に重要であり、教員としての適格性を判断するためには1~2か月くらい実施した方が良い。ただし、誰が学生を指導し、評価を行うのか、指導教員は大変である。学生を評価するに当たって、教員に向いていないわけではないという甘い判断もし得る。一方で、教育実習は負担になっているのも事実であり、人の手当てや、評価を支援することが可能であれば、案1も考えられる。しっかりした教育実習ができれば、良い成果が上がると思われるが、それが難しければ、案2のような形でやっていくべき。また、若い教員は専門性も必要だが、それ以上に情熱や意欲、子どもが好きということが大切。経験を積む中で、先輩に教わる中で、専門性や指導方法を学び、工夫して育っていくという面もある。

委員
 案2を基本にしつつ、案1も充実させ、案3も複合するのが良い。案1については、教育実習の指導体制を確立し、大学と実習校で適切な評価を行う。その上で、教員として確実な者に単位を与えるようにしなければならない。教育実習を経験しただけで単位を与えるのは問題。教育実習は重要と言いながら、出身校で実習させ、大学からは1回~2回訪ねて来るだけという実態もある。教員養成大学であっても、教育実習の単位を取れなくても卒業はできるという制度にしても良い。無理に免許を取らせて、卒業させる必要はない。また、例えば、音楽や美術の教員は正規採用がほとんどないため、芸術系大学の出身者が非常勤講師として雇われている。10~15年も非常勤講師をした後に正規採用されるケースもあり、これらをどのように扱うのか。ペーパーティーチャーの取扱いに関して、こうした人がいても構わないのではないか。免許を取得した後、音楽活動をしながら、音楽の教員を目指している人がおり、そのような中に立派な教員になる人もいる。難しい問題があるが、案2が妥当ではないか。さらに、適格性の判断について、学校や教育委員会任せになる懸念がある。10年後には、大量採用となる状況で、排除すべきは排除する必要があるが、あまりがんじがらめではいけない。適格性を何らかの形で担保するセーフティーガードが必要ではないか。

委員
 適格性と専門性が、教職全体のカリキュラムの構造とどのように関係しているのかが、詰められないまま現在に至っている。例えば、子どもと一緒に遊べるか、騒ぐことを静かにさせられるか、保護者とコミュニケーションが取れるか、先輩・同僚と協力していけるか等の点は、実際に教職につかなければ確認できない。このような資質能力を教職課程においてどのように担保するかは、各大学の裁量に委ねられているのが現状である。この点からすると、カリキュラムという構造の中で、教育実習にどこまで担わせるのか、現状の教育実習は、限られた時間の中で、一つの教科の授業を実施するだけで精一杯というのが実態である。学級経営のようなものは、現状では教職についてから学ぶものとなっており、そこに問題があるのではないか。教職課程のカリキュラムの構造が問われている。

事務局
 大学における教員養成は、大学の自治の一環として、教育研究内容は大学の自律性に委ねられており、教科専門や教職科目の中で、何を修得させるのかについて、理論的に詰められていない。また、大学は、近年、事前審査から事後審査の流れになってきており、課程認定についても、数年に一度、事後認証するような仕組みが求められている。教養審ではすでに議論されているが、内容の議論とともに、それを担保する仕組みを考えていただきたい。

委員
 免許状の授与の仕組みを議論する際に、都道府県教育委員会が授与権者であることが前提になっているが、現状では、教職課程で単位を修得すれば、評価を行うことなく免許状を授与している。仮に案2のような適格性の評価を加えるとなると、都道府県が行って良いのかという点も課題となる。

委員
 課程認定の時は審査は厳しいが、その後、教員を入れ替えて実地視察に行くと、教員が不足しているという大学が意外に多い。事後チェックをより厳しく行わなければならない。

委員
 更新制を考える場合に、更新を何回行うのか、それぞれの更新の狙い・目標基準、経験者研修との関連付け、目標基準に対する判定基準、資格認定等の課題を、マトリックスを作成して位置づけることが必要である。更新制については、初任者研修や5年次、10年次等の経験者研修と連動していく方が良い。10年経験者研修は評価が特色であるが、これが更新制と連動してくる。さらに、更新の狙いとして、例えば、1回目の更新であれば、教員として身に付けるべき広範囲にわたる力量の把握、2回目であれば、得意分野や専門性向上の実績と力量の把握、3回目であれば、部下への総合的なコーディネート・適切な指導助言ができる力量の把握、4回目であれば、指導教諭として、管理職相当の力量の把握等が考えられる。4回目くらいになれば、管理職相当の待遇を与えても良い。それぞれの更新において、研修と関連付け、評価につなげる。例えば、5段階評価とした場合、2~5の評定の教員は更新するが、1の評定の場合は、直ちに免許を取り上げるのではなく、3年以内にもう一度研修を受けるという形でも良い。5の評定の教員は、資格を認定したり、処遇に反映しても良い。具体的な目標・基準は教育委員会が作成し、評価することが考えられる。目標・基準を考える場合、学校や子どものために真剣に努めているという点に力点をおきながら、更新の際の明確な狙いを持たせていくべきである。

委員
 現職の教員に対して更新制を適用するとすれば、どのようなハードルを越えなければならないのか。教育改革国民会議で議論され、平成14年答申の際にも議論された経過では、現在の教員に対する信頼が揺らいでいるため、更新制の導入により、資質が向上するという期待感があった。実際には、不適格教員への対応や、10年経験者研修の導入により、一定程度フォローされている。このため、新しい制度とするのであれば、現職教員の問題ではなく、よりベターな制度設計を考えた方が良い。その場合、現行の公務員制度との関係、他の免許制度との関係が問題となる。現在の資格制度の中で更新があるのは、ほとんどが身体的な要件である。

委員
 更新制について、不適格者を排除するという性格は、あまり出すべきではない。不適格教員については研修を課すという措置がなされているし、より問題が大きければ、分限処分があるため、その趣旨は必要ないのではないか。また、校長・教頭にならなければ、昇給しないということではなく、頑張る教員には、校長・教頭とは別の処遇ルートを作るべきである。米国では、メンターティーチャーやマスターティーチャーという制度があり、これらを取り入れた方が良い。不適格教員に教壇を降りてもらうことは制度化されたが、優秀な教員に対する処遇は、教育委員会独自に行われており、国の制度としてはない。処遇と更新制は連動させるべきであり、また、免許の種類と更新制の連動も必要である。さらに更新時の評価について、5段階で1になっても、例えば、再度受験させて、再び1の評価であれば、研修を課し、それでもだめな場合は教壇を降りてもらえば良い。このような教員が研修を受ける必要性について疑義を唱える場合があるが、明確なシステムであれば、研修の意図を理解できるため、研修を受けさせたり、他の職種に移ってもらうことがうまくできる。年次に応じて行われる研修と連動させるのも重要である。研修、更新制、処遇が独立に動いているが、これらを相互に関連づけるべきである。このような形になれば、更新制を、教壇に立っている間、意欲を与え続け、自己研鑽のきっかけになるというポジティヴな方向で打ち出せるのではないか。

委員
 上進制があるということを念頭に置く必要がある。また、研修の提供者については、現在、各県の研修センター等があるが、例えば大学の単位も含まれる。民間についても、様々な機会が出てくるため、提供者のプログラムが適当かどうかのチェックが必要となる。専門家によるチェックは、スーパーバイザーのような者が、各自治体にいなければ機能しないのではないか。評価は必要だが、単なるチェックだけではなく、指導育成という面もあるため、余程のことがない限り、更新されないというのは少なくなるのではないか。また、公立だけでなく私立の教員をどのように位置づけるのかが問題となる。

委員
 今後、各自治体が教員の資質能力に応じた給与体系を作っていくことになるが、何を基準とするのかが難しい。排除の論理ではなく、教員にとってインセンティヴを与えるような制度の中で、評価を行い、処遇にも反映していくという形は受け入れやすいのではないか。

委員
 更新制について、任命権者や研修実施者、免許状の授与権者、大学、学校の管理運営者、学校長、教職員をがんじがらめにする制度にすべきではない。複雑な制度を作れば、現場との乖離が起こる。小学校の教員で、生涯管理職にならずに現場で教壇に立ち続けるのも立派であるし、中学校の教員で、体育の指導や部活動で日本一になるのも素晴らしいと考える。学年主任など、学校のマネジメントをこなさなければ、十分な評価を与えないというのはいかがなものか。また、管理職について、専修免許状を原則義務付けたら良いという案があるが、民間人を登用する時代に、その必要性があるのか。有効期限内に一定の勤務実績がなければ、免許状は失効することとし、また、再授与の申請にあたり、例えば、5年なり10年教職につけなければ免許は失効することとしたら、教職課程の履修者は少なくなる。条件附免許にし、教壇に立って数年以内に講習を受けなければ、効力がなくなるという形にすると、教員を目指す学生が減るのではないか。

委員
 学校現場では、同僚や職種を超えた教員との共同・協調が求められており、このような点も加味していく必要がある。一定の経験や能力が適切に評価され、それに見合う処遇はすべきである。例えば、英国の教員は辞める者が多いと聞くが、理由の一つは、給与が悪いという点、もう一つは、書類作成等の業務が膨大で、教員への期待が大きいということがある。能力のみならず、待遇と教員自身が教職にあって楽しいと感じられる環境が必要。

委員
 資料5(1)の前に、「教職について」という項目を入れて、「教職とは国民あるいは社会の信頼により支えられる職業である」と明記することが必要。このような観点に立った場合、更新制がそれを支えるものとなるかがポイントとなる。更新制の導入が、教員の社会的ステータスや、信頼を高めることにつながり、仕事がしやすくなるという方向で検討する必要がある。現在は、社会の変化が激しいため、一度取得した免許がそのまま生涯有効で良いのかが、多くの専門職に対する見方なのではないか。このため、一定の時期に更新していくことで、専門性や適格性を保証していくことが重要なのではないか。これらをライフステージにあわせて実施するのか、5年や10年という中で考えていくのかについては議論を深めなければならない。

委員
 更新の時期だけチェックを受けるという方法もあれば、日常的に研修を積んで、ある程度研修のポイントができた時に、更新するという更新制もあるのではないか。校内研修で提案授業もしたことがない教員がいるという話を聞く。提案授業等を義務化したり、子どもや教育についての研究が進んでいる中で、そのような知見に関する研修を義務にする、また、できるだけ自主研修を入れて、研修を体系化しながら、義務であると同時に、自由に研修できるようにすることで、生き生きとした教員が育成される。そのような形で、恒常的に研修を重ね、ある程度ポイントが溜まり、年数を決めて、充足された者については更新していくというやり方も考えられるのではないか。

委員
 現実の問題として、短大があり二種免許状しか取得しない学生がいる以上、それを無視できるのか。養護教諭も4年が当たり前になり、一種免許状になってきてはいる。栄養教諭もできたばかりであり、二種免許が多いと思われる。そのようなことを考えると、しばらくは二種免許はあっても良いという前提で検討すべきである。

委員
 有効期限について、仮に5年、10年とした場合、適用されるのは免許状を持っている者であるから、管理職である校長も適用されることになる。一種免許状しか持っていない校長であっても、更新のための研修等を受けなければならないことも当然にあり得ると判断できる。

委員
 免許状の種類は、採用側からはあまり意味がない。二種免許状を無くすというのは現実には不可能ではないか。二種免許状であるために何か問題が起きているわけではないし、専修免許状だからといって優秀かというとそうでもない。免許の種類の議論はあまり意味がなく、更新制の議論にも関係しない。

委員
 もう少し時代が進めば、一旦、短期大学で資格を取得し、その上で再び大学に行くということも出てくる。現在、二種免許の取得者について、採用段階での差は一切ない。ただし、同じ試験を受けるので、結果として合格率は低いが、講師を続けながら努力して合格するような人の能力は高い。また、大学院に行って専修免許状を取得しても、授業は良くならない。このような現状であるので、大学で学ぼうという意識を持つのは重要だが、年数で分けるのは、教員に無用な混乱を持ち込むのではないか。

委員
 現状では、教員になった後に上級免許状を取得しても、処遇に反映されないということが一つの課題である。

委員
 一種免許状であれば、二種免許状よりも優れた力を持っている場合に授与すべきであるが、実際には単位数の差でしかない。修士課程の場合、教科専門と教職専門のどちらを履修しても良いため、教職専門を全く取らずに、教育や子どもについての知見がなくても、専修免許状を取得している事実がある。大学院を出ても相当の能力が身についていないということについては、今後検討しなければならない。

5.閉会

お問合せ先

初等中等教育局教職員課

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