資料2 中央教育審議会 初等中等教育分科会 教員養成部会 専門職大学院ワーキンググループ(第7回) 議事要旨(案)

中央教育審議会
初等中等教育分科会教育養成部会
専門職大学院ワーキンググループ(第9回)平成17年9月13日

1.日時

 平成17年6月13日(月曜日) 10時~13時

2.場所

 九段会館2階 「鳳凰の間」

3.出席者

委員

 横須賀主査、小原副主査、岩田委員、上野委員、菊池委員、古賀委員、下谷委員、鈴木委員、野原委員、畑井委員、平出委員

文部科学省

 徳永高等教育局担当審議官、樋口初等中等教育局担当審議官、杉野専門教育課長、戸渡教職員課長、他関係官

4.概要

(1)教員養成における専門職大学院の在り方について

 事務局からの配付資料の説明の後、自由討議が行われた。主な発言の概要は以下のとおり。

委員
 スクール・リーダーという言葉について、スクール・リーダーという言葉そのものを変えるのに適当な言葉はない気がするが、確定的なイメージが描けるのかと難しいところもあり、議論が必要。

委員
 「スクール・リーダー」というと、ある1つの名称がひとり歩きしかねない。今の学校教育現場を考えてみると新たにつくるということはそれなりに意味があるとも思うが、あるいは「スクール・リーダーのような役割」と弱めてもいいと思う。

委員
 「スクール・リーダー」というのはとても幅が広い。多分校長も「スクール・リーダー」に入るし、教科のリーダー、すべていろんなものを含んだイメージ。そういう意味ではここの精神を含めて、実際に包容力を備えたリーダーあるいは教員でも意味が通じるのでいいと思う。

委員
 学校では、いわゆる教育事務所長の訪問の中などで、「学校力となる者」という言い方をしている。新しく「スクール・リーダー」という言葉を使うと誤解を生じ得る。「リーダー」ぐらいにしておいた方がいいのかなとも思う。

委員
 リーダーという1人を指すのか複数を指すのかが問題になってくる。リーダーというのは1人であるから、そうすると校長になってしまうのでは。もしくはいわゆる企業でいうエグゼクティブのような幹部、複数がリーダーシップをとる、それぞれの分野でリーダーシップをとる人、生徒指導でリーダーシップをとる人、例えばカリキュラム開発でリーダーシップをとる人、このリーダーシップとリーダーというのは違うと思う。だからその辺を区別していかないと、では校長1人でいいということになる。それでは校長養成なのかという短絡的な批判も出てくるのではないかと思うので、ここをもう一度検討する必要があるのではないか。

委員
 ここで目指すイメージが、いわゆる学校のハード面における管理者でなく、教育課程の問題、児童研究とか、そういうソフトの面のリーダーあるいは環境教育、総合的学習の時間とかそういう内容にわたるものをイメージしていたことは大体共通しているところ。やがてそれがスクール・リーダーと呼ばれるようになることを期待しているし、多分そうなるだろう思うが、ここに入れることでそれが促進することは間違いはないと思うが、それでいいかどうかという一種の判断だろうと思う。

委員
 随所に主となる、その学校の中で力量あるリーダーを育てるというぐらいでいいという気がする。

委員
 スクール・リーダーという言葉を残す方が将来に向かってよいと思うので、例えばスクール・リーダーに当たるようなとか、何かそういう文言でもいいかなと。現場にそういう職種をつくるのだという誤解が生じないようにすればいいのではないかという気もする。また、例えば特別支援教育コーディネーターという提案も、現場からはそれが職種あるいはポストのような受け取られ方をしてくるということもあるので、ここでもスクール・リーダーというのは、こういう形で出しただけだと、その誤解がないような書き方を工夫する。この後の説明のところにもたくさん出てくるのと、やはりそういうものにふさわしい名称が一般化していくことも、教員養成現場にも教育現場にも非常に大事だろうと思うので、できるだけ工夫するということにしたい。

委員
 例えば1専攻でという意味が、例えば教科教育高度化専攻とか、生徒指導高度化専攻、これを見るとそれぞれ専攻を3つぐらい立てられるということか。

事務局
 専門職大学院は通常、研究科の中の1専攻でつくるのか、1専攻の研究科にするのかのいずれかである。

委員
 実務家教員の判定基準というものは何かあるのか。かつて社会人登用で採用したとき、論文がなかったので却下され、ならば最初から論文だけの人を採用した方がいいのではと批判が出たことがある。

事務局
 大学の設置に関し、専門職大学院の場合は特に、もちろん大学であるから研究の人もいい、技術系の研究部門も当然ありますが、それはあくまでも教育と一体となった研究であり、個別の研究だけということは考えていない発想である。したがってそこでは研究指導ということもあまり全面に出てこないような仕組みになっている。専門職大学院の教員審査に当たっては、そういった従来の一般の大学院と違った審査になっており、個々の専門職大学院の分野ごとに、本来であれば認証評価団体が先にあって、その認証評価団体が定める基準にしたがって教員審査が行われるというのがふさわしいところであるが、残念ながら認証評価団体があるのは法科大学院だけであるので、今のところは大学関係者なり関係業界の方がお集まりになり、様々なモデルカリキュラムをつくり、それにふさわしい教員審査基準をそれぞれごとに独自に設定をすることが望ましい。したがって、この教員養成に関する専門職大学院をつくるとした場合については、この場で逆にどういう教員を選任するかの基準も含めて全部決定をするということである。法科大学院の例でいえば、実務家としての経験などが審査基準になっており、もちろん論文を書いたらどうかということも提出をいただいている。さらに具体的な審査基準等は大学分科会なり大学設置審議会等における協議も必要ではあるが、基本的考え方についてはこの場で整理いただきたい。

委員
 従来の教員養成の大学院について、アカデミック・コースとプロフェッショナル・コース、この両者の区分をすべき必要があるのだとした上で、専門職大学院としてプロフェッショナル・コースの方を重点的に行うという、その設定の検討になっている。結局従来の教員養成系大学院の、前もっての総括が要ると思うが、その際に今話題になっている審査基準の問題がある。かなり軌道修正を各大学院はしてきたと思うのだが、やはり設置審査における基準の変更があまりなかったため、そういう意味では必ずしも抜本的に変えてこなかったという部分の原因になっているところも見えると思う。このためその部分の検討が要るのだと思うことが1つ。
 また、今の実務家教員に関して、範囲に関する検討に入る必要があると思う。この点について、キャリアに要件を入れるのか評価で縛るのかというところまでは意見が出ていたと思うが、教員養成の実態に照らして考えると、1つにはやはり実践があるということは実務家教員に求められるものになる。しかしそれだけではだめだというところは一致していた。その実践が言語化できるという、経験を語るだけではなく、行動化してきちんと説明ができてということ、実践の言語化ができるということが2点目なんだろうと思う。さらに、これはチームワークになるので、従来の例えばその実践化において、本人で実践できる方はいるがそれだけではなく、大学院生と大学と、それから提携校とのコンビネートの中でやらなければならないので、その辺のチーム力のようなものが求められるだろう。また、目標を自分で設定できるというか、ある意味で実践的研究家としてやっていける方と、必ずしもその経験が生かされていない方と分かれているように思う。与えられたものを論文化していくという論法を重ねてきた方ではなく、自分できちっと目標が設定できて、それの実践指導なり論文化ができていくというあたりの、少し求める実質が違ってくるように思う。このあたりの実務家教員に求めるところを少し整理しておく必要がある。

委員
 実務家教員については、やはり論文が主になったではないかということと、教育現場にいれば何でもいいということと、そういう危険性を両方はらんでいる。
 実際の大学院設置の審査に当たって、どこで審査するのかという話が出てくる。今は基本的にイメージがある中で、既設の修士課程の大学、既設の教育学研究科の審査は設置審議会の教育学・保育分科会で審査されていたが、教職大学院はやはり同じ審査体制をとることになるのか。

事務局
 ここまできちんと政策的にやる以上、そういった特別委員会をつくることになるのではないかと思う。

委員
 認定基準についてこれからできるだけワーキンググループなり教員養成部会なりではっきりさせていくことが大事ではないか。

委員
 教職大学院の制度化にあわせ、既存の教育学研究科に今後どのような機能を期待するのかということをあわせて考えていく必要があるのだろうと思う。これまで養成系大学の修士課程で実践を取り込んだ形での教育の改善が行われてきている実績はあるが、その取組みは今後も既存の大学院教育学研究科で引き続き必要とされ、それをより充実させる方向で行くのか、あるいは修士レベルの実践的な教員養成の機能というのは専門職大学院が主体的に担って、既存の大学院教育学研究科は別の人材養成、つまり現在混在しているところのアカデミック指向の部分に重点を置くような形で再編をすると考えるべきなのか。
 そのあたりの問題は、専門職大学院の修了者にどういう免許状を与えるのかということにも関係すると思う。既存の大学院修士課程を出て専修免許状を持って出る者に今後も質の高い教員としてのリクエストをするならば、おそらくこの専門職学位とリンクするような免許状も、それと同等のものというか、同じものであってもいいのかもしれない。ただし、明らかに別のものと位置付けるなら専門職免許状は別に設けて、専修免許状はちょっと実践的な教員というのとは離れて存在するという形になるということにもなるのではないか。
 このあたりが、今の教員養成系の教員組織は教育学の人というのが教科教育も含めて3分の1位で、あとの3分の2位が教科の専門になっている、そこを今後どう導いていくのかということの問題にもなると思う。専任教員の算定式が学校教育専攻を算定の基礎にしている案であるが、これを見ると教科専門の教員は、ああ我々は用なしなんだなと思うかもしれない。教育学の人たちの一部分でつくればいいのかという程度の意識になるだろう。それが阻害的な意識になるのか、それとも我々は変わらないのだという意識になるのかその辺はわからないが、その問題というのは既存の大学院、特に修士課程の問題と関わって議論していくべきと考える。

委員
 免許状の視点まで変えてしまうことはプラス・マイナス両面の視点があり、プラスだけとは思えない部分がある。

委員
 プラス面としては、例えば採用に対して別枠を設ける、あるいは注意を特において差をつける、ということの根拠にはなりやすいと考えられる。免許状が違うのだから処遇が違うのだというふうに説明をつけることはより容易なんだろうと思う。しかしデメリットとして、今の専修免許状なり一種免許状なりというものの価値が見えにくくなってしまう、立ち腐れ的になってしまうのではないという懸念がある。

委員
 現行の修士課程の中で専門職大学院には補えない部分が出てくるということは当然だと思う。そのときに免許状においても違いが出るということは、それを加速する。それをプラスと見るのかマイナスと見るのかというのは、これは相当長期にわたり戦略にかかわる難しい点である。このワーキンググループでも、部会でも、現行の専修免許状に対する批判はずっと出てきた。専門職大学院の目的・機能から来る意味で、免許状特有の議論というものがあるという点を考えた方がいいのか。

事務局
 専門職大学院での履修内容等を踏まえて、どのような形で免許状をバランスすべきかという問題がある。免許法では基礎資格としての学位と、学習履修内容の単位数を定めているが、専門職大学院でいうと、45単位なら45単位の、教科又は教職で24単位というのと違う定め方が設置基準で出てきた場合に、免許法上そこはきちんと分離するのが筋ではないかという考え方、又はそこは24単位以上の中でのみ込めるため必ずしも法令上分離しなくていいのではないかという考え方がある。この点は今整理しているところ。法令上からもしかするとその位置付けを分離しないと今の体系の中にははまらないという問題は法令的にあり得る。

委員
 専修免許状の場合、教職又は教科という規定になって、例えば学校教育専修・専攻などの場合には教職という認定の仕方があって、保有している免許状のいわゆる格上げが行われやすいが、今度の専門職大学院に仮に専修免許状ということとする場合には、今の学校教育専攻のようなものと同じ扱いをするということになるのか。

事務局
 そういうことになる。

委員
 専修免許状は学部で一種免許状を取得している者について、専攻科1年でも専修免許状が取れる。すると、一種免許状を持っている者が専門職大学院で45単位ではなくても、25単位でも専修免許状が取れることとなる。このため、新たな専門職免許状をつくった場合、新たにつくる専門職免許状と専修免許状の両方を取ることができるのではないか。このような場合、専門職大学院は新たな専門職免許状しか取れないと規定するのか、それとも二本立てになるのか。また、専門職免許状を新たにつくる場合に、開放制の原則をうたってきているが、特に私立大学を中心に、教員養成から締め出されるのではないかという意識が出てくるのではないか。

事務局
 この部分は法制的な判断は難しいところがあり、もう少し詳しく検証したものを含めて、できれば次回示せればと考えている。開放制の原則の下で新しい専門職大学院をつくろうというときに、既存の大学院と専門職大学院では全く違うものであると直ちに整理できるかどうかがポイントである。今でもアカデミックなものとプロフェッショナルなものを両方混在したままやっている大学院もあり、それらは新しく専門職大学院をつくっても残り得る。そのような中で残されたものをどう考えていくか、あるいは関係者にどう考えてもらうのかというような点も含めて、次回もう少し論議を深めていただきたい。

委員
 既設の会計情報の専門職大学院について専修免許状の課程認定を出していている。技術的にはこのようなこととの関連も出てくるだろうと思われる。

委員
 医師の場合医師国家試験を通ると医師になれる。その後法的にいえば明日から脳外科をやろうと消化器外科をやろうと、神経内科をやろうと構わないことになっているのだが、それはあまりに荒いということで、次第に専門医制度の、学会が専門医を認定するという形が進められている。これは学会に出席してポイントを重ねていかないとなれない。また学会でも、ただ出席ではなく報告書がよい場合はポイントが多くなり、また論文だとさらにポイントが多くなるというようなやり方で、それを何年内にある程度加算されると専門医になる。教員の場合をこれに当てはめてみると、例えば国語の教科で専門のそういう、皮膚科の専門医というのがその国語の専門の先生ということになる。それと並行して、次第に医学の方で一般医という専門の領域ができつつある。今の論議から、専門職大学院を修了した方は医者でいえば一般医という形とする一方、教科の専門の方を従来型の大学院にした場合はいわば専門医に相当するといったような、そういう専門性の目指すような組み立てというのができないものかどうか。
 他方、従来型の大学院に対し、この際専門職大学院の方が本来の先生の筋であるという形があまり強くなると、例えば自分たちが学生でいた頃、例えば東京教育大学には朝永振一郎先生というノーベル賞学者、それから和歌森太郎という有名な歴史学者がいた。あるいは奈良の方には岡潔先生という世界的な数学者、皆これは教育学のところに籍を置いていたが、そういう人がやはり教科の中で、あまり我も彼も朝永振一郎に習ったいうことで、教員の養成のことを忘れてしまうから今の問題が起こってきたので、それは絶対忘れないようにしたいが、その一方で、やはり専門性をしっかり持っている人がいる。教員になりたくて大学に入ってきた学生が、何か心の拠りどころというか、今でもおれは朝永振一郎の講義を受けたのだということを誇りにしながら先生をやっている人がいる。そういうこともやはり必要ではないかという気がする。この流れのもとに、あまりに教科担当を、だんだん過去の遺物になっていくのだという扱いにはしないような形にした方がよい。地方大学でいうと、例えば群馬県で浅間山が爆発すると真っ先に県の方が相談してくるのが教育学部の地質学の先生である。地方大学になるとどこでも理学部の地質学科を持っているわけでなく、教育学の教員がそれをカバーしているという例が多い。教育学部にはそのような機能もある。おれは学問だけやっていて教育は適当に取り混ぜ方を見てやっていこうという姿勢だけはこの際しっかりやめていただきたいとは思うが。
 専門職大学院を出た人が、やはり最後には学科というものに対してのリカレント教育が必要になる、そのときに学科の方に行って科目等履修生のような形で自分の専門となる教科の部門を強化する。従来型の学科で修了した人は、学校のマネジメントなどを自分はやはりもっと勉強しなければならないと思えば、やはり専門職大学院で学ぶなど、このようなクロスオーバーを制度上大いに工夫して利用すれば両方ともしっかりした形で行けるのではないか。

委員
 今まで議論してきて、こうまとめておられるのは全く異論がない。今の教育の状況はこれでいいのか、今の先生で全部足りているか、十分なのか、いや、そうではない、ということはよくわかる。教員養成大学に行くと、学部であれ、大学院であれ、このままではいけないという認識は全くそのとおりだと思われる。したがってこのままではいけないから専門職大学院をつくり、今の状況の足りないところを補っていこう、新しいものをつくろうということも全く賛成である。しかしその結果、今の圧倒的多数の先生たちのやっていることが全部だめだという雰囲気になってしまい、そこにスーパーマンみたいな方が必要ということになってしまうといけない。専門職大学院の卒業生は少なく、圧倒的多数は現職の先生であり、また教員養成大学の方でも、学部で頑張って勉強している生徒もおり、先生も頑張っているつもりでやっておられ、大学院もそうである。その人たちの存在を否定してしまっている、という形に受け取られるようになるのはよくない。やはり教育全体としては、その圧倒的多数の現職の先生に頑張ってもらわないといけないのであり、そしてまた、新しくエリート的に入ってこられる専門職大学院の卒業生が冷たい目で見られるのではなく、我々が目指しているものが、今の先生方の圧倒的多数が今まで目指しているところを示してくれる、と歓迎してもらえるものにならないといけない。

事務局
 教員養成部会にも大変厳しい指摘があるが、この場は専門職大学院をいかに活用するかというワーキンググループなので、全体的な教員養成の仕組みは、この場ではなくて、教員養成部会で議論することになる。

委員
 ポイントとしては、教科指導における高いレベルの実践的指導力の養成する部分をどこに位置付けるのかという問題。それを専門職大学院の中に取り込んでいこうとするならば、設置基準も必要な教員数も、学校教育専攻だけではなくて各教科の1つに取り込んでいくような形で設計することとなる。今の教科の大学のスタッフの人たちの中の実践的な指向をある程度強く持っている部分はそこに引き取ることとなる。逆にいえばそれ以外の大学院の部分は研究者養成に特化していくこととなる。逆に、教科の専門に秀でる先生を、既存の大学院の修士課程で引き受けるというような方向を考えるのなら、専門職大学院で養成される人材というのはこういう人材で、引き続き教科の指導力に秀でる人間を養成する機能として既存の大学院の修士課程というのは活用されるべきだ、というようなことを書き込んでいくという方向になると思う。

委員
 今度の教員養成において専門大学院を活用するという問題は、各大学がやれることをやるというスタンスである。やはり一斉にやろうということとは随分違ってきて、今の意見についても各大学の行き方で随分違ってくるのではないか。そのようなことも今度許容できる制度設計というのが1つの特色ではないかと考えているため、書き込むのならばそういうふうに書き込む、あるいは説明するならそういう説明をすることとなる。

委員
 デマンド・サイドの側からいうと、特に新人教員で英語の教員なのか数学の教員なのか国語の教員なのか、その専門性がやはりこの専門職大学院を出ればやはり学部出身者とは違うといるだけのものであること、その部分はやはりないがしろにできないと思われる。したがって教科専攻を出た人はマネジメントばかりに行くのではなく、先にリードをするというか、特にストレートマスターで来る方はいきなりカウンセリング専門とかそういうわけにいかないので、教科というのは絶対にないがしろにできないと、私はデマンド・サイドの側からいうとそういう感じがする。

委員
 専門職大学院として打ち出すのは、従来の大学院との違いという点では、学校現場と非常に直接連携した教員養成ということが本当に切実なものとして求められているんだということを強調するということ。そのような書き込みが少しあればと思われる。ただ、全体の組み立てはこうするとやはり教職は教科教育になるというイメージを少し持ってしまう。そこの部分が、各大学が得意領域に応じて立てるということなので、理系が得意な大学もあれば文系が得意な大学、芸術系もあるであろうから、そのあたりの部分の余地を残したような書き方ができるとよい。

委員
 処遇に関し、既存の大学院は広域に学ぶことができるが、出口の方は必ずしも保証されているとはいえない。他方、専門職大学院の方は、もちろんそういう力、方向、評価を上げていくのだが、ある意味ではかなり出口と直結しているというような状況を一定整理できれば、区別化というのははっきりしてくるかと思う。

委員
 修了者の処遇の部分について、現在の案は任命権者に任せた形になってしまう、しかも「考えられる」というほどのところで任せているのだが、これはいかがか。何もしなくていいのだなということになるのか、いや、ぜひやろうということになるのか。

委員
 処遇の問題が任命権者に任されたときに、任命権者が金銭的に、財政的に対応できるかという問題があると思う。学校現場が連携して養成に当たっていく場合、その金と時間がなければ、絵に描いた餅になってしまうのだろうと思われる。そのために何をスクラップするのかということは、義務教育費国庫負担の問題も含めて心配をしている。

委員
 市の予算でも教育費というのはどんどん削減されている。今福祉関係もかなり取られていることもあり、やはりこれから人を育てるということがとても重要であろうと思うが、なかなかそのようになっていないという現実がある。したがってそれぞれに任せていると、どうかなという印象を受ける。各教育委員会等において対応することが適当であるという表現だと、非常に弱いかなという感じを受ける。ただ、専門職大学院を出た人が学校でリーダーとなる人が育っていくことを皆期待すると思うが、教員の場合にはそこを出たらそれが本当に評価されるかどうかには疑問がある。したがって実績を積み、年数がたてば評価されるようになるような専門職大学院でないといけないと思うのだが、最初のうちは難しいから、入って勉強していい教育者になって、そしてそれから保護者や子どもからも評価されるという形になっていく上で処遇もそれについていくというのが理想である。

事務局
 給与面については、従来は国できちんと給与体系は定められていたが、これについても今まであった教特法25条の国立学校の例に準ずるという規定がなくなり、また準拠すべき国立附属学校の給与についても非公務員だから人事院で給与表を定めていないので、そういう意味では今答申に何を書いても結局はお願いにしかならないので、法令上書けないというのが正直なところである。
 採用される上でのメリットということを考えると、初任者研修との関係は採用権者からすれば大変大きなメリットになるのではないかと思われる。

委員
 県の教育委員会にいるため、このような専門職大学院が設置されて、そこで養成される教員を県で採用するという点でとても関心がある。ただ、だからといって、差別化した採用の仕方はおそらく明文化した形では出しにくいことがあって難しいという印象を受ける。実際に実力があるという保証があるならば優先的に採用していくということはあるのかもしれないが。一方、大学関係者と情報交換する機会があり、出口がどのように保証されるか非常に関心を持っておられたが、出口を保証し、学校を出てそれぞれ都道府県等で採用された1人当たり国が補助金として給与にプラスするなど、もうあり得ないこと。だからその実力を真につぎ込むしかないのだとしかいえない。文章として、ここのところはもうこういう書き方しかないので、丸投げのような形だが、それで教育委員会がどう考えていくのか、この趣旨を踏まえておそらく落ちのないように詰めてくるのだろうという感触は強く持っている。

委員
 学校教員の場合に、採用の処遇がどうできるかは地方教育委員会が行っており、法務実務者や医師とは随分違うため、そこはこういう書き方かなと思うが、ただこの書き方はワーキンググループとしての書き方としては少し弱過ぎるのではないか。検討が考えられる、検討していくことが期待される、など、もう少し方向性を出してもいいと思う。

委員
 現職教員の研修との関係をもっと書かなければいけないのではないか。現職教員の研修と専門職大学院における現職教員の再教育が別ルートになってしまえば、空洞化が進んでしまうため、専門職大学院が本当に機能するには、各教育委員会の研修とセット、あるいはダブるといったらいいのか、そういうものが取り入れられているという形にならないといけない。

事務局
 国庫負担金については、国立学校の準拠制が徐々に廃止されたため、地方が主体的に給与決定できるという構造になっている。したがって、ここでは都道府県が主体的に引き受けてできるので、都道府県の対応が求められるのだが、問題は何かというと、今の給料でも、免許状との関係ではなく、まさに修士課程修了か学部卒なのかによって、公務員も同様に1号・2号差があるだけで、免許状と関連しているのではない。そして今給料についてはどちらかというと、入口の議論よりもその勤務実績に応じて、能力・実績に応じて評価をして職に生かしていくという流れになってきている。したがって問題は、免許状を取ったから入口の給与面で処遇するという問題ではなく、その方が持っている能力・実績が開花していき、そのことが処遇に反映されるという意味で、給与表も1級から4級のところをもう少し複線化していくということを議論をしており、東京都の場合も特2級が設けられ、全体として今5級になって、将来的にはそこをさらに複線化していこうという議論もある。となれば、それぞれの大学院を卒業した方が優秀な能力を実証していければ、そのような中で処遇されているということになり、入口の議論ではないのではないだろうかと思われる。また、現職の先生なのか、またフレッシュマンが入ってくるだけで議論が全然違う。現職教員が専門職大学院で一定の成果を収めて現場に戻った際に給与上どう処遇するかという問題も、単に大学院で専門職の免許状を取ったからそれを入口で位置付けてやることでもないのだから、それはやはり勤務の状況を見ながら、その複線化された給与構造の中できちんと位置付けていくということを都道府県の方に給与複線化ということで促していくことになっていくだろう。現在、例えば教員の中でもスーパーティーチャーとか上級教員とか、そういう新しい手法を設け、管理職には向かないけれどもスタッフ職として教師となっていくような者を位置付けていこうということも検討しており、そういう中でこのスクール・リーダーみたいなものと位置付けられていくならば、1つの方向になっていくだろうと思われる。
 また、一定の職務位置付けというのも、これは専門職大学院を出たからといって、この職務位置付けということはなかなかわかりにくいところはある。校務分掌上何らかの措置をするならわかるのだが、専門職大学院を出たから直ちに職務に、フレッシュマンが専門職大学院を出たから一定の処遇をするということと必ずしも連動しないのではないか。このあたりは、現職の教員がなった場合とフレッシュマンがなった場合では状況がそれぞれ違うのではないか。そうすると、フレッシュマンにとって専門職大学院を出たことのメリットは、初任者研修を免除するということが最大のインセンティブになるだろう。また、将来的な議論としては、現在、専修免許状を持っていないと校長、管理職になれませんと当分の間猶予しているが、そのあたりの部分を、専門職大学院を出た者も、それから今の専修免許状についても、将来的に校長、教頭になるにはそういう免許状が必要なんだというご検討がいただけるのか、そういうことが1つのインセンティブになる可能性はあろうかと思われる。

委員
 5年経験者研修、10年経験者研修といったことも書き込むべきだろうか。

事務局
 10年経験者研修の課題はあろうかと思われる。今リーダー養成は10年経験者研修の中で行われるケースがあるので、教職経験が10年程度ある方をスクール・リーダーとして育てていこうということでやっているようであり、それとのリンクも当然あろうかと思われる。

委員
 少し現案は新卒に限られているような読み方がある。それからできるだけ、「考えられる」とか「検討が期待される」より、踏み込める表現ができないか。

委員
 「積極的に」という言葉を何カ所か入れてはどうか。

事務局
 「一定の職務について」という記述は若干誤解され得るため、むしろそれよりは、ストレートマスターの場合についてはこういうことだ、現職教員の研修の場合については研修云々という書き方の方がよいと思われる。

委員
 あるいは「将来的には」とか、そういう表現もある。

委員
 県で行っている例えば長期研修など、そういったものとの関連はもう少し書いた方がよい。専門職大学院を空洞化させないように、きちんとした内容もその辺に書き込む必要があるのではないか。

委員
 現在の教育学研究科をどのようにするのかというところがやはり出てくるであろう。それをだんだん機能を一つ一つ変えて、あれをあのまま充実するということで行くのか、それともやはりそのうちのどの研究が中心だというなら、それはそれのところに別に載せていく方向で行くのか、その辺のところを逆に聞いてくる。大学関係者にとって一番関心があるのはその辺だろう。例えば資料中「大学院に専攻ごとに置こうとする教員の数」があるが、これは今の大学院の中で教育学研究科位このように細かく規定されているところはないのではないか。このように細かに専攻ごとに規定していることにより身動きがつかなくなっており、改革を阻害する1つのブレーキ役にもなっている。これが現実である。いずれこの点のことには手をつけるだろう。手をつけてもらわないと教育学部の改革というのは本当に進まない。
 つまり、専門職大学院をやるにしても、もう最初から無理だというふうにしてしまうのか、やはりそうではなくて、ここは例えばすべてオープンにして、総数をもう少し低目に設定すれば、結構何かやりようが出てくるのではないかという気がする。また、学校教育専攻以外の教科の人たちはどのような対応をしてくるのか、それを今後どのように組み込んでいくのか。今ある教育学研究科の将来像について、その辺の見通しは大学は最も関心があるところ。ここでどこまで書けるかは別としても、せめて専門職大学院と既存の研究科の関係をどのようにしようとしてるのかということについて一言ぐらい記述が必要かと思われる。

事務局
 難しい点は、専修免許状まで含めていわば計画養成に入ってないこと。結局計画養成は学部段階の話であり、大学院というのは、それは大学である以上はもちろん学位を出すということが当然だが、そういう意味では各大学が大学院をつくるというようなことは当然の動向であり、そのことについて文部科学省はもとより、特に国立大学の場合、予算という統制はあるのがそれ以上のものはないという問題。
 一般の研究科まで含めて計画養成だということであれば、ある意味では大学院レベルで政策的に、免許状は別にして政策的に踏み込んで大学院そのものを議論するのは、新構想大学を除けば今回が初めてということになる。それをやっていくときに、それでは文部科学省として大変難しいのは、例えば教員養成政策上の官庁、私ども国立大学の設置者は、そういう立場もあるわけで、それについてこういう方向に持っていくのだということを、この場で何かいうというのも、法人化の建前からいっても、各大学で大学院はどういうふうに構成をされ、どういうふうにそれを持っていくのかということについては、今年の1月に出ました高等教育の将来像という、いわゆるグランドデザインの答申では、大学は徐々に機能分化が進んでいくが、具体的にどのような機能分化をすべきかは大学が主体的に判断をすることだとまでいっており、正直いって在り方について言及すること自体が現在の大学院政策全体の中で難しい。要するに教員養成政策としては様々なことが書けるが、一般研究科の在り方について今後どうしていくのかとか、どういう方向に考えられるとまで書くのは、ご関心の向きはわかるが非常に難しいと思われる。

委員
 実務家教員について、医師や臨床心理士というところで、実はこれに似たような資格を学会や協会で相当勝手に出している。例えば健康心理士というのもあり、あるいは臨床発達心理士というのもある。学校教育カウンセラーというのもあるし、学校心理士というのもある。このように資格は様々あるため、教養審の第1次答申、第3次答申では、臨床心理士を外して、少し大きな総括としての「スクールカウンセラー」を使った記憶がある。

委員
 民間企業関係者という、大くくりの書き方をしている一方で、教育隣接分野の関係者というところが細かく記述されているため、調整が必要ではないか。

委員
 資料中「学校・学級経営」とともに、「学年経営」というのが出ているが、これは現実にこういうことは割合聞くものなのか。

事務局
 かつては中学校は学年、教員を中心に学校運営がされており、特に中学・高校では学年経営ということは極めて意味のある、今でも県によっては学年中心に学校運営がされているところもある。しかし学校が小規模化してくるため、昔と比べては意味がなくなってくるかもしれない。

委員
 学校行事という方がいいのではないか。

委員
 「教科等の実践的な指導方法に関する領域」の具体的内容例が、内容が乏しいと感じる。生徒指導といっても授業と別にあるわけではなく、多くの場合、いろいろな教育上特別な取扱いをする子どもの問題とか、生徒指導の問題というのは、授業中を通して出てくるものであり、今までの平板な国語とか算数だけの中、事実上の問題になるはずで、多くの場合、教科等の実践的な指導方法、その指導の中で個別具体の特別な取扱いをする子どもの問題とか、あるいはそういう生徒指導上の問題とか、あるいは学級経営的な問題が出てくるわけであり、もう少し実際の学校現場を考えると、教科等の実践的な指導方法の中でそういう現代的な課題を取り込んだ、そういったことを念頭に置き、そういった問題があることを踏まえた形での具体的な授業方法みたいなことが少し入れていただければと思う。

委員
 本論の方には、様々な教育方法のことが書いてあるが、あまり書き込んでないので、教科等の指導等について、教育技法みたいなものをもう少し入れたいという感じがする。

委員
 教員の人間学について、そこが5に入っているが、2案ではなくて1案の方がいいのではないか。教育委員会が公表している求める教師像も、ほとんどの要素は専門的な機能以外に人間的な要素の部分である。その部分は2 3 4の中でもちろんやれることもあるが、もう一度ここで、もう少し高度な、高度というのは細かいとかあるいは理論的という意味ではなくて、この専門職大学院をやったのは、1つのメリットは教育に情熱をかけているであろう方、経験者もいるということで、非常にいいシナリオが出るということを期待しているが、そういう意味で5のところをむしろ1に持っていくぐらいの感じがしている。

委員
 教養の扱い方とも関係していて、人間性とか教養とかといった内容は現実的には学部段階でなかなか実現しないからこういうことをするわけだけれども、制度の建前からいって、それを非常に強く打ち出す専門職大学院ということでいいのかという考えはある。

委員
 森信三先生の「修身教授録」なんかを読むと、そういう点が本当に今の教員に問われるのではないかという感じがする。このため、それを言葉でも何でも入れておいて、そういうことを、ただ細かい専門の、研究の、ほとんど教師になって役に立たないようなことより、こういうことの方が大切。他の専門職と違うというのは、教員の場合は出てすぐこれをやらなければいけないという点。民間の技術者なども技術というのは問題がある、しかし、それは何年かかけて人間教育をされるわけである。ところが教職の場合はいきなりだということである。そこの部分を専門職大学院にやはり期待をしたい。人間性の問題はやはり学部とは違うということに私は期待をしているから、何らかの記述を。

委員
 やはり教養とか人間性というのはその段階、その段階で常に更新されていくし、問い直されていくものだという考えをいろんなところで書いてきているけれども、この制度の中でどのぐらい書いたらいいのか。

委員
 諸外国、例えばイギリスにしても、アメリカでもやはり、かなりプラクティカルなことを教え、そしてかつ人間教育的な、いわばポップリアリティーのジャンルに入ると思われる内容を教えている。そういうことは日本の場合かなりいろんな部分で嫌だと。だが本屋で並んでいる5万の書はほとんどがそういう部分であり、生き方の哲学である。そこは少なくとも教職大学院は、またそういうものがあってよいのではないか。

事務局
 教育基本法でも、人格の完成を目標として、教師として指導すべき人格的なふれ合いを通じて、人格の完成を図るという、そういうのが教職の本務なのだから、そういう意味では専門性という中に当然そういう教師自身の人間性、人格というものがあるわけであり、そこは具体的にどこまでどういうふうに書けるか、工夫させていただけると思われる。

委員
 この最後のところは次回の会議まで日程が空くので、メモででも送っていただいて、なるほどという表現があれば、ここはいいところを挙げていただきたい。

委員
 「共通科目(基本科目)部分」における「教養」というのはやはり共通なものとして書いたらいいとも思うが、だが何をどう指導するかということになると、1日論議してもうまくいかない。大学の教育学部の教員と論議してみたのだが、今育つ子どもの感性に極めて問題がある場合があるということがしばしば指摘されているわけで、そうすると、非常に偏った部分になるかもしれないが、全面的に人間力を高める教育を全部ここに入れてしまうというのはちょっと不可能に近いので、芸術というのはどうかと。芸術の先生、美術の先生、音楽の先生が出てきて座学をやるのではまたもとへ戻ってしまうからだめなので、自分でやる。例えばここの課程にいる間に、何かの展覧会に入賞しているとか、コンクールで点を取ったとか、書道の段を高いところへ上げたとか、そういう者をちょっと、自分でこんなにやれる、自分で積極的に組み込めるということを少し工夫するのも1つの手である。芸術だけに限ってみると、どれだけそれが将来人間力まで上がるだろう、これはわからない。けれども何かそういうことが、人間の感性ということだけに特定した教養ということを、昔でよくいう、旧制高校のモラトリアムの再現という、今時代が絶対不可能なので、そういうものに対してノスタルジア、いっぱいいろんなことを偉い先生がいうが、私はそれはもうこれからはないと思うので、芸術ということでちょっと特化して、芸術まで書くかどうか別として、これも少し考えてみたい。

委員
 私のところの大学院で現職教員を終わって、2年間どうだったと聞くと、役に立ったのは書道をしっかりやり直したことですと。そうだろうな、教育学は役に立たないものななんていうのですけれども、そこを書き込めるかどうかはちょっと無理があると思われる。

委員
5の内容を必修として置くか、1から4の中でこういう点を考えながらやるべきだとするかが迷っているところだが、これは5の案1の方で取るということでいいのではないか。内容についてはさらに今出たような内容がわかるように書くということにしたい。

委員
 いろいろなところで聞こえてくるのは、専門職大学院はアンダーグラデュエートの方に強い影響を持っていないと困る。そうすると、専門職大学院を認可する場合に、アンダーグラデュエートの教育で現場における実習、学校での実習が4年の場合でたった2週間などということではもうだめである。上に専門職大学院を置いてもいけない。アンダーグラデュエートの方で一定の現場における実績を持っているところに専門職大学院を置くということを何か制度設計できないか。そうすると、先ほどから出ている教科の問題も、教科の先生がただただ自分がタコ壷研究に入ってしまって、教育の現場を全然考えない、そういう教育学部はだんだんなくなっていくはずであり、教科の方の現場の教育を考えなければならないということが、それでないと専門職大学院ができないということにもなるかと思う。認可の問題もあるから、私はぜひともここのどこかに、アンダーグラデュエートの教育で現場実習を何時間以上、あるいは何単位以上というところに限りというかどうかしれないが、そういうところに専門職大学院を認可するということができないものかどうか。

事務局
 認可要件として、大学院以外のことを書くのはなかなか難しい。もう1つは、今学校現場からいうとおっしゃりたいこともわかる、気持ちもよくわかるし、教育実習の大切さもよくわかるが、一方で、それはむしろ実習を大事にするということは、特に学部段階でいうと時間の問題というよりも、むしろ教育学部が面倒を見てくれるかどうかという問題がある。逆に学校現場からいうと、全国で500ぐらいの大学が課程認定を受けているため、免許状を取りたい学生がどっと来て、はっきりいって実習公害という言葉もある。大学院の認可に当たって、大学院以外のものに条件をつけるのはなかなか、認可制度の上では準則主義をとっているので難しいのだが、今回は連携学校という制度をつくって、いわばその具体的アンダーグラデュエートの段階での云々ということではなくて、大学院教育をしていく際に、都道府県教育委員会なり教育センターや学校現場との連携をきちっとすることも専門職大学院の構築自体にやはり必要なんだということになっているので、そういったところで実質的には担保できるのではないかと思う。

事務局
 システムであると国公私共通のシステムになるので、それは教員養成だけではなくて、その他の分野でも同じ話が進み得るかという観点になっているため、システムとしてそれは難しいと思われる。その一方で、「整備の方針」という項目があり、国立はちょっと別ということがうたってある。つまり、国立については財源措置は国の予算であるので、教員養成の取組みについて優れた実績を残し、かつ、真に他の大学のモデルとなり得る意欲的な設置構想を有する大学から整備を行うと書いてあり、その際に、おっしゃるようなことも十分考慮させていただけるのかといったようなことを考える。

委員
 学科が、教科目がタコ壷研究にならないのに一番これは有効ではないか。そうするといろんなことが連動的に解決していくので、ぜひともこれは少し勇気をふるって踏み込んだ方がいいのではないか。

委員
 「名称」はどこで検討するのか。

事務局
 このワーキンググループで検討いただく。また、法科大学院と違って、すべてそういうものをつくるのだ、そういうものにしてしまうのだという前提で整備をしていくのか、それともいろんな教員養成システムがある中でこういう要件を備えたものにする、そういう要件を備えたものについては最終的にそういう名称を持つものとして整備をするという話にするのかで違ってくる。現在様々な教員養成システムがあるが、こういう要件を備えたものについてはその分を整備をする方、その制度化をするとすると最終的に名称としてもこういう名称がふさわしいという流れで見ている。今日のご指摘を踏まえて全体を見直す中で、名称の部分もどこでどう書くかということも含めて、次回に提案したい。

委員
 名称としては教職大学院とか教職専門職大学院とか、これのどっちかしかなくなるような気がする。教職大学院という言い方が悪くなければこれで決まるのだろうと思うが。

委員
 先ほど臨床心理士等の話があったが、専門職大学院に子どもの精神医学的な問題も含めた、臨床心理学とはまた別に、医学、医療の方にちょっと軸足を置いたプログラムを、これはさきの教員の話もあったが、それとセットにしたような形でもしかしたら必要なのではないか。

事務局
 そのような内容は、「生徒指導、教育相談に関する領域」の中に少し入っており、文部科学省の方でも感性認知脳科学の問題とか、子どもの情動科学の研究を進めており、従来、教育学の中で経験則的にやっていた事柄を科学的に解明する研究もしており、いわばここで書かれている生徒理解というものに概念的には入っている。

委員
 生徒理解という書き方よりも、もっと生物学的な、物質的な人間としての性というような生命観のようなものが教育の大学院ではあってもいいのではとの趣旨であった。

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