教員養成部会 専門職大学院ワーキンググループ(第10回) 配付資料

1.日時

平成17年11月21日(月曜日) 10時~12時30分

2.場所

学術総合センター 1階 特別会議室

3.議題

  1. 教員養成における専門職大学院の在り方について
  2. その他

4.配付資料

5.出席者

委員

 横須賀主査、岩田委員、上野委員、小関委員、古賀委員、鈴木委員、野原委員、長谷川委員、畑井委員、平出委員

文部科学省

 徳永高等教育局担当審議官、浅田専門教育課長、勝野視学官、ほか関係官

6.概要

(1)教員養成における専門職大学院の在り方について

 事務局からの配付資料の説明の後、自由討議が行われた。主な発言の概要は以下のとおり。

委員
 教職大学院におけるカリキュラムイメージを議論いただいているが、現在の資料は作業グループにおいて各委員が分担したものを集め、ブロックをはめ込んだような形のものになっている段階のもの。本日は考え方・イメージについて意見をいただき、今後更に作業グループにおいて検討したい。

委員
 最初のはじめにという部分で、何故カリキュラムイメージを参考として供することにしたかということを書いている。この点については、教職大学院がまだ前例がないものだからというだけでなく、全体としてこれが教員養成改革のモデルであるという、そういう位置づけであるから非常に重要な問題だということを記述している。またはじめにの最後のところで、これまでの機関が新しい役割を発揮するためには、それぞれの成果や蓄積を取り入れつつ、一方においてそこから思い切って離陸しなければならないという、「離陸」というたとえの言葉を入れている。これは自分としては、従来の既存の専修の現状、修士課程の現状からどこまで離れられるのかというのが大変大きな課題ということを感じており、自分の大学で議論をしていてもそこが一番問題になっているため、その点を強調するためにこういう言葉を使っています。

委員
 カリキュラム設計に当たっての基本的考え方について、理論と実践の架橋・融合・往還、これは今まで往復というふうにしていたが、ここでは往還という言葉をつかっている。

委員
 授業の形態に関して、この点が非常に大事である。また講義形式に戻ってしまってはいけない。教職大学院における教育では、教育現場における課題自体を中心に据え、そうした課題について教員・学生がともに調査研究し、その解決を図る条件・方法を探る共同の研究や討議、発表等が教職大学院の授業の主要なものになることが重要である。この辺のイメージが一致してくると、後の基本科目のところの書き方もかなりはっきりしてくるんではないかと思う。

委員
 ここを押さえる必要があると思い始めたのが学生の受け入れについてである。今の修士課程では、現職教員を含めて、大体8月の夏休みから10月頃までかけてペーパーテストと面接を中心にして入学試験に当たるものをやり合否を決め、10月・11月頃に入学する意思を確かめている。このような形でやっているが、これではさきほど述べたような課題優先の教育というのでは大変無理だと考えている。教職大学院の教育が既成学問研究のカテゴリーのアイテムから出発するのではなく、教育現場に生起する課題について調査研究し、その課題の解決を目指すものである以上、学生の受け入れの方式も従来の修士課程とは異なるものを各教職大学院が工夫することが必要である。この場合、学部で行われているAO入試の方式が参考になるであろう。ということで、入学前年度の5月頃からこの方式で課題を確認して、10月頃に入学確約をすること。そして4月までの間に担当予定教員チームを編制して、準備に当たる指導を行っておく、というイメージを資料には書いている。
 しかし、※印があるように、現職教員の場合の志願可能時期や準備などの関係で、県教委からの派遣の場合など様々なケースを考えた場合、これ1本で全部が間に合うかというとわからない。しかも、学部卒生(ストレートマスター)の場合も教員採用試験などとの関係が特に関係する。

委員
 カリキュラムの履修により養成すべき資質能力として、教職大学院でより焦点化して養成すべき具体的資質能力、更に上記の諸資質能力の3つの位相をどういうことで違いがあるんだというようなことを述べている。

委員
 学校における実習について、基本的な考え方としては、受け入れる学校の方との関係を従来の教育実習のようなもので終わらせないようにする、実習校に対して過剰な負担が生じないようにするなどを書いている。また、実習の実施をどのように設定するか、つまり1年次でやるのか2年次でやるのかということにより随分イメージが違うということも気がついてきた。これはタイプ別に分類と書いているが、次の4の教職大学院における実習と研修・教職経験の関係という部分にも記述している。現在の修士課程では現職教員は1年目に各科目を履修し2年目に勤務校に戻って大学との関係を維持しながら修士論文を書いている。これと同様にすると、ストレートマスターは同じように2年目で実習をするという形になっていくこととなる。これを逆にすると、まずストレートマスターが1年目で実習をやり、部分的に現職教員は勤務校にあるまま加わる。そして2年目で実習を終えたストレートマスターと現職教員とが、今まで述べたような教育研修を行うという形も考えられる。ここのところのイメージもやっておかないと、様々なことがぼやけてくるということを考えている。どちらがいいと決めているわけではないが、そういう課題があるということで書いている。

委員
 実習の設定に当たっての留意点として、既存の学部段階における教育実習のようにならないようにすることを明示し、実習で扱う項目の例として、初任者研修で行われているような項目をずっと書いてみたが、何かバランスが悪いような気もあり、入れるならまた後で入れればいいかとの思いもあり一応この段階ではカットしている。

委員
 3の共通科目部分についても、やはり教育現場における課題を教員チームをつくり院生と一緒に解決に向けてやっていく、そのこと自身が授業であると考えられるのか、あるいはもっと基礎的・基本的な講義の形を考えるのか、その両方を組み合わせるのかという課題をイメージ化しておく必要がある。

委員
 コース別(分野別)選択科目については、今のところ基本的な考え方のみを書いて、あとはとにかく任せるということにするよりしようがないかなということで書いてある。

委員
 課題中心というのは大変いいことだと思う。最新の課題などをやるというのは、これは相当指導する方の力量が結構大変だと思うが、ひとつ課題を中心としてやるというのは大変いいこと。その課題の解決に向けて、学生の方もそうであるがむしろ指導する方が、そこには解答のない解答も出てくるぐらいのことだと思うが、極めて現実的な話を討議させる。教育においてもそういう問題がたくさんあるわけであり、大変賛成である。
 もちろん、それを補う特講とかそういうものが大事だということも、あわせて必要だと思うが。

委員
 養成すべき資質・能力について、ここでも随分議論があったと思うが、プロフェッショナルな専門的な力・プロフェッショナルスキルとともに、ヒューマンスキル・教職員として最も必要な人間的な魅力であるとか、人間的な理解であるとか、生徒に対して人間理解みたいなところがあるが、この(ア)(イ)(ウ)(エ)の(エ)のところまでにはほとんど載っていない。何かそこに人間性というか、人間性を高める、人間力をつける、人間理解をする、コミュニケーション能力を高める、そして総合的な力、それを何か表現していかないとおけないのではないか。これであると、どうも専門的な力はついたけれども、実際に教師としての魅力みたいなもの、これは何かカリキュラムの中に何を入れるかというのは非常に難しいと思うが、やはり立派な人の話を聞くとか、あるいは過去の古典をしっかり勉強するとか、そういうことからも得られると思う。その辺をどこかに入れるべきではないか。

委員
 科目の中身や養成する資質能力というふうに考えていったときに、例えば共通科目部分の(5)のところ、15ページ以下の学校教育と教員の在り方に関する領域というのが、今指摘されたところに相当するものになるのではないか。またヒューマンスキルの部分というものを、具体的に科目として立てていくということに少々難儀していたというのがここまでの実感である。このため、これからのこの場での議論かどうかと思うが、養成すべき資質あるいは具体的に用意すべき科目内容として、そういうヒューマンスキルに関わる部分を含めていくのか、それとも教職大学院に入学をする人に対するリクワイアメントとして出していくのか、あるいはその両方なのか、どういう形があるのか、その両面で考えていった方がいいのではないかと思う。

委員
 少なくともこの資質能力の項目のところに何らかのことが入っていないというのはどうか。この点は、現在の教員の問題点について欠落した問題になっているのではないか。それをベースにして、実際の授業の中でもいろんなところに散りばめられると思う。県教委などが求める教員のあるべき姿を見ると、ほとんど半分が人間性、半分がプロフェッショナルスキルである。実際の教職員を見ても、確かに何か頭は良さそうであるし色々なことを知っているけれども、結局生徒に対して、あるいはクラスマネジメントが本当にできるのかという、人間性をもっと高めるとか、ここの養成というのは本質的なところであり、あまりテクノロジーの方だけに行かない方がいい。半分とは言わないが、3分の1ぐらいはそっちの方を鍛えてもらいたいと思う。

委員
 この資料でいうと15ページから16ページのところを考える中で、自分自身の印象を正直に申し上げますと、共通領域については18単位ないし20単位以上となっており、その中で各領域で各数単位ずつと考えていく。なおかつここまでの基本方針としてあるように、いわゆる学問領域とか学問の方法論のようなものから始まるのではなく、現実の諸課題に即したところから始まる科目として考えていく。16ページの科目例に3つほど例を出してみたが、その真ん中の「教員評価の実践と課題」として、ワークショップ形式もしくはフィールドワークという、実態を踏まえた形での授業として考えてみているが、そうすると例えば「いい先生というのはどういうふうに評価されているのか」とか、あるいはその逆、「指導力不足教員というのはどのように認定されているのか」とか、「その処遇というのは具体的にどのようになされているのか」とか、「研修メニューが必要なのか」とか、あるいは「教師というのの育ち方というのはどのようになっているのか」とか、そのようなことを具体的な事例に即して検討をしていくというような科目になる。ただ、先ほど指摘されるのが、こういう形をとってもまだ、テクノロジーというか技術主義的という印象を持たれるのではないかなと薄々思いながら、実際に科目にするとこのような形にならざるを得ないのではないかと考えてつつ、自分も難儀したというところが正直な感想である。
 カリキュラムの履修により養成する資質能力というか、結局このカリキュラムを履修した結果としてこういう人が出てくるという部分に、いわゆるヒューマンスキルに関する部分を書き込むということには賛成ではあるし、またそのための具体的な手だてとして、科目にこういうものがあったらいいのではないかというような知恵もここでいただければよろしいかと思う。

委員
 これはなかなか難しい要素がたくさんある。課題から出発するという考えは基本的に賛成であるが、現在の教育課題とは非常に微に細にわたっているケースももちろんある。最先端の非常に解決困難な、まさに動いている課題というものがかなり多い。不登校問題にしろそのほかにしても。このためどうしてもそちらに目が行きがちであるし、それに対する資質能力というのは不可欠なのであるけれども、それらを考えていくに当たっても、なおかつそのほかに、もっとベーシックなものというか、教員としてということと同時に人間としてとか社会人としてとかという、その部分がやはりどうもうまくつながらないおそれがある。
 よく言われる言葉として「学校の常識は社会の非常識」というのがあるが、これは今でもやっぱり生きているように思う。今指摘された16ページの、私は科目例の1番のコミュニケーションの部分があろうかと思う。そのコミュニケーション不足による摩擦やあつれきや学校不信というのは非常に多いんではないかなと。
 社会の人だっていろいろ保護者も変わっているから、学校の教員サイドの非常識の方がよりぐあいが悪いという場合が多いんですね。その意味で、例えばそこの2、教員と保護者、地域のコミュニケーションの実践的技法について、余りにも実践的が多いような気もして、もう少し教養部分とか常識を身につけるとかというふうな、もう少しほわっとした包括的なものも要るんではないかなと思う。それはやはり今回の教職大学院全体の実践力というところでの大きな話題が故に、いわゆるスキルの方に傾いているという印象があるが、この点はやはり否定できないのではないか。
 今日たまたま、朝日新聞の天声人語でしたか、大学の講義のことを少し揶揄的に言っていた。だんだん講義内容が現代化していくと、ビデオを使ったりとか、まさに今の時代の潮流に負うたような授業をされ、そういう努力が大学教官の方に見えるということも、逆に学生は、それよりやはりもう過剰な情報の中で泳いでいるわけだから、古典的、原理的なものを求める要素があるというふうな、やや皮肉な逆転現象のようなものも、もちろん全部ではないと思うけれども、あるだろうと思う。
 教職大学院の場合も、全体としては実践力、授業力なりというものに重点を置くとしても、その裏づけがどこかでやはりそういうふうな意味で、指摘について賛成の気持ちがある。

委員
 ワーキング自体の議論はそのように進んでいたわけだが、いざこのようにまとめた言い方をすると大変難しいなということ。

委員
 自分が医学部長のときの話で恐縮だが、丁度大学院を重点化するという話があり、そのときのスローガンをSESと掲げた。Sはサイエンス、Eはエシックス、それからスキル。それを具体的に3つのスローガンから3つの頭文字に合うカリキュラムをつくって。その前に、Eに相当する部分として、医学倫理を講義する教授を正式にお招きした。その方はある国立大学の医学部を卒業した後、早稲田大学で哲学をやって、それから群馬大学に来てくれた。
 もし今の指摘のようなことを本格的にやるとなると、法学部の場合は法学倫理、これをやっている。医学部でも医学倫理はやっているのだろうがほとんど全部オムニバス形式で、専任教員がいない。法学部の方もオムニバスになって、様々な企業の方々が来て、中には自分の会社の自慢話みたいなことをしていかれる方もいらっしゃる。医学の方でオムニバス形式をやっても、自分の領域の宣伝をしていくことがある。しかしそれでは何の医学倫理にも法学倫理にもなっていない。だから、やはり今の意見を正式に生かすためには、専任教員をかなり強くここで推して入ってもらうということがやはり必要ではないかと思う。
 しかし、その大学教員が中には非常に強い説得力と力を持たないと大変空回りになってしまい、そのもととなる教育倫理というのが今概念としてきちんとあるのかどうかということ、これは非常に難しいところではないか。教育倫理学というのは独立した学科として成り立つものかどうか。社会学の方もあるし、児童心理学もある。様々なもの、総合化された非常に難しい、非常に高度な専門性が必要とされる領域だと思う。
 医学の場合は、もう既に40年以上前に大阪大学が京都大学の哲学、ベルグソンの哲学をやっていた澤瀉久敬先生という方を正式の医学倫理の正式の教授としてお招きし、日本で初めて正式の教授で、その後は中川米造先生、この方は倫理学出身の先生でいらっしゃって、そういう中心になるような大学が1つあったために、そのモデルとしてはもちろん著書もいっぱいあるから、そういうものも各大学で参考にした。教育の方でもいろいろな特徴ある、例えば岡潔先生のお書きになったものを読んでみたりすると、かなりそういうものも感ぜられるが、それがたまたま岡先生がそういうものにご関心があるからそういう著書があるのか、あるいは教育学全体が教育倫理というものをしっかりやろうということで、そういうものを常に求めて、そういうところを修練しようとして、1つの独立した学科としてなろうとしているのか、この辺がポイントではないか。

委員
 教育学部では大抵教育原理という形でやられてきているけれども、この場合その内容は制度の方に引っ張られたりしており、中心部分に教育倫理や教員倫理というか、そういうことで実体があるという形はなかなか少ないのが現状ではないか。

委員
 医学部では群馬大学医学部だけではなくてどの大学もそういう方向に行っているということか。

委員
 専任教員を置いているところは極めて少ない。置いている場合、その人がカリキュラム全体をコントロールしている。しかしそのくらいの形になっている大学は、ちょっと余りはっきりしたものが見当たらない。ただ、オムニバスでやっている中からいいものはあると思う。オムニバスでやっているところにいいものも必ずある。

委員
 医学部エスイーの養成、それは学部段階もあるし大学院段階もあるが、医学部の場合も医療現場におけるもう1つの問題の事項とかそういうのがありますね、新しい医療とか。そういう課題の方で出発しているから教育をしていくという意識なのか、やはり基礎的な生理学だとかそれから医療技術だとか、そういうものの方から出発しているのか。

委員
 従来、まさにご指摘のように、生理学とか分子生物学とか、そちらの方に非常に強く、まずそれをやれと。これはどんなにヒューマニティにあふれた医者がいても、手術してみんな死んでしまうのではどうしようもないから。まずそこが主体性がないということが非常に強く意識されてやってきたために、医学倫理なんて言うと何だ誰がこんなことを言い出したんだという感じが何にしてもあるわけです。それが現在のそれでは破綻してしまっているわけです。ですから現場の問題をどんどん、現場といっても関連病院へ行くというよりも、本当の山の中の医療とか、そういうところで現場の問題をとらえてやっていこうという、この流れは非常に強くなっている。ただ、こういうこともあるから教育がどんどん進んでいるのかとか、教育学の方でもこういう形でいかがでしょうかといったサジェスチョンができるような背景だったのかはちょっとまだ不明確である。

委員
 先ほど指摘された人間力の様なところについて、それを具体にどうするかというのは、基本的に教育というか、学校教育の特質から見てほとんど人間を相手にしている学問なのであり、そもそも本来人間力というのが前提にある。例えば生徒指導の在り方1つとっても、それはヒューマンインターフェイスがないと生徒指導にならない。有り体に申し上げれば、別に昔の教員はそんなことを勉強しなくともちゃんと生徒指導をまじめにやっていれば、自然におのずから出来ていくというか、そういう人間力のない人に生徒指導なんていうのはそもそもできないということが前提にあるわけであった。
 またもともと学級経営や生徒指導の領域では、本当に保護者との共同作業で一緒になってやらないと問題が解決しないから保護者と共に教育をするのであって、そのような観点で保護者や子どもの理解というところが入っている。このような点は単にスキル的な観点でのみ入っているのではないんだということを少しそれぞれのところで、もう少しきめ細かく表現していただいたり、それから必要であれば追加していただくようなことで、整合性なり体系的にでもいいのではないかなと思う。

委員
 関連して資料の16ページのコミュニケーションのところを科目として出すに当たって意識したことというのを参考までに申し上げておく。栄光という株式会社が特区を利用して株式会社立の専門職大学院を申請している。この会社は塾を展開していて、なおかつ私学の教員に限った人材派遣、研修の請負などもやっている会社である。そこが中身として売り物にしているものの1つが、保護者からのクレームに対する対応である。民間企業だとユーザーからのクレームにどのように対応するかということは非常にシビアな課題としてあるわけで、実際に対応しているときに相手の要求を聞いてできることとできないことをはっきり説得的に語るとか、そういう姿勢というのはスキルとして身につけられる部分というのが多分にあり、いずれにしても民間会社ではそういうことが進んでいる。
 それを専門職大学院という形で課題から出発するということは、はかなり親和的である。だが、そのままの形で科目例に取り込んでよいのかどうか。

委員
 もともとこの5領域目の設定した経緯から言うと、指摘があったようなヒューマンリレーションというか、そのようなものをああいう形で生かしてそれの領域を設定したということは記憶に新しいところ。従来はある意味では教育学の教育のジャンルでは言われてきたのだけれど、そこがある意味でスキルにならないところの苦しさがあったものだから、最近は特に明確に変更ができるスキルの方を重視してきたという、そういう流れがある。それで結局のつけ方としては、今の原案の中に、例えば教師倫理、教師としての職業倫理とそういう芽生えのような表現が幾つか出ている。職業的倫理、それからよい教員の在り方、それから教官とか担任の尊厳を認めるとか、周囲のところのその動きが出ているので、そのあたりを少しもうちょっと集約した形で出せば、指摘の部分に応えることができるのではないか。

委員
 今一番問題になっているのは、やはり教員のプロフェッショナルスキルも、確かに指摘があるように現実問題に対する対応力である。その辺は今回はケース、課題中心ということで、課題も現実に起こっている教育の問題をとれば、みんなインターネットでいろいろ調べると思う。そして自分の意見を出してくる。そこでも人間力みたいなものが養成されると思うし、教育倫理という形で1つ項目を設けることももちろん大事であり、あらゆるところにおいてすべてがそこが前提になれば、何か講義だけみんな受けて、いろんな知識がふえたけれども、結局授業はできない、できたとしても優秀な先生ではない。やはり魅力ある教職員をどう育成するかが今回の問題であり、カリキュラムの課程が何となく整合性を持つということだけではないと思う。
 県教委が出しているあるべき教職員というのに、例えば実践的展開力とか、こういうところを出しているところは余りない。大抵はやはり魅力ある教員とかである。私にしてもやはり、今あるべき教育原理としては、建学の精神をしっかりして教育をしなさいということ。それから私学ですから、やっぱり保護者、そして生徒に対しての早期対応、あるいは対峙力をしっかりしなさいと。向上力や情熱とか他に学ぶとか、皆考えてみるとそういうところがある。そこをベースに専門的な知識があるということであり、特にストレートマスターなどやはり今度の2年目に現職の方と会うと、非常にそういう人のいい影響を受けると思う。
 そういうことであり、中身のカリキュラムは様々なことが書いてあるので原案でいいのではないかと思う。

委員
 教育現場を管理しておられる方々の方から、新卒学生と現職教員学生とを含めて教職大学院を終えたときの受け入れ方の問題、また現職教員について1年目と2年目の仕分けをどういうふうにするのか、今のような1年目に集中的に大学でやって、ほかの研究に従事しつつ2年目に戻るという形がいいのか、逆がいいのか。またストレートマスターと一緒にやっていく関係ではどうするのかいいかというようなところをどのように考えるか。

委員
 現在の現職教員の大学院への派遣では、多くの場合1年目はフルタイムで派遣する一方、2年目は学校に戻り、ほとんど人並みの仕事を受け持ちながら、その合間合間に長期休業や平日に当たるとか非常にやりくりをしながら、2年目の論文研究をやっている。その弊害は随分指摘されてきたんではないかという中で、今回の制度設計の中に修了が1年もあり得ると言う点は、工夫の結果、そういう現職教員に配慮したニュースがいっぱいあって、これは現職教員を送り出しやすいようにという気持ちがあると思う。
 他方、優秀な期待できる教員であるだけに、2年間担任を持たないということはつらいという面もある。やはり「離陸」をもう少し厳密にはっきりさせるために、2年間を現職教員に送ってもらう方がいいと思う。そこは大学それぞれの判断であるから、1年構想にして設けようとそれは自由だと思うんだけれども。その点で資料中で相当私の気持ちが表現されているように思うのは、6ページの真ん中から後半の、現職教員の実務実習で留意すべきことは単なる研修とは異なるという点である。長年現場で経験を積んでいるから、あえて実習は要らないんだという考え方がもともとあるが、現職経験と教職大学院で行う実習はやはり意味が違うというニュアンスで書いていると思う。基本的にこれに賛成。この意味で、「例えば現職教員の場合、経験年数が長く、またこれまでに相当の研修を経験してきたことなどから、経験年数をもってこの実習の一定単位を取得したものとすることが可能であるが、専門職大学院における実習は、今までの研修とはかなり異なる、単に教職経験をもって置きかえられるものでも必ずしもないことに留意する」という、この記述は全面的に賛成。この点をもう少し強調してもらう方がむしろいいわけで、それぞれの教職大学院の自由だとしても、現場の教育委員会に対しても2年はつらいし、校長さんもやるんだけれども、やり方によってはクリアできるんじゃないか。その方法が同じ6ページの上の方の、今ある3、4、5あたりにある。特に5あたりは、こうして見ると悩むけれども、可能な方法を示唆しているもの。この部分を十分に活用すれば、学校長も教育委員会も安心して現職の教員を2年間フルに出すこともそれほど難しくないのではないか。
 その場合に、ストレートマスターと現職教職学生のセットという4、これなどを有効に使えば、実習校にとって非常にメリットが大きく、なおかつ新人学生が現職教員の学生との共同作業の中で得るものが多いと思う。現職教員も今までの単なる経験だけではない、新たな課題なり方法論に取り組むということが可能になっていくのではないか。その工夫は大学院と学校と教育行政機関、送り出す側と受け入れる側との共同作業の中で構築できる部分ではないかと思う。この方が全体として「離陸」の中身を充足していくことにつながるように思う。

委員
 教員を抱えている立場から、実はちょうど今時分になると新規採用教員が本当に教員としていい先生なんだろうかどうかという論議が出てくる時期である。早い人はもう五、六月ごろから出てくるが、その頃はもう少し現場の中で指導してみましょうよ、少し指導したならばまたやがてはよくなるのではなかろうかな、そんなことが言われている中で、そろそろ本当にこの教員は大丈夫なのか、そういうのが論議される時期である。
 自分のところにはその対象になっている者が二、三名おるわけなのだが、その者は極めて上級な大学を出ており、1人は大学院を出た者であるが、要は何が困るのかなということを学校長ともいろいろ話していて、ここにも出ているが、親とのコミュニケーションが、要は子供が何て言いうのか、好きになれない、そんなような言葉が出てくる。まず親と話ができない。このため、今は様々な研修があるが、1つは指導力不足教員、不適格教員に対する指導もあるけれども、もう一度大学に入り直して勉強させたらどうでしょうかねなんていうような話も実は出てくる。こうしたときに、こういうような者を入れるところがこういう大学だ、教職大学院だ、それでもちょっとおかしいぞというような感じもしないでもない。

委員
 今の話にも関係してくるが、市役所部局と一緒になって採用あるいは職員の研修等も若干見るような立場にいるが、ちょうど今、市の方の行政職の上級試験の採用が始まっており、面接をしているわけだが、決定的に不足しているなと感じることは、1対1の面接には極めて優秀な答えが返ってくる。ものの見事な対応の仕方をしてくれるんです。これは教員採用のときもある意味では同じであった。しかしグループ討議として、五、六人である課題を提示させて、そして提議をして、そこでいろいろ論議して、ある1つの結論を導き出すと。そういうことになると全然動きがとれなくなってしまうんですね。ですから、そのときの評価、グループ討議の評価と、1対1の面接のときの評価が全然違う。何でだろうなと思うぐらいに違う。
 グループ討議の中では、なかなか人の意見を聞いて自分が意見を述べる、そして自分の意見をまず理解してもらうような方法、対応の仕方、その辺のところの技術というか、何かその辺のところが非常に欠けている、落ちている、あるいは勉強不足なのか、あるいは社会力不足、友達とよく遊ばなかったとか、いろいろ言われているが、まさにその辺のところが感じられるなと。
 1対1では大変すばらしい答えが返ってくるけれども、グループ討議、人の話を聞いて自分が答える、自分の話を相手に説得する、わかりやすく話す、そういうようなことが非常に落ちているな、そんな感じを受け、ある意味では後段の方の部分の論議と関係してくるが、現職教員とストレートマスターが一緒になって論議して、うまく課題を解決していく、いろいろ討論する、そういうような場面を持ってくれたらどうだろうかな、そんな感じがする。それが1つのスキルに当たるかどうか、大学の講義の課目として値するかどうか、ちょっとわからないが、いわゆるコミュニケーションを図る、こういう場が極めて少なくなってきているのか、そのような感じがする。
 ただ、小学校、中学校の授業の中では、かなりそれに重きを置いてやっていたはずであるが、こと社会人になってくるとそれが不足しているような感じが、今の現場の教員なり、あるいはいろんな職員をあずかる立場として、ひとつ感じている。

委員
 現実にある課題を追究していくということであると、今、学校へあがっていて一番やっぱり問題に直面しているのが多いのは軽度発達障害のお子さん、そのお子さんの親ともみたいなところがある。それから不登校のある学校もあるであろうし、これはもちろん学力を高めるのにも、学校で頑張っていても家庭の問題もあってなかなか学校でやったことが、家に帰って復習とか学習ができない関係があるけれども、すごくふえていると思う。
 軽度発達障害の児童生徒や、かっとなってキレてしまう児童生徒などへの対応の場合、必ず親御さんと一緒にどうやってやりましょうかと話し合うときに、果たしてこのような、大学とか教職大学院の学生さんなどを一緒に入れて、そういうことができるのかどうか、難しい問題もあろうかと思う。
 校長あるいは担任とも一番欲しいのは、そういう障害のあるお子さんに対して専門的にお医者様だとかカウンセラーの人だとか、そういう方たちとチームを組んで一緒にやれたらとてもいいなと思うことがある。言葉のないお子さんも普通クラスの中に入ってきている。言葉のないお子さんは、どうしてもこの子は3年生が終わるまでには言葉でコミュニケーションがとれるようにというようなことを親御さんの方が要求される。しかし、果たしてこのお子さんが言葉を発することができるのかどうかというのは、私たちにはちょっとわからないので、おはようの「お」とか、ありがとうの「あ」とか、何か1語ずつ言ってみたりするんですが、本当にこういうことでいいのかどうか悩んだりしている。
 そういうのがこういう大学院でそういう事例があったときに、専門のお医者さんなり何かそういう方も入った中で一緒に研究できるようなシステムになると、非常に効果があって、現場も助かるのかなと思う。
 また、教員としてやはり幅広い教養というのがとても必要であり、寄席に行ったり演劇を見に行ったりとか、そういうような話の広め方のようなものを学ぶというのがとても大事であり、専門的なものは教科指導というのは何でもできるにしても、それをいかにして伝達していくかという、そういうものもとても必要なシステムではないかなという思う。

委員
 学校の受け入れ側から申し上げると、ストレートマスターと現職教員を一緒に、例えば学校に出してみるなどは、いい案だと思う。それから、今の大学院生が2年目は現場へ来て教育してみるという点。
 ただ気になるのは、週に1回だけ大学院に行くというような形をとる場合、意外に中途半端である。つまり、現場はその1人の教員の力を全部使いたい、また使わなければいけないような状況になっているわけである。このため、形としては現場へよこしてもらって、現場の中で、例えばストレートマスターと一緒に実践的な研修をやってくれることはありがたいことであるが、それは一人前として扱わないで半人前ぐらいにして、2人合わせて一人前ぐらいの人事構成をとらないと、やはり中途半端であり、せっかくやったことが何か生きないのかなという不安があることから、その辺が解決されないと、せっかく計画をやっても効果が半減してしまうかなという気がしている。

委員
 3ページの学生の受け入れの部分について、これを見ると、希望者の入学後の研究課題をということで、非常に実務的な点であるが、専任教員が最低11名であるのに対し、院生の定員というのが恐らく30から50人位になるだろうと思う。そうすると、院生が入学時にこういうテーマでやりたい、ばらばらになる可能性というのはかなりあるのではないか。それを教員チームをつくって対処していこうとするのは、いわば50人の院生の研究テーマ、恐らく分類して幾つかになるだろうと思うが、教員もそれに関係することは、全員が関わるわけにいかないので、恐らく多くて3人ぐらいだろうと。そうすると果たして指導ができるかどうか。院生のこういうことをやりたいという希望だけでやっていくのがいいのか、うちの大学院はこのテーマでやっていきますよと幾つか挙げて、それぞれの大学院の特色をここで出すとするか。そういうことも考えられるのではないか。

委員
 今回の課題中心という考え方の大変結構なことだと思うし、それでいきたいと思うが、できたら共通科目はやはり講義があっていいんだろうと思う。半分とか3分の1は講義すると。現職教員というのはどれくらい経験者なのかわからないが、意外と知的に枯渇状態があり、非常に程度の高い、哲学的な何かそういうものを聞きたいという、そういう希望は結構出てきている人が多いように思える。
 そういう意味で、共通科目は講義があって、例えば半分20単位のところ、各領域2単位ずつ、そして演習がしたがって2単位、トータル20単位と考えてみる。コース別の15単位以上、これは全部ここにあるように研究課題にしてしまう。そういうふうな実際の運用を仮に考えてみるといいのではないかという気がしている。
 また、共通科目5領域であるから、各領域に専任の教員、2、2、2で配置するとすると10人となる。少し学校の特色を考えると、例えば教育課程の院生というので2人、生徒指導・教育相談3人、教科等指導これも3人、そういうふうに人間を考えていった場合、それで実際運用していこうというときに学生の希望どおりのテーマだけではやっていけない、そういうせっかく出したけれども門前払いを食ってしまったということがないためにも、そういう意味で提案してみた。
 現段階の自大学の議論では、修士課程を全て教職大学院にしまったらどうかという議論もしているものだから、全員がこれに当たると手続的な問題は別にして、教科のスタッフもみんな入れて考えてしまおうという中で考えたわけである。

委員
 学生の受け入れについては、自大学を想定して考えてみた場合、今までのような入試ではやはりだめなので、課題をじっくりということで出てきたことを書いている。

委員
 先ほどの軽度発達障害の子供のことですが、このような内容はコース別・分野別のところに立てることが本案でないかなというふうに思う。たまたまの例であるが、本学の場合、教職大学院の議論が起こる前に平成16年に大学院改組として教育実践開発専攻を立てた。その中に専修はカリキュラム開発専修と教育臨床特別支援教育専修とういうものを立てた。それで、前者の方は今ここでちょうど議論になっている教科専門はどのようにして教育実践に参画できるかというのを、もうその先端の課題に既にぶつかっています。ということで、その兼ね合いに非常に今考えている。もう1つの教育臨床特別支援教育専修の方だが、これは指摘のとおりであり私もそのときはかなり頑張ったのだが、医師と心理学と教育学と3者を組み合わせた。それで今非常にいい対話をして、それで院生もそういうものを修士論文のテーマとして選び、また市や県とそういうケースに当たるお子さんとの連携の一員として、私も大体その案はきちんと了解していますと、そういうケースの子供を。私の方も大学がやって連携してもよろしいということで言ってくれているというので、これはもしも教職大学院の方に移行すれば、指摘のような成果をきちんと上げることができると思うし、非常にニーズが高い。しかし、指摘のようにまさにこのことは共通科目としてというよりも、むしろこういうコース別ということで対応していける1つの分野かなと思う。

委員
 もう1点は、教職大学院は、個別に従来の現行の大学院のようにどこどこ研究室に分属というスタイルをとらないで、チームで指導するということを考えている。それで議論の場をきちっと持っていくわけである。それでも10人か15人ぐらいいるのは責任体制があいまいになるので、全員でできるけれども、ぎりぎり1回はつくようにしたい。そうすると、連携校に行ったときも必ず1人はついていける。それから様々なアドバイス等も議論しながらというので、この教職大学院をきっかけに、そういった指導体制というのもかなり考えられてきているというのも1つの特徴かなというふうに思う。

委員
 だんだん既成大学、既成機関とは違う例というのが出てきたのかなというのが印象である。

委員
 実習のところについてはどうか。今までの流れはストレートマスターは1年目でやるという感じでいたが、むしろ教育現場に出て行く寸前の2年目の方がよく、だから1年目に共通科目とそれとの関連でコース別の方で頑張って、そしてその後ある意味で教育現場に出るための実習をやる、その中で現職教員の方はある種の解放をすると、こういうことがいいと考えるか。逆にそれをひっくり返した方がいいのかなど、この辺はどのように考えるか。

委員
 発達障害について議論があったが、これは現実に相当大きな問題になってきている。専門的によく分からず、どこがどうなっているかということがはっきりしないままで、学校現場は非常にこれボディーブローのように課題になってきているということがある。この辺はこの研修課題というのの1つのコースの中で具体化している。

委員
 現職教員が知的枯渇状態に陥っているのではないかという点も、まさしくそのとおり。教室でもうわき目も振らずにという反面、大学卒業までにいろんな、若い時代に身につけたものがほとんどもう出尽くしてしまって、新たにそういう充足するというか、知的な泉に水を与えるというようなことが難しいという現状がある。私も個人的に教員を10年ぐらいしてから、昔はこういう制度がなかったものですから、大学の聴講生っていうのか、1年か2年無理に行かせてもらって、本当に目からうろこのような新鮮な感動を覚えたということがあることから、できるだけ今、現職教員を出すようにしている。
 ただ現実に、先ほど指摘があったような発達障害に関するような講座をとろうと思ったら、果たして今構想されている教職大学院の中にそれを設けられるかどうかという、かなり難しさもあるのかなと思う。その場合、私はほかの科目が取れるのではないかなと思うのだが、教職大学院だけでなく、ほかの修士課程なり学部でもいいわけであるが、これは大学に行っている期間が長ければ長いほど、そういう自覚が生まれてくるので、やはり2年の方がいいという、1つの考えのもとにはある。

委員
 チームでいろいろするという場合、スタッフの数に限りがあるのではないかという指摘について、果たしてチームの人たちが確立できるのかという問題がある。これは教員養成としてのかなりの規模を持ったところは可能だと思うが、そうでない一般の地方の大学などの場合には、なかなかそれは難しい面もあるのではないかとも思う。現実にもそろえるのすらなかなか定数上の苦労をされているように聞く。
 その際、非常勤講師もいろいろ活用するということもあるのだろyが、ここで言う現職教員の学生が工夫次第ではアシスタント的な役割でチームの一員に組み入れられないだろうかと思う。その場合に、もちろん担当する分野は限定されてくるであろうし、本人の得意分野なり資質能力にもよりますから一概に言えないにしても、助手の助手のような形で、チームの一員として、勉強もするし指導の一端も担うというふうな両面性が可能かなという気がする。そのことを最も発揮しやすいのが実習の場面だろうと思う。

委員
 先ほど指摘があったが、1人での面接では対応できるが、チームではだめだという点、これは本当にそのとおりである。もうどうしようもなくなって、特に生徒の前でこれをやられる。圧倒的多数の30人40人の子供の前で立ち往生する優秀教員というのは随所に見られるわけで、共同作業なり共同方法というのの経験なりノウハウが欠落しているということを共通に感じるので、一緒に何かをするという、議論だけでなくて、アクションを伴うようなことが積み重なっていかないと、これはできないように思う。そういう意味では、学校における実習というのはまさにうってつけの場ではないか。

委員
 さきほど指摘があった、実習は1年時がいいのか2年時がいいのかという問題は、私は両方だろうと思う。両方でやることができる。1年目のある時期、2年目のこの時期というふうに、年間をベタに通さないで重点時期を設けながら、その場所その場所で現職教員の実習を組み合わせたり、ストレートマスターだけでやったりという、何通りかのやり方を組み合わせていくと、現職教員学生もどちらかのステージに、もちろん改善方法もありますけれども、両方にまたがった方がなお弾力的な実習の計画が組み立てられそうな気がしている。こうすると、小規模なところであっても、ほとんどの中においては多数の変化もいるのかなということで、先ほどから繰り返し現職教員の場合も2年間の方がいいのではないかと申し上げていた。

委員
 ワーキンググループにおける議論で、現職教員を長期間大学院に派遣するのが難しいという、そういうところを説明するのに対して、新しい工夫が必要なんだと思う。今までのように送りっ放しで2年間というのはとても無理だという話もあるが、何か教育現場との間がうまく調和できるような、調節できるような形で展開できればいいのではないか。

委員
 今の話に関連し、学校として大学院に出していくといった場合はいいと思うけれども、そうでなくて個人としても大学院に出たいというのが結構あると思う。そういう意味で、これも念頭に各大学が考えることだと思う。やはり個人の努力は相当するとしても、現職で働きながら入れるという仕組みをやはりとって、例えば1つはネットをうまく使うということもあるだろうし、もう1つは夜と土曜日、そういうのを活用できること。任命権者が派遣する以外に、教職員個人として、さきほど知的欲求というのがあったが、知的欲求以外に自分の今抱えている問題をどう解決するか、それに影響させる。ほかの専門職大学院などでは要するにポケットマネーで行っているのが結構多い。例えば、一般の専門職大学院のビジネススクールというのは、恐らく8割はポケットマネーではないか。しかも私立の場合は年間200万とかかかる。さきほどのネットの大学、ああいうのも年間120万程度である。それよりもややはい教職の場合、もう少し通学できる道を多様に開いておかないと、何かフルタイムの昼間だけというような格好ですと難しいのではないか。
 それから、ネットでやっぱり相当違うと思う。さきほどのグループ討議なんていうのは、さきほど指摘された課題の討議というのはものすごく違うことなんでという感じがする。

委員
 群馬大学教育学部がやっている例で、学生が遺伝の仕組みを自分でつくった教材を使って、そこで実践して見せるという取組を大学の中でやっているビデオを教育学部長から見せていただいた。ところがその内容を見てみると、どうも生徒に正しく伝わる教材に私から見てなっていないということがあった。遺伝子というものが染色体の中に含まれているような形で見るわけなんです。染色体というのは分裂するときに糸がぐちゃぐちゃにならないためにできる細長い袋みたいなものですから、そういう説明が十分にできていない。だから、私は教育学部長に、本人はわかっているのかよくわかりませんが、こういうふうにやった方がもっとよく子供に伝わるよということは、教育学部の中でやっていないで、医学部で、もう大学院の上級生でいいから、そういう人に来てもらって、それをモデル授業を見てもらって、この教材ではちょっと誤解を招くよというようなことを、ちゃんと教えればいいと言った。恐らく法学部など他学部からもそういう人がぜひ自分が行ってやるからということはあるだろう。それと同じように、教育現場の方で、学校の方の授業参加に専門家が行くということ。先生同士だけで授業参観をやったりだけでなくて、本当の例えば理科の授業のときに頼めば、大学から本当に毎日毎日それを手を動かしてやっている人が来てくれて、その遺伝子なら遺伝子の情報の伝え方の授業を見て、こうした方がいいよというアドバイスが、そんなにそれ教授が行かなくても助教授が行かなくても、それはできることだと思う。であるから、学校の方に来てもらう仕掛けも、何らかの形で制度化することもあっていいのではないか、そういう気がしている。

委員
 コース別選択部分についてはほとんど今書かれていないし、議論もされていないことだが、これは気持ちの上で言うと、大学も相当、実習生に囲まれる部分だなと思って書いていない。教育現場との関係できて、教職大学院をつくるというのは難しい時代に来ているということを考えると、そういう注文みたいなものを書いた方がいいのかなと、その辺をこれから考えたいと思うが。

委員
 18ページのコース別選択科目の設定に当たっての留意点という、2の4のことになるが、私のように特定の教科が背景にない教育学の人間というのは、どうしても教科内容のコンテンツに関しても、その授業に関してきちんと検討・評価するという点で弱点を抱えている。そこで、本当に教科指導のエキスパートを育てると考えると、やはり専門の人の力が欠かせないというふうに考え、18ページの下のところにあるように、いわゆる「教科専門」の専門性が教職としての高度な専門性の育成に資することが期待されるという、こういう考え方もあっていいのだろうと思う。何か教職大学院の議論というと、いわゆる教科専門の先生方は「私らには関係ない」というふうに思いがちであるが、色々な人が入ってきていいんですよという、そういうところを先ほど話に出た軽度発達障害の問題なども含めて、ここのコース別選択科目に示しておくというやり方がよいのではないかと、今までの話を聞いていて考えた。

委員
 自大学で平成10年から学士編入学を受け入れ、もう既に4年制大学が終わり専門学部、医学部だったり法学部だったりと、それを終わって社会人になったような人も含めて編入学を受け入れたのだが、そのとき一番重視しているのはグループディスカッション。合宿して資質を見て。もちろん基本的な学力は見なければならないし、DNAと言ってそれがわからないといかんのでできませんよね、そういうところは見ますが。非常に重視しているところがグループディスカッション。司会者も順番に替えて、ほとんど全員がちゃんと司会者をやってできるといったところでの発言等々も、全部審査員が最後まで全部チェックする。2日間、それをお互いにやるのでかなり疲れるのだが。そこで合格した者は入学を許しているわけである。であるから、教職大学院でも、1年2年両方、さきほども指摘があったが、頻繁に実習の内容を全員でグループディスカッションして、そのグループディスカッションの様子を出ている先生はちゃんと見て、そういうものをきちっとしていく者を専門職大学院卒業生としてかなり重点を置いて認可すると。そういうやり方でトレーニングを積む方法もあるんだなと思う。

委員
 8ページの開講形式と単位数のところで、5領域を各4単位で計20単位、これをフルに履修を求めるのか。ここで話題になったことはあったと思うが、ここは少し柔軟性を持たせてもいいのではないかというあたりがまだ詰めが残っていると思う。その点はまた整理したいという点。
 それからコース別・分野別のところについて、そこと共通科目との関係というのも、ちょっと、原則的なことだけでいいと思うのだが、少し記述が必要かとも思う。

委員
 ある程度詰まってきた内容であるが、実際に受け手側の教職員から、今回アンケートみたいなというか、そういうものが何かとられた、あるいはとられる予定はあるのか。

委員
 今回作っていただくこのカリキュラムイメージについても、答申の下に位置づけられることとなる。本カリキュラムイメージはこの具体化ということであるが、これも含め中間報告自体については、正式中間報告の後に世の中にパブリックコメントしてさらされる。その際、報告自体についてはヒアリングを行った団体に対しては送付し、もし何か意見があればということでお伝えさせていただく予定。ここのところでは当然各学校団体もあるし、教職員関係の団体、大学関係の団体もあり、意見を聞くことになる。またホームページ上では既に一般に対して意見を聞くというのを行っている、という手続になっている。

委員
 公式的な報告はそういった形でパブリックコメントをすると思うけれども、それの土台に、現場の意見をどういうふうに反映するかという何か仕掛けがあってもいいのかなという感じがする。

委員
 私たちも外部から様々が聞かれることがあり、そこでああそうかというふうにしてわかってくるという面もあり、そういうプロセスが大事だと思う。それから、今の教員養成学部にいる教員にしても、みんなが無理だよとか言いそうな気がするので、そういうプロセスも大事。このためまずできるだけ早く素案といったらいいのかたたき台を、ワーキンググループの外に出せるものに早くまとめたいというのが実情である。

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総合教育政策局教育人材政策課

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(総合教育政策局教育人材政策課)