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Home > 政策・施策 > 審議会情報 > 中央教育審議会初等中等教育分科会 > 幼児教育部会(第8回)議事録・配布資料 > 資料6 | ![]() |
資料6 |
中央教育審議会初等中等教育分科会幼児教育部会(第4回)議事要旨
1. | 日時 | :平成15年12月12日(金曜日)15時〜17時 |
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2. | 場所 | :ホテルフロラシオン青山 2階 芙蓉(東) |
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3. | 議題 | :
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4. | 配布資料 | ||||||||||||||||||||
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5. | 出席者 (委員) 鳥居会長、木村分科会長、田村部会長、國分副部会長、無藤副部会長、浅田委員、池本委員、石榑委員、石田委員、井堀委員、門川委員、酒井委員、服部委員、北条委員、山口委員 (文部科学省) 金森初等中等教育局担当審議官、樋口初等中等教育局担当審議官、土屋幼児教育企画官、小田国立教育政策研究所次長、その他関係官 (意見発表者) 小川 博久氏(日本女子大学家政学部児童学科教授) 汐見 稔幸氏(東京大学大学院教育学研究科教授) |
6. | 概要
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![]() 【意見発表要旨】 今日は、遊びをどういうふうに構成していくか、遊びをどうつくっていくかという問題について、これまで実践してきた遊びについての実践的な戦略についてお話ししたい。 遊びをどう考えるか。現代の幼児教育における遊びの重要性については、やはり子どもの主体性を確立するという意味で、どうしても遊びが必要である。では遊びとは何だろう。私としては「自ら発意して、自ら達成する活動」である。この「自ら」という中に、集団保育であるから、「自分たちが」発信してということも含んでいる。 それは、環境に幼児の発達や人間形成の要素が内包されているという形で、環境による教育という考え方が教育要領に盛られている。 遊びをなぜ取り上げるかということでいえば、それは今の小学校教育において一番問題になっている、子どもの学習動機が低下しているということに対して、遊びは子どもが自らの学びの動機によって行う活動であるという点に、遊びの重要性があると考えている。 遊びの子どもの自発性はどうやって出てくるかというと、まず最初にあるのは養育者との間の同調的関係であり、応答的関係であり、たとえば、「いない、いない、バア」というのは、同調、応答関係の中で出てくる遊びである。親子の同調関係、あるいは大人と子どもの同調性とか、あるいは応答性、身体的同調性があることによって、子どものモチベーションが生まれてくると私は考えている。 それに対して、母親がミルクのほうに目線を向けたときに、子どもも母親の目線を追って、ミルクを見る。そのときに母親が「これがミルクだよ」という、モノの名前を子どもに提示するというような、同調的関係(ジョイント・アテンション)ということが言われている。 こういう人への関心からモノへの関心が成立してくるというようなことが、遊びに深いつながりがある。 これは家庭において、昔、かつて専業主婦が子育てをしながら、家事をやっていく。この関係の中に、母と子の応答関係と同時に、応答関係を離れて、母親が育児に向かうというところが、子どものモノへの関心を生み出してきたと考えている。そこから例えば教師が子どもにやってみせるのではなくて、ある事柄、作業に集中していく。その集中する行動について、もし教師が子どもとの応答関係が十分にあれば、子どもは教師のやっていることを、言語的に「やりなさい」と言うのではなくて、子ども自身がその行動に向かって、それを見て観察する、そこに観察学習が成立する要因があると考えている。 見てまねるという活動は、自分がやってみようというときに、必ずある種の期待とか、あこがれを持っているが、自分でやってみると、なかなかできない。そこには試行錯誤が行われる。 この試行錯誤の中に、子どもが遊びを面白がる要因がある。これは西村清和が「遊びの現象学」の中で「宙吊り」と言っている。例えば、子どもが型抜きをやるときに、コップに砂を入れて、抜いたときに、成功率が50%ぐらいのときになると、子どもはやたらに面白がってやる。砂をコップに入れて、ひっくり返して抜こうとしたときに、成功するか成功しないかということの一種の宙吊り状態になる。うまくいくと、〈ヤッタ〉ということになる。失敗すると、〈もう1回〉ということになって、子どもは果てしなく宙吊り構造を進めていきながら、徐々に成功率を上げていく。これが90%以上になると、子どもは達成感の増大とともに遊びの面白さがなくなって、ほかの活動へと移っていくということがあるように、試行錯誤過程の中に、失敗と成功の間の宙吊り構造を子どもが乗り越えるという形で、遊びの面白さを発見していくということがある。 そういう中で、教師は一体どうかかわるか。子どもが見て、まねてやってみたいと思ったときに、子どもはやってみるが、同時にそれは停滞する。子どもがうまくいかなくなったときに、保育者が、きちんと入って援助する。そのいいタイミングで入らないと、おせっかいになるし、遅過ぎると間抜けになる。そういういいタイミングで子どもをしっかり援助していって、しかも、そのときに大人の援助は、達成への道筋を示唆する。ただし、それを完全にやってしまうと、子どもの自己達成感がなくなる。ある程度やった後で、子どもに任せて、子どの達成感を味わわせるということが、保育者の援助として必要になる。こういう援助が必ずしも今の遊びの中でできていない。 ところが、これは一人のケースの場合でいうので、幼稚園の場合は集団保育であるから、集団保育の中で、こういう活動をどう保障するかということが、次の問題になる。 そこで、集団というものでやる場合にまず大事なのは、大人と子どもとが同じ生活空間に暮らすこと。この考え方は、かつての伝承遊びとか、生活の中で子どもが学ぶという論理から学んだものだが、保育室というものを日常的な時空間、教師と子どもの生活の時空間としてセッティングする。そこで、コーナーをセッティングする。コーナーというのは、家庭の生活空間において決まっているお父さんの座る場所とか、道具のある場所。同じように、保育室は教室ではなくて、生活空間であると私は考えている。 リチャード・ライトという建築家が設計した幼稚園の保育室は、アメリカの普通の居間、普通の家庭の住宅の設計と酷似している。ヨーロッパの保育室に行くと、違い棚があったりする。結局、居間という感覚が保育室にあって、そこで子どもが室内遊びをやるという感覚があるが、戦後、我々は保育室を教室のように考えてしまっている。情報を伝達する空間ではなくて、子どもが作業する空間として保育室を設計し直すことが、そこのコーナーの考え方の原理にある。 コーナー保育の中で、まず最初に製作コーナーをつくる。なぜ製作コーナーをつくるかというと、要するに子どもがモノとかかわって、何かをデザインする、つくり上げることが、個人レベルで達成感のある最も大事な活動だからである。ただし、それは一人ではできないから、保育者がその場に座る。家庭の中で母親が安定して座るのと同じように、保育者が安定して座るということを私は勧めている。ところが、普通の幼稚園というと、保育者が動き回らなければいけない。ところが、保育者が安定して座るということは、結局、保育者が精神的磁場としての心理的拠点をそこに示すということである。 同じ精神的磁場に先生がいることで、先生はそこにモデル行動を示す。そこに子どもたちの観察学習が成立する。 そこでとても大事なことは、コーナーにキャスターを置いて、モノを置く。きちんと道具や材料をそこに置いておく。そこは「勝手がわかる」ということだが、作業とモノの配置と場の関係を学ぶ場所がそこにある。 このような製作コーナーの場所に子どもたちが集まってくると、人間関係や、そこに群れが成立する。こういうことを製作コーナーで、保育者はモデルだけでほとんど指導せず、子どもたちが1時間か2時間ぐらいこの場所で何かをつくる。 そういうところで教師は一体どういう役割をするかというと、精神的に安定して幼児を迎えるという役割であり、モデルを演ずる役割であり、交流を受け、返す役割。なぜ「受け」というかというと、ここで保育者が製作をしているということは、教師がアクションで働きかけるのではなくて、受ける立場に回るということである。 同時に、保育者が拠点をはっきり示すと、室内にほかのままごとコーナーとか、ブロックコーナーがあるが、子どもたちが群れて遊ぶようになる。保育という仕事は、非常にかかわりを持つ遊びなのだが、かかわると全体が見えなくなる。そういう中で、全体を俯瞰しながら、一人一人の個に入っていくという両義性が眼として必要である。 これを実現すると、保育者が子どもたち一人一人の動きが見えるようになって、なおかつ適時、子どもたちの援助をするという形ができ上がり、そういう形で子どもたちが遊びを持続する。遊びを持続すると、最初は群れが見えてきて、その次に群れの中の関係が見えてきて、なおかつ、一人一人の動きが見えてくるという形になる。 そういう形で、もう一つ、ままごとコーナーというのは、製作コーナーよりもレベルが高い遊び場で、幼児集団の集団性を実現する場である。遊びの拠点性がトポスとして成立する。場を設定するということは、要するにトポスというが、子どもたちの活動が空間的拠点性を持つことは非常に重要なので、モノと子どもがかかわり、人とかかわる、その活動の集積が、毎日やることによって、拠点として成立してくる。そのような遊びの恒常的な関係をつくっていくことが大事だと思っている。 ままごとというのはイメージの遊びだと言っているが、実はそれは半分しかなくて、子どもたちの会話はそんなに自由に展開しない。時系列に展開しない場合に、例えばタコ焼き屋なら、タコ焼きをつくるという、無言の行為がごっこ遊びのイメージを進行させる。そのモノをつくるという行為とみたてがつながることによって、実はごっこのイメージが展開していく。それゆえに、みたてによる会話を持続させるためには、モノづくりが必要だと言っているわけである。モノづくりが成立する場というのは、イメージを実現する象徴空間でもある。 子どもがじゅうたんを敷いて、じゅうたんの横にきちんと靴を脱いで、境界線にくつを脱いている場合は、じゅうたんの中の空間は子どものイメージ空間として明確になっている。そのように、イメージ媒体としてのモノと言葉が結合するとともに、身体的拠点、そこに自分たちの居場所ができるということと、ごっこの場だという象徴とが結びつくようなままごとが成立してくる。 こういう意味で、ままごとコーナーと、製作コーナー、ブロックコーナー、ブロックは、モノを象徴化することで、独自のイメージ空間を創立する場であると考えて、こういうコーナーを部屋の壁面にセッティングして、安定したところに子どもたちが群れて、登園してくると1時間から2時間遊ぶ。 そこから子どもたちは外へ出ていくが、これまでの幼児教育で、実は子どもが外へ出ると、一人一人の動きを保育者が読めなくなってしまう。子どもの動きが分散していき、子どもたちは群れて遊べない。子どもたちは部屋の中で拠点性をつくって、群れをつくって、なおかつ出ていくと、子どもたちは外で群れて遊ぶ。群れて遊ぶと、保育者も子どもたちの群れの把握ができるようになる。 そういう方向で、現実に保育をやっていくと、子どもたちは午前中はびっちり部屋の中で遊んで、午後は外で遊ぶ。こうした遊びの拠点を用意することで、幼児集団の遊びが繰り返し展開することになる。こうした室内配置が保育所に常設されることで、幼児の集団的遊び活動の持続的展開が図られ、幼児の人間関係がモノの操作に媒介され、コーナーの空間性と結びつくことで、遊びのトポスが成立する。 さらに、この三つのコーナーが部屋の壁面に設置されることで、保育室がにぎわい空間となり、遊びに所属する子どもたちの相互の見る、見られるという関係が成立し、遊びが自力で展開する。保育者はそれを観察し、その動向を読みつつ援助を考える。こうした遊びの持続的展開の中で、幼児一人一人の動向を把握し援助していく。 部屋の隅に三つのコーナーができて、真ん中を広場にしろと私は提案している。そうすると、子どもたちの中に見る、見られるという関係があって、子どもは自分たちの活動を見られるということが、自己の活動のアイデンティティにつながる。つまり、相互がギャラリーになることによって、遊びのにぎわいとか、私は「盛り場空間」とも言っているが、そういうものが成立することで、子どもたちが持続的な遊びを展開するという戦略を立てて、これまでやってきた。 そういう遊びの集団性をこれまで何年か実践し、今は、外遊びに移っている。外遊びはどうするかというと、外遊びの場合に、三つの条件がある。 一つは、前田愛さんが伝承遊びの研究の中で、昔、伝承遊びには三つの型があると。それは循環型と、「はないちもんめ」のような応答型。もう一つは、「ことろことろ」というのは、これも一種の循環型の亜系だが、この三つが伝承遊び、集団遊びの基本系だということを前田愛さんが述べている。 世界各国の遊びの中に、応答性と循環系というのがある。この二つの遊びのモチーフを子どもの集団性の中に生かしていくと考えると、まず応答性の遊び、「はないちもんめ型」というのは、例えばドッジボールが「はないちもんめ型」になる。応答性を高める。そうすると、今までのドッジボールの場合は、長方形が縦長になるが、それを横長にすると、要するに応答性が高くなる。そのようにしてドッジボールの遊びが応答する。 もう一つ、循環系の遊びとしては、エンドレスリレーである。エンドレスリレーは、並んで、ポールを回ってきて、後ろにつくという遊びだが、これを循環すると、子どもたちは果てしなくやる。このような循環のイメージをつくる。サッカーも、5歳のサッカーの場合には、線を引いてやってもだめだが、真ん中で小さなパスを繰り返しやっていき、子どもたちの中に応答的な環境ができると、ボールが遠くに飛んでいっても、また持ってきてやるという応答関係が成立する。こういう遊びを園庭の中で繰り返すと、子どもたちの集団性の遊びが繰り返し行われる。こういう形で、遊びというものをどのように演出していくかということを、これからやることが必要だと私は考えている。 その場合に、実は園庭の場合に、固定遊具というのは、それぞれバラバラに子どもたちが遊ぶので、保育者がどのようにそれを援助するかというときに、個別的な援助になってしまう。そうすると、園庭全体の遊びをどう見るかという視点がなかなか見つかりにくいが、真ん中に応答的な循環型の遊びが盛り上がってくると、固定遊具遊びも盛り上がってくるという動きがあって、集団的なメカニズムをもっとつくっていくことによって、幼児の遊びをより活性化する必要があると私は考えている。 これまで皆さんの御見解の中で、遊びの重要性が語られているが、遊びを豊かに発展するということに取り組んでいる園では、こういう活動が2時間ぐらいにわたって子どもが遊びを続け、子どもたちの自主性が出てきている。 【質疑応答要旨】
![]() 【意見発表要旨】 私の専門は教育人間学という分野なので、子どもの人間としての育ちというものに焦点を当てて、それを誰がどこでどう保障していくのかという観点からずっと考えてきた。そういう視点で、幼稚園、あるいは保育所などが、どういう役割を果たすべきなのかということは、時代、時代によって、少しずつ変わっていくだろう、いかなければいけないという思いを持っている。 現代の社会、それから、これからの社会を考えたときに、幼児教育が何を課題とするのか、どういう人間形成を目指すべきなのかというあたりについて考えるときの背景で、念頭に置いておかなければいけないような問題についてお話をさせていただきたい。 子どもたちは、長い人類の歴史の中で、少なくともここ数百年の間をとってみれば、そうだと言えると思うが、三つの場で幼いころを過ごし、そこで様々な人間的な訓練を受けたのだと思っている。 一つは、その子どもが産み落とされた家庭。ただ、親類が近所にみんな住んでいるという家庭から、各家族まで様々な家族を含むし、家庭といっても一言ではくくれない。しかし、そこで親から丁寧な養育を受けて、心の深いところで、生きるということをめぐる安心感とか、他者への信頼感とか、あるいは自分は何かあったら誰かに最後は助けてもらえるのだというような自己への信頼感とかを丁寧にはぐくまれた。あるいは、言葉をそこで親から丁寧に教授された。しつけの基本のようなところも、やはり家庭で行われた。これは長い人類の歴史の中で変わらないことだと思う。それを私は「一次的社会化」と呼んでいる。 それに対して、子どもが少し大きくなると、かつて、子どもが3歳、4歳になっても、朝から晩までずっとつき合ってやることはほとんど不可能であった。小さいときは、野良仕事に出るときに、たらいのようなところに子どもを入れておいたり、背中におんぶしたりして、やがて歩けるようになると、子どもを少しずつ外に出してしまう。ある程度自分で行動できるようになると、その地域の集団に預ける。そこで、子どもは、異年齢の集団に徐々に巻き込まれる形で、遊び、その他の世界に引き込まれていく。 そこで、人間として生きていくときの非常に大事な基礎力を訓練されたのだと私は思っている。例えば、あちこちを走り回る、がけを平気で登る、木にも登れる、ちょっとした冒険もできる。それから伝承遊び、こまを回すとか、体の器用さ、手先の器用さ、あるいは協力する、時にはけんかもする、そういう社会性。さらには、大人になったときに、私たちが幼いころをふと振り返って、心の原風景のようなものを時々思い浮かべるが、実はそこの原風景が豊かであればあるほど、人間は心の中にある自分らしい、安定の世界を得られるのだと思う。そういう心の原風景というのは、実はほとんどの人が、地域社会の中で遊んだ風景を思い出す。それはその世界で、自分で一所懸命ここで何かをやった、ここで何かを創造した。その蓄積のある世界を私たちは心の原風景としていくのだと思う。それは人間形成論からいうと、とても大事なきっかけになっている。 そうした身体の諸能力、遊びのノウハウと体の器用さ、あるいは挑戦心とか、冒険心、社会性の基本、そして心の原風景というようなものは、地域社会の中にほうり出されて、そこで身に付けたのだと思う。そこで、そうやって身に付ける人間的な諸力を促す働きを、私は「二次的社会化」と呼んできた。 そして、二次的社会化と一次的社会化を前提とした上で、例えば昔であれば寺子屋とか、最近では幼稚園とか、学校という定型的な教育機関、制度的・組織的な教育機関で、遊びの中では身に付かない読み書き能力とか、集団的規律とかのまた別の形態を訓練されていく。特に知的能力の育ちということが大きいと思うが、それを私は「三次的社会化」と呼んできた。 実は、長い間、人類は一次的社会化、二次的社会化、三次的社会化という三つのソーシャライゼーションというきっかけを経て、少しずつ自立した人間として成長していったわけだが、現代の社会はこの三つのバランスを著しく損なうようになってきた。二次的社会化ということがほとんど不可能になってきた。 二次的社会化というのは、わかりやすく言えば、地域社会の中に子どもを放牧し、夕方になったら、母親が迎えに行く。そしたら帰ってきて御飯を食べさせ、そこでしっかりと団らんを楽しんで、寝かせる。 そうした放牧環境がなくなって、二次的社会化ができない中で、どこかが引き受けなければいけなくなっている。それを実は、一次的社会化の中に取り込み、そして三次的社会化の中に分配するという形になっているのが現代社会だと思う。 実はそのために、一次的社会化と三次的社会化が様々に変容を強いられている。家庭でやらなければいけない項目が圧倒的に増えてきた。子どもの遊びも、一々親がそばについていって、様々に学ばなせなければいけない。子どもの体の育ちも親が保障しなければいけない。 さらには、幼稚園が単なる三次的社会化の教育的な機能だけではなくて、二次的社会化でこれまで身に付けてきたようなものを、ある程度そこで引き受けなければいけなくなってくる。しかし、二次的社会化をそのまま再現することができないのであれば、結局、一次的社会化と三次的社会化に新しい工夫をもたらす以外に、人間がうまく育つシステムはつくれないというふうになっているのだと私は思っている。 実際には、家庭の中での一次的社会化に様々な課題が増えてきた。そして、子どもの体の育ちも、社会性の育ちも、基本的には家庭の中で行わなければいけないので、すべて母親の責任であるというプレッシャーがかかってきた。したがって、高学歴化してきた女性が、ひたすら家事ではなく、育児の世界に自分の力を発揮しなければいけないというふうに構えていく。しかし、実際にそこらを走り回って身に付けるしなやかな体の能力を、家庭の中で育ててやることは大変である。そのために、どうしても親は短気になるし、自分の育児目標に沿わないと、子どもに対して非常に厳しくなってしまう。 そこで、子どもに対する体罰が横行したり、あるいはテレビとか、ビデオに子守をさせたり、幼いころから習い事をいっぱいさせて、外注化したりということが、あちこちで起こる。人によっては、育児放棄ぎみになってしまう。 そういうことが現実にあちこちで起こってきており、苦しんでいる親たちに、社会的なサポートをどう施していくのかということと、そうした環境の中で育った子どもの保育をどう考えるのか。これが現代の教育問題として深刻に持ち上がってきていると思っている。 私は、現場の先生方と臨床育児保育研究会というのを立ち上げて、そういう子どもたちの事例を、何年間も議論してきたが、そこで、例えば以前に比べて、そうした二次的社会化が不十分な環境の中で育ってくる子どもたちが、家庭の中で不必要な干渉を受けたり、あるいは必要な体験をさせてもらえてなかったりという形で、育ちに懸念を感じさせる子どもが増えている。ここで三つのことだけを取り上げてみた。 一つは、体の育ちに対して大変懸念があるということ。 二つ目は、自尊感情。 三つ目は、子どもたちの対他関係能力と社会性。 例えば、身体ということでいうと、ある幼稚園の園長と話していたら、80年代のある時期まで、入園したばかりの3歳児を土手に連れていって、「さあ、これから土手を登って遊ぼう」と声をかけると、みんな喜んで土手を登って遊んだというが、現在、そういう遊びをやると、パニックになってしまう。「怖い」「嫌だ」と言って泣くという形で、遊びが成立しなくなってしまう。 結局、体というのは、例えば木に登れることができるようになると、体がいわば記憶する。小脳と筋肉で。そうすると、木を見たときに、〈これだったら登れそうだ〉という形で、どんどんチャレンジして、体自身がどんどん発達を要求していく。 これが逆に、どこかちょっと移動するのも、車やバギーで移動するという社会になっているから、自分の体でこういうことをやってみたいという欲求がなかなかわいてこない育ち方になっている。 そういう体の育ちぐあい、小学校の50メートル走とか、ソフトボール投げという記録が、90年代以降、年々下がってきているというふうに、以前に比べてマイナスの傾向が出てきている。工作とか、料理をつくることは、すべてある意味では体に記憶されていくから、体が文化によって刻まれていない。文化化した体が十分育っていないということは、やはりある種の危機だと思っている。 それから、自尊感情というのは、子どもは自分で遊びを選び、自分で達成して、自分に対する信頼感を高めていく。それを他者とのかかわりの中でやっていく。 ところが、初めから「これをやってごらん」ということで、行動を自分で選択しているわけではないということが増えてくる。それから、先ほど「宙吊り」という言葉があったけれども、そういうときにどうしても過干渉になってしまう。やれたのだけれども、自分でやったという感じがしない。 そういうことが繰り返されていくと、自我の深いところに、自分は自分の主人公であるというような感覚がうまくはぐくまれなくなっていってしまう。これは日本の子どもだけが、とりわけて自尊感情が低いという調査があり、これが大量の不登校とか、引きこもっている若者たちの現出とどこかでつながっているのではないかと思っている。 そのことは当然、自分がどう評価されているかということを過剰に気にするということになっていくので、対他関係を上手に切り開いていくことが苦手になっていくという問題となっていく。 これは一例であるが、現在の二次的社会化がうまく機能しないという環境の中で、一次的社会化、三次的社会化に十分なサポートがないと、どうしても子どもの育ちに無理が生じてくる。それを引き受けて、実は幼稚園教育は行わなければいけないのだと考えている。 このことは同時に、自分で面白がって、自己選択しながら選んでいく遊びが、非常に貧困になっていく。そうなると、いわば手にとって考える、自分で体を動かしながら考えるという、私は「能動的知性」と言っているが、そうした能動的知性の育ちにも十分な刺激環境がなくなってしまう。自分から面白がって様々にチャレンジしていくことが、逆に身体化されないということになると、それらが広い意味での学力低下問題の裾野をつくっていってしまうという問題をまた感じている。この間の学力低下問題が、計算力とか何かに特化されていたような気がするが、実は私はもっと大きな問題があると思っていて、学力低下問題がもしあるとしたら、それはまさしく幼児教育の問題だろうと思っている。 そういうことを総合すると、現在の幼児教育のもう1回課題の見直しと、様々な課題を背負って入園してくる子どもたちに、非常に上手に的確に援助していく、場合によったら指導していく、そうした幼稚園教師の専門性をもう一歩高めていかなければ対応できなくなっているだろう。中には、アスペルガー、自閉症、スペクトラム、あるいは将来、ADHDになるのではないかという子どもたちを引き受けながら、かつ、集団を上手にコントロールしていくという力は、相当なものが要求されている。そういう専門性をどう高めていくのか。 園ごとに保育の集団カンファレンスのようなことをきちんと方法化して、定着化させていく等の努力を始めないと、今、幼稚園は大変になってきていると思う。 そのことは当然、家庭で子どもを育てている保護者自身が大変戸惑っているということでもある。保護者への育児支援がある意味では必然化しているということと、それに幼稚園がどうかかわれるかということが、課題化している。 実は今、教育とか保育が大変難しくなっている一つの根本的な要因は、社会の変化が激し過ぎるということだと思っている。世代ごとに背景社会が全く異なっている。 例えば私の場合、親が生きた時代は、基幹産業は農業で、農業社会でありました。しかし、私は60年代に青年時代を過ごした、いわば工業社会の落とし子である。そして、私の子どもなどは脱工業社会、IT社会である。 親と子と孫がそれぞれ全く価値体系が異なる社会の中で暮らしているという変化を、人類はたぶん体験したことがないのではないか。 人間形成を考えると、親が持っている価値体系を、そのまま自然な形で子どもに伝えられれば、これほど子育てはやさしいことはない。ところが、社会の変化が激しいためにそこが伝わらなくて、未来社会が見えなくなる。かつ価値観を育てていかなければならない。つまり、しつけをどうしていいかわからなくなる。 社会で生きていくときの基本的な価値観を親から学んだというよりは、個別に自分で自己調達せざるを得なくなったというのが、現在の世代の特徴だと思う。例えば携帯が登場したら、その携帯をどうするのかということで、携帯をめぐるモラルというのは、別に親から教えられるわけではなくて、自分たちでつくっていく。基本的価値観の個別調達を強いられた世代というのが現在の特徴だと思う。 そのために、育児とか、人間形成の様々な文化が、基本的には家庭の中で伝達していくことがその底流になければいけないが、その家庭内の伝達はもちろん今でも強く行われているが、家庭の持っている問題点やメリットがそのまま子どもに強く伝達されてしまう。したがって、例えば、親が、子どもが幼いときに熱心になりすぎて、子どもが「習い事をいっぱいさせられて、子どもの時は楽しくなかった。」という経験をしていると、そのことだけ強く伝達されてしまうので、その人が親になっても同じことをしてしまう。そして、自分の幼いころのネガティブな感情を子どもに投影してしまうということがしょっちゅう起こって、子育てに苦しんでということが起こっている。そういう意味で、基本的な価値観の伝達が個人化された世代のしんどさというものを私は感じている。その上、被教育体験が特殊な世代だと思っている。なぜかというと、80年代あたりに子ども時代、青年時代を過ごした人たちが、今、親になっている。80年代というのは、日本の教育が様々に矛盾を抱え始めたとき。いじめ、不登校が始まり、学校へ行ったときに、どうやったらいじめられなくて済むか、どうやったら本音を言わなくても済むかということで、対人関係の距離のとり方に苦労してきた世代。そういう人たちがそのまま親になって、自分をいかに守るのか、自分を守ることにすごく関心があるが、他者が困っていたら、何とかしようということを最終的に発想するということは、訓練を受けてこなかった。 そういう人たちが親になってくるので、仲間をつくって子育てをしようと言われても、理屈ではよくわかるが、なかなかそこに一歩を踏み出せないとか、つくった仲間の中での対人関係でまた気遣いをしてしまうということもしょっちゅう起こっている。 もう一つ、この世代は、幼いころに、遊びの中で宙吊りの体験をしながら、〈できた〉〈ヤッター〉という体験が、既にあまりできてない世代である。宙吊りの体験というのは、プラスでもマイナスでもない、あるいはマルでもバツでもない、その中間の世界が面白いのだということを訓練する大事な場になっていたと思う。社会に出たら、プラスかマイナス、あるいはマルかバツかという二分法で判断できる世界はそんなにない。 ところが、学校の教育は、基本的にマル、バツで行われている。かつ子育ても、できたら褒めてもらう、できないとしかられるという環境で育ってきたので、中間的な世界で思考するのが苦手な人が多い。 しかし、子どもを育てるのは二分法的思考ではうまくいかない。子どもが何か一所懸命熱中しているときに、それはマルでもバツでもない。充実している世界が、いわば親にとっても喜びでなければいけない。 もう一つは、育児の基本的なノウハウを身体化するということが非常に少なくなっている。遊びを体ぐるみで覚えてきた人たちは、体で対人関係のスキルを身に付けていく。だけども、既にそういう体験があまりないので、対人関係の身体的コミュニケーションということが意外と苦手である。しかも、対人関係への気遣いが強く育っているので、対人関係のある種の緊張感が強い。ところが、育児というのは、赤ちゃんがちょっとニコッとしたら、〈アッ〉と感じて抱いてやるとか、ちょっと手を動かしたときの仕草が、明らかに私を呼んでいると感じる。そういう具体的な身体的スキルの積み重ねである。そういうところがすごく苦手になっている。 ちょっと調べてみたところ、保育園の0歳児クラスで、だっこを嫌がる子どもたちが、全国で20数%いた。家庭の中でもあまり抱かれていないのではないかということが予想されたが、実は抱き方がよくわからない、おっぱいの与え方がよくわからない、あやし方がよくわからないという人たちがものすごく増えている。子守歌も私は知らないという人もいる。それから、あやし方を知らないのではなくて、「あやす」という言葉も知らない世代が登場してきている。 そういう意味で、最近の母親はマニュアル志向だと言うが、そうではなくて、マニュアルを知らないから苦労している人が多いのだというふうに私は感じる。だとしたら、そういう親たちに対して、もっと親としてしっかりしろと言うよりも、こうやってだっこしてやればいいのだということを実地で学んでいってもらう場を、社会であちこちつくっていくしかないのではないかと感じる。 そういうことも含めて、現在の親世代に対するサポートは、一次的社会化の中に二次的社会化がたくさん入り込んできて、何も訓練されたことがない親が大変難しい育児を強いられているということを深く理解した上で、その大変さに共感して、その親を深いところからサポートしていくということをあらゆる教育機関で始めなければいけないのではないか。 そのために、幼稚園などが、例えば日常の保育のある部分に、親に参画してもらうとか、実際に子どもとかかわって遊ぶようなことを親自身にも体験してもらうとか、あるいは幼稚園の中で親自身がサークル活動をやりながら、そのサークル活動の成果を子どもたちに披露してもらうとか、もっと実際に体を使いながら覚えていくような体験の場をつくっていくことをやらないと、なかなかそれができなくなっているような気がする。 幼稚園が行える親支援の中身について、励ますとか、頑張れと言うのではなくて、ノウハウをきちんと身に付けさせていくというところから考え直さなければいけない時代になってきているのではないか。 【質疑応答要旨】
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