二 学制の制定

近代教育制度制定の準備

 文部省が設置されると、文部省はただちに全国民を対象とする教育制度を創設する準備に着手した。そこには三つの側面を認めることができる。第一は新しい制度の模範とすべき欧米教育制度の調査研究であり、第二は国内の教育の実態調査であり、第三は直轄の学校を設置して新しい教育を実地に試みることであった。ここではまず第二、第三について簡単に述べ、次に第一について述べることとする。
 
 全国の教育の実態調査については、明治四年九月十九日に文部省から正院に対して「府県学校取調之儀伺」を提出し、その中で今度学制改革を実施するためには、従前府県等で施行していた教育の状況が不明では不都合であると述べ、実態調査の意向を明らかにしている。次いで府県に対する文部省達により、「今度学制改革致候ニ付テハ従前府県等ニテ施行イタシ居候諸学校病院ハ勿論其人員等別紙雛形之通取調当年中ニ当省へ差出可相成候事」と述べ調査表の様式をも示して、諸学校・病院および私塾等についての調査を求めている。その調査表の様式によれば、校名、教授学科名、教員数、生徒数、一年間の経費等を調査して記入することとしている。文部省は、このような実態調査を学制を制定する一つの基礎として企画したのであった。この調査結果が学制にどの程度利用されたかは明らかでないが、文部省が学制を制定する準備として行なった調査として注目すべきであろう。
 
 文部省が東京府の学校を直轄とした後、四年十二月の布達によって新しい共立の小学校および洋学校の設立を企図したことについては先に述べた。このことが学制を制定する準備の一環として、教育内容・方法等の実地研究の意味をもっていたことは、同年九月文部省から太政官に対する伺文によっても知ることができる。これによれば、文部省は東京府の学校を受け取ってこれを改め、学則等を定めて実地に研究し実効が現われたならばこれを各府県にも施行し、全国一様な教育の改革を実施したいという文部省の構想を明らかにしている。またその上で右の学校は再び東京府に引き渡す考えであることも述べている。文部省では右の共立小学校のほか、さらに多数の小学校を東京府下に設立する企画もしたようであるが、これは実現を見なかった。ともかく右の共立小学校の設置は、文部省として学制を制定するための準備であり、学制後の小学校教育の実地研究を意図していた意味において重視すべきものである。
 
 近代教育制度を制定する準備として、右の全国教育の実態調査や直轄の学校による実地研究よりも、さらにはるかに重要な意味をもっていたものは欧米の教育制度の研究であった。明治維新後の文明開化の思潮とともに、欧米の教育制度の研究や紹介も早くから行なわれていた。そこで文部省が設置されたころにはすでに欧米の教育制度の実情がかなり詳細にわが国に紹介されていたものと見るべきであろう。福沢諭吉の『西洋事情』(慶応二年)などにも西洋の学校制度の大略が紹介されているが、明治維新後には内田正雄訳・開成学校出版の『和蘭学制』(明治二年)、小幡甚三郎訳・慶応義塾出版の『西洋学校軌範』(明治三年)などがあり、欧米の学校制度を紹介した書として著名である。また河津祐之・佐沢太郎訳、文部省刊行の『仏国学制』(明治六年~九年)は学制発布後に出版されたものであるが、フランスの学制は当時注目されていたので、その内容は早くから知られていたものと推測される。
 
 明治四年七月文部省が設置されると、ただちに全国に施行すべき学校制度をいかにして立てるかという最初の課題に当面した。その際欧米の教育制度を模範として、わが国に近代学校制度を創設することを基本方針としたのであった。そのことはすでに四年八月から文部省において欧米の教育制度に関する文献を収集し始めていることからもうかがうことができる。たとえば東京大学所蔵文書『明治四年文部省並諸向往復』中に仏書ドロワ・アドミニストラチーフ中教育之部翻訳について交渉をした文書がある。この文書は四年九月二日付となっているが、それによってすでに八月中にその書の翻訳のことが文部省内において決定せられ、それを南校へ依頼していたことが明らかになっている。この翻訳が学制起草の際に資料として使用されたか否かは明らかでないが、文部省創置直後にフランス教育法規の翻訳を開始していることから考えても、新日本に施行すべき学校制度案を起草する問題がいかに重大視されていたかを知ることができる。このほか、ドイツ(プロイセン)の学校制度と関連して、東校の医学教師ホフマン(Theodor E.Hoffmann)の学校建議などもあり、欧米の教育制度を模範とする学制起草の準備がしだいに整えられていた。
 
 右のように、明治維新後は早くから欧米の教育制度がわが国に紹介されており、また学制起草に際してさらに調査研究が重ねられた。その際学制は、単に特定の一国の制度のみを模範として定められたものではなく、多くの国々の教育制度を参考としたと見るべきである。たとえば学区制などの制度の大綱はフランスの制度を模範としたと見られているが、オランダの制度と類似の点もあり、また教育内容の上ではアメリカ合衆国の影響が強いと見られるなど、けっして一律ではない。おそらく学制を分担起草した各委員との関係も大きかったものと考えられる。
 

学制の起草と公布

 文部省が学制草案の起草に正式に着手したのは明治四年十二月であったと見なければならない。そのことは「学制取調掛」すなわち学制起草委員がこの時に任命されていることから明らかにされている。学制取調掛としてどのような人々が任命されたかは東京大学所蔵の文書によって知ることができる。
 
 学制取調掛として任命された人々は次のとおりである。
   文部少博士兼司法中判事 箕作麟祥
   従五位   岩作 純
   編輯助   内田正雄
   従六位   長  光
   文部少教授 瓜生 寅
   編輯権助  木村正辞
   正七位   杉山孝敏
   従七位   辻 新次
 右学制取調掛被 仰付候事
  辛未十二月二日
   文部大助教 長谷川泰
         西潟 訥
   文部少録  織田尚種
 右学制取調掛申付候事
  辛未十二月二日
   右之通候条此段及御達候也
  辛未十二月三日
 * * *
      編輯助  河津祐之
   学制取調掛被  仰付候事
  辛未十二月十九日
 
 右のように、四年十二月二日にまず一一人が任命され、その後同月十九日に一人が追加され、右の一二人が学制取調掛となっていることを知るのである。この一二人を一覧すると、多くは当時の著名な洋学者であることがまず注目され、国漢学者と見られるのは長光(ひかる)(三洲)と木村正辞の二人である。箕作麟祥はフランス法制の権威であり、その地位と学識から見て起草委員長ともいうべき地位にあったと考えられる。辻新次と河津祐之もフランス学者であり、河津は「仏国学制」の訳者である。内田正雄はオランダに留学した人であり、「和蘭学制」の訳者である。瓜生寅は英学で知られた人である。箕作・内田・瓜生・辻・河津の五人は開成学校・南校系統の人々である。岩佐純と長谷川泰の二人は医学校・東校系統の人で、西洋医学・ドイツ学を代表している。残る杉山孝敏・西潟訥・織田尚種の三人は行政事務関係者といえよう。これらの委員はそれぞれの立場を代表して学制の起草に関与したことであろう。しかし全体として洋学関係の人々が圧倒的に多いことから見ても、欧米の教育制度を参照して学制を制定しようとした意図は明らかである。
 
 学制取調掛が四年十二月に任命されたが、その後学制の起草は急速に進められ、翌五年一月には学制の大綱がまとめられ、さらに細目について立案検討を重ねて、約二か月後には早くも学制原案が成立したようである。右の学制の大綱は学制の基本構想を示したもので、五年一月四日付けで大木文部卿から太政官に上申している。これによれば、国家の「富強安康」のために学制を制定して全国に学校を設ける必要のあること、その学制は「万国学制ノ最善良ナルモノ」を採用すべきこと、人口を基準にして全国を七または八地区に区分し、そこに大学を各一校、中学小学を若干校設けるべきこと、着手の順序としては在来の諸学則を廃止し、教育の方法を一新し、すべて新しく定めた学制に準拠させることなどをあげている。すなわちそこには全国民を対象とする近代学校制度の構想が示されており、大学区を設定して学区制を採用する学制の基本方針もすでに明らかにされているのである。

 学制の原案が成立すると、学制実施の関係文書とともに太政官に上申された。それは三月上旬ころと推定される。この時学制本文(学制草案)とともに提出されたと見られる文書は、学制の制定に関する伺文のほか、1)学制の趣旨声明書(のちの太政官布告第二百十四号)、2)学制公布に際し府県への布達文(のちの文部省布達第十三号)、3)学制の着手順序、4)教官教育所(のちの師範学校)の設立関係文書、5)学校系統図、6)文部省予算書などである。文部省から太政官に上申した学制原案は、まず左院で審議されたが、左院は文部省の原案を全面的に支持して、学制の即時断行を答申した。それは三月二十九日のことである。そこで学制の審議は正院に移されたが、ここで学制原案は大きな暗礁にのりあげることとなった。正院の審議で特に問題となった点は、学制実施に伴う経費のことであり、文部省の提出した予算案に対して、大蔵省は国家財政の立場から強く反対したためであった。そこで学制は経費の点を未決定のまま実施されることとなり、六月二十四日付けで太政官において学制案が認可された。その後文部省は学制の条文中府県への委托金(国庫交付金)に関する部分を欠字として抹消したまま学制頒布の準備を進めた。一方、大蔵省との折衝を重ねたが結着を見るに至らず、学制は財政的裏づけが未確定のまま発布されることとなった。政府は五年八月二日学制の趣旨を宣言した太政官布告(第二百十四号)とともに「学制」を公布し、文部省は翌八月三日(太陽暦九月五日)「文部省布達第十三号および第十四号」を発して右の太政官布告をそえて「学制」を全国に頒布したのである。布達第十三号では、今般学制が定められたので従来府県で設立している学校はいったんことごとく廃止して、学制に従って改めて学校を設立すべきであると述べている。布達第十四号では、太政官布告および学制を府県に送付する旨を述べてその実施を要請しているが、経費の点はなお未決定であるとしている。
 

学制の教育理念

 学制を公布するに当たって発せられた太政官布告第二百十四号は、学制の基本精神を明らかにしたものであり、学制公布についての政府の宣言書である。文部省はこれを学制本文の前にそえて全国府県に頒布したので、学制の前文に当たるものであり、当時はこれを「学制序文」とも呼んでいる。また「御布告書」あるいは「勧学の御布告」と呼ばれ、また結びの文に「右之通被仰出候」とあるところからのちに「被仰出書」とも呼ばれるようになった。
 
 学制序文(被仰出書)は、学制の教育理念を明示したものであり、新しく全国に学校を設立する主旨を述べ、また学校で学ぶ学問の意義を説いている。そこに示されている教育観・学問観は従前の儒教思想に基づくものとは明らかに異なっており、これを批判し排除する立場に立っている。すなわち欧米の近代思想に基づくものであり、個人主義・実学主義の教育観、学問観である。また四民平等の立場から、学制は全国民を対象とする学校制度であることを強調している。この太政官布告の全文は資料編に収められているとおりであるが、次にはその内容の要点について述べることとする。
 
 太政官布告は、「人々自ら其身を立て其産を治め其業を昌にして以て其生を遂るゆえんのものは・・・・・・」で始められているが、まず学校を設立する主旨を述べている。人が立身出世し、悔いのない生涯を送るためには学問を修めなければならない。この学問のために学校はなくてはならない働きをもっている。そして人は学校という機関をとおして勉励してこそ、はじめて立身出世できるのである。人間がその身を滅ぼすのは多く不学にその原因がある。しかし、従来一般の人々は学問をするのは身分の高い人に限るとして、学問の必要性を認めていなかった。何のために学問をし、学問がいかなるものであるかの認識がきわめて乏しかったのである。そこで、文部省はここに学制を定めて従来の民衆の学問に対する考え方を改めさせ、一般の人々にひとしく学問を授けることを計画し、それが実現することを希望するのである。学齢期の子女をもつ父兄は何はおいても必ずその子どもたちを小学校に入学させるよう心掛けなければならない。
 
 この太政官布告の中に示されている学校教育の考え方はきわめて明白である。学校が究極において目標としていることは「人々各々その身を立て、その産を治め、その業をさかんにする」ようにさせることに帰着する。この立身・治産・昌業のためには、人々すべてその身を修め、智を開き、才芸を長ずることが緊要である。学校は、身を修め智を開き才芸を長ずることを学ばせるところで、人はその才能天分に応じて勉励して、このような学問に従事すべきである。学問は立身に欠くことのできない財本で、すべての人が学ぶべきものである。従来学問を国家のためにするなどと考えて、それが立身の基礎であることを忘れたような沿襲の弊はこれを根本から打破すべきであるとしている。この新しい学校についての考え方と従来の学問教育を批判した言葉とは、きわめて巧みに表現された近代学校観であるといわねばならぬ。「邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめんことを期す」という大きな抱負をもって、全国民の前にまさに施設されようとしている学校は、立身・治産・昌業のために役だつものでなければならないと宣言している。近代産業生活に役だつ国民教育施設としての学校とその精神とが近代学校の旗印として高く掲げられている。学校の教育を受けなければ、自分の身を立てその繁栄をうることができないという教育観は、わが国に移し植えられた近代教育と離れることができない関係をもって最初から存在していたのである。学校が発展して膨大な組織を持ち、その機能を表わすようになると、この学校観もまた広く国民の間に浸透するに至った。
 
 各府県は太政官布告の精神を体してこの新しい学校観を管内に普及させ、学校の設立と就学を訓諭した。地方によってはこの太政官布告を解釈してこれを一般に配布し、広くその教育の趣旨を徹底させようとした所もある。たとえば山梨県において出版した『学制解訳』という小冊子などは布告の各字句を解説したものである。また多くの府県においては、学制に基づく学校施設を実施するに当たって就学の告諭を発し、近代学校の考え方を講述し、すべての人がこの学校教育を受けるべきものであることを説いている。
 
 明治五年に公布された学制の中にある学校についての考え方は、徹底した近代学校の精神によるものである。学制の方策に基づいて急速に学校が設けられるにつれて、この学校精神が全国すみずみにまで達し、教育や学校に関する思想をしだいに改変したのである。この新しい教育観・学校観が、その後何十年後に至るまで人々の考えを決定し、学校の性質を規定し、国民生活の根本をも決定してきている。このようにして学制の公布は日本の教育に一時期を画することとなったのである。
 

学制の性格と構成

 学制の中に規定された学校制度の基本的性格として最も重要なことは、維新以来の新政府の教育政策の中に残存していた二重系統の学校組織を承認する考え方を捨てたことである。すなわち学校はこれを小学・中学・大学の三段階として組織し、これを全国民に対して一様に開放し、単一化された制度を確立するようになったことである。この方針は先に述べた太政官布告の中にすでに明確に現われており、「自今以後一般の人民」は必ず学校に入学すべきものであるとし、「必ず邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」と宣言したのであるが、その際一般の人民とはいかなるものを表わすについて註釈を施している。すなわち「華士族卒(誤謬訂正により卒を追加)農工商及婦女子」として華族から農工商に至るまですべての人に対して一様に教育が施されることを制度の土台としたのである。またこの布告文の中に「高上の学に至てはその人の才能に任かすといへども幼童の子弟は男女の別なく小学に従事」せしめなければならないとしていて、特に小学校の教育が国民全部に対して一様に課せられるべきものであることを明確にしているのである。小学校以上の学校教育に関しては才能に任すとしているが、その際に小学校を卒業したものはすべて一様に上級の学校に進学する機会を持つものであることを示しているのである。
 
 従前の学校教育に対する一般の考え方は、学問をなすものは武士以上のものとされており、一般人民は必ずしも組織的な教育機関において学ばなければならないとは考えられていなかった。寺子屋・私塾などが一般人民のために設けられていたけれども、ここに通学するか否かは自由であって特に拘束を受けることはなかった。このような学校に対する考え方を改めるということも学制における根本方針の一つであって、太政官布告の中に「自今以後此等の弊を改め一般の人民他事を抛ち自ら奮て必ず学に従事せしむべき様心得べき事」として、学校への入学に関する強制力を発揮しようとしたのである。もし学制発布後であっても従来のような学校に対する考えをもって子弟を取り扱っていたならば、学校に入学する者としないものとに二分されて、結局新しい制度は国民全般に開放されたことにならず、近代的な学校の成立が危ぶまれることとなる。このために小学校にはすべての子弟が必ず入学しなければならないという近代学校制度に欠くことのできない基本方針が明確に宣示されたのである。
 
 このように学制における学校制度の根本方針は国民のあらゆる階層に対して一種類の学校を用意するという考えにおいて徹していたのであって、この点をどこまでもその言葉のとおりに実現したところに今日のような進歩した学校の組織に到達することのできた端緒があったと見なければならない。すでに述べたように江戸時代以来武士のための学校と庶民のための学校とは別個に構成されていたが、明治維新後はこれを一つに合わせて組織したところに、学制のもつ教育史上の重要な意義を認めなければならない。
 
 明治五年八月に公布された学制は一〇九章からなり、その内容は「大中小学区ノ事」、「学校ノ事」、「教員ノ事」、「生徒及試業ノ事」、「海外留学生規則ノ事」、「学費ノ事」の六項目によって構成されている。その後六年三月に学制二編として条文が追加され、「海外留学生規則」、「神官僧侶学校ノ事」、「学科卒業證書ノ事」が定められた。また同年四月には「貸費生規則」をはじめ、学校設立伺・開業願の書式、学士の称号などの条文を追加した。同月さらに学制二編追加として、専門学校および外国語学校に関する規則などを定め、その後も条文の追加があり、学制の全文は二〇〇章を越えている。また学制は公布後誤謬の訂正があり、その後条文の改正のほか、条文の追加および削除も行なわれている。学制に定められている教育行政組織および学校制度については項を設けてのちに考察することとし、ここではその他の主要な事項について概略を述べることとする。
 
 学制において注目すべきものの一つは「海外留学生」に関する規定である。欧米文化を摂取することは当時の急務であり、幕末以来多数の留学生が海外に派遣され、政府は明治三年十二月に初めて海外留学生規則を定めていることは先に述べた。このような背景のもとに学制の中に詳細な海外留学生規則が定められたのである。公布当初の学制では第五八章から第八八章まで三一章にわたって規定している。これによると、海外留学生はすべて文部省の管轄に属すること、留学生を官撰留学生と私願留学生の二種とし、また官撰留学生を中学卒業を資格とする初等留学生と大学卒業を資格とする上等留学生の二種とすること、その他出願選考の手続、年限、定員、学費、留学中の心得、帰国後の義務などについて定めている。六年三月に学制二編によって学制の条文を追加し、海外留学生規則を定めたが、これは四四章に及ぶさらに詳細な規定である。この規則は右に述べた規則を改正し増補したものである。海外留学生について学制の中にこのような詳細な規定を設けたことは、当時の政府が近代日本を建設するための人材の養成と教育の近代化の観点から海外留学生の制度をいかに重視していたかを示しているといえよう。
 
 次に「貸費生規則」すなわち育英奨学制度について定めていることも学制の一つの特色と見ることができる。第五二章から第五五章までが当初の規定であり、学業が優秀で学資に困窮する生徒に対して学資を給貸することについて定めている。そこでは貸与期間、公務従事義務年限、償還年限、出願手続き等について定めている。またこの規定に基づき五年九月に「貸費生徒検査法」すなわち貸費生の選考に関する規定を定めている。さらに六年四月には学制の条章を追加し、一七章にわたる詳細な「貸費生規則」を学制中に定めた。このように育英奨学制度が整備されたが、その後この制度に対する文教政策の変化により、六年十二月に学制中の貸費生規則を廃止し、別に「官費生規則」を定めた。これは貸費を主とする全国的規模の育英奨学制度を官立諸学校等に在学する少数者への給費制度に改めたものといえるが、七年十月にはこの官費生制度も廃止した。これによって、公布当初の学制に示された国の育英奨学制度の構想は、全く姿を消した。
 

教育行政組織

 学制は第一章から第一九章までを「大中小学区ノ事」として教育行政組織について定めている。学制の頒布に先だって文部省は創置されていたが、学制はまず第一章において、全国の学政が文部一省に統轄されるべきことを定めている。次に学校制度を実施するための機構として学区制を採用し、これについて規定している。それによると全国を八大学区にわけ、各大学区に大学校一校をおき、一大学区を三二中学区にわけ、各中学区に中学校一校をおき、一中学区をさらに二一〇小学区にわけ、各小学区に小学校一校を置くこととした。すなわち全国に大学校八、中学校二五六、小学校五万三、七六〇をおく予定であった。そして、これは、人口約六〇〇に対して小学校一校を、人口約一三万に対し中学校一校を置くことを目標としたものであった。
 
 学区は学校設置の基本区画を構成したばかりではなく、また教育行政の単位でもあった。大学区には大学本部ごとに「督学局」を設けて督学をおき、その大学区内の教育行政を監督することとしたのである。督学は本省の意向を奉じて、地方官と協議し、大学区内の諸学校を監督し、教則の得失、生徒の進否等を検査し、これを論議改正することができるものとした。また各中学区には学区取締を一〇人ないし一二、三人任命し、各取締は小学区二〇ないし三〇を分担し、これらを統轄指導するものとしている。学区取締は担当学区内の就学の督励・学校の設立・保護・経費等学事に関するいっさいの事務を担任すべきものとした。就学者は学区取締に届け出るものとし、また、六歳以上の者で未就学のものがある時は、その理由を学区取締に届けなければならないこととした。なお学区取締にはその土地居住の名望家を選んで地方官がこれを任命することとした。以上は学制に定められた教育行政組織の概要であるが、この規定どおりに実施することは当時の実情として困難であった。実施の状況については後に述べる。
 

学校制度の概要

 学制は学区制に基づく近代学校制度を企画したところに特色があり、全国民を対象とする単一系統の学校体系を基本としている。学制においては学校系統を大学・中学・小学の三段階とした。小学校には該当年齢にあるすべての児童を収容し、この中から中学に進むものとし、さらに大学に進むものを選ぶ組織となっている。この三段階が学制における学校の基本体系である。
 
 小学校は「教育の初級」で、「人民一般必ず学ばずんばあるべからざるものとす」と定め、これを尋常小学・女児小学・村落小学・貧人小学・小学私塾・幼稚小学に区分した。尋常小学は小学校制度の本体をなすものであって、上等・下等にわかれ、男女ともに必ず卒業すべきものとした。下等小学は六歳から九歳までの四年、上等小学は十歳から十三歳までの四年を原則とし、その教科についても定めている。女児小学は尋常小学の教科のほかに女子の手芸を教え、村落小学は僻遠の村落において教則を少し省略して教えるものとし、多くは夜学校を設け年齢の長じたものにも余暇に学習させようとした。貧人小学は貧者の子弟を入学させるもので、富者の寄附金によるため、仁恵学校とも称し、小学私塾は小学の教科の免状を持つものが私宅で教えるものであり、幼稚小学は六歳までの男女に小学入学前の予備教育を施すものとした。尋常小学の教科の順序を踏まずに小学の学科を授けるものを変則小学といい、私宅でこれを授けるものを家塾とした。
 
 中学校については、中学校は小学校を経た生徒に「普通の学科」を教える所とし、これを上等・下等にわけた。そのほかに工業学校・商業学校・通弁学校・農業学校・諸民学校を中学校の種類としてあげている。このように学制では後の中等学校に当たる学校をすべて中学と称している。しかし上等中学・下等中学を基本とし、下等中学は十四歳から十六歳までの三年、上等中学は十七歳から十九歳までの三年を原則とし、その教科についても定めている。このほかに在来の教科書によって教え、あるいは学業の順序をふまないで洋語を教え、または医術を教えるものなどをすべて変則中学と称し、中学教師の免状を持つものが私宅で中学の教科を授けるものを中学私塾、免状を持たないものが私宅で教授をするときは家塾とした。また外国人を教師とする学校は大学教科を授けるのでなければこれをすべて中学と称した。諸民学校は後の実業補習学校に類するもので、職業の余暇に学業を授けるものである。
 
 大学については、大学は「高尚の諸学」を教える「専門科の学校」とし、その学科を理学・化学・法学・医学・数理学と定めた。しかし学制の誤謬訂正により、化学を文学に改め、数理学を削除しているので、大学の学科は理学・文学・法学・医学の四学科とされている。また明治六年四月の条文追加により、大学卒業者には学士の称号を与えることも定めている。
 
 明治五年に公布された学制では、右のように大学・中学・小学を基本とする三段階の単純な学校体系であったが、六年四月の学制二編追加により専門学校および外国語学校の規定が加えられた。これにより学校体系が複雑となるとともに、学制の性格に変化がもたらされているといえる。専門学校の規定によれば、「外国教師にて教授する高尚なる学校」をすべて専門学校と称し、外国語学校の下等教科(二年)を卒業した者を入学させることとしている。専門学校は予科(三年)を経て本科に進むが、本科の修業年限は学校の種別により、四年・三年・二年の三種としている。外国語学校は専門学校に入学する課程であるとともに、特に外国語を専門とする課程として上等二年を設け、下等(二年)と合わせて修業年限を四年としている。
 
 右のほか学制には師範学校について一章を設け、師範学校は小学校の教則および教授の方法について授けるものと定めている。また小学校教育を完備するために師範学校は当今においてきわめて緊要であるとしている。
 
 学制には教員についても規定しており、小学校の教員は男女の区別なく二十歳以上で師範学校卒業免状または中学校卒業免状を得た者、中学校の教員は二十五歳以上で大学卒業免状を得た者、大学の教員は学士の称号を得た者と定めている。当時は大学はもとより中学校も師範学校も不備であり、したがってこの規定をそのまま適用することはできなかった。
 
 学制の「生徒及試業ノ事」では、まず試験について規定している。それによると、生徒は必ず等級をふんで進級することが必要であるとし、一級毎に必ず試験があり、合格証書を渡し、これがなければ進級できないものとしている。特に学校卒業の際には厳格な大試験を行なうものと定めている。次に貸費給費について定めているが、これについては先に延べた。
 
 六年三月に「神官僧侶学校ノ事」が学制の条章を追加して定められた。これによれば神官・僧侶が神社・寺院に開設する学校もすべて学制に準拠すべきものとしているが、この学校における教派・宗派の教育を認めている。ところがこれらの条章は同年九月に全部削除された。
 

制度運営の経費

 学制には学校の設立運営の経費その他教育財政関係の事項についても多くの条章を設けて規定している。学制においては、学校の運営に要する経費は、教育を受ける者がこれを負担すべきことを一応の原則としているが、教育の普及が急務であり重要であることから、また国民の経済的負担力の実情から、国庫負担・補助の制度をも設けている。
 
 学制の規定によれば、学校を設立運営するに要する経費は、中学校は中学区において、小学校は小学区において責任を負うことを原則とした。したがって各学区は租税・寄附金・積立金・授業料等の「民費」をもって、その学校の運営を図り、その不足分を国庫から補助することとした。小学校教育に対する国庫負担・補助の制度は、学制においてすでに見られるのである。教育のための官金すなわち国庫支出金の費途は、右の学区に対する補助金のほか、外国教師の俸給ならびに外国人関係の費用、大学校および中学校の営繕・書籍・器械費、生徒に給貸する費用および留学生公撰生の経費に限定した。なお先に述べたように、公布当初の学制では府県に対する国庫支出金(委托金)は未定であったが、明治五年十一月に人口を基準として一人に付き九厘(一万人に付き九〇円)の割と定め、これによって学制実施の財政的裏づけがふじゅうぶんながらなされている。
 
 右のように学制は学校の民費維持を原則とし、各学校とも授業料を徴収しそれによって経費の多くを支弁させることとした。大学校の授業料は一か月七円五〇銭を相当とし、この授業料を納めることができない者のために六円・四円の二等を設け、中学校の授業料は五円五〇銭、ほかに三円五〇銭、二円の二等を設け、小学校は五〇銭、ほかに二五銭の一等を設けた。一家二人の子弟を学校に入れる場合には下等の授業料を納めるものとし、三人以上の場合には二人のほかは授業料を出すに及ばないと定めている。しかし学区の状況および学校の事情により、規定以下の授業料をも認めることとしている。学校の経費、授業料等の実情については後に述べることとする。
 

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