四 学術の国際交流

 学術研究は本来国際性を有するもので、相交流し、相協力することによって発展するものである。わが国は十余年にわたる戦時下、国際社会から閉ざされ、孤立して、わが学界も世界の進展から取り残されていたが、平和の回復とともに再び国際交流が可能となった。すなわち、昭和二十四年日本学術会議が設立され、かっての学術研究会議にかわって、学術の国際的な中枢機関である国際学術連合会議(ICSU)およびその傘(さん)下の専門分野ごとの各国際学術連合にわが国を代表して加入し、これによりわが学界の国際的な連絡、協力の体制が整えられた。次に、二十七年ユネスコに加盟し、ユネスコを通じても科学に関する国際協力活動に参加する道が開かれた。その後も国際哲学・人文科学協議会、国際学士院連合を始め、各専門の国際組織に関係団体が加入し、わが国は学術の面においても国際社会に復帰するに至った。

 以上のような国際的な機関を通じて、わが国の学術の国際協力は年とともに活発となったが、特に三十二年七月から三十三年十二月の間に実施された国際地球観測年の事業を通じて、その活動は本格化した。これは、国際学術連合会議の樹立した計画のもとに、世界六六か国の学界が相協力して、特定の項目について、地球全域にわたり、二十五年に一回の大規模な共同観測を行なうもので、わが国も日本学術会議の勧告に基づいてこれに参加し、この行事の一環として、後に大きく発展する南極地域観測事業および超高層のロケットによる観測事業が発足した。すなわちわが国は、三十年十一月、世界の一一か国とともに南極地域観測への参加を決定し、文部大臣を長とする南極地域観測統合推進本部を設けて、三十一年十一月、第一次観測隊が出発し、昭和基地の建設に成功した。以来連年観測隊を派遣したが、その後船舶等の問題から第六次隊をもって一時中止し、三十七年昭和基地を閉鎖したが、翌三十八年観測の再開実施を決定、新しく砕氷艦「ふじ」を建造し、四十年以来再び毎年観測隊を派遣し、現在第一三次隊が南極基地において観測を実施中である。その間第九次隊越冬隊は、南極旅行史上最長の五、〇〇〇キロを越える南極点往復の内陸調査を行なうなど、多くの業績をあげた。わが国のこの南極地域の活動により南極条約の原署名国となった。国際地球観測年以後も、わが国は、国際学術連合会議の発意による、国際太陽極小期観測年、国際地球内部開発計画、国際生物学事業計画、国際地球大気開発計画、太陽活動期国際観測年、太陽地球環境国際正常観測、国際地球ダイナミックス計画に、またユネスコの提唱による国際インド洋調査、国際水文学十年計画、黒潮共同調査、人間と生物圏等の諸事業に参加し、国際的な活動はいよいよ盛んとなっている。以上のような多数国間共同研究のほかに、日米両国間に科学協力事業が行なわれている。これは三十六年、池田首相とケネディ大統領との会談に基づいて、「科学協力に関する日米委員会」が設置され、この委員会の勧告に基づいて、日本側では日本学術振興会が、アメリカ合衆国側では米国科学財団が実施機関となって、両国の科学者の協力研究に対する援助、研究集会の開催等を行なっている。また同じ趣旨によって設置された「文化および教育の交流に関する日米合同会議」が活動しているが、その勧告に基づいて、四十二年から人文・社会科学の領域における共同研究については、日本側ではこれまた日本学術振興会が実施機関となって、この事業を推進している。このほか、日本学術振興会ではボリビアやインドにおける宇宙線研究、マレーシアにおける生物学研究等、二か国以上の研究者相互の合意による国際共同研究に研究費を支給し、またナポリの国際的な臨海実験所へ研究者を派遣し、あるいはテヘランおよびナイロビに海外地域研究センターを設置する等の事業を行なっており、同会の外国人研究者招致事業と相まって、わが国の学術の国際交流の上で、重要な機能を果たしている。

 次に、急速な学術の進展と交通手段の発達により、世界各地で開催される国際的な学術会議や研究集会の数は、逐年増大しつつある。わが国でも二十八年、戦後はじめて国際的物理学会議が開催されて以来数多くの国際的な会合が開かれたが、最近は多くの分野にわたり大小さまざまの会議・集会は年間十数件に及んでいる。また、海外で開催される学術の国際的会合も数多く、日本学術会議はその加盟している国際機関の会合に代表者を派遣しているが、同会議の予算では、その他の専門的な研究集会等にわが国の研究者を出席させることはすこぶる制約されていた。文部省では、この隘(あい)路を打開するため、四十一年度から国立学校特別会計に、国立大学における第一線の研究者が権威ある研究集会へ参加するための派遣旅費を計上し、現在年間約一〇〇人の派遣が可能となった。

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