一 文化財保護の法的整備

 戦後の保存行政 戦時中停止されていた重要美術品等の認定および名勝天然記念物の指定に関する事務は、戦後いち早く昭和二十年十月から再開された。このうち、重要美術品については、戦中戦後の混乱状態のために散逸、損壊や海外流失等の事態にかんがみ、特にその調査、認定が急がれたのである。このため、文部省では、重要美術品等調査費補助金を計上し、各都道府県に調査員を設置して基礎的調査を進めた。他方、二十年十一月十二日付けをもって、総司令部最高司令官から日本政府に対して、「美術品、記念物並びに文化的及び宗教的場所と施設の保護に関する政策と処置に関する覚書」が発せられ、保護を要するすべての作品、収集、場所を列記した目録に、軍事行動によってこれらがこうむった損害を詳細に記載して総司令部に提出することが命令された。その調査は困難をきわめたのであるが、二十一年十月に至ってようやく完了した。

 美術工芸品のなかで、戦後の混乱の影響を強く受けたものとして刀剣類がある。二十年九月二日に総司令部最高司令官から「民間武器類の引渡準備命令」が出された後、相次いで民間武器の回収命令が出され、美術刀剣も警察署または連合国軍によって回収された。しかし、関係者の必死の努力が実って、美術刀剣類は審査の上、仮許可証を交付して所持することが認められた。また、二十一年「銃砲等所持禁止令」(勅令第三百号)においても、美術品または骨とう品である銃砲刀剣類に限って、都道府県公安委員会で刀剣審査委員の鑑定を受けて許可を得た場合には所持が認められることとなった。しかしながら、この間に国宝や重要美術品等認定物件のあるものが没収され、海外に流出するという事態もあった。

 国宝建造物については、戦時中じゅうぶんな保護措置が講ぜられなかったことも原因となって、その荒廃ははなはだしいものがあった。文部省では、二十一年度からその対策を検討していたが、総司令部からも早急に応急修理計画を立てるようにとの指示があり、これにこたえて全国的に破損状況の調査を開始し、この結果を基礎として、二十三年度を初年度とする国宝建造物の応急修理五か年計画を樹立した。修理予算は、初年度二、〇〇〇万円、次年度一億円であったが、二十五年度以降は毎年度二億円余の修理費補助金が計上され、その後現在に至るまで文化財保存事業の中核となってきた建造物修理費補助の出発点となったのである。

制度改正の機運

 戦後の混乱と動揺は、明治維新当時の旧物破壊の時期にも比すべき深刻な影響を文化財に及ぼした。経済の混乱や社会制度の改革によって、国宝、重要美術品の所有者である個人や社寺の多くは、経済的安定を失い、自らその保存の措置を講ずることができず、荒廃するままに放置するか、あるいはこれを売却するものまでが続出し、所在不明となったものも少なくなかった。一方、戦後財政の窮迫のため、国宝等の保存、修理に対する国の財政措置もきわめて困難な事情にあった。このような事態をもたらした根底には、戦後の伝統軽視の風潮や、貴重な文化遺産を護(まも)ろうとする国民的自覚の喪失があったことも否定できない。

 このような文化財の危機のさ中に、二十四年一月二十六日早暁、法隆寺金堂の失火により、世界最古の木造建造物の壁面に描かれ、幾多の兵火、天災に堪えて飛鳥芸術の精髄を伝えてきた壁画が一朝にして焼失するという事件が発生した。次いで同年二月には愛媛県の松山城が、六月には北海道の福山城が焼損し、また翌年二月には千葉県の長楽寺本堂が、続いて七月には京都の金閣寺が焼失し、この一年半の間に、国宝建造物が五件も火災をこうむるという事件が相次いで起こったのである。

 法隆寺金堂の炎上という事件は国民に強い衝撃を与え、これを機会に、わが国の伝統的文化財保存のために抜本的施策を講ずるよう世論がにわかに高まった。参議院文教委員会は、こうした事態と世論を背景に対策を検討した結果、超党派で、文化財保護制度のための画期的な立法措置を講ずべきであるとの結論に達し、その準備に着手することとなった。文部省では、これより先、二十一年の六、七月に、古美術保存懇談会を開催し、戦後の諸情勢に対処する国宝、重要美術品に関する法律改正の問題を論議し、また、二十三年一月から四月にかけて、文部省と国立博物館の関係者の間で史跡名勝天然記念物をも含めた法律制度の改正を検討し、一応の成案を得たが、総司令部の賛成が得られないままに実現が見送られたという経緯もあったが、参議院のこのような決意によって懸案の制度改正が実現の端緒をつかむこととなったのである。

文化財保護法の立法

 昭和二十五年五月、文化財保護のための総合立法が実現した。これは、それまでにあった国宝保存法(昭和四年)、史跡名勝天然記念物保存法(大正八年)および「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」(昭和八年)の三法律を一本に集大成した画期的な総合立法である。この法律によって、従来ばらばらに処理されていた建造物や美術工芸品の有形文化財と史跡名勝天然記念物の保護が一体的に処理されることとなったほか、新たに無形文化財や民俗資料・埋蔵文化財も保護対象となり、その範囲が拡大された。

 「文化財保護法」制定の時点において、従前の国宝保存法による国宝は、新法による重要文化財の指定がなされたものとみなされたが、これにより、美術工芸品五、八一三件、建造物一、〇五七件の計約七、〇〇〇件に近いものが新制度に移行することとなった。また、「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」による重要美術品も美術品七、八九八件、建造物三六〇件、計約八、〇〇〇件を越えていたが、これら重要美術品については重要文化財に相当するものを厳選して指定し、他はすべて重要美術品の認定を解除することとしたのである。なお、移行指定となった重要文化財のうち、特にすぐれたものはこれを新しい国宝として指定し、保存に万全を期することとされた。

文化財保護行政組織

 文化財保護法によって、五人の委員をもって構成する行政委員会としての文化財保護委員会が文部省の外局として設置された。それまで文部省社会教育局の文化財保存課で処理されていた事務は、同委員会事務局に移され、保護行政の体制は画期的に強化されたのである。それと同時に、同委員会に文化財専門審議会が設置され、諮問、建議の機関とされた。また、東京上野の国立博物館および文化財研究所も同委員会の附属機関となった。国立博物館は、宮内省所管であった帝室博物館が昭和二十二年五月三日国立博物館と改称、文部大臣の所轄に移ることとなり、文部省で行なっていた国宝、重要美術品等の調査および修理関係の事務をも移管を受けて実施してきたが、文化財保護委員会の発足とともに、これらの事務は再び同委員会事務局の美術工芸課と建造物課とに移された。

 その後、文化財保護法の一部改正により、二十六年十二月、恩賜京都博物館が京都国立博物館となり、これに伴って東京上野の国立博物館は東京国立博物館と改称した。そして奈良に新しく奈良文化財研究所が設置され、また、昭和五年帝国美術院附属美術研究所として設置され、二十二年国立博物館の附属となった美術研究所は東京文化財研究所と改称した。さらに二十七年七月の文化財保護法の一部改正によって、東京国立博物館の奈良分館が独立して奈良国立博物館となった。

 文化財保護委員会は、四十三年六月の文化局とともに、廃止され、両者を合して新たに文部省の外局として文化庁が設置されて、その事務は文化庁の文化財保護部(五課編成)に移され、現代文化の振興を目的とする文化部の仕事と一体的に推進していく体制が誕生したのである。

昭和二十九年の一部改正

 文化財保護法は、その後の運用に照らして、昭和二十九年五月、法の体系全般にも及ぶ改正が行なわれた。その改正のおもな点は、1)史跡名勝天然記念物と同様に重要文化財にも管理団体の制度を作り、2)無形文化財について重要無形文化財指定制度を設け、わざの保持者を認定することとし、3)民俗資料を有形文化財から切り離して別個の種類の文化財とし、有形の民俗資料を重要民俗資料として指定することとし、4)史跡名勝天然記念物の保存に関し罰則を強化し、5)埋蔵文化財の発掘の規制を設ける等であった。

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