二 文化

 芸術文化の振興、文化財の保護、国語の改善、著作権制度の改正など、いわゆる文化に関する諸施策は、戦後それぞれ画期的な動きを見せた。

 芸術文化に関しては、明治以来、美術を除いてほとんど政策としては放任といってよい状態であったのに対し、はじめて積極的な助長政策がとられるに至ったことを特筆すべきであろう。すなわち、戦後間もなく始められた芸術祭の開催をはじめとして、芸術家に対する優遇・顕彰、国民、特に青少年に対する芸術の普及、中央および地方の芸術文化施設の整備、地方芸術文化活動の促進、芸術の国際交流の促進、あるいは創作活動の推進などのために、さまざまな施策が展開されることとなったのである。その内容も逐年充実を示しつつ今日に至っている。

 文化財の保護に関しては、戦後、法隆寺金堂壁画の焼失という不幸な事故を契機として、抜本的施策を講ずることが要望され、昭和二十五年、「文化財保護法」が制定されたが、同法は従前の関係諸法規を集大成し整備したもので、それ以後、有形文化財、無形文化財、民俗資料、記念物および埋蔵文化財を広範に保護の対象とすることとなった。同法は、その後の運用経験にかんがみ、二十九年に改正が行なわれ、さらに周到な保護体制がとられることとなった。三十年代以降、全国的に各種の開発事業が激増し、それら開発との調整を図りつつ史跡・埋蔵文化財等を保護することが大きな課題となっているが、その対策としては、史跡指定地域内の民有地の公有化および環境整備、あるいは埋蔵文化財包蔵地についての関係各省庁・公団等との事前協議制など、各種の措置を講じて、保護に当たっている。

 国語の施策については、戦後いち早く打ち出され、二十一年から三十四年までの間に、当用漢字表、同音訓表、現代かなづかい、送りがなのつけ方など、国語表記の基準が次々に定められた。しかし、これら一連の国語施策は、実施の経験等からも検討を要する問題があると考えられるに至り、四十一年以降、国語審議会において審議を重ね再検討を行なっている。

 著作権については、戦後、著作物の伝達手段が高度に発達して、明治三十二年制定の旧著作権法では著作物利用の実態に対応しがたくなるとともに、一方著作権権利思想の普及や国際著作権制度の進展などもあって、法改正の気運がしだいに高まってきた。そこで政府は、三十七年以来、著作権制度審議会に諮問して検討していたが、四十五年新著作権法が制定されることとなり、著作権法制は七十余年ぶりに全面的に改められた。

 宗教行政も戦後大きく転換した。戦前、神社は行政上宗教として取り扱わず、その他の宗教は法人・非法人を問わず宗教団体法の認可主義の規制を受けていたが、戦後は、信教自由の保障と政教分離の原理から、二十年の宗教法人令、翌二十一年の同令改正および二十六年の宗教法人法によって、すべての宗教を同等に取り扱うとともに、行政的には法人のみを対象とし、しかも所轄庁の裁量権を認めない認証主義に改められた。

 文化についての施策は戦後著しく進展したが、それにつれて、文化行政の機構も漸次整備されることとなった。四十一年、それまで各局に分散配置されていた芸術課、国語課、著作権課、宗務課が集まり、それに国際文化課が加わって、文化局が誕生し、芸術課は文化普及課と芸術課の二課に分かれた。さらに、四十三年には、二十五年以来文化財保護行政を担当していた文化財保護委員会と文化局とが統合されて、文化庁が発足し、ここに文化行政は総合的・一元的に推進されることとなった。

 学術と芸術の分野における最高の栄誉は、「勲績卓絶ナル者」に賜わる文化勲章であるが、文化勲章の制度は戦前の昭和十二年に始められた。二十六年、「文化功労者年金法」が制定され、文化勲章受章者を含み、それよりはやや広い範囲に「特に功績顕著」な文化功労者が毎年選考されて、年金が支給されることとなった。四十六年度までの文化勲章受章者の数は一五九人、文化功労者の数は二三八人である。日本学士院と日本芸術院は、戦前からの帝国学士院、帝国芸術院を二十二年に改称したものであるが、「功績顕著」な科学者および芸術家を優遇するための栄誉機関であり、会員の定員はそれぞれ一五〇人、一二〇人である。なお、褒章条例による紫綬褒章は「学術芸術上ノ発明改良創作ニ関シ事績著明ナル」者に賜わることとなっているが、漸次広範な分野から選考されるようになり、毎年多彩な受章者を見るようになった。

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