一 学術

 昭和二十年八月、わが国に投下された原子爆弾の一閃(せん)は、科学の力が勝敗を決することを示す以上に、人類の運命をも左右する強大なものとなったことを端的に物語るものであった。わが国は科学で敗れたと称され、敗戦後の平和的復興も科学の力にまたなければならないことが痛感された。戦後年を経ずして学術体制刷新の運動が熱心に進められたのも、当時の激しい民主化の時流とともに、科学者のそのような感懐が根底にあったからである。二十四年一月、日本学術会議が成立したが、それはこの運動の結実であり、「日本学術会議法」の前文には、「科学が文化国家の基礎である」とうたわれている。

 しかしながら、実際には、日華事変以来の長期の科学封鎖の状態から抜け出してみると、世界の科学・技術の水準とわが国のそれとの格差はあまりにもはなはだしかった。加うるに、戦後の社会経済の激変と極端な物資の窮乏は、研究の遂行を著しく困難にし、研究機関の維持・存続すら危うくするものもあった。

 このような状況を脱脚して、わが学界が生色を取りもどすのは、二十七年の平和条約締結のころからであるが、特に三十二年に始まる国際地球観測年を契機として、国際交流・国際協力が強い刺激となって、研究活動も急速に拡大進展をみた。

 すなわち、研究用機器の精密化とともに、研究はいよいよ高度化・高速化して、専門分化を著しくする一方、組織化・総合化も行なわれて、原子力・原子核・宇宙科学等の巨大科学が出現した。

 このように複雑多岐に展開する学術研究の動向に対応して、日本学術会議をはじめ研究者の間から、学術上の施策について数多くの要望が次々に提起されるのである。これらを受け止め、調整・実施に移すため、基礎科学の推進の責任官庁である文部省としては、測地学審議会、あるいは学術奨励審議会等を活用し、さらに四十二年学術審議会を設けて、学術振興の基本方策の立案審議の体制を整備し、時代の要請にこたえて、各般の措置を講じた。また、国の施策と密接に関連をもちながら、流動的・弾力的に運営を図る必要のある学術振興事業の実施の主体を確立するため、四十二年、特殊法人「日本学術振興会」を発足させたのである。

 次に戦後の著しい特徴は、交通・通信の瞠(どう)目すべき進歩を背景に、人物交流をはじめ、教育・文化の国際交流が年とともに活発化したことである。占領期においては、日米関係が主軸となったのは当然であるが、わが国の研究者・教員で公式経路で米国に招待された者の数は今日まで実に五、〇〇〇人をこえている。平和条約締結後は、わが国は世界の一三か国と文化協定を結んでいるが、フランス・ドイツ等との間でもわが国は受け身で、人物交流も一方的で、実効はまだふじゅうぶんである。

 そのほか、わが国の国力の伸長に伴い、発展途上国への文化的援助が行なわれるに至った。文部省では、二十九年から国費による外国人留学生招致事業を開始し、東南アジア諸国から多数の留学生を受け入れ、あるいはコロンボ計画に基づいて、それらの国々の教育発展のための研究生の受け入れ、わが国からの専門家の派遣、さらに四十年以降はこれらの諸国の文部省の幹部等教育指導者の招致等の施策を講じているのであるが、わが国の経済的な地位の上昇に比して、国際交流は総じてなお不満足の状況であると指摘されている。

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