七 沖縄の教育

戦後の歩み

 第二次世界大戦後、沖縄の教育は、文字どおり灰燼(じん)の中からの復興であった。

 昭和二十年四月一日、沖縄本島に上陸した米軍は、四月五日に軍政布告第一号(ニミッツ布告)を発して、南西諸島における日本の施政権の停止と当面の占領方針を宣した。そして、このような占領下、いまだ六月二十三日の沖縄戦の終息に至らない時期も通じて、県民の収容所では、半ば自然発生的に学校が開設され、教育を絶やさない努力が行なわれた。

 二十一年一月九日には、連合国軍最高司令官覚書によって、南西諸島を政治上・行政上、日本から分離するいわゆる行政分離が行なわれた。そして学校制度については、この年、幼稚園(一年)、初等学校(八年)、高等学校(四年)の制度とされた。(初等学校のほか、幼稚園も義務制)しかし、翌二十二年における本土の学制改革に対応して、沖縄でも、二十三年四月からは本土と同じ学制に切り替えられた。(八重山群島では翌二十四年四月から切り替えられた。)すなわち、初等学校(六年)、中等学校(三年)、高等学校(三年)の制度とされた。(初等学校および中等学校は、二十七年に小学校および中学校に改称)なお、教員の不足はきわめて深刻であったが、二十一年から具志川市に沖縄文教学校が設立され、短期間講習による教員の速成養成による補充が進められた。(同校は、のちに琉球大学に吸収廃止)

 また、高等教育については、戦前から、沖縄には大学がなかったので、まず本土および米国への留学生派遣が実施された。すなわち、二十三年に民間資金による五人のハワイ留学生派遣の実現をみたが、翌二十四年から、本土および米国の大学へ、毎年、それぞれ相当数の学生を派遣する制度が実施された。このうち、本土への留学制度は、二十八年以降は、文部省の国費沖縄学生招致制度に切りかえられて復帰後も継続し、また、米国留学制度も復帰の直前まで継続された。

 しかし、このような留学制度もさることながら、沖縄にも大学をという県民の願いは強く、関係者の熱心な運動もあって、二十五年に旧首里城跡(那覇市)に琉球大学が創設された。この大学創設によって、沖縄においても、戦後の六・三・三・四制が、最終段階まで完成されたこととなった。なお、三十年代になってからは私立大学の設置もみた。

 次に、二十七年四月二十八日の平和条約の発効により、沖縄の施政権を、条約上、米国にゆだねることとなったが、米国は、この年、それまでの奄見(翌二十八年十二月二十五日本土復帰)、沖縄、宮古、八重山の群島別行政を改め、県民側政府としても、全琉統一の琉球政府を設立(四月一日)する等、施政体制の整備を図ったが、教育についても、同年、全琉統一布令として琉球教育法(米国布令)を制定した。これは、教育基本法、学校教育法、教育委員会法等からなる総合的な教育布令で、かつ、骨子の大半は、本土の法律にならったもので、ふじゅうぶんではあるが、全琉統一的に本土に近い形で教育制度の整備を図ったものであった。なお、米国は、三十二年に、「琉球教育法」を改訂して「教育法」を制定したが、この改訂は、実情に即しないものとして、県民の大きな反発を招いた。しかし、このような米国施政に対し、日本国民たる県民の教育は、県民自体の立法によってこそ行なうベきであるとする教育民立法(琉球政府立法院による立法)制度への県民の願いは、本土復帰への悲願とともに、年を追って高まった。そして三十年代にはいって、教育基本法、学校教育法、教育委員会法および社会教育法の国法が、立法院で二度可決して、米国側が二度否決するという曲折を経た末、三十三年に、立法院の三度目の可決に対し、米国側もようやくこれを承認することとなって、その制定をみた。このときの教育基本法において、その前文に、「日本国民として」の文書が加えられたことは、特に注目を要する点であり、沖縄の教育は、この時をもって、実質上、本土と一体化したものといえよう。(教育委員会法では、当時の事情から、教育委員公選制等の本土と異なる制度がとられたが、他の三法は、ほとんど本土と同じであった。)

 以上のほか、四十年の前後にかけて、二度にわたり教育公務員関係二法(教育公務員特例法と地方教育区公務員法)の制定問題で県民の間に大きな意見対立を生じ、結局、復帰まで、教育公務員に関する法制は整備をみないままとなった。

 なお、四十七年五月十五日の本土復帰に際しては、本土の教育諸制度が「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律等」によって所要の経過措置を講じつつ、全面的に適用することとし、円滑に完全な一体化を実現することとされている。

表87 沖縄の学校統計

表87 沖縄の学校統計

沖縄への教育援助

 沖縄への本土政府援助が始まったのは、平和条約発効の昭和二十七年からであった。すなわち、この年から、他の分野にさきがけて、教育援助として、沖縄教員の本土受け入れ研修を開始し、また翌年からは、前述の国費沖縄学生招致制度と沖縄への現職教員再教育講師団派遣を実施する等、まずは、沖縄の教育の内容面における本土との一体化と水準向上のための援助を行なった。

 次に、琉球政府に対する財政援助金供与の道が開かれた三十年代後半からは、育英奨学事業費援助(三十六年)、義務教育教科書費援助(三十八年)を実施し、以後、逐次教育文化の各面に拡充していった。四十一年からは、義務教育教職員給与費半額国庫負担と義務教育学校の施設費援助を開始し、これによって、教育についての基本的な援助が出そろうこととなった。援助額としては、復帰前の数年間についていえば、年間約六〇億円から約一〇〇億円となり、人口比例では、本土の他の都道府県に対する国庫補助に劣らないものとなった。

 しかし、復帰に際しては、なお、学校施設の整備水準等、本土との開きは大きく、教育格差の解消が復帰施策の大きな課題となった。すなわち、今後、復帰に際して制定をみた沖縄振興開発特別措置法に基づく振興開発計画に学校施設の整備その他の振興施策をじゅうぶんに盛り込み、高率の国庫補助をもって実施するとともに、国費学生招致制度の継続、学校給食物資無償供給等、諸種の特別施策を講じ、すみやかな格差是正といっそうの振興を図ることとしている。

 なお、琉球大学は、復帰に際して、国立大学として整備し、また、特に沖縄に国立青年の家も設置することとしている。

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