六 高等教育の発展と整備

高等教育の拡大

 昭和二十四年に発足した新制大学はいまだ創設の段階でわが国の独立を迎えたので、本格的な整備や発展はすべて独立後の時期のこととなり、特に三十年後半以後に至って急速な成長拡大をとげるとともに実質的な変貌(ぼう)を現わしてきている。この間の量的拡大を数字でみると、二十八年の大学数二二六校、短大数二二八校が四十六年には大学数三八九校、短大数四八六校となり、前者で一・五倍、後者で二・一倍の増加となっている。同年次比較で四十六年には学生数は大学で三・三倍一四三万六、〇〇〇人、短大で四・三倍二七万五、〇〇〇人であり、四十六年度の大学、短大への進学率は同年層の二六・八%に達した。私立大学の学生の占める比率は二十八年で大学五七%、短大八三%が四十六年には前者で七六%、後者で九〇%とその比率を高め、わが国高等教育に占める私学の特殊な地位を示している。このような高等教育の量的拡大の要因としては、1)いわゆる単線型の新学制により大学進学に関する制度上の障壁が撤廃されたこと、2)明治以来学歴尊重の傾向が強いこと、3)三十年代にはいって国民生活も向上し、父兄の学費負担能力が高まってきたこと、4)科学技術の振興および理工系を中心とする科学技術者養成の社会的要請が強まったこと、5)私立大学の中にあった規模拡大によって大学の威信を高め、経営基盤の安定を図ろうとする傾向が進学希望者の増加と呼応したこと、6)私学の自主性尊重の建て前から戦前に比して私立大学の設置および学生増募が容易になったことなどがあげられるが、これらの要因は相互に影響しあい関連しあってこの期間に急速な高等教育の拡大をもたらしたものである。

制度の改善

 独立以後における高等教育の制度に関する整備・発展の事情をみると、第一は、昭和三十一年に「大学設置基準」が文部省令として正式に制定された。新制大学発足以来、大学の設置認可の基準は大学基準協会が定めた「大学基準」を用いてきたが、これは本来性格を異にする上に基準としても具体性を欠く点が多かった。これを改め、教員組織、授業科目、校地、校舎、設備等について、大学設置の必要最低の基準を定めたのである。

 第二は、短期大学制度の確立である。そもそも短期大学は暫定的制度として発足したにもかかわらず、その後十五年の間に著しい発展をとげ、わが国の高等教育機関として独自な地位と役割を占めるに至った。その理由としては、四年制に比し経済的負担が軽く、短期間に実際的な専門職業教育が得られ、特に女子の高等教育の機関として適切であることがあげられる。かくて関係者の強い要請もあり、三十九年に短期大学は恒久的な制度として確立した。実態に即していえば短期大学は、学校規模が小さく、女子学生が八三%を占め、かつ私学が九〇%を越えている点にその特色がある。さらに専攻分野は文学・言語系、家政学系が多いが、近年教育・保育系学科など各種資格取得を目的とする学科の増加が目だっている。

 第三は、高等専門学校の創設である。基礎学力の充実した専門的職業人の養成は産業社会の要請として各方面から要望されていた。独立回復以前にもすでに早く高等学校三年と大学の二年または三年をあわせた専修大学の提案があり、中央教育審議会も短期大学制度の恒久化と関連して新しい制度の学校について四回にわたる答申を行なった。そこで三十三年、専科大学の創設を内容とする学校教育法の改正案が国会に提出されたが、短期大学関係者の反対で審議未了となり、以後再々国会に提案されたが成立するに至らなかった。一方この種の学校への社会的要望はますます強まり、遂に文部省は短期大学恒久化の問題を切り離して工業教育を主体とする高等専門学校の創設に踏み切り、関係法案の成立をみて三十七年度から工業高等専門学校が発足した。

学部・学科の整備

 次に、大学の学部・学科の新増設を通じて、大学の発展をたどることとする。昭和三十二年および三十六年以降の二次にわたって推進された理工系学生の増募は機械、電気、化学、土木、建築等従来からの学科のほかエレクトロニクスや原子力関係等新しい部門を開いた。その後、都市工学、環境工学など都市問題あるいは公害問題を対象とする新しい学科も新設され、近年は情報化時代の到来に対応して情報処理教育、技術者の養成が急務となり関連の学科の新設をみている。文科系においても人間科学、人間関係学を始め国際関係学、図書館学、情報科学等時代の要請に応ずる新分野の学科が生まれている。二十八、九年に一二の国立大学農学部に設置された総合農学科は、農業基本法の制定等による農業の体質改善化の時期に当たる三十八年以後すべて農業工学系、農業経済系その他の学科に改組された。なお、公・私立大学の学科増設、学生定員の増加は、理工系学生増募を推進中の三十七年度から医学、歯学その他特定の場合を除き、それまで文部大臣とあらかじめ協議する取り扱いが届け出制に改められた。

 医学および歯学教育に関しては三つの特記すべき措置がとられた。第一は進学課程の設置である。新制大学発足当初から医学・歯学教育の修業年限は実際は六年であったが、学部は四年の専門課程だけでその入学資格に二年以上の一般教育の履修が要求されていた。この制度は実際運営上困難な事態を生じていたので二十九年に、二年の進学課程と四年の専門課程による六年の一貫教育が行なえるように改められた。

 第二は、実地修練制度の改善である。二十一年に定められた実地修練制度は、修練生の身分、処遇、指導体制等に問題があり、その改善が強く要望されていた。そこで四十三年医師法が改正され、医学部卒業と同時に国家試験の受験資格を認め、従来の義務的な実地修練制度を廃止して、これに代え任意の臨床研修制度が創設された。第三は、医歯系大学・学部の新設である。独立以後医歯系の大学・学部の新設はしばらくなかったが、医療需要の増大、医師の地域的偏在などにより医師養成数の増大を望む声が近年特に高まり、四十五年から四十七年までに、医科大学七(私立)、医学部五(国立一、私立四)が新設され、学生定員増を行なった大学・学部は二〇に及び、医科大学・学部の入学定員は一、五〇〇人増加され、計五、六〇〇人に拡大された。歯学についても三十六年以来歯科大学六(私立)、歯学部九(国立五、私立四)が新設され、学生定員は一、四一〇人増加されて二、〇六〇人となった。医・歯学教育に関しては近年このように制度の改善や量的拡大は図られてきたが、わが国の医療制度との関係もあって、基本的な改善はなお今後の課題とされている。

国立大学の整備

 国立大学について組織、制度上の整備をみると、分校の廃止・統合、教養部の設置、文理学部の改組、公立大学の移管、特別会計制度の設置などがあげられる。各府県に必置とされた国立の教員養成大学・学部のうちには、いくつかの旧師範学校等を含めて発足した経緯や主として二年課程を担当する分校をもつものが多かったが、昭和二十八年度以降教員需給の事情を考慮しながら逐次分校の統合が進められたが、特に三十四年以降はこの統合による整備充実が軌道に乗ってきている。

 次に、新制の国立大学のうち一四大学に設置された文理学部は、文理学部としての専門教育のほか当該大学の一般教育および教員養成のための教科に関する専門教育を担当することとされた。しかし、文理学部は、そのほとんどが旧制高等学校を母体としたため教員組織、施設・設備がふじゅうぶんであり、かつ学部本来の目的が的確につかまえられず、所期の目的を果たすのに困難が感じられていた。そこで四十年以降、各大学の実情に応じてこれを分離・改組し、あるいはその他の方法によって体質改善と充実を図り、あわせて当時の進学者の急増対策に役だてられた。

 さらに、新制大学の理念の一つである一般教育は、大部分の大学において文理学部または学芸学部の教養課程において実施されたが、学生の教育・指導上の責任所在、専門課程との連絡等問題が多かった。そこで数個の学部を置く大学に一般教育を一括して行なう教養部を置くこととし、三十八年以降六年間にわたり逐次必要な大学にこれを設けてきた。このように、主として新制国立大学の成立の経緯にもからむ組織上の問題が逐次整備されてきた。なお、公立大学の中から主として設置者の財政負担の事情から国立移管を希望するものが現われ、所在の国立大学の学部として吸収移管されたものが四十一年までに一三に及んだ。農学部が六、医学部が五、工学部が二である。

 三十八年中央教育審議会の「大学教育の改善について」の答申中、国立大学の予算についての改善方策に基づき三十九年度から「国立学校特別会計法」が制定施行された。その内容は、附属病院収入について弾力条項の適用、決算剰余金の積み立てを施設整備に充当、不用財産処分代金の繰り入れ、用地取得費についての長期借入金、奨学寄付金の委任経理制度などであるが、おりから膨張し出した国立大学の規模に対応し特に施設の統合整備にこの制度はよく適合した。

大学院

 新学制においては大学院は旧制のように単なる学部の延長ではなく、独自の目的と地位が制度的に認められた。大学院に関連して学位規則も昭和二十四年制定され、新制大学院は二十五年に私立四大学の設置を皮切りに二十八年には国立・公立大学にも設けられるに至った。大学院は修士課程と博士課程から成り立っているが、当初はともに研究者、大学教員の養成が目的と考えられたが、その後、修士課程に高度の研究能力をもつ専門職業人の養成という役割が加わり三十年に修士課程の目的がそのように改められ、また修業年限も修士課程二年、博士課程三年、計五年の積み上げ方式も認められるようになった。その後の実態はほとんどこの積み上げ方式となっている。医学、歯学に関する大学院は遅れて三十四年に基準が定められたが四年の博士課程のみとされている。国立大学の大学院については、研究水準維持のためかなり制限的な方針がとられたが、修士課程については目的に幅が広げられ、かつ社会的要請も強いので、しだいに多くの大学に設置されるに至った。大学、短大については私学の占める率が圧倒的に高いが、大学院の学生に関しては私学は三八%の比率であって、大学院については国立大学を中心に発展していることがわかる。なお、四十六年現在で大学院を置く大学は三八九大学中一八八校であり、学生数は四万二、〇〇〇人で、二十八年に比べて七・二倍という学部学生を上回る急速な拡大がみられる。

奨学と厚生

 ここで目を転じて学生生活に対する施策を、主として奨学事業と学生厚生施設の二点についてながめてみたい。まず育英奨学については日本育英会は、昭和二十八年に学術研究者および教員の確保のために奨学金の返還免除の制度を起こして一転期を画した。その後三十三年には、特別貸与奨学生制度を設けて一段の充実を加えるとともに、三十九年には義務教育の教員養成課程の学生についてこの制度による人数に特別わくを設けて教員の人材確保に資することとなった。さらに、四十二年から私立大学の学生には学校納付金の金額を考慮して高額の貸与月額が定められるなどきめ細かい配慮が加えられるに至った。しかし、三十年代後半から始まった学生の増加と学生生活費の上昇という事態にはじゅうぶんには対応しきれず、新しい事態に即応する国家的な奨学制度のあり方について根本的な検討が目下進められている。なお、わが国の育英奨学事業は日本育英会のほか、地方公共団体、公益法人、学校、企業等多様な団体によって伝統的に行なわれてきている。その奨学費総額は四十五年度で約六六億円であって日本育英会の同年度の一八八億円の約三分の一に当たっている。国としては、この面の奨学事業についても税法上の優遇措置を講ずるなどその育成に努めている。

 次に学生の厚生施設については、宿舎、学生会館、保健管理センターの設置・整備が注目される。国立大学についてこれをみると、学寮の新・改築されたものが最近約十年間に一三四棟、学生会館の設置されたもの三五大学、保健管理センターは四十一年以来で三八大学となっている。特に学寮については新・改築を機に経費負担の区分を含めて学寮の管理・運営の改善を図ったが、学生側は学寮の自主管理と学寮経費の全額国庫負担を要求してしばしば大学の管理・運営上困難な問題を生じた。学生会館についても学寮同様にその管理をめぐって学園紛争の一因となることも少なくなかった。

学生運動

 大学と学生について何事かを語る時に、ここ二十年間の学生運動に触れないわけにはいかない。独立回復後全学連が活発な動きを始めたのは三十年末の国立大学授業料の値上げ反対運動からである。この反対に対する取り組みを通じて組織、理論両面において再建に乗り出し、その後行動面でも活発化した。日米安保条約改訂が政局の焦点となるころ、左翼諸団体の共闘体制を逸脱して街頭過激行動の傾向を強め、昭和三十五年五月には遂に国会周辺で過激な行動を展開した。この安保闘争に組織をあげて取り組んだ全学連はその後指導理論をめぐって分派抗争を起こし、かつ闘争の挫(ざ)折感もあって壊滅状態に陥った。この間民青系集団はいわゆる日常闘争路線により勢力拡大を図り、三十九年末いわゆる民青系全学連を再建した。これに対抗する過激派の三派が四十一年末いわゆる三派系全学連を発足させたので、これにより従来の全学連の執行部を掌握していた革マル系とあわせて大きく三つの全学連に分裂した。三派系は政治闘争について過激な方針に出て、特に四十二年の第一次羽田事件以来四十四年の総理訪米阻止闘争にかけて街頭で激しい武装闘争をくりひろげ、交通機関や一般市民にも大きな危害を加えた。四十五年にはこの流れから出た赤軍派の日航機乗っ取りの暴挙にまで発展した。一方、民青系は学内問題に取り組んで勢力を拡大し、反民青系の諸集団もこれに対抗し、学生運動は安保以後再び学内に集中し、四十一年早稲田大学の学費値上げ、学生会館管理をめぐる紛争に始まり、明治大学、中央大学の学費値上げ紛争においてバリケード封鎖、占拠等全学生をまき込んでの紛争を起こすに至った。四十三年にはいり、東京大学の医学部の研修医問題に端を発した紛争がやがて全学的に拡大し、遂に四十四年一月安田講堂を占拠封鎖する学生が機動隊の出動によって排除されたが、大学の秩序は回復せず、遂に四十四年度の入試中止の事態にたち至った。日本大学においても学園民主化問題で封鎖、占拠が続き、大学の秩序が回復するのにほぼ一年を要した。四十三年から四十四年にかけて、東京大学、日本大学事件に象徴される学園紛争は、学生参加、学寮・学生会館の管理、医局改組、学園民主化、大学改革など多角的な大学問題、さらに政治問題をもまき込んで全国的に波及し、四十三年度は六七大学、四十四年度は一二七大学で学園紛争が発生した。四十四年八月「大学の運営に関する臨時措置法」の施行を契機に学内外の努カによって紛争はようやく鎮静化に向かった。一方、学外の政治闘争においては過激派の行動はしだいに単なる体制否定と無拘束を行動原理とする過激派小集団に分裂し、既成派閥間においても学生運動の主導権争いによる抗争が激化していわゆる内ゲバの暴カ事件を続発するに至った。

 本来、学生自治活動は大学教育上有用なものとして承認されてきたものであるが、しだいに政治上の課題をまき込んだ学生運動として発展し、遂に学内外にわたる過激な破壊的行動に至るに及んでは本来の目的からみて逸脱もはなはだしい。未曽有(みぞう)の大学紛争を引き起こした学生運動の要因はきわめて複雑であり、したがって簡単な解決策は見いだしがたいが、少なくとも単に学生問題としてこれをとらえるのではなく、転換、脱皮を迫られている大学のあり方自体の中でこの問題を解決していかなければならない。

大学紛争と大学改革

 昭和四十三年から四十四年にかけて全国的に拡大し、かつ過激化・長期化した大学紛争も四十四年八月「大学の運営に関する臨時措置法」の成立を契機に同年末までには鎮静化していった。この紛争を通じて学内外にわたる大学問題が一挙に顕在化し、学内、学外を通じて大学改革の論議がわき起こった。新学制自体が大学拡大の措置であったが、特に四十一年からの入学志願者の急増期以後における大学の急激な膨張は、個々の大学の巨大化を内包しつつ全体として大学教育の大衆化をもたらし、伝統的な大学の理念と実態とはその様相を全く異にするに至り、他方、科学技術の革新と経済の高度成長に伴い大きく変貌した社会は大学の新しい脱皮を強く求めるようになった。大学は、この膨張と社会変化の過程においてまさに高等教育機関と呼称されるべき実質的な変貌をとげてきたのである。しかるに大学の教育・研究や管理・運営のあり方はほとんど旧態のままでこのような大学の変貌(ぼう)に即応できなくなっていることについては学内外の有識者の間ではつとに意識され、大学のあり方について適切な警告や有益な改革意見も発表されていた。ひるがえって大学紛争の要因は複雑で安直な判定をくだすべきものではないが、紛争の拡大、長期化の過程で大学のあり方自体に大きな問題が内在していたことが明らかにされたことだけは否めない。一方、大学改革の動きとしては、中央教育審議会が四十二年七月以降文部大臣の諮問をうけて今後の学校教育の基本的施策について検討していたが、大学紛争の続発にかんがみ、高等教育改革の緊急性がいっそう強く認識され、また各大学においても、国立大学協会、私大関係諸団体、日本学術会議等の関係団体においても真剣に大学改革に取り組むようになった。中央教育審議会はこのような情勢を考慮に入れ鋭意審議を続け、四十六年六月にその結果をまとめて文部大臣に答申した。答申は、これまでの高等教育に対する考え方やその制度が、高等教育の大衆化と学術研究の高度化、高等教育の内容に関する専門化と総合化等の新しい要請に対応できなくなったことを指摘し、新しい方策として、高等教育の多様化、高等教育の開放、教育・研究組織の機能的な分離、管理・運営体制の合理化、教員の人事・処遇の改善、国・公立大学の設置形態、私学に対する国の財政援助方式、入試制度の改善および高等教育計画の樹立等広範にわたる改革案を示している。本節のはじめに述べた独立後の第三期とはまさに大学紛争を通じて大学改革への胎動の始まっているここ三・四年の実態を指すものである。

入学者選抜の問題

 最後に、わが国学校教育においてきわめて特異な、しかも重大なことがらである入学者選抜問題を、大学入試選抜方法を中心に、その変遷と努力の跡をたどってみたい。新制大学発足以来文部省は、学力検査、身体検査、高校の調査書による総合判定方式を提唱し、特に毎年各大学の入学試験問題を評価して妥当な出題への改善に役だててきている。しかるに、大学入試の実態はいぜんとして個々の大学が行なう学力検査偏重で、その結果は高校以前の学校教育全般にさまざまの弊害を及ぼしている。昭和三十八年、中央教育審議会は「大学教育の改善について」の答申の中で入試改善の具体的方策として、信頼度の高い結果をうる共通的・客観的テストの研究、作成および実施とその主体となる専門機関の設置を提案した。この答申に基づき三十八年に財団法人「能力開発研究所」が設立され三十八年度から共通テストの開発研究が行なわれた。文部省は同研究所の事業を重視し、その開発研究を専門技術的・財政的に援助するとともに、四十二年度の選抜にはいわゆる能研テストの結果を合否判定に利用するよう大学側にその実験的試用をすすめた。しかるに大学側の態度はきわめて消極的であったこと、また同研究所の事業目的に対して当初から誤解と偏見があったことなどが重なり、教育委員会や高等学校長協会などの熱心な協力、支援、要望にもかかわらずこの事業は実行困難となり、四十三年度をもって同研究所のテスト開発研究は休止された。この間、文部省の入試改善会議においては、いわゆる高校内申書の改善とその活用促進について多くの提案がなされ、文部省はその成果を大学にすすめて入学者選抜方法の改善に努力してきた。しかし、事態ははかばかしくは改善されず、いぜんとして教育界の難患として関係者の心を痛めている。さらに文部省は入試改善会議に、長期的展望に立った改善方策について諮り、四十六年末その報告を得た。報告書は、各種の資料の多角的活用による総合判定方式の実現をいっそう強く提唱するとともに共通学力検査の実施を提案している。特に共通学力検査については、過去の進学適性検査、能研テストの例もあり、その具体的実施方策は今後慎重に検討すべき課題となっている。

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