一 文部省機関の再編成と中央教育行財政

新しい文部省の組織と性格

 終戦直後教育の戦時体制が解除され平常に復帰したので、文部省の機構もこれに即応して、昭和二十年九月学徒動員局を廃止して専門・国民・教学・科学・体育の五局に編成された。同年十月に学校教育行政の一元化を図る趣旨から学校教育局を新設し、社会教育局、教科書局が復活し、教学局が廃止された。その後米国教育使節団報告書に基づき、日本の教育改革の方向を審議するため二十一年八月教育刷新委員会が内閣に置かれた。文部省でも教育改革の基礎作業と行政資料の調査、整理のため、同年十二月に調査局を設置した。その後、教育施設の復旧および統制物資の確保配給等の事務を処理するため、新たに教育施設局が設置された。

 二十四年四月には新学制の頂点に立つ新制大学が発足し、新学制も一応制度的には完成することとなったので、同年五月新たに制定された文部省設置法によって新しい文部省の組織と任務が明確にされた。この改革により、高等学校以下の行政と大学の行政が質的に異なるので、学校教育局が二分して初等中等教育局と大学学術局となった。教科書の検定移行とともに教科書局は廃止されて、編集指導の面が初等中等教育局に、発行関係は調査普及局に、検定事務は新設の管理局に配分された。調査局は、地方行政との連絡、文部省著作物の刊行の仕事を含めて調査普及局に改められた。科学教育局は廃止され、一部が初等中等教育局に移ったほかは、大部分は大学学術局に吸収・合併された。体育局も廃止されたが、学校の保健衛生に関する事務および学校体育に関する事務は初等中等教育局に、社会体育に関する事務は社会教育局に移された。管理局が新設され、従来各局の権限に属していた許可認可事項等は全部この局に統合され、また、この局に教育施設部が設置された。この機構改革により文部省の性格は変わり、二十三年に創設された地方の教育委員会の権限に即応して、許可認可を要する事項を整理してできるだけ権限を地方に委譲し、専門的・技術的な指導、助言および援助がおもな機能となった。しかし全国的な教育水準を保つ必要から、教育の基準設定や、基準維持のための財政援助を行なうことも新しい文部省の任務となった。また、二十五年文化財保護法の制定に伴い文部省の外局として、文化財保護委員会が設けられた。

 その後、二十七年八月に、管理局の所掌事項が事務の性質を中心とした組織のため行政上不便が多かったので、許可認可事項はそれぞれ各局に分属され、教科書の検定も発行に関する事務とともに初等中等教育局に一元化された。また、地方教育行政の制度および組織に関する事務は初等中等教育行政に関連が深いので、調査普及局から初等中等教育局の所管に移り、調査普及局は再び調査局となった。

中央における教育財政

 昭和二十二年四月から新学制が発足したが、その実施に伴う最大の問題は校舎建築にかかる財政問題であった。国庫は校舎建築費の二分の一と設備費の三分の一を補助することとなり、また教員給与費については昭和十五年に制定された「義務教育費国庫負担法」により実績の二分の一を国庫が負担した。

 翌二十三年には新制高等学校が、中央および地方の財政負担を増加しないという原則の下に発足したが、勤労青少年教育振興の見地から、定時制課程の教員給与費については市町村立のものも都道府県負担とし、国庫はその十分の四を補助することとなった。

 同年七月には義務教育費国庫負担法が改正され、盲学校、聾(ろう)学校の義務制が実施されることになり、また国庫負担対象経費に扶養手当等が加えられ、ここに義務教育関係学校の教員の人件費のいっさいが二分の一国庫負担となったが、同時に、これまでの実績の二分の一負担を、国庫が負担すべき教職員の範囲、定員、給与の額は政令で定めるという国庫負担の定員定額制に改められた。これは都道府県における給与改善の増加に対して、実績の二分の一負担の原則を維持することが、国家財政の計画性を阻害するという、財政当局からの要望によったものである。この定員定額制は二十四年四月一日から実施されたが、同年三月末来日したドッジ使節団のインフレ抑制のための超均衡予算の編成により、二十四年度予算は教育費一割削減が行なわれ、さらに、いわゆる六・三制建築費補助金が全額削減されるという悲運に見舞われた。その後文部省はじめ関係者の懸命の努力により、ようやく同年度の補正予算において建築費補助金十五億円の予算が計上された。

 二十四年には新制大学が発足したが、予算的には、設備充実費として九億円程度の予算が認められたにすぎず、新制大学が旧制の大学、高等専門学校、師範学校を統合して発足したので、校舎の整備が急務となった。

 二十五年度から、シャープ税制使節団の勧告により、義務教育費国庫負担制度が廃止され、定時制課程教員給与費の国庫補助金とともに、新たに創設された地方財政平衡交付金制度に吸収された。そこで教育費確保の方策として、二十五年二月に、地方財政平衡交付金制度の中で、教育費として算定したものは、少なくとも教育費として使用しなければならないという「標準義務教育費の確保に関する法律案」が閣議決定されたが、地方公共団体の自主的な財政運営を前提に創設された地方財政平衡交付金制度の根本をゆさぶることになる等の理由で、最終的には総司令部の承認が得られず流産した

 その後教員給与費は相次いで行なわれる給与ベースの改訂等により逐年増大する一方、地方財政平衡交付金の額が、その時々の国の財政状況に大きく左右され、毎年度わずかに増加したに過ぎなかったため、教員給与費が地方財政に大きな圧迫を与えることとなり、また各都道府県間の教員給与の不均衡も著しくなった。

 二十六年六月には全国知事会議において義務教育費国庫負担法復活の決議が行なわれる等、国庫負担制の確立を図る運動が続けられ、遂に二十七年八月新たに教材費の一部負担も加えた「義務教育費国庫負担法」が復活制定され、二十八年四月一日から施行されることとなった。

 しかし、この国庫負担法が実施されると、従来平衡交付金を受けなかった、いわゆる富裕団体にも多額の負担金が交付されるため、地方団体間の財源の不均衡が激化するので、財源調整のための税制改正を前提とする等の理由で、この負担法実施のたな上げの意見が出てきた。この問題をめぐる政府内外の激しい議論のなかで、新たに義務教育費の全額国庫負担を内容とする「義務教育学校職員法案」が二十八年の第十五回国会に提出された。その内容は、義務教育教職員の給与費は全額国庫負担とするばかりではなく、その教職員の身分を国家公務員とするものであり、政治的にも国会内外に大きな波紋を投げたが、同年三月急な国会解散によって、この法案は不成立に終わった。この結果、先に公布された「義務教育費国庫負担法」が施行期日どおり二十八年四月一日から施行され、所要の予算措置もなされた。このように戦後の教育財政は教員給与費の確保をめぐる制度の変遷が激しくようやく二十八年度に至って安定した制度にはいることができた。次に、明治以降昭和二十七年度までの中央における教育財政の推移をみると、国の教育費の国の財政に占める比率では、明治初年の二%台から始まり、明治年間はだいたいにおいて二%弱であったが、大正にはいって二%台に復活し、同十年に至り三%をこえ、同十五年には、「義務教育費国庫負担法」の制定により、一躍八%台に上昇した。昭和十一年ごろまでは、おおむねこの率できたが、同十二年の戦争を契機として、この率が三%、さらには一%台に下がった。これはいうまでもなく軍事費の占める比率が増大したことによる相対的な減少である。終戦後においては、急激なインフレに対応する公債発行等の借入金を大幅な財源としたいわゆる赤字予算の編成により、終戦当時の予算に比べて教育予算も大幅に増大し、その占める比率は五~六%まで上がってきたが、二十五年度からは、義務教育費国庫負担金が地方財政平衡交付金に吸収されたことにより、四~五%に下がった。(表41参照)この流れを一見しても明らかなように教員給与費が教育費に占める比重はきわめて大きい。

表41 国の財政における教育費

表41 国の財政における教育費

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